少し戻って、6月15日、土曜日の晩にThe Coronet Theatreで見ました。
13日から15日まで行われた短い公演の最後の回。英国の劇作家Caryl Churchillによる”Heart’s Desire” (1997)をイタリアの演出家Lisa Ferlazzo NatoliとCompany lacasadargillaがイタリア語に翻案したもの。1時間強の一幕もの。
Brian (Fortunato Leccese) とAlice (Tania Garribba)の夫婦の娘がオーストラリアから戻ってくるのを待っていて、そのリビングのテーブルにはBrianの妹のMaisie (Alice Palazzi)も座っている。
でも彼女は待っていてもなかなか来ない・現れなくて、飛行機には乗れているのか、空港からの電車が遅れたりしているのか、娘からと思われる電話が掛かってきて、それにBrianが応えて、家族も反応して - というやりとりを彼らから少し離れたところに座っている演出家(Francesco Villano) -? でも彼は時々演者としても出てくる - が何度も何度もやり直しを指示して - 台本のどこそこの箇所から、とか服は何を着て、とか喋りを倍速で、とか、一見ショートコントのように見えなくもなくて、その指示を受けた演者はその通りにやり直さなければならず、それを延々機械のように正確に繰り返しながら(これ、すごいスキルだと思った)、でもドラマとしては少しずつ前に(前とは?)進んでいっているようで、それに応じるかのようにいろんな摩擦による疲れ- ほころびと並行して家族間の不和や憎悪が次々と露わになっていくのだが、それでも、いつまでたってもどうしても娘は現れない(ゴドー?)。
全ての会話はイタリア語で、左右にあるディスプレイに英語字幕が流れていくのだが、会話のスピードが速くて(倍速になったりするし)、同じ内容の繰り返しが多かったりするので、そのうち疲れて見なくなってしまう – というのもこの劇で想定されたなにかなのか。
そうやって進んでいく(or 進まない)劇の、劇作のプロセスは演者たちに困惑と葛藤と苛立ち - 演者と演出家の間だけでなく、先に書いたように燻ぶっていた家族間の不和と不協和をも露わに - をもたらし、いつまでこの我慢と緊張を保てるのか、いつ互いに殺し合うようなホラーに転じてしまうのか、いや、家族なら「最後」はどうにかなるものなのか - はらはらしながら見ていくと、その最後にとうとうその娘の到着が - 実際には起こっていないので受話器に向かって - “Heart's Desire”であることがBrianの口から吐きだされるように語られ、でもそれもまた、どこか誰かに言わされている感があって、それの本当のところはどうなのか、だって娘はいつまでたっても現れないじゃん、という地点に立ち返っていくので終わりがなくて、これを不条理劇、と言ってしまえばそれまでだしそういうことも簡単なのだが、この「不条理」がどれだけ日々の不満や躓きや苛立ちによって構成されているものなのか、どの一線を越えたら不条理認定されるのか、などいろいろ考えてしまったりする。
これが映画であれば、もう少しいろんな目線、オプションや時間軸を繋ぎや編集も含めて導入しやすい、というかその選択の幅に応じた考えの向かう先 - これもまた選択肢 - が探しやすい形で示される気がするのだが、不条理劇の場合は、進行していく時間と場所がライブで観客席と地続きで、先どうなるかも見えないので、まさに足元が足元から崩れていくような感覚がたまんない。
そして最後にぷつん、ってかんじでJoy Divisionの”Love Will Tear Us Apart”のあのイントロのギターが高らかに鳴りだした … と思ったら閉じるの。
6.29.2024
[theatre] L'amore Del Cuore (Heart's Desire)
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