9月21日、土曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。英語題は“The Count of Monte Cristo”。原作はもちろんアレクサンドル・デュマの同名小説(1844)。
監督・脚本はMatthieu DelaporteとAlexandre de La Patellièreのふたり。このふたりは『三銃士』もやっているのね。
上映時間が2時間53分という長さなのでこんなの無理、って諦めていたのだが、結構長く上映されているところを見ると割と人気があるみたい。この回も20時過ぎからだったのに、近所に住んでいるっぽいおじいさんおばあさん達が、わーわー言いながら見ていた(お茶の間じゃないのでもう少し静かにしてね)。
今年のカンヌでコンペティション外作品として上映されている。
原作はおおむかしにたぶんダイジェスト版の『巌窟王』を読んだ – そんなの読んだとはいわない - 程度なのでどれくらい、の話はむり。
原作に忠実になのか、現代に即した超訳みたなのになっているのかは置いておいて、この日の4本目なのに眠くはならなくて、おもしろかった。
冒頭、燃えている船と海から脱出した船乗りのEdmond Dantès (Pierre Niney)がAngèleという若い女性を助けて、彼女から手紙のようなものを受けとり、それとは別に無事戻ってきたご褒美に船長に昇格されて、つきあっていたMercédès (Anaïs Demoustier)とも結婚まで行くのだが、結婚式の当日に手紙のせいで検事Villefort (Laurent Lafitte)に引ったてられよくわからない濡れ衣着せられて孤島の地下牢に幽閉されて10数年、もう死のうと思ったところで、壁に穴があいて隣の牢にいた太った男 (Pierfrancesco Favino) – あんま神父には見えない - と出会って、彼からいろんなことを、特にモンテ・クリスト島に隠された財宝も含めて – 教わり、生きる希望も湧いたので体を鍛えて、彼が亡くなった時に彼の亡骸にすり替わって島の外 - 海の上に捨てられ脱出することができて、モンテ・クリスト島までたどり着く。財宝を発見するところは、ややちょろくて、それだけ? になるけど。
こうして財宝の富により謎の男 – モンテ・クリスト伯爵に変身したEdmondが実家に戻ってみると、MercédèsはEdmondの横で坦々と彼女を狙っていたFernand (Bastien Bouillon)の妻になっているし、父は失意のなか亡くなっているし、これはもう復讐するしかないな、って検事とFernandとDanglars (Patrick Mille)の3人に狙いを定めて、こいつらのせいでひどい目にされた子供らを自分のところに寄せ、マスクで少し顔を変えて謎の富豪として社交界に出没するようになる。
彼の正体を巡るいろんな憶測やまさか.. がいり乱れ、その土台からしていかがわしい社交界に亀裂を走らせ、その亀裂めがけて復讐の狼煙が、という流れ。
復讐にすべてを賭けるのはよくない、って獄中で諭され、それはその通りと思うものの、あれだけの財力があって他にすることもない、子供たちは勝手に恋などに熱くなったりしている、となったら自分は一途に復讐に向かうしかないか - 片付けて次に向かうためにも。この辺、やたら情念をめらめらさせて吠えたりするのではなく因果の風車が廻るなか選択肢などが整然と並べられ絞られていくのはよかったかも。あっさりしすぎ、って言うひとは言うかもだけど。
他方で、そうやって流れていった果て、最後の決闘のシーンは雷落として嵐を呼んで、もっとどろどろぐしゃぐしゃの地獄絵にしてもよかったのではないか - Johnny Toの復讐劇みたいに。どこまでをトドメとするか、というあたりまで測っていたようなので、物語の流れにはそれなりにはまるのだが、あと少しだけなんか炸裂して木っ端微塵に、すべてを台無しにするくらいの何かがほしかったかも。
この内容なら前後半で切ってリリースしても十分おもしろくなったのではないか、とか。
夕方、映画に行く前にMaggie Smithさんが亡くなったことを知る。
BFIで見た映画は、”Martin Scorsese Selects… “特集からの”The Pumpkin Eater” (1964)で、これにMaggie Smithが出てくるの。主人公(Anne Bancroft)の友人の風来坊みたいな役で、冷蔵庫の上にひょろっとした脚を折り曲げて座り、少し上を向いてその場で思いついたどうでもよさそうなことを喋る - 晩年の彼女のお喋り芸は既にそこにあるのだった。というのもあるけどこの映画、すごいから見てほしい。
彼女は3回ライブで見たことがあって、最初は2017年のBFIでのイベントのトークで、2回めはRoyal Balletの「白鳥の湖」の休憩時間で、話しかけないでください、って顔をして立っていて、3回目は2019年、Bridge Theatreでの一人芝居 - “German Life”。どれもぜんぶMaggie Smithだった。
ありがとうございました。ゆっくり休んで、気が向いたら降りてきてください。
9.27.2024
[film] Le comte de Monte-Cristo (2024)
9.26.2024
[music] Nick Lowe & Los Straitjackets
9月24日、火曜日の晩、London Palladiumで見ました。2日前のElvis Costelloと同じ会場で、今回取れた席もどういう偶然かひとつ隣のとこだった(どちらも数日前に取ったやつ)。
今世紀に入ってからNick Loweのライブを見ていないことに気づいた。最初のは87年のElvis Costelloの”King of America”ツアーの時で、このライブは自分にとってはとてつもない衝撃で、追加で出たのも買って見に行ったくらい – なので今度出るBoxセットについては悩んでいる。プレイヤーとかないのに – で、Nick Loweはこのライブの前座で歌っていて、別に太田区民会館での単独公演もあって、これはこれで待望のだったので行って感動して、以降年に一回くらいでやってくる彼の公演には通って、追加されるレパートリーに一喜一憂したりしていた。彼の来日が発表になるたび、今度(こそ)はバンドかしら? と思ったりしたのもよき思い出。
今回のライブを知ったのはElvis Costelloのライブ行こうかどうしようか悩んでいた頃にこんなのもあるよ、ってWebに言われたからで(こんなのばっかし)、Costelloの歌う姿を見ているうちに、Nick Loweも行かなきゃかも、になってきた。彼はもう75歳になる。 客の杖比率もCostelloのより高い。ついでにカウボーイ比率も高い。
前座は当初Chris Difford(Squeezeの)と発表されていて、これなら行かない理由があろうか、だったのだが直前に彼は来れなくなったそうで、Andy Fairweather Lowになっていた。 Eric Claptonの横でギターを弾いているおじいさん、くらいのイメージしかなかったが、三つ揃いの背広姿でアコギを抱えてべらべら喋りまくる - 演奏しなくてすむからな、って – ほぼギター漫談で、でも、あたりまえだけどその合間に鳴らすギターはめちゃくちゃうまい。 Nick LoweとはRockpileを組んだ時にDave Edmundsと一緒に初期メンバーだったのだそう。あとPaul CarrackやAndy Newmarkとバンドを組んでいた頃の話とか。 こういうどうでもいい話をあと2時間くらい聞きたかったかも。
今回バックを務めるLos Straitjacketsについては、全員覆面しているし、メキシコかなんかの(←偏見)B級バンドじゃないのか、となめていたのだが演奏がすごくしっかりしていたので後で調べてみるとナッシュビルのバンドで、創設メンバーにはThe RaybeatsのDanny Amisがいる。The Raybeatsといったらthe ContortionsとかNo Waveからthe Golden Palominos、Hoboken界隈まで関わりのあった偉大なインストバンドで、この辺は書いていったら止まらなくなるので省略。
とにかく、先に書いたように彼の音楽を今世紀に入ってほぼ聴いていなかった状態なので、一曲目の”So It Goes”のイントロがエレクトリックで鳴りだした瞬間に首のうしろがぞわああーってなった。すごくパワフルで圧倒されるというわけではなく、ヴォーカルが入ればいつもの穏やかな彼の歌になるのだが、彼のライブで演奏される都度、脳裏でイメージしていたエレクトリックの音が実際に、ついに聴こえてしまったからだろうか。彼の曲って、イントロの一音や歌いだしですぐそれとわかるものばかりなのでこんな一喜一憂が割とあったことを思いだしたり。
で、ここを過ぎれば割といつもの、というかこれまでのNick Loweのセットで、客を楽しませるというより自分の持ち歌 – 特に割と最近リリースした曲たち - を淡々と歌っていくスタイル - これ、当たり前といえば当たり前なのだが、でも一度でいいから”Labour of Lust” (1979) 全曲披露とかやってくれないものだろうか。
7曲くらいやったところでNickは引っこんでLos Straitjacketsが単独でサーフミュージックを数曲。サーフミュージックなんて、(退屈)とは言わせないんだから、という適度な気迫と芸道に満ちた楽しい演奏だった。このライブ、前座のはじめからして寄席っぽいんだけど、それがまたよい方に機能していて、バンドでやろうがソロであろうがこの辺は変わらないような。これって、小屋を渡り歩いていくフェスのノリとは根から違う気がする。
再びステージに現れてからも、新しい曲だってあるんだよ、って最近の曲をやった後で、”Cruel to Be Kind” ~“Half a Boy and Half a Man” ~ “(What's So Funny 'Bout) Peace, Love and Understanding” ~ “I Knew the Bride (When She Used to Rock 'n' Roll)” の流れはエヴァ―グリーンというのとも違う、でももう30年以上愚直にやっているやつだなー、って。いいかげんいつまで半分少年をやっているのですか、など。
アンコールの最後は、バンドをさげて、ひとりになって、憶えているかな? と自分に向かって呟きながら”Alison”を歌いだす。
この曲って、歌い方のトーンでAlisonの表情はどんなふうにでも変わってしまうのだが、こんなに静かに切々と鳴るのを聴いたのは初めてだったかも。
9.25.2024
[film] Mandy (1952)
9月16日、月曜日の晩、BFI Southbankの特集”Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”で見ました。
監督はAlexander Mackendrickで、彼がEaling Studiosで手掛けた5本のうち、唯一のノン・コメディドラマだという。原作はHilda Lewisの小説” The Day Is Ours”。1952年のヴェネツィアでSpecial Jury Prizeを受賞している。
米国での公開タイトルは、最初”The Story of Mandy”で後に” Crash of Silence”となった。こんなによいドラマなのに日本では公開されていない?
戦後、瓦礫が残る復興期の英国で、Christine (Phyllis Calvert)とHarry (Terence Morgan)の夫婦に女の子Mandy (Mandy Miller)が生まれて, 彼女の反応の仕方みて、耳が聞こえていないのではないか、って思ったらやはりそうで、それなら外の子とは遊ばせられないし、うちに置いて育てようというHarryと彼女のような子達を集めてユニークな教育をしているDick (Jack Hawkins)の学校を見学したChristineは対立して、結局Mandyはその学校に行くことになる。
この学校はマンチェスター郊外にあるRoyal Schools for the Deafがモデルだという。
学校でもMandyは孤立したり最初は大変でかわいそうだったのだが、少しづつ周囲への反応の仕方や伝え方が外向きに変わっていって、それを見て抱きあって喜ぶChristineとDickの関係をよろしくないかも、と思った学校側がHarryに伝えると、冗談じゃないってMandyを学校から連れ戻して家に置いて…
仕事が忙しくて殆ど家にいないくせに教育方針にだけは口うるさく、よからぬことはぜんぶ妻/母親や学校のせいにしようとするどうしようもない夫 – そこらじゅうで見る - がいちいちさいてーなのだが、それ以上に泣いたり苦しんだりしつつも外の世界に少しづつ歩み寄っていくMandyの姿がすばらしいの。
ふだん映画のカット割りとか音響とかあまり意識しないで見てしまう方なのだが、この映画の耳が聞こえる/聞こえないの境い目や、その境い目がブレークする瞬間のカメラや音の動きはすごいなー、って思った。こういうことか!ってMandyにも見ている我々にも直に伝わる。ラスト、外の世界に向かって歩きだすMandyの背中をとらえたショットのすばらしいこと。
The Man in Grey (1943)
9月17日、火曜日の晩、BFI Southbankの同じ特集で見ました。
監督はLeslie Arliss。 “Gainsborough melodoramas”と呼ばれ、1943から47年にかけてメロドラマとして売られたGainsborough Picturesの作品群のうち、時代が昔のそれだとコスチュームとも絡んで、なんだか特別な時代劇のように扱われるっぽい。 昼メロのようにゲスい展開と運命にめまいしつつ、あれこれ目を離せなくなってしまうやつ。
印象に残るオープニングロゴはThomas Gainsboroughが描いたSarah Siddonsの肖像だそうな。
原作はEleanor Smithの同名小説(1941)で、アメリカではベストセラーになったという。邦題は『灰色の男』。
1943年のロンドンで軍服を着た男女(Phyllis Calvert、Stewart Granger)がオークション会場で出会う。そこではRohan estateの品々が売りに出されていて、ふたりはこれらってどういう経緯でこうなっちゃったんだろうね? とか会話しつつ、戦時の停電規制でオークションが中断してしまったのでまた会おう、って別れる。
そこから舞台は1800年代初になって、お嬢様学校にいる快活で人気者のClarissa (Phyllis Calvert)とちょっと暗めの教師のHesther (Margaret Lockwood)が出会って、ClarissaはHestherとお友達になりたい、と近づくのだが占い師はHestherの運勢を見るなりこいつはやばい… って口をつぐんで、でもそのうちHestherは駆け落ちしていなくなり、Clarissaも家に戻ると裕福だけど陰気なRohan侯爵 (James Mason)と結婚させられることになる。
そこから先は謎の男Rokeby (Stewart Granger)とHestherのこと、Rohanの家に住むことになったHestherとClarissaのあれこれ、甦る占い師の予言、その裏で売りにだされていく家の品々が、ぜんぶ理由なんてない、もうどうしようもないから運命だからー、みたいなトーンで流れていく。ものすごく歪んだRohan侯爵とHestherの一見そうは見えない邪悪さと滞留しないで束になって流れていくどろどろ。 Downton AbbeyにAri Aster的な理不尽な暗さが挟まっている、というか。
でもこれ、「灰色の男」の話なのだろうか? 確かにこいつさえいなければ、という内容ではあるけど主人公はあくまでふたりの女性のような。
James Masonの灰色というより真っ暗な暗さはこないだ見た”The Seventh Veil” (1945)に続いて凄みたっぷり。英国の貴族ってみんなあんなふうになっちゃう(or こんなふうにしてやれ、って書かれちゃう)の?
