2.28.2025

[film] Les Années 80 (1983)

2月は引越しだのなんだのいろいろあって、ぜんぜん動けなくて呻いて嘆いてばかりだったのだが、映画に関していえば、Chantal Akermanの月、正しくはBFI Southbankの特集 – “Chantal Akerman: Adventures in Perception”の月で、これが底抜けにすごくて、時間があればぜんぶ通いたいくらいだった。

特集は3月まで続くので、まだ少し見るかも知れないが、ここまでで短編中編長編ぜんぶで30本見ていた(既見のもあるが、半分以上は未見)。BFIでかかる本特集の予告には”Complete Retrospective”とあったので、おそらく全作品を網羅しているのだろう。それならもっと気合いれて見ればよかった… (に、いっつもなる。何万回繰り返せば気が済むのか)

メモ程度になってしまうのだが、いくつか。全体として、80年代のChantalは最強ではないか、と。

Les Années 80 (1983)


ミュージカル映画”Golden Eighties” (1986)公開の3年前に、おそらくその資金集めを目的として、40時間に及ぶリハーサル映像を編集したメイキング(というか、それ以上)で、NFFの深夜枠で1回とPublic Theatreで細々と上映されただけだったので資金は集まらなかったのかもしれないが、ここで描かれた”The Eighties” – 80年代にこそ、ちっとも「ゴールデン」ではないけど、あのミュージカルに込めようとしたものがぜんぶ詰まっているように思えた。

主人公の彼や彼女が伝えようとする愛の言葉やメロディは、ミュージカルの文脈から切り離されて、ものすごく浮いて変な – でも焦りとか切実さだけがくっきりと浮かびあがってくるし、それをあの歌やダンスのパッションにあげていくものは一体なんなのか、と。えんえん耳に残って回り続けるあの主題歌をAurore Clémentが歌い続ける傍らで、壊れたみたいに指揮(というのか特殊な踊りのような)をぶん回し続けるChatalと。これを見ると”Golden Eighties”を再び見たくなる。

これとの併映で、コロナの頃、Chantalの誕生日に配信された短編 - “Family Business” (1984)も。 やはり”Golden Eighties”の資金繰りでアメリカに赴いたChatal一行の珍道中というか、なにやってんだろ、の記録。これらも併せると、ほんとあれ、なにが”Golden”やねん、になるに違いない。


L’Homme à la valise (1983)

英語題は”Man with the Suitcase”。TV用に制作されたドラマで、荒れ放題のChantalの部屋に、Henri (Jefferey Kime)という男が居候に来て、部屋は別だけどキッチンとかは共有で、一緒に暮らすのにあれこれ気を使いすぎて(しかもそれらは全て空回りして)頭がおかしくなりそうだったので、出て行って貰おうとするのだがうまく言いだせず、そのうち彼はいなくなって、というそれだけの話。

俳優としてのChantalはデビュー作の頃からずっといるのであまり驚かないのだが、ここでの殆ど喋らずにアクションだけでぜんぶわからせてしまう彼女の演技のすばらしさとおもしろさに改めて驚く。”Golden Eighties”の主題歌も歌ってくれる。

併映は大好きな傑作短編 - ”La Chambre” (1972) – “The Room” - 部屋でごろごろしているだけのChantalをゆっくり回転するカメラがとらえて、それが最後に不意に逆回転をはじめる、ただそれだけなのだが、これが宇宙だ、っていつも思う。 もう1本は、”Le Déménagement” (1992) – “Moving In”。新しい部屋に越してきたSami Freyがなにやらぶつぶつ言っているだけなのだが、この3本で、Chantalの世界観を構成する大きな要素である「部屋」が、そこで横になる、というのがどういうことか、が見えてくるような。

Demain on déménage (2004)  

英語題は、“Tomorrow We Move”。 自分が引越しの最中だったのでなんとも言えない気持ちで見る。
Aurore ClémentとSylvie Testudの母娘が、グランドピアノを吊り下げたりしつつ新居に引っ越してくるのだが、いろいろ問題が出たのでやっぱりここを出ようかと、次の住人を探すべく、オープンハウスにしたらいろんな夫婦や家族が次々にやってきて勝手なことをしたり言ったり居ついたり、騒がしくなっていくコメディ。家に染みついた記憶や匂い、住んでいた人、住んでいる人の顔や影が次々に去来して、出ていきたいような、行きたくないような、になっていくの。ものすごく楽しくて、なにより馴染んだ。

そして併映が、Portrait d’une paresseuse aka La ParesseSloth (1986) – “Portrait of a Lazy Woman” – これも動きたくないよう、って言って動かないだけのフィルムで、もうほんとうにすばらしいったらない。


Un jour Pina a demandé… (1983)
– “One day Pina asked…”

Pina Bauschを追ったドキュメンタリーで、前にも見たことはあったのだが、改めて。あの頃のTanztheaterのメンバー、なつかしー。 上映後のトークでチェロ奏者のSonia Wieder-Athertonさん(彼女の演奏を撮ったChantalのドキュメンタリー作品がある)が、ChatalはPinaに惚れこんでいて、彼女はPinaのダンスの登場人物のように騒がしい(そこにいるだけで勝手に騒がしくなってしまう)人だった、と言ってて、なるほどー、って。


Letters Home (1986)

Sylvia Plathの分厚い書簡集”Letters Home” (1975)から、母Aurelia (Delphine Seyrig)と娘Sylvia (Coralie Seyrig –Delphineの姪)の手紙のやりとりをRose Leiman Goldembergが舞台化したものをTV用に撮ったもの。離れた国に暮らす母とのやり取り、というと”News from Home”(1976)をはじめ、ママの娘としてのChantalはいろいろなところに顔を出す。そしてSylvia Plathがオーブンに頭を突っこんで自殺した5年後、自分のデビュー作”Saute ma ville” (1968)で部屋ごと自分をぶっ飛ばしてしまうChantal…

Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles(1975)

本特集を機に、4Kリストア版が全英で大々的にリバイバルされている”Jeanne Dielman…”も久々に(10年以上ぶりくらいか)見る。

3時間22分の作品なので、だいじょうぶか(寝たりしませんように)だったのだが変わらずすごいスケールの作品だと思ったわ。とにかく彼女はずっと動いていて、落ち着きなく騒がしく、屋内の静けさのなかで沈着していく狂気、みたいのとはぜんぜん違う、やかましさのなかで最初からなんかおかしいぞ、って。そしてそのやかましさが止まったとき…

まだあと少し見ると思うが、これからも時間があったらずっと追っていきたい。
あと、今度ブリュッセル行ったらぜったい“23, quai du Commerce”に行くんだ。

[film] The Seed of the Sacred Fig (2024)

2月16日、日曜日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。
原題は” Dāne-ye anjīr-e ma'ābed”、邦題は『聖なるイチジクの種』で、日本でも既に公開されている。

Mohammad Rasoulofが脚本・共同製作・監督を務め、昨年のカンヌではSpecial Jury Prize - 審査員特別賞を受賞し、今週末のオスカーではBest International Feature Film部門にドイツからエントリーされている。

映画を見ても大凡の感触に触れることができるであろう弾圧と言ってよいくらいの検閲、脅迫、拘束、逮捕、鞭打ち、等を乗り越えて、どうやって映画を作って外に持ちだすことに成功したのか - そんなことよりも監督と関係者がこれからも無事でいられることを祈るしかない。

という背景・事情を踏まえて見なくても十分おもしろいのだが、踏まえて見ると、よくこんな国のありように正面から噛みつくようなものを作れたな、と感嘆する。この映画を貫いている緊張感と怒りは、そのまま監督のそれと繋がっていることがわかるし、そういう情動でもって紡がれた表現がここまでの強さを持つ、ということにも。

Iman (Missagh Zareh)は弁護士としてまじめにがんばってきて、冒頭に革命裁判所の裁判官になる手前の調査官(検事)に昇進して、妻Najmeh (Soheila Golestani)も2人の娘Rezvan (Mahsa Rostami)、Sana (Setareh Maleki)も喜んでお祝いするのだが、職場=政府からはいきなり銃を支給され、家族には仕事の内容は絶対に極秘、詳細を見ずに死刑執行令にサインすることを求められ、従わないとどうなるか(前任者は解雇された)...と同僚から言われ、誇らしげな家族の裏側でそれらの重圧がゆっくりと彼を圧していく。

学生を中心に反ヒジャブの抗議活動が広がり、Imanの仕事(死刑執行状へのサイン)も増えて重くなっていくなか、娘たちはスマホに流れてくる動画とライブで友人らを含む学生たちが弾圧され酷い目にあっているのを目にして、お茶の間でImanと口論になったりするが、当然平行線で、そんな中、Rezvanの親友がデモで顔を撃たれて家に運び込まれてきて、応急手当はするものの、病院にも連れていけないしImanにも勿論言えない。

そんな火事の手前でImanの銃が突然、家のどこかに消えてしまい、家族全員に聞いても銃があることすら知らなかった、とか言われ、職場では大変なことだ、へたに騒ぐなと言われ、紹介してもらった専門家によって家族全員の個別尋問をしてもわからず、誰も信じられなくなった彼は家族を連れて生まれ故郷近くの山の方に向かって…

最初の方はごく普通にありそうなホームドラマで、居間でTVのデモの様子を見たりして大変ねえ、とか言っていたのが、そのデモの波をひっかぶったかのように父親がひとり戦争状態になって、地の果てのようなところに走りだし、ラストはまるで”The Shining” (1980)になってしまう。小説家Jack (Jack Nicholson)の孤独な/との戦い以上に、ここでのImanの孤絶感やプレッシャーは生々しく、国と家族の両方がのしかかってくるので、少しだけかわいそうになったりもするのだが、ぜんぶ国のせいにしてやめちゃえば… なんて軽々しく言えるものでもなく、だからこういうのを地獄とよぶ、というのは伝わってくる。

監督自身も対峙したであろう調査官Imanへの目線以上に、より細やかな目と共に綴られているのがNajmehとRezvan、Sanaの3人の女性たちの日常で、夫/父の仕事の内容は勿論、社会へのアクセスがTVやスマホ、その先は学校くらいと限定されていながらも、普段彼女たちが何を見て、どんなふうに日々を過ごしているのかを描いた女性映画として見ることもできる。

このふたつの目線があまりうまく嚙みあっていないので、後半の展開はややがさつでがたがたするものの、最後の方の(いつの間にそっちに行ったのか)食うか食われるかの緊張感と、あまりにすっこ抜けた終わり方はなんかよいと思った。

そしてラストはあんな父親なんか(ほっとけ)、と街頭でのデモや抗議の様子を延々と映して終わる。国からの圧を反省もせずありがたく受けとめ、その矛先を身近な家族や弱者や外国人に向ける、というのはどこかの国でもよく見る景色だが、それをここまでの映像にして曝したのは偉いな、って。
 

2.26.2025

[theatre] Cymbeline

2月15日、土曜日の晩、Shakespeare’s GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。ひどい雨の日だった。

原作はシェイクスピアの戯曲(1609-1610頃)、最初のうちは「悲劇」に分類されていたようだが、どう見てもそうには見えなかったかも。演出はJennifer Tang。

