5.16.2025

[film] Where Dragons Live (2024)

5月3日、土曜日の夕方、演劇”Here We Are”とThe Poguesのライブの間に、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。

オランダ人の監督Suzanne Raesが英国のOxfordshireの一軒の家を舞台に撮ったドキュメンタリー作品。

野原の真ん中に建つ英国の典型的な昔の邸宅 - Cumnor Placeが建っていて、そこに中年の女性 - Harriet Impeyがやってくる。

この邸宅は60年代に、既に亡くなっているHarrietの母で科学者だったJane Impeyが家にあったポストカード大の絵画 – これが初期フランドル派の画家 - Rogier van der Weyden (1399-1464)の“Saint George and the Dragon”であることがわかって当時の新聞に載る大きなニュースとなった - をワシントンのNational Galleryに売った利益で購入して修理して一家で暮らし、いまは中年になったHarrietを含む彼女の子供たち(男3、女1)は、ここで子供時代を過ごした。そして今は彼らの子達- Janeの孫たちがやってきて遊んだりしている。

彼らの父、作家でAshmolean Museumのアジア美術のキュレーションをやっていたOliver Impeyは2005年に、母Janeは2021年に亡くなり、住む者のいなくなった屋敷を引き払うべく、子供たちがやってきてそこに置いてあるもの - 写真や8mmも含む – を彼らの記憶と共に並べていく。日本の下品なTVだとすぐにお宝探し、とか乗りだしそうだが、そういうトーンではなく、家に置かれ、遺された大量の遺物を掘りだし、そこから祖先の足跡〜両親との思い出、自分たちの幼少期までを巡っていく旅のようなものになっていく。

もとはコロナのロックダウン中にこの邸宅でドキュメンタリーを撮る計画があり、それがJaneの死によって急遽撮影を進める必要が出てきたらしいのだが、中心にあるのはずっとここで暮らしてきた、ついこの間まで日常を送っていた母Janeの手書きのメモや貼ってある写真など、前半部分は彼女の生活の痕跡とそれが絶えてしまったことを悼み慈しむトーンが強く出ている。

後半は、父が収集していたのか放置していたのか、家のあちこちに潜んでいるかのように置かれたDragonの絵や飾り、置物の数々とそれらに囲まれて過ごした子供たちの幼年期を追っていく。 アジアを旅してDragonばかりを集めて家に運んでいた – そこから家の購入に繋がる発見があったわけだが - 父がそうやって遺したものと子供たちが父母と過ごした夏の日の記憶、片付けられ、失われていくものへの想いが父の愛したDragonに凝固し、時間を超えて飛びたっていく様はちょっと感動的だったかも。

これ、遺されたのがDragonだからなかなかかっこよいけど、へなちょこでくたくたのぬいぐるみとかがらくたばかりだったらどうなっただろう? ってちょっとだけ思った。


Blue Road: The Edna O’Brien Story (2024)


5月11日、日曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
もうじき日本のアイルランド映画祭でもかかるようで、喜ばしい。英国では結構長く上映され続けているドキュメンタリー作品。

93歳になったEdna O’Brienのインタビュー映像 – この数か月後に彼女は亡くなる - を中心に、若い頃のTV出演時の映像とか、他の彼女の記事や発言はJessie Buckleyが力強く声をあてて、家族以外の批評家や所謂「証言者」的なコメントは殆どない。作家本人がよどみなく踏みしめるように語っていく一代記で、作品を読んだことがない人でも、家族も文壇も、全てが保守的で、「らしく」あることを求められる土壌でどんなふうに彼女 = “Girl”が周囲と戦い、道を切り開いていったのか、を鮮やかに切り取ってみせて、その恥じない動じない姿はかっこいい、しかない。

タイトルのBlue Roadは、小説に”Blue Road”と書いた彼女が、そんな青い道なんてあるか、って父親に怒られたエピソードから来ていて、でもその直後、カメラはしれっと青くなっている道(美しいったら!)を映しだしていたりー。

↑の”Where Dragons Live”もそうだったが、イギリス・アイルランドの田舎の映像の美しさと、その背後にある澱んで暗く、でも引き込まれるよくわからない業のようななにか、が浮かびあがってきて、それでもやはり美しくて見つめ直してしまうのだった。

5.15.2025

[theatre] Here We Are

5月3日、土曜日のマチネを、National TheatreのLytteltonTheatreで見ました。

2021年に亡くなったStephen Sondheimが最後に手掛けたミュージカルで、原作はDavid Ives、演出はJoe Mantello。Luis Buñuelの2本の映画 – “The Exterminating Angel” (1962) - 『皆殺しの天使』 と”The Discreet Charm of the Bourgeoisie” (1972) - 『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』 をモチーフとして置いて、最初のリーディングのワークショップは2016年くらいから行われていたものの、いろいろな経緯を経て、NYのオフ・ブロードウェイで初演されたのはSondheimの死後、2023年であった、と。

一幕と二幕でトーンも含めて結構はっきり分かれていて、登場人物はほぼ同じだが別の芝居のようで、一幕目はブルジョワジーの秘かな愉しみ』をベースに、二幕目は『皆殺しの天使』をベースにしている。 ミュージカル要素が効いているのはほぼ一幕めの方。

舞台は真っ白でぴかぴかの金持ちのモダンなリビングのようなところで、上演前から執事のような男性と掃除婦の女性が掃除機をかけたりいろいろ磨いたり、汚れがないかチェックしたり、つんつんした顔と態度で(上演を?)準備している。

そのアパートにゲストがやってくる - ホストのBrink夫妻は呼んだ憶えがないらしいのだが、同様に金持ちらしい小ぎれいなZimmer夫妻と、南米の架空の国の大使Raffaelと、ホストの妻の妹で、革命思想に傾いている若者Marianneと。そこではなんの準備も用意もしていなかったので、みんなで外にブランチに行こう!おー! って歌いながら外にでる。

一行が最初に入った – “Café Everything”では、メニューはありませんなんでも作りますよー、と言いながら、注文を受けたウェイターがいきなり銃で自殺してしまったり、そんなふうに、次のレストランに行ってもどこも同様にあれよあれよと変なことが起こり、ご飯にありつけないままの彷徨いが転がっていく。歌も入ったどたばたコメディ風で楽しいのだが、『ブルジョワジーの...』 にあった悪夢と悪意に満ちた浮ついたかんじはなくて、こんなのいまのNYなら普通にあるよねー、で終わってしまうような。