最後にふたたび時代は現代に戻って、軍服姿に転生したふたりが手を繋いで走っていくの。軍服だから殺し合いはお手のものとか。
9.24.2024
[music] Elvis Costello & Steve Nieve
Elvis Costelloは先月70歳になって、先週見たRobyn Hitchcockも71歳で、年齢なんて...とか言いたくなくても自分も含めてもうあまり先の見えないどうしようもないところまできてしまった。会場にも杖をついた人がいっぱいいたが、どちら側も、いつそうなってもおかしくないことに備え、見れるうちに見れるものは見ておかねば、って。ふがふが。
9月22日、日曜日の晩、London Palladiumで見ました。ここでの2 daysの後のほうの。
最初の日はThe LIPA Hornsっていう管楽器団が一緒だったようだが、この日はThe Brodsky Quartetが一緒に。
前座はなくて、19:45にThe Brodsky Quartetが出てきて、先に彼らだけで少しやるのかと思ったら、Costelloもいつのまにか彼らの横に立っていて、マイクを手にして“Deliver Us”を歌いだす。彼らとの共演アルバム - “The Juliet Letters”からもう30年になるのか…
彼のライブはこれまでギター一本のからいろーんな形態のを見てきたほうだと思うが、Brodsky Quartetとのは見ていなかった。英国での公演で前回見たのは、2010年、Richard ThompsonがキュレーターだったMeltdown Festivalでのソロで、アンコールでRichard Thompsonが出てきて一緒に”The End of the Rainbow”を演ってくれたのだった。
このホールの弦楽器のすばらしい鳴りと、ギターを置いてマイク一本で歌に集中したときのCostelloのいろいろこめすぎて調子っぱずれになるところも含めた凄まじさを思い知らされた晩だった。スタンドマイクが右と左に2本づつ – 各役割は不明、真ん中にハンドマイクと、ギターを弾くとき用のスタンドと、過去にこのホールで公演したミュージシャンからコメディアンまで、彼らに敬意を表しつつそんな伝説になるのは今晩の自分だ、ってはっきりとポーズをとっていて、一曲ごとに立ちあがって拍手してしまう客も結構いたがそれも無理ないわ、ってくらい力強い。
個人的には、「19歳でこの曲を書いて、まだ書き続けているけど終わんないんだよなあーSteve?」って言って始めた”New Lace Sleeves”~” All This Useless Beauty”のあたりで泣いてしまう。 一番聴いていた頃のが”Trust”(1981)だし。
あとはBacharach との共作”I Still Have That Other Girl”からの”She”は、くさいなー、って思いつつもどうしようもない。あんなふうに弦を鳴らされたら。
ここまで、これ以上やられたらもう保たない、てなったあたりで第一部が終了。約1時間。
第二部は、照明がおちたらJazzmaster1本を抱えて左袖に立っていて、最初の一音でそれとわかってしまう”Alison”から、エンディングでギターを置いてそのまま”Over the Rainbow”を歌って、そのまま”(I Don't Want to Go to) Chelsea”に行くとか。お化粧直しをして、靴と胸のハンカチーフと帽子を揃いの赤にして(第一部での靴は金色)おしゃれだった。3つめの“Pills and Soap”でステージから消えたと思ったら通路に下りてきて割と近いところから反対側まで行って”I Can't Stand Up for Falling Down”をしつこいくらいわーわー歌って煽りまくる。
あとは最近息子にも言われたので哲学を勉強しなきゃいけないと思って、でも最良の哲学者はニューオーリンズにいるんだよ(御意)、って弾き語りでBobbie Gentryの”Ode to Billie Joe”とか、これ以外のカバーだと、Tom Waitsの”More Than Rain”とか。
ラストは今回のショートツアーでここだけ決まっているらしい”Shipbuilding”~ “(What's So Funny 'Bout) Peace, Love and Understanding”。 ”Shipbuilding”は戦争についての歌で、The Brodsky Quartetの弦が船を沈めるかのように包みこみ、“(What’s So Funny...”は、かつてのように痛快にふっとばすことを許してくれない。なぜこの2曲で締める必要があるのか、もちろんわかっているよね?
休憩を挟んでトータル3時間。これまで見てきた彼のライブは競演者の技を最大限引き出すべく立ち回るのと、(ソロの場合はもちろんそうだけど)その時のありったけのエモーションをぶちまけるのとふたつの方角があった気がするが、今回のは両方をものすごく過剰なくらい丁寧にやっていて、9月初のLeedsでの2日間、4セットで全キャリアを総括していたライブとあわせると、とにかく何かを残そうとしているようなかんじがあって。 まだいなくならないよね?おねがいだから..
さっき、同じ会場でNick Loweを見てきた。続けて書きたいところだが、もうむりー。
[film] My Favourite Cake (2024)
9月17日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
作・監督はイランのMaryam MoqadamとBehtash Sanaeehaの共同で、国はIran/France/Sweden/Germanyの共同となっている。
ベルリン映画祭でプレミアされ(ここではFIPRESCI Prizeを受賞)、そこに向かう直前にイラン当局が監督2人のパスポートを没収して出国を阻止して、その6ヶ月前には彼らのオフィスでハードディスクが没収されている。
日本で公開されるか知りませんが、このタイトルなのでまたふわっとした邦題でかわいらしくプロモーションされる(どーでもいいけど、あれら本当に気持ちわるいわ)のかもだけど、内容はとても過酷でシリアスな – つまりこれが現実 – ってやつだし、この内容が当局に厳しく検閲、弾圧されている、ということはどういうことか、映画を売る前に考えてほしい。
映画のなかでも”morality police”が町のそこら中にいて、ヒジャブが正しく着用されていないことを注意しまくるのに主人公が文句をいうシーンがあるが、日本の理不尽な学則とか教育委員会のあれと似ている。中にいて慣れてしまうと今の目の前のことがどれだけ異常か見えなくなるあたりもー。
テヘランの郊外、70歳で夫に先立たれてずっと住んでいる家にひとりで暮らすMahin (Lily Farhadpour)の日常が描かれる。
彼女は太っていて寝たり起きたりの動作も大変そうで、どこかで見た何かに似ている.. と思ったらマツコの体型かも。服もあんなふうだし。
昼頃に海外に暮らす娘からの電話で起こされるシーン - 夜はなかなか寝付けないのでほっといて - に始まり、がらんとした家で食事の支度をし、それをひとりで食べて、庭の植木に水をやり、市場に買い物に行って、道端でポリスに虐められている女性を助けたりする。 たまに定期的に会っている友人たちをランチに呼んで世間話をする。 夜になるとメイクを - 青緑のアイラインとか試してみて、割と似合っているのだが、ひと通りやった後に拭き取って溜息をつく。
ものすごい面倒とか困難があるわけではない、大きなドラマがやってくるわけでもない(そういうのがあるならくれ、の)日々が、彼女の背中とか表情を通して綴られていく。ドキュメンタリー、と言われてもそのまま納得して見れてしまうくらいの平熱感。
ある日、おめかしをして高級そうなホテルのティールームに行って、一人で席に通されて、でもなんかいたたまれなくなって、年金受給者のクーポンが使える町の食堂にいく。
そこでは自分と同じような年寄りが仲間同士で楽しそうに食事をしていて、でもそこから離れてひとりで食事をしている男性に目がいって、食堂から出た彼を追って話しかけてみる。
それがFaramarz (Esmail Mehrabi)で、Mahinはタクシー運転手をしている彼の車に乗りこんで、いろいろお喋りをはじめる。元軍人で、いまは一人で暮らしているという。なんとなくよい人っぽいので、Mahinは彼を家に誘ってみると、彼は少し戸惑いつつもタクシーを家の近くに停めて素でやってくる。
Mahinの方は服を着替えて、ワインを注いでつまみをだして、壊れていた庭の電気を修理してもらい、オーブンに火をいれてケーキを焼いて、一緒に歌って踊って、携帯で一緒の写真を撮って、(これは予告にもあるシーンだが)「死ぬのはこわくない」 - 「ひとりで死ぬのがこわい」とFaramarzは言う。
このふたりがここからどこに向かうのかは書きませんが、あの結末がなくても、ここまでだけでも老いてひとりで暮らすことについての見事な描写と省察になっていると思った。携帯で撮ったふたりの写真、そしてラストのMahinの後ろ姿が。
福祉や社会保障がどう、という話も少しはあるけど、そこではなくて、人はやがてひとりで死ぬのだ、人がひとりで死ぬというのは例えばこういうことなのだ、というのを切々淡々と。
救いも癒しもない。それはもう自然現象に近いことでもあるので、恐れても怯えてもしょうがないし、迷惑はかけたくないとか心の構え、なんて言っても無理なところは無理だし、結局そこに向かってどうする? になるのだが、そこに向かっているのは間違いなく今のこの瞬間の、この自分でもあるのだ、って。軽い話ではない、けど重く考えたところでどうなる? で、いつも固まってすべてが停止する。
そういうのを考えさせないようにしてひたすらビジネスとか利便性とかの方に優先順位を置こうとする今の社会の代理店化にはもうほんとうんざり。
映画は、とにかく真ん中のふたりが本当にすばらしいので見てほしい、しかない。
9.22.2024
[film] To the Public Danger (1948) + Stolen Face (1952)
9月15日、日曜日の晩、BFI Southbankの特集 - “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”で見ました。監督Terence Fisherによる中編と長編の二本立て。
To the Public Danger (1948)
43分。元はRadio playだったそう。
田舎の、他になにもないようなパブで最初のデートをしている男女がいて、そこにヤクザっぽい格好の男2人組がそういう車でやってくる。ひとりはぎらぎら漲っていて、もうひとりは最初から酔っ払っているのかラリっているのか。入ってきたふたりは男女 - 特に女性の方に目をつけて、一緒に呑もうぜ、って初めのうちはビリヤードみたいなゲームをしているのだが飽きてきたので場所を変えて呑もう! って、それに相手の彼を物足りなく感じはじめた女性が応えたので4人で車に乗り込んで何もなさそうな道を飛ばし始めて、既に酔っ払っているのではしゃいでぶっ飛ばしていたら自転車に乗っている人をはねてしまったようで、やばいじゃんとか言いつつもそのまま逃げてしまう。
唯一シラフっぽい彼が警察か救急車を呼ばなきゃ、とみんなに言うのだがだいじょうぶ誰も見ていなかったし、通報しておれらが酔っ払っているのがバレたらそれだけでしょっぴかれるぞいいのか? ってヤクザに凄まれて、さらにぼこぼこにされてしまうのだが、そのまま夜闇に紛れて逃げて、電話のあるところから警察に電話してもらうのだが…
そんなふうに彼ががんばってひき逃げ現場まで行き、それらしき家を見つけて警察と訪ねてみてもだめで、どうなっちゃうのか… になるのだが。
酔っ払い運転はだめよ、というこの頃からあるお話しなのだが、最後までどっちに転ぶかわからないはらはらと、あとはこんなふうに車に乗せられて巻きこまれたらどうしようもないよなどーする? って。
あと、自転車を轢いたか轢かなかったか、は最初に車を停めたところで見ればよいだけだったのに、それすらしなかったのは、それくらい酔っ払っていたから?
