気がつけば振り向けば1年の最後の日になっていましたどうしよう、と書いて嘆いてあたふたしてみせるけど実はなんにもしない、そういうお約束のいちにちが今年もやってまいりました。
会社の仕事は24日の午前中まであって、25日は電車もバスも動かないので家のなかですることがなくて(.. おかたづけ..?)、死ぬほどつまんないのでLeicester Squareの映画館まで歩いていく、ていうのをやってみた。Mary Poppinsのクリスマスの御利益を期待していったのだが、ほぼまっすぐの道を凍えながら約1時間てけてけ歩いていくだけでなんも起こってくれないのだった。
26日の朝から30日の晩まではイタリアに行ってきた。初めてのイタリア。昨年末のウィーンと同じで、これまで頭の隅っこ奥の方にしかいなかった絵とか建物とかのほんもんを見て、ふうん、てうなる、そういうシリーズで、でもイタリアって広く散らばっているのでどうしよう、と考えて、(続いてほしい)第一弾としてフィレンツェとミラノにした。なんで最初がこのふたつなのか、にあまり深い意味はなくて、例えば「ウフィツィ」って音の響きが昔から気になってしょうがないけどなんだそれ、とかその程度。
30日の夜中に戻ってきたら、31日の0:00amからBBC Oneでは”War of the Worlds” (2005)を放映したりしている。えらいねえ。
細かいあれこれは後で書くかもしれませんが、フィレンツェ2泊 - ミラノ2泊でだいたい25軒くらいの美術館とか名所旧跡とかを見てまわった。 自分のなかの時間感覚からすると絵を見ていくペースは昔と比べると随分遅くなっていて、つまりだらだらつっかえたり戻ったりしながら見ているからだと思うのだが、こういうのとか、現地に行って(コピーではない)ほんもんを見ることの意味とか、絵とか音楽のライブの共時的な快楽に加えてそういうのを行きつ戻りつ考えていくおもしろさに目覚めてしまったかも、って、これ、回数重ねていかないと(たぶん)わかんないことかもしれないしわかんないままかもしれないし普遍化できることでもないと思うけど体が動けるうちに纏められたらいいなー。
年を経てくすんだりさびれたりしていく作品たちと同様にボケたり見えなくなったりしていく自身の視界とか頭はどう向きあっていくことができるのか - デジタル・アーカイブなんてくそくらえ、ということでがんばる。
ていうのは好きにやってれば、なのだがアーカイブなんてちゃんちゃらおかしいわボケ、ってフィジカルに積もって溜まっていく本とか箱とかをなんとかしないと、ていうかなによりまずは、このなんとかしないと、てのを年末に吐くのではなく年明けに宣言するように自分のあたまを釘ととんかちでどうにかしないとだめよね。
大晦日は(時間があれば)だいたいB級ジャンクホラーみたいのを見ることにしているのだが、夕方に”Bird Box”ていうのを見てきた。 Netflixのだし、客は3人しかいなかったけど、B級どころかものすごいやつでおっかなくて震えた。 音楽はTrent Reznor & Atticus Rossだし。
昨年の今頃はまだロンドンに来て11ヶ月で、本棚みっつ買ってもういっぱい、とかはしゃいでいたようだが今ときたらもうほんとしゃれにならなくて、とにかくレコード会社は40周年とか50周年だからってアナログの箱を乱造乱発するのとか、ふつうの新譜でも180gで2枚組3枚組とかの重くて厚いのを出しまくるのやめてほしい。そういう箱を置けるスペースとあれらをいろんなバージョンとかMono - Stereoとかの差異をくっきり再生してくれる機械設備のないビンボー人は聴くな買うな、ていうのがふつーの感覚なのだろうが、でも買っちゃうわよ。そんな後先考えない無節操さを叩き込んでくれた音たちなんだもの。 なんだもの、じゃなくて買うなよ、てさすがにだんだん思うようになってきて、でもその替わりに古本屋とかに通うようになって、これがまたサイズとかてんでばらばらで困ったやつなのよね。(← もうだめだこいつ)
今いるフラットは2年契約なので次のところに移る(移って、その際におお掃除する)べきかそのまま埋もれていくのか、そろそろ決めて動かないとなー。 時間ないなー。
このタイミングでこんなゴタクを並べているということはつまり、師走のお片づけ、大掃除なんてむり、アボート、あきらめ、退避、てったい、Plan Bなし、てことなのよね、って威張ってるんじゃねえよ。 やるきなし、ってだけだろ。
(だってさー、絵とかいっぱい見て幸せに戻ってきたとこで片付け、しないよねふつう)
2016年の世界はひどかったけど2017年も更にひどくなった、って昨年は書いていたけど、2018年はさらにさらにひどくなっている。 あの国はもうほんとうにどうするんだろ、三権分立のそれぞれの府とお役所とそこにぶらさがっているメディアのぜんぶが揃って腐ってにっぽん最高ばんざいってにたにたしながら思いこんじゃって、そんなのバカが勝手にやってろだけど、あったまくるのはそれで辛かったり苦しい思いをしている人たちがいっぱいいるのに、そういうのをこれぽっちも想像できない - これって教育とかじゃないよね、洗脳されちゃって根から芯から性根が腐ってて自分の腐臭に気づくことすらできないんだよね。 こういうのを世界の人たちがどう見てるかなんて、ほんとにどうでもいいのね。
元号にどういう意味があるのか未だにわかんないし平成が何年までいったのかすらわかっていないのだが、元号変えるのならついでにこいつら全部リセットしてほしい。
でもとにかく、それでもひとは動いて出会うものだから、きっと来年は。たぶん。
なんてことを年の終わりに呟いてどうするのか、とここでも空を仰いで、どこまでも内向きにぶつぶつキーをひっ叩きながら、皆さまよいお年を、来年がすばらしい一年となりますように、と言います。 みんななんとか生き延びることができますようにー。
というモードで、2018年ベストに着手いたします。
12.31.2018
12.25.2018
[film] Spider-Man: Into the Spider-Verse (2018)
19日水曜日の21時過ぎ、Pictuirehouseで見ました。Dolby Atmosがんがんのいちばんでっかいとこで、でも客は数人しかいない。気持ちよいったら。
年末に会社から強いられたり出なきゃいけなかったりする飲み会って、会社はいって何十年経っても、働く国や会社が変わっても、相変わらずいやいや園状態で、そういうのでぐったりした後に半べそかきながらこういうのに逃げこむの。
最初はゲームかなんかに連動したアニメかなんかかと思っていたのだが、これはそうではないちゃんとしたMarvelのプロダクションで、レビューも評判よいみたいだから、程度で。
Queens(だよね?)に暮らすMiles Moralesは新しくレベルの高い学校に行くのに相当焦ってカリカリしてて、でもパパママはだいじょうぶ期待してるし愛してるしか言わなくて、そういう不安だの将来だのについて尊敬しているAaron叔父さん (Mahershala Ali)と地下鉄の穴の奥のほうの場所で落書きしながら喋っていたら変なクモに噛まれて、その日から自分の体の様子がおかしくなって、おかしくなった感覚がPeter Parker (Chris Pine) / Spider-Manと悪党The Kingpinが次元の壁をぶっこわそうとしている現場に導いて、でも彼の見ている前でSpider-Manは殺されちゃって、NYの町全体がどうしようやばいぞ、になる。
暫くするとどこからか髪の色が違ってお腹も出ててややおっさんぽいPeter B. Parker (Jake Johnson)ていうSpider-ManがMilesの元に現れて、要は次元の壁が壊れて穴があいたとこから来た別次元のやつ(次元が違うので長くそこにはいられないけど)だという。 同様にGwen Stacy / Spider-Woman - 彼女はMilesが学校でぽーっとなった彼女にそっくり – とか、明らかに日本のアニメから来ているKimiko Glenn / Peni Parker - ロボット連れてる – やや恥ずかしい - とか、かくかくした白黒カートゥーンのSpider-Man Noir (Nicolas Cage)とか、これもカートゥーンキャラのPeter Porker / Spider-Ham – おまえ豚っていうよりヒョウタンツギだろ – とかがやってきて、壊された継ぎ目をなんとかしないと彼ら自身も彼らの世界もやばいことになるのでみんなで協力して戦うことにする。
でも彼らは外次元から来たヒーローなのでたまに力が出せなくなったり戻れなくなったら死んでしまうので、結局はおおもとの世界にいるMilesに踏んばってもらうしかないのだが、彼はまだ自らのパワーに目覚めたばかりで力不足だし自信もないし、ということで5人のSpidersからも見切りつけられて、The Kingpinとその一味は容赦なくがんがん攻めてくるしどうなっちゃうのか。
Spider-Manのそもそものテーマである青年が肉親の死や葛藤の果てに自身の力に目覚める - "with great power comes great responsibility" のラインはそのままに、というかそこからアニメーションにしかできないようなところに踏みこんで – いまのアニメーションの最前線がどうなってるのか知らないで書いているけど - 実写版のシリーズとは異なる深みとカタルシスをもたらす作品に仕上がっている。
次元の異なる世界にそれぞれ異なるヒーローがいて、それぞれの戦いを繰り広げている、というのはコミック本の世界ではそういうもんだと思ってきたし、これまでのヒーローものでも怪獣ものでも、作られてきた世界は互いに連続したり繋がったりしていない - いろんなバージョン、何代目のなにとか、舞台背景も現代から近未来からいろいろで - そこをあえて繋いで結んで韻(verse)を踏んでみたらどうなるのか、というのがこのアニメがやってみたことで、これはアニメについてのアニメでもあるし、アニメというよりはグラフィティのアプローチでアニメを再構築してみた、ということなのかも知れないし、どっちにしてもこの手があったんだぜ、でぶっぱなしてくる威勢のよさがある。
他方でこれは実写と見分けのつかないような最近のリアルで流麗なアニメとはぜんぜん違って、画面のちかちかざらざらとかダイナミックで粗っぽい繋ぎやジャンプは年寄りには見ていてきついかもしれない、けどそこを絶え間なくどかどか鳴っている音楽(割とオールドスクールなとこもあるので安心して)が補完してくれて、どっちにしても極めてパワフル。 Milesと同年代の子が見たらめちゃくちゃ鳥肌たちまくりなのではないか。
こうしてみるとSpider-Manの世界って、ビルの谷間に糸を張って自在に飛び回るところも含めて、アメリカの若者文化の根幹にあるなんかなのかもしれない、とか改めて。それをコミック本から立ちあがったMarvelが原点に戻ったかのようにダイナミックに動いて暴れる「コミック」にしようとしている。
あとこれ、Avengersの次のプロットにも繋がるとこだよね。あんなふうになってしまった世界の彼らを救うのが蟻とか蜘蛛とかの虫たちって、おもしろいねえ。
Stan Leeさんは(声も含めて)きちんと出てくるのでご安心を。
あと、メイおばさんの声はLily Tomlinで、おばさんものすごくかっこいいの。実写でもやればいいのにな。
イブの晩は気がついたら夜寝してて、起きたらBBC2でTop Of The Popsのクリスマスソング特集をやっていた。 The Bluebells “Young at Heart” が流れて、The Pretendersが流れて、ABBAの”Chiquitita”がきて、Wham!なんかもちろんきて、”Fairytale of New York”はあたりまえで、”Happy Xmas (War Is Over)”に続いた”Do They Know It's Christmas?”で終わりかな、と思ったらこれで終わると思うなよ、ってRoy Woodの”I Wish It Could Be Christmas Everyday”で締める構成がすばらしかった。
これに繋ぐつもりなのか、このすぐ後にBBC1ではあの傑作 “Man Up” (2015)をやっていて最高としか言いようがない。Lake BellとSimon Peggが最初にデートする川べりはBFIの側のとこなのね。 ほぼ毎日の通学路のとこ。