3軒目のレストランあたりで、軍の偉そうな人と若い兵隊が加わり、更に失業中の司教も加わって、Raffaelの大使館にみんなで入っていったところで、どこかで銃声が響いて、携帯もほぼ通じなくなり、大使館の執事がいきなり悪の正体を現したところで一幕目が終わる。

二幕目は、大使館の屋敷のラウンジのようなところに閉じこめられた全員 - 金持ち、軍人、聖職者、悪魔、ヒッピー、あらゆる階層と職業の人たち - が、引き続きご飯にありつけないまま嘆いたり絶望したり発作にあったり、熊にあったり、でも映画 『皆殺しの天使』にあった、超越的な何かを浮かびあがらせたり揶揄したりするような仕掛けや視点はそんなになく、次から次へと起こることが起こるべくして、なかんじの、ふつうの悲喜劇の枠から出ていなくて、おもしろいけどそれだけ?それで? になってしまっているような。

閉じこめられた彼らのやりとりは形而上から形而下まで網羅した悲劇的なものとして描写される反面、やや大仰すぎて噓っぽくも見えて、いまのガザに閉じこめられて身動き取れなくなってしまっている人々のことを考えると、なんだかちっとも笑えなくなってしまうのだった。 ”Here We Are”って言えてよかったね、とか。

Stephen Sondheimのミュージカルをきちんと見てきていないので、彼のミュージカルとしてどう、というのは書けないが、ミュージカルとしては耳に残ったり場面が浮かんだりするところが余りに少ないので、割と失敗かも。

アンサンブル劇としてはブニュエルというよりはアルトマンの方かも。だからどうした、ではあるが。


Krapp's Last Tape

5月2日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。『クラップの最後のテープ』。 約60分の一幕ものなので、簡単に。

原作 (1958) はSamuel Beckett、演出はVicky Featherstone、主演(一人芝居)のKrappをStephen Reaが演じる。

暗闇の向こうにチョッキを着て机に座って幽霊のような69歳のKrappの像が浮かびあがり、ふつうあんなところにはない机の長い引き出しを開けて、そこからバナナを取り出して食べて皮を捨てて、かつて自分が誕生日前日に吹きこんだテープを聞いていく - テープレコーダーがまだ存在しなかった時代に書かれた、人と時間、記憶のありようを巡る思索劇で、ぜんぜん古くない。むしろAIやアバターが、なりすましがふつうに話題や問題になったりするいま、こんなふうに吹きこまれて「再生」される過去の自分 or 今の自分とは、その間にあるのは、溝なのかバナナの皮なのかなんなのか? を問うてくる。

ひとによっては、で? それで? になるやつかもしれないけど、いろいろ考えさせられる。

いま、Yorkの方ではGary Oldmanが同じ芝居をやっていて、そちらも見たい…

この芝居は(「ゴドーを待ちながら」もそうだけど)、いろんなバージョンのを見るのがよい気がして、見れるものを可能な限り追っていきたい。


Future Ruins、行ったほうがよいのか.. ?

5.14.2025

[film] Julie zwijgt (2024)

5月2日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。  

ベルギー映画で、監督はこれが初監督作となるLeonardo Van Dijl、昨年のカンヌの批評家週間で上映されて、共同プロデュースにはダルデンヌ兄弟の名前が、そしてExecutiveプロデューサーにはNaomi Osakaの名前がある。 英語題は”Julie Keeps Quiet”。

ポスターは主人公Julie (Tessa Van den Broeck)が叫んでいるように見える歪んだ顔のクローズアップで、それでも“Keeps Quiet”とは?

15歳のJulieはエリート向けテニスアカデミーに通っていて、その中でも将来を見込まれて特別待遇を受けている選手で、本人もやる気十分でばりばり練習している - Julie役のTessa Van den Broeckは演技経験のないテニスプレイヤーで、撮影前に6週間のワークショップに参加しただけだそう。

ある日、同じアカデミーにいて、しばらく前に自殺したAlineという選手のコーチをしていたJeremyが協会から謹慎処分を受けてもうここには復帰できない、という連絡を受けてざわざわする。JeremyはJulieの専任コーチでもあった。

はじめのうちはふーんそうか、と独りで黙々と練習をしていくJulieだったが、そのうち何でこんなことになっているのか、Jeremyの指導がないと前に進めない、という苛立ちや焦りが彼女を追いつめていく(ように見える - ただし推測)。そしてJeremyからはJulieのスマホにちょこちょこチャットでメッセージが入ってきたりする – がそれに応えたらいけないと思うので相手にはしない(後で少し話してしまったりはする)。

何も語らないJulieは、Alineの自殺の根にあったものもおそらく知っているし、なぜJeremyが謹慎処分になったのかもわかっている。これらを吹っ切って練習を続けないと自分に選手としての将来がないこともわかっている。これらに囲まれて塞ぎこんでいる彼女のことを心配した大人たちが集まってきてカウンセリングのようなことも始まるのだが、Julieは沈黙を続ける。ここでJeremyとの間にあったことを話すと自分の今後の活動に影響するかもしれないし、最悪の場合、好きなテニスを続けられなくなってしまうかもしれない。そして大人たちは大人たちで、Julieが何かをスピークアップしまうことで自分たちの監督責任が問われてしまうかもしれない、ので無理な深掘りはせず遠くから恐々眺めるだけ。 - という状況が延々繰り返されていって、全体としては袋小路のなか、これはなんなのだろう? の不条理が浮かびあがってくる。 そしてこうして、周囲になにも言えなくなる空気や状況が形づくられていくのか、と。

少し前のテニスドラマ – “Challengers” (2024)では上位にいる女性プレイヤーとその下位の男子2名の性的なところも含めた丁々発止のやりとりがバカっぽくエネルギッシュに描かれていたが、男性と女性の位置関係が逆転すると、こうまでテーマや明度が変わってしまうものなのか。

監督は12歳の体操選手だった少女が怪我をしても周囲に言わずに我慢して無理しているのを見てこのドラマを思いついたそうだが、スポーツの場合、何故か子供たちを「大人」のように扱って(尊重して?)彼/彼女の「自主性」に任せたりする – そうすることで何か起こった場合でも責任回避できるし、うまく行ったら彼/彼女は更に成長するかもしれないし。でもやはり、彼/彼女は子供なのだから、適正に監督されてケアされなければならないし、子供たちには言いたいことをきちんと伝えられる環境が用意されるべきなのだ、と。それをずっと体育会系のカルチャーに染まってのし上がってきた協会にいる大人たちが用意できるのか? はあるけど。

