3月27日、金曜日の晩、Young Vicで見ました。
これがロンドンで見た(今のところ)最後の演劇となっている。
最後になにを見ようか、の候補はいっぱいあったのだがあんま考えても時間は過ぎていくばかりだしそもそも考えている時間ないしで、えいっ、って決める。この日はロンドンの勤務場所の最後の日でもあったので、もう少し明るいのにすれば… という声もあったのだが、そんな場合か、って。
Young Vicにしたのはここに面した通りの反対側に演劇関係の本中心の古書店(その奥にはリハーサル用のスタジオもあるみたい)があって、ここににゃんこがいるから、でもあった。猫にお別れを言いたかったの。
原作 (1994)はArthur Millerの同名戯曲で、初演も同年。舞台は客席に向かってせり出している長方形の舞台の三方を囲んで見下ろす形。奥にはドアとその向こうはブースのような廊下が通っている。メインのスペース - 事務所のような待合室のようなリビングのような - には大量の新聞や雑誌 - 当時のではなく現代の - が積みあがり、散らかっている。演出はJordan Fein。休憩なしの約1時間50分。
1938年の11月、ドイツ全土でナチスによるユダヤ人による排斥・襲撃が表面化したKristallnacht - the Night of Broken Glass - の報道記事がアメリカでも出た頃、ブルックリンに暮らすユダヤ人夫婦 - Sylvia Gellburg (Pearl Chanda)とPhillip (Eli Gelb)がいて、Sylviaは突然歩くことができなくなってしまう。
怪我をしたわけでもぶつけたわけでもなく、明らかに心因性の、おそらく一時的な障害と困難、その要因や対処を巡ってPhilipと医師 (Alex Waldmann)が互いの意見や憶測をぶつけ合い、でも正解や正しい対処法が見つかるわけでもないしSylviaは快方には向かわないのでPhilipはことあるごとに誰に向かってなのかぶち切れ激昂し、激しい怒鳴りあいにまで発展したりして、まずはそんな外面だけはよい夫の日常的な抑圧と支配がベースにあるのだな、というのは容易に推測できる。
その上でSylviaの抱えこんだ疑念や不安 - ナチスはなぜあんな酷い行動に出たのだろうか、なぜあれを誰も止められなかったのだろうか、それはアメリカのブルックリンに暮らす我々のところにも波及してこないだろうか、そうならない保証はどこにあるのか、そうなった時にどこに助けを求めるべきなのか、ユダヤ人コミュニティとして行動を起こすべきではないのか、なんで誰も何もしないで平気でいられるのか、などなどがじわじわと表に出てきて、こうして提示される不安 - 踏みだすことも、逃げることも、闘うことも、こんなふうに動けなくなることすら - できない/許されない - そのありようは彼女の身体を縛って覆って、その姿は客席という安全圏からそれを眺めている我々「観客」にもその態度や認識を問うてくるようだった。
そして当然のように頭にはガザで起こっていることが浮かんできて、それはArthur Millerが得意としてきた社会的な衣を纏いつつ顕現してくる有害で邪悪で狂った男性性、といういつものテーマをどこかで薄めてしまっているのかも知れないが、それくらいの強さで今の我々を傷つけているのだと思うし、なによりも今この時にだって人が殺され続けているのだ、ということを否応なく突きつけてくる。地理名としての「ガザ」なんて一言も出てこないのだが。
そしてその中心にいるふたりの、自分ゴトと他人ゴトの境を見境なく切り裂いていく切迫した演技はすばらしいと思った。
4.12.2026
[theatre] Broken Glass
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