12月3日、火曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。とにかく音のよいところで見るのがおすすめ。
原作はRobert Harrisの2016年の同名ベストセラー小説。 監督は(共同脚本も)Edward Berger。ヴァチカンでのConclave - 世界中から枢機卿が集まり、次の教皇を決める儀式 = 選挙の内部の模様を描いていく - サスペンス x コメディ? .. いろいろ。
それまでの教皇が心臓発作で突然亡くなって、涙をふく余裕もなく枢機卿を束ねるThomas Lawrence (Ralph Fiennes)が教皇選挙の準備をはじめて、世界中から自薦他薦のいろんなの – というか、各教区ではちゃんと修行して徳や実績が認められているそれなりの宗教者たち - がやってきて、最初の方は彼らの紹介も兼ねて厳かに物々しくじりじりと進んでいって、外界との蓋が閉ざされて、投票が始まると、規定数に達する候補者がいなくて – 数が達するまで=教皇が決まるまではずっと閉じこめられたまま - その状態のなか、候補者たちの表の顔、裏の顔いろいろが露わになっていく。 選挙というよりは生々しい捨て身の権力抗争の場に変貌していくのがおもしろい。世界を救うミッションを担う宗教の中枢にある人達がそこまで自己の保身や昇進に執着してしまう理由って… 候補者の枢機卿たちにはStanley TucciとかJohn LithgowとかSergio Castellittoとか、演技に関してはものすごく安定している。 演劇でやってもスリリングになったかも。
実際に集まって顔をあわせてみると、Thomasのところにはふさわしいのは自分だ、とか、自分がなりたい、ってはっきりと言いにくる人とか、昔女性に手をだして子供を作っていたのが判明する人とか、お金の出入りに不審なところがある人とか、そして亡くなった教皇そのひともまた… Thomasからすれば、どいつもこいつも状態がざぶざぶ押し寄せてくるのだが、ブチ切れたり投げ出したりすることはできないししないし。神に一番近いところにいた教皇が亡くなって、すべての統制が効かなくなって地獄の淵が見えてきたのかなんなのか。
これを一身に引き受けるRalph Fiennesのものすごく抑制され統御された演技が、最初の教皇への別れの涙一筋の後は、どこまでも無表情 – というか眉や口元の数ミリの歪みだけですべてを表現してしまう、その凄まじさ。同じくあまり喋らない -でも邪悪な権力者を演じた”The Menu” (2022)のシェフの演技とは180度方向の違う透明さのなかにあって、でも彼の頭のなかにある悲しみ、怒り、慈しみ、焦り、絶望、などは正確に伝わってくる。
そしてThomasと並んでもうひとり、同様の研ぎ澄まされた目でこの儀式を見つめているのがSister Agnes (Isabella Rossellini)で、彼女の揺るがない姿と表情も見事だと思った。思いだしたのは – これとは真逆方向の凝り固まった不気味さを全身で表していた”Small Things Like These” (2024)のEmily Watsonであった。
そういうようなこと(頭のなか)が把握できる位置で聖職者をとらえている(少しだけ頭上に置かれた)カメラ、その神経のひだひだを撫でたり潰したり弦で引っかいたりするようなVolker Bertelmannの音楽もまた精緻にデザインされていて、屋外のテロで天井からガラスが割れて落ちてくるシーンの宗教画みたいな描写はやりすぎな気もしたけど。
最後に誰が選ばれたのか、については賛否あるのかもしれないが、最後は徳が勝つ、ということでよいのかしら?