25日は、電車もバスも動かない日なので家でだらだら過ごすしかなくて、TVで流れていたいつのだかわからないKylieのクリスマスライブのを見たりしてた。 “2000 Miles”をやってくれてわー、ってなったらChrissie Hyndeが出てきて一緒に歌ってくれる。
Film4のチャンネルではトトロ(英語吹替版)やってる。
年末に会社から強いられたり出なきゃいけなかったりする飲み会って、会社はいって何十年経っても、働く国や会社が変わっても、相変わらずいやいや園状態で、そういうのでぐったりした後に半べそかきながらこういうのに逃げこむの。
最初はゲームかなんかに連動したアニメかなんかかと思っていたのだが、これはそうではないちゃんとしたMarvelのプロダクションで、レビューも評判よいみたいだから、程度で。
Queens(だよね?)に暮らすMiles Moralesは新しくレベルの高い学校に行くのに相当焦ってカリカリしてて、でもパパママはだいじょうぶ期待してるし愛してるしか言わなくて、そういう不安だの将来だのについて尊敬しているAaron叔父さん (Mahershala Ali)と地下鉄の穴の奥のほうの場所で落書きしながら喋っていたら変なクモに噛まれて、その日から自分の体の様子がおかしくなって、おかしくなった感覚がPeter Parker (Chris Pine) / Spider-Manと悪党The Kingpinが次元の壁をぶっこわそうとしている現場に導いて、でも彼の見ている前でSpider-Manは殺されちゃって、NYの町全体がどうしようやばいぞ、になる。
暫くするとどこからか髪の色が違ってお腹も出ててややおっさんぽいPeter B. Parker (Jake Johnson)ていうSpider-ManがMilesの元に現れて、要は次元の壁が壊れて穴があいたとこから来た別次元のやつ(次元が違うので長くそこにはいられないけど)だという。 同様にGwen Stacy / Spider-Woman - 彼女はMilesが学校でぽーっとなった彼女にそっくり – とか、明らかに日本のアニメから来ているKimiko Glenn / Peni Parker - ロボット連れてる – やや恥ずかしい - とか、かくかくした白黒カートゥーンのSpider-Man Noir (Nicolas Cage)とか、これもカートゥーンキャラのPeter Porker / Spider-Ham – おまえ豚っていうよりヒョウタンツギだろ – とかがやってきて、壊された継ぎ目をなんとかしないと彼ら自身も彼らの世界もやばいことになるのでみんなで協力して戦うことにする。
でも彼らは外次元から来たヒーローなのでたまに力が出せなくなったり戻れなくなったら死んでしまうので、結局はおおもとの世界にいるMilesに踏んばってもらうしかないのだが、彼はまだ自らのパワーに目覚めたばかりで力不足だし自信もないし、ということで5人のSpidersからも見切りつけられて、The Kingpinとその一味は容赦なくがんがん攻めてくるしどうなっちゃうのか。
Spider-Manのそもそものテーマである青年が肉親の死や葛藤の果てに自身の力に目覚める - "with great power comes great responsibility" のラインはそのままに、というかそこからアニメーションにしかできないようなところに踏みこんで – いまのアニメーションの最前線がどうなってるのか知らないで書いているけど - 実写版のシリーズとは異なる深みとカタルシスをもたらす作品に仕上がっている。
次元の異なる世界にそれぞれ異なるヒーローがいて、それぞれの戦いを繰り広げている、というのはコミック本の世界ではそういうもんだと思ってきたし、これまでのヒーローものでも怪獣ものでも、作られてきた世界は互いに連続したり繋がったりしていない - いろんなバージョン、何代目のなにとか、舞台背景も現代から近未来からいろいろで - そこをあえて繋いで結んで韻(verse)を踏んでみたらどうなるのか、というのがこのアニメがやってみたことで、これはアニメについてのアニメでもあるし、アニメというよりはグラフィティのアプローチでアニメを再構築してみた、ということなのかも知れないし、どっちにしてもこの手があったんだぜ、でぶっぱなしてくる威勢のよさがある。
他方でこれは実写と見分けのつかないような最近のリアルで流麗なアニメとはぜんぜん違って、画面のちかちかざらざらとかダイナミックで粗っぽい繋ぎやジャンプは年寄りには見ていてきついかもしれない、けどそこを絶え間なくどかどか鳴っている音楽(割とオールドスクールなとこもあるので安心して)が補完してくれて、どっちにしても極めてパワフル。 Milesと同年代の子が見たらめちゃくちゃ鳥肌たちまくりなのではないか。
こうしてみるとSpider-Manの世界って、ビルの谷間に糸を張って自在に飛び回るところも含めて、アメリカの若者文化の根幹にあるなんかなのかもしれない、とか改めて。それをコミック本から立ちあがったMarvelが原点に戻ったかのようにダイナミックに動いて暴れる「コミック」にしようとしている。
あとこれ、Avengersの次のプロットにも繋がるとこだよね。あんなふうになってしまった世界の彼らを救うのが蟻とか蜘蛛とかの虫たちって、おもしろいねえ。
Stan Leeさんは(声も含めて)きちんと出てくるのでご安心を。
あと、メイおばさんの声はLily Tomlinで、おばさんものすごくかっこいいの。実写でもやればいいのにな。
イブの晩は気がついたら夜寝してて、起きたらBBC2でTop Of The Popsのクリスマスソング特集をやっていた。 The Bluebells “Young at Heart” が流れて、The Pretendersが流れて、ABBAの”Chiquitita”がきて、Wham!なんかもちろんきて、”Fairytale of New York”はあたりまえで、”Happy Xmas (War Is Over)”に続いた”Do They Know It's Christmas?”で終わりかな、と思ったらこれで終わると思うなよ、ってRoy Woodの”I Wish It Could Be Christmas Everyday”で締める構成がすばらしかった。
これに繋ぐつもりなのか、このすぐ後にBBC1ではあの傑作 “Man Up” (2015)をやっていて最高としか言いようがない。Lake BellとSimon Peggが最初にデートする川べりはBFIの側のとこなのね。 ほぼ毎日の通学路のとこ。
25日は、電車もバスも動かない日なので家でだらだら過ごすしかなくて、TVで流れていたいつのだかわからないKylieのクリスマスライブのを見たりしてた。 “2000 Miles”をやってくれてわー、ってなったらChrissie Hyndeが出てきて一緒に歌ってくれる。
Film4のチャンネルではトトロ(英語吹替版)やってる。
12.24.2018
[film] It’s a Wonderful Life (1946)
英国に来て2回目のクリスマスを迎えることができて、ロンドンでこの時期に流れる映画の方はどこでも昨年と同じようなクリスマス映画の特集があって、今年はいつものに加えて”Carol” (2015)とか”Elf” (2003) とかもあって嬉しいのだが、目玉はなんといっても”It’s a Wonderful Life”の4Kリストア版のリバイバルで、BFIでは予告も含めてがんがんかかってて、Prince Charles Cinemaでは35mm版と4Kを交互に流したりしているし、TVでも結構やっているので見ずに済ます方が難しいくらいに人生は素晴らしき哉、なの。
15日の土曜日の夕方、BFIで見ました。もう何回も見ていて、同じような家族向けクラシックであれば”Meet Me in St. Louis” (1944)のが好きだし、James Stewartだったらだんぜん”The Shop Around the Corner” (1940) 『桃色の店』 - の方だと思うし、そんなに激しく愛しているわけでもないのだが、なんか周期を置いて見たくなることがあって、なんとなく。
George Bailey (James Stewart)は幼い頃からいろんな人に出会って揉まれて特にひねくれたり悪くなったりすることもなく大きくなって、美しい妻Mary (Donna Reed)と子供たちにも恵まれ、町の人はみんな彼を知っているし父から継いだ金貸し業で大成功とは言わないまでもそこそこの幸せな家庭を築くことができたのだが、ちょっとした失敗で転がり落ちてお先真っ暗のやけくそになり、自分なんか生まれてこなければよかったんだ、って叫んだらそれを銀河のどっかの星雲で聞いていた天使ワナビーのおっさんが天使のハネ欲しさに、ではやってみやしょう、って彼を生まれなかったことにしてみたら、そこでGeorgeが見たものは... っていうSFふりかけ付きの人情ごった煮三段お重弁当、なの。
世の中のだれもがみんな幸せな顔して楽しそうにしているもんだから自分なんかいっそ... のどツボに陥りがちなこんな時期だからこそいやいやそんなことはないのできそこないの天使だろうがサンタだろうがちゃんとそんなあなたのことを気にかけているのだしあなたがいないことになった世界はあなたが見たことも想像したこともないような世界になってしまう - これは考えてみればあたりまえのことだけど - のですぞ、って。
そうはいってもGeorgeを地獄に陥れるのも救いあげるのも結局はお金なのよね、という、とってもプロテスタンティズムと資本主義の精神に貫かれた、世知辛さ紙一重紙風船、の一本で、その精神ときたら宇宙の果て星雲の鍋の底まで浸透しちゃっている。
Frank Capraはそういう欺瞞も残酷さもすべてわかった上でこのクリスマスツリーとケーキを飾りたてて、我々もそれをわかっていながらラストの家族の幸せな笑顔(+そのありよう)にじーんとしてしまって、その奇妙な光景を”It’ a Wonderful Life”なんて呼んでしまって、それでいいじゃん、とか思えてしまうのだから、素晴らしい人生なんて案外ちょろいもんじゃねえの、と言ってしまうことだってできやしないだろうか。
上映が終わるとみんな拍手して、誰かが”Merry Christmas!!”て声をあげると、みんなもそれに応えて、ああクリスマスがきたんだわ、って家路につきましたとさ。
もう1本、BFIのひとはこれをクリスマス映画だって言ってた”All That Heaven Allows” (1955)も12日の水曜日に見た。
これもBAMとかでは何度も見ているのだが、上映前のイントロでは、メロドラマのフォーミュラを極めれば極めるほど郊外の富裕層と田舎の自由な若者の間の醜悪でグロテスクな高慢と偏見が露呈してくる、ということをサークは極めて作為をもって描いていて、この点でものすごく政治的なドラマである、という指摘と、それはそうとして画面設計とか時計台とかすっごくおもしろいので楽しんでいってね、って。 うんうん。
最後に鹿さんが現れるとこでは、みんなでわあ、って拍手して、ここのとこは確かにクリスマスだよな、って変に納得した。
クリスマスの音楽は、夏前に家のCDプレイヤーがCDを読み込んでくれなくなってアナログしか聴けない状態になってしまったのだが、Arethaのクリスマスソング集は聴いて、ついにアナログで出たSufjanの”Songs for Christmas”の箱を買うべきか悩んでいるうちにクリスマスが来ちゃったし。
今年の1曲はなんといっても動画で見たSaoirse RonanとJimmy Fallonのデュオによる”Fairytale of New York”かな。
この曲、いまだに歌詞の不適切用語を巡ってあれこれ言われたりしているのね。それだけクラシックになってきたってことなのかしら。
22-23の週末は電車でパリに行った。オペラ座バレエの「椿姫」に痺れてオルセーのピカソとルノワールを再見して、あとは年末の買い出し、とか思ってたのだが、2日目の天候が最悪で目がまわってぜんぜん動けなくて、そういえばすでにThe Second Shelfの本屋で相当散財してしまったりしていたのでおとなしくすることにした。
これからそこで買った小さな本 - Daphne Du Maurierの”Happy Christmas”を読みます。
みなさまもよいクリスマスと年の瀬を!