Stolen Face (1952)
72分。 Hammer Filmsの作品。
有名かつ優秀な整形外科医のPhilip (Paul Henreid) がいて、てきぱき仕切って万能なのだが忙しすぎてよろけたりするようになってきたので休暇に出るように言われ、その静養先の田舎の宿で風邪をひいて寝込んでいたコンサートピアニストのAlice (Lizabeth Scott) と出会って、ピクニックとかしたら恋におちちゃって、プロポーズしてみたけどだめ、って断られて彼女はヨーロッパのツアーに、彼は病院に戻る。
Philipは刑務所で収容者の社会復帰を促すプログラムで頬に残った大きな傷が理由で苦しんでいた女性Lily (Lizabeth Scott - 二役) のケアをして、その整形をする際に彼のなかで忘れじの面影だったAliceの顔をコピーしてしまい、それがあまりにうまくできたせいか、自分をふったAliceへのあてつけもあったのか、いきなりLilyと結婚する、って宣言して、周囲は彼女は過去にサイコパスって診断されていたしやめた方が、って忠告するのだがPhilipは自信たっぷりで聞かなくて、こうして最初は幸せに見えた結婚生活もLilyの浪費癖やぶちきれとか、かつての仲間との夜通しどんちゃん騒ぎなどで綻びはじめて、そんなさなか、PhilipはAliceと再会して…
お医者さんがそんなに外見 - 顔に拘って人の人生振り回して自分も振り回されてよいのか、というかそんなの自分は医者だからどうとでもできるってナメていたのか、なかなかすごいお話しだと思った。 (むかしブラック・ジャックにこんなふうな話なかったっけ?)Aliceにしてみれば自分の顔を勝手にコピーされてそのまま結婚までいくって、内面とか結局どうでもいいわけ? とかふつうは怒るのではないか。 (結末は予想できるようにLilyが破滅する/してくれるのだが、その後でPhilipがAliceと一緒になれるとは思えないよねえ)
Terence Fisher - 全然知らない監督だった - この後に”Dracula” (1958)や”The Curse of Frankenstein” (1957)を撮っていくのね - が、でっかい物語をつくる、というより変な巻き込まれとかツイスト & いろいろ突っ込める穴たちをうまく持ちこんでくる人だなー、って。 なかなか英国的、と言えなくもないような。
9.21.2024
[music] Robyn Hitchcock
9月14日の晩、HackneyのEartHで見ました。ここに来るのは2019年のRaincoats以来か。
この日は朝からOxford Open DoorっていうのでOxfordに行っていた。この土日、普段は入れない・入るのが難しいOxfordの学校とか教会とか施設に入れるというやつ。
ロンドンでも建物とガーデンで同様のがあって、建物のOpen Houseは同じタイミングだったのを後で知ってううーってなった。同じ日にやることないじゃんか。
Christ Churchに行ってMerton Collegeに行ってMagdalen Collegeに行って、New Collegeに行ってOxford Union Societyに行って、久々にAshmolean Museumにも行った。
Christ ChurchのLibraryではLewis Carrolの展示を、Magdalen CollegeのOld LibraryではC.S.Lewisの展示をやっていた。Oxford Union(社交クラブ)のOld LibraryのWilliam Morrisの天井模様は見事だったが、置いてある本はそんなでもなかった。 でも全体としては古い建物に古い本がいっぱいあって、緑も水も沢山あって、でっかい牛もいて、こんな大学にいられたらいくらでも勉強できたのになー、って今さらに。
晩はロンドンに戻ってRobyn Hitchcockのライブだった。チケットを買っていたのをすっかり忘れていて危なかった。
彼、1953年生まれなのでもう71歳になるのか。
最初に見たのは with the Egyptiansで、”Globe of Frogs”(1988)で来日した時の川崎でのライブで、それはそれはすばらしくて、サインイラスト入りの色紙はここから15時間くらい離れたところのどこかの棚の奥にある、はず。NYでも何度か見て、最後に見たのはThe Soft Boysの再結成ライブだったかも。
今回のライブはKimberley RewとMorris Windsorもいるバンドセットだというのでー。
Kimberley Rewは、The Soft Boysはもちろん、Katrina and the Wavesでみんなが知っている世紀の名曲"Walking on Sunshine" (1983)を書いた人で、ソロでも"Fishing"とかよい曲がいっぱいあるの。
はじめにコメディアンの人(?)が出てきてRobynの経歴を重々しく語り - 前世紀の初めに生まれて30年代にアメリカに渡ってRobert Johnsonとバンドを組み.. 云々、その紹介に乗ってRobyn Hitchcockがでてきて、初めはアコギ一本で弾き語りをする。硬く奇怪にうねるアルペジオに負けない、強くどこまでも伸びていくあの歌声。真ん中くらいでKimberley Rewがもう一本のアコギで、彼のパートナーのLee Cave-BerryとMorris Windsorがコーラスで入って”Waterloo Sunset”とかThe Moveの”I Can Hear the Glass Grow”なんかをやって前半おわり。
後半はエレクトリックのバンドセットでRobynはストラトキャスター1本、Kimberley Rewはテレキャスター1本、エフェクターはディレイともう1個か2個、チューニングもしないで弾いて絡めて朗々と歌って流していくだけ。この2台のギターの重ね合わせとRobynの変てこな歌声を聴いているとまるでTelevision - Tom Verlaineに聴こえてしまうのだった。(よいこと)
セットはほぼThe Soft Boys〜The Egyptiansの曲ばかり、最後の”I Wanna Destroy You" - “Baloon Man” - “Airscape”の流れは、ほーんとにひさびさに聴いて鼻血がでるかと思うくらいよかった。”~ Balloon man blew up in my hand ♪” がいまだに離れてくれない。
アンコールの一曲めはLee Cave-Berryがvocalをとって”Walking on Sunshine"で、これもなんかよくてさー。
あの歌声とギターだけでできあがってしまう世界の強さとその不滅 - ナッシュビルに移住して、とにかくずーっとレコードを出し続けている、こういう世界があることはわかるのだが(なんとか・ようやく)、これらがなんなのかは今だによくわからないねえ。(←バカも不滅) Julian Cope氏のライブも、こんなかんじのライブをやってくれないものだろうかー。
9.19.2024
[film] Will & Harper (2024)
9月15日、日曜日の昼、Curzon Victoriaで見ました。
ロード・トリップを追ったドキュメンタリーで、監督はすばらしいコメディ “Barb and Star Go to Vista Del Mar” (2021)を撮ったJosh Greenbaumで、今年のサンダンスで上映されてからNetflixに買われて、なのでもうじき日本でも見れると思う。
90年代の半分以上をNYで過ごしていたので、あの当時のMTVとSaturday Night Live (SNL)がなかったら自分はたぶん死んでいた。だからこれはもう必須のやつで。
“Will”はもちろんWill Ferrellで、Adam SandlerやChris FarleyやRob Schneiderが思いっきり盛りあげた後のSNL– 誰もがもうあれ以上のはないんじゃないかと思った – に現れてCheri OteriやChris Kattanと共に次の黄金時代を築いた、その真ん中にいたのが彼で、Andrew Steele - ジェンダートランジションをしてHarper Steeleとなる前の「彼」 - は、Willと同時期にSNLのライターとなって、やがてヘッドライターとしてSNLを支えることになる。 つまりこの2人は自分にとっては命の恩人のようなものなので、見ないわけにはいかない。
そういうのを差っ引いてもすばらしいドキュメンタリーになっていると思う。
コロナ禍のロックダウン中、WillはHarper SteeleからEメールを受け取る。これまでずっと考えてきて言わなかった/言えなかったことだがAndrew Steeleはジェンダーを替えて名前も変えて、女性Harper Steeleになりました、と。Willはわかった、伝えてくれてありがとうと言いつつ、続くメールのやりとりがあって、とにかくふたりはひとつの車に乗って大陸を横断する旅、そうやって一緒に過ごす時間をもつことにした、と。
Harperの住むNYのUpstateからCityに降りて、Harperの子供たちとも会って、見ている我々はWillと同じ目線と時間で、長年の友人がジェンダーを変えることにしたその決断のありか、そうなっても友だちだよね、はもちろんあるとして、そこに至るまでに彼がひとりで抱えていたであろう苦痛とか、それをどうしてわかってあげられなかったのだろう、とか、いろいろ去来してくるものがあるに決まっていて、そういうのを抱いて車に乗りこむ。
NYではNBCのSNLのスタジオに行ってLorne Michaelsとも会い – 写真が一瞬でるだけ – いまのSNLのメンバーたちとも会って、ワシントンDCから中西部へ。誰もが知っているアメリカの風景を巡りながら、素朴な疑問から今の思いまで、率直に語りあい、ふたりでべそかいたり泣いちゃったりもして、それはこういうドキュメンタリーによくあるやつなのでまたか、って思いつつも、Harperがこんなことを内面に抱えながらあれらのコメディスケッチを書いていたのか、というあたりにちょっと驚き、それは勿論Willにとってもそうであろうから、改めてじーんとしたり。
あとは明らかにトランスに対する偏見や差別意識の強そうな中西部の町にあるいかにもの典型的な酒場に入ってHarperの姿を晒して、雲行きが怪しくなったらセレブであるWill Ferrellが出て行って場を収める - 実験のようなこともしてみたり(ひとつはうまくいって、ひとつは酷いことになる)、Harperの生まれ育った町で彼が子供の頃に乗り回していた一輪車に乗ってみたり、西海岸の場末で、すべてが嫌になった時に逃げこむ場として一万ドルで買ったという廃屋のような家とか - ここのシーンはかなしい - 子供のように花火をしたりダンキンドーナツにこだわったり…
あとは先々で出会う昔の仲間たち - Will ForteとかSeth MeyersとかMolly Shannonとか - エンドロールを見るともっといた模様。ぜんぶ見せてほしい。
結局、(当たり前だけど)名前と外見が変わっても彼女は彼、というか彼女のまま - むしろ初めからあった彼 or 彼女のままであるためにトランジションしたのだ、というのが彼女への思いや敬意として固まっていくばかりで、隠れる必要なんてどこにあろうか? になるの。そしてそんな彼女を泣いたり笑ったりしながら誇らしげに受けとめているWillもよいなー。
ところどころで流れてくる歌がよくて、First Aid Kitの”America”とか、Bon Iverの後に被さってくるThe Bandの”The Weight”とか。映画の真ん中くらいでこの旅のテーマソングを作って貰おう、って2人が連絡をとったKristen Wiig、そこから連絡の途絶えてしまった彼女がようやく仕上げた曲が最後にきて、それがまあすばらしく泣けるやつで。彼女の声、すてきよねー。シングルでリリースしてほしい。
うっかりしていたのだがこの日の晩、BFI Southbankで、この作品の上映とWillとHarperと監督のQ&Aがあって、気づいた時には売り切れで、同じ時間に別の映画のチケットを取ってしまっていたので諦めた。会いたかったなー。
いろんな人に見られてほしいやつ、って久々に思ったかも。
9.18.2024
[theatre] The Real Thing
9月12日、木曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの1982年の戯曲。演出はMax Webster。 “rom-com”って宣伝していたので、見ようかな、って。
舞台は明るくシンプルなリビング仕様 - 壁の青が印象的で、真ん中にソファ、周りに引越し前なのか引っ越し後なのか、いろんなサイズの段ボールがいっぱい積んであり、セット替えの際には配送員の恰好をしたスタッフが入れたり出したりおきかえたりする。ソファは場面によっては列車の椅子にもなったり。 中央上部にはネオン管で形づくられた”The Real Thing”の文字が掲げられていて、このタイトルが一定間隔を置いてばちばち、って音をたてる。 舞台の真ん中前方の床には小さなレコードプレイヤーがひとつ。
冒頭、中央に歩いてきたスタッフがレコードプレイヤーにレコードをかける。The Crystalsの”Da Doo Ron Ron”で、最初はプレイヤーの前で小さく鳴っていた音が場内全体にふわっと広がる - 場面切替はずっとこのかたちで、2幕目のオープニングはELOの”Mr. Blue Sky”だし、エンディングはMonkeesの"I'm a Believer"だし、あと、"You've Lost That Lovin' Feelin'"が大事なところで使われている。
最初はMax (Oliver Johnstone)と愛人のCharlotte (Susan Wokoma)が部屋で会ってデートしている現場で、Charlotteは劇作家のHenry (James McArdle)の妻で、でもこの場面はHenryの書いた劇中劇であることがわかる。「現実」に戻ってみればHenryはMaxの妻であるAnnie (Bel Powley)と付きあっていて、他にもAnnieが思いを寄せる年下の活動家のBrodie (Jack Ambrose)のこととか、Henryの書き物や妄想、それらの入れ子構造を超えたところで、各シーンの男女のいまの関係を巡るやりとりはひとりでに暴走していくようで、そのうちAnnieはHenryのところで一緒に暮らすようになる。 基本は、劇中であろうがリアルであろうが、劇作家であり、ほぼずーっとソファに座ってパンツ一丁になったりしつつべらべら喋る - ちょっと傲慢な物言いが鼻につくHenryが思っているような方に、男女の関係はうまく流れていってくれない。
ところどころチリチリしたノイズが挟まるものの、全体としては明るく軽いポップなトーンのなか、各自の止まらない勝手なお喋りと安易な融和とかハッピーエンディングを許さない、でも誰も傷つかないようなストーリーを浮かびあがらせる(のは誰?) - ”The Real Thing”。
当時出たばかり(?)の日本製のデジタル時計とかVHSへの言及が出てくる - 合間に流れるポップソングも含めてこれらはunreal的ななにか? - ようにやはり80年初のお話し、ということでよいのか。愛とか忠誠とか奉仕を信じていると軽く言ってみて、あっちこっちで簡単にくっついたり離れたり、無関心を装ったり、”The Real Thing”なんてなにひとつ信じないで好きなようにやって勝手に裏切られたり見栄を張ったりして浮かんでいたあの頃へのノスタルジア(?)。 90年代の洒落にならない”Real”の暴風をぬけて干支を二回転して、ふたたびこれらについて語ろうというのか? しめしめしたノスタルジックな要素はゼロだし、これはこれでおもしろいからよいけど、いまだに”The Real Thing”とか信じてる?効くと思ってる? 段ボールで搬送可能ななんかじゃないの? など。
真ん中の2人 - James McArdleとBel Powleyの重力をどこまでも回避しようとする演技がすばらしい。 振る舞いに男らしさ、女らしさ、なんてのがまだ残っていた頃の、でもエモいのはまっぴらごめんなありようを見事に演じていた。
9.17.2024
[film] The Seventh Veil (1945)
9月7日、土曜日の夕方、BFI Southbankの特集 – “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema” - 『マーティン・スコセッシの選ぶ英国映画の隠れた傑作たち』 で見ました。 この特集、追っているけど、やっぱりどれもおもしろいよ。ぜんぜん客は入っていなくてなんか勿体ないけど。BFIに来るような人たちはとっくに見ているやつらなのかしら?
