6.25.2024

[film] The Sugarland Express (1974)

6月22日、土曜日の晩、ボローニャの映画祭をやっているCinema Arlecchinoで見ました。

時間は21:30 - この裏、21:45からは野外の聖堂前のでっかい広場で『捜索者』(1956)の70mmリストア版がWim WendersとAlexander Payneのイントロ付きで上映、というのがあったのだが、見たことがなかったこっちにした(でも『捜索者』の70mmだって見たことないといえばそうなのだが)。

Steven Spielberg監督作にこんなタイトルの映画あったんだ? と思って邦題を見たら『続・激突!/カージャック』だって… もうさー、過去に売らんがためで付けられてしまったこういうしょうもない邦題、じじい達が懐かしんで偉そうに振り回すだけなんだからちゃんと見直さない? こういう歴史は修正していいと思うよ。

映画祭の予約サイトがしょうもなかったのは書いたけど、この映画を予約したConfirmationのメールが来ていなくて文句いったら、割と普通に起こっているらしく、「どの辺がいい?」って空いている席にさっさか案内してくれた。TIFFもそうだけど、映画祭のチケット予約システムって、どこのフェスのもなんであんなにしょぼくて使えないのばっかりなのか?

映画館は昔からある町の映画館ふうで、シアターはひとつ、十分にでっかく座り心地よく見やすくて、これから映画を見るんだわ、のどきどきがやってくる。 シネコンの小さいシアターって、大きめの会議室に入るみたいで盛りあがらないよね。

予告も挨拶もなしに時間が来たら電気が落ちてすっと始まる。かっこいい。

実際の事件と実在した人たちを元にしたお話し、Steven Spielbergの劇場用映画第一作で、John Williamsが彼の映画音楽を担当した最初で、Toots Thielemansのハーモニカがずっと残る。撮影はVilmos Zsigmond。

冒頭、浮浪者みたいな人が道路脇の廃車をがさごそしている横の道路にLou Jean (Goldie Hawn)が降りたち、歩いて刑務所まで向かって服役中の夫Clovis (William Atherton)に会うと、自分たちの赤ん坊Langstonが里親に引き取られちゃうので、なんとかしないのならあなたと別れるから、って詰め寄り、わかったよ、ってClovisが言うとふたりはそのまましれっとそこを出て、老夫婦のボロ車を乗っとり、そのポンコツをチェックに来たハイウェイパトロールのSlide (Michael Sacks)を人質にして、今度は彼のパトカーで里親と赤ん坊のいるSugarlandの地を目指す。

Slideからのエマージェンシー・コールを受けたCaptain Harlin(Ben Johnson) – よい人っぽい - はとにかく人命を最優先に、と警護するフォロワーや車の数を広げて騒いでおおごとにし、敵を簡単に仕留めたり終わらせたりできないようにして彼らから少し離れて注意深く見つめる – というより見守るように追っていく、とメディアの騒ぎも広がって沿道はお祭り騒ぎになっていったり。

犯人の方も人質のSlideと少しずつ打ち解けて共犯のような関係ができていって、ガス欠の時にもチキンを食べたくなった時にもうまく一緒に切り抜けて、彼らの後に連なるでっかいコンボイはどこまでもいつまでも続いていくかに見えたのだが。

逃避行カップルの刹那や悲壮感やとげとげしさはなくて、それはまず逃げる、というより子供の待つSugarlandに向かう – そこに行きたい/行かなきゃという思いが雪だるまになってつんのめって加速して、そのLou Jeanのつんのめりに全体が引っ張られていくので、そりゃそうなるよな、っていう展開にはなんの無理もない。それを可能にすべく道路も車も銃弾もぜんぶが彼らに道を譲って送りだそうとしている。

“Thelma & Louise” (1991)でも”Natural Born Killers” (1994)でも、後年の映画への影響はいくらでもあるみたいだが、自分は”The Blues Brothers” (1980)の、あの隊列をなすことで無意味が束になって転がっていくような追っかけシーンを思いだした。あと少しだけ”They Live by Night” (1948)とか”Days of Heaven” (1978)とか。とにかくGoldie Hawnがすばらしすぎる。

フィルムは70年代映画にあるあたたかめのかんじはあまりなくて、やや暗めのクールなトーンで終始していて、なので最後の夕焼けのところがとてもしみた。あそこに映ったのはClovisの影なのかも。

終わって、『捜索者』の方に行ってみようかな(歩ける距離)、と思ったのだが既にこの日は32,000歩あるいて足がぱんぱんだったので、やめた。こないだのバルセロナもそうだったけど、あんな夜中にみんなふつうに町を歩いていてよいなー。

そして翌日は朝から雨なのだった…

6.24.2024

[art] Preraffaelliti - Rinascimento Moderno

6月21日、金曜日の晩にボローニャに飛んで、23日、日曜日の晩に戻ってきた。

はじめは6月30日に終わってしまうフォルリのMusei di San Domenico – サン・ドメニコ美術館で開催されているラファエル前派の展覧会 – “Preraffaelliti - Rinascimento Moderno”に行きたいなー で、割と最寄の町がボローニャでまだ行ったことなかったし、ボローニャならBAから直行便もあるし、それなら近くのパルマとモデナにも行ってみよう、くらいで計画を立てはじめた。こういうのの計画って、旅慣れた人々はどうやってやるのか知らんが、たぶんものすごく効率わるくあれこれ計画したり決めたりしている気がして、でもまずは展覧会見れればいいし、くらいで。

そして、出る2週間くらい前になって、ボローニャでIl Cinema Ritrovato Festival - 「ボローニャ復元映画祭」をやっているのを知る。カンヌよりもヴェネツィアよりも毎年ものすごく憧れていていつか一度は行きたいな、とずーっと思っていたやつ。もう旅程を変えるのは面倒だったし、どうやってチケット買うのかもわかんないし、さてどうしよう/どうしたい? って暫く考えて、とりあえずパスだけでも取っておこうと思って、でも€120かあー、ってやっぱり悩み、でもやっぱりパス取って、次は見たい映画の予約、と22日土曜日の晩と23日日曜日の朝以外のスケジュールは(見たら見たくなってしぬから)見ないようにして、取ろうとしたらサイトがぜんぜん繋がらないしUIひどいし、それで嫌になって2~3日過ぎてしまい、ようやくとりあえず2本だけ取る - 映画の話はまたあとで。

22日は、9:00にまず映画祭のオフィスにパスを取りにいって、分厚いカタログも貰って、これ持って展覧会行くの? ってなるが列車の時間もあるのでボローニャの駅に行ってチケットを買って待ったのに時間になっても掲示板に表示されたホームに列車が来なくて、そのうち時間が過ぎたら消えちゃったので、なんで? と駅員のひとに聞いたら、列車はもう出たと。あなたが待っていたのは東行きの4番線ホームで、これは西行きの4番線から出たのだ、ってそんなこと言われたってなんで4番線がふたつあるんだよ? って頭がおかしくなりそうで、次の電車まで30分くらい待ったり、フォルリの駅からのバスもなんとなく乗ったら(なんとなく乗るな子供か) とんでもないとこに連れていかれてTaxiないしUberもいないし、炎天下のなか40分歩くことになり、などやっぱりいろいろ起こる。

こうしてへろへろになってたどり着いた展覧会。入口に1893年のホフマンスタールと1882年のワイルドの引用があって、英語にしてほしいし、出典も書いてほしかったのだが、しょうがない。
ホフマンスタールのは「彼らは自然から芸術に向かうのではなく、その逆をいくの」という有名なのだし、ワイルドのも「ラファエルの安易な抽象表現とは対照的に、より強い想像的リアリズム、より注意深い技術的リアリズムが見いだされた」という、これもどこかで読んだような。

英国にいて展覧会に通うようになると、近代絵画の展覧会 - 具象系の – には必ずと言ってよいほどラファエル前派の作家の絵が参照軸のように並べられていたりして変なのー だったりするのだが、今回のこの展示は、君らが英国でどれだけ称えられているか知らんが、おおもとは全部こっち - イタリア - の方だから、あまり調子にのらないように、っていうのを量と力技でぶちまける、そういうのだった。既に見たことあるやつもいっぱいあったが、フィリッポ・リッピやボッティチェリやグイド・レーニとかを持ちだされたらかなわんし勝てるわけないやろー、になる反対側で、こんな(登場してきた頃はおそらく)ちょろい、アニオタみたいな奴らの絵がそんなクラシックと対照されるわけ? という - そういうのも含めて狙いはおもしろい。これと同じ企画を英国でやろうとしても難しいだろうし。

最初の大広間にルネサンスの頃の祭壇画や彫刻のでっかいのが集められていてなんだこれは? となったあたりにEdward Burne-JonesとWilliam Morris(商会)の共同制作による聖杯伝説のでっかいタペストリー(これ、個人蔵なの?) が覆い被さってきて混乱してくるあたりでJohn Ruskin先生のコーナーがきて、ではなぜイタリアなのか? について語って頂きましょう、と。

その先はDante Gabriel Rossetti 〜 John Everett Millais 〜 William Holman Hunt 〜 Edward Byrne-Jones 〜 George Frederic Wattsと画家別に流れて、William Morrisらの工芸もあって、しめにFrederic Leightonがくる。画家別とテーマ別の組み合わせもうまくて、有名なのとやや地味めだけど線と色彩が鮮やかで素敵な絵の配置、更にはルネサンスの古典たちとの対置まで、ストーリーにはめ込むのではなく、ストーリーが浮かびあがってくるような自然さ(vs. それぞれの絵に込められた構築感)も含めて、すごくよく考えられていると思った。あとはとにかく、うまく言えないけど、とっても絵を見ているかんじになった。

ただ点数が多すぎでこの後に行きたいところが積んであって、一日の体力の4/5を既に(自分ひとりで勝手に)燃やしてしまった人にとって、ややきつくて、終わってからの売店にあった展覧会カタログの、「鈍器」とか言われなくてもただ見ればわかる大荷物感が、これ買って帰らなかったら、その欠落した穴にお前自身が埋められて一生苦しむがよいのだとか脅すので、半ば目を瞑ってカタログ買って、映画祭のカタログ(既にじゅうぶん重い)と合わせると自分が何かの報いで貶められた哀れなロバになった気がしたのだがロバなのでこれらを担いで、予定ではこのままパルマに行きたかったのだが諦めてホテルに荷物を置きに戻って、その後の午後はボローニャの町中を歩いてまわった。

残りはまたあとで。

6.21.2024

[film] Sasquatch Sunset (2024)

6月17日、月曜日の晩、Curzon SOHOで見ました。

監督はDavidとNathanのThe Zellner brothers、台詞は一切ないけど脚本はDavid Zellner、プロデュースにはAri Asterや出演もしているJesse Eisenbergの名前がある。2024年のSundanceでプレミアされた。

最初はまた猿(人)が出てくるやつか... だったのだが、猿人ではなかったみたいで、でも、ものすごく変な映画であることに変わりなく、4人(or 匹?)の猿人? じゃない 雪男- Sasquatch - 別名ビッグフット(スーツを着て演じているのはRiley Keough, Jesse Eisenberg, Christophe Zajac-Denek, Nathan Zellner - 女性以外は誰が誰だかほぼわからず)が出てきて、他にもヤマアラシとかカメとかアナグマとかスカンクとかクーガーとかいろんな動物が出てくるけど、英語が喋られることはなくて(唸ったり呻いたりはする)、連中の動きはサイレント映画のそれに近い。どちらかというと『はじめ人間ギャートルズ』- 彼らは喋ったけど - とか、和田ラヂヲとか昔のガロ系の風が吹いてくる漫画の寂寥感を漂わせたりもする。