15日の土曜日の夕方、BFIで見ました。もう何回も見ていて、同じような家族向けクラシックであれば”Meet Me in St. Louis” (1944)のが好きだし、James Stewartだったらだんぜん”The Shop Around the Corner” (1940) 『桃色の店』 - の方だと思うし、そんなに激しく愛しているわけでもないのだが、なんか周期を置いて見たくなることがあって、なんとなく。
George Bailey (James Stewart)は幼い頃からいろんな人に出会って揉まれて特にひねくれたり悪くなったりすることもなく大きくなって、美しい妻Mary (Donna Reed)と子供たちにも恵まれ、町の人はみんな彼を知っているし父から継いだ金貸し業で大成功とは言わないまでもそこそこの幸せな家庭を築くことができたのだが、ちょっとした失敗で転がり落ちてお先真っ暗のやけくそになり、自分なんか生まれてこなければよかったんだ、って叫んだらそれを銀河のどっかの星雲で聞いていた天使ワナビーのおっさんが天使のハネ欲しさに、ではやってみやしょう、って彼を生まれなかったことにしてみたら、そこでGeorgeが見たものは... っていうSFふりかけ付きの人情ごった煮三段お重弁当、なの。
世の中のだれもがみんな幸せな顔して楽しそうにしているもんだから自分なんかいっそ... のどツボに陥りがちなこんな時期だからこそいやいやそんなことはないのできそこないの天使だろうがサンタだろうがちゃんとそんなあなたのことを気にかけているのだしあなたがいないことになった世界はあなたが見たことも想像したこともないような世界になってしまう - これは考えてみればあたりまえのことだけど - のですぞ、って。
そうはいってもGeorgeを地獄に陥れるのも救いあげるのも結局はお金なのよね、という、とってもプロテスタンティズムと資本主義の精神に貫かれた、世知辛さ紙一重紙風船、の一本で、その精神ときたら宇宙の果て星雲の鍋の底まで浸透しちゃっている。
Frank Capraはそういう欺瞞も残酷さもすべてわかった上でこのクリスマスツリーとケーキを飾りたてて、我々もそれをわかっていながらラストの家族の幸せな笑顔(+そのありよう)にじーんとしてしまって、その奇妙な光景を”It’ a Wonderful Life”なんて呼んでしまって、それでいいじゃん、とか思えてしまうのだから、素晴らしい人生なんて案外ちょろいもんじゃねえの、と言ってしまうことだってできやしないだろうか。
上映が終わるとみんな拍手して、誰かが”Merry Christmas!!”て声をあげると、みんなもそれに応えて、ああクリスマスがきたんだわ、って家路につきましたとさ。
もう1本、BFIのひとはこれをクリスマス映画だって言ってた”All That Heaven Allows” (1955)も12日の水曜日に見た。
これもBAMとかでは何度も見ているのだが、上映前のイントロでは、メロドラマのフォーミュラを極めれば極めるほど郊外の富裕層と田舎の自由な若者の間の醜悪でグロテスクな高慢と偏見が露呈してくる、ということをサークは極めて作為をもって描いていて、この点でものすごく政治的なドラマである、という指摘と、それはそうとして画面設計とか時計台とかすっごくおもしろいので楽しんでいってね、って。 うんうん。
最後に鹿さんが現れるとこでは、みんなでわあ、って拍手して、ここのとこは確かにクリスマスだよな、って変に納得した。
クリスマスの音楽は、夏前に家のCDプレイヤーがCDを読み込んでくれなくなってアナログしか聴けない状態になってしまったのだが、Arethaのクリスマスソング集は聴いて、ついにアナログで出たSufjanの”Songs for Christmas”の箱を買うべきか悩んでいるうちにクリスマスが来ちゃったし。
今年の1曲はなんといっても動画で見たSaoirse RonanとJimmy Fallonのデュオによる”Fairytale of New York”かな。
この曲、いまだに歌詞の不適切用語を巡ってあれこれ言われたりしているのね。それだけクラシックになってきたってことなのかしら。
22-23の週末は電車でパリに行った。オペラ座バレエの「椿姫」に痺れてオルセーのピカソとルノワールを再見して、あとは年末の買い出し、とか思ってたのだが、2日目の天候が最悪で目がまわってぜんぜん動けなくて、そういえばすでにThe Second Shelfの本屋で相当散財してしまったりしていたのでおとなしくすることにした。
これからそこで買った小さな本 - Daphne Du Maurierの”Happy Christmas”を読みます。
みなさまもよいクリスマスと年の瀬を!
12.22.2018
[film] Aquaman (2018)
16日、日曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 久々のIMAX 3Dで、これくらいはでっかいとこで見ないとな、って気合いいれた。
Aquaman – 水男。まずこの名前で思い浮かべるのはHellboyのシリーズに出てくるAbe Sapienみたいなやつとか”The Shape of Water” (2017)の半魚人とかで、Jason Momoaのじゃないよね。なんかただのお祭り漁師みたいだし、バカそうなとこもいっぱいあるので、同じヒーローものでも、つい”Machete”みたいな不死身キャラとして見てしまう(そしてそれでええ)。
アメリカの東海岸で、嵐の日の岩場にNicole Kidmanが打ち上げられてて、それを灯台守が拾って介抱したら子供ができて、それがやがてAquamanになるArthur Curry (Jason Momoa)で、彼がでっかくなって暴れるようになったところでMera(Amber Heard)が現れて海の世界が大変なことになっているから助けて、って言われて海の覇権をめぐる戦い(含.人間界) - もう我慢できねえから人間界にもなだれこむぞなめんな、ていうのに巻き込まれていく。筋はこれだけ、こんなもんなのだが、後半はいったんぼこぼこにされた彼が、必殺の武器 -三つ又の銛を探して砂漠からシシリーからいろんなとこで大冒険とか追っかけっこをして、とにかくそいつを手に入れたらタコとイカとカニとサメと龍が一緒になったでっかい化け物みたいのも横についてきて、無敵になって吠えるの。
たぶん、アーサーって名前とか伝説の武器がどうのとか、神話をベースにいろいろ考えてみちゃったのだろうが、ぜんたいとしては海のようにスケールがでっかいだけ、宇宙に飛んでいかないのが不思議なくらい、それと悪玉か善玉かしかないキャラと水産動物のみでぶっとばして大騒ぎで、それでじゅうぶんにお得なかんじはした。でっかいばかりで中味は大スカだった”The MEG” (2018)とはえらい違いで、お正月映画としてもめでたくていいかも。
アクションも、水のなかであんな動けるかよ、てみんな言うかもしれないけど、あんな動けるもんだから、ていう道理で地上でも水中でも爆裂してて止まらなくて、DCユニバースの殴り合いって、コミックとしか言いようがないバカのスケール感と破壊力があって素敵だと思うのだが、Aquamanのあの風貌でぶちかますもんだから更に豪快で、ただのプロレスみたい、とは言わない。 そのうちどっかでThorと対決させてみたい。 あのとんかちと銛の戦い。
Nicole Kidmanがママと聞いて、どうせすぐいなくなっちゃうだろうと思ってたらずっといたのでびっくりした。
あと、Willem Dafoeが出てきたのでまた腹黒いやつかと思ったらそんなでもなかったので更にびっくりした。
海から出てきたNicoleを見たら”Splash” (1984)を思い出して、これって”Splash”の後日談になってもおかしくなかったのかも。 でもTom HanksとDaryl HannahのふたりからJason Momoaは産まれない気がする。
海のなかでもみんな服着てるのね。洗濯とか大変じゃないのか? とか、あの長髪切ればもっと動けるのにな、とか、そういうしょうもないことばかり思ってしまったのも、それはそれで。
日本のプロモーションは辺野古でやってほしい。ていうか、辺野古の海にあんなことした今の日本にAquamanすごいぞ、とか盛りあげる資格なんてないから。 ほんっとにあたまきてるんだから。
Aquaman – 水男。まずこの名前で思い浮かべるのはHellboyのシリーズに出てくるAbe Sapienみたいなやつとか”The Shape of Water” (2017)の半魚人とかで、Jason Momoaのじゃないよね。なんかただのお祭り漁師みたいだし、バカそうなとこもいっぱいあるので、同じヒーローものでも、つい”Machete”みたいな不死身キャラとして見てしまう(そしてそれでええ)。
アメリカの東海岸で、嵐の日の岩場にNicole Kidmanが打ち上げられてて、それを灯台守が拾って介抱したら子供ができて、それがやがてAquamanになるArthur Curry (Jason Momoa)で、彼がでっかくなって暴れるようになったところでMera(Amber Heard)が現れて海の世界が大変なことになっているから助けて、って言われて海の覇権をめぐる戦い(含.人間界) - もう我慢できねえから人間界にもなだれこむぞなめんな、ていうのに巻き込まれていく。筋はこれだけ、こんなもんなのだが、後半はいったんぼこぼこにされた彼が、必殺の武器 -三つ又の銛を探して砂漠からシシリーからいろんなとこで大冒険とか追っかけっこをして、とにかくそいつを手に入れたらタコとイカとカニとサメと龍が一緒になったでっかい化け物みたいのも横についてきて、無敵になって吠えるの。
たぶん、アーサーって名前とか伝説の武器がどうのとか、神話をベースにいろいろ考えてみちゃったのだろうが、ぜんたいとしては海のようにスケールがでっかいだけ、宇宙に飛んでいかないのが不思議なくらい、それと悪玉か善玉かしかないキャラと水産動物のみでぶっとばして大騒ぎで、それでじゅうぶんにお得なかんじはした。でっかいばかりで中味は大スカだった”The MEG” (2018)とはえらい違いで、お正月映画としてもめでたくていいかも。
アクションも、水のなかであんな動けるかよ、てみんな言うかもしれないけど、あんな動けるもんだから、ていう道理で地上でも水中でも爆裂してて止まらなくて、DCユニバースの殴り合いって、コミックとしか言いようがないバカのスケール感と破壊力があって素敵だと思うのだが、Aquamanのあの風貌でぶちかますもんだから更に豪快で、ただのプロレスみたい、とは言わない。 そのうちどっかでThorと対決させてみたい。 あのとんかちと銛の戦い。
Nicole Kidmanがママと聞いて、どうせすぐいなくなっちゃうだろうと思ってたらずっといたのでびっくりした。
あと、Willem Dafoeが出てきたのでまた腹黒いやつかと思ったらそんなでもなかったので更にびっくりした。
海から出てきたNicoleを見たら”Splash” (1984)を思い出して、これって”Splash”の後日談になってもおかしくなかったのかも。 でもTom HanksとDaryl HannahのふたりからJason Momoaは産まれない気がする。
海のなかでもみんな服着てるのね。洗濯とか大変じゃないのか? とか、あの長髪切ればもっと動けるのにな、とか、そういうしょうもないことばかり思ってしまったのも、それはそれで。