この作品を集ってくるメディアに対して明確に”NO”を突きつけたNaomi Osakaがプロデュースしている、というのはとても納得がいく。

日本でも見られてほしいと思うけど、Julieの沈黙を「えらい」って勘違いするバカが大量に湧いてきそうでとてもこわい。

5.13.2025

[music] The Pogues

5月3日、土曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。

彼らの2nd “Rum Sodomy & the Lash” (1985)のリリース40周年に合わせてフルで演奏するライブで、2024年の”Red Roses for Me” (1984)の40周年記念ライブに続くシリーズなのか。

2023年のShane MacGowanの死と共にThe Poguesというバンドは無くなったのだ、と誰もが思っている。 ShaneもPhilip ChevronもDarryl Huntも亡くなり、Terry WoodsもAndrew Rankenもいない。残っているのはSpider StacyとJem FinerとJames Fearnleyの3人だけで、ゲストをいくら加えたからといってそんなのThe Poguesとは名乗れないのではないか、と。

でも、アイリッシュトラッドの野卑な獰猛さをパンクに結び付けて、それを一揆の音楽として練りあげていった彼らのスタイルはバンドがなくなったからといって塵にしてしまうのは惜しいし、それにShaneなんて生きている時から(90年代以降はずっと)ステージ上では死んでたようなもんなのだから、こういうのもありなのではないか、と。しかも会場はAcademy Brixtonなのだし。

などと思ってチケットを探そうとしたらとっくに売り切れていて、たまにリセールでフロアのスタンディングのが出てくる程度。あの会場で、Poguesのスタンディングで揉まれたら体が八つ裂きにされてしまうと思って、2階席のを追っていたらどうにか一番前のが釣れた。

直前まで映画を見ていて、開演に間に合わないかと思ったが、Brixtonの駅の近くから"Dirty Old Town"を肩を組んで歌いながら会場に向かう酔っ払いの群れを見て少し安心する。着いたのは9時少し前、そこから5分くらいで始まる。フロアを見下ろすと、既に“Rum Sodomy & the Lash”のジャケット - ジェリコーの『メデューズ号の筏』 (1818)みたいな状態のぐじゃぐじゃで。 病みあがりだったので、あそこに入っていったら簡単に死ねるな、とか。しかし40周年であるのでモッシュでべちゃべちゃになっているのって老人ばかりなのよ。

さて、”Rum Sodomy & the Lash”というアルバムは、この後の”If I Should Fall from Grace with God” (1988)でそのスタイルを完成させて世界的に成功するひとつ手前、バンドのラインナップが固まって、でもレーベルはStiffでプロデュースはElvis Costelloで、粗削りのライブの勢いをそのままもちこんで、でもトラッドもいっぱいあって、危なっかしいけどひたすら前のめりで、”If I Should Fall from...”よりも生き生きと跳ねまわっていて、よいの。

ステージ上にはアイリッシュハープもあるし、でっかい太鼓もあるし、バグパイプもある。曲によって替わる女性ヴォーカルは3人、ホーンもいるし、多いときで13人くらいがステージ上にいる。Spiderがご機嫌に客を煽って、つるっぱげのJames Fearnleyがそれに乗っかり、Jem Finerはいつものように学校の先生で、それ以外はミュージシャンみたいなミュージシャンたちが椅子に座ったりして演奏する。でも結局リズムがどんどこで、ぎゃーって雄叫びがあがったら突撃するしかないのだろうな(かわいそうに..)。

一曲目の"The Sick Bed of Cúchulainn"はスタンディングの前方からばしゃーんとかびしゃーんみたいな水が炸裂する音(要はビールの)がいっぱい聞こえて、そういう盛りあがりとは別に、音の方は細かったり荒縄いっぽんだったところが重ねられたり補強されたり、よい意味での大船になっていた。これなら旗を立てても帆をはっても飛ばされることはあるまい。音をきちんと重ねてもその勢いが削がれることはなく、客はどっちにしても幸せに突っ走っていくので、なんの不満があろうか、って何度も頷く。

曲順はアルバム通りではなくて、やはり盛りあがりを考えているのか、本編の最後は女性3人が横並びで"London Girl" – エムザ有明での初来日公演のアンコールがこの曲だったなあ、鼻からビールをぶわーってやったShaneの笑顔が忘れられないなー、とか。 アンコールの最初は“The Irish Rovers”、エンディングは”Sally MacLennane”だった。

それにしてもさー、40年だよ。「ラム酒と淫行と鞭打ちしかない」(by チャーチル)が40年って、なんで? も含めて、なんでこんなことに?/こんなふうになっているなんてー、しかない。狂っていなかったらとてもやってらんないよね。

5.11.2025

[theatre] Richard II

4月29日、火曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。

Bridge Theatreは久々で、ここでは過去Maggie Smithの一人芝居やLaura Linneyのこれも一人芝居の”My Name Is Lucy Barton”などを見ていて、今回のは一人芝居ではないがJonathan Baileyがメインでフィーチャーされている。

原作はShakespeare、演出はNicholas Hytner。プログラムにも原作の文庫にもファミリーツリーが載っていて、これがあるといつもビビるのだが、今回はだいじょうぶ(なにが?)だった。後で振り返るのによいの。

舞台はシンプルかつダークな黒で統一され、真ん中に執務机とかベッドやシャンデリアが上から下からすーっと出てくる程度。客席を四方で囲み、裁判や演説の際は、客席やバルコニーも使う。Richard II (Jonathan Bailey)も周囲の部下たちもぱりっとした現代のスーツを着て出社(?)すると秘書から社員証のように王冠を受けとる。

王Richard IIを中心とした一族のドラマ、そのなかでも権力抗争にフォーカスして、だからQueen Isabel (Olivia Popica) の影は薄めで、硬軟いろいろのじじいたち、忠犬みたいに同じ顔した同じ動作の幹部っぽい男たち、それらに憧れていきりたい若者たちが右から左から現れては消えていく、男たちのお話し。原作を読んでいなくてもどんな話なのかはわかる - そういう話に集約してよいのかどうかは別として。

男の威厳とか人を操って言うことを聞かせる王のパワーとかオーラ - それ相当のなにかはどこでどうやって手に入れて広がってコトを起こし、それらはどうやって他の権力者 or 継承者に移って次の代にトランスフォームされていくのか。それを情緒と無常感たっぷりに”Why~??”って泣いて騒いで訴えるのではなく、権力とは、その抗争とは、その遷移とはこういうものなのだ、とドライに描いていく。弦を中心とした音楽だけは映画音楽のようにドラマチックに響いてくるが。

