6月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。
前作”Inside Out” (2015)では、幼年期、自分が立ちあがろうとするときに重要なkeyとなる感情の5要素 - Joy, Fear, Rage, Disgust, Sadnessがどんな役割をもって立ち回りをして、それがその子にどんな影響を及ぼすのか、を戯画化したものだった。で、今回は13歳のティーンになったRiley (Kensington Tallman)に社会化や去勢の危機が襲いかかる、というもの。
子供の頭のなかがどんなふうになっていて、その動きが子供のパーソナリティ形成や周囲との関係形成にどんな影響を及ぼしたり相互に作用したりするのか、をああいう形でわかりやすく示すことで、子供をもつ親や大人は子供をより「理解」できてコントロールしやすくなる(のかもしれない)。 極めてディズニー、としか言いようのない教育と統制と金稼ぎを繋いでミックスしたコンテンツ - みんなにとってよいことをやっていますから! の手口やり口全開で、いろんな観点からげろげろしかない。いま一番知りたい頭のなかは、ジェノサイドで子供たちを殺して平気な顔の独裁者や税金をネコババして悪いと思ってない政治家や、それでもそういう権力者や支配層にへつらって平気な顔をしているメディア関係者とか司法関係者とか教育者とかロックの人とかだわ – こういうのやってみろボケ(というくらい頭にきている)。ぜったいやらないだろうけどな。
という大枠にあるくそったれを除いて、どこかの未知の別世界を描いた漫画として見ればおもしろくないこともないかも。
アイスホッケーチームに所属してずっと一緒の仲良し3人組のいるRileyはコーチから高校の年長者たちも参加しているアイスホッケー・キャンプへの参加をオファーされ、緊張して舞いあがってぐらぐらで、親や近所の仲良しから離れ、スマホも取りあげられ、はじめて社会っぽい「社会」への適応を求められた彼女にAnxiety (Maya Hawke)とかEnnui (Adèle Exarchopoulos)とかEmbarrassment (Paul Walter Hauser)といった新たな感情-キャラクターが現れる。もう少し早いタイミングじゃないの? とか、これだけでいいのか?は当然あるし、もうこの頃なら誰が好き、みたいな話が出てきて当然だと思うのだが、どうにかうまく回避、というか誤魔化しているような。
ストーリーはJoy (Amy Poehler)を中心とした前作の感情チームが、Anxietyを中心とした束になってやってくる不安を回避・解消すべく、なんでもブロックしたり嘘言わせたりコントロールしたりしようと躍起になる勢力に遠くに追いやられて、先生や上級生に認められたくて自分を失っていくRileyを助けなきゃ、って奮闘するの。でも大人になるのって、基本は自分のなかの無邪気なJoyを殺すことだよね。自分なんかもうApathyとAnxietyとBoredomしか残ってないわ。
うまくいった場合はこう、なのかも知れないけど、これは単に冒険して切り抜けてよかったよかった - ものとは違うと思うので、うまくいかなくて、あとで立ち直ったり持ち直したり、例えば傷(トラウマ)として残るというのはこういうこと、のようなのを示してほしかったかも - どうせ何をどう描いても …. になってしまうのであれば。
あと、Anxietyは常にこれをしたらこうなる、の状況を想定して行動を縛ろうとするけど、悩んだり考えたりで動きが止まっている時間とか、こんな世の中とか自分なんて、なくなっちゃえ、の闇に囚われてしまう時間はどんなふうになっているのか - こんなことを考えさせて止まらなくなったり → これこそが敵の思う壺か。
あと、この時期の行動や視野に決定的な影響を与えるのって、目上とか親からの直接間接の暴力だと思うのだが、そういうのも当然描かれない。
子供の頃にクラッシュしたあれこれを、顔を真っ赤にして慌てて隠そうとするあたりはおもしろいかも、と思った。どこかで前作で消えてしまったBing Bongが出てこないかなー、と思ったけど出てこなかったわ。
あとAdèle ExarchopoulosによるEnnuiがとても素敵で、あんなEnnuiが中にいたらよいなー、って。
6.18.2024
[film] Inside Out 2 (2024)
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