10月27日、火曜日の晩、BAMのVirtual Cinemaで見ました。
Jack Londonの1909年の同名小説(未読)の映画化。日本では公開済み、アメリカでは公開中、英国には未だ来ていない – そのうち来るだろうけど。
舞台は原作の米国オークランドからイタリアに変わっていて、労働階級や労働運動のことも含めて、20世紀初のイタリア – ナポリのお話しとして見て全く問題ないように思える。
Martin Eden (Luca Marinelli)は船乗りで港でちょっと荒っぽいやくざな生活をしているのだが、ある日絡まれている若い男の子を救ったらそのまま彼の家に招かれて彼の姉であるElena Orsini (Jessica Cressy)と出会う。ボードレールがすばらしいという彼女との会話に全然ついていけなくて、それなら彼女に好かれるようにおいらも作家になるんだ、って決意する。
本を買って読んで手に入れたタイプライターにタイプして(よい音)、小説でも詩でも手当たり次第に出版社に送っていくのだがどれも束になって送り返されてきて、なんでだ? って頭を抱えて、勉強しなさいあなたの学力は小学生並みなのだから、って言われてううって悶えて、それでもがむしゃらに書いていくと採用してくれるところが現れて、パトロンらしき老人も現れて、その書きっぷりから野卑で粗削りな視野にスポットが当たって社会運動にも巻き込まれるのだがあんま考えてないのでぼこぼこにされて、こんなふうに作家になろうとするMartinの精神面の格闘や葛藤が描かれる。
ふつうのお話しだったら、作家になる動機がElenaに惚れられたいからなんてそもそもそこから無理なんじゃないか、とか思うのだが、この映画のMartinのぎらぎらした目と挙動を見ているとそんなに違和感はなくて、労働者階級のMartinがブルジョワのElenaと一緒になるんだ、という荒唐無稽な御伽噺みたいなことがひょっとしたらありうるのかも… って思えてくる。
たぶんこの話 – 映画にのれるかどうかは、この点にかかっていて、のれるのであればクラシカルな70年代の映画みたいなトーンはたまんない背景になるし、そうでなければみんなかっこつけてるだけの絵巻物映画になってしまう気がする。 ただそれであったとしても、Martin - Luca Marinelliの暗く獰猛な目の磁場から目をそらすことができないのではないか。こいつがはったりのみの詐欺師野郎だったとしても、なんでこんなふうにこちらを見つめてくるのか、と。
ElenaとMartinの恋がうまくいっちゃったらそれはそれで.. なのだがそうでもないのもよいし、最後は海に向かって”Quadrophenia” (1979) みたいになるのだが、キャラクターの輪郭や臭気からすると成長物語、というよりは別れてからなし崩し的に闇社会に潜って狂犬になっていく”Taxi Driver” (1976)とかピカレスクロマンみたいな方が流れとしてはしっくりきたのではないか。Jack Londonのお話しではなくなってしまうけど。
それか、70年代のFelliniみたいにいろんな人がわらわら湧いてでていろんなこと好き勝手に言うだけでなにひとつ動いていかなくて、最後は遠くから手を振ってみんなばいばい、とか。
そういういろんな可能性とか豊かさを感じさせるとってもイタリアらしい様式の作品ではあったかも。やや前のめりで男(ガキ)臭い、のはしょうがないかー。
今朝は結局5時くらいに目があいて、スマホを見ながらずうっとうううー、ってひとりで唸っていて、お昼寝もできないし食欲もないしどうしようもないし(仕事はいつも集中してないから)。明日からロックダウンになるので夕方買い出しに出てもみんな賑やかすぎて違和感しかないし。
四年前の開票日のときはシアトルにいて、全身から力と血の気が抜けていく悪夢のような時間を味わったことを思い出した。
なんで他の国の大統領選がそんなに気になるのか心配なのか – あの国の大統領がどんな人なのか、その政策が世界の次の4年間を決めてしまう、っていうのがわかっているから。いまのあの豚野郎のせいで本当に多くの人が、動物も含めて亡くなって、環境とか規範とか破壊しつくされた。アメリカなんて、経済なんてどうでもいい、強さとかGreatとかほーんとにどうでもいい。憎しみや偏見や繁栄のために人を殺すな、って。
日本はもうだめかもしれない、もうほぼだめだと思う。でもアメリカ合衆国はまだ… って思うところが少しだけあるから。
本当に本当の確定がでるまで信じない。
11.05.2020
[film] Martin Eden (2019)
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