結末を書いてしまうと絶対つまんないのでそれを避けながらー。

映画はこの4匹が過ごすSpring – Summer – Fall – Winterの各季節をロメール風に追っていく。彼らは♂3で♀1で、それぞれがどういう関係にあるのかは不明だが、一組が交尾しているのを2匹がぼーっと見ていたりする絵があるのと、食べるときは一緒だし寝る場所を作るときにも一緒に草などを運ぶし、なにかあると一斉に木の棒を打ち鳴らしたりしているのでコミュニケーションを取る方法はあるように見えるのだが、基本なにを考えているのかはわからない。

自然の掟とか動物の本能みたいのについて、なんとなくはわかるので、彼らが何をしようとしているのか、どう動こうとしているのか、その結果がどうなるか、等の推測はついて - この辺はサイレントを見ていく感覚に近い – 毛繕いとか、毒キノコを食べておかしくなるとか、引っ掻いて匂いをくんくんしながら止まらなくなるとか、いろいろ微笑ましいところはある。

けれども、それらを並べていくだけでは当然おもしろくないのでどうするかというと、子供にもわかる下ネタのほうに行って、上から下からいろいろ出たり出したりがあり、それはもう抑えることができないような本能系のやつで、そのうち子供も外に出てくるし(ぽちゃ、ってかんじ)。

彼らとしてはなんの作為もなく森を歩き回って生きているだけなので、それをどうやって我々に見せるか、ただ森のなかで生きている、というのはどういう状態を指すのか、を描こうとしたのではないか。生の反対側にある死も当然描かれるのだが、ヒトだったら滲んできそうな悲しみ、のようなのからは少し遠かったり。

例えばこれを森に暮らすムーミンでやったらどうなるか、というとたぶん失敗したのではないか。すごくおもしろかったりおかしかったりかわいかったりするわけではない、そういうのからぎりぎり遠くにあろうとする場所で、彼らが生息しているその景色(Sunset)が見えて、それだけで十分なのかも。それか、Kelly Reichardtの”First Cow” (2019)にあった世界の、その遥か前、のような場所に位置づける、とか。

あと、これなら字幕をつける必要もないからすぐに公開してもいいんじゃないか、とか。 ただゆるキャラみたいにかわいいのとも違うので、興行的には難しいかもー。


この週末、これからボローニャの方に行ってきます。最初は展覧会を見にいくだけの予定だったのに、映画祭などをやっているのを知って頭のなかでとぐろが…

[film] Roma ore 11 (1952)

6月16日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。

ここの5 ~ 6月のBFIは“Chasing the Real: Italian Neorealism”というネオリアリズモの特集をやっていて、そのなかのロッセリーニの『無防備都市』(1945) – “Rome, Open City”は一般劇場でもリバイバル公開されていて、もちろん(何度でも)見たのだが、終わったら拍手が起こる熱さで、これだけじゃなくて何を見ても外れない – いや、当たり外れとかじゃなくて(映画を含めて広く)歴史を学ぶという姿勢で見るべき。とか言いつつあんま見れていないし書けていないし…

これまでで見れたのは”Caccia tragica” (1947) – “Tragic Hunt”-『荒野の抱擁』とか、Anna Magnaniの出ている“Il bandito” (1946) – “The Bandit”とか、ロッセリーニの『殺人カメラ』 (1952)とか。

これは”Caccia tragica” – あと『苦い米』(1949)も - の監督Giuseppe De Santis、英語題は”Rome 11:00”。ローマの午前11時、実際に起こった惨事をもとにした作品。

1951年1月14日、日曜日のローマの新聞”IlMessaggero”に小さな求人広告が出る – 「若く知的な女性 - 初心者でも謙虚であれば。タイプライティングができること」等。この翌日、この求人を求めてその会社の前に約200人の女性が列をなして、4階のオフィス前に人が溢れた結果、階段が崩落して77人が重傷を負い、やがて1人が亡くなった、と。

という史実をベースに、女性たちが方々から集まってくる当日の朝から言い合い押し合いしつつ階段を上ってひとつのドアに向かっていって、突然の足下が崩れ落ちる事故の現場 - 逃げだす人、救出される人、そして搬送先の病院のベッドまでを追ったドラマで、全体として事故のパニックと悲惨さ – これはこれで古い建物いっぱいの国にいると十分こわい - よりも、こんな小さな求人にあらゆる職種・階層の女性たちが殺到しなければならなかった戦後社会の困窮と、事故の後に露わになっていく女性たちの家族や恋人を含めたいろいろこみ入った事情(親にばれてしまい泣かれたり、を含む)あれこれ、それらに土足で踏みこんで平気な当時のジャーナリズムなど - その粒々のどれもが怖かったり悲しかったり。女性たちの誰ひとりからも目を離せなくする視野の広さ確かさと訴えかけてくる強さはすごいと思った。


Murder in the Family (1938)

6月18日、火曜日の晩にBFI Southbankで見ました。
BFIがアーカイブしている名画 – という程ではないかものB級おもしろい英国映画をキュレーターが選んでフィルムで上映する単発企画。この作品がここで最後に上映されたのは今世紀に入ってまだ1回だけとか。

1936年の同名小説を原作にAlbert Parkerが監督し、美術のCarmen Dillonとか撮影のRonald Neame + Oswald Morrisはこの後アメリカに渡って有名になるし、それを言うなら助演のJessica Tandyもそうだし。

Osborne家の主人(Barry Jones)は朝から暗い顔で、なぜなら失業して職探しに行かなければならないからで、家族には内緒にしたかったのに友人の電話でそれがばれちゃって、妻も一緒になって揃ってどんよりしたところに家族親戚中揃って忌み嫌われているOctaviaおばさん(Annie Esmond)がやってくると連絡が入り、準備する間もなくやってきて、確かに何を言っても強烈に陰険でいじわるなのだが、家族が暗くなっている原因を主人の失業と聞くと、身内なのに助けようともしないで自分の遺言状を彼ではなくチャリティーとメイドに、とか早速書き換えようとしているので(中略)… こうして殺されてしまった彼女の犯人捜しに警察が現れて聞きこみを始めるものの、家族全員がおばさんを等しく憎んでいるわ決定的な証拠も見つからないわで…

一軒の家からほぼ外に出ていかない犯罪 & 家族のアンサンブルドラマとしてとてもよくできていて、勝気な次女役のJessica Tandyも素敵で、結末もそういうふうにするのかー、って無理がないし。

こういう小気味よい小品 - でもあまり知られてない - て、邦画にも、どの国にもあると思うし、いくらでも出てくるしきりがないねえ..


BFI Southbankの7月の特集は"Discomfort Movies“だって。 やめて…

6.20.2024

[film] Treasure (2024)

6月16日、日曜日の夕方、Curzon Mayfairで見ました。
バルセロナに行っている時に、この映画のPreviewとStephen FryとのQ&Aがあったのだが勿論行けなかった。

監督はドイツのJulia von Heinz、原作はオーストラリアのLily Brett - 彼女の両親は戦前のポーランドにいて、アウシュビッツで離れ離れになったそう - による”Too Many Men” (1999)。Lena Dunhamはプロデューサーとしても参加している。

1991年、NYのジャーナリストのRuth (Lena Dunham)は、ワルシャワの空港で父Edek (Stephen Fry)を迎えて、ずっと計画していた父の祖国を巡ってアウシュビッツを訪れる父娘の旅に出る。

まず予約していた列車に乗ろうとしても父は嫌がって(理由はわかるよね)、かわりにタクシー運転手のStefan (Zbigniew Zamachowski)を見つけて意気投合して彼を数日間雇うことにした、という。

ホテルにチェックインする時も娘と続き部屋にしてほしいってフロントにドル紙幣を渡したり、すべてがこの調子で一見おとなしそうな熊に見えるがなんだかんだ自分のペースを貫こうとする父と、その都度不機嫌さを露わにし、でもポーランド語もわからないので渋々彼に従っていく娘、というコンビによるロードムーヴィー。まずこの二人の組合せについては文句なしによいの。

かつて父の実家が経営していた工場にいっても、軽く追いだされてしまうものの、父の当時の記憶は正確であることがわかり、更に彼の家族が住んでいた家に行って、戦争前にここに住んでいたので中を見せてほしい、と中に入れてもらう。現在そこに住んでいる家族は、自分たちが入った時には空き家だったし、と強調するのだが、父はソファやお盆や茶器が自分の家で使っていたものだったことを確認して、でもそれを強く主張してもどうなるものでもないので、そこを出る。

なんだか納得がいかないRuthは、ホテル従業員を通訳として雇ってひとり再びその家に向かい、半ば喧嘩腰でお盆と茶器一式を向こうの言い値で買う交渉をして、すると向こうは更に彼女の祖父のものと思われるコートを持ちだしてきたり。

娘から見えなかったし語られなかった父の過去を少しづつにじり寄りながら明らかにしていく旅なのだが、夜中にひとり起きだして自分の腕にタトゥーを掘りだしたり、別れた元夫に電話してしまったり、Ruth本人もなんらかの闇と混沌を抱えていることがわかって、でも父親が子供の頃に経験した地獄には及ばないから、って自分を懸命に抑えているような。

直前まで行くのを渋っていたアウシュビッツで、父は、ガイドの説明を遮って列車が入ってきたのはここではなく、あそこだ、とその場所に立って線路跡を示し、あそこで母さんとはぐれてしまったんだ、と地団駄を踏んで一気に吐きだすように語って、だからここには来たくなかったんだ、と全員が気まずくなってしまったり。でも、そうであってもRuthはどうしてもここに来る必要があったのだと思う。

そういうのの反対側で旅の途中で知り合ったご婦人と父が仲良く部屋にいるのを見てしまったRuthは..

いろんなエピソードが重ねられていって、旅の終わりに住んでいた家の傍の地中から掘りだされた過去の写真を車の中で見ながらEdekが泣きだしてしまうシーンはとてもよいのだが、ここまで来るのにややいろいろ込められすぎていてそこにまっすぐ収斂していかないのがやや残念だったかも(Treasureとは。関心領域の外に眠っていたもの)。加えて父と娘の関係がどうしてそうなっていったのかを描くのは簡単ではないのだろうが。

でもポーランド語訛りの英語でぼそぼそ喋って伸び縮みする熊みたいなStephen Fryはともかく、俳優としてのLena Dunhamに現れる不安、当惑、苛立ち - その表情のどれもがすばらしい。彼女を最初に見たのはNYのIFCで”Tiny Furniture” (2010)が封切りされたときのトークで、なんて面白い人だ、って思ったのを思いだした。

6.19.2024

[film] Wilding (2023)

6月15日、土曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

ドキュメンタリーの登場人物(一部俳優が演じているけど)でもあるIsabella Treeによる分厚い著書“The Book of Wilding”はベストセラーになっていて、Q&Aつきの上映会はあっという間に売り切れてしまい、映画館もドキュメンタリーにしては珍しく人が入っている。ガーデニングや土いじりが好きな英国人にはたまらないやつなのかも。

西サセックスのKneppでSir Charles Burrell(Charlie)が先祖代々の5.5平方マイルの土地/農地を20代で相続した時、土地は長年の肥料で汚れて死んだ状態で、大学で近代農業を学んだ彼が農業をやろうとしてもずっと使っていくのに耐えられる状態にはなく、いろいろ試した結果負債まみれになってしまったので、一旦飼っていた牛とか代々持っていた農機類もぜんぶ売って手放し、汚れた状態を自然に近い状態に戻してみようと考える。