監督はCompton Bennett、Sydney BoxとMuriel Boxによるオリジナル脚本はオスカーを受賞している。
若いピアニストFrancesca (Ann Todd)が指が動かなくなったと嘆いて橋の上から飛び降り自殺を図って一命は取り留めたものの寝たきりになって、治療に現れたDr. Larsen (Herbert Lom)が催眠療法を使って、彼女のこれまでのことを語らせようとする。
父が亡くなって親戚の偏屈な独身男Nicholas (James Mason)のところに預けられて、彼の厳しい指導のもとでピアノをがんばりRoyal Collegeに進学するところまで行って、そこで知り合った軽いアメリカ人のPeter (Hugh McDermott)と仲良くなるのだが、婚約とか言い出したところでNicholasの顔色が変わって(彼女はまだ17歳だし、と)、駆け落ち手前で彼女を強引にパリ~ヨーロッパに修行にだしてコンサート・ピアニストに仕上げて、Royal Albert Hallのリサイタルまで行く。祝福するNicholasを振りきって彼女はPeterのところに行こうとするのだが…
もうひとり、Nicholasの紹介で知り合った画家のMaxwell (Albert Lieven)とも肖像画を描いてもらって親密になるものの、ここでもNicholasが間に入ったり、いろいろぐじゃぐじゃになって、結局彼女のまわりには医師も含めて4人の男たちがそれぞれのやり方で彼女を支配しようとして、結局彼女は…
溝口の映画の女性みたいに男たちに振り回されまくるFrancescaがかわいそうなのと、結局7番目のベールってなんだったのか、とか。
あとやっぱり、最後にあの彼のとこに行くのはよくわかんないかも。 それにしてもJames Masonはすごいな、こういうふうに女性に張りついた時の粘着感の表し方とか。
Green for Danger (1946)
9月8日、日曜日の午後に見ました。
原作はみんな知っているChristianna Brandの探偵小説 - 『緑は危険』。おお昔文庫本を読んだはずだがまるごとすっかり忘れていて跡形もない。監督はSidney Gilliat。
イギリスの、まだ戦時下なので飛行機が飛んできてその音が止むと爆弾がどかーん、てなったりする田舎で、郵便配達員がそれにやられて病院に運ばれて、手術中に何が起こったのか突然亡くなってしまい、続いてそれを知っているのか知らないのかシスターが亡くなって、スコットランドヤードのコックリル警部(Alastair Sim)が呼ばれて - その前の冒頭から報告書の形式で彼が語っている – ふたつの殺人について関係者に聞きこみ捜査を開始していくとー。
最初の方の田舎の、のどかで散漫とした感じ – 結構笑いが起こる - が警部の登場で締まるかと思ったらそんなでもなく、全体としては医療現場の錯綜も含めて誰が誰やらの謎なかんじは多層多面で刻まれたり深まったりしていくばかりで、麻酔から戦争まで、いろんなやばさの危うい迷宮が交わっていくなかで突然わかったぞ! みたいに幕が閉じてしまう。 いきなり「緑は危険」って言われても「は?」ってなるのと同じような唐突感と抜け方。 あと、戦争の罪深さみたいなところが後からじわじわとやってくる。
It Always Rains on Sunday (1947)
9月8日、上のに続けて見ました。
原作はArthur La Bernの同名小説、監督はRobert Hamer。1948年の映画興行収入で上の方だったって。
イーストロンドンのBethnal Greenで専業主婦をしているRose (Googie Withers)は優しい夫と夫の連れ子の二人娘とまだガキの男の子と貧しく慌しくてもそこそこ楽しく暮らしていたのだが、刑務所からかつての恋人のTommy (John McCallum)が脱獄し逃走していることを新聞記事で知る。
日曜日なのに雨が降ったり晴れたり落ち着かない、ぐずぐずしてあまりよくない日、やっぱり.. というかんじでTommyがRoseの前に現れて匿ってほしい、と言うので彼を寝室に押しこんで鍵をかけ、家族のいなくなった隙に食べ物を差し入れて寝かせてあげたりする - 後で匂いとかで気付かれるんじゃないかしら?
そうしている間にも悪いことして帰ってきた娘を叱ったり、日曜の午後のどうでもよい些末事がちょこちょこ挟まってきてはらはらするのだが、ちょっとしたことでTommyがいることを嗅ぎつけた新聞記者が家までやってきて…
日曜日だし、最後まであの家のなかで完結する話かと思ったらそうではなく、しぶとく延々と駅の方まで逃走劇は続いてノワールの黒々した闇のなかに落ちていくスケールというか段差がよくて、それでも最後はあの家の、あの路地に戻って、そんな日曜日でした、って終わる。これが50年代英国のkitchen-sink moviesの先駆け、というのもなんかわかる。 小さな家の台所から酒場から市場から場末の駅まで、ぜんぶ繋がっている - 繋がっているその様を見渡せるように画面を置いていく、というか。
こういうかんじの雨、だとRandy Newmanの”Every Time It Rains”が浮かんでくるねえ。
[film] Blink Twice (2024)
9月11日、水曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
最初に見ようと思っていた映画が時間が遅くなって見れなくなってしまったので、しかたなく取った、くらいだったのだが、割とおもしろかったかも。
Zoë Kravitzの(共)作・初監督作品。予告を見たかんじでは、ゴージャスな離島に集められたセレブ系の人々がなにかのきっかけで殺し合いを始める、サバイバル/サスペンススリラーのようなのをイメージしていたのだが、そんなシンプルではなく、女性から見た男たちのどんちゃん乱痴気騒ぎにいろんな角度からふざけんじゃねえよ!を叩きつけるものだった。Zoë Kravitzが2017年に書き始めた際のタイトルは”Pussy Island”だった、とか。
Frida (Naomi Ackie)は友人のJess (Alia Shawkat)とケータリング会場でバイトをしながらインスタのアカウント稼ぎをしているふつうの子で、Techビリオネアで不祥事を起こして冒頭でいろんな方面に平謝りしている映像が流れるSlater King (Channing Tatum)の正装パーティでやっちゃった… をやったらSlaterに優しく誘われて、Jessと一緒に彼のプライベートジェットで彼の持っている島に連れていかれる。
出演者はなかなか豪華で、Geena DavisがSlaterの秘書 - 最初に参加者全員のスマホを取りあげにくる、他に男たちはChristian Slater、Simon Rex、Haley Joel Osment、Kyle MacLachlanなど、テンション高い系、ぼんくら系、アイドル系、ずっとポラを撮っているの、紳士ふう、などパーティの備品のように一揃いあって、ゲストとなる女性たちはみんなきれい系、あとは言葉の通じない現地(ってどこ)島民の労働者たちなど。 目一杯ラグジュアリーなサービスを提供してくれるのなら言葉の通じるスタッフがいておかしくないのに(というあたりで気付くべきだったか)。 あと、Saul Williamsがちょっとだけ出てくる。
FridaやJessを含む招待された女性たちにとって、島での日々 – 部屋の調度から香水からディナーからいろんな飲み物まですべてが夢のようで、毎晩酔っぱらって高揚して、気がついたら朝~ とか、こんなのばっかりでよいの/これってなんなの? になってきた頃にJessが突然消えてしまって、なにかよからぬことが起こっているのでは? でもなんか記憶にないしおかしいな.. になっていく。
ここから先は書かないほうがよいかも、なのだが、男性たちの描き方と、女性たちの描き方の違いとか、すべてを仕切っているらしいSlaterのやや奥に引っこんだ振るまいとか、いろいろ。
Jeffrey Epsteinのやったあれとか、”Don't Worry Darling” (2022)にもあったのとか、パーティ・カルチャーのらりらりに女性の側からはっきりとふざけんじゃねーぞおら!の啖呵をつきつけていて、忘れる(忘れてくれる)と思ったらおおまちがい、ぜえったいに忘れないんだからな、っていうのと、公に謝罪のフレーズ言ってお辞儀すれば済むと思ってねえか?- こんなの謝罪だけで済むわけねえだろ、一生ぜったい許さねえからな、っていうのをどかどかばきばき何度も何度も頭蓋に叩きつけるので気持ちよい。 拳をあげる女性のひとりに”Hit Man”(2023)に出ていたAdria Arjonaさんがいて、彼女もすごくよいの。
Channing TatumはTech系のお金持ちにしてはほぼ最後まで木偶の坊みたいな不気味な役柄でなんかもったいないかも、と思っていたら最後のとこでよい味をだしてきた。一緒に暮らすZoë Kravitzからのてめーわかってんだろーな、なのかもだが、エンディングはあんなもんでよいのか賛否あるかも。
パーティが始まるなり抜け方の言い訳を考え始めるくらいに苦手で嫌いで、そんなパーティの嫌なところがぜんぶ詰まっていて、改めてロクなもんじゃないわ、ってしみじみ思った。なんであんなのやるんだろうねえ? とか。
日本だと、ああいうのやってた学生サークル中心に見せてやるといいんだわ。
9.16.2024
[film] Starve Acre (2023)
9月9日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
原作はAndrew Michael Hurleyの2019年の同名小説、監督はDaniel Kokotajlo - この人の前作/長編デビュー作 -“Apostasy” (2017)は宗教 - エホバの証人の教義を巡る家族と内面外面のじりじりくる攻防を描いたスリリングで怖いやつだったことを思いだした。
音楽はMatthew Herbert、耳鳴りよりもやかましいのを頭の奥に吹きつけてくる。
70年代、ヨークシャーのなにもなさそうな田舎で、考古学者のRichard (Matt Smith) は父から相続した土地と家 - それがタイトルのStarve Acre - に妻のJuliette (Morfydd Clark)と喘息持ちで病弱な一人息子のOwen (Arthur Shaw)とロンドンから移り住んで、目的はOwenの治療・療養と、いろいろ発掘できそうな何かがありそうくらいで、冒頭にも家の壁に刻まれた詩のような呪文のような文言が唱えられ、すべては始めから定められ絞りこまれて配置された何か、であるかのように展開していく。
とにかく真ん中の家族のふたり - RichardとJulietteの、最初から取り憑かれているかのような空っぽの表情を見ただけで前向きな何かなどは棄てるしかなくて、突然動物に暴力的な振る舞いをしたOwenの治療を始めたところで彼は突然倒れて亡くなってしまい、その喪失感を埋めるかのようにRichardは一心不乱に穴を掘って伝説の樫の樹の根を掘りあてて、Julietteの妹のHarrie (Erin Richards)がケアのためにやってきたり、近所のスピリチュアル系の怪しいおばさんが現れたり、でも息子を亡くしたふたりがどうがんばっても抗えないような何かが目を塞ぎに。
フォーク・ホラー、って十分に解っているとは言えないのかもなのだが、外からジェイソンみたいな異物怪物が現れて日常を壊していくのではなく、どんなに異様なことが起こったり現れたりしてもそれは日常に回収されてしまう/そうなるように習慣や言い伝えや宗教的な問答のようなのも含めてその地域一帯の様式として出来上がっているので逃れようがない、中にいる人にも外から来た人にも恐ろしくて、でもいちばん恐ろしいのは、そのありようが正しく認識されないまま嘆きや畏れがそのまま放置されてしまうことで、それは例えばー…
そのうちRichardは、父の遺品の箱にあった何かの獣の骨格標本を見つけて、その骨のまわりにうっすら肉とか血のようなものが付きはじめた気がして、そんなはずはないと大学の同僚に診て貰おうと持っていったらそんなの跡形もなく、持ち帰ったら再び… はっきりと筋肉みたいのとか眼球のようなもの - その濁った膜の向こうで - が動きはじめて…
息子の死後に地中から見出されたもの、蘇ろうとしているものがある - それがおそらく息子に替わるなにかだったり彼の念を伝えてくれるものだったり、のはずだとしたら.. 既にいっぱい指摘があるように”Don't Look Now” (1973) - 『赤い影』の影とか、こないだの"Lamb” (2021)とか、これってどういうジャンルに置くべきなのか。
とにかく蘇った大ウサギ - hare - は、半分造りものっぽいのだが、ものすごくこわい。”Donnie Darko”のウサギの100倍禍々しくてやばいの。ウサギ苦手な人 - 特にあの目が怖いという人がいるのであれば気をつけた方がよいかも。
画面全体に漂う白っちゃけた荒涼感と始めに書いた夫婦の気が抜けたのか何かにやられているのかの無言/無表情がたまんなくて、そんな様子のまま手には金槌がー。あんなに怖くできるのはMatt SmithかBarry Keoghanか。
イギリスって、なんかあると地面を掘る傾向があるよね。アメリカは空を見上げるのかなー?