日本のプロモーションは辺野古でやってほしい。ていうか、辺野古の海にあんなことした今の日本にAquamanすごいぞ、とか盛りあげる資格なんてないから。 ほんっとにあたまきてるんだから。
12.21.2018
[film] Coming Home (1978)
8日の土曜日の夕方、BFIのJane Fonda - 今日12月21日が誕生日ですって! - 特集で見ました。35mm上映で『帰郷』。
BFIは自分にとってほぼ学校とか塾みたいな存在になっているのだが、この辺の60年代後半から70年代の「名作」を35mmで見れるのは嬉しい。ぜんぜん書けていないけど、最近見たのだと、”A New Leaf” (1971)とか、“What's Up, Doc?” (1972)とか、”Poor Cow” (1967)とか、こういうのってTSUTAYAとかのDVDではなくて、35mm上映で見るのが正しいとしか言いようがないの。フィルムの傷みや退色の具合も含めてほんとに美しくて、もちろん、何故それを美しいと思えてしまうのかについて、考える意味はあると思うけど、少なくともデジタル化で失われてしまうものってある。ということってデジタル化されてしまった後ではわからない。追えない。
今年ドキュメンタリー映画 - “Hal” が公開されたHal Ashbyの監督作で、Jane Fonda自身のプロダクションからリリースされた。
冒頭にLuke (Jon Voight)を含む戦地から怪我や障害で戻ってきた元軍人たちが病院内で議論しているところがあって、続いて黙々とランニングしているばりばり現役軍人ぽいBob (Bruce Dern)がいて、その妻がSally (Jane Fonda)で、Bobが戦地に赴く前の晩から見送りまで、そんなに湿っていなくて淡々と見送った後に、戻ってきた軍人たちのいる病院でのボランティアの介護を申し出る。
お国のために戦地に行ってしまった夫の思いに少しでも寄り添えれば、くらいの気持ちで国のために戦地から戻ってきた軍人たちのケアに手を付けてみたSallyだったが、患者たちの惨状・荒れ具合ときたらひどいもので、自分の認識の甘さを思い知らされて、特に下半身不随で横たわった状態でしか動けないLukeとは初めは衝突して、のちにだんだん近づいていって、そうすると彼の表情も変わって車椅子でいろいろ動いていけるようになる。
見る前は70年代アメリカの典型的な反戦映画、ってイメージを持っていたのだが、Boy Meets Girlのお話しに、それでも間に挟まってくる「戦争」をなんなのこれ? って言っているようなかんじ。 Bobからは頻繁に手紙が来て、彼の休暇の際、香港に会いに行ったりもするのだが、Lukeと会うようになってからはなんかうっとおしくなっていく。 それはBobのことを心配するのに疲れた、というよりもLukeの正論 - 国のためと思って戦って結果こんなんなったけど本当にバカだった(自分もどいつもこいつも) – ていうところに落ちて、Bobが無事に戻ってきてもちっとも嬉しくない、むしろ浮かれて更に偉そうになっているのでうんざりで。
というのをメロドラマ的な密なうねりの中で描くのではなく、当時の音楽(どまんなか)を背景にスケッチとして散らしていって、戦争が変えてしまった”Home”のありようについて考えさせる。そしてそれは湾岸 ~ イラク戦争を経てもぜんぜん変わっていない、むしろPTSDのような後遺症、症例として、特別なケアを必要とする重い「病気」として隅に押しやって、そうやって一向に止まる気配を見せないアメリカの軍国主義についても –。
というのとは別に、いろんな戸惑いを全身でひっかぶってつんのめりあたふたし、それでも人を愛さないと、ってLukeのところに走るSallyと、それを見守りつつ自らも変わっていくLuke(と我々)がいて、その過程のなかに”Home”としてのアメリカ、が見えてくることを狙ったのだと思うのだが、とにかくこの作品のJane Fondaは途中で素敵に変貌する髪の毛とかも含めて、いいなー、って。
これの後にBFIのコメディ特集で、”Alternative Comedy: The Early Years”ていうのがあった。
11月末にこの特集で見た80年代初のTVプログラム - “The Young Ones”、その更に前にBBCやITVでやっていた30分枠のコメディ番組を3本、番組のProducerだったPaul Jacksonさんのトークの後に見る。 どれも今のSNLのような観客が囲むところでのスタンダップコメディに生のバンド演奏が入って、”The Young Ones”に出ていた俳優さんたちも登場する。 笑いのネタとしては今見てもそんなにおもしろいものではないのだが、この番組を見て、これなら自分もやれるかも、ってコメディを志す若者が - ちょうど当時のパンクと同じように - いっぱい出たのだと。 なるほどねえ、だった。
ところで、The Guardian紙のBest Films of 2018、1位はやはり”Roma”でした。NYではこれの70mm版を上映するって。すごく見たい。 あと、今年のここの1~4位まではまったく違和感ないかんじかも。
BFIは自分にとってほぼ学校とか塾みたいな存在になっているのだが、この辺の60年代後半から70年代の「名作」を35mmで見れるのは嬉しい。ぜんぜん書けていないけど、最近見たのだと、”A New Leaf” (1971)とか、“What's Up, Doc?” (1972)とか、”Poor Cow” (1967)とか、こういうのってTSUTAYAとかのDVDではなくて、35mm上映で見るのが正しいとしか言いようがないの。フィルムの傷みや退色の具合も含めてほんとに美しくて、もちろん、何故それを美しいと思えてしまうのかについて、考える意味はあると思うけど、少なくともデジタル化で失われてしまうものってある。ということってデジタル化されてしまった後ではわからない。追えない。
今年ドキュメンタリー映画 - “Hal” が公開されたHal Ashbyの監督作で、Jane Fonda自身のプロダクションからリリースされた。
冒頭にLuke (Jon Voight)を含む戦地から怪我や障害で戻ってきた元軍人たちが病院内で議論しているところがあって、続いて黙々とランニングしているばりばり現役軍人ぽいBob (Bruce Dern)がいて、その妻がSally (Jane Fonda)で、Bobが戦地に赴く前の晩から見送りまで、そんなに湿っていなくて淡々と見送った後に、戻ってきた軍人たちのいる病院でのボランティアの介護を申し出る。
お国のために戦地に行ってしまった夫の思いに少しでも寄り添えれば、くらいの気持ちで国のために戦地から戻ってきた軍人たちのケアに手を付けてみたSallyだったが、患者たちの惨状・荒れ具合ときたらひどいもので、自分の認識の甘さを思い知らされて、特に下半身不随で横たわった状態でしか動けないLukeとは初めは衝突して、のちにだんだん近づいていって、そうすると彼の表情も変わって車椅子でいろいろ動いていけるようになる。
見る前は70年代アメリカの典型的な反戦映画、ってイメージを持っていたのだが、Boy Meets Girlのお話しに、それでも間に挟まってくる「戦争」をなんなのこれ? って言っているようなかんじ。 Bobからは頻繁に手紙が来て、彼の休暇の際、香港に会いに行ったりもするのだが、Lukeと会うようになってからはなんかうっとおしくなっていく。 それはBobのことを心配するのに疲れた、というよりもLukeの正論 - 国のためと思って戦って結果こんなんなったけど本当にバカだった(自分もどいつもこいつも) – ていうところに落ちて、Bobが無事に戻ってきてもちっとも嬉しくない、むしろ浮かれて更に偉そうになっているのでうんざりで。
というのをメロドラマ的な密なうねりの中で描くのではなく、当時の音楽(どまんなか)を背景にスケッチとして散らしていって、戦争が変えてしまった”Home”のありようについて考えさせる。そしてそれは湾岸 ~ イラク戦争を経てもぜんぜん変わっていない、むしろPTSDのような後遺症、症例として、特別なケアを必要とする重い「病気」として隅に押しやって、そうやって一向に止まる気配を見せないアメリカの軍国主義についても –。
というのとは別に、いろんな戸惑いを全身でひっかぶってつんのめりあたふたし、それでも人を愛さないと、ってLukeのところに走るSallyと、それを見守りつつ自らも変わっていくLuke(と我々)がいて、その過程のなかに”Home”としてのアメリカ、が見えてくることを狙ったのだと思うのだが、とにかくこの作品のJane Fondaは途中で素敵に変貌する髪の毛とかも含めて、いいなー、って。
これの後にBFIのコメディ特集で、”Alternative Comedy: The Early Years”ていうのがあった。
11月末にこの特集で見た80年代初のTVプログラム - “The Young Ones”、その更に前にBBCやITVでやっていた30分枠のコメディ番組を3本、番組のProducerだったPaul Jacksonさんのトークの後に見る。 どれも今のSNLのような観客が囲むところでのスタンダップコメディに生のバンド演奏が入って、”The Young Ones”に出ていた俳優さんたちも登場する。 笑いのネタとしては今見てもそんなにおもしろいものではないのだが、この番組を見て、これなら自分もやれるかも、ってコメディを志す若者が - ちょうど当時のパンクと同じように - いっぱい出たのだと。 なるほどねえ、だった。
ところで、The Guardian紙のBest Films of 2018、1位はやはり”Roma”でした。NYではこれの70mm版を上映するって。すごく見たい。 あと、今年のここの1~4位まではまったく違和感ないかんじかも。
[film] The Old Man and the Gun (2018)
15日の土曜日の午後、CurzonのVictoriaで見ました。 ここんとこ週末はずうっと雨。
日本でようやく公開になったらしい”A Ghost Story” (2017)のDavid Loweryの新作。
”A Ghost Story”のときのトークでは次のPeter Panの企画に取り組んでいて楽しい、と語っていたのだが、こっちが先になったのか。
俳優としてのRobert Redfordの最後の出演作と言われている。
前世紀末のアメリカに実在した銀行強盗+脱獄常習犯の犯罪人生の終わりのほうを2003年にNew Yorker誌に掲載された同名記事を元に映画化したもの。 このタイトルは、ヘミングウェイの『老人と海』 - “The Old Man and the Sea”- から来ているんだよ。たぶん。
初めに帽子を被ったきちんとした身なりの老人- Forrest Tucker (Robert Redford) - がたった一人で銀行に入って、にこやかに窓口のところで挨拶して鞄を渡してなにかを指示し、暫くすると窓口のひとがややこわばった表情でそれを返して、彼はそれを受け取るとすたすた車に戻って去っていく。やられた方は困惑しているものの、とにかく紳士だったのでびっくり。
というのが彼の基本的なやり口で、最初にちらっとスーツの上着をめくって銃を見せるだけ、でも極めてジェントルに和やかに振るまって乱暴なことはしない。 大きなヤマの場合はきちんと事前の現地調査をして仲間のDanny GloverとTom Waitsが加わるけど、とにかく静かでオフビートで、でも貰うものは貰うよ、って。