それでも叔父のJohn of Gaunt (Nick Sampson)の死後、Richard IIがその遺産をかっさらったり、コカインを決めながらアイルランド侵攻を決めたりしていると周囲から不満の芽が出てきてらそこに政敵、というかRichard IIの反対側に立って追放されていたHenry Bullingbrook (Jordan Kouamé - 元のRoyce Pierre sonからこの晩だけなのか替わっていた)がどこかからやってきて、彼はRichardとは反対に寡黙でなに考えているのかわからないしふてぶてしいし、スーツの他にパーカーのようなラフな格好もして、騒がしい決闘も政変もないまま気がつけば王位を奪って、側近も替わっている(ように見える)。

それでもRichardは余裕でHenryを憐れんであげたりもするのだが、周囲には響いていかない。自分の頭で叩き割ってしまった鏡は元には戻らず元の像を写すこともなく、上が替わったらすべてが入れ替わり元に戻ることはない、時間と実績とか達成の度合いとそれに纏わる合意と総意がすべてで、交替後は死体袋に入れられて滑らかな床面を滑っていくだけ、と。どこまでもドライで、でも取り巻きも含めてそういう風にしたのも彼なのだ、と。

Jonathan Baileyのそんなに大きくない身体は、とてもよく響く声(怒鳴っても痛くない)と合わさって、そのしなやかな動きは自身のエゴとパブリック・イメージを見事に統御しているかのようで、やはりかっこよいと思った。

5.10.2025

[film] 風櫃來的人 (1983)

4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 - “Myriad Voices: Reframing Taiwan New Cinema”で見ました。 侯孝賢を含めて台湾のニューシネマはこれまで全然見れていないので、いろいろ見たかったのだが、この特集もこの1本で終わってしまった。4月のばか。

邦題は『風櫃の少年』。英語題は”The Boys from Fengkuei”  CINEMATEK - Royal Belgian Film Archiveによる4Kリストア版。 別の日には撮影を担当したChen Kun-hou(陳坤厚)によるイントロがあったそう(聞きたかった)。侯孝賢の半自伝的なドラマである、と。

いつの年代かの台湾の離島、ひなびた漁村の風櫃に中学生くらいのAh-chingがいて、彼の父は草野球で打球がおでこを直撃してから椅子に座ったまま動けなくなっていて、彼の他にはAh-rong, Kuo-zai, Ah-yuの3人がいて、いつも4人で浜辺でバカなことをしているか、他のガキ共に喧嘩を売ったり売られたりで逃げては集まり、女の子にちょっかいを出しては逃げたり避けられたり、だいたい退屈ですることがないのでそういうことをして、全体としてここにいてもつまんないし、ろくなことがないからここを出てどこか別のところへ行こう、になる。 若い頃(の特に男子)というのはそういうバカなことをいっぱいしたり、いろんなところに行って自分が少しはなじめそうな場所なり集まりなりを見つける動物の時期、というのはわかっていて、それが風櫃の少年たちに起こったら、それは例えばこんな日々になる、という絵を描いている。

映画になるのであれば、最終的にどこそこに落ち着いた、か、落ち着くことができず挫折してはぐれ者になった、辺りが世の青春映画としては一般的だと思うが、この映画の主人公たちはそのぎりぎり手前、バカなことをしてふらふらしている地点、どこにも行けない吹きだまりのような場所を永遠に彷徨っているように見えて、そうしていながら4人は3人に、3人は2人になったり、父が亡くなったり、その周りで切り取らていく風景は、いつまでもあの時のまま、決着つかないまま時間ごと止まっていて、我々はそういうふうに止まった時間のありようを、あの風景を通して見る・見返す、というか。そういう印象とか残像のようにして残るなにか。

これって多分に、思いきり男子のもので、家の事情で勝手に動けなかったりする女子だと見え方も残り方も違うのだろうな、と思いつつも。

片方には家の玄関があり、片方には遠くに延びていく道路があって、バイクは画面の奥に遠ざかって消えていき、玄関の前には時間が止まって動かなくなってしまった「父」が座っていて、そのどちらにも向かえないまま乗り遅れたり(何に?)、そこにいるはずの誰か(誰?)がいなかったりした時に見える(特に見たくもない)風景、がずっとそこにあって、このパノラマはいったい何なのだ?って打ちのめされて見ていた。

とにかく風櫃には何もないので、外に出ていくしかなくて、そのきっかけとか動機は仕事か女性かしかなくて、仕事も女性も常に裏切ってくる – fitする何かなんてどこにあるのか? - ので、場所を渡って仕事を変えて、女の子には必ず振られて、を繰り返す – それが4人の男子の王兵のドキュメンタリーフィルムに出てくるような俳優顔じゃない彼らの顔と共に後ろに流れていって、それは風景と一緒にどこかに消えていく – けど消えていかずにずっと残る。

音楽はクラシックが流れて、Jia Zhangke(贾樟柯)の使うJoy Divisionがもたらす効果とはやはりぜんぜん違う。どちらもよいの。

こういうイメージを捕らえて重ねて編んでいく、って誰でも実現できそうなようで実はものすごく難しい - ゴダールの映画がそうであるように、なのかも。

5.08.2025

[film] Thunderbolts* (2025)

5月1日、木曜日の晩 - まだpreview扱いだったが - BFI IMAXで見ました。

監督は”Paper Towns” (2015)のJake Schreier、撮影はDavid LoweryとやってきたAndrew Droz Palermo、音楽はSon Luxなど、とてもMarvelフランチャイズの諸作に並べられるような粒立ちやメジャー感はなくて、それはキャストもそうで、Florence Pugh, Sebastian Stan, Julia Louis-Dreyfusを除けば有象無象すぎでヒーローものの華も勢いもなくて、しかもタイトルに雑検索用の”*”まで付いて、要は従来路線とは違うことをやろうとしている、そしてそこに間もなく公開される(やたら宣伝がうるさくなってきた)”The Fantastic Four: First Steps” (2025)のレトロフューチャー仕様を加えるともうぜんぜん違う何かに投資・変態しているようなのだが、このシリーズはずっと追っているのでしょうもなく付きあって公開初日に見てしまうのだった。