9.13.2024
[film] 客途秋恨 (1990)
9月7日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
ここの9-10月の特集で、” Maggie Cheung: Films of Romance, Melancholy and Magic”というのも始まっていて、彼女のフィルモグラフィから” Illusory Lives”、“A Match Made in Hong Kong”、” Migration Stories”、”Action and Wuxia”というセグメントに分けて10数本が紹介される。 この秋のBFIは、これと“Martin Scorsese Selects… ”と” Roots, Rituals and Phantasmagoria”でお腹いっぱいすぎる。LFFもあるし。映画以外にもあるし。
これは” Migration Stories”からの一本で、英語題は”Song of Exile”。よいかんじの35mmフィルムでの上映だった。広東語、英語、北京語、日本語が飛び交うので字幕は二階建て。 監督は許鞍華 - Ann Hui、製作総指揮にはキン・フーの名前がある。
70年代のロンドンの大学で友人たちとメディア関係の勉強をしていたHueyin (Maggie Cheung)はBBCとの採用面接に落ちて、ほぼ同時に母Aiko-葵子 (Lu Hsiao-Fen)からHueyinの妹の結婚式があるので香港に戻って来れないか、という手紙を受け取る。初めは行くつもりもなかったのだが、面接に落ちてあーあ、でもあったので戻ることにする。
香港で妹の結婚式の準備を進めて、母や親族と再会したり話したりしていくなかで子供の頃の母のことなどがランダムにフラッシュバックしていく – この記憶が誰の視点によるものなのかがはっきりしないのだが、日本人である母が不在がちの父の両親や親族に溶けこむことができず、Hueyinは父の両親–祖父母ばかりに懐いて家族内で母ひとりが孤立していく様が描かれる。結婚式用に髪をばっさりされて70年代ふうおばさんパーマをあてられてかわいそうなHueyinは、結婚後に夫とカナダに移住するという妹もここを離れると、自分はこの土地でひとりになるのでこのタイミングで実家のある日本に戻ってみようと思うけど、来る? って母から誘われて、やはり悩むのだが彼女がちょっと寂しそうなのが気になってついていくことにする。
船~電車の窓から日本に来たことがわかる – のはなぜ?- とにかく南由布という駅で降りて、迎えに来ていた葵子の甥に迎えられて、お腹が減っているでしょう、と食堂に入って、いきなり天ぷらそばと山菜そばと豆腐を頼んでしまう葵子とか、あの程度の魚いっぴきで自慢しちゃうのか、とか、日本語がいっさいわからないHueyinから見た不思議の国にっぽん、の描写については、いろいろあるだろうけど、まあよいとして、日本–別府での母が中国で自分の知っていた彼女とはぜんぜん違って、ふつうに子供時代があり – 昭和の頃のアルバム写真の類似性ってなに? - 同窓生がいて、かつて「荒川さん」という男性をめぐる恋敵がいたこととか、実弟と絶縁状態にあったこととか、家の売却を巡ってごたごたがあったりとか、いろんなことを知り、お墓参りをしてお祭りに参加して、母の口から知らされることのなかった「彼女の国」を経験する。そしてそれは彼女の母が自身で思い描いていたいつか帰る先としての故国、とも少し違っていたらしい。
この後、葵子とHueyinがどこでどうするのかについて、葵子と夫(Hueyinの父)が戦地の中国でどんなふうに出会ったのか、まで遡って描かれるのだが、どの国で生きるのか、それはなぜか、というよりも、どの国にも帰属しない、できないような、そういうステートがきちんと描かれていて - 監督の自伝的なところもあるそうだが - そこはなんだかとても考えさせられるものだった。法的なのとは別に、帰属しなくて済んでいられる今の自分の自国の外にある状態、あるいはこないだ見た”Bye Bye Tiberias” (2023)のように、戻るべき場所がなくなってしまった状態もあるし、自分も先送りしているうちに老いてしまってよいのか、別にいいや、って最近は開き直っている。
そして自分はもちろんだが、国もまた変わっていくもの – しかもどちらも確実に悪い方に - なので、とにかくうまくどうにか生き延びることができればいいかー、くらいで。
あと、食べものは大きいよねー。葵子が「食べものはいつもあつあつじゃないとね! 」って言うのなどを聞いて。
このHueyinが『花樣年華』(2000)のMrs. Chanとなって、出張先の日本で浮気をする夫を見つめていたりしたらおもしろいかも、とか。
9.12.2024
[film] Against the Crowd: Murrain (1975)
もうじき感想は書くと思うが、公開されたばかりのフォーク・ホラー映画”Starve Acre” (2023)がなかなか怖くて(自分基準)、その監督であるDaniel Kokotajloが選んだ特集 - “Roots, Rituals and Phantasmagoria”がBFI Southbankで進行していて、有名な映画だと”Eraserhead” (1977)とか”Don’t Look Now” (1973) - 『赤い影』などがプログラムにある。自分の知らない土地と風土、そこにあるらしい風習や風景などが逃れられないなにかとしてよそ者を縛ったり殺したりにやってくるフォーク・ホラーって、異国に暮らすものがサバイバルを学ぶという観点(なんてあるわけないだろ)からも重要だと思うし。 これの前にやっていた” Discomfort Movies”の特集もその名の通りいやなかんじだった。なんでそんなにいやなのばっかり見せようとするのだろうか。
Against the Crowd: Murrain (1975)
9月7日、土曜日に見たのはTV放映されたドラマ2本で、60~70年代の英国のTVドラマってフィルムで撮られていてクオリティが高い(のが多い。自分が見た範囲では)のと、だからと言って箱を買うほどのマニアでもなく、こういう機会があれば見るようにしている。
上映前に”Starve Acre”の原作小説の作者Andrew Michael Hurleyからのイントロがあった。
監督はJohn Cooper、ITVの制作で55分。
イギリスの田舎の村に、豚の疫病のようなのが流行ったというので獣医(David Simeon)が村に派遣されるのだが、村人からは変な目で雑な扱いをされ、彼ら全員からあの魔女のせいだ!と忌み嫌われている隣家にひとりで暮らしている老女のところを訪ねてみると..
原因不明の豚の病があって雑貨屋の子供が熱にかかって寝ているだけ(でも医者にはかからせない)で、因果関係はないし、特に怖いことが起こるわけでも映るわけでもないように見えるのだが、頑なにあの魔女のせいと信じてやまない村の男たちそれぞれの顔とか、ひとりで暮らして村八分にされて孤立している老女の住んでいる家の暗がりとかそこに置いてあるものとか、彼女の声のトーンとか、人々の狭間でやはり動けなくなっている感のある雑貨屋のひなびた店の様子とか、それらすべての組み合わせがどんより、天候のせいだけでなく村全体が暗く不吉な抜けられない穴のなかにいるようで、なんでこんなに禍々しく見えるのだろう? 息苦しくなるのだろう? ってなる。
もちろん、これらを禍々しくかんじさせてしまう何かって、全部ではないにせよ自分の内にも多少の要因はあるはずで、それってなんなのか? という話でもあるのだが、まずひとにはやさしくしよう、って。
あと、この景色とか温度感、日本の田舎にもまだあるよね(偏見)。 反ワクチンとかの根のはりかたも似ている気がした。
Omnibus: Whistle and I'll Come to You (1968)
BBCの制作で42分。 監督はJonathan Miller。
初老でひょろっとした大学の先生(Michael Hordern)がイースト・アングリアの海辺の古いホテルにやってくる。ホテルは古いけど格式あるかんじで、食堂でのディナーは正装だがサービスも含めてどこかひんやりしていて、でも先生は気にせず昼間は発掘調査かなんかに出て、鼻歌を歌いながら地面を掘っていて、そこで出てきた骨みたいのを磨いてみたら模様が浮かびあがって笛のようなものだとわかり、そいつを軽く吹いてみると… (まず、そんなの吹くなって)
客室管理も厳格でちゃんとしたホテルのベッドの寝ていないほうの片方の布団がなんとなく乱れていたり、どこかで変な音がしたり、定番の怪談もどきのようだが、暗がりまで隅々丁寧に撮られているだけで十分、”Shining” (1980) 並みの怖さを被せることができる、というか現実として泊まるのがいやになる要素がいっぱい、目と耳を塞ぎたくなる怖さ。
海辺の遠くのほうで揺らいでみえる人なのか何かなのか判別できない影とか、干してある漁網かなんかが人型に固まってくるところとか、絶妙なところを突いてきて、うまいなあ、なんて感心する余裕なんてない、無差別にざくざく殺していくホラーよかこっちの方が遥かに怖い、というか効く。先生がそんなに怖がっているように見えないところまで怖い。
[film] Firebrand (2023)
9月8日、日曜日の昼、Curzon Mayfairで見ました。
ついこの間まで、National Portrait Galleryでは”Six Lives: The Stories of Henry VIII’s Queens”ていうヘンリー8世と6人の妻にフォーカスした展示をやっていて、そこではErnst Lubitschのサイレント”Anna Boleyn” (1920) - Emil Janningsがヘンリー8世だって! - の一部がプロジェクションされていたりしたし、この人たち周辺て昔から沢山いろんな映画が作られているし、日本だったらぜったい大河ドラマの定番だろうし、実際にいろいろあったようだし、せっかく英国にいるのであればこの辺は追っていきたいものだ、と思うので。
監督はブラジルのKarim Aïnouz、Elizabeth Fremantleの小説 -”Queen's Gambit” (2013)をHenrietta AshworthとJessica Ashworthの姉妹が脚色したもの。撮影はAlice Rohrwacher作品やEliza Hittmanの”Never Rarely Sometimes Always” (2020)などを撮っているフランスのHélène Louvart。デジタルでなんか細工したりしているのかもしれないが、王室の衣装の色のかんじとかインテリアの落ち着いて綺麗で見事なことったらすばらしくて、びっくりする。そこだけでも。
ヘンリー8世(Jude Law)の6番目の妻Katherine Parr (Alicia Vikander)は既に結婚してて王妃であるところから始まって、まだ若い先妻の娘たち - Elizabeth (Junia Rees)やMary (Patsy Ferran)やまだ子供のEdward (Patrick Buckley)も傍にいて、はじめのうちは王がフランス遠征で不在だったりで、留守の間にみんなで気楽に遊んだり、地下で抵抗活動をしている幼馴染のAnne Askew (Erin Doherty)と会ったりしているのだが、王が戻ってくるといろいろ面倒なことがあちこちで巻き起こってきてどうしてくれよう、になる。
とにかく邪悪で傲慢で猜疑心まみれでKatherineだけじゃなく周囲のみんなから死んじゃえばいいのに、って憎まれ忌み嫌われ続けているヘンリー8世を演じるJude Lawの鯨のような重量感がすごくて、ボディスーツかなんか着ているのだろうが、00年代にはrom-comでそれなりにキラキラしていた彼が、でっぷりころころして足の傷のせい周囲にひどい臭いをまき散らし、それでも気まぐれでランダムに周囲を虐めまくる最低の王を演じて、ベッドシーンではむっちり白いお尻まで晒して、その怪物のありように圧倒される。ある時代のJude Lawに対するこれでもか、っていうイジメのように見えなくもない。
筋はほぼ、そんなパワハラ大王との神経戦を含む終わらない/なかなか死んでくれない - 攻防で、Katherineは親友のAnneを火あぶりにされたり、自分もあらゆる疑いをかけられて疲弊して流産までして、溝口映画の女性みたいに絶望のどん底におちた彼女(たち)がどうやって戦ったり我慢したり逃げたり隠したりしていったのかを描いてなかなかしんどい。もうちょっと彼女の感情のひだひだを描いていってもよかったのでは、とか。 実際にそこまでのことがあったのか、どこまできつかったのかわからないけど、映画を見ているともし自分の前でこんなことをされたり言われたりしたらどうする? みたいなことばかりいちいち考えてしまったりする。
ヘンリー8世がどうやって亡くなったのか、この映画はひとつの解釈を示していて、この流れだとまあそれはそうかも、になるのだがとにかくKatherineがんばれー、にはなった。Alicia Vikanderもすばらしい。
エンドロール、重厚なオーケストラと共に静かに閉まったあと大音量でまさかのあんな曲が流れ出し、そこだけはおおーってなって、個人的にはとても気持ちよくすっきりしたかも。
9.10.2024
[film] Beetlejuice Beetlejuice (2024)
9月6日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
監督はTim Burton、1998年の最初のは見ていない。こんなカルトに愛されて待望されきた傑作(たぶん)を見ていなくても大丈夫なのか? - 大丈夫だったと思う。
もちろん、Beetlejuiceがなんなのか、十分にわからないで見る。未知のお化けなのか妖怪なのかゾンビなのか、道端で初めて会うのと同じように – そいつが生きているのか死んでいるのか、Michael Keatonのあの汚れた、臭気ぷんぷんの偽物ぽい挙動を見れば、たぶん不死身で、最強で、呼べばどこにでも現れて – でも愛されていなくて忌み嫌われている、そういうのの集積ゴミ捨て場で、つまりはTim Burtonの世界どまんなかに暮らす住人である、ことはすぐにわかる。
前作で主人公だったらしいLydia Deetz (Winona Ryder)はうさんくさいお化けミステリー系TV番組のホストとして活躍..ほどではなくくたびれていて、その番組のプロデューサーでこいつもうさんくさいBFのRory(Justin Theroux)にやらしく小突きまわされていて、義母のDelia (Catherine O’Hara)からも娘のAstrid (Jenna Ortega)からももう終わったひと、のように見られていて、Roryからのしつこいプロポーズもなんとなく受けてしまう。
こうして、Lydiaの父の葬儀とか、Lydia自身の結婚とか、ハロウィンとか、父の遺品とか、死の、死んだ世界への出入り口がちょこちょこ目に入るようになったあたりで、ちょっと素敵に見えたJeremy (Arthur Conti)に付いていったらあっさり死後の世界に連れていかれてしまったAstridを救うべく、LydiaはBeetlejuiceを呼びだすと..