長年に渡って木だけではない菌根類のネットワークが地中には張り巡らされていて、そのネットワークが破壊されてしまったようなので、そこも含めて修復していく必要がある、と木の専門家の話を聞いて、更に参考にしたのがオランダで干拓計画が失敗して、放棄された土地に動物たちを呼びこんで半野生状態の生態系を回復させたプロジェクト – これについてはドキュメンタリー映画 - ”De nieuwe wildernis” (2013) -『あたらしい野生の地―リワイルディング』がある - で、CharlieとIsabellaはこれに倣って馬とか牛とか豚を野に放って彼らの好きにやらせてみる。

木とか草とか土が自分たちの力で野生状態に戻る(re-wilding) - そこに「治癒力」みたいな物語ぽいのとか、「xx法」みたいな権威を絡めようとするのはヒトの勝手で、そのために放たれた牛や馬たちが特にがんばってなにかをしたわけではなく、彼らは自分たちのやりたいように食べたり走ったり転がったりして、いくつかの季節を経ただけで(ヒトの側にどれくらいの、どんなメンテナンスみたいなのの苦労があったのかは映像には出てこない)、草木とか鳥や虫がじゃんじゃか戻ってくる、って、これが本当ならてきとーでよいことー。

勿論、土壌としては繋がっている近辺の農家からは何を目指してるのか知らんが勝手なことしないでくれる? とか、無責任に放置しないでただ野菜をつくれ、みたいな苦情がくるし、アザミみたいな“injurious weed”が生えて、これが繁殖したらやばい、ってなると、アフリカから大量に渡ってきたpainted lady butterfliesの毛虫がきれいに食べ尽くしてくれたり、そんなこんなも泥にまみれた豚さん(すごくかわいいのだが、一部は俳優豚らしい)らにはどーでもよいことだし。

こうして英国では珍しいTurtle dove(キジバト)が来て、ナイチンゲールとかムラサキシジミも来て、昨年まだ日本にいた時に聞いたニュースだと思うが、ビーバーが英国で400年ぶりくらいに復活してダムをつくったのは確かここだった(きちんとライセンスを取得して連れてきたらしい)し、最後のほうではコウノトリがやってきて煙突に巣をつくる。動物たちはその土地に自然にやってきたものではないけど、そんなの動物にとってはどーでもよいことで、彼らが気持ちよく過ごせるのであればそれでよいのでは、とか。

自然に任せる、ってアメリカでもドキュメンタリー”The Biggest Little Farm” (2018) で同様の苦難に首をつっこんだ農家を志す夫婦がいたが、あちらはあちらでぜんぜん別の苦労があって、「自然」のありようも接し方も違って当然とは言え奥が深いなー って。日本でもやっている人はいそうだけど、あの国は農家には冷たいし周辺への対応も面倒くさそうだから難しそう。『悪は存在しない』にも繋がってくるテーマだねえ。

そのうち行って、豚さんとかに会えたらなー。


M&Sのチェリーがスペイン産からケント産のに変わった。スペインのよかおいしい気がする。

6.18.2024

[film] Inside Out 2 (2024)

6月15日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

前作”Inside Out” (2015)では、幼年期、自分が立ちあがろうとするときに重要なkeyとなる感情の5要素 - Joy, Fear, Rage, Disgust, Sadnessがどんな役割をもって立ち回りをして、それがその子にどんな影響を及ぼすのか、を戯画化したものだった。で、今回は13歳のティーンになったRiley (Kensington Tallman)に社会化や去勢の危機が襲いかかる、というもの。

子供の頭のなかがどんなふうになっていて、その動きが子供のパーソナリティ形成や周囲との関係形成にどんな影響を及ぼしたり相互に作用したりするのか、をああいう形でわかりやすく示すことで、子供をもつ親や大人は子供をより「理解」できてコントロールしやすくなる(のかもしれない)。 極めてディズニー、としか言いようのない教育と統制と金稼ぎを繋いでミックスしたコンテンツ - みんなにとってよいことをやっていますから! の手口やり口全開で、いろんな観点からげろげろしかない。いま一番知りたい頭のなかは、ジェノサイドで子供たちを殺して平気な顔の独裁者や税金をネコババして悪いと思ってない政治家や、それでもそういう権力者や支配層にへつらって平気な顔をしているメディア関係者とか司法関係者とか教育者とかロックの人とかだわ – こういうのやってみろボケ(というくらい頭にきている)。ぜったいやらないだろうけどな。

という大枠にあるくそったれを除いて、どこかの未知の別世界を描いた漫画として見ればおもしろくないこともないかも。

アイスホッケーチームに所属してずっと一緒の仲良し3人組のいるRileyはコーチから高校の年長者たちも参加しているアイスホッケー・キャンプへの参加をオファーされ、緊張して舞いあがってぐらぐらで、親や近所の仲良しから離れ、スマホも取りあげられ、はじめて社会っぽい「社会」への適応を求められた彼女にAnxiety (Maya Hawke)とかEnnui (Adèle Exarchopoulos)とかEmbarrassment (Paul Walter Hauser)といった新たな感情-キャラクターが現れる。もう少し早いタイミングじゃないの? とか、これだけでいいのか?は当然あるし、もうこの頃なら誰が好き、みたいな話が出てきて当然だと思うのだが、どうにかうまく回避、というか誤魔化しているような。

ストーリーはJoy (Amy Poehler)を中心とした前作の感情チームが、Anxietyを中心とした束になってやってくる不安を回避・解消すべく、なんでもブロックしたり嘘言わせたりコントロールしたりしようと躍起になる勢力に遠くに追いやられて、先生や上級生に認められたくて自分を失っていくRileyを助けなきゃ、って奮闘するの。でも大人になるのって、基本は自分のなかの無邪気なJoyを殺すことだよね。自分なんかもうApathyとAnxietyとBoredomしか残ってないわ。

うまくいった場合はこう、なのかも知れないけど、これは単に冒険して切り抜けてよかったよかった - ものとは違うと思うので、うまくいかなくて、あとで立ち直ったり持ち直したり、例えば傷(トラウマ)として残るというのはこういうこと、のようなのを示してほしかったかも - どうせ何をどう描いても …. になってしまうのであれば。

あと、Anxietyは常にこれをしたらこうなる、の状況を想定して行動を縛ろうとするけど、悩んだり考えたりで動きが止まっている時間とか、こんな世の中とか自分なんて、なくなっちゃえ、の闇に囚われてしまう時間はどんなふうになっているのか - こんなことを考えさせて止まらなくなったり → これこそが敵の思う壺か。

あと、この時期の行動や視野に決定的な影響を与えるのって、目上とか親からの直接間接の暴力だと思うのだが、そういうのも当然描かれない。

子供の頃にクラッシュしたあれこれを、顔を真っ赤にして慌てて隠そうとするあたりはおもしろいかも、と思った。どこかで前作で消えてしまったBing Bongが出てこないかなー、と思ったけど出てこなかったわ。

あとAdèle ExarchopoulosによるEnnuiがとても素敵で、あんなEnnuiが中にいたらよいなー、って。

6.17.2024

[music] Chaka Khan

6月14日、金曜日の晩、Royal Festival Hallでみてきいた。
Southbank Centreで毎年やっているキュレーション・イベント - Meltdown、今年のキュレーターはChaka Khanで、ラインナップでなんとしても行かなきゃ、というのはそんなになくて - Big Joanieは別件で行けないし - でも初日の女王様のはやはり行きたいかも、と思いつつチケットは当然売り切れてて、前日にどうにか釣りあげる。

前日と言えば、13日の晩、Barbican(の近くの教会?)でMica Levi & Ailie Ormstonという、モダン・ミュージックの女性作曲家ふたりの作品のLSO - London Symphony Orchestraによる演奏会(本人達は演奏せず)に行って、ラストに演奏されたMica Leviのピアノ(ソロ)作品がとんでもないぐあんぐあんので、そっちの方も書きたいのだが、またの機会があれば。

Chaka Khan: A Celebration of 50 Years in Music、というのがライブのタイトルで、この少し前に公開されたTiny Desk Concertでの彼女を見てもおっそろしく軽く滑らかに気持ちよさそうに歌っているので、本編のようなこっちは暖かくお祝いして見守るようなものにならないだろうな、と思ったらやはりそうだった。 なんであんな声を軽々とだせる? - というか伸びてこちらにやってくるのか。

ドアは19:30だが、その前からホールの外のバルコニーでDJが回してて、少し肌寒い - ここんとこずっと寒い - 陽気だったが金曜の夕方なのでみんなビールを手にしてご機嫌で、場内に入ればTrevor Nelsonが回してて、この選曲が老人たちにもやさしくわかりやすいR&Bやファンクの定番ばっかしで、座って行儀よく待つことなんてできようか、ってみんな立ち上がって盆踊り状態になってて、これで21:00の開演まで引っぱる。 ということはメインで3時間ぶっとおしとか、そういうのはないか、って少し安心するが、一部の客は始まる頃にはすっかりできあがっているようだった。

彼女が登場する前に50周年を記念して作られた年代順の振り返り映像が映されるのだが、ここに出てきて彼女を紹介したりコメントしたりする人たちがすごい。 Michelle ObamaにStevie WonderにWhitney HoustonにJoni MitchellにGrace JonesにPrinceに .. まだあと誰か。

バンドメンバーは3人のバックコーラスも含めてTiny Desk.. のと同じ.. ではなくて、ホーン3人が加わっているのと、かっこいい手話のひとがいるのと、オープニングと衣装替えの時と最後の方はダンサー4人(男2、女2)も加わってビルドアップされてて、Tinyどころではない。のだが、バカでかく華々しく圧倒的にぶちあげてくるかんじもない。

年齢のことは言うべきではないと思いつつも、彼女、71歳なんだよ。 その歳のパフォーマーとか、いまは別に珍しくなくなっているけど、声のKeyとかぜんぜん落ちてないかつてのままで、割れ鐘みたいに一直線に響き渡って余裕の笑顔で、黒のタイトなパンツで思っていたよりぜんぜん小さくて髪は腰くらいまであって、聞いたことある曲ばかりがかつて聞いたときのままの弾力で飛んでくる。

いちばん盛りあがったのはやはり”I’m Every Woman”のあたりだろうか。Empowermentの歌なのよ! って全員がしってらあ! ってつっこみつつ、この異様に気持ちよくスイングさせられて上昇していくかんじ、もうじゅうぶんへろへろで足腰たたないのにからだが… になっていた(みんなが)。アメリカにいた90年代、朝にWhitney Houstonのこの曲のPVが流れるとうれしかったことを思い出した。

Princeとの思い出を語って”I Remember U”を少ししんみりと歌いあげていったん引っ込んだのだが、その間を繋いだDJが”Music Sounds Better with You”をサンプルしてて、これだよなー だった。

んで、最後は問答無用の”Ain’t Nobody”で、これもそうとしかいいようがなく、こういう人がキュレーションしたのならやはり他のも行ってみようかな、になった(まだわかんないけど)。

6.15.2024

[film] 九龍城寨之圍城 (2024)

6月10日、月曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。

英語題は”Twilight of the Warriors: Walled In”、監督はSoi Cheang、今年のカンヌのMidnight Screeningで上映されたらしいが、アジア系のこういうジャンルのはなんの宣伝もされずに気がついたらやってて気がつくと消えてしまうので見ておこうかな、くらい。

九龍城が舞台のノワールでマーシャルアーツとサモハンが、というあたりで見よう、と。サモハン(今回は悪役)以外は見たことはあったかもだけど知らない人たちばかりだった。

80年代の香港にたったひとり移民として流れてきたChan Lok-kwan (Raymond Lam)はIDが欲しいので、港のやくざの親分Mr.Big (Sammo Hung)に取りいって仕事を貰うのだが、報酬として与えられたIDはバカにしてんのか、ていうくらいのフェイクで、頭きて傍らに置いてあった取引用ドラッグの袋を引っ掴んで逃げて、逃げる途中でMr.Bigの手下たちとやりあって、ぼろぼろにされつつも九龍城に逃げこむと、追っ手たちはそこで諦める。