冒頭からYelena (Florence Pugh)は浮かない顔でマレーシアの高層ビルの上から飛び降りてやりたくもない請け負いの殺し仕事をやってて、雇い主のCIAのValentina (Julia Louis-Dreyfus)は弾劾裁判をくらって旗色も顔色もよくなくて、気分が晴れないYelenaはAlexei (David Harbour)を訪ねて、一緒に指令を受けた秘密施設に赴くのだが、そこに有象無象の連中がいて勝ち残りバトルをしながらこれは互いに潰しあうホイホイ系の罠だ、って気づいた時にはもう遅い。

その中にはBob (Lewis Pullman)っていうパジャマみたいな拘束衣みたいのを着た毛色の違う男がいて、のらくらぶりが気になるのだが、力をあわせてその施設を破壊して抜けだして車で逃げていくと追っ手がきて、彼らを助けるのか捕まえるのかBucky (Sebastian Stan)も現れて。

こんなふうに、明白な敵や強者が現れてそこに向かって立ちふさがる、或いはFirst Avengerのようにお国のために立ちあがる、といったポジティブな動機もなければ、スーパーパワーもそれに沿うべく積極的に獲得されたものでもない、単なる金づるだったり、AlexeiもBuckyのように過去からの柵でしかなかったり。

ストーリーラインも、集められた者同士で殺し合い、その中の突出したひとりが手に負えないので力を合わせてどうにかする、それを抜けてみると明らかな政治利用目的(と弾劾目眩し)で勝手にリプランドされて周知されて逃げようがなくなる、というもので、こないだの”Captain America: Brave New World” (2025)がそうだったように、はっきりとどーでもよいインナーポリティクスのごたごた(のエサ)を描いているだけ。

たぶんもう”New World”も新たなヒーローもこんなふうに押しつけられる形でしかやってこなくて、そんなとこで”Brave”もクソもないのだ(拡張戦略もマーケティングも)という背景の暗さと脆さが公開前から丸見えで、でもだからこそ愚連隊がやけくそでめちゃくちゃやってくれることを期待したのだが、そんなでもなかったところが苦しくて、そんなふうに置かれた苦しさや苦さも含めてわかって、というのかもしれないが、そこまで暇でもマニアでもないのよねー、とか。

寄せ集められ、束ねられて見られる、そこで期待されるやっつけ仕事の徒労感と先の見えないかんじはよーくわかるので、あと少しでおーやったやった、になれたかも知れないのに、あのラストは興醒めしてしまうし、こんなの契約違反、って椅子を蹴る人がいてもおかしくないのに。

戻りの飛行機でYelenaの姉の代の”Captain America: The Winter Soldier”(2014)を再見して、誰が本当の悪なのかわからない中、ただ正直でありたい、と語ったSteve Rogersのあのわかりやすさ明快さは政治や地政がコミックになってしまった今、望みようのないところまで行ってしまったのだろうか、とか。

こんなふうにぐだぐだどうでもよいことを考えるネタは与えてくれるのだがなー。

[film] Rich and Famous (1981)

4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。 これがこの特集で見た最後の一本。見れてよかった。

上映前にBFIの人が出てきて、今回の上映はBFIのアーカイブにある35mmによるものです。少し退色がありますが楽しんで貰えると思います、って。うん、すごくよいプリントだった。

監督はGeorge Cukor。原作は英国のJohn Van Drutenによる戯曲 - “Old Acquaintance” (1940)をGerald Ayresが脚色したもので、オリジナルタイトルでの映画化は、1943年にBette DavisとMiriam Hopkinsの共演 - 邦題は『旧友』 - により既にある(これも見たい!)。今作の邦題は『ベストフレンズ』。

当初はRobert Mulliganの監督で撮り始めていたのだが、俳優組合のストで3ヶ月間の中断があり、彼の都合で続行不可になり、81歳でセミリタイア状態だったGeorge Cukorのところに話が行った、と。これが彼の遺作となる。

すばらしい音楽はGeorges Delerue。あと、Meg RyanがCandice Bergenの18歳の娘役でスクリーンデビューしている。80年代初のヘアスタイル。

1959年のSmith Collegeで親友だったLiz (Jacqueline Bisset)とMerry (Candice Bergen)がいて、寒そうな雪の晩、LizはMerryがBFのDoug (David Selby)と駆け落ちするのを助けて、そこから10年経った1969年、成功した作家になった(でもシングルの)Lizは、あの後Dougと結婚して一人娘がいて、西海岸の社交界で成功したセレブになっているMerryの邸宅を訪ねる。

何ひとつ不自由ない暮らしを送っているはずのMerryがLizを見ていたら自分もなんか書きたくなった - ひとつ書いてみたので作家としてLizのコメントがほしい、と言うので読んでみたら悪くないので出版社を紹介してあげたら、マリブの社交界をモデルにしたその小説は当たって、Merryは小説家としてデビューしてしまう。

こうしてずっと独身のままNYで若い青年複数も含め行き当たりばったりで相手をとっかえひっかえしつつ、こんなんでよいのか - いいや、を繰り返していくLizと、Dougとも別れ、娘のDebby (Meg Ryan)も手を離れ、作家として独り立ちしてもどこか満たされずに煩悩にまみれて落ち着かないMerryの周辺と、喧嘩してはくっついてを繰り返してなんとなく続いていく22年間の友情? を描いて悪くないの。

それは「ベストフレンズ」的な愛とプライドと確信に満ちたものではなく、ちっともふたりそれぞれのイメージしていた落ち着いた大人になれないまま、でもそうしかできないのでやりたいように過ごしていくうち、それぞれの岐路でいちいちなんかぶつかったりぶつけられたり、泣いたり呻いたりの先にいるのがやっぱりあんたか! になっていく様がひたすらおもしろかったり息を呑んだり、それだけなの。

そしてGeorge Cukorの演出は、なにがどうしたらあんなふうにおもしろくできるのかわからないが、見事に振り付けされたバレエがどんなに遠くの席からもその感情のひだひだを的確に伝え運んでくるように、ふたりの22年間をそれぞれのカットでしっかりと切り取って、そこにGeorges Delerueのスコアが絡まるとびくともしない。女性たちが言いあったり張りあったりしているのがひたすら続く”The Women” (1939)の画面から目を離せなくなってしまうのと同様の魔法、というか正しさのようなものがある。

60年代マリブのパーティーシーンではChristopher IsherwoodやPaul Morrisseyがカメオで出演していたことを後で知る。 もう一度見たい。


Frenzy (1972)

