3月20日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。
邦題は『たぶん悪魔が』、英語題は“The Devil, Probably”。むかし日仏で見たことがあったが、こんなのは何百回見てもいいの。作・監督はRobert Bresson。音楽はPhilippe Sarde。同年のベルリンで銀熊賞を受賞している。
70年代のパリ、新聞にペール・ラシェーズ墓地で若者が銃撃を受けて死亡、自殺か? のような見出しと記事が出て、そこから数ヶ月前に遡って何が起こったのかを追っていく。
Charles (Antoine Monnier)が主人公で、環境や生態系のアクティヴィストっぽいMichel (Henri de Maublanc)の住居から恋人のAlberte (Tina Irissari)が飛び出してCharlesのところに向かって、それをEdwige (Laetitia Carcano)とCharlesが出迎えて、そんな半分同志、半分友だち、半分恋人のように一緒の時を過ごす緩い4人が、集会に出たり集会を企画したり、ただ集まってだらだらしたりしながら、明らかに少しづつ挙動がおかしくなっていくCharlesを見てなんとかしなきゃ、になるのだがなにをどうすることもできない。
学生運動の挫折の空気とその反動のようなシラケを背負っているとはいえ、世の中には公害 - 海洋汚染、大気汚染、土壌汚染があり、それを集約したような水俣があり、冷戦と核の脅威もあり、血の果てでアザラシは毛皮のために殴り殺され、なにもかも、なにをしようにもどうすることもできないくらい腐っていて、腐っているのでどうしようもない、のぐるぐるのなかを泳がされている日々。
こんなふうだから死にたい、とか自殺衝動を抱えて、とか、そんな単純なことではなくて、そういう世の中の端っこに繋がって生きている/あらされている自分もまたどうしようもなく、必然的に切って捨ててしまうべきなにかなので、見れば見るほどこれらをどうしてくれようか、って彷徨っていると夜の公園で浮浪者から銃を手に入れて..
Charlesの世に対する痛みや苦痛が彼自身の言葉や叫びとしてどろどろと表に出ることはなく、世の不条理や諸処の「問題」が悪魔のように彼を追い詰めたり孤立させたりしているようにも見えない。なにもしていなくても、壁の色とか床に散らばるなにかとか階段の手すりとかエレベーターとかバスとか、それらの端々を見ているだけで、そこには不浄で不穏な「たぶん悪魔が..」としか言いようのないなにかが映りこんできて、やっぱりな、って切って捨てるべきなにかが挟まったり溜まったりしていく。その様子をとっても冷静に、醒めた目をして眺めている(しかない)。
例えばこれをドストエフスキー的な自嘲/自爆の呟きとして捉えようがどうしようが勝手なのだが、そんなのもまたラジオから流れてくる遠くのノイズのようなものでしかない。ラジオを切るように一切を遮断、カット、ダン、してしまうことにしよう、と。Charlesからすると、そこにはっきり悪魔がいるわけではなくて、「たぶん悪魔が」って言うしかないのは、彼の友人たちとそれをフレームに収めているBressonだけで、これはCharelesの死について、「たぶん悪魔が」やったのかもしれないけどそうとも言い切れない報告、のようなものになっていて、その「たぶん神は」そこにいないかんじも含めてすべてが網羅されきれいに並べられている。若者であろうが老人であろうが、死なんてこんなふうに切り取ることしかできないのだ、っていうことを淡々と語る。
これが77年、パンクがそのとおりにパンクした瞬間(直後)の世のありようで、Charlesは長髪でぜんぜんそうは見えないしそういう挙動も見せないのだが、彼の態度と目つきは明らかにそうで、こいつはやばいと判断した当局はこの映画を上映禁止処分にする。ここから数年後、Ian Curtisがおなじようなものを見て、”Love will tear us apart again” - て歌った、”again”っていうのはこの映画の「たぶん」のところだ。
最近の“The Batman”とか”Nightmare Alley”とか、ぱんぱんに暗く黒く膨れあがった世界、あんなふうに構築されてしまう今の世のなにかに意味はある(たぶん)のだろうけど、こっちの方がそこにいる/あるものをだんちがいの殺傷力で一瞬のうちにわからせてくれると思う。その気持ちよさをぜひ劇場でー。
4.02.2022
[film] Le Diable probablement (1977)
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