5月30日、日曜日の晩、MUBIで見ました。昼間に見た”U.S. Go Home” (1994)に続けてClaire Denis作品を。これが彼女の長編デビュー作で、アフリカで過ごした彼女の幼年時代を描いた作品。
フランス領だったカメルーンに若い女性 - France (Mireille Perrier)が降りたって、アフリカン・アメリカンのWilliam J. Park (Emmet Judson Williamson)の車に拾われて移動していくうち、Franceの脳裏に50年代末、ここで過ごした子供の頃のことが蘇ってくる。
幼いFrance (Cécile Ducasse)は、この土地の官吏である父 Marc(François Cluzet)と母 Aimée (Giulia Boschi)と一緒に原野の一軒家で大勢の召使いに囲まれて暮らしていて、召使いのひとりProtée (Isaach de Bankolé)は万能で優秀で、みんなのお気に入りで、Franceにもいろんなことを教えてくれる。のんびり平和な日々を過ごしていたのに、ある日家の近くにプロペラ機が不時着して、それに乗っていた白人たちが家にやってきて飛行機が修理されるまで同じ屋根の下に滞在することになると、彼らが抱えて持ち込んだ鬱憤や野卑が家族 - 特に召使いと家族との間に - 緊張をもたらすことになる。
不時着民はみんな白人で、それぞれに(彼らにとって)大事な仕事を抱えていてそれが中断されたこと、さらに修復までに時間が掛かってしまうことに苛立っていて、その苛立ちはホストであるFranceたち家族にではなく、現地民である召使いたち - 特に黙々と仕事をこなすProtéeにその矛先は向けられて、はじめは相手にしなかったProtéeもAiméeとのことを揶揄されると我慢できなくなって..
それがどうでもいいようなでっちあげであれば、そんなに大ごとにはならなかったのかも知れないが、外部からの淫らな目線によって掻き立てられてしまった何かがはっきりと露わになって、Protéeはクビになってしまう。それがなんでなのか、幼いFranceには十分理解できないのだが、大人になったFranceには運転手Williamとの会話を通してわかるようになっている。
植民地下、そこを管轄する管理官の家に初めからあった主従関係をはじめとするいろんな境界 - 植民者と被植民者、白(フランス)人と黒(アフリカ)人、男性と女性 - 等が維持しつつ補強していた目にみえない、でも誰もが認識していたに違いない現地民への差別意識が、外部の闖入者たちによって表に暴かれ、でも解消されることもなく日常は維持され - 結果として差別も温存される。でもどうすることもできなかったし、Protéeのことは好きだったし、でもそういう表明もまた差別 / 被差別の状態をそのまま補強する力にしかならない - 熱い鉄パイプを握りしめるしかないProtéeの行き場のない苛立ち。 Franceの父が地平線の比喩で説明する遠くにはっきりと見えているものの、近寄れば近寄るほど実体なく遠ざかってしまうなにか。
“Chocolat”っていうのは50年代のあの土地のスラングで「騙される」という意味で、アフリカ人の肌の色とその色が暗示する甘さ、等々が包まれている、と。時間が経ってみるとほんのり苦さが際立ったり甘さが耐え難かったり。差別そのもの、その実態を描くというよりも、いつまでも消えない鉄パイプを握った瞬間の掌に走った痛み、その跡を見つめる、というか。
そしてこれらの境界線や分断を観念的な会話劇のなかではなく、異国の乾いた風景とむきっとした筋肉の弛緩と暴発(怒り)のなかに鮮やかに描きだすClaire Denisはすでに十分Claire Denisなのだった。これを踏まえてもう一度、”White Material” (2009)を見直してみたい。
低気圧も湿気もひどいが、いまだに消えない時差ボケも相当にひどい。リモートで仕事していると空いた時間に寝ちゃうからだ、と無理して(よくないことだけど)通勤してみたりするのだが、帰宅した途端に気を失うように寝てしまったりする。そうすると朝の4時5時に目が開く、の繰り返し。 どこまでこの状態を維持できるのかやってみてもいいかも。
6.07.2021
[film] Chocolat (1988)
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