あと、あの亀は…
12.10.2024
[film] Conclave (2024)
[film] Wicked: Part I (2024)
12月1日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
上映時間を見たら2時間40分とあったのでびっくりして、さらにこれが”Part I”である、というので、更にびっくりした。 元となったミュージカルには忠実らしいが、そちらは見ていない。Gregory Maguireによる小説 - “Wicked: The Life and Times of the Wicked Witch of the West” (1995)と”The Wonderful the Wizard of Oz”のWicked Witch of the Westのお話しを緩くベースにしている、と。
監督は”Crazy Rich Asians” (2018)のJon M. Chu、楽曲はStephen Schwartz。
導入は悪い魔女が退治されて - あの帽子が捨てられている - すべてがきらきらの平和が訪れているらしい現在で、そこからやはりきらきらのGalinda (Ariana Grande)がここにくるまでにあったことを語り始める、というものでちょっと混乱する。これまで散々予告で見せられてきたElphaba (Cynthia Erivo)とGalindaの仲のよさそうだったあれらは… ?
ごく普通の夫婦にみえた知事のところに突然緑色の肌の女の子が生まれてきてみんなざわざわ困惑して、成長したその娘は車椅子で大事にされている妹と一緒にHogwartsみたいなShiz Universityに入学するのだが、彼女Elphabaは初日から肌の色ゆえにくすくす後ろ指さされて、でも校長のMadame Morrible (Michelle Yeoh)はElphabaになにかを認めて、ひとり鼻高でなんか得意気なGalindaとの相部屋を命じる。
最初の方は学園もの定番の見た目重視によるElphabaへの差別〜虐めと、そういうのに負けずに何かを持っていそうな彼女がほぼひとりで反撃したり静かに周囲から認められていってGalindaとも友達になり、やがてエメラルド・シティからの招待を受け取るまで、なのだが、Elphabaへの虐めとかヤギ先生の拘束とか、前世紀からあるあれらって、まだ(Universityだというのに)ふつうにあるの? という困惑に近い違和感が。進歩してなさすぎでは。
という流れと、昔は沢山いた動物の先生たちが排除されている、という理由がよくわからないヤギ先生の件とか子ライオンの虐めとか、遠いのか近いのかの世界で何かが起こっていることが示唆されるのだが、Elphabaにとっては精進あるのみ、の強さ頼もしさが力強い楽曲に乗って歌われる。 でもあまり響いてこないのは彼女があまりに堂々としてて揺るがないから? かしら。
ElphabaとGalindaがエメラルド・シティに行って、大親分ぽいWizard of Oz (Jeff Goldblum)と会ってからは、ここまで見てきたカラクリが - Elphabaがそこに呼ばれたワケも含めて明らかになるのだが、たぶんそんな単純なわけないよね、とか思って、でもとにかく、彼女がホウキで空を飛ぶ(飛べるようになる)シーンはばさばさいう風と衣の音とかすばらしくかっこよくてしびれるので、そこだけでも。
Part2はどんなんなるか見当もつかないが:
① 見るからにぼんくらで存在感のなさそうなあの王子とElphabaが恋におちて、でも王子の母親が実はMadame Morribleで、結婚なんて許しません、て立ちはだかってきて最後は麻雀で決着をつけるの。
② 最後に羽がはえて飛んでいった猿たち(豚さんにすればよかったのに…)が一大勢力になって、そのリーダーはシーザーっていって帝国を築こうとするの。
③ Wizard of Ozが闘技場を開いて、そこにはやはり緑色のあいつが…
長かったけどだれることはなくて、歌のシーンも大人数で重ねまくってよい曲なのか噛みしめる余裕も与えてくれないけど最近のミュージカルってみんなそうだしたぶんきっとドラマチックで素敵な曲たちで、公開1週間過ぎていても拍手が起こったりしていたので、子どもも楽しめるやつなのではないか。
12.05.2024
[film] All We Imagine as Light (2024)
11月30日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
作・監督はPayal Kapadia、最初の長編映画(フィクション)が今年のカンヌでグランプリを受賞して、今出ているSight and Sound誌の表紙にもなっている。とにかくすばらしくて、終わってからしばらく立たずにじーんとしていた。
