4.15.2026

[log] London - others part 2

ロンドンの最後の日々 – でないものも含まれるが - に見たあれこれを。

Turner & Constable (2026)

3月22日、日曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
Tate Britainでの展覧会 – “Turner & Constable”の展示内容を補足してくれるドキュメンタリー映画。
どこのどなたがやっているのか知らないが、Tateとかで大きな展覧会があると、”Exhibition on Screen”という展示内容を補足してくれる1.5時間くらいのドキュメンタリーが作られて、映画館でもものすごく限定で公開されたりする – たぶんどこかの配信だとずっと見れるのかも。(日本だと日曜美術館?)

1775年生まれのターナーと1776年生まれのコンスタブル、Royal Academy of Artからほぼ同時期に世に出た19世紀初の英国風景画の巨匠、互いを意識していたに違いない同時代のふたりの作風や表象の共通点や相違をキュレーターや現代のアーティストが明らかにしていく。

展覧会の構成に沿って、最初のコーナーにあるふたりの若い頃の自画像から入って、ふたりの絵画の明らかに異なる点を強調した後に、それぞれの意匠が時代を経てどう変わって、違っていったのかを追っていく。

時代背景のようなところでは、ナポレオン戦争によってヨーロッパ、特に18世紀のグランドツアーが廃止されたことで、イギリス国内の風景に向かわざるを得なかった、それがふたりの初期の作風や方法論に影響を与えた、というキュレーターによる指摘が興味深かった。それでも、それにしてもあんなふうに違ってくるものなのかー。

これを見た上で、3/22にもう一回、Tate Britainに行って実際の展示を見たのだが、改めてコンスタブルの画面手前の傷と奥に広がっていく遠さ、ターナーの渦を巻く黄色について確かめた。


Tracey Emin - A Second Life

3月22日、Tate Modernで見ました。
新国立美術館のYBA展でも(たぶん)取りあげられているTracey Eminの回顧展。

ロンドンの美術館やギャラリーを回っていると、彼女の作品は本当にいろんな場所、テーマの企画でちょこちょこ見ることができて、どれも傷だらけのぐちゃぐちゃで痛ましいなー、と思いつつ、そんな痛みこそが彼女の作品のコアにあることはわかっていたので、今回の回顧もそれらに晒されたしんどいものになるのかも、と思っていたらそんなでもなかった。

若い頃のどろぐしゃの恋愛遍歴から中絶、がんの宣告〜治療まで自分の身体に起こったことすべてを曝け出してぶちまけるデッサン、手紙、映像、キルト、血だらけだったりほぼゴミだったりのオブジェ、散らかりまくりの部屋、そして絵画まで、ハッピーで穏やかに眺めていられる作品はほぼなく、彼女の身に降りかかった困難や苦悩に引き摺りこまれ匂いを嗅がされるような。でも他方で、それらを離れて眺めているような感覚 – それは彼女が自身に向きあっているそれでもあるような – があって、タイトルである”A Second Life”というピンクの流線形のネオンと共に、次のステージが見えてくるようだった。

90年代の、誰もが「リアル」であろうとして、べったり共時の共感を求めてきたあのうっとおしい時代を抜けてここまで来た、来させたもの、それに要した時間ってなんだったのか、ということを改めて考えたり。


Lucian Freud: Drawing into Painting

2月14日、National Portrait Galleryで見ていたやつ。

Lucian Freudの、精緻にみっしり描きこまれた肉の絵画(Painting)、その中心にあるいろんな人物の描写、構成は、どんなスケッチ、デッサン、落書き等から出来あがっていったのかを見ていく。幼少期のクレヨン画から美術館の古典絵画を模写したものまで、彼の創作のプロセス、その秘密を知る、という点では興味深いのだが、そんなに明確にBefore → Afterが示されているわけではないので、ドローイングはドローイングで雑多でおもしろく、絵画は絵画でブリリアント、でしかなかったりするのが少し残念だったかも。あと、Guardian紙のレビューにもあったように、Freudにしてはそんなにすごい絵が並べられているわけではない、というところもちょっと惜しいかも。 Freudの熱狂的なファンなら別かもしれないけど。


Catherine Opie: To Be Seen


3月30日の昼、帰国する前にNational Portrait Galleryで見ました。

アメリカの写真家Catherine Opie (1961-)の肖像写真を中心とした、イギリスでは初となる規模の企画展示。

90年代以降に撮られた陰影強め、皺や傷跡、タトゥーもはっきり深く濃く定着させる絵画の強さをもった肖像写真たちで、被写体は自分の家族や友人、ロスのクィアコミュニティやサーファー、アウトサイダーたち、彼女自身の丸い大きな背中に彫られた、子供の描いた家族の絵 – 彫り傷で血が滲んでいる “Self-Portrait/Cutting” (1993)も。彼らははぐれ者ではなく、写真の中心に、”To Be Seen” - 「見られるべき者たち」 として堂々とそこにいて、像をつくる。ダイバーシティなんて当たり前のことなのに、と明確には訴えていないがトランプ政権に対する批判として写真が、というよりそこに映りこんだ人々が強く語りかけてくるような。

写真家として彼らにできることって何かあるのか、と問いながら写真の可能性を掘っていくような。


ここでまた切る。あとひとつくらい書けるかしらん。

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