舞台はローマ帝国時代の古いブリテン王国の頃の話で、国王Cymbelineは女王(Martina Laird)で、原作とは異なる女王を中心とした女系社会、という設定で、中心のカップル - 女王の娘のInnogen (Gabrielle Brooks)と幼馴染で恋仲のPosthumus (Nadi Kemp-Sayfi)も、どちらも女性、となっている。更に - 見た目だけではあるが - 人種構成も多様でマルチカルチュラルな世界っぽく、敵味方などの識別はほぼ着ている衣装で見るしかない。大昔の話だからか、舞台には骨らしきものが飾ってあったり、音楽もガラスや打楽器の響きと生声、ハミングを中心としたシンプルかつプリミティブなもので、昇ったり降りたりが頻繁な火のついた生の蝋燭(ここのいつもの)もよいかんじ。

そろそろ結婚しようか、になっていたInnogenとPosthumusだったのに、頑固でいじわるな女王は夫Duke (Silas Carson)の連れ子でボンクラなCloten (Jordan Mifsúd)とInnogenを結婚させようとPosthumusを追放し、更にふたりを永遠に引き離そうとそれぞれに嘘を吹きこんだり、策謀とか悪党のIachimo (Perro Niel-Mee)とか、危ない影が寄っていってどうなるー? なのだが、互いの愛を信じるふたりはどうにか(というか襲う側が結構間抜けだったりして)切り抜けて、でも離れ離れにはなって、という顛末が描かれる一幕目は、薄暗いなか、目まぐるしく場面も人物も替わってごちゃごちゃ落ち着かなくていろいろ大変だなあ、というかんじ。この役は女性が演じているけど配役上は男性のはずだから… などと考える暇もないくらいばたばたする。

後半の二幕目は、男装して旅に出たInnogenが、Belaria(Madeleine Appiah)、Guiderius (Aaron Anthony) 、Arviraga (Saroja-Lily Ratnavel) の頼もしそうな3人の母子(に見えるけどそうではない)と出会って、Innogenを殺しにやってきたClotenがGuideriusと決闘して首を落とされて、眠りから目覚めたInnogenが傍に落ちている布に包まれた首をPosthumusのだと思ってパニックになって… など、すったもんだしながら新たな出会いが新たな希望を呼んでくる.. かと思ったら、今度はローマ帝国との戦争が始まり、その混沌とどさくさのなか、InnogenとPosthumusは再会して、GuideriusとArviragaは王の血を継ぐものであったことが明らかになって、新たな絆とファミリーが改めて確認されてめでたしめでたしになるの。

二幕目はつんのめるように威勢がよく、その勢いと共にどうなるのかも見えてくるし、ラストの戦がそれに火を点けてくれるかんじでなかなか盛りあがって楽しいのだが、女系を軸にファミリーを再構成した意味のようなところがやや弱かったかも。あるとしたら出てくる男たちがどいつもこいつも頭も性根も悪いのばっかしで、その辺 – だから王様になれないんだよ、の辺りだと思うが、そんなのとうにわかりきったことだしな.. になるし。突っ込みどころはたっぷりあるものの、高低差のある客席をうまく使って兵士たちが出入りしたり、どたばた楽しかったかも。

『シンベリン』のちくま文庫版の解説にあったように、これが「喜」と「悲」や「男」「女」を含む際どく危うい二項対立を軸に幾重にも組み上げられたお話しだとすると、こんなふうにごちゃごちゃ散漫なものになってしまうのはしょうがないのか、と思いつつ、でもこういうのは割と好きかもー、って。

[film] Companion (2025)

2月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
クソ彼に当たってしまったヴァレンタインの翌日に見るにはちょうどよいやつかも。

痛い系のサスペンスホラーかと思ったら違った。97分がちょうどよい。
脚本、監督はこれがデビューとなるDrew Hancock。以下、軽くネタバレしていると思う。

Iris (Sophie Thatcher)とJosh (Jack Quaid)はスーパーマーケットのオレンジ売り場で、これしかない、みたいな理想的な出会いをしてあっという間に恋人同士になって、週末に友人のレイクハウスに車で向かうところで、別荘には所有者の富豪で見るからにカタギではなさそうなSergey (Rupert Friend)、その恋人のKat (Megan Suri)、男性同士のカップルEli (Harvey Guillén)とPatrick (Lukas Gage)が集まっていて、そんな変な集団にも見えない。

翌朝、Irisが散歩しているとSergeyが寄ってきてへらへら笑いながら上に乗ってレイプしようとしたので、そこにあったナイフで首を刺して殺して、頭から血まみれになってパニックしているIrisの耳元でJoshが”Go to Sleep”っていうと彼女は白目になって停止する。ここまできて彼女はJosh(の操作するアプリ)によって動作するコンパニオン・ロボットであることが明らかにされ、冒頭のふたりの出会いのシーンも予め用意されたプログラムがIrisの脳内で再生されていただけだった、と。

椅子に縛られた状態で再起動されたIrisは隙を見てJoshのスマホを奪って森に逃げこみ、アプリを使って自分の設定を見て自分がどんな扱いのものだったかを知り、知能設定が40%だったのを100%にして復讐のために動き始める。 のだが、そんなに簡単にコトは運ばず、Eliと一緒にいたPatrickも同じコンパニオン・ロボットだったのでやや事態が面倒なことになって…

生身の人間ではなくコンパニオン・ロボットでいろいろ済ませようとする/それを誇示しようとする人が(頭だけはよい)クズ系であることは”Ex Machina” (2014)でも示されていたが、あれよりもう少し下世話にわかりやすく、こんなにもクズでゲス、のようなところ(だけ)を見せていておもしろい。そしてそのクズは他の人たちや他のロボットの間にも紛れていて、不気味で変なソサエティを作っていて、というあたりだと、こないだの”Blink Twice” (2024)とか”Don’t Worry Darling” (2022)にもあった、スタイリッシュでつるっとした(中味はありそうであんましない)サスペンスの傾向にも繋がっているのだろうか。 富豪も社交もロクなもんじゃない、という今。

そういうところから少し離れると、”After Yang”(2021)みたいな静かな世界に行ってしまう – か、”Robot Dreams” (2023)のような平和でフレンドリーなやつとか。 まあ、手元のタブレットすらきちんと操作できない人間がロボットなんかには近寄らないことよ。

更にそこから離れても、Joshみたいに女性を性処理の対象とか道具のようにしか見ない、見ようとしない男の像がロボットやAIへの対応を通してあぶり出されてくる、というおもしろさ(おもしろくない)。本当は、そんなのを通さなくたって(介さないほうのが)そこらにうじゃうじゃいるはずで、問題はそっちの方だよね。など、あーうざいねえ、とか思いながら見ていた。

Irisを演じたSophie Thatcherさんはこないだ”Heretic”(2024)でHugh Grantとも対決していた。

Joshを演じたJack QuaidはMeg RyanとDennis Quaidの息子で… ということはこいつとは昔に会ったことがある。95年くらい、Barneys New Yorkの当時地下にあった食堂(Mad 61)でランチをしていたら隣のテーブルにMeg Ryanがきて、わあぁーってなったところで彼女の連れていたガキがテーブルの下で大暴れして.. あの時の彼だったか… 大きくなりやがって。 


[log] お引越し 2025

先週はロンドン内での自分のフラットの引越しをしていた。以下はその備忘。

こちらに赴任したのが昨年の1月で、とりあえず、割と簡単かつ適当にフラットを見つけて住み始めたのだが、1年後に契約の更新がある(= 家賃がたぶんあがる)のと、住み始めてから部屋の寒さとか近隣のやかましさとかいろいろ出てきたのと、前回住んでいた時はロンドン内での引越しをやろうと思いつつできなかったので、一度くらいはやってみようか、などなど。

数えてみたら自分にとって国内海外を含めてこれが21回目の引越しで、そのうち自分の意思でやったのは14回で、そんなに多いほうだとは思っていないけど、こんな歳になっても住処を求めて不動産屋に通ったり、箱を作って出し入れしたりをするようになるとまでは思っていなかったかも。

ひとつ想定していなかったのは、11月に帰国して体にしょうもないなんかが見つかり、1月の中旬にも検査のために帰国しなければならず、12月はクリスマスなどで賃貸のマーケットはほぼ動かない、とかその辺のことなど。理想としては遅くとも1月の初めまでには物件を決めて各種手配や準備ができるようにしておく、だったのだが帰国手前でオファーを出したやつに全く返事が来なくて、帰国する前日になって自分で住むことにしたからこの件なしで、とか返してきやがったので、お先真っ暗になり、最後の最後は日本からZoomで見て決めた(建物自体は内見で入ったことがあったところ)。

今回は年末で物件自体があまりなかったせいもあったのと、家賃(だけじゃなく物価全般が)上がっているのもあったのか、ぜんぜんよいのにぶつからず、結構いろんな物件をこまめに見て回った。そういうのが嫌でない人にはおもしろい経験になると思うが、それにしてもほんとにいろんな物件があるもんよね。古い建物が残っている分、東京やNYと比べるとはっきりとピンキリで、ぜんぶ何らかの訳アリ – ないほうがおかしい - なのではないか、とか。

前に住んでいたのはChelsea近辺のジョージアン様式のフラットで、今回もその線で探し始めたのだが、もう日々の階段昇降はだるすぎるのと、水道とかお湯が出る出ない弱いとか、変な音がするとか、部屋の暑い寒いで日々じたばた苦労するのは面倒になっていて、そういうのを避けるべくモダンな方にして、そうすると中心部からはやや外れてしまうのがまた難で、結局住んでいたところから地下鉄で一駅のところにしてしまった。老人はそうやって引きこもっていくんだわ。

で、引越し屋にZoom経由で見積もりしてもらって箱一式が来て、とりあえず床に積んであった本などから詰めはじめる。

こちらに来てから小さめの本棚は買って、でもそこに入らなかった分についてはどうせそのうち引っ越すから、と床に積んでおいたのがあり、これらを詰めるのは割と簡単だし早いし。

こちらに持ってきた本の船便は段ボール計3箱で、今回詰めたら+6箱の計9箱になった。あと、箱には入れずに手で運んだ大事なのが数十冊。1年間で増えた6箱は多いのか少ないのか、たぶんこんなもんなのでは、くらい。ほら、美術とか写真の本ってサイズも大きいし。でもこの調子で増えていったらぜったい日本の家は床おちる… の前に入らないかも。

あと、サイズでいうと演劇のパンフレット - 演劇は見始めたところでもあるのであったら買うようにしているのだが、サイズがてんでばらばらでいい加減におし!になった。みんなあんなのどうやって整理しているのか。

箱に入れなかった自分にとって大事な本たちは紙に包んでスーツケースに入れて、新フラットとの間を5往復した。引越しトラックがテムズ川に落ちたり炎上したりするリスクと、自分が途中で線路に落ちたり行き倒れになるリスクと、若干のお気持ちみたいなので、手で運ぶやつは決めて選んで実行した。前にマンハッタン内を引越した時は、同様にレコードをがらがら運んだことを思いだしたり。