あと、Beetlejuiceの前の妻Delores (Monica Bellucci)がばらばらにされていた屍体を自分で繋ぎあわせて立ちあがり(このシーンすごくおもしろい)、彼に復讐すべく彷徨いはじめるとか、前世がB級探偵映画の人気俳優だったWillem Dafoeがひとり勝手なテンションで捕り物をはじめるとか。そしてどちらも中途半端になんとなく消える。
という筋書きらしきものはどうでもよくなるくらいに展開 – というか単に死者の世界がこちら側に押し入ってきて死者も生者も極めて勝手にやりたいように動いて、アナーキーなカオスがもりもりと形づくられていくのを見ているだけで楽しくなるのでそれでよいのだ、と思った。男性(的ななにか)はどこまでも悪賢く傲慢で、女性(的ななにか)はずっと不機嫌でむかついたままで、ゾンビやヘビやゴキブリやにょろにょろ虫がそこらじゅうにいて、これらを見たくないひとは見なければよいし、でもそれらは一度目をあわせて見始めたらどうにも止まらなくなる、というか、痒いところを掻きだしたら止まらなくなるかんじでやめられなくなり、噛め掻け裂け殺せー、くらいのところにまで行く。 登場人物のなかで唯一まともそうなAstridにもっと暴れてほしかったところだが、それくらい。
死者は死んでいるので怖いものなんてなくて最強なので、いざとなったら彼らを呼べば、たぶん自分の生と引き換えなんだろうけど – どうにかしてくれるので呼んじゃえ。 どうせ現世なんて汚れたゴミとかクズとかばっかしでじたばたがんばる価値なんてないよ、でもそれにしても、死者と生者の違いってなんなんだろうね? というのがTim Burton的世界がずっとこだわって視覚化してきたことで、そこに「美意識」みたいな価値を持ちこまず、「クリエイティブ」なんてくそくらえでひたすらジャンキーのほうに突っ走った本作はすばらしく、その疾走を支えているのがDanny Elfman – これぞDanny Elfmanとしか言いようがないうなりをあげるスコアで、見た後にはなにも残らないけど、すばらしく楽しく腐れたハロウィン・パレードを眺めた気分にはなれる。
ミニオンの連中にやってほしいのはこういうノリのなんだけどなー。
今日は来月から始まるLFF (London Film Festival)のチケット発売日で、でも平日の10:00なんて会議とかで入れるわけないし、ようやく繋いだらキューに12000人くらいいて、中に入ったらメジャーなのはぜんぶ売り切れで、一番見たいのはサイレントのシャーロックホームズだったのだが一回しかやらないので当然売り切れてて、とりあえずMiguel GomesのとAlice DiopのとPavementsのだけとった。 あとは当日でなんとかしようー。
9.09.2024
[film] Brief Ecstasy (1937)
この秋、日本でやっている映画の特集もいろいろあって羨ましいが、こっちの9~10月の特集もてんこ盛りで、そのうちのひとつが、BFI Southbankでの”Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”。 わたしはMartin Scorseseの監督する映画よりも、彼が語り部となっておもしろい!って選んでくれた映画を見るほうがより好きで、彼と英国映画というと、見なきゃ見なきゃと言っているうちに終わっちゃったドキュメンタリー ”Made in England: The Films of Powell and Pressburger” (2024) - 彼はプロデューサーとして参加 – のPowell & Pressburgerがまず来るのだが、この他に頼んでもいないのに口を挟んでくる昔の英国映画への愛の籠った言及はいっぱいあり、今回はその拘りを彼とEdgar Wrightが中心となって20数本選んだもの。 BFIのサイトにその経緯があるが、Covidで隔離生活をしていた時にEdgar Wrightが英国映画のお薦めをMartinに聞いてみたら50本選んできた、って。 ほとんどがBFI Archiveが保持するフィルム(1本ナイトレートフィルムでの上映あり) での上映で、たぶん全部は追えないけど、できるだけがんばって見たい。ぜったいおもしろいから。
Brief Ecstasy (1937)
9月3日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
69分の短い作品。監督はフランスのEdmond T. Gréville。日本公開はされていない?
Helen (Linden Travers)がひとりお茶していたら、誤ってこぼしちゃって寄ってきたJim (Hugh Williams)がいて、Jimはお詫びとカフェでの忘れ物を口実に彼女に寄っていき、ディナーでも、って誘ってその晩ダンスして一緒にいたら恋におちて、彼は付きあいたいって言って彼女もイエス、なのに彼は明日に海を渡って戦場に旅立ってしまうのだと。
月日が流れて、Jimは戦場から会いたい結婚したい、って熱烈な手紙を送るのだが、掃除婦が紙くずとして捨てちゃって、彼女は勉強していた大学の教授Paul (Paul Lukas)からアシスタントになってほしいと請われて、そのままなんとなく彼の妻になって、学業から離れた家事と社交中心の日々になる。
で、戦地から帰ってきたJimのしばしの滞在先となったのがPaulの家で、そこでふたりは再会し、目一杯よそよそしく他人として接しようとするHelenと、こんな歳の離れたじいさんと一緒になるなんてどういうことだ? のJimの裏表の駆け引きがおもしろいのだが、だんだんに溢れてくるふたりの思いは隠し切れなくなり、なんかおかしいと思ったPaulとPaulの家でずっと彼に奉仕してきた家政婦がぜんぶぶちまけちゃって、拳銃もちらちらして、さてどうなる?
運命の悪戯を楽しむ、というより押して叩いて引っこめても出てきてしまう感情と欲望のままならなさとしょうもなさを切々と追っていて、この長さで丁度よく纏まっているかんじ。
This Happy Breed (1944)
9月6日、金曜日の晩に見ました。
原作はNoël Cowardの同名戯曲 (1939)で、プロデュースもしている。監督はDavid Lean。きれいなテクニカラー。邦題は『幸福なる種族』(種族って..)。
オープニング、ロンドンの町の空撮の背後に”Take Me Back to Dear Old Blighty” - The Smithsの”The Queen is Dead”の冒頭に聞こえるあの曲 - が流れてくるので、それだけでなんかうれしい。
第一次大戦のすぐ後、ロンドンの南の方の住宅地に越してきたGibbons家 - Frank, 妻のEthel、Frankの姉、Ethelの母、大人になっていく彼らの子供たち3人と、たまたま隣に暮らしていたFrankの戦友のBobの一家も交えた悲喜こもごも、第二次大戦に向かって社会がきな臭く動いていくなか、子供たちが大きくなってそこを出て、自分たちも出ていくまで。出会ったりぶつかったり喧嘩したり出て行ったりの日々と感情のゆらめきを描いてすごくよい。
当時の英国社会の温度湿度を知っているわけではぜんぜんないのに、ここに見えてくる・感じられるあれこれは、成瀬の『流れる』 (1956)などを見た時に湧いてくる感情に近いものがある。みんな流れていってしまったけど、流れていったのを知っているけど、みんなそこにいたよね.. って。
昔のロンドンの映画によく出てくる家の裏庭みたいな狭い路地みたいなところ、いろんな人たちが顔を出す家の出入り口から、そこに抜けていく風景 – その向こうに広がっていく世界、その見晴らし – たまんなくよい - のなかで、みんながみんなのことを気にしたりグチ言ったり涙を流したり、延々そればかりやってて、誰もが自分の親戚にいる誰かを思い起こすにちがいない..
終わってすごい拍手が湧いていた。これだったらそうなるかもなー って。
[theatre] Next to Normal
9月4日、水曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
ロンドン公演は、昨年にDonmar Warehouseで上演されたのをWest Endに持ってきたもので、アメリカでのミュージカルとしては2008年からあったのか、と。(すでに世界中で上演されていて日本公演もあった、なんて知らず.. )
2009年に3部門でトニー賞を、2010年にはドラマ部門でピュリッツァー賞も受賞している。
音楽はTom Kitt、歌詞と脚本はBrian Yorkey、演出はMichael Longhurst。
ロック・ミュージカル、だそうで、でも感情の爆発や混沌を表現するところはそうかも、くらいで、がんがん盛りあげて拳を振りあげる系のとは違う。”Tommy”あたりに近いのかも。
ちゃんとしたふつうの家庭のダイニング - 壁にはBAUHAUS (建築デザインの-)のポスターが掛かっていて、2階には個室が3つあってバンド - 6人編成 - がいるのが見える。
オープニングもごくふつうの一家の朝の風景から入って、Diana Goodman (Cassie Levy)が長男のGabe (Jack Wolfe)の朝帰りを待って、長女のNatalie (Eleanor Worthington-Cox)と挨拶して、夫のDan (Jamie Parker)とはセックスしたくなった、って奥の部屋で朝からやったり、テンションの高いママだなーと思っていると、床にパンを並べて盛大にサンドイッチを作りだした - 家族は止めに入る - ので彼女はノーマルではない人で、bipolar disorder - 双極性障害でずっと医者(Trevor Dion Nicholas)にかかっていること、更にGabeはNatalieの幼い頃になくなっていて、彼女の想像のなかだけで生きていることを知る。
そこから先は良くなっているのか悪くなっているのか、どこに向かっているのか先の見えないDianaの治療の行方 - 本人にとっても家族にとっても苦しい – を追いつつ、家族にとっての”Normal” – 病気や障害から解放された状態ってなんなのか、を考えさせる内容のものになっている。異常な行動や言動がなくならない限り病が治ったとは言えなくて、治すためには薬や治療が必要で、それは本人にも家族にも苦痛をもたらす – そして効果があるように見えたある薬による治療が、Dianaの過去の記憶をなくすことで効果をもたらすのだとしたら… でもそれが彼女の記憶からGabeのことを消してしまうことに繋がるのだとしたら..