舞台は人と光と音がごちゃごちゃ溢れているムンバイで、病院の看護婦として働くベテランのPrabha (Kani Kusruti)がいて、まだ若い同僚のAnu (Divya Prabha)がいて、ふたりは一緒に暮らしているのだが、Anuは金使いがルーズなようで今月の家賃払っておいてくれない? って頼んだりしている。Anuにはムスリムの恋人Shiaz (Hridu Haroon)がいてふたりだけで会える場所と時間を探しているのだがなかなかうまくいかない。もうひとり、彼女たちのいる病院の食堂で給仕をしている少し年長のParvaty (Chhaya Kadam)がいて、彼女は夫を亡くしている。
ある日、Prabha宛に小包が送られてきて、送付元はドイツで、中味を開けると炊飯器が入っている。結婚して間もなく出稼ぎでドイツに行ってしまった夫からのものだと思われるがメッセージがないので確証はなくて、これが彼の変わらぬ愛を示すものなのか、さよならに近いなにかなのかはわからない。Anuからは互いのことを十分に知らない状態で結婚するなんてありえない、と言われるのだが、Prabhaの結婚は親が決めたそういうもので、それがもたらしたのが炊飯器ともはやはっきりと思いだせなくなるくらい離れてしまった夫の顔で、これからどうなるんだろう? になっている彼女のところに、真面目で誠実そうな医師がおどおど言い寄ってきたりする。
Parvatyは夫の死後、彼が居住証明を遺していなかったので住んでいる処から立ち退きを強いられ、病院をやめて田舎に帰ることになって、彼女へのお別れもあるのでそこへの向かう途中、海辺の小さな町までPrabhaとAnuもついていくことにする。Anuはこの機会に、とShiazを呼んで森の隅でこっそり会ったり、Prabhaは突然浜辺で出くわした水難事故にあった人の救助をして感謝されて、自分の仕事も少しは役に立ったりするのか、になったり。
人が溢れるムンバイの雑踏、いろんな光がこぼれては消える夜の景色、毎日の通勤電車、突然の土砂降り、それらを背景にいつも無表情でちょっと恐くみえるPrabha、柔らかく温かい印象のAnu、ちょっと疲れてみえるParvaty、三様の彼女たちの日々の不安やうんざり、少しの、少しづつの安堵や段差超えが小さなエピソードとして重ねられていって、それを街の光、雨の湿気、最後は浜辺の潮風が包んでいく。これから自分は、近しい人たちはどうなっていくのか、どこにいくのか? という止まらない思いと感情が渦を巻いてゆっくりと溶けだしていく – 朝になっても消えることはないのだが – そんな夜、とその持続と。
海のほうから浜辺のビーチハウスをとらえたラストシーンが泣きたくなるくらいよいの。海からこっちを見つめているのはだれなのだろう?
多くのひとがSatyajit RayやEdward Yangにあるやさしさを指摘しているが、成瀬の過酷さとApichatpong Weerasethakulのマジックも少しあると思った。
まだぱらぱらしか見れていないSight and Sound誌では、お気に入りの監督としてAgnès Varda、Chantal Akerman、Lucrecia Martel、Federico Felliniを挙げていた。
お願いだからしょうもない邦題つけないでほしい。
A Night of Knowing Nothing (2021)
12月2日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。↑のを見てすぐにチケットを取った。
Payal Kapadiaの最初の長編ドキュメンタリーというかフィクションも混じったエッセイのような作品で、同年のカンヌでThe Golden Eye - The Documentary Prizeを受賞している。
後でところどころカラーになったりするが、古め暗めに見える過去の記録映像も含めてモノクロが殆ど。
インドのフィルム・インスティチュートで映像を学んでいた”L”という女性が残した、カーストのせいで別れなければならなかった彼に宛てた手紙を落ち着いた女性の声が読みあげていき、そこに過去からのいろんな映像 - 雑踏、マーケット、お祭り、等が重ねられていく。一番時間を割かれているのが2016年の学生デモの様子で、そこではパゾリーニをひいて、学生と対峙する警察側の目線についても考察していて、ここは自分もデモの都度いつも思うことなので、そうだねえ、だった。
それにしても。デビュー長編でこの落ち着きぶりはなんなのか。”Knowing Nothing”だったからー、とかしれっと言うのだろうか。
[film] Girls Without Nerves
11月30日の土曜日、昼間に”The Brutalist” (2024)を見て、心地よくぐったりになって、夕方には”All We Imagine as Light” (2024)を見る予定だったのだが、間に隙間ができて、ちょうどアクション映画特集からサイレントの2本立てをやっていたので見る。
キートンもロイドも、なにをいつどれだけ、何回見ても楽しいし動いた気になれるし、ライブのピアノ伴奏は名手Neil Brandさんだし。
One Week (1920)
25分の短編、Buster Keatonが作・監督・編集・主演・スタント、ぜんぶやっている。邦題は『文化生活一週間』。文化… ?