本以外の箱は、割とどうでもよかったのだがこれはこれで面倒で、なんであんなにどうでもいい未開封の調味料の瓶とか缶詰 – 特にいろんな国のイワシ缶とサバ缶ばかり – が後から後から湧いてくるのか、など。

そして箱に詰めるのは時間かかるのに箱から出すのはあっという間すぎて、人生そんなもんよね、に改めてなる。

住み心地? 100%のおうちなんてあるわけないのよねー を改めて噛みしめているところ。まずはお片づけだわ。

どうか来年も同じことをやるはめになりませんように(なるかも)。

2.24.2025

[film] Captain America: Brave New World (2025)

2月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
3D上映もあったようだが2Dにした。でもいちおう公開初日には見る。

“The Falcon and the Winter Soldier” (2018)からのSam Wilson / Captain Americaを主人公に据えつつ、背景とかキャラクターはEdward Nortonが緑Hulkを演じた”The Incredible Hulk” (2008)を引き継いだりしている。

超人だったSteve RogersのCaptain Americaに自分は絶対なれないことを自覚しつつアメリカの危機を前にすると身体と翼が勝手に動いてしまうSam Wilson (Anthony Mackie)と、そんな彼を政治利用しようとする合衆国大統領のThaddeus Ross (Harrison Ford)と、Celestials で見つかった希少金属Adamantiumの権益を巡る争奪戦 - に日本も巻き込まれている - のごたごたがぜんぜんスマートじゃない - 単にごりごり押し合うばかりの政治サスペンスふうに描かれていく。”Captain America: The Winter Soldier” (2014)にあったクールネスは微塵もない。

みんながふつうに思っていることでしょうが、今のアメリカ合衆国は冗談ではなくHydraに乗っ取られてしまい、あの風船デブと成金バカのやりたい放題になっていて、こんな状態で彼らの手先としてCaptain Americaなんて動けるわけがなかろう、というアタマで見ていくと、Thaddeus Rossも軍人あがりの超タカ派、自分が一番の傲慢野郎で、最後にやっぱり衝突しているのでそれみろ、なのだが、今の合衆国にはSteve RogersもSam Wilsonもいない、という現実の方に頭が向いてしまう。犯罪者が最高権力を手にしたらどうなるか、が想定ではない現実として現れてしまった時、正義とは… 例えば、そんなアメリカを守る、とは?

Steve Rogersの時代、敵は明確にアメリカの外 - 二次大戦期のドイツ - にあって、そこからサノスとか更に外に広がっていった訳だが、Sam Wilsonの場合は、最初から自国内のプロパガンダ狙いも含めて敵はずっと内部にいる、という難しさ(この映画のマーケティングもそう?)を彼ひとりが抱えていて、CIAだってなくなっちゃうようだし、見ていて辛くなってくるのだが、それでも少しづつ彼の周りに集まってくるFalcon (Danny Ramirez)とかRuth (Shira Haas)とかすっかり善き人になってしまったBucky (Sebastian Stan)とかはいるので、次に期待する、しかないよね(それまでに「アメリカ」が少しでもよくなっていますように)。 でもいま一番期待してしまうのは”Thunderbolts*” (2025)の方かも

ホワイトハウスが下斜めからぐざーってぶっ壊される絵がなかなか見事で、これって、”Independence Day” (1996)で真上から攻撃を受けて粉々にされるのと対照的でおもしろいな、とか。

あと、ものすごく濃く強く黙って闘う男性中心に貫かれたドラマで、この辺の息苦しさはわざと狙ったものなのか。Thaddeus Rossが多様性を排除した結果こうなってしまったということなのか。この辺のみっしりと男くさいトーンを歓迎する層も間違いなくいそうだし、これはこれであーあ(…なーにが”Brave New World”か?)、だし。

いろいろ意見だの見解だのはあるのだろうが、わたしはCaptain America的な(”GREAT”に向かわない)正義は(特に今のアメリカには)必要だ(ずっと言い続けることも含め)と思っていて、だから本作も大事だとは思うものの、いろいろもどかしくて難しいよねえ、って。 そのためにも”Eternals” (2021)の続編がほしいし、Nick Furyは宇宙で遊んでないで降りてこい、ってなるし。

Harrison Fordって、これから先も赤Hulkで出てくるの? おじいちゃんだいじょうぶなの?(癇癪をおこしやすい爺、という点ではわかりやすいけど..)

2.20.2025

[film] Bridget Jones: Mad About the Boy (2025)

2月13日、木曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。こんなの公開初日に見るわ。

11日の晩がCyndi Lauperのライブで、12日の晩が”The Last Showgirl” (2024)で、この日がこれで、ぜんぶこれで終わりのLast Showgirlみたいな話として連なっていたかも。

Bridget Jonesの4つめので、原作(2013に出た)は勿論Helen Fieldingで、共同脚本にも関わっている。

こういう続きもので、結構長い時間が経って、やると思っていなかったようなのがリリースされた時って、最初は懐かしいのもあって、変わってないなー、って笑ったりしているのだが、だんだんいたたまれなくなって – 所謂「イタい」状態を感じて、なんでか? など振り返りつつ結局もやもやと現実世界に戻る、というのが割とある - 3作目の”Bridget Jones's Baby” (2016)で既にそれはあったので、今回もそれなりに覚悟して見る(ほかになにができよう?)

現在のBridget Jones (Renée Zellweger)はHampstead Heathの一軒家(いいなー)に住んで、小学校に通うBillyとMabelのふたりの子のママとして暮らしていて。夫のMark Darcy (Colin Firth)は4年前、スーダンでの人道支援活動中に亡くなっていて、その替わりではないがDaniel Cleaver (Hugh Grant)がベビーシッターで来てくれていたり、でも全体としては学校の送り迎えだけで十分へとへとで、他のきらきら系のママからは素敵なパジャマねえ(でもあのペンギンのかわいいな)、とか嫌味を言われたりして、でもそんなのどうでもいいくらい大変で日々慌しくて、それどころじゃないのだ、になっている。
でも、健診でDr Rawlings (Emma Thompson)から励まされたりしたので、昔の職場 – TVプロデューサーに戻ってみることにする。

それと並行して若くて筋肉たっぷりのRoxster (Leo Woodall)が木から降りられなくなった彼女を助けてから近くに寄ってくるようになり、若者みたいなデートをしてみたり、Billyの学校の理科の先生Mr Wallaker(Chiwetel Ejiofor)も気になり始めたりする。恋も仕事も、のセカンドチャンスが彼女のところにようやく、のようでそんな簡単にいくはずもないことはわかっていて、ポイントはどうやって若い頃と同じように失敗して痛い目にあって、同じようにへらへら笑って立ちあがるのか。

なのだと思っていた。Bridget Jonesとはそういうキャラクターで、そういうキャラクターであるが故にColin FirthとHugh Grantの両方から言い寄られ、このふたりにずぶ濡れ殴りあいの喧嘩をさせてしまったりする。実はとんでもない女性なのだ。

でもそういった過去を、キャラクターをなぞるようなところには向かわない – いや、向かうのだけどそうではないところに目が流れていってふつうに感動して暖かいかんじになって、最初はJohn Lewis(デパート)のクリスマスのCMかよ、とか思ってしまうのだが、でもよかったんだから、に落ちてしまう。彼女のパパ(Jim Broadbent)も最愛のMarkももう亡くなっている、でもパパの思い出は手の届くところにあるし、Markはちょこちょこ幽霊のように出てくるし、Danielも心臓がよくなくて入院したりして、みんなが同じように年をとって、ぼろぼろだったりするけど、互いのことをずっと気にかけてて、かつての飲み友達も、職場仲間もみんなそこにいて思いだしてくれたり笑いかけてくれたり。これらを成熟とか克服とか共感の物語に落とさなかったところがよかったのかも。

湖水地方に遠足に行ったBillyが夜中、Mr Wallakerに自分はそのうちパパのことを忘れてしまいそうでとても怖い、って相談するの。それに対する答えが全体を貫いていて、あまりに想定していなさすぎてつい星を探してしまう…

エンドロールで、過去のスチールとか名場面が流れていって、客はみんな帰ってしまったのだが、なんかひくひくしながらあったねー って見ていた。

シリーズを見ていない人がいきなりこれを見たらどう思うのか... はまったくわからないけど、映画的なよさとは別の何かかもしれないけど、とにかくとってもよかったの。


引越しは、明日から本気だすことにした。

2.19.2025

[film] The Last Showgirl (2024)

2月12日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

まだ正式公開前のPreviewで、上映後に主演のPamela Andersonのトークがあった。ここの一番大きいシアターが満員になって、ロンドンの他の映画館でも別の日にトークがあって、週末のBAFTA授賞式ではプレゼンターとして登場した。そこにいるだけで場が明るく、暖かくなるかんじの人だった。

監督はGia Coppola、脚本はKate Gersten、たった$2millionの予算で、18日間で撮られた、と。

Shelly Gardner (Pamela Anderson)はラスベガスの場末のダンス小屋Le Razzle Dazzleで30年間ショーガールを務めてきて、でも突然プロデューサーのEddie (Dave Bautista)が、ショーはあと2週間で閉じる、次はない、と告げてきて、若い子たちは別のとこを探さなきゃ、ってざわざわ始めるのだが、30年間ここで踊ってきたShellyはどうしよう… ってこれまでのことも含めて考え始めてしまう。

こうしてかつての同僚で親友で、今はカジノのバーでウェイトレスをしているAnnette (Jamie Lee Curtis) - 恐るべしJamie Lee Curtis - と会ってつるんで話したり、若い踊り子たちと話したり(でもまったくついていけず)、突然現れた疎遠だった娘のHannah (Billie Lourd)とも話したり、そして過去に当然いろいろあったであろうEddieとのディナーがあり。でもいくら相談しても話してもなにひとつ解決することはない。この仕事が好きで、ずっとこれだけをやってきて、ここでの自分は誰よりもうまく踊れる自信がある、その場所、機会を奪われるというのは自分にとって何を意味するのか。

なので新しいところにオーディションに行ってみたりもするのだが、そこの監督(Jason Schwartzman)はどこまでも(彼女からすれば)意地悪すぎて彼女を見てくれなくて、やってられない。

好きな仕事を失う - 奪われる、というバックステージものによくある残酷な運命を描きつつ、ぎりぎりでそちらの波にはのまれない。こないだの”The Substance” (2024)のように若い娘に取って替わられる悔しさと妬みと執着を前に出すのでもなく、これしか残っていない自分を最後の最後に肯定して抱きしめようとする。もちろん、それにしたって先はないのかも、だけど。

これはもうPamela AndersonにしかできないShowで芝居で、そんな一世一代の、最後の見得というのがどういうものか、それを見とどけるだけの映画、でよいの。Pat Benatarの”Shadows Of The Night”があんなにかっこよく鳴る瞬間、つい拳を握ってしまう日がくるなんて誰が想像しただろう?