アメリカの精神病治療が異常行動を矯正して正常な社会活動をさせるためにロボトミー手術とか、相当に荒っぽいこと、人を人として扱わないようなことを平気でしてきたのを - 映画や文学のレベルだけど - 知っているので、このステージ上で医師が悪魔のように描かれていることもわかって、Dianaや家族の大変さよりもなんでそこまでやるのか、やることが許されてしまうのか、そっちの方に気が向いてしまうのだが、終盤、やはりGabeの記憶は消されちゃいけない、消すことができないものだよ、ってみんなが思って、そう思うことで少しよくなったかな? くらいの。Normalじゃなくたって、Next to Normalでいいじゃん、って。
本公演前のワークショップに時間を費やしていることからも、ストーリーの中心にある治療のありようについては、十分な議論がなされたのだと思うし、自分の周囲の人たちはみんな泣いていたので汎用的に訴えかけてくるものになっている、とは思った。けど、その反対側で、こういうふうに示されたり消費されたりする「汎用性」みたいなのってなんなのか、これでよいのか? っていうのはいつも思う。”Next to Normal”も、そういう括りがされた時点で”Normal”と同類のなにかになってしまう、と。
昭和の終わり頃に「フツー」と「ビョーキ」っていうレッテル貼り?仕分け(いまだとタグ付け?)が流行ったことがあって、あれってそういう仕分けがいかに根拠のないくだんないものであるかをバカにするためのものだったと思うのだが、いまだにそういうのに熱中して拘る人たちが一定数いる – むしろ内面化・細分化が進んでより多くの人たちがそこで悩んだり病んだりしている?というのは感じるかも。 家族の外にいる人でNatalieのBFになるHenry (Jack Ofrecio) ってちょっとぼんくらなかんじの彼が出てくるのだが、彼みたいな人がいてくれるとよいのだけどなー、とか。
[film] 狗阵 (2024)
9月5日、木曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
今年のカンヌの「ある視点」部門でグランプリを受賞している。英語題は”Black Dog”。監督はGuan Hu(管虎)。
2008年の夏、北京オリンピックと皆既日蝕を目前にしたゴビ砂漠の近くの小さな町。 冒頭、砂漠の道にどこからか大量の犬が走って湧いてでて(合成かな?) バスを横転させてしまう。お金をすられたという乗客がいたのでバスの運転手が警察を呼ぶと、ひとりでいたLang (Eddie Peng)に目を留めて、お前かー、って言う。
Langは刑期を終えて出てきた地域では名の知れたワルだったらしいのだが、無表情でほぼ喋らず(喋れないのか?というくらい喋らない)、地元に着いても勝手にどこかに行ってはならない措置を取られ、仕事もあてがわれるまま - まるでやるきなし - なのだが、彼が過去にやったこと - 人殺しらしい - をずっと根に持っている連中というか一家もいる。電話で連絡の取れた姉は離れたところにいて、動物園で働いているらしいアル中の父の面倒を見てくれないか、と言われる。
町では再開発に向けた住民の退去と大量の野良犬駆除作戦が始まっていて、あちこちで檻に入れられた野犬が騒いでいるのだが、一匹だけ、Langが立ちションをした後に必ず現れては消える黒い犬 - レースに出るようなハウンド系 - が目に入るようになり、そのうちそいつに獰猛で捕まらないので懸賞金がかけられているのを知るのだが、懸賞金とは別にそいつと仲よくなりたいと思って手を出したらあっさり噛まれて狂犬病になったらどうしよ? になったり。
そんなふうに噛まれて痛いめにあっても、過去の事件のせいなのか元からなのか、どれだけ誘われたりよくされたりしても町とそこの人々に馴染むことのできないLangと黒犬は近寄っていって、でも.. となるような大きな勢力が1人と1匹の前に立ちはだかるわけでもないのだが、砂漠からの風と再開発の波に押しやられるように人の群れる方から彼らは逸れていって止まらなくて、そこに流れてきたサーカスの一座とか、父親が寝たきりになってうち棄てられた動物園の動物(トラ)とか、ヘビ屋のヘビ - 食用みたいだけどほんとか? コブラとかいるよ - などが絡んでくる。
悲惨でも残酷でもなく、なんとかなるさも同調への諦念もない、どれだけぼこぼこにされ痛い目にあっても犬の目で淡々とどうなっちゃうのか.. を引いて見ていて、そこに砂漠の風が吹いてきて動物たちが野に解き放たれて、全体としてはシュールな辺境もの、のような。 こんな場所が本当にあるのだとしたら王兵にドキュメンタリーとして撮ってほしい。
地元の若衆を束ねている人がJia Zhangkeに似ているかも.. と思ったらJia Zhangkeだった。あと、Lang役のひと、坊主頭でちょっと青山真治に見えるところがあって.. 流れ者の話だったりするし、彼であってもおかしくないかな、とか。
Langの部屋にはPink Floydの”The Wall”のポスターがあって、着ているTシャツもそうで、彼のバイクにもロゴがあって、彼の壊れたカセットから歪んだ音で流れてきたりする。つまり、Pink Floyd vs. Led Zeppelin 、という映画でもある、と。
あと、エンドロールで、いかなる動物も虐待されていませんマークがでるので、だいじょうぶだと思う。
9.06.2024
[film] His Three Daughters (2023)
9月2日、月曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
今週末からの公開に向けたPreviewで、上映後に監督Azazel Jacobs、長女を演じたCarrie Coon、次女を演じたElizabeth OlsenのQ&Aがあった。 Netflixなのでそのうち日本でも見れるかも。
作・監督はAzazel Jacobs、撮影はSam Levy – NYの片隅の風景(だけじゃないけど)を撮らせるとこの人はなんでいつもこんなによいのか…
長女のKatie (Carrie Coon), 次女のChristina (Elizabeth Olsen), 三女のRachel (Natasha Lyonne)が議論をしている切り返しから始まる。
昏睡状態のまま病院から自宅に戻ってきた父Vincent (Jay O. Sanders)の看護(と最後を看取る)のためにKatieとChristinaはこの実家にやってきて暫く滞在する。Rachelは父の面倒を見るためにもともと彼と一緒に暮らしていた。
Katieは冒頭の会話の様子だけでも十分にしっかり者でてきぱき引っぱっていく「長女」の典型で、ChristinaはKatieよりは物腰柔らか穏やかで誰ともどうとでもするからへっちゃら、の次女のかんじで、髪をオレンジに染めたRachelはいつもタバコを吸って落ち着かず何を考えているのかわからなくて、姉たちからは異端者の目で見られどつかれていて、でも本人はうるせー知るかよ、って動じない。
3姉妹の話題と関心の中心にある父の姿は見えない。奥の部屋で生きていることを知らせる機器装置のビープ音だけが彼で、彼女たちは彼にもっと生きてもらう、彼が生きていることを確かめるためにここにきた、というよりは、DNR(do-not-resuscitate)蘇生処置拒否のこととか、その時にどう備えておくか、彼の死に向かって自分たちがなにをどうするのかについて「決めるのはあなたたちですが」を連発する看護士と話したり、3人で協議するためにやってきた。先にあるのは父娘間の - 場合によっては姉妹間にとっても - 決定的な最期の別れ、しかない。
でも実際には、まだ死んでいない彼を前にそんなことはできないしすべきではないし、じゃあなんでここにいるのか、の周辺をぐるぐるまわって、矛先はうだうだしているRachelに向いたり、やってきたRachelのBF – Vincentとはリビングで一緒に遊んで過ごしていたりしていた – のことで目くじらを立てて喧嘩したりしして、その度に父の寝ている奥の部屋が映しだされてみんなふと我に返ったり、の繰り返し。
場内であちこちすすり泣きが起こっていたが、これは我々自身の身にふつうに起こること起こったであろうことを異様な生々しさで精緻に追ったもので、それを三姉妹の絶妙としか言いようのないキャラクターの置き方でひとりひとりに考えさせる内容のものになっている。多少のじたばたがあったりするものの、キーとなるような大事件も奇跡も起こらないまま、登場人物がなぜあんなことを言ったのか、なんでああいう行動に出たのか、などが徐々にじんわりと来て、これってそういえば… とか。 こういうのって日本の昔の家族ドラマのほうがはまる話のような気もするけど、べたべたにウェットなのになりそうでちょっとー。
この会話の運びと小競り合いの連なりなら演劇の方がフィットしたのでは? という質問はQ&Aの時にも出たのだが、部屋と部屋の間の距離感、暗がりや光の当て方、アパートの外の駐車場の様子とか、どうしても映画として撮りたいものがあったから、というのが監督の答えだった。 101分、もうちょっと絞ってもよかったかもしれないが、これは映画でよいのかも。
ネタバレになるのであまり書きませんが、最後のほうでややびっくりなことが起こって、それが全体をひっくり返すことにはならないものの、タイトルが”His” Three Daughtersであることがよりくっきりと浮かびあがる。 全体の流れのなかではやや浮いている気もするのだが、それでも抽象的なかたちではなく、目前の死と向き合うというのは双方にとってこういうことなのか、というのが示されて、改めて自分のことを振り返ったり。 これが”Her Three Sons”だったらまた別のかたちになるだろうな、とか。
帰り、シアターから地上に向かうエレベーターに乗ったらたまたま、Carrie CoonさんとElizabeth Olsenさんと一緒の箱になって、すこしどきどきした。
[music] The Magnetic Fields
8月31日、土曜日の晩にNight1を、9月1日、日曜日の晩にNight2を見ました。
4月の頭にNew Yorkに渡ってTown Hallで見た”69 Love Songs” (1999)のリリース25周年を祝って2日間かけてこれを、これだけを全曲演奏するライブがLondonにもきた。
New Yorkのチケットの前売りを取った時はまだ日本にいて、これがNYだけで8日間公演に広がって、更に全米をツアーして、そこから欧州までツアーする(この後またUSで少しやる)規模のものになるなんて誰が予想したであろうか? たぶんリリース当時に聴いていた若者たちがミドルエイジの危機を迎えたりして、ほうらやっぱり状態でやってくるの? などと思いつつ、でもとにかくチケットは取る – NYの時よりは断然取りやすい、けど客は3階まで埋まっていた。
25年前の楽曲たちだし、大勢が集まるスケールの、恋愛ばんざいー って等しくめでたく高揚するような内容のものではなく、聴いたからといって恋愛強者になれるわけでもなく、レコードの順番通りに演奏していくだけで意外性はゼロだし、OASIS25のあれはべつに驚かない(どーでもいい)けど、こっちの25のはちょっと驚く。
4月のNY公演は待望の! だったせいか物販に並ぶ列もすごかったのに対し、こっちのはTシャツ類とCDとバッチくらいで、あんましない。サイン入りポスターももちろんない。
20時過ぎに客電が落ちて、拍手しても出てこないのがとってもStephin Merrittしてて、3回目でなんとか現れる。
メンバーはNYの時は7人いたのに、今回は5人で、なんとClaudia GonsonとJohn Wooがいない。前回ここで彼らを見たとき(2017年9月だった..) - 50 Song Memoir”(2017)のツアーでもClaudiaとかはいなかったので、そういうものなのかも。なので、ヴォーカルはShirley SimmsとDudley KludtとStephin Merrittの3人で交互にとったり掛け合いしたり。USの時の適度にとっ散らかった楽しさはやや薄れて、ひたすらさくさく歌を聴かせていく。
Night1が"Absolutely Cuckoo"から"Promises of Eternity"までの35曲を、Night2が"World Love"から"I Shatter"までの34曲を演奏する。各夜の中間地点で約20分の休憩が入るところもUSのと同じ。音楽のライブというよりは、毎日毎回同じ演目、同じ曲をやり続けるブロードウェイのミュージカルなどの方に近いのかもしれない。
バンド構成としては7人→5人となったことでアンサンブル(とコーラスも)が少し整理されて、より聴きやすくなった気がするが、このバンドに「聴きやすさ」なんて誰も求めていないので、そこは評価の別れるところかも。 NYでやったようなハシゴを使った寸劇もなく、曲間のStephinのコメントも少なめで、要は疲れているのかも、それは疲れているよね、わかるわー なのだが、演奏される楽曲の性質上、そういった疲弊感もきちんと取りこまれ伝えられてしまうので万能、というか始末に負えない – これだから愛ってやつは、と。
愛にまつわる万象 - 高揚、どん詰まり、疲弊、殺伐、憐憫、支離滅裂、パンク、殺意、自分に向かうもの、同性/異性に向かうもの、クイア―、これら(の複合)を博覧会ふうに横並びにして、でも決して、断固として愛のすばらしさ美しさを直接的には礼賛せず、そうすることで資源ごみみたいにそこらじゅうにぶちまけられた愛の抜け殻、残滓あれこれがメリーゴーランドのように回りだす。 それはツアーを通して何十回でも繰り広げられるなか整理されることも磨きあげられることもなく、うめき声に近い何かとしてこちらに届いてくるし、こっちもそういうものとしてずーっと、ほぼ25年間聴いてきたの。
最後に「それでは休憩に入ります。次は25年後に」と静かに告げて締めたStephinがかっこよく見えてしまった。
9.04.2024
[film] JAWS (1975)
8月26日、Bank Holidayで祝日の月曜日の昼にBFI IMAXで見ました。
これまで映画は見たいときに見れるのを見る、で極めててきとーに接してきたのだが、ある程度体系的にとか、歴史を踏まえて見た方がよりおもしろくなることは確かなので(それは文学でもアートでも)、映画史上の名作、と呼ばれてきたようなやつも見たほうがよいのかも、って最近思うようになった。←遅い。 あと、もうそんなに先は長くないので、ある日ばったりして、天国(or地獄)の入り口に来た時、おまえはこんなのも見てないのか!って落とされるのはちょっと嫌かも、とか。