床屋にいたそこの主っぽいクールで穏やかなCyclone (Louis Koo)と部下の信一(Terrance Lau)はじたばた暴れて威嚇してくるLok-kwanを一発で倒して、性悪な奴ではないかも、と彼の傷を手当して焼豚ご飯 - おいしそう - を与えて自分の手下にする。

こうしてLok-kwanは九龍城内で何でも屋のようなことをしつつ、信一たちと強い4人組をつくって子供のいる女性を殺したちんぴらをとっちめるなど隣組での結束を強めていくのだが、ある日CycloneはLok-kwanが仲間のDik Chau (Richie Jen)の家族を殺し、自分にとっても宿敵だった男の息子であることを知ってしまい、こいつを生かしておくわけにはいかない、ってなるのと、そこに将来の投機として九龍城がほしいMr.Big組が割って入ってきてLok-kwanの出自をネタにCyclone陣営を分断してシマ、というか城をまるごと頂いてしまえ、って乗りこんでくるのと。

逃れられない過去のしがらみと、現在の義父・義兄弟の絆と、やむなしの世代交代の波と、この辺はJohnnie Toぽく内側/外側 - ココロもカラダも - の痛みと情念を容赦なく叩きつけ - 主人公たちは全員ボロ雑巾となって擦り切れて疲弊しながら、ところどころの組手のアクションはカンフーっぽかったりする - 速すぎてもう追えないのに痛そうであることはわかる - のだが、Mr.Bigのとこの若頭のKing (Philip Ng)が気功かなんかやっててナイフとかも肌で弾いてしまうめちゃくちゃ強い奴すぎてなんだこいつ、になったり、最後の方で機関銃まで持ちだしてくるのは反則ではないか、とか。

結局は義理と恩と友情がやってきて - 全員黙って最後の闘いに赴いて… といういつものアレ(& ぜーんぶ男たち)で、九龍城に立て籠もって大爆発の全員玉砕、みたいにはならないのだった。

サモハンもちゃんと動いて闘ってくれるのだが、最近の彼らの代 - 老師扱いの人たちって、結局 - かっこわるくはないけど - しんじゃう役ばかりなのが切ない。こればっかりはしょうがないのか… 最後に風が巻き起こるところはなんかよかった。

あと、九龍城の現物はもうないのでどうすることもできないのだろうが、CGとセットばかりで、あとちょっと魔都のかんじとぐじゃぐじゃだったであろう建物内部を使ったアクションがほしかったかも。一度行ってみたかったなあー

どうでもよいけど、”Cyclone”の役名がアメリカのIMDBでは”Tornado”になっていた。やはりそうなるのかー。

[film] The Great White Silence (1924)

6月9日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
サイレントで上映前にBFIのBryony Dixonさんによるイントロつき。

英国での公開100年記念ということで大スクリーンでの上映、2011年のリストア – この時に音楽はSimon Fisher Turnerが付けていて、今回の上映はこのバージョンで。音楽には野外で録音した音なども入っているそうで、アコースティックもエレクトリックも実に見事にはまっていた。

Robert Falcon Scott隊長が率いる英国の探検隊が国の威信をかけて探索船Terra Novaに乗って南極点を目指した旅(1910–1913)に同行して撮影したHerbert Pontingが帰国後に作品として纏めたもの。

時系列で追っていくので出帆前の意気揚々から現地についてからの作業と緊張、現地のいろんな動物たちと、最後の方は帰らぬ人たちとなった船長たちの南極点に向かって戻ろうとする旅までを。

国家プロジェクトなので過度に悲惨だったり威張りちらすかんじもなく、ドキュメンタリーとして割ときちんと記録されているかも。(完成披露上映後に国王が子供たちに見せるように指示したって)

見たこともないでっかい氷河がでーんとある、ところとか、初めて宇宙に行ったようなかんじの緊張も伝わってくる。
人種差別的表現があります、と注意書きがあったのでなに? と思ったら船で飼っているやんちゃな黒猫に”Nigger”っていう名前をつけてみんなで遊んでいた、とか。これの他にはペンギンたちをみんなで追いたてて慌てふためくのを見て笑ったり、傲慢な侵略者が植民地でふつうにやる仕草としてしょうがないのだろうが、ごめんね(ペンギン)、って。

南極の動物たちの動く姿が撮られたのは、撮る側撮られる側両方にとってこれが初めてのことだったのだろうが、アザラシのでっかく滑らかな皮が光って海に消えていくところなどはIMAXで見るとなかなかすごかったかも。あと、BBC系の動物ドキュメンタリーの定番としてある、強いのが弱いのを狙って危機一髪みたいなのって、この頃からあるのね。(あれ、あんまり好きじゃない)


Третья Мещанская (1927)

6月9日の日曜日の午後、BFIから移動してBarbicanで見ました。
これもサイレントで、日曜日午後のサイレント上映はBFIの方でもあったのだが、こっちの方がおもしろそうだったので。英語題は”Bed and Sofa”。

監督はAbram Room、脚本はViktor Shklovskyと監督の共同。
アメリカでは上映されず、ヨーロッパでは長く幻の一本とされてきたのだそう。
伴奏音楽はライブのピアノに効果音的なエレクトロがついた。

モスクワのThird Meschchanskaya Street – これが原題 – のワンルームアパートに妻のLiuda (Lyudmila Semyonova)と夫のKolia (Nikolai Batalov)の夫婦と猫(かわいい)が暮らしていて、建築現場(ボリショイ劇場を建てているの?) で働く夫は愛想も機嫌もよいがなんも考えていないふうでどうもうざくて、彼が家を出ていくとLiudaは宙をみつめて溜息をついている。

ある日夫の戦友かつ親友のVolodia (Vladimir Fogel)が家にやってきて、モスクワでは貸間を見つけられないので困っている、というと、Koliaは気前よくうちのソファで寝なよ、と勝手に決めて家に置いてあげることにする。

そのうちKoliaが泊まりの出張に出ることになり、その隙にVolodiaはLiudaを外に連れだして一緒に飛行機に乗ったりデートして、Koliaが戻ってくると、彼の寝場所はベッドからソファの方に移動されているのだが、男ふたりの友情はなんとなくそのままで仲良くゲームしたりしている。

Koliaに替わって夫ポジションになったVolodiaは夫役としてKolia以上に強権的でいじわるだったことがわかり、Liuda が嫌になりはじめた頃、彼女が妊娠していることがわかり、男ふたりは中絶を要求して彼女は闇のクリニックを訪ねるのだが待合室の雰囲気に我慢できなくなって…

公開時はお色気コメディのように受け取られていたらしいのだが、内容も結末 – 妻が男たちを捨てて自由になる - も当時としては相当進んでいたのではないか。と思ったら詩人のVladimir Mayakovskyの実生活をモデルにしている、のだそう。

寝取られ男の悲喜劇、のようなはじめ想像していたのとはぜんぜん違う、寄ってくる男がしょうもないのばかりなので、あっさり捨ててひとりになるLiudaがかっこよくて素敵なやつだったの。


[film] Here (2023)

6月9日、日曜日の晩、ICA – Institute of Contemporary Artsで見ました。ICA久しぶり。

ベルギーのBas Devosの作・監督によるベルギー映画で、同年のベルリン映画祭で、Encounter AwardとFIPRESCI Prizeを受賞している。

ブリュッセル – かどうかはすぐにはわからないヨーロッパの都会 – のビル建設作業現場で働くルーマニア人のStefan (Stefan Gota)がいて、夏休みで故郷に帰ろうとしているのだが、冷蔵庫の整理をしながら野菜のスープを作って現場の同僚に分けてあげたり、車を修理に出したり – でも修理は時間が掛かりそうだし – なんだかんだだらだらどうでもよさげで、いつ帰るのか、本当に帰りたいのかもはっきりしない。

Shuxiu (Liyo Gong - 俳優だけじゃなくてワン・ビンの『青春』(2023)で編集をしている人なのね)はベルギーの大学院で顕微鏡を覗いて緑色のなにか - コケの研究をしたり、町中で気になる植物を見るとしゃがみこんで摘まんだり、教室で教えたり、彼女も夏休みに中国に帰る予定があることを携帯で話しているのだが、町中でStefanと出会って、彼が夕立の雨宿りで中華料理のお店に逃げこんだら、そこがShuxiuの叔母さんがやっているお店で彼女と再会して、そこの食事 – なんかおいしそう - をしながらちょっとよいひと時を過ごす。

3度めはStefanが車を取りに行くために公園を横切ろうとしたら木の陰に座ってコケを採取しているShuxiuと会って、こんなところでなにしてるの? から始まり、Shuxiuがコケの講義を始めて、そうやって話し込んでいるうちに辺りは暗くなって車の件はどこかに行ってしまって…

この後にrom-comの方には向かいそうもないふたりの出会い – これがホン・サンスだったらぜったい酒にいってその後強引に、であろう - なのだが、ここにはこのふたりでなければありえなかったような時間と場所(Here)があり、Stefanが高いとこから電車を眺めて、あれがここからすべての土地に出ていく起点なのだ、っていうところとか、Shuxiuがコケは太古の昔からここに根を張って、人類よりもずっと長く生きていくのだ、って強く語るところとかを重ねていくと、このふたりが町の隅でぶつかっていまのこの時間と場所を共に過ごしていることの奇跡.. なんかではもちろんないけど、そういうことが起こる不思議について、少し考える。

自由に移動できる場所にいて、季節と共に起点のようなところに戻る(という言葉が適切かどうか)ことができる、そのありようとか、確かさとか、反対にどこかの土地に縛られて身動きがとれずに苦しんでいる人のことも思うし。 そういう中で、Stefanはスープをつくり、Shuxiuはコケを見つめる - マクロとミクロの交点がうっすら立ち現れる。ブリュッセルという町はそういうところにあるのかも。

こっちにきて長期ではなく週末にちょこちょこヨーロッパのいろんなとこに行くようになってよく思うのは移動のしやすさ - 列車は遅れるし来ないしサービスとしてはひどいけどそういうのとは別に、ひとが移動する前提で地上の網ができあがって、目の前にひろがっていることで、これってよいなーといつも思う。英国は… これはこれでいろいろありそうかも。

この映画、ラストが本当にすばらしくじわじわくるので、是非。(地味すぎるので日本での公開はないか...)

