11.13.2020

[film] Om det oändliga (2019)

8日、日曜日の午後、Curzon Home Cinemaで見ました。
スウェーデンのRoy Anderssonの新作で、昨年のヴェネツィアでは銀獅子賞を受賞している78分の小品。

タイトルを翻訳にかけると”About the infinite”と出るのだが、英語題は”About Endlessness”で、なるほどこっちの方がしっくりくるかも。邦題は例によって訳がわからない。ついこないだもディケンズのでうんざりしたばかり。はいはい、フィルムを売る側はリスクを背負って買ってきたものに好き勝手なタイトルをつける権利があるのだろうし、マーケットのことを知らない外野が口を出すな、なのだろうが、やっぱり作品に失礼だと思う(何度でもいうよ)。若草物語やディケンズのように明確にクラシックをベースとしているものをぼかすのも、この作品のようにもともと抽象的なタイトルに別の抽象を被せるのもやめてほしい。これって小説や絵画だったらあまりしないよね?  なんで映画だと宣伝という名目で慣例みたいにこんなバカバカしいことが延々(誰が許しているんだか知らんが)許されてしまうの?

冒頭、男女のカップルが抱きあって空に浮かんでいる(彼らは終わりの方にも出てくる)。Manoel de Oliveiraの『アンジェリカの微笑み』 (2010)を思い浮かべて、でも彼らは死んでしまった人達なのか、夢の中にいるのか、飛びたったところなのか降りようとしているのか降りられなくなっているのか、ここからEndlessnessの両義性 - 終わらないことに対する絶望と終わらずに続いていることに対する希望 – とその普遍を巡る街角や人々のスケッチが始まる。

大半がセットで撮影されたそうだが、どのスケッチもどこの街なのか、どこの(国の)人々なのかはっきりとはわからないし、人の顔はうっすら白塗りされているように見える。ここで簡単に思い浮かぶのはこの(各エピソードの中心にいる)人達はみんな亡くなっていて – つまりEndlessnessの状態が保証されていて – その地点からEnd. が保証されている世界のことを恨めしや~ ってやっているのかしら? ということなのだが、そんな簡単に線を引いておもしろいものになるとも思えない。時代設定も十字架を担いで歩いていく人とか、どうみてもナチスの人々とか、ばらばらで、ひとつあるのはどの人達もぱっとしなくて疲れていて、歌をうたうようにひとりで何かをひたすら、繰り返し呟いている。

“Endlessness”のことを「地獄」、と言い換えることもできるのかもしれないが、地獄の凄惨なイメージもないの。その手前にいる人達が見ているのは果たして地獄なのか、その少し手前の緩衝地帯のようなところ - 『天国は待ってくれる』(1943) の受付とか – なのか。それを待ったり見たりしている時間もまたEndlessnesに近くて、あと少しでコメディスケッチの方に転びそうな。それはStephen Shoreの写真の世界に現れたEdward Hopperの絵画の世界にいる人々、のような。それかEdvard Munch のシンプルなドローイングがつかまえようとした貌、のような。

この状態が居心地よかろうが悪かろうが、ここで生きていかなければならないのが大部分のひとで、そうである時に、この自分がいる世界の、自分が立っているこの場所の確かさ揺るがなさってどんなものなのだろうか(夢であってくれたらどんなに..)、というのは – だいたいしんどい時に - よく思うことで、そうやって地面を見つめたりするときのかんじがうまく表現されていると思った。どのスケッチもワンカットで、どちらも動けない事態・状態でカメラの場所と撮られる人と見ている人が固まって、そのまま陽が沈んでいく。

動きも映っているものも地味なのでモノクロでもよいのかもしれないが、ここの世界には色がついている必要がある、と思った。

ずっと見ていたいしいくらでも見ていられるかんじなのだが、この状態に浸かってずっと世を眺めるのって、それはそれであんまよくない気がした。そういう気になってしまう、という点での中毒性は高いかんじで、やっぱしすごい映画なのかも。そういえばベルイマンの国の映画..

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