4月27日、日曜日の夕方、↑と同じ特集で見ました。
Alfred Hitchcockの終わりから2番目の作品、だけどHitchcockなもんで、おもしろくて怖くて釘づけだから。

ロンドンで、ネクタイで首を絞めて女性を殺して棄てる連続殺人事件が起こって、職を失ったばかりのRichard (Jon Finch) が犯人に仕立てあげられてどうする? の恐怖と、犯人Bob (Barry Foster) が女性に近寄って殺すシーンのどちらも(特に後者が)怖くて、これに関してはThe Old Man Is Still Alive”どころではないわ、になった。

あと、犯人が暮らしているCovent Gardenの青果市場界隈、ここには1974年まで実際に市場があって、その様子は昔のドキュメンタリーフィルムとか写真集でよく見るのであーこれがー、ってなった。

5.07.2025

[film] Sister Midnight (2024)

4月28日、月曜日の晩、JW3っていう少し北のFinchley Rdにあるカルチャーセンターみたいな施設の映画館で見ました。久々の観客自分ひとりだけ、だった。

6週間英国にいなかった間に新作としてリリースされた作品で、見たいと思っていたやつは戻ってきた時はほぼ終わって配信に移ったりしていて、それなら配信で見ればいいじゃん、なのだが配信て面倒じゃん? なのでこんなふうに地方で上映してくれていたら見にいく。

インド系英国人のKaran Kandhariが作・監督した彼の長編デビュー作で、2024年のカンヌでプレミアされ、BAFTAの最優秀新人英国映画にノミネートされた(でも”Kneecap”に敗れた)、英国 - スェーデン - インド映画。BFIも制作に関わっていて予告がおもしろそうだったの。でも予告から受けたどたばたコメディとは結構違う印象だった。

冒頭、Uma (Radhika Apte)はひとり列車に乗ってインドの田舎を旅してムンバイの町まで来て、そこの長屋の一軒にいた男と式をあげて一緒に暮らし始めるのだが、おそらく親が決めた見合い結婚の相手と思われる夫Gopal (Ashok Pathak)はほぼ喋らず顔も合わせず、TVを見て酒ばかり飲んで朝になると仕事に出て行き、夜は布団の隅で固まってUmaには触ろうともしない - たまにUmaが腕の装身具をじゃらじゃらさせて威嚇しても無反応で - といった辺りがなんのナレーションも会話もなく、アクションのスケッチのみで綴られていく。

隣のおばさんに料理を教えて貰ったりしてもおもしろくないし、Umaは歩いて4時間かかる先にあるビル清掃会社で夜間の清掃のバイトを始めて、そのビルでエレベーターを操作している老人と仲よくなって一緒に帰ったりもするのだが、それで深夜や朝にに帰宅してもGopalは何も言ってこない。

やがて深夜の帰宅中に、道端にいた山羊に寄っていって噛み殺してしまったり、そこらの鳥を捕まえて齧ったりしてている自分に気づき、ああ何をしているんだ? って慄いたりしていると、そのうち彼らはぎこちないストップモーションのアニメ(なかなかかわいい)となって蘇り、彼女の方に寄ってきて遊んでくれたりする。

新婚家庭での虐待(ネグレクト)によってゆっくりとおかしくなっていくUmaの姿を描く、というよかもう少し広い視野に立ち、ご近所界隈を含めた世界全体に向かってこれってどうなってんだふざけんな! って吠える彼女の姿を描いていて、それが女々しく痛々しいトーンではなく、鼻に絆創膏の傷だらけジャンキーのいでたちなので痛快だったりおかしかったり、その仁王立ちする像はIggy Popの”The Idiot” (1977) の収録曲 - “Sister Midnight”に見事に重なってくる。

最後には夫Gopalへの復讐へ、というシンプルなホラーの方には向かわず、我こそは夜の女王なりー、みたいに闇の中に厳かに立ちあがって、それが何? って平然としていて、結果なんかかっこよく見える。印象としてはWes Andersonのすっとぼけたトーンにガレージの錆びた臭いをまぶしたような。

音楽はInterpolのPaul Banksで、挿入曲には、The Bandの”The Weight”とか、Buddy Hollyとか、Motörhead とか、T.Rexの”Mambo Sun”とか、The Stoogesの”Gimme Danger”とか、いろんなブルーズが、インドの田舎の荒んだ景色にうまくはまっていて、よいの。
 

[theatre] Dear England

4月26日、土曜日の晩、マチネの”Punch”の後で、National Theatreで見ました。

これも原作は”Punch”と同じJames Grahamなのでこの日はJames Grahamの日。書かれたのは”Punch”よりも前、初演も2023年のNational Theatreなのだが、今回の再演版は一部リライトされているという。

演劇を見る時は(映画も割と)どんな話なのか頭に入れないで見ることが多くて、この”Dear England”も”Punch”もそうで、見る前のイメージとしては、イキった愛国者寄りのスキンヘッドの青年が暴走して何かをしでかしてお国のせいにする(したい)ようなやつだと思い込んでいて、ちょっと苦手な方面なのでどうしたものか → 続けて見ちゃえばよいか、になった。結果、偏見はよくない、になることが多い。

始まってからメンズ・サッカーのお話だと言うことを知り、やばいな(興味ない)、になり、更に実在するプレイヤーたちの、彼らが活躍したイングランド・サッカーチームの話であることがわかり - どうしてわかったかというと、Harry Kaneの名前くらいは知っていたから。 英国の場合、サッカーの話題はお天気と同じくらい日常の話題になるネタで、仕事の挨拶でも昨晩のゲームはーとか、どこそこのサポーターでーとかふつうだし、駐在していてサッカー場にいったことがないのはどうしたものか(と思いつつもうどうでもよくなっている)。

演出はRupert Goold、2023年の初演版はLaurence Olivier Awardsを獲って、West Endでもロングランした後、National Theatreに戻ってきて、この後も英国各地をツアーしていくらしい。

舞台は楕円形で、そのカーブに沿うように白色の太く強めのライトが低め斜めの位置にぐるりと照らしていて、スタジアムのピッチが目の前に迫ってくるかんじが表現されている。