“Everything Everywhere All at Once” (2022)があったので何も驚く必要はないかも - のJamie Lee Curtisもすげえなー、なのだが、それよりDave Bautistaって、あんな演技ができるのか、と。

ヴェガスのくすんだ空気、靄のかかったような、Deborah Turbevilleの写真の世界が少しあるものの、カメラの動きがあんまりよくないのが少し難で、あと少しでRobert Altmanがやったような西海岸のドラマになれたかも、なのに。

エンドロールのSpecial ThanksにはCoppolaファミリーはもちろん、Dita Von TeeseやSam Bakerの名前が流れていった。

上映後のトークで印象に残ったのは、もう残っていないヴェガスのショーガールの世界は、していいことしてはいけないことが厳格に定められた規律の厳しい世界だった、というところ。誇りをもてる仕事ってよいなー、って羨ましくなった時にはもう遅すぎ…

2.17.2025

[film] 秋刀魚の味 (1962)

2月10日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
なんの特集とも紐づいていない、”Big screen classics”っていう、名作を大画面で見よう、の枠で。 英語題は”An Autumn Afternoon”。

小津の作品は、超クラシックの『東京物語』とかよりもこれとか、『晩春』 (1949)とか、『秋日和』 (1960)とかの方が、こちらでは好まれている気がする。感覚だけど。

あと、どうでもいいけど、”An Autumn Afternoon”なので、『秋日和』と混同しがちかも。英語でいきなり「秋刀魚」とか言われてもわかんないのだろうが。

大企業の重役の笠智衆は妻に先立たれた後、長女の路子(岩下志麻)と次男と一軒家に3人で暮らしていて、長男の佐田啓二は岡田茉莉子と結婚して別のところいる。中村伸郎と北竜二の同窓生たちからは、若い奥さんを貰ったりして自立しないと路子ちゃんがいつまでも結婚できなくてかわいそうだ、と言われ、クラス会に呼んだ恩師の東野英治郎と娘の杉村春子を見てそれはそうかも、って思って路子に縁談をもちかけてみるのだが、彼女はあまり考えていなかったようでー。

いつもの、毎度の – この時代の日本映画なんてぜんぶそういうものなのかもだけど - セクハラ、パワハラがしぶとく全開すぎて感嘆する。

女性はある年齢になったら結婚しないと、どこかに「貰われ」ないと、貰い手がなくなって、寂しく孤独な老後を送ることになって、老いた男性も同じで身の回りの世話をしてくれる若い女性でも見つけないとみじめな老後を送ることになって、などなど(あくまで一例)。 主人公たちは、この流れというか周囲からの善意かつ気持ちよくないお節介を「ちがう」、ってなんとなく思いつつも、そうかそういうものか、って受けいれて、でも最後はHappily Ever Afterとは遠いところに立ってしょんぼりして終わる。

だってこの時代の日本社会ぜんぶがそうだったんだからしょうがないじゃん、はそうなのかもしれない。でも例えば、戦争映画の悲惨さは戦争という事態が招いた悲惨なのでその描写も含めた過去として受けいれることができるものの、この映画が描いている家庭や会社や飲み会でのいろんな言動は、あの時代のものである、とわかっていても見事に今のそれと繋がって微動だにしない、誰もそれをおかしいと思っていないかんじがある。映画に罪はないにしても、小津はすばらしい、って手放しで賞賛できないのは、映画を見てこの頃からずっとこうだったのか、なんで変われないのか… って絶句してどんよりしてしまうからなのだろう。

もちろん溝口にも成瀬にもあるけど、小津の場合は、家のなかの端正な格子模様や奥や横手に抜けるパスとか、すたすた歩いていく廊下とか、路地のデザインとか、テンポが軽快なので構成とか様式のようなところで、すごーいおもしろー、ってなりつつも、語ったりやり取りされている言葉はほんとうにどす黒くてひどいThe 家父長制で、コンプラ委員(not映倫)がチェックしていったらノート3冊くらいあっという間に埋まってしまうに違いない。これはこういう文脈で19xx年頃まで使うことを許されていた言葉の用法なのです、とか、上映前に不適切かつ差別的な言動がありますが… 等の注記やレーティングがほしい(だってほぼ暴力みたいなもんだよ)のだが、残念なことにぜんぶ投げられたり言われたりした心当たりがありすぎて、またか… って悲しくなる。だれに怒りをぶつけてよいのかわかんないし、好きにすれば、だけど、少子化なんて、酒のんでこういうのを垂れ流してなんの反省もない、ちやほやされ続けて自分が一番、って腐敗腐乱した老人たちをどうにかしないとぜったい解消しないよ。 こんな国潰れちゃえ、って思っているけど。

というような角度から小津(というか野田高梧の?)作品における家父長制と、それが高度成長期の一般家庭の意識形成にどう馴染み、影響を与えたのか、を分析した論文とかがあったら読みたい。

[theatre] Oedipus

2月8日、土曜日にOld Vicのマチネで見ました。

昨年末に見た”Oedipus”は、Robert Icke演出、Lesley ManvilleとMark Strong主演だったが、こちらの演出はHofesh Shechter (振付も)& Matthew Warchus、翻案はElla Hickson、主演はRami MalekとIndira Varmaで、話題の舞台であることは確かなのだが、それよりも、この後、同日の晩に見た”Elektra”と合わせて、なんで今、こんなにもギリシャ悲劇なのか、は考えてみる価値があるかも。1時間40分、休憩なし。

現代都市における選挙戦〜キャンペーンというイベントを軸に市民大衆とのやりとりを背景に置いたRobert Icke版に対して、時代も地域も昔のギリシャっぽく、民衆はOedipusを熱狂的に支持しつつも干魃に苦しんでいて、よき施政者であるOedipusもその対応に頭を痛めている。

でもこれ、上演時間の半分(ほどでもないか)くらいがダンス、というか舞踏とか群舞のパフォーマンスなのよね。民衆の怒り、苦しみ、歓び、などをダイレクトに表現する様式としてダンスがあるのはわかる。わかるけど見たいのはそこではないわ、になる。パフォーマンスとしてのダンス、という点では、群衆の勢いを示す舞いなので一糸乱れぬ完成度とかスペクタクルとして見せるものではなくて、ライティングもバックの音楽もそこらで拾ってきたかのように雑でてきとーで、これなら映像を使ったりした方がマシだったのでは、とか。

なので、肝心のOedipusとJocastaが「がーん」てなるシーンもやや薄まってしまった感があり、でも最後は恵みの大雨が来てみんな歓んでいるのだからそれでよいのか、になってしまう。それでよい - 権力者の悩みなんてどうでもいい、のドラマなのだ - と言ってしまってよいの?

ただ、真ん中にいて悩んだり立ちすくんだりするRami Malekの表情 - 冒頭は彫刻のような彼の顔が背景に大写し - 立ち姿はやはり見事なものであった。


Elektra

2月8日の晩、↑の後にDuke of York’s theatreで見ました。

Captain Marvel = Brie LarsonのWest Endデビュー作。原作はSophokles* (原作者名もタイトルも”c”にxをして”k”に置き換えている)、翻案はカナダのAnne Carson 、演出はDaniel Fish。休憩なしの75分 - パンクだから短い。お芝居のハシゴをして休憩なしが続くのは珍しいかも。

会場に入ると、ステージ上では掃除機みたいな投光機みたいな、複数の機械がゆっくり同じ方向にぐるぐる回っていて止まらない - 止めることができない。

ステージに現れたElektra (Brie Larson)は七部刈りくらいのショートでBikini Killのタンクトップを着てハンドマイクを手にしたパンクシンガーで、ずっとマイクを手に客席に向かって吠え続け、たまに足下のエフェクターを踏みこんでその叫びを爆裂させる。声が彼女の武器となる。特に感情 - 特に怒りの。

初めの方は父が殺されたことについて、舞台の少し奥の方で揃ってなにやらひそひそ歌っている女性たちに対して、やがては陰謀に加担していると思われる母Clytemnestra (Stockard Channing)や弟Orestes (Patrick Vaill)や妹Chrysothemis (Marième Diouf)に対して、死の真相やだれがどうして裏切ったのかなんてことよりも裏だの陰だのでやらしくごちゃごちゃ言いやがって、おとなしく黙ってると思うなよ - 表に出てこいざけんな、って。結局、これらに対する物言いは権力とか女性とか家父長制とか、自動で動いていって止められない「システム」のようなところに集約されていって止まらなくて、そういうのに対するいいかげんにしろ!をぶちまけて終わる。

Brie Larsonさんは、先週土曜日朝のBBCのSaturday Kitchenていうお料理番組(大好き)にゲスト出演していて、お料理の腕前はふつうっぽかった(包丁を握るところまで)が、今回のWest End出演については、最初は毎日同じセリフの同じ舞台を何カ月も繰り返すのなんてありえない、と思ったけど、いまはものすごく楽しい、って。また演じに来てほしい。


どちらの劇も「ギリシャ悲劇」というかんじはあまりなくて、悲劇の土壌となる権力とか民衆の居場所、のようなところにフォーカスしたメタ悲劇のようで、今ってそういうものが求められているのかも、というのは演劇を見るようになってからずっと感じている。

2.15.2025

[music] Cyndi Lauper

2月11日、火曜日の晩、O2 Arenaで見ました。これが今年最初のライブになるのか(なんということ…)。

Cyndi Lauperがライブパフォーマンスはこれで終わり、と宣言している”Girls Just Wanna Have Fun Farewell Tour”のロンドン公演。アリーナツアーは1987年以来だそうで、最後は4月の武道館になるって。

彼女に対しては、最初の”Girls Just Wanna Have Fun”からまったく異議なし!よね、のまま、ずっときちんと向き合ってこなかった気がして、一度くらいライブに行かねばと思っていたところに今回の告知がきて、でも直前になっていたしチケットの値段が高かったら.. だったのだがそんな高くもなかったので取った。

“True Colors” (1986)がリリースされたときのレコード屋で、隣にMadonnaの”True Blue”並べられていて、散々迷って悩んで、結局決められずにNew Orderの”Brotherhood”を買ったことを昨日のことのように思いだす(記憶なんてこんなゴミの集積)。

会場であるO2アリーナの最寄り駅のNorth Greenwichの掲示板(遅延が出たりした時に書きこまれる)には、いつもライブに行く人向けに、これからライブするアーティストのことが書いてあったりするのだが、今回は彼女の曲のタイトルが小さな手書きでびっちり埋めてあって感嘆する。 あれ、誰かに書いて貰っているのかしら?