6.13.2024

[theatre] Lie Low

6月8日、Royal Court Theatreで土曜日のマチネのを見ました。

2022年のDublin fringe festivalで主演のCharlotte McCurryさんがBest Performersを受賞している。原作はCiara Elizabeth Smyth、演出はOisín Kearney。休憩なしの70分。

客席がステージを囲んで見下ろす形のほぼ二人芝居(+声だけ)。

ステージ上にはほぼなにもなく、ややうす暗い部屋(?)の奥に木製のタンスがあるだけ。そこにひとりで暮らしているらしいFaye (Charlotte McCurry)は夜になるとタンスの奥からアヒルの覆面をしたでっかい男がでてきて彼女に性的な嫌がらせをする妄想だかに悩まされ眠れない状態が続いていて、医師(声のみ)に相談してもあったりまえの解消法しか教えてくれない。

そのシーンを再現してみれば原因と対策がわかるかも、と思ったFayeは、訪ねてきた弟のNaoise (Thomas Finnegan)に嫌がられながらもアヒル男に変身してもらうのだが、どうもうまくいかない。

やがてNaoiseの方にも悩みがある、というので聞いてあげると、オフィスの女性にセクハラで訴えられてしまったのだと。その顛末を聞いたFayeはひょっとしてあんたが… って狂ったようになって床にシリアルをぶちまけたりして、Naoiseは断固否定するのだが、Fayeはやってないというならあんたのあれを見せてみなさいよ! って迫って、彼がズボンをおろして見せると(本当にだしてた)、そうではない、って…

不眠症、偽りの記憶、思いこみ証拠、被害妄想、被害者意識、それらを恐れて避けようとすることで別の妄想や思いつき(ひょっとして..)がオーバーライドしてきたり循環をはじめたり、なにがなんだかわからなくなって、他人は傷ついて自分は疲れて、という第三者が側で見ている限りではわかりやすい構図も、当事者たちにとってはこんがらがって互いに見えないことばかりでしんどいのだろうな、ということがものすごい勢い、怒涛の流れとテンションのなかで伝わってくる。

そのぐしゃぐしゃの中でひとり罪のなさそうな顔をしているアヒルのお面がだんだん不気味に見えてきて、お前か! ってなる。


Perfect Show for Rachel

6月8日、土曜日の晩、Barbicanのシアターの方ではないスペース(The PIT)でみました。この午後は芝居のハシゴになってしまい、どちらもこの週末で終わってしまうやつだったのでしょうがない。

Flo O’MahonyとZoo CoというCroydonのNPO劇団? が制作した芝居.. なのかパーティ? で演出はFloの妹で学習障害があってケアホームで暮らすRachelが行う。

会場(ここも上のRoyal Courtと同様、小さくて自由席で小劇場ぽい)に入ると、そこは既にパーティ会場のように音楽がかかって演者たちはみんな楽しそうに歓談してて、入ってくる客に話しかけたり芝居の仕込みのお願いをしてきたりする(そういうのは苦手なのですこし離れたとこに座る)。

始まる前だか始まっているのか、Floが全体の仕組みと演出のRachelを紹介する。Rachelはステージの端に座っていて、彼女の前には39個のボタンがあって、彼女がそのどれかを押すと、演者はその小演目?のインストラクションに従って動いたり歌を歌ったり客席に探し物に来たりおならをしたり、退場って言われるとドアの向こうに隔離されたり、同じボタンが押されても同じことを繰り返さなければならない(何度か押されてた)。 Rachelの指令は絶対で、彼女の言ったことは傍にいるプロンプターによってすべて字幕としてタイプされて画面に投影されるし、Rachelの様子はずっと映しだされていて、いろいろ出てくる言葉をぜんぶ通訳する手話のひともいるし、客席も含めてすべてがRachelに奉仕する – だから”Perfect Show for Rachel”で、職場のパーティとか、なにがどう楽しいのかちっともわからない自分のような人にとって、パーティってこういうものであってよいのでは – ただ飲んで語るだけって、あれなに?っていつも…(以下略) - と思うのだった。

ステージのもういっこの端にはキーボードや楽器があって”We will Rock you”とかKylie Minogue – Rachelが彼女のライブに行ったときのスライドが映される - とかNirvanaのあれの替え歌とかどかどか演奏される。Rachelがパパといつも一緒に歌っていたという”Perfect Day”ではずっとキーボードに向かっていたプロンプターの人がマイクを握って歌いだしたり、どたばたとっちらかっているようで、実は指示の飛ぶすべてのパーツが細かく練られていることがわかってみんなよいなー、って。

で、Rachelがおわり、って言ったらおわりで、さばさばしているのもなんかよかった。

[film] La Bête (2023)

6月7日、金曜日の晩、BFI Southbankでみました。英語題は”The Beast”。
原作はHenry Jamesの小説”The Beast in the Jungle”(1903)、Bertrand Bonelloがこれを緩く脚色して監督している。

人の運命ってその人の何を決めたり動かしたり、その人の愛や人生にどんな影響をもたらすものなのか、そういうのを信じたり従ったりしてしまうことで巻き起こるどんよりした悲劇 - 全体としてはそれらを横で眺めているしかない - というあたりがHenry James、なのかしら。

最初の舞台は2044年で、AIが殆どの仕事を効率よくやってくれるので、人間はどうでもよいものになっていて、では、よりよい仕事みたいのをするにはどうすればよいのか、機械/AIによってDNAを浄化(purify)して自身の強い感情とか情動を取り除けば、より自分に適した仕事とか自分のあるべき姿を見つけられるのよ、ということでGabrielle (Léa Seydoux)はこの施術を受けるかどうか迷っているのだが、やってみる。液体の溜まった黒い浴槽にぴっちり黒い服を着て身体を横たえて耳の穴付近に針みたいのを…

えーと、まずこの未来設定がよくわかんなくて、DNAをpurifyするってどういうことなのか、それを施術することでどうして過去を遡る体験ができたり、正しい自分を見つけたり感情をより安定したものにできるのか、薬や催眠術じゃだめなのか、なんで? って考えてしまって、ここを飲みこめないと話に入れないようなのでとりあえず飲みこんで潜る。

そうやって最初に彼女がいるのが1910年のパリで、Gabrielleはサロンに出入りするクラシックのピアニストで、夫は人形工場を経営している富裕層で、そこで彼女はLouis (George MacKay)という若い貴族と出会って、心を通わすのだが工場の見学をしているところで大水と大火事が発生してふたりは溢れてきた水で溺れ死んでしまう – この時代設定だと失敗した模様。

次が2014年のLAで、ここでのGabrielleはモデル兼女優をやっていて、Louisは30歳童貞無職のインセルで、彼女に目を付けてつきまとおうとしているところに大地震が起こって、GabrielleのほうからLouisに近づいていくのだが、すったもんだの末に彼は彼女をプールで撃ち殺してしまう。これもなんだかうまくいかなかったらしい。

2044年に戻ってみると、あなたの場合はこの施術が効かない0.7%に該当すると思われる、などどAIに言われ(ふざけんな、よね)、憮然としつつも現実のLouisと会ってみると…

どの時代も不倫だったりストーカーだったり、「まとも」な愛のかたちが示されない、そういう状態の中で、あるべき自分とか、相応しい愛のありようなんてどこにどうやって見いだすことができるのか? ところどころに見え隠れして突然襲ってくる狂暴な鳩とか気持ち悪い怪物の影 – The Beastはどこに巣食う、誰が仕向けてくる奴なのか? そういうのも受けいれざるを得ない運命のようななにかってどこから来るのか? など。

個々の画面のつくりはかっちりしていて(わざとだろうが)CGでクレンジングしたかのように陰影が薄く美しいし – 特に工場の火事で溺れてしまうシーンとか、ふたりの抱擁のシーンで効果的に使われるPatsy Cline の”You Belong to Me" もたまんないし、なんといってもどんより虚ろな無表情と無重力のバリエーションでもってDNAを洗浄されてしまった女性を演じるLéa Seydouxの微細な感情の襞と、同様に鉄の仮面を装着したGeorge MacKayのクリーンな不気味さの衝突。彼らをあんなふうに動かしているのは、その背後にあるのは何なのか、彼らのやりとりの変なかんじがAIとヒューマンがぶつかり合うその場所を照らしだしている .. のか。

他方でDNAとかAIとか、本当にそういうレベルの話としてやるようなネタなのかしら、というのは少しだけ。もっと支離滅裂なこともできたのではないか(バグでした.. で済ませる) 。 ぜんぶ1910年の設定でよかったのにな → どうしようもない保守。

エンドクレジットはQRコードがぽん、と出て終わり。この映画全体もAIが編集したものでした、と言われても驚かない。

6.12.2024

[film] The Dead Don't Hurt (2023)

6月6日、木曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
Jim Jarmuschの”The Dead Don't Die” とはまったく関係ない。

上映後に監督・主演のVigo MortensenとのQ&Aがあるとのことでチケット取ったら、共演のVicky Kriepsも一緒に参加します、ということでうれしいな。

Vigo Mortensenが監督、脚本、プロデュース、音楽、主演までやっている - 彼の監督デビュー作 – “Falling”(2020)もそうだったけど - 西部劇。

冒頭、見るからにならず者 – でも身なりはちゃんとしている男 - が銃で何人かを殺して、明らかに冤罪で別の人が縛り首にされて、という上からの不正が蔓延る荒んだ町の様子が描かれ、フランス語圏(カナダ)への入植者としてやってきた3人家族が兵士として出ていく父親を見送り、その少女はおとぎ話に夢中になりジャンヌ・ダルクを幻視している。(もうひとつの冒頭のシーンは、ネタバレにもなるかもなので書かない)

大きくなった少女Vivienne (Vicky Krieps)は市場で寡黙なデンマーク移民で大工のHolger (Vigo Mortensen)と出会って互いに一目ぼれして(すごくよいかんじ)、一緒に暮らすことになり、Holgerは自信に満ちてなんもないだだっ広いところにここだ、って家を建てようとして「なんにもないじゃん」って彼女に文句を言われるのだが、黙って耕して、彼女は庭に向かって草木を植えていく。同時にお金を稼ぐために町のバーで給仕のバイトも始める。やがてHolgerは内戦の志願兵として(お金が貰えるからって)相談もせずにひとりで出て行ってしまう。

物語は、Vivienneの子供の頃の話、彼が戦争で出ていってしまった後、ひとりで暮らすVivienneに起こる酷いこと、Holgerと男の子が馬に乗って旅をしていく様子をゆったりと、ランダムに脈絡なく繋いでいって、最後の最後に復讐のお話しになっていくのだが、時間と共に憎しみを溜めて紡いで一直線に復讐に向かってあれこれ逆立てていく普通の西部劇にある構成にはなっておらず、いろんな場面と時間をゆっくり回っていくその中心にあるのはHolgerとVivienneのあのなにもない庭とふたりが夢みた愛に満ちた世界で、そういう点で従来の西部劇とはちょっと違うかも – もちろん自分が西部劇を知らないだけかもだけど。

タイトルの”The Dead Don’t Hurt”は、Holgerと男の子が旅をしていく途中で、自分たちの食事用に鳥を撃ち落とした時、男の子が「鳥は痛いんじゃないの?」と聞くと、Holgerは”The dead don’t hurt”とだけ返す – これがタイトル。いま痛みを感じているのだとしたら、それは生きているから、ということなのか、自分のある部分はもう死んでしまったので痛みなんて感じないのだ、ということなのか。あるいは(もういっこある)。

Holgerはたいしたことは殆ど喋らなくて、これはVivienneが生きて夢見た世界のお話しとして、あの時代にまっすぐ生きようとした女性の映画として見るのが正しいのかもしれない。”Corsage” (2022) - 『エリザベート 1878』とほぼ同じ頃のアメリカ西部で生きようとした女性のー。

ラストの海辺がほんとうに美しくて、帰りたくなくなる – Q&Aがあるので帰らなかったけど。

上映後のQ&A、客席の聞きたいことはどうしてもVicky Kriepsの方に集中してしまう。
俳優が監督をするという点で”Serre moi fort” (2021)のMathieu Amalricと今回の違いはあったか? とか、質問ではないけどMeryl Streepにそっくりに見えるところがあると – これは本当にそうで、少しびっくりしたわ - とか。

6.11.2024

[film] Britannia Hospital (1982)

5月25日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

BFIでは5月に映画監督Lindsay Andersonの特集 - “O Dreamland! Lindsay Anderson’s Dark British Cinema”をやっていて、そこから何本か見ていて、ものすごく好きになれるような作品・作家ではないと思うものの、いろいろ強烈で勉強になる。この作品、BFIの宣伝文には”Mark E. Smith’s favourite film”と書いてあったので、それなら見ないわけにはいかないな、って。

監督Lindsay Anderson&脚本David Sherwinで、Malcolm McDowell演じるキャラクターMick Travisが活躍する3部作、一番有名な”if....” (1968)に続いて“O Lucky Man!” (1973) ~ “Britannia Hospital” (1982)があり、自分が見た順番は“Britannia Hospital”~ “O Lucky Man!”だった(”if....”は数年前に見たから外した)。Mick Travis以外にもキャラクターは被って出てくるそうなので、順番にぜんぶ見ればよかった。