最初にイングランド・チームの選手が大勝負どころでのPKを決められずにチームも観客もがっくりする場面から入って、それを見た協会首脳陣はなんでうち(イングランド・チーム)はいつもこうなるのか根っこのところから変えないとダメなんじゃないか(←まずあんたらからな、って言いたくなるダメなじじい共)ということでコーチのGareth Southgateが着任し、メンタルを鍛えるコーチとして女性のPippa Grangeを招き入れ、選手も当時のチームひとりひとりを紹介してから、ワールドカップやユーロといった大一番のゲームで実際の(よい)変化として起こったことが再現されていく。今回の上演版も昨年のユーロの結果を反映したものなのだそう - どこが該当するのかちっともわからんが。

観客は楽しみながら大ウケしているのだが、本当に一部の人たちしか知らない - Harry Kane以外で知っていたのはBBCでサッカー解説をしているGary Linekerとか、政治家のTheresa May (痛々しい)とかBoris Johnson (ほぼ化け物扱い)とかくらい - そんな自分にもおもしろく見れるのは、国技と呼ばれるようなスポーツが、どうして国をあげての熱狂をもたらすのか、その成り立ちとか構造が滑稽なところも含めてわかりやすく示されているからだと思った。 作者も含めて”Dear England…”と呼びかけたくなる愛すべき何かがここにはあるような。

では、これと同じようなドラマ - 例えば「拝啓日本」のようなものを作れるだろうか? というのは考えてみるとおもしろいかも、と思った。 日本の場合、自分も含めて組み入れられている組織なり空気なりに対してよくないことを言ったり茶化したりするのは失礼だ、みたいな抑圧が働きがちなので、あまりウケないのではないか →いまの政治に対する態度などを見ても。 たかがゲームなのにね。

そういうのは抜きにして、ゲームみたいに楽しめる作品だった。改めて、偏見もって遠ざけていて悪かったねえ、って。

5.04.2025

[theatre] Punch

4月26日、土曜日のマチネをYoung Vicで見ました。
この劇はこの日が最終日でチケットがなかなか取れなかったのだが、直前にどうにか取れた。

実際に起こった事件 - 当時28歳だった救命士見習いのJames Hodgkinsonを殴って殺してしまったJacob Dunneの手記を元に劇作家のJames Grahamが原作を書いて、演出はAdam Penford。JacobとJamesの育ったNottinghamのNottingham Playhouseで初演された舞台がそのまま来たもので、劇場にはJames Hodgkinsonに捧げます、という張り紙が。

19歳のJacob (David Shields)は下町のストリート・コーナー・ソサエティで片親(母親)の元で荒っぽく育って週末はなんかの試合にでも向かうような意気で仲間たちと盛り場に向かう - これはどこでもふつうにありそうなヤング不良の日々で、その日も特に違ったものになるはず… だったのだが。

Jamesの母(Julie Hesmondhalgh)と父(Tony Hirst)は深夜に突然病院から電話を受けて、それは彼が昏睡状態でもう助からないであろう、という連絡で、病院に向かうもののJamesはやはり助からなかった。死因はバーで殴られて昏倒してそのまま、でなぜ?の「?」がずっと周り続ける。

Jacobの方は監視カメラの映像から簡単に彼の「犯行」であることがわかって逮捕されるのだが、彼の方でも大量の?が湧いて止まらない。なんでたった一発のパンチで、自分に殺意なんてあるわけない、そんなつもりはなかった - こんなことになるなんて、等々。

まったく立場も事情も異なる両者の「?」と戸惑いの間にたまたまそこにいただけだったJamesの死は置かれていて、Jamesの両親は怒りと悲しみの、Jacobの方は悲嘆と絶望の縁を彷徨って果ても終わりもなくて、どちらも紹介されたケアのプログラムを通して事件と自分たちを見つめ直し、やがて直接会って話してみてはどうか、という申し出を受ける。

実際にそこに至るまでにものすごく長い時間と逡巡と対話の行き来があったのだと思うが、劇は両者の場面を容赦なく切り替え対比させ重ねていくのと、事件の背景にありそうな、なぜ若者の間で幼少期から暴力が簡単に肯定されてしまうのか? とかJamesはなんでそんな夜遅くまで働かなければならなかったのか? といった社会的な背景や事情にも目を向けて、単なる加害者 vs. 被害者の図に落としてしまおうとはしない。こういうことは昔から起こっていたのかも知れないが、片隅の「問題」ではなく、今ここの、ひとりひとりの社会、コミュニティに根差したなにかに関わるべきことなのではないか、と。

そういう土壌や文化のようなところまで掘りさげてみた上で後半はJamesの両親とJacobが対面する。最初はケアラーが間に入って、互いに会話するどころか目を合わせることすらできず、相手が何を求めているのかもわからない手探りの状態から、彼らはどうやって…

元はJacobの手記なので、多少は彼の目線に寄っているのかも知れないが、この部分のやりとりはちょっと感動的で、周りの客席の人たちはみんなぼろぼろ泣いていた。憎しみからは何も生まれない、とかいう決まり文句から離れたところにぽつん、と置かれたひょっとしたら救い…? と呼びたくなってしまう何かが。

Jacobを演じたDavid Shieldsの一気に走り抜ける集中力、Jamesのママを演じたJulie Hesmondhalghの静かな力のすばらしさも。

NTLのような形で日本でも見られるようにできないかしらー。

5.02.2025

[film] The Only Game in Town (1970)

4月25日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。

監督はGeorge Stevens – これが彼の最後の作品、原作はFrank D. Gilroyの同名戯曲(1968)で、撮影はHenri Decaë、音楽はMaurice Jarre。 邦題は『この愛にすべてを』。

ヴェガスでコーラスガールをして独りで暮らすFran (Elizabeth Taylor)がいて、ナイトクラブのラウンジでピアノの弾き語りをしているJoe (Warren Beatty) - ピアノは彼が実際に弾いているそう - と深夜に出会って、そのままJoeはFranのアパートにやってきて一夜を共にして朝を迎える。どちらもひと晩限りの関係だと思っているので、寝起きも朝食も素のままで、言いたいことを言ってやりたいように過ごして、そういう状態なので、なんでもおおっぴらで気にしなくて、こうしてお別れで絶たれることはなくJoeはまた寄ってくるし、Franは待つようになるし。

FranにはSan Franciscoに金持ちのTom (Charles Braswell)という男がいて、でも彼は既婚者で離婚するのをずっと待っているけど連絡も途絶えているとか、Joeはヴェガスは好きではないのでNYでピアノ弾きとして独り立ちするために5000ドルを貯める必要がある、のだが博打狂いなので貯まる端からすいすい使ってしまってずっとすっからかんのままだったり。