月曜日に結婚した新婚カップルのところに火曜日に組み立てキットハウス一式がやってきて説明書き通りに組み立てようとするのだが、彼女にふられた求婚者がこっそり部品の番号を書き換えちゃったので、歪にゆがんだ変てこな家ができあがって、それでも負けずに金曜日に新築パーティをしてみたらそこを狙ったように嵐が襲って… という最初の一週間のおはなし。 説明書き通りにやったらあんなふうに複雑怪奇な – でもそれなりに機能してしまう - ものができあがる、というのもおかしいが、そこでふつうに生活してしまうのもすごいし、台風でくるくる回っていくのは楽しそうで天才としか言いようがない。 そして最後のオチで、住所が違っていた、と。ヤドカリみたいになれるのもうらやましい。さっき見たThe Brutalistの人が見たらめちゃくちゃ怒りそうなやつだが。
そして、これらの家を相手にしたアクションをぜんぶスタントなしのライブでやってしまうキートン、変わらずすごい。
Safety Last! (1923)
73分の中編。邦題は『ロイドの要心無用』。 高いところの時計にぶら下がりのアクションは有名よね。“Safety First”– 「安全第一」の標語をもじったやつで、安全が最後でも生きているのなら…。
最初は獄中らしきセットで、鉄格子があり、母親と彼女らしき女性が不安そうな顔で、上のほうから縄が垂れていて、厳かに神父が現れるので絞首刑か、と思うのだが、実はただの駅だったと。ここの、死んでいておかしくないシーンに見えたけど実はぜんぜんそうじゃなかった、というお茶目なのが基調で、なおかつこれは、都会に行って成功するんだ & 彼女と幸せに暮らすんだ、というところに向かっていくrom-comなの。これがあるからどんな危機も乗り越えることができるしへっちゃらだし、すべての説明がついてしまうのだから最強なんだってば。
ビルの外側の下から素手で上にあがって(あがらされて)いく、それだけなのに、なんであんな大ごとになっていくのか。キートンだと、外からいろんな脅威が降りかかってくるかんじだけど、ロイドは自分からひっかぶるべく何も考えずに首をつっこんでいく。両者の技を身につけておけば世の中なんも怖いものなくなる。
客席の家族連れの子供たちもきゃーきゃーおもしろがって、やたらでっかい声で笑うおじいさんとかもいて、こんなふうにみんなが楽しんでいるのを見るのはよいなー、って。
Girls Without Nerves: Action Women of the Silent Era
少し戻って、11月17日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
これもアクション映画特集の出しもので、「神経のない女性たち」ってひどいタイトルだな、って思って、実際に見てみると、そうとしか思えなくなるのだったが、英国でニュースリールとして上映された時のタイトルだったのか。 今回上映されたのは以下の短・中編で、どれも公開当時は評判になってヒットしたものだった(だから残っている)と。
▪️ The Wife’s Revenge (1904)
▪️ Girl Without Nerves. Topical Budget 545-2 (1922)
▪️ Hazards of Helen: The Girl at the Throttle (1914)
▪️ Daredevil of the Movies (1925-29)
▪️ Vittoria o Morte! (1912)
内容は夫の替わりに腕まくりして決闘に向かう、という勇ましいものから、機関車の後ろにぶら下がったり、飛んでいる飛行機の上に立って笑っていたり。Helen HolmesやEmilie Sannomといったスターも生まれた、と。