子供たちと銀行に行った時、その現場に居合わせた(ことを彼が出て行ってから突然知った)刑事のJohn Hunt (Casey Affleck)が、仕事でもあるのだが興味を持って彼の影を追い始める(けどやがてFBIに取りあげられてしまう)、という流れと、Jewel (Sissy Spacek)という馬を飼ってひとりで暮している堅気の女性との間の、強盗と同じくらいどっちに転ぶかわからない恋(なのかな、あれ)の行方と。”A Ghost Story”にもあった時間をぴょんぴょん跨いで紡いでいく93分間の魔法、というかどろぼう。
David Loweryの悪漢モノ – “Ain't Them Bodies Saints” (2013)にあったひりひりはらはら擦り切れていくような緊張感はなくて、とてもソフトに時々ユーモラスに、画面の柔らかな光のトーンも含めて彼のかつての”Butch Cassidy and the Sundance Kid” (1969)や”The Sting” (1973)にあったスター/強盗の眩い輝きがそのまま隅々まで満ちていて、ずっと眺めていたくなる。 Johnが資料から追っていく彼の過去 - 脱獄を繰り返していた時期の映像には彼の昔の映画からのクリップが入っていたり、つまりRobert RedfordのSwan Songということなのだろうが、それにしてもかっこよすぎるしまだまだもったいないとしか言いようがない。70年代の彼のファンが見たらぼろぼろ泣いちゃうような、そういう笑顔がいっぱい。
同じ老人でもClint Eastwoodの俳優としての出演作(最新作はどちらも犯罪者をやっているのね)との違いなどを考えてしまうのだが、そんなことよりSissy Spacekとふたりで一緒に歩いたりテーブルで向かい合ったりしているとこがとにかくすばらしくよくて、そうかEastwoodは別にひとりでいていいのよね、とか思った。 のと、このふたりの間のケミストリは、Rooney MaraとCasey Affleckの間にあったのと同じやつなのか違うやつなのか、とか。RooneyとCaseyの間の眼差しって、行かないで消えないで、っていう刹那に溢れたやつだったけど、Sissy SpacekとRobert Redfordのって、ただそこにいてくれればいいわ、っていうやつなのかも。それがふたりの老人の間で交わされる、ってとこに月並みだけどやられてしまうのね。
ここんとこのRobert Redfordって“Captain America: The Winter Soldier“(2014)のクールな悪政治家とか”Pete's Dragon” (2016)のよいおじいちゃんとか、そりゃ悪くないけどなんか、だった気がするが、この作品のForrest Tuckerは - これだよこれ、としか言いようがない。最後のほうで馬に跨がるところなんてさー。
果たしてTom Cruiseは老いてここまでのところにいけるのかしら。
日本でようやく公開になったらしい”A Ghost Story” (2017)のDavid Loweryの新作。
”A Ghost Story”のときのトークでは次のPeter Panの企画に取り組んでいて楽しい、と語っていたのだが、こっちが先になったのか。
俳優としてのRobert Redfordの最後の出演作と言われている。
前世紀末のアメリカに実在した銀行強盗+脱獄常習犯の犯罪人生の終わりのほうを2003年にNew Yorker誌に掲載された同名記事を元に映画化したもの。 このタイトルは、ヘミングウェイの『老人と海』 - “The Old Man and the Sea”- から来ているんだよ。たぶん。
初めに帽子を被ったきちんとした身なりの老人- Forrest Tucker (Robert Redford) - がたった一人で銀行に入って、にこやかに窓口のところで挨拶して鞄を渡してなにかを指示し、暫くすると窓口のひとがややこわばった表情でそれを返して、彼はそれを受け取るとすたすた車に戻って去っていく。やられた方は困惑しているものの、とにかく紳士だったのでびっくり。
というのが彼の基本的なやり口で、最初にちらっとスーツの上着をめくって銃を見せるだけ、でも極めてジェントルに和やかに振るまって乱暴なことはしない。 大きなヤマの場合はきちんと事前の現地調査をして仲間のDanny GloverとTom Waitsが加わるけど、とにかく静かでオフビートで、でも貰うものは貰うよ、って。
子供たちと銀行に行った時、その現場に居合わせた(ことを彼が出て行ってから突然知った)刑事のJohn Hunt (Casey Affleck)が、仕事でもあるのだが興味を持って彼の影を追い始める(けどやがてFBIに取りあげられてしまう)、という流れと、Jewel (Sissy Spacek)という馬を飼ってひとりで暮している堅気の女性との間の、強盗と同じくらいどっちに転ぶかわからない恋(なのかな、あれ)の行方と。”A Ghost Story”にもあった時間をぴょんぴょん跨いで紡いでいく93分間の魔法、というかどろぼう。
David Loweryの悪漢モノ – “Ain't Them Bodies Saints” (2013)にあったひりひりはらはら擦り切れていくような緊張感はなくて、とてもソフトに時々ユーモラスに、画面の柔らかな光のトーンも含めて彼のかつての”Butch Cassidy and the Sundance Kid” (1969)や”The Sting” (1973)にあったスター/強盗の眩い輝きがそのまま隅々まで満ちていて、ずっと眺めていたくなる。 Johnが資料から追っていく彼の過去 - 脱獄を繰り返していた時期の映像には彼の昔の映画からのクリップが入っていたり、つまりRobert RedfordのSwan Songということなのだろうが、それにしてもかっこよすぎるしまだまだもったいないとしか言いようがない。70年代の彼のファンが見たらぼろぼろ泣いちゃうような、そういう笑顔がいっぱい。
同じ老人でもClint Eastwoodの俳優としての出演作(最新作はどちらも犯罪者をやっているのね)との違いなどを考えてしまうのだが、そんなことよりSissy Spacekとふたりで一緒に歩いたりテーブルで向かい合ったりしているとこがとにかくすばらしくよくて、そうかEastwoodは別にひとりでいていいのよね、とか思った。 のと、このふたりの間のケミストリは、Rooney MaraとCasey Affleckの間にあったのと同じやつなのか違うやつなのか、とか。RooneyとCaseyの間の眼差しって、行かないで消えないで、っていう刹那に溢れたやつだったけど、Sissy SpacekとRobert Redfordのって、ただそこにいてくれればいいわ、っていうやつなのかも。それがふたりの老人の間で交わされる、ってとこに月並みだけどやられてしまうのね。
ここんとこのRobert Redfordって“Captain America: The Winter Soldier“(2014)のクールな悪政治家とか”Pete's Dragon” (2016)のよいおじいちゃんとか、そりゃ悪くないけどなんか、だった気がするが、この作品のForrest Tuckerは - これだよこれ、としか言いようがない。最後のほうで馬に跨がるところなんてさー。
果たしてTom Cruiseは老いてここまでのところにいけるのかしら。
12.20.2018
[film] The Apartment (1960)
1日、土曜日の午後にBFIのComedy Genius特集で見ました。『アパートの鍵貸します』
少し前に” Some Like It Hot” (1959)の4Kリストア版のリバイバルをやってて(←見れなかった。こっちのが見たかったのに)、それに続いての4K版のリバイバル。 これ、昔にアストリアのMoving Imageでやったときに行ったのだが半分以上寝てしまったやつなので、ほぼ初めてだったかも。 Christmas Rom-Comでもあるのね。
なんかBilly Wilderって少し上の代の映画評論家みたいな偉そうなじじい共がみんなしたり顔で誉めたり勧めてきたりしている印象があって反発してちゃんと見ていなかったりする。Wilder見るならLubitsch見るわ見たいわ、っていうのもあるし。
上映前に配布されるプログラムノートにはCameron Croweが1999年にThe Guardian紙に書いたものの抜粋(?)が。
イントロがあって、これのアイデアのおお元は1945年の英国映画 - Noël Coward - David Leanによる”Brief Encounter” - 『逢びき』なのですぞ、とかなんとか。
NYのでっかい保険会社で会計事務をやっている"Bud" Baxter (Jack Lemmon)は自分の将来の出世の約束と引き換えに4人くらいの会社の上の人たちがいろんな逢びきする用にアッパーウェストの自分の(賃貸)アパートの部屋を貸してて(スケジュール帳で管理してる)、やってられんわみたいな毎日なのだが、会社のエレベーターガールのFran (Shirley MacLaine)と少し仲良くなってぽーっとなってきたあたりで直属の上司のJeff (Fred MacMurray)から部屋を貸して、って言われ、しかもそのデートの相手がFranだったのでがーん、てなる。やがてBudはその見返りとして部屋付のマネージャーに昇格して(それでいいのか、で)、他方Franはあれこれ絶望して彼の部屋で睡眠薬を飲んで。
今の会社でそんなことやってはいけませんよ、なことが、上(パワハラ)から下(セクハラ)まで揃い踏みで、こんな内容のやつがよくオスカー作品賞を含む主要5部門を獲ったもんよね、とか思うものの、誰もがTom Hanksの元祖って思うに決まってるJack Lemmonの前のめりつんのめり具合と、猫みたいにしなやかなShirley MacLaineの眼差しと物腰、”Double Indemnity”としか言いようがないFred MacMurrayのおっとり揺るがない腹黒さ、彼らの甘くて酸っぱくて苦いトライアングルは悪くないのと、Budの部屋・キッチンのディテールとそこを動き回る彼が冗談みたいに器用で見事なのと、でもそれらがリアルに見えれば見えるほど、上司に自分のベッドを貸すのなんて例え昼寝だって嫌だし気持ちわるすぎやしないか、ていうかBudとFranの出会いとそこに上司のJeffが絡むRom-comにするのにアパートの鍵貸します設定ってそんなに必要なのかしらん、とか。仕事にも出世にも真面目にアグレッシブに取り組んできた会社一筋の男がエレベーターガールとの出会いから別方向に火が点いちゃってどたばた大騒ぎ、で十分おもしろくできたと思うけど。
でもたぶん、あの時代、成長期にあったアメリカ – NYの片隅 - 夜のアパートの一室(+いろんな隣人のあいだ)であり得たかもしれない恋のドラマとして冗談みたいなとこも含めてそれなりに完成されたものになっている、というのはわかる。そのうねりがChristmasに向かっていくところも、ここしかないかな、って。
これ、今なら男女の役割逆にしてリメイクすればおもしろいのに(もうあったりする?)。
FranがBudの部屋で薬を飲んでぐったりして医者を呼んで、のとこって、”Almost Famous” (2000)でPenny Laneに同じことしているよね。
まあとにかく、Shirley MacLaineが素敵すぎてうっとりするばかり。
あと、テニスラケットでパスタはないよね。でも卓球ラケットでピザはあるかも。
RIP Penny Marshal..