互いの欠点や気に食わないところを言い合ったらきりがないし、そういうことをする関係ではない/にはしないことはいい大人としてわかっているので、喧嘩らしい喧嘩にはならないし、Joeは金に困ったら野良犬のようにしょぼくれてFranのところにやってきて、彼女はしょうがない、というかんじで入れてあげて、でも彼がしばらく来ないと心配になってバーまで見に行ったり、が繰り返される。

もうそろそろこの状態を終わりにして普通にカップルとして暮らしてもよいのでは、ってなって二人で買い物に出かけて戻ってくるとTomが部屋にいて、離婚が成立したので迎えにきた一緒に来てくれ、というし、それを見て出て行ったJoeは博打でどうしようもない大負けをして…

ふつうのrom-comにあるカップルとしての幸せの探求というゴールも選択肢は最初からない状態で、むしろその罠を回避するかのようにFranのアパート、ナイトクラブ、賭場、夜中と夜明けをぐるぐると巡っていって、ようやく“The Only Game in Town”というのが結婚のことなのか、って見えてくるのだが、それで勝とうが負けようがもういいや、みたいな境地を感じさせてしまうふたりの演技 - 作りこみの果ての素、みたいな - はすごいな、って思った。

最初Joeの役はFrank Sinatraが演じる予定だったそうだが、Elizabeth Taylorの脆くて神経質なところと投げやりなところが表面に同居しているかんじと、普段は軽い、って自分で思っているのに博打に打ちこんで狂って止まらなくなっていくWarren Beattyの焦燥と憔悴のかんじ、このふたりが手をとって確かな明日を掴むなんてまったくあると思えないのに、首を傾げつつ離れてまたくっついてを繰り返す絵がものすごくよくて、なんかわかってしまう。

今の俳優でこの艶と情感をきちんと出せるのって誰かいたかしら? ってあれこれ考えたり。

最初の撮影はパリだったそうだが、Henri Decaëの人工の光を散らして明滅する画面作りの眩さ美しさと、その反対側のFranのアパートの散らかっていないのにアメリカぽく殺風景なかんじが絶妙にはまって、つまりこれがヴェガスなのよ、って。音楽も含めてこのかんじはどこかで ー、って思ったらSoderberghの”Ocean's Eleven”(2001)あたりかも。あの画面の濡れたかんじとか、男たちのすかした(でも全体として間抜けな)かんじは、全部この映画からではないか、とか。

巨匠の最後の作品にはちっとも思えないのだった。

5.01.2025

[film] Sinners (2025)

4月27日、日曜日の午後、BFI IMAXで見ました。

この作品を70mm IMAXでヨーロッパで上映しているのはここだけらしいのだが、Mark Cousinsさんも言っていたようにこの映画での70mm IMAXの迫力はとんでもなかった。 画面アスペクト比がころころ変わったりするのだが、横いっぱいに広がった時の目の前に広がる景色のぞくぞくくる気持ちよさときたら。

Black Panther (2018)のRyan Cooglerによる時代劇で、予告を見た時はどういうものなのかちっともわからなかったが、吸血鬼、というよりはゾンビホラーであり、でも中心にくるのは音楽 – Bluesなのだった。BFI IMAXでは、上映前にポスターなどがプロジェクションされるのだが、主要登場人物の名前のところには”We Are All “Sinners””とあって、そういう”Sinners”である、と。

1932年のミシシッピで、Sammie (Miles Caton)が傷だらけの血まみれになって父である教会の牧師(Saul Williams)のところに倒れこんできて、そこまでに何があったのかが、綴られていく。

その前の日、双子のSmoke (Michael B Jordan)とStack (Michael B Jordan)のふたりが車で教会の前にやってきて、クラブでひと晩のライブイベント - Juke jointをやるから、とSammieを誘い、牧師はBluesはいかんぞ… って警告するのだが、彼は無視して車に飛び乗って、畑を抜けていく道中で、ピアニストとか、歌手とか、料理人とか、食料品店の中国人夫婦とか知り合いを中心にリクルートしていくのだが、そこではSmokeの別居中の妻Annie (Wunmi Mosaku)とか亡くなった子供のこと、Stackの元カノのMary (Hailee Steinfeld)などが浮かびあがったり現れたり、みんなそれぞれいろんなものを背負っていることがわかる。

さらにその途中で、アイリッシュの吸血鬼、としか思えない目をしたRemmick (Jack O’Connell)が出てきて、傍にいた夫婦を吸血鬼にしてしまったり、その背後にはKKKがいるのが見えたり。

彼らを吸血鬼だよ、って察したAnnieは吸血鬼対策としてガーリックとかいろいろ準備して、Juke jointが始まってSammieがギターを弾きだすと過去から未来までの音楽とダンス – Bootyみたいなラメラメのギター弾きとかヒップホップから京劇まで - が天地を貫いて炸裂してどんちゃん騒ぎになるのだが、その騒ぎに引き寄せられるようにアイルランド民謡を踏み鳴らして盛りあがる吸血鬼の群れが家を囲んでいて、封をしても見張りを立ててもどうしても入りこんできて、ひとりまたひとりと..

パーティで騒いでいる一軒家に夜、邪悪なものが寄っていって囲い込んで、というのはホラーでお決まりの設定と展開で、今回はそこにMichael B Jordanがふたりもいるので、マッチョな肉弾戦になるのかというと、終わりの方でアクションはそれっぽくなるもののそっちの方には余り行かない。アジア系、ブラック、ホワイト、passingの人、いろいろな人たちの坩堝を圧し潰してひとつの属性 - 吸血鬼だかゾンビといった伝染化け物に変えてしまう魔力が取り憑いた時、そこにおいて音楽は、ギターはどんなパワーを持ちうるのか、と大真面目に問う。やはりRobert Johnsonを持ち出してくるしかないのか。

B級といえばパリパリのB級で、Quentin TarantinoやRobert Rodriguezの路線をやりたかったのかも知れないがやや盛り込み過ぎだし、この人が自作で追ってきた「継承」のようなテーマもないし。でも代わりにあるのは怒り - いまのアメリカが「多様性」に対して仕掛けようとしているのってこれら(アイルランド系)ゾンビの振る舞いと大して変わらない、B級〜とか言っているうちにしゃれではなくなって、噛まれてからではもう遅い、そういうあれこれに対する、或いは自分自身に対する怒りも。30年代が舞台の話とは思えない。 となったところであんなエンドロールが。

批評家ウケはあんまよくないみたいだが、いま見るべき映画だと思った。ところどころすごく好き。