客層は圧倒的に中高年の民で、グループというよりはカップルだったり友達同士、のような。みんなきれいに着飾って、肩組んで手を繋いで、ラメ率が高くて、バッグとか靴も当時からの、みたいな。フェアウェルだけど、お別れじゃないことはみんなわかってる、今宵はとにかく楽しもうと。

前座はDJのひとで、まったく悪くないのだが、客席はみんなお年寄りなのでそう簡単には動かない。

登場前にBlondieの”One Way Or Another”(邦題「どうせ恋だから」)ががんがん流れて、おうおう、ってみんな立ちあがる(...立つのか)。

で、”She Bop”から始まって、”The Goonies 'R' Good Enough” – スクリーンにGooniesの映画のスナップがいっぱい – をやって、Princeのカバーの“When you were mine”~ ”I Drove All Night”〜 あたりまでは、(自分に)ものすごく馴染む音。バンドは、ドラムス、パーカッション、ギター、キーボード、ベース、バックコーラス2 - 80年代サウンドの王道の、きらきら分離して、リズムが跳ねて、性急でも緩慢でもなくうねりがあって、を見事に再現してくれる。打楽器のコンビネーションがよくて、ドラムスはRufusやBowieのバックにいたSterling Campbellであった。

声はものすごくしっかり、やかましいくらいに(←これこれ)よく出ていて、ここでやめてひっこむ理由がぜんぜんわからないくらいだし、曲間のお喋りはこれが最後なんてどうでもいいような軽くて楽しいお喋りばかり、難点があるとしたらこれくらいか - お喋りしすぎで曲たちの勢いが止まってしまうところ(リストにあった1曲を飛ばしちゃった、って)。曲間の衣装直しでメイク室にまでカメラがいって、メイクしている間もずーっと喋っていたのには笑った。でもこのかんじなんだなー、と思ったよ。こんなふうに身の回りの出来事などを延々喋ったり、この衣装はChristian Sirianoなのよー、とか言ったりしながら、ずっと傍にいて一緒に歌ってくれた。だから、やろうと思えばいくらでもエモに感動的に盛りあげることができるはずの”Time After Time”も、客席のみんなにスマホのライトを点けさせて、ほらきれいでしょーとか言いながら(本当にきれいだった)、すっきりあっさり終わって( - 終わらない)。

アンコールの”True Colors”ではアリーナの真ん中くらいまで下りてきて、Daniel Wurtzelのインスタレーション”Air Fountain”を靡かせながらの”True colors are beautiful ~ Like a rainbow”がとっても沁みて、虹色のあとは… ってステージに向かうとスクリーンになぜか草間彌生が大写しになり、全員が白赤の水玉衣装になっていて、“Girls Just Wanna Have Fun”をぶちまけるのだが、ステージ上にはこれもなぜかBoy Georgeがいて、GirlsにBoyなのか... と。

なんか、よくもわるくもちっともFarewellのかんじのしないパリパリによく揚がったライブだった。音楽はなくてもトークライブみたいなのはこれからもやっていくのではないかしら(トークのついでにギターを取りだし…)、とか。

2.14.2025

[film] Duel at Diablo (1966)

2月7日、金曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”、で見ました。

これも35mmフィルムを米国から取り寄せての上映だよ、とのこと。邦題は『砦の25人』。
監督はRalph Nelson、原作はベストセラーになったというMarvin H. Albertによる1957年の小説 - ”Apache Rising”。

Sidney Poitierの初の西部劇、ということで、でも彼は主演ではないし、”African American Western”というカテゴリもちょっと違うかも。

敵も味方も沢山人を殺したり殺されたり、(いっぱい人が亡くなってほぼなんも残らん、という点では)惨い映画で、でもなんで? なにがそんなに惨いのか、をいろんな角度から考えさせる内容のものだった。決してつまんない、というのではなく、ごちゃごちゃ深くてすごい、という。

焼き殺された死体が吊るされている砂漠を馬で渡っているJess (James Garner)がいて、彼は遠くのほうに馬で砂漠を渡りながら馬と一緒に死にそうになっていた女性とその向こうに彼女を追っているアパッチを見て、アパッチを追い払って彼女を助けて町に連れて帰る。

その女性Ellen (Bibi Andersson)はその町の実業家である夫のところに戻るのだが、アパッチにさらわれて彼らの子供を産んだらしい彼女に夫も世間も冷たくて、Jess自身もその直後に自身のアパッチの妻を殺されたことを知り愕然とする。ひとりになったJessは再会した旧知の陸軍中尉のScotty (Bill Travers)から、砂漠で孤立している部隊に水を届けるミッションに誘われるのだが、とてもそんな気分にはなれない。無理やり砂漠に出されたScottyの部隊は25人の兵しかいなくて、でも砂漠を行くなかアパッチの襲撃は当然来て、そこに元軍人で馬商人のToller (Sidney Poitier)が加勢したり、アパッチから赤ん坊を奪い返した後のEllenとJessも加わるのだが、土地をよく知っているアパッチのが断然有利で水を断たれた部隊は次々にやられていって…

砂漠のなかでの戦いの過酷さや虚しさもあるのだが、それ以上にアパッチやTollerに対する差別偏見、Ellenに対するミソジニーなどが目の前にきて、それらがだんだら模様になって、銃撃もあるのだが、背後からすとんって弓矢でやられてお尻や背中に刺さってくる痛さ、がやってくる。砂漠の熱さと喉が渇いてからからのなか、なんのために戦うのか、という問いがやってきて、虚しいというよりこんなのに勝ったところでどうする、になる。(人によってはとにかく勝ったんだからぜんぶ自分のもん、て喜ぶかもだけど…)

TollerとJessのコンビは素敵だし、EllenとJessはやがて一緒になるのだろうが、60年代の西部劇で単なる原住民 vs. 開拓者・征服者の構図以上の、ベースにある(内側に当然あったはずの)他者への偏見や蔑視の構図を串刺しで見せていた、というのはすごいな、と思った。


The Learning Tree (1969)

2月5日、水曜日の晩、”Architecton”を見た後に、BFIの上と同じ特集で見ました。 邦題は『知恵の木』。

写真家として知られる(ずっと写真家だと思っていたわ)Gordon Parksが、自分で書いた半自伝小説を元に脚本を書いて監督してプロデュースもして、音楽まで自分でやってしまった作品。
アフリカン・アメリカンの監督が最初にメジャースタジオ(ワーナー)と契約して作った映画でもある、と。

1920年代のカンサスの田舎町で、主人公の少年Newt (Kyle Johnson)は勉強もできるよいこだったが、仲間達と一緒に近所のリンゴ園の木からリンゴを盗ってそこの主人を少し痛めつけたりしたら、差別主義まるだしの警官に仲間が簡単に撃ち殺されたり、別の仲間は牢屋に入れられたり、いろんなことを経験し(散々な辛い目にあっ)て少しづつ大人になっていく。きれいな構図と風景と、大人になるにつれて見えてくる人種差別の泥沼のコントラストと、それでも前に歩もうとする主人公の強い眼差しと。

時代もトーンもぜんぜん違うけど、これが50年以上経つと”Nickel Boys” (2024)のようになるのか。
共通しているのは、アフリカン・アメリカンの子供の命なんて簡単にどうとでもできる、と思う白人男たちの救いようのない軽さ、傲慢さ。

これがいままた復活しようとしている…(吐)

2.13.2025

[film] Architecton (2024)

2月5日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

豚さんのドキュメンタリー(ぽい)”Gunda” (2020)がとても好きだったロシアのVictor Kossakovskyの監督作。

“Gunda”がナレーションとか特になくても、なんとなくどんなものか(どんなものだ?)わかったのと同じように、流れていく画面を追って見ているだけであっさり終わってしまう。

風景全体とか岩場まるごととか、スケール大きめ、って思わせる画面が続いていくからか、IMAXでも上映される回があった(これなら行けばよかった)。

岩石とか瓦礫とか廃墟とか廃材とか、そんなのばかりが流れていく。「自然」の光景というよりは、岩を切りだしたり積みあげたり、山肌を爆破したり、戦争で部分部分が穴だらけで人影のない建物(ウクライナだそう)とか、地震災害で破壊された建物(トルコだそう)もあり、自然を眺めるのと同じスケールで(視界まるごとを支配するように)そこにある、でっかい人工物(のなれの果て) - でも人間はほぼ映らない - がナレーションも字幕もなしに、次々と映しだされて、それだけなのに、スペクタクル!というか、よくもまあ… みたいなかんじにはなる。

もうひとつは仙人みたいなおじいさん(イタリアの建築家/デザイナーのMichele de Lucchiだそう)が、どこかの遺跡を見ていったり、自宅の庭に石を円形に並べてストーンサークルのようなものを作っていく(実際に作るのは大工のような人たち)様子も描かれる。

最近の映画だと”The Brutalist”があったし、あとJóhann Jóhannssonの”Last and First Men” (2020)とか、でっかくてブルータルな建造物の映画とか、爆破シーン(好きな人は必見)はMichelangelo Antonioniの”Zabriskie Point”(1970)の飛び散るとこを思わせたりするのだが、あれらよりはとても穏やかに厳かに、なんで人はあんな重い石を掘って、切り出して、運んで、積んで、賞賛したりうっとりしたりして、それをまたぶっ壊したりするのか/してきたのか、を考えさせる。それらはほぼ黒と灰色と茶色で、とても男性的な力強い何かを思わせる - 自分だけか? あと、木造建築についてはまったく別種のなにか、であることもなんとなく確認できてしまう不思議。

これらの建造物(or廃墟)は、少なくとも始めは人間のために造られ、建てられたものであったはず、なのに、(特に壊された後のほうは)人が立ち入ることを頑なに拒んで閉じてそこにある、建っているように見える。そこでは人が亡くなっているのかもしれない。ただの遺物、墓石、ランドアート? アートでよかったの? とか、アートとは?みたいなところまで考えがとぶ。

最後のエピローグで、監督とMichele de Lucchiがストーンサークルの前で対話をする。人はなんでつまらない、醜くしょうもない建築を建ててしまうのでしょうか?と。

これは本当にそうで、でも人はしょうもない映画も、しょうもない料理もいっぱい作るし、そういうのに嬉々として向かっていく人もいるし – でも映画は見なければよいし食べ物は食べなければよいだけ。 建築は見たくなくても目に入ってくるし、ものすごいお金と時間と人手をかけて作っていくもので、そういうのも含めて考えるとうんざりするくらい嫌になる建物ってあるよね。ロンドンにもあるけど、東京のゼネコンの建てるのとかって、なにあれ、みたいなのがあまりに多い。紙とか板とかをベースに考えているから? など。

[film] Becoming Led Zeppelin (2025)

2月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
“Preview”とあったのだが、一日に何回も上映しているし、一般公開とどこが違うのかは不明。

Led Zeppelin初のオフィシャル・ドキュメンタリーだそうで、晩20:30過ぎの回でも結構埋まっていた。どうせならでっかい音で見たいし。

生き残っているメンバー – Rober Plant, Jimmy Page, John Paul Jonesの3人から話を聞いていくのと、亡くなったJohn Bonhamについては過去のインタビュー音声から生い立ちとか、使えそうなところに注記を入れてあてている。3人全員が一堂に会して顔を合わせて会話する場面はなくて、各自が好きなこと(自分に見えていたこと)を好きに語っているだけのようにも見える。

3人の生い立ちについては、ものすごく普通で、両親がドサ周りのボードヴィル芸人だったというJohn Paul Jonesを除けば、ふつうの家庭でふつうに音楽に囲まれてギターも買ってもらえて、自然と人前で歌ったり演奏したりするようになり、そうして既に十分に実力がついていた彼らが集まったのだから、そしてそれなりに努力してアメリカでもがんばったのだから、ああなるのは当然、みたいな描き方で、そりゃそうでしょうよ、しかないし、この程度ならふつうのファンなら知っていたのでは、くらいの薄くぺったんこな流れ。