“A League of Their Own” (1992) のエンドロールのとこ、Madonnaの” This Used to Be My Playground”を聴きながらいつも泣いてしまう。何度見たかわからないけど、いっつも。
少し前に” Some Like It Hot” (1959)の4Kリストア版のリバイバルをやってて(←見れなかった。こっちのが見たかったのに)、それに続いての4K版のリバイバル。 これ、昔にアストリアのMoving Imageでやったときに行ったのだが半分以上寝てしまったやつなので、ほぼ初めてだったかも。 Christmas Rom-Comでもあるのね。
なんかBilly Wilderって少し上の代の映画評論家みたいな偉そうなじじい共がみんなしたり顔で誉めたり勧めてきたりしている印象があって反発してちゃんと見ていなかったりする。Wilder見るならLubitsch見るわ見たいわ、っていうのもあるし。
上映前に配布されるプログラムノートにはCameron Croweが1999年にThe Guardian紙に書いたものの抜粋(?)が。
イントロがあって、これのアイデアのおお元は1945年の英国映画 - Noël Coward - David Leanによる”Brief Encounter” - 『逢びき』なのですぞ、とかなんとか。
NYのでっかい保険会社で会計事務をやっている"Bud" Baxter (Jack Lemmon)は自分の将来の出世の約束と引き換えに4人くらいの会社の上の人たちがいろんな逢びきする用にアッパーウェストの自分の(賃貸)アパートの部屋を貸してて(スケジュール帳で管理してる)、やってられんわみたいな毎日なのだが、会社のエレベーターガールのFran (Shirley MacLaine)と少し仲良くなってぽーっとなってきたあたりで直属の上司のJeff (Fred MacMurray)から部屋を貸して、って言われ、しかもそのデートの相手がFranだったのでがーん、てなる。やがてBudはその見返りとして部屋付のマネージャーに昇格して(それでいいのか、で)、他方Franはあれこれ絶望して彼の部屋で睡眠薬を飲んで。
今の会社でそんなことやってはいけませんよ、なことが、上(パワハラ)から下(セクハラ)まで揃い踏みで、こんな内容のやつがよくオスカー作品賞を含む主要5部門を獲ったもんよね、とか思うものの、誰もがTom Hanksの元祖って思うに決まってるJack Lemmonの前のめりつんのめり具合と、猫みたいにしなやかなShirley MacLaineの眼差しと物腰、”Double Indemnity”としか言いようがないFred MacMurrayのおっとり揺るがない腹黒さ、彼らの甘くて酸っぱくて苦いトライアングルは悪くないのと、Budの部屋・キッチンのディテールとそこを動き回る彼が冗談みたいに器用で見事なのと、でもそれらがリアルに見えれば見えるほど、上司に自分のベッドを貸すのなんて例え昼寝だって嫌だし気持ちわるすぎやしないか、ていうかBudとFranの出会いとそこに上司のJeffが絡むRom-comにするのにアパートの鍵貸します設定ってそんなに必要なのかしらん、とか。仕事にも出世にも真面目にアグレッシブに取り組んできた会社一筋の男がエレベーターガールとの出会いから別方向に火が点いちゃってどたばた大騒ぎ、で十分おもしろくできたと思うけど。
でもたぶん、あの時代、成長期にあったアメリカ – NYの片隅 - 夜のアパートの一室(+いろんな隣人のあいだ)であり得たかもしれない恋のドラマとして冗談みたいなとこも含めてそれなりに完成されたものになっている、というのはわかる。そのうねりがChristmasに向かっていくところも、ここしかないかな、って。
これ、今なら男女の役割逆にしてリメイクすればおもしろいのに(もうあったりする?)。
FranがBudの部屋で薬を飲んでぐったりして医者を呼んで、のとこって、”Almost Famous” (2000)でPenny Laneに同じことしているよね。
まあとにかく、Shirley MacLaineが素敵すぎてうっとりするばかり。
あと、テニスラケットでパスタはないよね。でも卓球ラケットでピザはあるかも。
RIP Penny Marshal..
“A League of Their Own” (1992) のエンドロールのとこ、Madonnaの” This Used to Be My Playground”を聴きながらいつも泣いてしまう。何度見たかわからないけど、いっつも。
12.19.2018
[film] Ralph Breaks the Internet (2018)
8日、土曜日の午後、CurzonのVictoriaで見ました。
たいへんに天気の悪い週末で、こういうときに3Dだと絶対目がまわってひどくなるので2Dで。 シアターは大量のガキ共で溢れてて、親がコントロールしていたのかそんなうるさくはなかったのだが、サイレントでいろんな体操だのバトルだのをやりまくってて、上映後の床は散らばったお菓子だの紙くずだのですさまじい状態になっていた。
“Wreck-It Ralph” (2012)から6年後、アーケードゲームの世界にでっかい進歩があるわけがなく、Ralph (John C. Reilly)とVanellope (Sarah Silverman)のふたりは友達で仲良く遊んでいるのだが、いつものレースでちょっと踏み込んで遊びすぎたらそれでエキサイトした客がゲーム台のハンドルを壊してしまう。ヴィンテージの機械なので替えがなくて、eBayで$200くらいなんだけど無理だなあ、と言っているのを聞いたふたりは、eBayってなんだ? インターネットってなんだ? で、インターネットの世界には立ち入り禁止になっているのに、そんなこと言ってられないから、って電源の線からWifiルーターを伝ってインターネットの世界に飛び込んでいく。
いろんなブランドだの商標だの取り決め注意書きで溢れてて、ゲームから詐欺窃盗から出会いから買い物まであらゆる活動が蠢いているインターネットの世界をどう表現するのか、というときに、こういうアニメーションは恰好のカンバスで、こないだの”Ready Player One” (2018)にあったような、あるいはインターネットではないけど死後の世界を表した”Coco” (2018) にあったように、世界の山のように積みあがったごちゃごちゃをまるごと俯瞰した絵、って楽しいな、と。(見返してないけど『サマーウォーズ』(2009)とかって今見たら...)
ここのリアリティを作るとこってお金とパワーがもろにものを言うとこで、”Ready Player One”の仮想世界はスピルバーグのプロダクションだからできたことだと思うし、この作品のだとディズニーだから、なのだろうが、今後のこういうのって、昔の映画村みたいなのを仮想で立ち上げておいて、プロダクションが都度利用料払う、みたいになってくるのではないかしらん。どうでもいいけど。
というかんじで背景のところはふうん、て思うところがあったりしたのだが、インターネットの世界でのあれこれとか出会いは子供でもわかるくらいわかりやすいしなるほどなーだし、あぶない勧誘があったり炎上があったり無頼のレーサー(Gal Gadot – すぐわかるねえ)が現れたり、割とふつう(の”Break”)で、その辺が冗長になった分、前作にあったきゅんてしたり歓喜で溢れたり拳握ったりするとこは薄まっちゃったかなあ。
アーケードゲームの世界で起こることとインターネットの世界で起こることの違い、と言ってしまえばそれまでだけど。
”Wreck-It Ralph”、好きだったのになー。(映画とは直接関係ないけど、インターネットってなんかつまんないのー ってなるその理由とか原因とかの一部とも繋がっていると思う。いまやインターネット上でBreakしたり大騒ぎしたりすることになんのおもしろみがあろうか? というようなとこ)
話題的にはたぶん、ディズニーのプリンセスが一同に登場するとこが盛りあがるのだろうか。どのプリンセスもインターネット上だからか描きこみが緩いかんじでチープだしそこにStar Warsのを絡ませるなんてやめてよ、なのだがわざとやってるんだろうな。
”Brave” (2012)のMeridaが喋ったらみんなで、彼女なに言ってるかわかんないよね ..ってなるとこはちょっとおかしかったけど。
次のはインターネットの中ですっかり汚れて腐れきってしまったVanellopeがアーケードに戻ってくる、でよいのだと思う。
(やっぱ一番おもしろかったのはエンドロールに出てくるうさぎさんで)
たいへんに天気の悪い週末で、こういうときに3Dだと絶対目がまわってひどくなるので2Dで。 シアターは大量のガキ共で溢れてて、親がコントロールしていたのかそんなうるさくはなかったのだが、サイレントでいろんな体操だのバトルだのをやりまくってて、上映後の床は散らばったお菓子だの紙くずだのですさまじい状態になっていた。
“Wreck-It Ralph” (2012)から6年後、アーケードゲームの世界にでっかい進歩があるわけがなく、Ralph (John C. Reilly)とVanellope (Sarah Silverman)のふたりは友達で仲良く遊んでいるのだが、いつものレースでちょっと踏み込んで遊びすぎたらそれでエキサイトした客がゲーム台のハンドルを壊してしまう。ヴィンテージの機械なので替えがなくて、eBayで$200くらいなんだけど無理だなあ、と言っているのを聞いたふたりは、eBayってなんだ? インターネットってなんだ? で、インターネットの世界には立ち入り禁止になっているのに、そんなこと言ってられないから、って電源の線からWifiルーターを伝ってインターネットの世界に飛び込んでいく。
いろんなブランドだの商標だの取り決め注意書きで溢れてて、ゲームから詐欺窃盗から出会いから買い物まであらゆる活動が蠢いているインターネットの世界をどう表現するのか、というときに、こういうアニメーションは恰好のカンバスで、こないだの”Ready Player One” (2018)にあったような、あるいはインターネットではないけど死後の世界を表した”Coco” (2018) にあったように、世界の山のように積みあがったごちゃごちゃをまるごと俯瞰した絵、って楽しいな、と。(見返してないけど『サマーウォーズ』(2009)とかって今見たら...)
