6.27.2021

[film] こころ (1955)

6月26日、土曜日の昼、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。
ここではまだ勅使河原宏特集をやっているのだとばかり思っていた。時間の流れかたがどうもおかしい。

監督は市川崑、原作は夏目漱石のザ・にっぽんの近代小説、みたいな一編 - もう何十年も読んでいないし内容もほぼ憶えていない状態で、どこまで浮かんでくるものがあるのか、拾いあげることができるのか。

明治45年、冒頭が奥さん(新珠三千代)の顔のアップから入って先生(森雅之)との出かける出かけないのやりとりで、ここだけでふたりの仲はあまりよくない - よくなりたいと思っているけど(どちらかというと先生の方で)なにかが引っかかって、わかっているもののどうすることもできずに凝り固まって疲れているような状態が描かれる。こんなふうに少しだけどんよりうんざりの無表情に近い顔のアップから引いて、それでも決して捕まえることのできない「こころ」のイメージが何度も反復される。(もうひとつは海の揺れる水面のイメージ)

梶という人物の墓参りに行った先生と知り合いらしい日置 = 私(安井昌二)の目や先生とのやりとりを通して見えてくる先生の、優秀で落ち着いて見えるのに定職にもつかずなにかを諦めてしまった様子、先生と奥さんの間のどこかが外れて遠くなってしまっている関係、その根っこにあるらしい梶(三橋達也)という人物の影が描かれ、それが私の父の病気で先生の下から離れて田舎の実家に戻ったところで起こった明治天皇の崩御とそれに続く乃木大将の殉死を経由して、こんなわたしはこんなところで消えてしまうのがよいのですなぜなら… という先生からの手紙 - 映画の後半の先生による回想 - によって説明される。

見ながらだんだんにストーリーも思い出されてきて、仏教を学んでその可能性を追いつつもお嬢さん - 後の奥さんへの恋に身を焦がして挟み撃ちで自ら死を選ぶ梶と、その梶を自身のエゴ - お嬢さんは自分のもの - によって殺してしまった(と思い込む)先生のふたりのピュアな友情と、それをドライブしているように見える明治という時代の終わり。うーんと遠くから見れば明治天皇の死に殉じた男子ふたりの無理心中、のようでもあるのだが、少し近寄ってみれば単なる女子の取り合いなのに、それを近代的エゴと呼んだり天皇の死と結びつけたりするのってどうなの? ひとの「こころ」の見えないことなんて、時代のありようとかに関係ないものなんじゃないの? と子供の頃に読んだときには思ったりしたねえ、とか。

いまはもう少し、なんとなくわかるかも - たぶん研究本とか読めばいくらでも書いてあるに違いない。「こころ」なんて見えなくたってわかんなくたってよいのだ執り行ってしまえ、が明治以前で、もう少しちゃんと周りの人たちのことも見て想像してみれば、っていうのがそれ以降ので。いまは明治の時代に遡りたい連中がうようよなので、余計よくわかるよね、やり口とかも含めて。なにがしたいんだか知らんが。(じつは精神的には明治の頃のままなのだ、というのもふつうにあり)

映画だと、あのあと先生の元に戻った日置が先生を殺してしまったのは自分だと、罪の意識に苛まれて死んでしまうのだとしたらそれは明治の物語になるし、ひとりぼっちになってしまったかわいそうな奥さんと結婚するのだとしたらそれは明治以降の物語になる、のかも。 でも結婚しても亡くなった日置の父の後を継ぐべくふたりで田舎に戻らなければならなかったのだとしたら奥さんの苦労は終わらなくて - 地獄の日々は続いたり。

顔の正面のアップから入って部屋の影日向を通り抜けていくカメラの動きはその始めからクラシックなホラーのようで、映し出される新珠三千代が時折見せる魂の抜けたような表情と、成瀬の頃からわかっていたよあんたは、の森雅之と、悟りまであと10年、としか思えない煩悩もろだしの三橋達也の3人の顔が織りなすドラマはスリル満点でおもしろかった。魂のせめぎ合いのドラマというよりは魂の欠けたピースをそのまま曝して、その状態に「こころ」という張り紙を「割れ物注意」みたいに貼ってしらっとしている、そんなかんじ。魂、ではなくて、「こころ」の。

自殺した梶が一瞬動いて見える(動いてない?)シーンがあって、あそこで起きあがってそのままホラーになってもまったく違和感ない画面の作りだった気がした。実際先生は梶の亡霊にとり憑かれただけだった、というふうにしたっておかしくないし。

あとは、お嬢さん-奥さんの扱いの、本人不在のひどさ、これはこの時代なのだからしょうがない、ではなく戦争や独裁の時代を語るのと同じようにいちいちしつこく語っていった方がよいのかも、と最近思うようになった。ここでいう「こころ」って男野郎共の勝手なそれ、でしかないよね。

もうすでにあるのかもだけど、女性監督による徹底的にお嬢さん-奥さん目線での「こころ」が撮られないかしらー。 


そして、オリンピックはやることにしたから、と言われたからといってはあそうですか、にしてはいけない。国の愚策によって何十万人もの国民を殺してしまって謝罪したアメリカとイギリスは本当にそのまま選手を派遣するの?  そうか連中にとって日本は競技用のグラウンドでしかないのか..

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