割と立派なBritannia Hospitalの新棟がオープンしようとしているがProfessor Millar (Graham Crowden)は変な装置で人体実験をして簡単に人を殺していたり、VIP患者として入院しているアフリカの独裁者(たぶん当時のアミン大統領)に抗議するデモが門の外では繰り広げられ、でもオープン記念で女王(H.R.H.と言われる)がお忍びで訪問しようとしているなど病院の管理者Potter (Leonard Rossiter)たちはてんてこまいで、Mick Travis(Malcolm McDowell)は取材クルー(Mark Hamillがノーギャラで出ている)としてなんとか病院の内部に潜りこもうして、中に入ることはできたものの簡単にMillarの餌食になったり、救急車に紛れこんだ女王(となぜか日本の皇室も)が現れて視察を開始するものの…

当時からあったNHS(National Health Service)の機能不全をおちょくったブラックコメディー – というよりは病院の中も外も狂った連中がひしめく坩堝で、ショッピングモールを徘徊するゾンビよりも高い頻度と確率で変なひとにぶつかって、人も平気で殺されたりするのだが、全体のカオスが広がっていって止まらなくて、そのカオスのありようも背後に絶対的に邪悪で狂ったななにかがあるとかそういうものではなく、単にまぬけだったりふぬけだったり、道に躓くかんじで転がっていくドミノで、どうすることもできない。

この辺の犬に吠えられたから吠え返して噛みついたりして止まらなくなって転がっていく - のをしらーっと眺めるノリは確かにThe Fallのそれに近いかも。


O Lucky Man! (1973)

5月27日、休日の月曜日の晩に見ました。今回のLindsay Andersonの特集のメインとして扱われているので見なきゃ、だったのだが184分と聞いてびびる。けどぜんぜんあっという間だった。

冒頭、モノクロで昔のコーヒー農園で働く労働者がコーヒー豆を数粒盗んであれよあれよと簡単に有罪にされる場面が描かれて、“Now”って現在(1973年)の話になる。

もうひとつ、音楽担当のAlan Price - The Animalsのバンドがスタジオで演奏するシーンがところどころで挿入されて、そのライブ感がすごくよくて - この音楽はBAFTA Award for Best Film Musicを受賞している。彼は次の”Britannia Hospital”でも音楽を担当。

この作品でのMick Travis (Malcolm McDowell)は真面目なコーヒー豆のセールスマンで、イングランド北東部にセールスに行ったら軍の施設に入っちゃったり、医療機関で(↑にも出てきた)Dr. Millarに治験されたり、なんだかんだを経て都会に出ると恋人Patricia (Helen Mirrenかわいー)の父で悪い実業家Sir James Burgess (Ralph Richardson)の秘書となるが、はめられて彼の悪事をまる被りして5年間投獄され、そこで模範囚となっていろいろ学んで出所するのだが、今度は人が善くなりすぎてすっからかんになり、途方に暮れて町を彷徨っていると映画制作のキャスティング・コールに参加することになり、監督のLindsay Andersonから役を貰って…

“Britannia Hospital”は病院を中心にそこに凝縮された悪なのかなんなのかどうしようもないどたばたの混沌を描いていたが、ここは大英帝国の起源にまで遡る長い歴史と、そこで英国 - 都会から田舎まで - がやってきたいろんなことをTravis個人の歴史に強引に収斂させる逆ロード・ムーヴィーみたいなことをやっているような。

主人公があんま深く考えずにいろんなのに巻き込まれて、淡々とさてどうしましょう? ってやっているだけの、なんとなくゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を思い起こさせる壮大なんだかちんけなんだかよくわかんないドラマで、でもどこかしら英国的にみみっちいというかせこいというか、ぜんぜん大作のかんじがしない、という..

おもしろいおもしろくないでいうと、まったくだれなくてものすごくおもしろくて、よくこれらのエピソードを3時間繋いで運んだもんだなー、って。(上映後拍手が起こっていたし)

6.09.2024

[film] Furiosa: A Mad Max Saga (2024)

5月25日、土曜日の午前、BFI IMAXで見ました。
“Mad Max: Fury Road” (2015)の前日譚で、監督はGeorge Millerで、Furiosa役はCharlize TheronからAnya Taylor-Joyになっている。

わたしは最初の”Mad Max”(1979)から”Mad Max Beyond Thunderdome” (1985)まで、ぜんぜん好きになれなくて、みんながほめるので名画座でまとめて見たのだが、暗いし怖いし暴力しかないしなんであんなことを繰り広げてあんなふうになってしまうのか、あれですごいとか興奮できるひとがぜんぜんわからなかった。

“Fury Road”をおもしろいと思えたのは、Sagaの基調音である「復讐」を軸としつつも、どこかに向かってがーっと逃げて、また戻ってくるというシンプルな逃走・追跡の反復運動のなかに車を含むあらゆるアクションとバカのサンプルをぶちこんで、その動きひとつひとつを女性たちの連帯するフェミニズム映画の方に収斂させていたことだった。ガソリンまみれの映画のなかにあんなかっこいい女性たちが立ち上がっていたことの奇跡。

今回のも冒頭で幼い頃に母を殺されて声を失ったFuriosa (Alyla Browne → Anya Taylor-Joy)の復讐の話しではあるものの、初めのほうでは子供だったが故にあてがわれた運命や環境に左右されてどうすることもできなかった無念さ悔しさが入ってしまうので、前作と比べるとアクションの確度とか弾け具合のようなところはどうしても弱くなる。だからつまんないかというとそんなことはなくて(だって子供だったんだからしょうがないし)どうやって生き残るのか、なぜ生き延びなければならなかったのか、を強く突きつけてくる内容になっていて、これが後の復讐譚の燃料であり消えない炎となることがわかる。

“Fury Road”では唯一の絶対悪 - 手下はぜんぶただの白塗りバカ - として圧倒的な強さで君臨していたImmortan Joe (Lachy Hulme)の他に、今回は母の仇であり絶対に許せないしいつかぶっ殺したい - けど彼女には何故か愛想がよくテディベアをくれたりするバイク軍団のリーダーDementus (Chris Hemsworth)がいたり、黙っていろいろ教えてくれたりするImmortanのとこの警護隊長のJack (Tom Burke)がいたり、ただ男は悪いのばかりではないよ、というより使える場合は都合よく使っておけばよし、程度の連中も出てくる。

どこかしらの組織に帰属して、そこの長に奴隷として仕えることでしか生きる道も術もない過酷な世界で、親や身寄りを失った女性はどうやったら生き延びていけるのか、FuriosaはImmortan Joeのとこに売られて、周囲に一切溶けこまず男の子としてやっていく道を選んで、ひたすら復讐の機会を待つ - 時間としては10年くらいのスパンだろうか? その間、世界はぜんぜん動かずにImmortan Joe - 頭よいとは思えない・ただ恐いだけ - による支配がずっと続いたのだとしたら、それはそれは恐ろしいが、いまの現実も硬軟あるけどそんなもんか。

いまの現実の話をすると、DementusとFuriosaの関係は自分にとっては微妙で、Immortan Joeよりはルックスも風体も洗練されていて、Furiosaの言うこと思っていることに両手を広げて鷹揚に理解を示し、彼女の母の件は部下がやったことだと嘯き、そうやって結果的に彼女を支配しようとする(している)。これこそが今のマスキュリニティがジェンダー(だけじゃない)をコントロールしようとする臭い手口で、こいつのありようを(結果としてどうなるにせよ)割と肯定的に描いていること、そこに映画評(業界向けのべったり)をやっている男たちが待ってました! みたいに絶賛している絵をみるとあーあ(げろげろ)、になるよね。怪物Immortan Joeまで待たなきゃいけないのか… って。

こんな状態のどこかに救いがあるとすれば(伝説のようなものでしかないにせよ)終始不機嫌と不寛容を貫いて動じなかったAnya Taylor-Joyの強さだろうか。もちろん誰もがFuriosaになれるわけではない、でも断固突っぱねて輪に加わろうとしないあの姿勢は見習いたい。

あとは”The Souvenir” (2019 - )のシリーズでも何考えているのか不気味な圧でただそこにいたTom Burkeもよかった。彼、引き摺られながらぜったい微笑んでいたはず。

ここんとこ、猿とかバイクの映画ばっかりな気がする、退化していくのもいいかげんにしてほしい。

6.08.2024

[film] Hit Man (2023)

5月24日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

今出ているSight and Sound誌の表紙にもなっているRichard Linklaterの新作で、脚本はLinklaterとGlen Powellの共作。原作はSkip Hollandsworthによってテキサスの雑誌に掲載された実録記事(2001)- 実際の舞台はヒューストンで、主人公のGary Johnsonも実在した人物だそう - を元にしている。 Fincher & Michael Fassbenderの”The Killer” (2023)みたいなのを想像していくと軽くひっくり返される、ゆるゆるのクライム・コメディ。

Gary Johnson (Glen Powell)はニューオーリンズの大学で心理学と哲学を教えながら独りで猫2匹と暮らしつつ、ニューオーリンズ市警のバイト職員としても働いている。ある日、市警の担当- 偽殺し屋Jasper(Austin Amelio) - が停職処分で不在となったので、穴埋めでGaryに殺し屋として偽装してもらい、殺しの依頼をしてきた主に接触して本当にやっていいんだな? とか話を聞いて、報酬金を受け取ったところで近くに隠れてそのやりとりを録音していた警察の同僚たちが依頼主を逮捕する、っていう潜入おとり捜査をやることになる。最初は変装してやばい殺し屋 - Ronを演じてみるものの、依頼してくる側も相当おかしくなっている人(のはず)なのでおっかなびっくりで、でもうまくいったら上からは評価されるし面白くてやめられなくなり、その都度の仮装変装もエスカレートしていって、どうやって殺すか、どうやって足跡を絶つか、などのいいかげんな作り話に没頭するようになる – この辺の軽く適当なタッチはLinklaterだなあ、って。

ある日、そうして自分のDV夫を殺してほしい、という依頼をしてきたMadison (Adria Arjona)が気になった彼は彼女の依頼を受けず(=彼女は逮捕されない)、後で彼女とデートをしたりして親密になっていくのだが、彼女と会う時の自分は常に殺し屋Ronのキャラでいなければならず、Gary Johnsonとしての自分を曝け出すことができなくて、あううーってなってばかりで、そんなある日、Madisonがあっさり夫を殺した、って言ってきて、ついでに夫に膨大な額の保険金がかけられていたことが明らかになり、当然彼女は容疑者としてマークされて…

哲学の先生ならコミュニケーションとか恋愛の不可能性とか、Madisonなら相手にしないに違いない普段のGary Johnsonの空虚なありよう、その反対側で、そもそも存在しないのに愛されてしまった架空の男 Ron - 等について十分に想定しうるだろうから、立ち止まって考えこんでしまってもおかしくないのに、彼女にやられてしまった彼はとにかく彼女を救わないと、って動きだしたところに、彼に仕事を奪われた殺し屋Jasperが割りこんで来たり。でもそもそも、ほんもんの殺し屋 – Hit Manなんてそもそもこのドラマには存在していない – そんな場所で、なにをやっているんだ? - という根本に横たわる不条理。

ネタとしては多くの人が言っているようにCoen兄弟あたりがやりそうな話なのだが、結末のてきとーさ、軽さは彼らには出せない味かも。

これをGary Johnsonではなく、Madisonの目線で描いたらどうなっただろうか?結構おもしろいスクリューボール・コメディになったのではないか、とか。或いは偽装殺し屋が女性の方だったら? とか。というのもここでのGary Johnson = Glen Powellって筋肉はいっぱいあるけど(哲学の教師で機械オタクなのになんであんなにびっちり筋肉があるのか、はやや謎としてある)結構女性ぽいところがある気がして、しかもそのありえないかんじがいろんな局面で印象として貼りついてきたり。

それにしても、Glen Powell、一見やさしくて柔くて、なに考えているかわからなくて、でもすぐに脱ぐと筋肉だけはぶっとい – こんなのどんなのにも使えておもしろいのではないか?