彼女たちの命知らずのアクションは賞賛や感嘆の対象としてある、というより、見世物小屋の見世物(親の因果がぁ~)とか、ゲテモノのような扱いで、「女性なのに」あんなことやる(やらされる)なんてかわいそうに、という目線があるようで、まだそういう時代だったのだな、というのと、でも映像のなかの彼女たちはどう見ても楽しそうでやらされているかんじゼロだったりするので、この辺りからあれこれ叩いたり嘲笑ったりが始まっていったのだな、って。そしてこんなにかっこよいのに、神経がないとかバカにしたように言われるのって、いまだに続いたりしているねえ。
12.03.2024
[film] The Brutalist (2024)
11月30日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
日本から戻った翌日で、チケットはずっとSold Outしてて、朝にオンラインで少しは出るかと思ったがぜんぜんその気配がないので、BFIで並ぶことにして、11時20分くらいに着いたらゲストリスト(previewだからか)とキャンセル待ちの列がものすごくて、開始の12時になっても列があまり動かなくて、ほぼ諦めたのだが、なんでか入れた。しかも3列目の真ん中くらいで。
監督、制作、共同脚本はBrady Corbet、なかなか見事にやかましい音楽はDaniel Blumberg - Yuckにいた人か。
3時間35分で、上映は70mmフィルム、途中で15分の休憩が入る。撮影はVistaVisionをフルで使って、アメリカ映画でこれをやったのは63年ぶり、とIMDBにはあった。
2部構成にプロローグとエピローグ。タイトルやエンドロール(←斜めに流れる)はどう見てもバウハウス仕様でかっこよい。ベネチアでプレミアされて、銀獅子を受賞している。
超大作のかんじはそんなになくて、印象としてはPTAのそれに近い - 陰影とかカメラへの執着とかも。 あと、70年代頃にスピルバーグやスコセッシが撮っていた「大作」のかんじも少しあるか。
1947年、ブタペストのLászló Tóth (Adrien Brody)がホロコーストを生き延びて戦後の混乱のなか船でどうにか海を渡ってアメリカ合衆国につく - そこで目に入ってきた倒立した自由の女神のイメージ。 そこからフィラデルフィアに渡って、家具屋をしている従兄弟のところに世話になっていると、富豪のVan Buren(Guy Pearce)の息子Harry(Joe Alwyn)から自邸の書斎のリフォームを任され、腕をふるってすごいのを作ったら – あああんな本棚があったらなあ!の世界 - Van Burenが勝手になんてことするんだ!って怒鳴りこんできて、材料代とか払わんから、て言われて従兄弟のところにはいられなくなる。 のだがVan Burenはあとで謝ってきて、彼の家に暮らして彼の依頼で建築の仕事をやっていくことになる – ここまできてLászlóがバウハウス - デッサウ出の建築家であることが明かされる。
第一部はこうして合衆国で後ろ盾を得て建築家として認められのしあがっていく - 反対側で酒やドラッグで擦り切れはじめるLászlóの姿が描かれて、第二部は冒頭で現地に置き去りにされていた妻Erzsébet (Felicity Jones) – 車椅子 - と姪のZsófia(Raffey Cassidy) – ほぼ喋らない - がやってきて一緒に暮らし始めるのだが、なんでか仕事でも社交でも社会的、文化的な衝突やそれに伴うパニックがあちこちで起こって、なにひとつ休まらないし、寧ろ混沌や困惑が飽和状態になっていって…
移民が現地民の求めに応じて自分の意匠で現地の建物を作っていく際に想定されそうな苦労や軋轢がぜんぶでてきて、それでもというかそれだからこそ、なのか彼の建築は自然に抗うBrutalな異物として強く根を張って屹立して、その威容がアメリカにどうやって浸透していくのか。いつものようにAdrien Brodyの演技がすごすぎるので苦労した(アメリカ人からすれば成功した)移民のお話しに見られてしまうかもだが、これはやはり「アメリカ」のお話しなのではないか。 アメリカの富豪や成金が何でできていて、どんなふうに戦後を渡って乗り越えてその結果として「野蛮な」アメリカのランドスケープを作っていったのか、についての。ブタペストもホロコーストも、そもそも割とどうでもよかったのではないか、とか。