ここのリアリティを作るとこってお金とパワーがもろにものを言うとこで、”Ready Player One”の仮想世界はスピルバーグのプロダクションだからできたことだと思うし、この作品のだとディズニーだから、なのだろうが、今後のこういうのって、昔の映画村みたいなのを仮想で立ち上げておいて、プロダクションが都度利用料払う、みたいになってくるのではないかしらん。どうでもいいけど。
というかんじで背景のところはふうん、て思うところがあったりしたのだが、インターネットの世界でのあれこれとか出会いは子供でもわかるくらいわかりやすいしなるほどなーだし、あぶない勧誘があったり炎上があったり無頼のレーサー(Gal Gadot – すぐわかるねえ)が現れたり、割とふつう(の”Break”)で、その辺が冗長になった分、前作にあったきゅんてしたり歓喜で溢れたり拳握ったりするとこは薄まっちゃったかなあ。
アーケードゲームの世界で起こることとインターネットの世界で起こることの違い、と言ってしまえばそれまでだけど。
”Wreck-It Ralph”、好きだったのになー。(映画とは直接関係ないけど、インターネットってなんかつまんないのー ってなるその理由とか原因とかの一部とも繋がっていると思う。いまやインターネット上でBreakしたり大騒ぎしたりすることになんのおもしろみがあろうか? というようなとこ)
話題的にはたぶん、ディズニーのプリンセスが一同に登場するとこが盛りあがるのだろうか。どのプリンセスもインターネット上だからか描きこみが緩いかんじでチープだしそこにStar Warsのを絡ませるなんてやめてよ、なのだがわざとやってるんだろうな。
”Brave” (2012)のMeridaが喋ったらみんなで、彼女なに言ってるかわかんないよね ..ってなるとこはちょっとおかしかったけど。
次のはインターネットの中ですっかり汚れて腐れきってしまったVanellopeがアーケードに戻ってくる、でよいのだと思う。
(やっぱ一番おもしろかったのはエンドロールに出てくるうさぎさんで)
12.17.2018
[film] Mickey (1918)
11月29日、木曜日の晩にBFIのComedy Geniusの特集で見ました。サイレントの。
上映前にBFIのひとから主演・製作しているMabel Normandさんの簡単な紹介があった。
D. W. Griffithの映画にもいっぱい出ていて、コメディではCharlie Chaplinや"Fatty" Arbuckleとも共演していて、自分で監督もしてChaplinに映画のことを教えたりもしていたコメディ映画史上では重要な女性なのだが、こないだの“Exit Smiling” (1926)のBeatrice Lillieさんと並んで、(男性コメディ俳優たち - Keaton, Chaplin, Lloyd, Laurel & Hardyなんかと比べると)あまりきちんと評価されてこなかった感がある、のはやっぱ変で腑に落ちないのよね、って。 これもこないだのAlice Guy-Blachéの件と併せて、男共の都合で作ってきた映画史、みたいのがちょっと頭をよぎる。
Mabel Normandさんの作品は、丁度いまComedy Geniusの延長でバーミンガムの方とか各地を巡回している模様。 上映前のスクリーンに彼女のポートレートが投影されていたのだが、それがとても生々しくて、100年前の女性のそれとは思えなくて(サイレントの時代の俳優さんてお化粧した硬いかんじのが多いし)。 今の、バンドやってます、ジン作ってます、みたいなそこらにいそうな女の子なの。
カリフォルニアの炭鉱の労働者のとこで奔放に育てられたみなしごMicky (Mabel Normand)がいて、野山で動物たちと楽しく遊んだり跳ねたりしているのだが、亡くなった父の遺言に従ってLong Islandの方の高慢ちきなお屋敷に送られることになり、そこのお屋敷で野生児の彼女が巻き起こす騒動と、彼女を見初めてぽーっとなってしまった炭鉱のお金持ちと、そのお金持ちの気を惹きたいお屋敷のお嬢(+その後ろできーきーする母親)と、Mickyを追い回すお屋敷のやな野郎と、ほぼなんも考えていないMickeyと、基本はそれぞれの思いこみとか悪巧みがぐるぐる空回りを繰り返しながら、どうしようもない絶体絶命のとこまで行って、それでも最後は力技でどうにかなってしまう、という典型的なRom-comの筋立てで、1918年に既にこんなのあったのね、って。
とにかく競馬からぶん殴りあいまで、豪快で奔放ですべてを引っ掻きまわし大暴れしてうるせーそれがどーした? のMicky = Mabel Normandが素敵すぎる。 映画、最初のうちの評判はよくなくて、でもだんだんに広がって最終的にはヒットして、彼女はこの後にSamuel Goldwynのとこと契約することになるの。 フクロウとか犬とか猫(しっぽ持たないで)とかリスとか、動物たち(含. フェイク)もいっぱい出てきてそういうのも楽しかった。
Open All Night (1924)
サイレントをもう1本。9日、日曜日の午後にBFIで。日曜の午後にこんなサイレント見て、それに続けてもういっこScrewball Comedyを見る(この日は”Easy Living” (1937))って、さいこうの日曜日だよね(←老人)。 原作はポール・モランの短編だって。
社会的には安定したとこにいるTherese (Viola Dana)とEdmund (Adolphe Menjou)の夫婦がいて、生活はとっても満ち足りていて悪くないのに、Thereseは夫があまりにおっとり優しすぎて叱ったり叩いたりしてくれないのが気にくわなくて、友人夫婦(これの夫の方を演じたRaymond Griffithの底抜けの演技がすごいの)に誘われるままにパリの自転車耐久レース - 同じとこを一晩中ずっとぐるぐる回ってるご苦労さんなやつ – に行ってそこのフランス代表のマッチョででっかい野人みたいなのと会ったらそいつはThereseのことを気にいって、傍らに侍らせてこき使って、そういうのに飢えていた彼女もこれかも… なんてなるのだがそいつにも彼女がいるのと、Edmundもレース場に現れて、さてどうなっちゃうのか。
コメディなので、好きにやってろやれやれ、みたいな結末なのだが、自転車レースの一夜の狂騒の裏で繰り広げられる生臭さのかけらもない愛欲バトル、みたいなかんじは悪くはなかったかも。
あと、自転車レースの参加国がおもしろくて、フランス、イギリス、アイルランド、アフリカ(あの表現は今では完全にアウト)、アメリカ、ニューヨーク(国か…)なの。
上映前にBFIのひとから主演・製作しているMabel Normandさんの簡単な紹介があった。
D. W. Griffithの映画にもいっぱい出ていて、コメディではCharlie Chaplinや"Fatty" Arbuckleとも共演していて、自分で監督もしてChaplinに映画のことを教えたりもしていたコメディ映画史上では重要な女性なのだが、こないだの“Exit Smiling” (1926)のBeatrice Lillieさんと並んで、(男性コメディ俳優たち - Keaton, Chaplin, Lloyd, Laurel & Hardyなんかと比べると)あまりきちんと評価されてこなかった感がある、のはやっぱ変で腑に落ちないのよね、って。 これもこないだのAlice Guy-Blachéの件と併せて、男共の都合で作ってきた映画史、みたいのがちょっと頭をよぎる。
Mabel Normandさんの作品は、丁度いまComedy Geniusの延長でバーミンガムの方とか各地を巡回している模様。 上映前のスクリーンに彼女のポートレートが投影されていたのだが、それがとても生々しくて、100年前の女性のそれとは思えなくて(サイレントの時代の俳優さんてお化粧した硬いかんじのが多いし)。 今の、バンドやってます、ジン作ってます、みたいなそこらにいそうな女の子なの。
カリフォルニアの炭鉱の労働者のとこで奔放に育てられたみなしごMicky (Mabel Normand)がいて、野山で動物たちと楽しく遊んだり跳ねたりしているのだが、亡くなった父の遺言に従ってLong Islandの方の高慢ちきなお屋敷に送られることになり、そこのお屋敷で野生児の彼女が巻き起こす騒動と、彼女を見初めてぽーっとなってしまった炭鉱のお金持ちと、そのお金持ちの気を惹きたいお屋敷のお嬢(+その後ろできーきーする母親)と、Mickyを追い回すお屋敷のやな野郎と、ほぼなんも考えていないMickeyと、基本はそれぞれの思いこみとか悪巧みがぐるぐる空回りを繰り返しながら、どうしようもない絶体絶命のとこまで行って、それでも最後は力技でどうにかなってしまう、という典型的なRom-comの筋立てで、1918年に既にこんなのあったのね、って。
とにかく競馬からぶん殴りあいまで、豪快で奔放ですべてを引っ掻きまわし大暴れしてうるせーそれがどーした? のMicky = Mabel Normandが素敵すぎる。 映画、最初のうちの評判はよくなくて、でもだんだんに広がって最終的にはヒットして、彼女はこの後にSamuel Goldwynのとこと契約することになるの。 フクロウとか犬とか猫(しっぽ持たないで)とかリスとか、動物たち(含. フェイク)もいっぱい出てきてそういうのも楽しかった。
Open All Night (1924)
サイレントをもう1本。9日、日曜日の午後にBFIで。日曜の午後にこんなサイレント見て、それに続けてもういっこScrewball Comedyを見る(この日は”Easy Living” (1937))って、さいこうの日曜日だよね(←老人)。 原作はポール・モランの短編だって。
社会的には安定したとこにいるTherese (Viola Dana)とEdmund (Adolphe Menjou)の夫婦がいて、生活はとっても満ち足りていて悪くないのに、Thereseは夫があまりにおっとり優しすぎて叱ったり叩いたりしてくれないのが気にくわなくて、友人夫婦(これの夫の方を演じたRaymond Griffithの底抜けの演技がすごいの)に誘われるままにパリの自転車耐久レース - 同じとこを一晩中ずっとぐるぐる回ってるご苦労さんなやつ – に行ってそこのフランス代表のマッチョででっかい野人みたいなのと会ったらそいつはThereseのことを気にいって、傍らに侍らせてこき使って、そういうのに飢えていた彼女もこれかも… なんてなるのだがそいつにも彼女がいるのと、Edmundもレース場に現れて、さてどうなっちゃうのか。
コメディなので、好きにやってろやれやれ、みたいな結末なのだが、自転車レースの一夜の狂騒の裏で繰り広げられる生臭さのかけらもない愛欲バトル、みたいなかんじは悪くはなかったかも。
あと、自転車レースの参加国がおもしろくて、フランス、イギリス、アイルランド、アフリカ(あの表現は今では完全にアウト)、アメリカ、ニューヨーク(国か…)なの。
12.14.2018
[film] Roma (2018)
11日、火曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
いま、どこのCurzonでも一日2回くらい上映しているのだが、結構売り切れが出ている。
Alfonso Cuarónが書いて監督して撮影までしていて、Netflixで配信されるということでカンヌの選考対象からは外され、でもヴェネチアでは金獅子を獲ったりしてて、今のとこSight & Soundの年間ベストでは1位、Film Commentの年間ベストでは4位、NY TimesだとManohla Dargisが1位、A.O. Scottが5位、VultureのDavid Edelsteinは1位、The Guardianはまだ7位までしか発表になっていないけど(今週から映画と音楽のベスト10は毎日ひとつづつ発表されていくの) 1~6位の間のどこか。 別になにが映画なのか、なんてどうでもいいけど、これって逆立ちしても映画館で見るしかないようなしろものだよ(って、見てからいう)。
RomaっていうのはMexico Cityの少し西よりにある地区の名前- Colonia Roma - 住宅街で、そこの一軒家に暮らす中流家庭の70年から71年にかけてのお話し。車が家のなかに入ってくるガレージがあって、犬がいて小鳥がいて、父と母のSofia (Marina de Tavira)と祖母、子供たちが4人、メイドが2人。Cuarón自身の少年時代のことを描いたであろうことは容易に想像がつく。