あの猫たちがどこに行っちゃったのかが気になる。

6.07.2024

[log] Primavera Sound Barcelona 2024 (4)

6月1日、土曜日のPrimavera Sound Barcelona 2024。もう6月に入ってしまった、というのとあんなに楽しみにしていて、実際に楽しくてたまんないのにもう最終日だなんて… がじわじわとやってきてかなしい。

午前はMercat de la Boqueria - 市場に行ってどいつもこいつもぜんぶおいしそうで見ていられずにやけ食いして、昼寝して、健康なんだか不健康なんだかわからん状態に納得いかず憮然とした脳を抱えて会場に入った。

The Lemon Twigs
遠くのステージだったので海を眺めながらそこめがけて走っていくシーンにとってもよくはまる初夏の音。初めて聴いて、70年代のWingsとか聞いていたけど、これはBig Starではないか、とか。昔はもっとこういうバンドいっぱいあったのになー。

Lankum
希望に満ちた日なたからまっ暗いAuditoriumに移って、ケルト系のSwansなどと言われている5人組のバンドで、トラッドと、少しノイジーで擦れたぶぉーんて音で圧してくるパートと半々で、どちらの塊りもスタイルとして十分こなれていて気持ちよいったら。これなら2時間でも聴いていられる。はっきりと”Free Palestine!” を訴えて喝采されていた。

Lisabö
再び野外で、こちらはバックにパレスチナの旗をでっかく掲げたハードコア – ツインベースにツインドラムス、もろDischord直のがりがりどかすかで、かつてFugaziと共演したこともあったらしい。Shellacのライブに触れることができなかった悲しみはここで。

Wolf Eyes
むかしむかし、NYのどこかで何度かは接していて、まだやっていたのか、って興味はんぶんで行ってみると、相変わらずすぎるノイズをびーびー鳴らしていた。死ぬまでやっていてほしい。そういえばこの日、22:00からPhewもあったのよね。

PJ Harvey
昨年9月にロンドンで見て以来。いまの彼女はぜったいにすごい、という確信があるのだが、始まる前に寝っ転がって空を見ているとぽつん、と数滴落ちてきてうそだろ? ってなり、彼女が出て来て歌いながら神々しく空にむかってポーズを決めた途端にしゃらしゃら降ってきて、はじめは無視していたのだがそういうレベルではなくなって、どこか雨宿りできるところは? って探してみると男子の小コーナーの上に布が貼ってあって、傘も雨カッパもない民はみんな避難していたのでそこに逃げる。音はじゅうぶん聴こえるし一部欠けるけどスクリーンも見えるし。なのだが、満員電車状態で全体に尿くさいとこにタバコの煙とビールのゲップの香りと、あとあんたらいいかげん井戸端会議をやめなさいよ! だったのだがしょうがない。フェスというのはそういうものなのかもしれんけど、みんなタバコとか葉っぱとかやりすぎだし、お喋りとかハグとかキスとか別のところでやって、しかなかった。

雨は歌っている彼女のとこにも来たようで少しステージ後方に下がったりしていたが、バンドの音も含めて新譜リリース直後のライブと比べるとものすごくよくしなって張る強い音と歌を響かせていた。いいかげん止んでくれないので“Black Hearted Love”の時と、Steve Albiniに捧げます、とギター1本でやった”The Desperate Kingdom of Love” - のに続けて”Man-Size”をやる…. 時と、“Down by the Water”の時は、おうおう溺れたるわ(やけくそ)、ってかんじで外にでて、でもやっぱり濡れるの嫌なので戻る、を繰り返していた。

で、ラストの”To Bring You My Love”が終わったとこで雨があがるのよ、ほんとに。 8月中旬にロンドンの西の方の公園である彼女のライブ、行こうかなー。

Bikini Kill
PJが終わって、濡れた状態で真ん中の方に戻ると屋根のあるフードコート一帯は避難民でぐじゃぐじゃにごった返していて、でも次はBikini Killだからがんばらねば、ってスタンバイしていると向こうで稲妻がぴかぴかし始めて、まさかねーと思っていると始まったのと同時にふたたび降ってくるの。雷つきで。

割と近いところに小便所ではない屋根があったのでその下から見ていたのだが、なんといってもBikini Killなので雨なんかしるかよ! って暴れている人々も結構いた。そして彼女たちの音のぜんぜん古くならないかんじってなんなのか、古くノスタルジックに聴こえるパンクとそうでないのの違いってどこのなんだろ? などについて考えたり。

途中で雨はあがってくれたのだが、この場所から少し降りたとこの同時間帯でやっていたAmerican Footballの塩辛みたいなギターが時折ぺりぺり聴こえてきて感慨深かった。

SZA
なんて読むのかもわかんなかったし、これまで聴いたことなかったので、どんなものかと、PJをやっていたステージの方に戻る。雨はもう来ないかんじだったが、雨のせいで地面に寝っころがることができないのがしんどい。

ものすごく洗練された - 洗練てなによ? って問いを吹き飛ばしてしまう肌理と自在さを湛えた高機能のソウル・ミュージック。むかしNYのPanorama っていうフェスでみたKendrick Lamarを思い起こさせるトータルな世界にぜんぶ盛ってぶちこんでしれっと歌いあげて、どう? って聞いてくる余裕までもれなくついてくる。こういうのってどうやって作るのだろうか?

本当はこの後のCharli XCXで27時くらいまでがんばるつもりだったのだが雨のやろうがはっきりと何かを奪ってしまったようで - かんたんに言うと疲れたので、降参して帰る。

今年のPrimavera Soundはここまで。
間違って空いてしまった日曜日は、手稿を求めてサラゴサの地に行ってみたりしたのだが、そのうち気が向いたらなんか書くかも。

6.06.2024

[log] Primavera Sound Barcelona 2024 (3)

5月31日、金曜日、Primavera Sound Barcelona 2024のDay2。

午前中は、ゴシッククォーターの聖堂をまわって猫とか鵞鳥などをみていた。お昼寝の後、会場に着いたのは18:00くらい。前の日の夜更けに結構寒くなったので、物販コーナーでパーカーでも買おうと思ったのだが、好きなデザインのがなかったので、フェスのTシャツを買って重ね着することにした → 少しだけよくなった。 この日のはあっという間に時間が過ぎて、気がついたら25:00を軽くまわっていた。

Joanna Sternberg
真っ暗なAuditoriumでNYのSSW。Conor Oberstのレーベルからレコードを出しててPhoebe Bridgesも褒めていると。ひとりでギターをかき鳴らしながら、Jeffrey LewisやKimya Dawsonがもっていたあの味、歌いながらつっかえたら、それをまた歌にして、裏に表に延々止まらずにこんがらがって転がっていくあのスタイルを伝承する歌い手。一発で好きになる。
「こんなよい音のするとこでやったことないわ...」を繰り返していて、とてもチャーミングだった。

The Last Dinner Party
ロンドンでも大人気で2月のライブはぜんぜんチケット取れなくて、次のライブはでっかいところでやるし、とにかく堂々としていてかっこよくて、多少へたくそでもかまうもんか、見るがよい! の見栄と心意気、みたいなつっぱり系って最近あまり見なくなった気がしているので、もっといけー! って保護者の気分で眺める。でっかいとこがぱんぱんで、みんな目がハートになっていた。

Chelsea Wolfe

の途中で抜けて、ふたたび真っ暗なAuditoriumに向かう。この人については明るい野外でやるようなのではないしな、って。バックは3人で、プログラミングのも含めたぶっといボトムがどす黒くうねって呻いても叫んでも呟いても、すべてが粘土の塊りになってばちばち飛んできて、そこに息苦しくなるようななにかがなくて、美しく感じたりするところがすばらし。

Yo La Tengo
彼らのライブはいつ聴いてもなに聴いてもよいに決まっているので見てもしょうがないだろ、なのだが、つい足を止めてみると、結局そこでぜんぶ止まってしまうのだった。この3人のアンサンブルって、小さな小屋でもだだっ広い野外でも、それに応じて緻密になったり果てなく広がったり自在で自由で、夕暮れの空に"Tom Courtenay"がこだまして、その残響のなか"Blue Line Swinger"のイントロが漕ぎはじめると、こんなに気持ちよいことがあってよいのか、って叫びたくなる。夏休みの思い出は、この瞬間まるごとでもよいくらいの。

Faye Webster

Yo La Tengoの隣のステージで彼らが終わって暫くしてから始まる。2022年のPrimavera LAで見て以来の。
出てくる前にギターを抱えたミニオンのアニメが一瞬流れて、なにこれ? ってなるのだが登場した彼女は前と同様、すごく真面目に没入して音をだして歌う(もう少し愛嬌よくしても、とか言われたりするんだろうな)。前回印象的だった青い服は着ていない。バンドサウンドはより硬く、しなやかに強くなっていて、ひたすらその音のなかに溶けるように演奏していくところは変わらず。新譜、買っていないけど買わなきゃ。

Lana Del Rey
ついにこの人を見ることができた/できる、ってステージめがけてすごい人の大移動が。
こないだのコーチェラの演出がバイクで登場とか仕掛けがすごかったのは聞いていて、ああいうのが見れるかと思ったのだが、そうではなかった。ただ、規模の問題というより、この土地ではこうやろう - 彼女の音にある土地とか時代に対する拘りを思うと - と決めたのでそうしたのでは、というかんじがあり、全体としては淡く儚い夢の王国を漂う女王さまと臣下たちのイメージで貫かれていて、よく聴くとその完成度はものすごいのだが、悪くいうとライブのダイナミズムに欠けてて圧倒的に迫ってくるなにかがない、はあったかも。でもお姿を見れたのでよかった。どこまでもこれでぶち抜いていってほしい。

The National

Lanaの横のステージで終わってそのまま。昨年の夏にNYのMSGで見たツアーをまだ続けていて、バンドの音もMatt Berninger の狂ったおじさん振りも数段進化していたかも。つくづく独特の、おもしろい人たちだなあ、って。アルバムはずっと売れているのだろうけど、特異点のヒットやキラーチューンみたいのがあるわけでもないまま、音楽的にはより複雑に緻密に深化して、ライブサウンドの、特にドラムスのエンジン廻りの唸りがものすごくなっている。メタルやハード系の重厚巨大化とは異なる進化の道を歩んでいるようで、なにを聴いても新鮮 … なのだが結局はMattおじさんの挙動に目がいってしまう。 なんだろう … MorrisseyやJames Murphyといったおじさんたちのムーブとは明らかに異なる動機につき動かされているようで、でもなんも考えていないようでもあり、いやいや音がすごいし … を延々まわってしまうのだった。 俺たちはNYのバンドだ! こんな時間に自分たちはなにしてるんだ? って呟いていたのが印象的だった。


終わってトラムを待って、部屋に戻ったら軽く3時で、でも疲れはちっともなかった。 (実は今日あたりがいちばんだるくてしんどい)

6.05.2024

[log] Primavera Sound Barcelona 2024 (2)

5月30日、木曜日のPrimavera Soundのこと – これが初日。

この日の午前はHospital Sant Pauに行ったり、The Museu del Disseny de Barcelona - Design Museumに行ったり、普通に観光して、宿に戻って2時間くらい昼寝してから。

Renaldo & Clara
まずはバンド名に惹かれる。もう夕方だけど朝方の清々しさ。バンド紹介の欄にはSaint Etienne ぽい、とあったが、そっちよりもなんとなくDevine and Stattonを思い出したり。

Shellac: Listening Party
最初はArab Strapのステージで始まるのを待っていたのだが、セッティングに時間かかりそうだったので、海辺の端っこに作られたSteve Albiniステージに向かう。ステージにはドラムセットとアンプがあったので、誰か出てくるのかしら? と思ったが出てはこなくて、新譜(?)からの音を爆音で流しているだけなのに気持ちよく、ステージ上で幽霊が暴れまわっているような印象 - 暴れまわる、というよりAlbiniがただ腕を組んで黙ってそこにいるかんじか。この音だとライブではどんなにか… などを思う。

Arab Strap
5人編成でバンドアンサンブルを聴かせていて、あまりに普通のバンドの音だったのでそちらの方に驚いたりした。人もいっぱい集まっていて、密室向けの変態バンドだと思っていたのに..