彼らに酷いことをされた女性や関係者の証言、飲んだくれてホテルをぐじゃぐじゃにした、などいろんな狼藉に武勇伝、闇に葬りたいであろう過去のあれこれはきれいにクレンズされてこれぽっちも触れられず(なるほど「オフィシャル」)、とてもクリーンに齢を重ねた善良なお爺さんたちから輝かしい昔話を聞いていくかんじ。そんなはずねーだろ、と思う人には物足りないかも。

長さは2時間くらいで、半分を経過してもまだ1stの話をしているのでこの先だいじょうぶか? になったのだが、途中でそうかこれはドキュメンタリーの最初の1発なのか(Becoming..)、って。 なので、本作は2ndのアメリカでの成功と、それを受けてのRoyal Albert Hallの凱旋公演までで終わっている。たぶんこの後にあと2~3本続くことになるのではないか。さーすーがーにせこいジェイムズくん、だな。

Led Zeppelinについてはものすごい好き、というわけでもなく、LPもぜんぶ持っているわけでもないし、1番好きなのは1stと”Presence” (1976)くらいで、渋谷陽一があんなにわーわー騒がなかったらな、というか70年代ハードロックを聴いてうんちくたれてたうざいおやじ達(もう、じじいか..)がものすごく嫌で嫌いで、あれらがなければもう少し素直に向き合えたのかも、くらい。ほんとあの連中、なんだったんだろうか(いまだとシネフィル気取りのおやじ達になるのかな)。

でもとにかく、”Good Times Bad Times”のイントロはかっこよいと思って、この映画の予告でもがんがんかかるのでうれしい。

でっかいスクリーンで見て改めて思ったのは、ほんとに当時のメンバーはきらきら白人男性の典型で(いまのメンバーはしおしおで)それであんな音を出していたのだから冗談みたい、それこそ青池保子のあの漫画そのまま - 久々に読みたくなったかも。 なので、ディランのよりもビートルズのよりも、今の旬の男優たちを集めてバイオピック作ったらぜったいに客を呼べるネタになると思うのだが、やらないのかなあ?

2.10.2025

[film] Sergeant Rutledge (1960)

2月2日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

今月から始まった特集 – “Black Rodeo: A History of the African American Western”からの1本。BFI、今月はChantal Akerman特集だけでお腹いっぱいなのに、これに加えて、”The Films of Edward Yang: Conversations with a Friend”ていう特集もある。あれこれ忙しいってのに、いいかげんにしてほしい。 

監督は問答無用のJohn Ford、邦題は『バファロー大隊』 - 原題の「ラトレッジ軍曹」でよいのに… 黒人俳優を主役に据えた最初のハリウッド西部劇 – らしいがオープニングタイトル上は、主役扱いではなかったような。

35mmフィルムでの上映で、米国から来るはずだったフィルムが、クオリティがあまりよくなかったので、急遽スウェーデンからの手配に変わった – スウェーデン語字幕が入っているけど許してね、と冒頭に説明があった。ものすごくきれいなテクニカラーだった。どうでもよいけど、西部劇とかカンフー映画の上映素材って、適切なプリントで上映するためなら命がけ(ではないけど)でなんとか海を越えて運んできたりするよね – 米州X欧州の場合。

舞台は1881年の、西部劇というよりは法廷劇で、第9騎兵隊のBraxton Rutledge1等軍曹(Woody Strode)の軍法会議を中心に展開していって、証言に基づくフラッシュバックで法廷の場と過去の現場を行ったり来たりする。Rutledgeの弁護に立つのは同騎兵隊の将校でもある若いTom Cantrell (Jeffrey Hunter)で、野外の掘っ立て小屋のような議場は、暑くて騒がしい村人たちや着飾ってお喋りするご婦人たちで溢れていて、そのだれた雰囲気に苛立つ判事たち - 水の代わりに酒を飲んだりしてる - も含めて、きちんとした裁きが行われるとは思えないかんじ。

Rutledgeは白人の少女をレイプして殺し、更にその父親で指揮官も殺した容疑で連れてこられていて、まずはMary Beecher (Constance Towers)が証人として立って、Rutledgeに命を救ってもらった、と証言するものの、全体としては殆ど喋らず不動で弱さを見せようとしない(親しかった彼らにそんなことをするわけないではないか、と無言の)Rutledgeに疑念が向かい、この雰囲気を覆すことは難しいように思われて..

フラッシュバックで犯行時の現場の映像も出てくるものの、全体に夜の闇のなかで事件は起こるので、見ている我々にも実際にあったこと -彼がやっていない証拠 - が明確に示されるわけではなく、他方で、Rutledgeを犯人として見ている(別の可能性を頑なに考えようとしない)白人たちの、犯人は彼に決まっている、から、どうしても彼に犯人であってほしい/彼でなくてはならない、の確信を固めて深めて同意を得ようとする、その意識の流れのなかに見ている我々をも引きずりこんで、結果として人種偏見や差別のありようを、少なくともその構成要素のようなものを見せる。それは、公民権運動が盛りあがり始めた当時のアメリカに向けた(それどころかいまの我々の社会にも十分、嫌になるくらいに通じる)過去の他人事にはさせない作劇で、今回は決定的な証拠が見つかったので落着するのだが、それがなかったらどうなっていたか、も含めて考えさせて、最近のだと”Juror #2” (2024)と同じくらいの難しさと手元の緊張をもたらす。

法の裁きの必要性と正当性を示しつつも、そこまでで、裁きの場に来る前に闇で消されてしまった可能性だってあった、そんなような正しさ、正義、という点ではまだ弱いのかもしれないが、John Fordがこういうのを作って、あるべき道のようなものを示した、というのは決して小さくなかったのではないか。

そういうのとは別に、軽くもなく重くもない、立ち止まって考える隙を与えない、手に汗握るおもしろさ、というのはあって、あれはなんなのだろう、って。

[film] Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

2月1日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

2月〜3月は、ここを中心にChantal Akermanの大規模な回顧特集 - “Chantal Akerman: Adventures in Perception”があって、その最初の上映。

BFIの大看板は本特集のChantal - 基調色はJeanne Dielmanのガウンとカーディガンと部屋の色 - になるわ、Sight and Sound誌のChantal特集号は過去のインタビューやレビュー(J. HobermanがVillage Voiceに寄稿したのとかJonathan Rosenbaumの過去の論考とか)を網羅して大充実だわ、Soho のマガジンスタンドのウィンドウが一面これの表紙で埋まっているわ、”Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)は公開50周年記念で全英でリバイバルされるは、このBFIの特集もフルではないが英国をツアーするそう。 この裏で何が進行しているのか(しねーよ)知らんが、ありがたく見ていきたい。

でもこの初回の上映も含めてあまり盛況とはいえない - Sold-outしたのはないかも - という客の入りで、それはそれで納得かも(満員だったらちょっと変)。

コロナでロックダウンしていた頃、Chantal(とAgnesの)は配信で結構見たので今回はそんなに行かなくてもよいか、と思っていたのだが、中編〜2時間いかない作品の上映にはおまけのようにTV放映されただけの短編作品などの併映がついていて、これらって見ていたかしら? というのも多くて、結局見てしまうことになるのだった。 以下、上映された順番で。


Akerman – Examen d’entrée INSAS – Knokke 1967 (Films 1-2)
Akerman – Examen d’entrée INSAS – Bruxelles 1967 (Films 1-2)

Chantal Akermanが国立の映画学校(INSAS)の入学用にモノクロの8mmフィルムで撮って提出してAcceptされた作品、というか全部で4つ、ぜんぶ足しても14分程の断片。Chantalの友人の女性が夏の町を歩いたり靴屋に入ったり花火を眺めたり、の昔のアルバム。一瞬だけ写っているのはChantalのお母さんなの?


Saute ma ville (1968)

↑で入学した学校をさっさと中退して、18歳のとき、いきなり撮りたいんだ!と思いたち35mmで一気に撮ってしまった彼女のデビュー作 - 13分。 英語題は”Blow Up my Town”。

しゃかしゃかしゃかどっどっどぅーとか口の中でせわしなく音をたてたり呟いたりしながらChantalがアパートらしき建物に駆けこんで、そのままリフトで上にあがって(おそらく)自分の部屋に入って入り口をテープでとめて、花を飾ってスパゲッティを食べて靴を磨いて掃除をして、ガス栓を開いてどっかーん。

世界で最初かつもっともパンクな〜 パンクなんてなかった頃だけど、こういうもん、ということを示した映画だと思う。ゴダールみたいに臭くないし。 最初にこうして自分を粉みじんに吹っ飛ばしてしまったので、この後の彼女(たち)はどこにだって行ける、現れるようになった。


Chantal Akerman par Chantal Akerman (1997)

↑から更に30年が過ぎて、Janine BazinとAndré S. Labartheによる”Cinema of Our Times”というTVシリーズ?の要請を受けて彼女が自分で自分を紹介していく。(このシリーズ、すごい面々が出てくるのね)。

最初にカメラに向きあったChantalが自己紹介をして、そこから自身で編集したと思われる自作品を繋いでいく。

改めて彼女の作品の主人公たちのカメラとの距離について - カメラはあくまでChantalの目とボディとなって、その距離を保ちつつ被写体に接していく。その距離のルール、法則のようなものはずっと維持されているような。あとは光に対する/向かう態度 ~ いろんなスイッチのオンオフとか、窓を開ける動作とか。

抜粋映像集でおもしろかったのは、”Les Années 80”(1983)でブースで歌うAurore Clémentの前で腕をぶんぶん振りまわしながら指揮(?)をしている姿と、”Jeanne Dielman”の靴磨きのシーンと”Saute ma ville”のそれを繋いでみせたところ、とか。 なんでそれが - それをどうしておもしろいとおもってしまうのか、を考えさせてくれる、自分はそういう映画を好きなのだな、と改めて思った。 のと、それと関係しているのかもしれないが、何度でも見たくなる。それは記憶の答え合わせをする、というよりも、別の新たな出会いがあることを期待しているかのような。そしてそれは間違いなくやってくるの。

あと、彼女のどの映画にも共通したやかましさ - 絶えず落ち着かずにがちゃがちゃなんか鳴っていたり騒がしかったり、それは彼女自身がそういう人だったから - という辺りはじっくりと見ていきたい - もう見てる。

2.07.2025

[theatre] The Years

2月1日、土曜日のマチネをHarold Pinter Theatreで見ました。 
昨年Almeida theatreで上演されて、Guardian紙の2024年演劇ベストとなった作品のリバイバル(?)。

原作は2022年にノーベル文学賞を受賞したAnnie Ernauxの小説、”Les Années” (2008) - 「歳月」(未訳?) - マルグリット・デュラス賞、フランソワ・モーリアック賞を受賞している。脚色・演出はオランダのEline Arboで初演もオランダ。彼女はこれの前にはMichael Cunninghamの”The Hours” (1998)の劇作もしている(見たい…)。 

小説では「彼女」とされているErnaux自身を世代の異なる5人の女優が演じていて、各自が名前で呼ばれることはない。第二次大戦の少女時代から00年代初まで、約70年間を彼女(たち)はどんな顔、貌で過ごして、生きてきたのか。彼女たち全員、ずっとステージ上にいて、男優はひとりも出てこない。

