2月10日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
なんの特集とも紐づいていない、”Big screen classics”っていう、名作を大画面で見よう、の枠で。 英語題は”An Autumn Afternoon”。
小津の作品は、超クラシックの『東京物語』とかよりもこれとか、『晩春』 (1949)とか、『秋日和』 (1960)とかの方が、こちらでは好まれている気がする。感覚だけど。
あと、どうでもいいけど、”An Autumn Afternoon”なので、『秋日和』と混同しがちかも。英語でいきなり「秋刀魚」とか言われてもわかんないのだろうが。
大企業の重役の笠智衆は妻に先立たれた後、長女の路子(岩下志麻)と次男と一軒家に3人で暮らしていて、長男の佐田啓二は岡田茉莉子と結婚して別のところいる。中村伸郎と北竜二の同窓生たちからは、若い奥さんを貰ったりして自立しないと路子ちゃんがいつまでも結婚できなくてかわいそうだ、と言われ、クラス会に呼んだ恩師の東野英治郎と娘の杉村春子を見てそれはそうかも、って思って路子に縁談をもちかけてみるのだが、彼女はあまり考えていなかったようでー。
いつもの、毎度の – この時代の日本映画なんてぜんぶそういうものなのかもだけど - セクハラ、パワハラがしぶとく全開すぎて感嘆する。
女性はある年齢になったら結婚しないと、どこかに「貰われ」ないと、貰い手がなくなって、寂しく孤独な老後を送ることになって、老いた男性も同じで身の回りの世話をしてくれる若い女性でも見つけないとみじめな老後を送ることになって、などなど(あくまで一例)。 主人公たちは、この流れというか周囲からの善意かつ気持ちよくないお節介を「ちがう」、ってなんとなく思いつつも、そうかそういうものか、って受けいれて、でも最後はHappily Ever Afterとは遠いところに立ってしょんぼりして終わる。
だってこの時代の日本社会ぜんぶがそうだったんだからしょうがないじゃん、はそうなのかもしれない。でも例えば、戦争映画の悲惨さは戦争という事態が招いた悲惨なのでその描写も含めた過去として受けいれることができるものの、この映画が描いている家庭や会社や飲み会でのいろんな言動は、あの時代のものである、とわかっていても見事に今のそれと繋がって微動だにしない、誰もそれをおかしいと思っていないかんじがある。映画に罪はないにしても、小津はすばらしい、って手放しで賞賛できないのは、映画を見てこの頃からずっとこうだったのか、なんで変われないのか… って絶句してどんよりしてしまうからなのだろう。
もちろん溝口にも成瀬にもあるけど、小津の場合は、家のなかの端正な格子模様や奥や横手に抜けるパスとか、すたすた歩いていく廊下とか、路地のデザインとか、テンポが軽快なので構成とか様式のようなところで、すごーいおもしろー、ってなりつつも、語ったりやり取りされている言葉はほんとうにどす黒くてひどいThe 家父長制で、コンプラ委員(not映倫)がチェックしていったらノート3冊くらいあっという間に埋まってしまうに違いない。これはこういう文脈で19xx年頃まで使うことを許されていた言葉の用法なのです、とか、上映前に不適切かつ差別的な言動がありますが… 等の注記やレーティングがほしい(だってほぼ暴力みたいなもんだよ)のだが、残念なことにぜんぶ投げられたり言われたりした心当たりがありすぎて、またか… って悲しくなる。だれに怒りをぶつけてよいのかわかんないし、好きにすれば、だけど、少子化なんて、酒のんでこういうのを垂れ流してなんの反省もない、ちやほやされ続けて自分が一番、って腐敗腐乱した老人たちをどうにかしないとぜったい解消しないよ。 こんな国潰れちゃえ、って思っているけど。
というような角度から小津(というか野田高梧の?)作品における家父長制と、それが高度成長期の一般家庭の意識形成にどう馴染み、影響を与えたのか、を分析した論文とかがあったら読みたい。
2.17.2025
[film] 秋刀魚の味 (1962)
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