Lambchop
変なおじさんバンドが3つ続く。真っ暗なホールで、ステージ上にあたるスポットは3つ。ピアノとドリンクカウンターと、マイクスタンド。ノリはクラシック音楽のそれで、喋っている人には「シー」がとぶ。前回(確か2017年)、ロンドンでこのバンドを見たときは、白の野球帽に白い衣装でヒップホップだかハウスみたいなのをぴょこぴょこ跳ねながらやっていた。今回のKurt Wagnerは場末のクラブの演歌歌手か、クラシックでエレジーを歌うか、そんなふうで、歌を聴かせたいのはわかるけど、なんなのあんたは…

Blonde Redhead
これも変なおじさん系かも。最後に見たのは00年代のBowery Ballroomだったような。
硬いアンサンブルと柔らかめメロのせめぎ合い、その絶妙に気持ちよいバランスは変わらず、でも少しだけ柔らかくなったかな、くらい。一緒に歳をとっていくのが楽しみなバンドのひとつか。

Amyl and the Sniffers
Primavera LA 2022のときはまだ元気いっぱい新人枠だった気がしたが、もうでっかいステージでも風格・安定の暴れっぷりで、気持ちよいったらない。バックも開き直ったかのようなThe Stoogesのごりごり一本やりで微笑ましい… どころではなく、強靭な渦を巻き起こしてぐるぐるかき混ぜるだけかき混ぜて、あとは放っておくとその渦の中心でAmyが右に左に走り回って、どこに行くのかわからないけど止まらない。

Vampire Weekend
Amylのやっていたステージがたぶん一番でっかいやつなのだが、その隣のも同じくらいにでっかくて、ふたつのステージはプロジェクションも共有 – 真ん中のでっかいスクリーンは両側から見れるので、待っている間でも退屈しないし、暴れて疲れて移動する気にならなくても楽ちん - だし終わったらすぐ隣にスイッチできるようになっているのはよいこと(見たいのが繋がっている場合は)。

Vampire Weekendもデビュー当時にBoweryで見て以来かも。学生のアート系の生真面目さって成熟したらつまんなくなってしまいがち、と適度な難癖つけて聞いてこなかったのだが、明らかに初期のとわかる硬めのと最近のとわかるしっとりと巧いのが入り混じっていて興味深い。背後のビジュアルがいろんな古今のアート作品をぱたぱた映していくのが楽しくて、でも音よりついそっちの方に目がいってしまうのはー。

Beth Gibbons
彼女のライブは2003年にBrooklynでソロ – Talk TalkのRustin Manと一緒の - を見て以来。あと、2019年に”Henryk Górecki: Symphony No 3 (Symphony of Sorrowful Songs)”をリリースした時のライブもフィルムで見て、ついこないだ(5/7)も、Barbicanで”Portishead live at Roseland NYC “(1997)の上映があったばかりだったので、そんなに時間の経っているかんじがしない。パーカッションや弦を入れた厚め大きめの編成をバックに、複雑な織物のような音に自分の声をまぶして練りあげていくかんじ。少し背を丸めて、絞りだすように声を放って、それは織物の糸になるのかそこに火を放つのか、など。そこに張られるテンションは変わらず。

Pulp
まだ見たことなかったので絶対に見逃したくなかった。昨年のBlurよりも強く見たいと思った。
“I Spy”で満月の上に乗ってきめきめのポーズで登場して、”Disco 2000”で思いっきりぶちあげてから、あとは好きなように - ヒットメドレーで固めてお祭りにすることもできたであろうに、そうはさせずじりじりとゆっくりと最後の(ではなく、アンコールでもう一曲やったけど)”Common People”にもっていく。なのでここに到達してからの弾けっぷりときたら半端なく、みんな好き勝手な動きでぴょんぴょん跳ねて歌ってて、それらを見ているだけでたまんないのだった。

あと、昨年亡くなったベースのSteve Mackeyを悼むメッセージに続けて、もうひとりのSteve - Albiniに対しても..

夜中は相当冷えることがわかったので明日以降の対策を考えつつ、戻ってばたん。

6.03.2024

[log] Primavera Sound Barcelona 2024 (1)

5月29日から6月1日まで、Barcelonaで行われたPrimavera Sounds Barcelona 2024に行ってきた(実際の滞在は日付を読み間違えて3日まで。さっき戻ってきた)。

これまで割と各地のいろんなフェスに行った方かも、と思うのだが、フェスで自分のどこかになんか強い影響を受けたとか、あの空気がものすごく好きで時刻表マニアのようにラインナップを眺めるのが趣味とか、そんなことはまったくなく、誰かに誘われて、なんてあるはずもなく、いつもなんとなく1人で決めて自分でチケット取って飛行機と宿の手配をして、というのをずっと地味にやっていて、でもそろそろ、坂本龍一があと何回満月を見れるだろうか、と問うていたのと同じように、もう老いたし、あと何回フェスに行くことができるだろうか? という問いをここ数年転がしたりするようになり、いつももうこの辺が最後かも? 最後にするか? って思いはじめた頃に今回のが発表になり、また相変わらずグラストンベリーは取れなかったし、2022年のLAでのPrimaveraがびっくりするくらい楽で快適だったことを思い出して、取ってしまった - その時にはもう英国に来ることは決まっていたのだったかどうか…

Balcelonaは前の英国駐在時に仕事で一度行って、町のかんじと美術館と食べものと音楽堂などが素晴らしいことはわかっていたので、長くいたってへっちゃら、って月曜日帰りにしたらフェスは土曜日までであることがわかり、変更しようと思ったら飛行機代が高くなるのでそのままでいいか.. ってぜんぜんやる気のわかない状態で、現地情報とかほぼ調べずに行って当日とかにじたばた、は割といつも通り。 それくらい軽く行けなきゃ、行きたいものよね、と。

フェスの楽しみ方は人それぞれだろうが、自分の場合は新たな出会いや発見はムリ、めんどいしいいや、って思うようになっていて(… だめよね)、音楽そのものから日々遠くなってしまっていることもあるので(… だめじゃん)、好きなひと、好きだったひとに再会して、今こんななんだー、とか変わってなくてよかったー、などを自分のなかで自分勝手に答え合わせするような場になっているのかも。どの時点の答えなのかは人によるし、外れて(外して)くれることの歓びは常にある。あー、好きなひとがどれだけいっぱい出るか、というのはもちろん大前提としてあって、今回の3日間のラインナップはものすごくすんなり、これはふつうに行くじゃろ、の方に転がった。 ぜんぶ女性アーティストにしちゃえばよかったのに(昔、Lilith Fairってあったよね - しらないか…)

そういうモードの帰結として、新しいバンドや若めのアーティストよりは古めな方のばかりに足が向くことになってしまうのだったが、この傾向がノスタルジア系バンドフェスの隆盛にも繋がっていたりするのだろうか? いやー、覗いてみたいと少しは思うけど、あれらにお金を払う気にはなれないわ…

29日の水曜日は朝6:10ヒースロー発のを取ったら動いてくれる地下鉄が4:30発くらいのエリザベスラインの始発しかなくて、パディントンの駅に行くのに朝3:00にフラットを出てバスを乗り継いで、どうにか着いてゲートに向かうとそこからまたバス.. というよくあるあれであった。

現地に着いてバス&地下鉄を乗りついでホテルに着いて、まだ部屋に入れてくれる時間ではないので、だいすきなカタルーニャ国立美術館に行ってロマネスクのコーナーとゴシックのコーナーとSuzanne Valadonの企画展示などを見て、ピカソ美術館にも行って、ホテルに入ってから少しだけ昼寝して、会場迄のルートなどを確認すべく、“Jornada Inaugural”という前夜祭(?)に行ってみる。

最初のステージ開始が17時くらいなので、地元の人たちは会社の後に余裕で来れるし、遠くから来た人は昼間に観光して、お昼寝してから行けるし、なんかよいかも。

荷物チェックは前よりやや緩めになってて、水のペットボトル飲みかけは蓋だけ外される - よくわからない。会場のところどころに給水場があって水を汲むことができるのだが、なんか塩素臭くて飲められるもんじゃなかった。ビール会社がスポンサーだからか、ノンアルコール系は絶望的で、水とペプシとRedBullくらいしかない。おいしいアイスティーとかレモネードがあってくれたらどんなにか…

食べ物はバーガー、ホットドッグ、ピザ、メキシカン、ヴィーガン、たまにエイジア、程度で、だいたい10€以上で、そんなもんか。現地のおいしいの出せばいいのにとか思うけど、ここでの主食はビールなんだ、たぶん。

会場は海に面してひたすらバカでっかく、晴海か幕張か - でも幕張のには行ったことないので比較できない。すべてのステージが野外かというと、コンファレンスで発表をするようなホールもあってインドア向けの真っ暗アーティストはここでやる -場内はほんとに真っ暗(なので転ぶ)。で、ここに入るときには荷物チェックがあって、食い散らかされたら困るからか食料は外に置かれる - でてきた時に自分のをピックアップしていた - テーブルに並べられた食糧いろいろがおもしろくてー。

物販もアートポスターの小店が固まっているのと、アーティストのと、フェスのグッズと、それだけ。ぜんぜん並ばずに買える。音源はストリーミングがあるから - Amazon musicがスポンサーだから? - ブツを売ってもしょうがないのか。

トイレは男女の別なし、個室がざーっと並んで、その間に男の小のは薄板の下に雨どいがついているのを両面並べたオープン仕様で、しているのが見えるけど背中だけなら別になんの問題が? って。これなら変態がおれのを見ろ、とか騒いでもみんなで寄ってたかって袋叩きにできるからよいね。

以下、どんなだったか憶えている範囲で。
29日はひとつのステージのみで5バンドだけ。

Stella Maris
ぜんぜん知らなくて、バンドかと思ったら音楽とビジュアルにあわせて寸劇みたいなことをする6人姉妹(なの?) だった。宗教的なテーマを扱っているようなのだが、ネガなのかポジなのか、どこまでまじなのか、客は熱狂して喜んでいるのだが、スペイン語がわからないとちょっときついかも。

Phoenix
こないだシンガポールに行った戻りの機内でBBCが作成したThe Daft Punkのドキュメンタリーをやっていて、そこに彼らも出ていたなー、などと思い出した。95年から05年までの初期、そして00年代に出てきたThe Daft PunkやLCDと並んで、単にダンスできればよい、だけではないダンスするとはどういうことか、まで意識の幅を広げて探究してきた貫禄、というかその果ての軽み。煽ったりしなくてもみんな勝手にぴょんぴょんなるし、楽しいし。

帰りは会場の前からトラムがフェスの間は夜通し運行してて、これに乗って20分、最寄りで降りて歩いて15分。

30日以降はまたあとで。