2月16日、日曜日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。
原題は” Dāne-ye anjīr-e ma'ābed”、邦題は『聖なるイチジクの種』で、日本でも既に公開されている。
Mohammad Rasoulofが脚本・共同製作・監督を務め、昨年のカンヌではSpecial Jury Prize - 審査員特別賞を受賞し、今週末のオスカーではBest International Feature Film部門にドイツからエントリーされている。
映画を見ても大凡の感触に触れることができるであろう弾圧と言ってよいくらいの検閲、脅迫、拘束、逮捕、鞭打ち、等を乗り越えて、どうやって映画を作って外に持ちだすことに成功したのか - そんなことよりも監督と関係者がこれからも無事でいられることを祈るしかない。
という背景・事情を踏まえて見なくても十分おもしろいのだが、踏まえて見ると、よくこんな国のありように正面から噛みつくようなものを作れたな、と感嘆する。この映画を貫いている緊張感と怒りは、そのまま監督のそれと繋がっていることがわかるし、そういう情動でもって紡がれた表現がここまでの強さを持つ、ということにも。
Iman (Missagh Zareh)は弁護士としてまじめにがんばってきて、冒頭に革命裁判所の裁判官になる手前の調査官(検事)に昇進して、妻Najmeh (Soheila Golestani)も2人の娘Rezvan (Mahsa Rostami)、Sana (Setareh Maleki)も喜んでお祝いするのだが、職場=政府からはいきなり銃を支給され、家族には仕事の内容は絶対に極秘、詳細を見ずに死刑執行令にサインすることを求められ、従わないとどうなるか(前任者は解雇された)...と同僚から言われ、誇らしげな家族の裏側でそれらの重圧がゆっくりと彼を圧していく。
学生を中心に反ヒジャブの抗議活動が広がり、Imanの仕事(死刑執行状へのサイン)も増えて重くなっていくなか、娘たちはスマホに流れてくる動画とライブで友人らを含む学生たちが弾圧され酷い目にあっているのを目にして、お茶の間でImanと口論になったりするが、当然平行線で、そんな中、Rezvanの親友がデモで顔を撃たれて家に運び込まれてきて、応急手当はするものの、病院にも連れていけないしImanにも勿論言えない。
そんな火事の手前でImanの銃が突然、家のどこかに消えてしまい、家族全員に聞いても銃があることすら知らなかった、とか言われ、職場では大変なことだ、へたに騒ぐなと言われ、紹介してもらった専門家によって家族全員の個別尋問をしてもわからず、誰も信じられなくなった彼は家族を連れて生まれ故郷近くの山の方に向かって…
最初の方はごく普通にありそうなホームドラマで、居間でTVのデモの様子を見たりして大変ねえ、とか言っていたのが、そのデモの波をひっかぶったかのように父親がひとり戦争状態になって、地の果てのようなところに走りだし、ラストはまるで”The Shining” (1980)になってしまう。小説家Jack (Jack Nicholson)の孤独な/との戦い以上に、ここでのImanの孤絶感やプレッシャーは生々しく、国と家族の両方がのしかかってくるので、少しだけかわいそうになったりもするのだが、ぜんぶ国のせいにしてやめちゃえば… なんて軽々しく言えるものでもなく、だからこういうのを地獄とよぶ、というのは伝わってくる。
監督自身も対峙したであろう調査官Imanへの目線以上に、より細やかな目と共に綴られているのがNajmehとRezvan、Sanaの3人の女性たちの日常で、夫/父の仕事の内容は勿論、社会へのアクセスがTVやスマホ、その先は学校くらいと限定されていながらも、普段彼女たちが何を見て、どんなふうに日々を過ごしているのかを描いた女性映画として見ることもできる。
このふたつの目線があまりうまく嚙みあっていないので、後半の展開はややがさつでがたがたするものの、最後の方の(いつの間にそっちに行ったのか)食うか食われるかの緊張感と、あまりにすっこ抜けた終わり方はなんかよいと思った。
そしてラストはあんな父親なんか(ほっとけ)、と街頭でのデモや抗議の様子を延々と映して終わる。国からの圧を反省もせずありがたく受けとめ、その矛先を身近な家族や弱者や外国人に向ける、というのはどこかの国でもよく見る景色だが、それをここまでの映像にして曝したのは偉いな、って。
2.28.2025
[film] The Seed of the Sacred Fig (2024)
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