3時間半はちっとも長く感じなくて、それは地を這っていく彼らの生がきちんとそこにあるから、というか。撮影のLol Crawleyがすごいのかも。
本棚とか書斎に興味があるひとは前半パートだけでも見るべし。
これ、Wes Andersonが取りあげてもおかしくなさそうな人とテーマだと思うのだが、彼が撮ったらどんなふうになったか、想像してみるのも楽しいかも。
あと、最後に”Dedicated to the memory of Scott Walker” って。もう一回見たくなった。
[film] ナミビアの砂漠 (2024)
11月23日、土曜日の夕方、ポレポレ東中野で見ました。
この日の午前に東京都写真美術館で『秀子の車掌さん』(1941)を見て、80年も経つと女性の像って随分変わるもんだなー、と。
今年のカンヌの監督週間で上映されて、国際映画批評家連盟賞を受賞した作品。 という他に、どんな映画なのかは一切知らずに見る。 監督はこれが長編第一作となる山中瑶子。音楽は渡邊琢磨。
21歳のカナ(河合優実)はエステサロンに勤めていて、でも正社員なのかバイトなのか、仕事は割とどうでもよさそうで、そのどうでもよくなさそうなものってなんなのかはっきりしなくて、恋人のところに同棲していて、その長髪の恋人はやさしそうで面倒見もよさそうだけどちょっとうざいところもあり、もう一人別のクリエイターぽいヒゲの男とも付き合っていて、気がつけばそっちの男のアパートに一緒にいたりする。 この辺の転々とその経緯について、特に彼女の口からも、他の誰からも語られることはなく、なんとなく猫っぽく飼い主右から飼い主左に移っただけ、っぽい。
すべてがその調子で、彼女の好き嫌いや行動や世界観が彼女の言葉や会話のなかで語られることも、それらがこうだからこう、と第三者から具体的に語られたり示されたりすることもない。少し離れたところから野生動物をとらえるかのように、でもカメラの中心に彼女がいることは確か。ショートカットで、鼻にピアスしているごくふつうに見える若い女性。
そのうちヒゲの方と暮らしていくなかでふたりの言い争いや小競り合いが少しづつ増えていって、その衝突はカメラを見る限りでは彼女が突然キレたりして、その理由もよくわからないのでなんだこの娘は、になり、その暴れっぷりと理不尽さがだんだんひどくなって車椅子の生活になったりもして、そこから回復しても彼女の行動原理は変わらないようなので映画としては殺し合いみたいな方に向かっていくのかしら? と思っていると突然彼女とカウンセラーらしき人の会話で「双極性障害が... 」とか出てくるので、あ… ってなる。 自分の頭のなかで起こるここの転換が鮮やかで、やられた、までは行かないけどそういう転換をもたらしたのははっきりと映像の力でもあるので、すごいな、って。
男女(でなくてもよいが)の関係を描いたものを見るとき、彼も彼女も互いがそれぞれの想定とか慣習とか見えないルールとかコードに基づいて行動すると思っていて、それは映画の場合でも、というか映画の場合だと普段のそれより強調された形のものが、(それぞれの内面で思っていることは別として)提示されると思いこんでいる。というのが本当にただの思いこみに過ぎないのだな、となった時に見えてくる愛の姿とは。を結構冷めて突き放して眺めているかんじ。
カナがひとりでいる時にスマホでぼーっと見ている動画 - 水たまりのある砂場に鳥などが集まってだらだら勝手に過ごしている光景 - があって、これがたぶん「ナミビアの砂漠」なのかしらと思うのだが、ここには誰が何をしていようと気にしないし介入しないんだからほっとけ、というのと、それが「ナミビア」の「砂漠」だったとしてそれがなんだというのか - どっちにしてもほっとけ、というのがあると思って、それが愛だろうがケアだろうが - でもDVまで行くとちょっと違うけど - 別に知ったこっちゃないから、と。