時代の切れ目には白いシーツを背景にその時代の主人公となる「彼女」の肖像写真を撮るシーンがはさまる。彼女はどんな表情、姿勢で世界に向かっていったのか - そして、その背後にある世界は大戦後の混乱期から、アルジェリア紛争、60年代の学生運動、ヒッピーの自由、新しい技術、バブル、結婚、倦怠、など、激動ではないが変わるものは変わる - 時代時代の空気を反映して、当然年齢と共に彼女(たち)の服装も態度も表情も変わっていく。 その時代の纏い方、文化や音楽の使い方、その相互に変わっていく姿に違和感はなくて、それが彼女(たち)の像と歳月(The Years)と共にどう変わっていったのか、変わらないもの、忘れられたもの、忘れられなかったものはなんだったのか、彼女(たち)はどう向かいあっていったのか、など。 肖像写真の背景となった白いシーツはドラマのなかで汚れたり汚されたり落書きされたりして、それらは時代ごとに幟のように掲げられ、あるいは壁の落書きのように貼られてそこにずっとある。

これのひとつ前に見た映画”Here” (2024)も、こんなふうに描かれるべきものだったのかも知れない。(タイトルは”There”、かな)

Annie Ernauxの別の小説 -『事件』を映画化した”L'evénement” (2021) -『あのこと』でも描かれた(当時違法だったので闇で実行した)堕胎のシーンはこの舞台にも出てきて、やはり怖くて凄惨で、気分が悪くなってしまった客がでた、ということで急遽15分くらいの中断があった。それくらい血まみれの息がとまる場面で、中断後に止まったところからすんなりそのまま再開したのを見て俳優さんってすごいな、って改めて思ったり。

それぞれの時代における彼女(たち)の「生きざま」を問うようなものではないの(そんなの問うてどうする?あんた誰?だれが何の資格があってよいとかわるいとかいうの?)。 彼女は例えばこんなふうにしてあった、ということ、人間関係や社会や歴史がどうあろうと、数十年かけて、彼女は自分の足で立って歩いて舞って、こんなふうに生きたのだ、わかるか? って。 最後、汚れてくたびれた布に、彼女たちひとりひとりの顔がモノクロで投影され、それがステージ上をゆっくりと回っていく。そうやって語られる”The Years”。 個人史と社会史は、例えばこんなふうに交錯しうるし、影響を与えあうのだ、と。20世紀の真ん中から21世紀にかけて、だけじゃなくて、実はずっとそうだったんだよ、何を恐れることがあろうか、って。 日本でも上演されてほしい。とても強く、でもぜったい正しい - 時間が流れていく、その正しさとは例えばどうやって示されるのか、を考えさせる舞台。

ラスト、主演の5人の表情と立ち姿がすばらしくよくて、もう一回見たい。

2.06.2025

[film] Here (2024)

2月1日、土曜日の昼、IslingtonのVueっていうシネコンで見ました。

英国の公開日は1/17だったのに、もうロンドンの中心部ではない少し外れたシネコンで朝と晩の2回くらいしかやっていないのだった。

監督はRobert Zemeckis、共同脚本にEric Roth、原作はRichard McGuireの同名グラフィック・ノベル(2014)。原作本は出てすぐの頃にNYで買って転がして遊んだりした。

ううむやはりそうか(ちょっと安易すぎない?)、というかんじで、画面(スクリーン)はひとつの家のリビングの窓に向かって固定で、最後までほぼ動かない(最後の最後に少し..)。その固定の枠のなかに小さな窓ができたり開いたり、その窓が広がって画面全体を覆ったり縮んで消えたり、でも視野の枠はあくまで変えず変わらず。その枠のなかで先史の、古生物や恐竜がいて、隕石が降ってきて焼き尽くして氷河期がきて、原始人が現れて、ネイティブ・アメリカンがきて、独立戦争の時代になって、正面に邸宅ができて、大きなリビングをもつこの家が建って、リニアだとこんな流れになっていく景色を伸縮自在の小窓経由でランダムに行ったり来たりしていく。 恐竜や原始人の家族までカバーするわけにはいかない(なんでか?)ので、飛行士とその妻、リクライニングチェアを発明した男と陽気なその妻、主人公の2世帯の後に入居するアフリカン・アメリカンの家族(コロナが来て家族が亡くなる)、そしてメインに来るのは戦後、この家を買ったAl Young (Paul Bettany)とRose (Kelly Reilly)の夫婦と、その息子のRichard (Tom Hanks)、大きくなったRichardが連れてくる妻Margaret (Robin Wright)、間を置いてよぼよぼになったRichardが家を買い戻しにやってくるシーン、同様に老いてすべてを忘れてしまったMargaretを連れてくるシーンもあったりして、彼らがCGなのか特殊メイクなのか(… AIなんだって)、若い頃から老いた頃まで演じ分けて、でも別にこんなのを見せたいわけじゃないよね。

Alも息子のRichardも、家族のために自分の夢を捨てて、ふたりの妻たちはそんな夫たちに泣いたり振り回されたり、典型的な戦後のメロドラマ、家族ドラマのテンプレが展開される - その背景には不眠不屈のアメリカン・リビングがあり、そのリビングではサンクスギビングで家族親族が集まるディナーが懲りずに繰り返され、そういう最大公約数のようなところに集約されるアメリカの”Here”。みんなの記憶が集積される想い出アルバムのような造りで、でもそうやって懐かしまれる、あったあったねえー、ではなく、そういうページ、レイアウトされた歴史のありように気付く → 自分の”Now”に思いあたる、ということが原作本のコアにあったはずで、それは映像で説くのは難しいから、こっちのわかりやすい方に落としたのか、とか。

この導線ってやはり物理的な、キューブみたいな本だったからおおー、ってなったのではないか。

これが日本のだったら、溝口の格子模様(畳と障子)のなかに展開される、家父長制がちがちの金太郎飴的に明白なのができあがったはず(見たくない)。
これがイギリスのだったら、“Here”に幽霊から妖精からいろんなのが湧いてきてわけのわかんない、でも300年くらいそのまま同じ景色になるのではないか(見えるわ)。

Christopher Nolanがやったらどうなっただろう? まちがいなくあの本棚が”Here”になって、過去と未来は繋がっているので、いつまでどこまでいっても“Here”のままで止まってしまうの。でも本がいっぱいあるならずっとそこで過ごせるよ。

Tom Hanksのおうちネタといったら”The Money Pit”(1986)で、あれと同じことをやってくれるかと思ったのにー。

2.04.2025

[film] Saturday Night (2024)

1月31日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

この作品は、昨年のLFFのシークレット上映(直前までタイトルが発表されない)枠で公開されて、発表直後にはみんなわーってなったのだが、その後に急に静かになったので、あれかな.. と思ったらやっぱり評判は散々なのだった。監督はJason Reitman。

でも、Saturday Night Live (SNL) ~当初は”Saturday Night” - は大好きでずっと見てきたので、公開初日に見る。 予告を見るまでもなく、つまんなくなるのはわかっていたのだが…

1975年の10月11日、土曜日の晩、生放送のコメディーショウの本番の数時間前の、プロデューサーLorne Michaels (Gabriel LaBelle)の経験した地獄のような底なしの混沌をライブで追っていく。ロックフェラーセンターの下で(Finn Wolfhardが)客寄せをしても客はちっとも寄ってこない、局の重役(Willem Dafoe)はがみがみうるさい、リハーサルはできているのかいないかぐじゃぐじゃ、John Belushi (Matt Wood)は契約書にサインすらしないでぼーっとしている、等、いろいろどうしようもない状態で本番の時が近づいて... をじりじり逐次で追っていく。

この日が失敗に終わっていたら、現在のSNLは存在していないのだが、番組もLorne Michaelsもいまだに健在なので、この晩はどうにか切り抜けたのだ、ということはわかっている - だとしたらそこにどんな魔法や奇跡があったのか起こったのか。この映画を見る限り、魔法なんて起こらなくて、ごちゃごちゃの中、なし崩しで放映が始まって、そのまま50年間続いてしまった、ということになる。それはそれで痛快なことのだろうが、映画としてこの描き方はどうなのか。

映画を見る前から感じていた、つまんないだろうな、というのは、この番組の、何が起こるのか飛びだしてくるのかわからない、そのはらはらをうまく再現できるとは思えないし、それらはアドリブ芸しかないような神経と瞬発力を持ったコメディアンたちが綱渡りの曲芸で渡ってきた - そんなライブの醍醐味を後付けで再現しようとしても… ということ。70年代の伝説のライブを、「伝説」だから、って別のミュージシャンを連れてきてカバーして見せてもしらーってなるであろうのと同じで。

わたしがSNLにはまったのは90年代初のNYで、Chris FarleyがいてAdam SandlerがいてDavid SpadeがいてNorm Macdonaldがいて、次のは00年代のはじめのWill FerrellがいてJimmy FallonがいてTina FeyがいてMaya Rudolphがいて、そういう頃で、どのスケッチも英語なんてわかんなくても異様におもしろくて、それでもやはりこういったスタイルと構成を編みだした初代メンバーの恐ろしさとリスペクトはあちこちに感じることができたし、いまアーカイブを見てもすごいな、ってなるし。

でもこの映画では、本番開始前なんてそんなもん、なのかもしれないけど、John Belushiはただのむっつりした変人だし、Andy Kaufmanはどこがおもしろいのかちっともわからないし、Chevy ChaseもDan AykroydもGilda Radnerもいるかいないか、ものすごく薄いし、現場がパニックになっていくなか、Lorne Michaelsはひとり涙目になったり開き直ったり、そんな程度で、なんでどうして本番にGoを出せたのかぜんぜんわからないただの修羅場、しかないの。

なにか新しいことを始める時って、だいたいそんなものだ、なんてしたり顔の言い草は聞きたくないしー。いや、そんなことよりも何よりも、SNLへの愛をあまり感じることができないのがどうにもしんどい。

SNLがどういうサークルだったのか、だったらこないだリリースされたドキュメンタリー“Will & Harper” (2024)のがよりよくわかるかも。


建物の前の人工の小さい池に落ちて、膝を切った。ライブハウスに行く時に転んだ時の膝の反対側。あれこれダメすぎる。

[film] A Warm December (1973)

1月30日、木曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”で見ました。

もう1月は終わってしまったので、この特集からは2本しか見れなかったことになる。残念。 上映後に主演女優のEsther Andersonとのトークつき。

Sidney Poitierは主演のほかに、監督 – これが初の単独監督 - もしている。 邦題は『12月の熱い涙』。

アメリカで、Dr.と呼ばれているのでなにかの医者と思われるMatt (Sidney Poitier)は、一人娘のStefanie (Yvette Curtis)とモーターバイクと一緒にイギリスに長めの休暇に出る。現地で友人とも楽しく再会したあたりで、怪しげな男たちに追われて困っている女性を体で隠して助けたあたりから彼女のことが気になり始めて、そしたら行く先々で何度も怪しい連中こみで見かけたり会ったりすることになって、きちんとした形で会ってみると彼女はCatherine (Esther Anderson)という名の、アフリカのどこかの国の大使の姪で、彼女を追っかけていたのは彼女の御付きの連中であったことがわかる。