IMAXは25周年かなんかでたまにクラシックを上映したりしていて、もうじき『七人の侍』もここで見るの。 あと見れなかったけど、こないだ”Sátántangó” (1994)も夜中通しでやっていた。
というわけで初めて見る”JAWS” - サメ映画、動物パニック映画の元祖として名高いのだが、これまで見たことなかった。中学生の頃、海で泳いでいる女性が突然がくっ、って沈む予告を見て、あの音楽を聞いて、こんなのぜーったいムリ、怖すぎ、のままでここまで。
サメの怖さ、強さを描く、というよりも事件に対応する警察署長(Roy Scheider)、海洋生物学者(Richard Dreyfuss)、サメハンター(Robert Shaw)の三様の男たちの絆と、事件を広げた市の対応のまぬけさがくっきりと出ていて、思っていたような海獣の恐怖は来なかったかも。 ここでのサメは、ひたすらでっかく、挙動が見えず突然直線でやってきて壊したり食べにきたりするだけで、吹っ飛ばしたら終わりだし。そこに至るまでの日常との対比でぞぞぞぞ、みたいのは最近の怖いのを知っている人にとってはそんなでもないのでは。
三人で酒を飲んでひと晩過ごして絆を深めたのに、一人が食べられちゃって、でもサメをやっつけたらあんなふうに笑うのかー、って。お腹のなかに彼はまだいるかもしれないのに、とかそんなのが気になったりした。 当時だと害獣をやっつけたぜ! の快感が前に来たのだろうが、今はそんな単純ではなくなっている気がする。地球上で、人間が断然、突出して酷くなっているから。その前夜というかー。
Steven Spielberg作品だと、こないだボローニャで見た前作”The Sugarland Express” (1974)の方がいろいろ深く面白く感慨深かったかも。
Gloria (1980)
26日の夕方、上のに続けて、BFI Southbankで見ました。
Gena Rowlands 追悼の一本。 これは何度も見ている。
NYのサウスブロンクス、アパートの一室でギャングに全員殺された家族の生き残りの男子を近くにいたから、というだけの成り行きで連れ歩くことになったギャングの元情婦 - Gloria Swenson (Gena Rowlands)のぜんぜん関係ないのに巻きこまれてぶつぶつ言いながらガキを引っぱって転々としていくスクリューボール・ノワール - コメディではないが、ところどころ笑えて惚れ惚れする。
なんといっても「おれは男だ!」ってイキって騒いでうっとおしいばかりのガキを無視したり黙らせたり、引っぱったり抱き抱えたりしてNYを渡っていくGloriaの像は、彼女が他の映画でもやってきたやりとりと態度を集約させたものだよな、と(男の側もおおよそあんなもんで)。逃走劇としては結構緩くていい加減なのだが、そんなこと言う輩はケツをぶち抜いたる、って。
追悼の一本が”A Woman Under the Influence” (1974) でも”Opening Night” (1977)でもなく、なぜこれなんだろ? って思ったけど、ラストを見るとそうかー、って。
あのラストで描かれるGloriaの復活のイメージがほしかった - 彼女は何度でもあんなふうに現れて抱きしめてくれるんだよ、って。
そして改めて(何度でも)”Love Streams” (1984)を見たくなる。
The Shining (1980)
26日の晩、上のに続けて、BFI Southbankで見ました。
この日に見たのって昔の名画座でやっていたような3本立てになってしまったが、どれも2時間越えのだったので少し疲れた。
こちらはShelley Duvallの追悼で。 見るのは3回目くらいか。
144分のExtended Cutで、別の日には35mmフィルムでの上映があって、この回のは4Kリストアのデジタル。 それがさー、冒頭の山間の道路を抜けて走る車を追っていく空撮のショット、あまりにクリアすぎてぺったんこで違うんじゃないの? だった。少しぼんやり曇って近寄っていくのか遠ざかるのかわからない不安定な浮遊感と回っていくフィルムの質感が合わさるのがよかったのになー、と。あのカーペットの模様と質感も同様。
この作品はあまり怖くないイメージがあって、なんでかというと、ぜんぶ登場人物それぞれの頭の中で見えたり光ったりしているだけのあれこれが映されていく – のがわかっているから - 人によってはその見え方、晒され方が怖いのかもしれないけど、そうなっていておかしくないものなので、別に特に異常な何かには見えない – そういう世界を描いただけの、というか。
しかも雪に閉ざされて誰もいなくなった山間のホテル、家事と育児をぜんぶ妻に任せて自分は創作活動に没頭すればすべておいしくうまくいくから、という考えも極めて当たり前とされてて、当たり前すぎてぜんぶ凍らせて戦前のボールルームに突っこんでざまーみろ、ってやつなの。Jack Nicholsonはあそこで凍結だったので今だにあちこちで湧いてきやがる…
最初の方に出てくるスーツを着たJack NicholsonがJoaquin Phoenixに少し似て見えて、最近”Joker2”の予告ばかり見ているものだから、これをJoaquin PhoenixとLady Gagaでリメイクしたらおもしろいかも、って少し思った。
9.03.2024
[film] Between the Temples (2024)
8月25日、ドイツから戻ってきた日曜日の夕方、Curzon Bloomsburyで見ました。
監督はNathan Silver、脚本は監督とC. Mason Wells - Joe SwanbergとかAlex Ross Perryといったアメリカのインディーズの流れにある - との共作。 撮影は”Good Time” (2017)や”The Sweet East” (2023) ←監督もしている - のSean Price Williams。
フィルムの色味が、こないだのAlexander Payneの”The Holdovers”(2023)にもあった暖かみのある70年代アメリカ映画ふうのそれで、だめでどん底に落ちた男がじたばたして最後はどうにかなるやつ - この映画もそうで、この傾向ってどういうもんなのか。
ユダヤ教のカンター(歌手・詠唱者)であるBenjamin Gottlieb (Jason Schwartzman)は40を過ぎて妻を亡くしてから人前で歌えなくなって、信仰心まで揺らいでくるくらいの危機に襲われてパニックを起こし、道路に寝転がって車に自分を轢け、って喚いたりしてアーティストの母とレスビアンのパートナー(不動産屋)が一緒に暮らす実家に戻ったりしているのだが、バーで酔っぱらって男に絡んで殴り倒されたところで、そこにいたCarla(Carol Kane)に助けられる。 CarlaはBenの小学校の音楽の先生だったがCarlaはBenのことをあまり覚えていなくて、でもそれをきっかけにふたりで会うようになり、CarlaはBenが教会で成人式を迎える子供たちに歌を教える教室に現れて、自分が子供の頃に叶わなかったBat mitzvah(ユダヤ教の成人式)に向けて勉強したい、という。
こうしてふたりのどこに向かっているのか向かいたいのかわからないたどたどしいつきあいが始まり、Benは自分のBar mitzvahの時のビデオを見せてあげたり、Carlaの息子の家族は、母を訪ねてきたら知らない中年男が自分のパジャマを着ているので混乱したり、Benの母(たち)は、新しいパートナーをくっつけてみれば、とラビの娘のGabby (Madeline Weinstein)と会わせてみて、Gabbyは作家だった亡妻の本を読んで感動した! って変な空気になったり...
誰もが参照としてあげている”Harold and Maude” (1971)ほど痛ましくも切なくなったりもしなくて、全体としてはどこに転がるのかわからないコメディで、どこかしらSteve Carellに似て見えるJason Schwartzmanの予測不能な挙動を楽しむ、でよいと思うのだが、それでもCarlaが脳卒中で倒れてしまったり、Benが亡妻のボイスメッセージを携帯に何百通も溜めこんでいたり、何もかもよくない方に転がっていくので安息どころではなくなる安息日のディナーとか、宗教がひとつのテーマになっているドラマとしてはおそろしく不安とか不穏に満ちていて、それがTempleの狭間、ということなのか - 戒律で統御されたパーフェクトな世界とそれが実現されているはずの現実界と、両者の断層をまじめに、かつ不器用に渡ろう埋めようとしている人々のおかしみ、というか。
Jason Schwartzmanがよく現れるWes Andersonの世界もこれに近いかも - デザインがきちんときれいに整えば整うほど、そこから変にはみ出す人々が大量に湧いてでるという.. なんでこうなっちゃうのか? という問いに神さまはどう応えるのか。
ガザ攻撃以降、ユダヤ・ジョークって1mmも笑えないものになってしまったが、ガザ攻撃以前に撮られているこの作品は、宗教というより宗教という鏡が映しだす歪んだ何かとか、そこに歩み寄る途中の躓き – みんななんであんなに揃って転がって横たわってしまうのか – などが至近距離で撮られていてとてもよいと思った。
そしてなんといってもCarol Kaneのかわいらしくて素敵なこと! 彼女の方に駆け寄っていくむくんだ哺乳類みたいなJason Schwartzmanを見るだけでなんかよいの。
9.02.2024
[film] Lone Star (1996)
8月18日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。監督と撮影のStuart Dryburgh監修による4Kリストア版のRe-release。
上映前に監督のJohn SaylesとプロデューサーのMaggie RenziのRecorded Introが流れる。John Saylesがすっかりおじいさんになっていて少しびっくりした。異文化が混在する土地のありようと時間の流れを並べて表現していくのは難しいテーマだったが、今でも楽しんでもらえると思う、と。 うん、すばらしいパワーを持った作品だと思った。
日本では劇場未公開で、ビデオスルーだったのか邦題は『真実の囁き』。 80-90年代のIndependent を経由してきたアメリカ映画で、John SaylesってJim Jarmuschと同じくらい重要だと思うし、好きな作家だったの。
テキサス州の架空の小さな町Fronteraで保安官をしているSam (Chris Cooper)がいて、町の外れの原っぱで金属探知機を抱えて宝探しをしていたふたりが警官の”Lone Star”のバッチをつけた骸骨を掘りだした現場にいて、彼にはその骸骨を見て浮かんできたり思い当るところがあるらしく、考え込んでしまう。
そこから時代はSamの父Buddy(Matthew McConaughey)が保安官をしていた時代にいきなりスリップして、そこでの見るからに強権的な人種差別主義者の警官Charlie Wade (Kris Kristofferson)の野卑でゲスな振る舞いが映しだされ、Samはこの骸骨がBuddyによって撃ち殺されたCharlieのものではないか、と思い、あまり浮かない顔で当時を知る人 – Charlieの傍にいた警官で、いまは市長になってよい暮らしをしているHollis (Clifton James)とか - に聞きこみを進めたりしていくなかで、Samの目から見たコミュニティの過去と現在が浮かびあがってくる。
Samの高校時代の恋人だったPilar (Elizabeth Peña)のかっちりした移民の母Mercedes (Míriam Colón)が経営するメキシカンレストランのこと、アフリカ系アメリカンのOtis Payne (Ron Canada)が経営するバーにももちろん染みこんでいる人種差別のエピソード、それらを乗り越えて立派な軍人となった息子のDelmore (Joe Morton)のこと、そしてSamの別れた妻のBunny (Frances McDormand)はフットボール狂いの典型的な白人アメリカンであり、Samもそれは自認している。
町全体にCharlieのような差別野郎が支配する重苦しい空気があったかというとそうではなく、どちらかというとラティーノの陽気さや見て見ぬふりの連続でどうにか今日明日をやり過ごしていく、よくある観光の町のイメージそのままだったりするのだが、それでも誰かが、誰もが脛に傷をもった状態、どこかの傷のありかを知っている状態と共に日々を送っていて、そんななかに現れた乾いた骸骨とLone Starのバッチは何を語ろうとするのか。なんて面倒なものを掘りだしてくれたことか、って。
こんなあれこれをどうやってストーリーとして組みあげていったのか - 大昔に読んだStuart Woodsの『警察署長』(1981)とかJohn le Carréの小説を思わせる - 小説なら俯瞰して構成を組み立てることができそうだけど、映画として見せていく - 章立ても時間/時代に関する字幕も言及もなく映像の連なりのみで – って難しい気がして、ただこれらをSam - ものすごく職業倫理や正義感やpolitical correctness に燃えているわけでもない - どちらかというと諦め疲れている保安官 - の視点から描くことで、そこに棄てられ地にまみれて埋められていた”Lone Star”というタイトル/職位を置くことで、生々しく浮かびあがってくるなにかがあるような。
例えばRobert Altmanのアンサンブル・ドラマだったらもう少しおもしろおかしく「衝突」や「摩擦」を、その顛末や因果応報を描いたかもしれないが、このドラマの登場人物たちは決してアンサンブルに身を委ねようとはせず、それぞれがそれぞれの過去たちと向きあってそこで自閉している - それをできてしまう俳優たちのすばらしい演技。 ここで描かれたSamの倦怠や困惑はだからどうしろっていうんだ? という骸骨を見つけてしまった我々のそれに直結していて、そこから過去のあれこれが芋づるで連なってやってくる - その重みとどうやって過去の人々と向きあうのかについて。
もう9月だなんていいかげんにして。