邦画でいちばん嫌いで気持ちわるい絆、とか、わかってくれる人が、とかを砂漠の彼方に蹴っとばしてくれるだけでうれしくて、すき。
12.02.2024
[film] Gladiator II (2024)
11月21日、木曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 邦題はしらん。
日本には出張で、つまりお仕事目的で帰って、後半は病院通いだったりしたので、その間映画は4本しか見れなかった。しょうがないったらしょうがないのだが、そんなに見たいのもなかったのね(除.神保町シアターの田中絹代特集)。フィルメックスもやっていたけどー。
これの”I”って見ていなくて、鎧つけたり血と涙の仰々しい命懸けの決闘ものとかが好きじゃないから、なのだがどうして見ることにしたかというとPaul MescalとDenzel Washingtonが出ているから、というのと、あと決闘ものを避けるというより自分のなかでそれらが割とどうでもよいものとして見れるようになってきた、というのもあるか。Ridley Scottって、このシリーズで底辺から勝ちあがって生き延びる男性の過酷さを描いて、Alienのシリーズで凶暴な異生物からとにかく逃げて生き延びる女性の強さを描いて、セットがでっかく仰々しいスペクタクルとして見せるのと血が飛び散る生々しさがリアルであればあるほど盛りあがるので凄そうだけど、中心は結構空っぽで単純なゲームみたいなもんなのだと思う。
妻と農家をやって平和に暮らしていたLucius (Paul Mescal)の島が海からやってきたローマ軍に襲われて妻を殺され、彼は奴隷としてローマに連れてこられて、奴隷プロモーターのMacrinus (Denzel Washington)に見込まれてコロッセオのエンタメ闘技の見世物としてサメとかサイとかヒヒとかヒトとかと闘わされて、負けずにのしあがって名をあげると、あの子はひょっとして… と前作の終わりに涙の別れをしたおっかさんとかも出てきて揺れたりするのだが、でもLuciusの目はカラカラ (Fred Hechinger) とゲタ (Joseph Quinn)の皇帝たちが好き放題に支配して腐りきってしまったローマ帝国をぶっ潰すことにあった、と。
(そうじゃないかと思っていたけど)我こそがローマ皇帝の正統な後継者である、というのと、でも今のローマはすっかり腐れてしまって自分の理想とするローマじゃなくなってしまった – もうぶっ壊すしか道がない、というのに挟まれた小学生みたいな悩みも、自分が頂上に立てば(うう恥ずかし)になってがんばればよいのだ –じゃあがんばりなー しかない。
この線に沿って、Paul MescalもPedro Pascalも、ひたすら甘くやさしく強い - 一見ぜんぜん強そうではないし殺陣もアクションもスカスカなの - けど決してやられない - 「男」を演じて、その反対側でやりたい放題やりまくる頭のおかしい – でも権力だけはたっぷりあるカラカラとゲタと小猿がいて、その中間にひたすら不気味で妖艶でNYアクセントの英語を喋るDenzel Washington - 一番強そうに見えるのはこの人 - がいて、わかりやすいプロレスみたいな史劇が展開されていく。
こんなに簡単に単純に国とか政権がひっくり返る、ひっくり返せるのであればこんな楽なことはないわ、ってウクライナとかガザを見ているとしみじみ思うし、トランプみたいのもやって来るし、なんだか腹がたってきたり。 こんなの見てうっとりしたり喜んだりしててよいのか? それこそ帝国の思う壺ではないか、とか、こんなふうにお金かけて精緻に「再現」? というか表象される光景っていったいなんなのか、プロジェクションなんとかと同じようなあれではないか、とか。(ぶつぶつ)