Catherineは語学に堪能で、特にアフリカの文化には造詣が深くて、一緒にパーティなどに出たり楽しく過ごしていくと、早くに妻を亡くしているMattはあっという間(あんなあっさり簡単でよいのか)にCatherineと寝てしまい、彼女付きの連中に睨まれながらも馴染んでいって、Stefanieとも一緒に出かけたりするのだが、ヘリコプターに乗った時にCatherineの様子がおかしくなったことに気付いて、医師なので更に細かく調べてみると難病であることがわかって…

そうか難病モノだったか、と思ったのだが、ここでの難病のありようは、ふたりで楽しく過ごそうとしていた時間を壊してしまってどうしよう.. ってあたふたするその繰り返しが主で、それって子供の頃にTVでやっていた山口百恵主演のシリーズ(親に見せて貰えなかったけど)と似た70年代テイストの、いなくなったら辛くて死んじゃう、というよりも、とにかくなんとかしなきゃ、という焦りが前に後ろにつんのめっていくような類のやつで、そんなに怖くなくて悲しくもならなくて、国にとって大切な王妃のようなお嬢さまがそんなふうに野放しでよいのか、って最初の問いに戻ったりするものの、とにかく大変そうなかんじは伝わってきて、でもそこまでなの。

『ローマの休日』 (1953)+『ある愛の詩』 (1970)から影響を受けた、とあって、このふたつの映画の合成となると、どっちにしてもすごく大変な事態(当事者たちにとって)だと思うのだが、真ん中のふたり - Sidney PoitierもEsther Andersonも - それらをなんか、なぜか超然と受けとめていて、最後も無事を祈る、みたいに飛行機でふわっと飛んで帰っていっちゃうので、見ている側としてもとにかく無事を祈る、しかないのだった…  

あと、これはこの映画に限った話ではないのだが、70~80年代のロンドンが舞台だったりすると、これどこだろ?ってきょろきょろして落ち着いて見ていられなくなるのはよくない。

上映後のEsther Andersonさんのトークは、映画のCatherineがそのまま活動していったら、と思わせるようなエピソードだらけでびっくりした。

1943年のジャマイカに生まれてChris Blackwellと共にIsland Recordsの設立に関わり、Bob MarleyやJimmy Cliffといったレゲエ・ミュージシャンの紹介をして彼らの写真を撮って.. えーとつまり、この人がいなかったらジャマイカの音楽がイギリスのパンクとぶつかってあんなふうになったりすることもなかったかも… とか? あと3時間くらい話を聞きたかったかも。

Sidney Poitierの撮影現場はとても楽しくて、彼はあのイメージ通りのすてきな人だった、っていやそんな知ってることよりもー。

トークが終わって、彼女のところに挨拶に来た人に「ラスタファーライ」ってものすごくナチュラルに挨拶してて、おお! っていちいち。

2.03.2025

[theatre] The Little Foxes

1月29日、水曜日の晩、Young Vicで見ました。

原作 (1939)はLillian Hellman。彼女の戯曲が上演され、俳優の声と共に演じられるとどんな形になるのかを見たい - 演劇を見始めておもしろいと思うようになったのはこの辺で、原作の(今の時代における)位置づけ以上に、そこには演出家による解釈があり、過去からの上演の歴史があり、主演俳優(の選定)による重みづけがあり、時代の要請のようなものもあり、それらの交点として、今ここの舞台ってあるのか、など。演出はLyndsey Turner。

過去の舞台で主人公のReginaは、Anne Bancroft、Geraldine Page、Tallulah Bankhead、Elizabeth Taylor、Stockard Channingといった錚々たる女優たちによって演じられてきたのね。

あと、1941年にはWilliam Wylerによって映画版も制作され、Lillian Hellmanはその脚本も書いている(一部でDorothy Parkerが協力)。映画版でReginaを演じたのはBette Davis、夫のHorace 役はHerbert Marshall、撮影はGregg Toland … ものすごく見たい(1930〜40年代のWilliam Wyler監督作品はぜんぶ見たい)。IMDbにはリリース直後の『市民ケーン』が当たらなかったので、これと二本立てで再リリースされた、なんて書いてある…

舞台は横に長くのびているリビング、奥にスライドするドアがありその向こうにもう一つの部屋があって、その中で男たちがひそひそ打合せ(悪だくみ)などをしたりしている。

20世紀初めのアラバマ、南部の裕福な家庭に生まれながらも、その富や栄誉を享受しているのは Regina (Anne-Marie Duff)の兄たち - Ben (Mark Bonnar)とOscar (Steffan Rhodri)で、彼らが特に腹黒いわけではないのだが、Reginaからすれば彼女がどれだけがんばっても得られないものを、男性であるというだけで当然のものとして手にして/手にできるものと何の迷いもなく信じていて、彼女は自分の言いなりにできそうな脚が不自由で車椅子のHorace (John Light)と結婚して歯を食いしばって耐え、株の買い占め、政略結婚などによる強引な財産(だけでなく精神的なところも含め)の寡占に抵抗すべく、誰にも頼らずひとり策謀を練って実行しようとする。親族にはBenの妻であるBirdie (Anna Madeley)や自分の娘Alexandra (Eleanor Worthington-Cox)といった女性たちもいるが、もはや自分しか信用できなくなっている。

Anne-Marie Duffの演技は十分にふてぶてしく邪悪で力強いのだが、なんで彼女がそうなって、そこまで酷い仕打ち - 夫の心臓発作を放置とか - をするまでになってしまったのか、の背景 - アメリカ南部の男性中心社会の(相続なども含めた)圧倒的な理不尽・不均衡 - がきちんとかつ十分に語られないので、ただのぺったりした悪女もので終わってしまっているようなー。積もり積もった愛の不在と無意識的なところも含めた集団的な女性卑下・蔑視がずっとあったから、という女性の入り込めない土壌をはっきりと示して、その上で/それでもー というところに繋げないとReginaの悪は生きたものにならない、よね。

Lillian Hellmanの原作が戦後の復興期に出されたこと、それを善悪の境界を突き抜けた強さ・存在感をもつ女優たちが演じてきたことには意味があったし、それがいま(だけじゃなく)再演されることにもはっきりと意味はある、はずなんだけどー。というような難しさを抱えた舞台になってしまうのだなー、というのはわかったかも。


2.01.2025

[film] A Complete Unknown (2024)

1月27日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

帰英したら真っ先に見ようと思っていたのだが、いまこちらの映画館で一番に掛かっているのは“The Brutalist”で、他には”Maria”とか”Emilia Pérez”とか、オスカーに向けて横並び状態なので、そんなに騒がれていないかも。

監督はJames Mangold、脚本は彼とJay Cocksの共同、原作はElijah Waldによる2015年のBob Dylanの評伝本 - ”Dylan Goes Electric!”。 あの邦題はよくわかんない。これは断じて「名前」や名声を巡る話ではない(そこもひっくるめての、なのか)と思う。

Dylanを演じるTimothée Chalametについては、先のSNLのパフォーマンスで嫌になり、その後の彼の露出の仕方、売り方を見て、あーこういう人なのか、と距離を置くようになった。

1961年にNYにやってきたBob Dylan (は、まず病院でほぼ寝たきりのWoody Guthrie (Scoot McNairy)と彼の面倒を見ているPete Seeger (Edward Norton)と会って、ギターで一曲弾いて聞かせて、それからNYのフォークシーンに出入りするようになって、いろんな人々と出会って、そこから我々の知るいろんな伝説が渦を巻いていくわけだが、それらすべては、まず彼が手にするギターと歌によって導かれて、まずは彼の音楽を起点とする、というルールが場面を貫いて掟のようにある、という点でこれは紛れもない音楽映画で、音楽が途中でぶちっと切られて次のシーンへ、のようなのが殆どないのはよかった。いい曲だねえ、って首を振っているうちに140分経っている。

最初のガールフレンドが、あのジャケット写真で有名なSylvie Russo (Elle Fanning) - 実際の名前から変えてある –で、そこから既にシーンのスターになっていたJoan Baez (Monica Barbaro)のところにも入り浸って行ったり来たり。あとはManagerとなるAlbert Grossman (Dan Fogler)がいて、Johnny Cash (Boyd Holbrook)がいて、Bob Neuwirth (Will Harrison)、Al Kooper、Mike Bloomfield、などが順番に現れる。 テープレコーダーをいじっているAlan Lomax (Norbert Leo Butz)が映ったのがうれしかった。 朝ドラの枠(15分)で、一日一曲、彼らとの出会いをずっと繰りひろげていくのが見たい。

こんなふうに彼を求めて周囲にいろんな人物がひしめいていく反対側で、Dylan本人はほぼ何も語らず、思わせぶりに微笑んだり殴られたり、いつの間にかできあがっているような曲を場面場面で歌って去っていくだけ。もちろん、歌うことで何かが明らかになったり解決したりするわけではなく、聴かされた人々はその場で痺れて動けなくなる、それはそれで恐いと思うが、そういうかたちで伝説が練られていった - Dylan本人に対する謎と、その重ね着と、その上に積もっていく人気と売り上げ、これらに埋もれてどんどん見えなくなっていく彼 – これが”A Complete Unknown”というもので、彼に恋をした女性たちからすれば地獄だと思うが、それらも含めて”A Complete Unknown”で、かっこよくて、曲がよければよいの? など、そういう形で示されていく彼の周囲の文化のありよう、その蓄積? 変容? のようなもの。

Newport Folk FestivalでDylanがエレクトリックを鳴らすかもしれない、となった時の周囲の混乱と困惑がクライマックスで描かれて、ずっと父親のように彼を見てきたPete Seegerは、これまでのフェスが培ってきたよき「伝統」が壊されてしまう懸念を表明するのだが、結果はみんな知っているとおり。 この音楽映画に欠けているものがあるとすれば、そんな全方位からの抵抗に抗ってもなお、彼をエレクトリックに向かわせたものは - 苛立ちなのか懐疑なのか嫌悪なのか、単なる好奇なのか - 何だったのか、を彼の視野 - 彼が当時見たり聞いたりしたもの – から拾いあげることで、それがないので、これらはぜんぶ彼の勝手で、それは彼が天才だったから、で終わってしまう。それは事実なのかもしれないけど、そうでもないことも知っている。 だって当時の音楽はフォークもエレクトリックもとんでもなく豊かだったのだから。

もっとエレクトリックのビリビリしたかんじ、スネアの炸裂があったら、なぜフォークの人たちはあんなにもこういうのを忌み嫌ったのか、などもわかったかも。

この映画のTimothée Chalametは確かにかっこよいのかもしれないが、当時の実物のDylanはこれを遥かに上回って素敵だった(はず)、ってこれは年寄りが言い続けるしかないのか。というか若い子にDylanを聞かせるにはこうすればよいの、って。

これを見ておおー、ってなった人は3月のCat Powerの来日公演、行ったほうがいいよ!