ただ子供たちのうちの誰かひとりの視点で語られるのではなく、家族の面倒を見ているメイドのCleo(Yalitza Aparicio) - メイドたちは先住民の言葉Mixtecで会話する – を中心に彼女の身に起こったことも含めてものすごくいろんなことが入ってくる。家族の物語でもあるし、EmployerとEmployeeの話でもあるし、あの家、あの土地のこと、あの土地の名前から広がるメキシコの、ミシュテカにまでの広がりをもったお話し、でもある。
父はケベックのコンファレンスに出掛けるといっていなくなり、それを見送る母はちょっと様子が変になり、BFのFermín(Jorge Antonio Guerrero)と親密になったCleoは映画館で妊娠したかも、と告げたら彼はそれきり音信不通となり、いつまでも戻ってこない父の出張はうそでそのうち荷物を取りに行くという連絡が入り、Sofiaは車を小さいのに換えて職を探し、Cleoのお腹は大きくなって、ベビーベッドを買いにいったら大規模な学生デモにぶつかって産気づいてしまい.. あとは地震があったり山火事があったり。家族親戚は雑多に集まって騒いで散ってまたどこかで、を繰り返して終わらない。
出来事だけを並べればこんなもんで薄くて浅くてLife goes onで、最後にSofiaと子供たちとみんなで海に行くエピソードもああいうことになるであろうことはなんとなくわかるし。でも自身がノスタルジックに浸れるようなところをできるだけ排して(例えば音楽はそのシーンの背景で鳴っているもの以外は流れてこない)、いつも家族の隅や陰に小さく控えてて、自分なんかいなくなっちゃえば… と空を見つめて消え入りそうなCleoの姿を掬いあげて、その眼差しから自分を含めた家族の記憶の細部を、そのすべてを散らして並べて絵巻物にしようとする。
だからというかそのためになのか、映像と音像はなんかとてつもない。映像はどうやって細工加工しているのか、コンクリの上の犬の糞から水溜りに映る飛行機まで、洗濯物からテーブル上の散らかりまで、微細部まで驚異的な解象度で迫ってくるし、音は少し後ろでかさこそ鳴っているTVの音までその位置からのそういう音として聞こえてくるし、”Gravity” (2013)でなんだこれ? って目をまわしたあれらがパノラミックなモノクロの風景となってゆったりと回転していく。 そこに映っているのは(おそらくは失われてしまっているであろう)70年代のMexico Cityの風景、というこれはこれで驚異的な映像体験になっているのではなかろうか。
Mexico Cityって数回しか行ったことがないのだが、あそこの街並みを見てて - 車で通っていっても歩いていても – たまに締めつけられるくらいいい!ってなることがあって(原因不明)、あのかんじがやっぱり束になって襲ってくるのだった。
南米の町ってそうなることが多い。それがどうした、だけど。
ほぼ無表情か、真剣なのか、不安そうなCleoの顔とその彼女が寝転がったり車の窓に寄りかかったりぼんやり空を眺めてカラになっているところがとても印象に残って、これに応えてあげるのが子供たちのCleoがいてくれてよかったな、だったりするのがとてもよいの。(最後に出る”For Lido”、っていうのはたぶん…)
3部作にしないのかしら。次にこれの後の時代 - 小~中学生の頃が来て、締めはもちろん、あのすばらしい“Y Tu Mamá También” (2001) に繋がるの。 Cuarónの描く女性像、ってテーマでなんか書けるとおもう。
いま、どこのCurzonでも一日2回くらい上映しているのだが、結構売り切れが出ている。
Alfonso Cuarónが書いて監督して撮影までしていて、Netflixで配信されるということでカンヌの選考対象からは外され、でもヴェネチアでは金獅子を獲ったりしてて、今のとこSight & Soundの年間ベストでは1位、Film Commentの年間ベストでは4位、NY TimesだとManohla Dargisが1位、A.O. Scottが5位、VultureのDavid Edelsteinは1位、The Guardianはまだ7位までしか発表になっていないけど(今週から映画と音楽のベスト10は毎日ひとつづつ発表されていくの) 1~6位の間のどこか。 別になにが映画なのか、なんてどうでもいいけど、これって逆立ちしても映画館で見るしかないようなしろものだよ(って、見てからいう)。
RomaっていうのはMexico Cityの少し西よりにある地区の名前- Colonia Roma - 住宅街で、そこの一軒家に暮らす中流家庭の70年から71年にかけてのお話し。車が家のなかに入ってくるガレージがあって、犬がいて小鳥がいて、父と母のSofia (Marina de Tavira)と祖母、子供たちが4人、メイドが2人。Cuarón自身の少年時代のことを描いたであろうことは容易に想像がつく。
ただ子供たちのうちの誰かひとりの視点で語られるのではなく、家族の面倒を見ているメイドのCleo(Yalitza Aparicio) - メイドたちは先住民の言葉Mixtecで会話する – を中心に彼女の身に起こったことも含めてものすごくいろんなことが入ってくる。家族の物語でもあるし、EmployerとEmployeeの話でもあるし、あの家、あの土地のこと、あの土地の名前から広がるメキシコの、ミシュテカにまでの広がりをもったお話し、でもある。
父はケベックのコンファレンスに出掛けるといっていなくなり、それを見送る母はちょっと様子が変になり、BFのFermín(Jorge Antonio Guerrero)と親密になったCleoは映画館で妊娠したかも、と告げたら彼はそれきり音信不通となり、いつまでも戻ってこない父の出張はうそでそのうち荷物を取りに行くという連絡が入り、Sofiaは車を小さいのに換えて職を探し、Cleoのお腹は大きくなって、ベビーベッドを買いにいったら大規模な学生デモにぶつかって産気づいてしまい.. あとは地震があったり山火事があったり。家族親戚は雑多に集まって騒いで散ってまたどこかで、を繰り返して終わらない。
出来事だけを並べればこんなもんで薄くて浅くてLife goes onで、最後にSofiaと子供たちとみんなで海に行くエピソードもああいうことになるであろうことはなんとなくわかるし。でも自身がノスタルジックに浸れるようなところをできるだけ排して(例えば音楽はそのシーンの背景で鳴っているもの以外は流れてこない)、いつも家族の隅や陰に小さく控えてて、自分なんかいなくなっちゃえば… と空を見つめて消え入りそうなCleoの姿を掬いあげて、その眼差しから自分を含めた家族の記憶の細部を、そのすべてを散らして並べて絵巻物にしようとする。
だからというかそのためになのか、映像と音像はなんかとてつもない。映像はどうやって細工加工しているのか、コンクリの上の犬の糞から水溜りに映る飛行機まで、洗濯物からテーブル上の散らかりまで、微細部まで驚異的な解象度で迫ってくるし、音は少し後ろでかさこそ鳴っているTVの音までその位置からのそういう音として聞こえてくるし、”Gravity” (2013)でなんだこれ? って目をまわしたあれらがパノラミックなモノクロの風景となってゆったりと回転していく。 そこに映っているのは(おそらくは失われてしまっているであろう)70年代のMexico Cityの風景、というこれはこれで驚異的な映像体験になっているのではなかろうか。
Mexico Cityって数回しか行ったことがないのだが、あそこの街並みを見てて - 車で通っていっても歩いていても – たまに締めつけられるくらいいい!ってなることがあって(原因不明)、あのかんじがやっぱり束になって襲ってくるのだった。
南米の町ってそうなることが多い。それがどうした、だけど。
ほぼ無表情か、真剣なのか、不安そうなCleoの顔とその彼女が寝転がったり車の窓に寄りかかったりぼんやり空を眺めてカラになっているところがとても印象に残って、これに応えてあげるのが子供たちのCleoがいてくれてよかったな、だったりするのがとてもよいの。(最後に出る”For Lido”、っていうのはたぶん…)
3部作にしないのかしら。次にこれの後の時代 - 小~中学生の頃が来て、締めはもちろん、あのすばらしい“Y Tu Mamá También” (2001) に繋がるの。 Cuarónの描く女性像、ってテーマでなんか書けるとおもう。
12.12.2018
[talk] Roxane Gay in conversation
怒涛のMichelle Obamaライブからちょうど1週間、10日の月曜日の晩、Michelleがやったのと同じRoyal Festival Hallで見て聞いた。(Michelleは来年4月に戻ってくる。こんどはO2アリーナだって。すごいな)
Roxane Gayさんのことは昔に”Bad Feminist”をぱらぱらしたくらいだったが、こういう人の話はおもしろいに決まってるから。 来ているのはもちろん女性が圧倒的に多い。8割くらい?
進行はLiv Littleさんを進行役に、手話と字幕も入って、わかりやすい、ありがたい。
入ってきて会場をぐるっと見渡して、ここStar Warsの議会場みたいじゃん、て(うん、そういう会場なの)。
英国は始めてだそうで、飲み物に氷が入ってなくてさあ … とか。(わかるわかる)
つかみで、彼女の本 - ”Hunger: A Memoir of (My) Body”の2箇所を朗読する。エクササイズのトレーナーとのエピソードと、名前が定かでないかつての同級生をGoogleで探して思いを巡らせるエピソードと。 静かで深くて、とても素敵な声のひと。
そこから話題は自分の体や性的指向のことトラウマのこと、両親のこと、ハイチからの難民の子として(有色人種人口が少ない)ネブラスカで暮すということ、フェミニストであること、などを転々としながらもこれらのことをどうやって書くのか、どういう状態になったら書くのか、なんのために書くのか、というところに常に戻っていくのだった。
で、まずは自分のために書くこと、その限りにおいては急ぐことも無理することもなくて、書ける状態になったら、書けるところから書いていけばよいのだ、と。まとまっていなくても、断片(Fragment)でも構わない、lifeそのものがそもそもFragmentされたものなんだからね、って。
印象的だったのは、今のグローバルな社会はとにかく差異 (Difference)を恐れて、違っていることをShameだと思うように強いてくるので、そことの距離は十分にとって、自分(と自分に大切なひと)がmindfulでいられるようにすることだという指摘。これ、本当にそうで、いまの格差や差別問題の根幹てほぼここだよね。自分と同じサイズ、同じ嗜好、同じ経験、同じ肌の色であるのが当然と思って、同じでない(になれない)可能性を疑おうとしない、想像しようともしないその心証って、どこでどうやって醸成されてくるんだか(やっぱ教育なの? あの医学部関係者のしょうもなさとか)。
“Bad Feminist”はフィクションが売れなくてどうしようもなかった頃に、いろんなところに書いたものを纏めてみたら当たった、って。 ”World of Wakanda”は、最初あのMarvelではなく、別の会社のことだと思っていたのでやや驚いたが、colonizeされていない女性のことを書けるのはとても楽しい、と。
その他の話題としては、フェミニストはreligiousであってはいけないのか(もちろんそんなことないよ)とか、Western CountryとNon-Western CountryにおけるDiasporaのこととか、Twitterのこととか。
質問コーナーで影響を受けた本と作家では、Edith Whartonの”The Age of Innocence”, Laura Ingalls Wilderの“Little House on the Prairie” – 『大草原の小さな家』、Alice Walkerのいくつか、Zadie Smithの”NW”、などなど。『大草原…』は作者がレイシストであることはわかっているけど、でもしょうがなく好きなんだ、って(同感)。
他に名前が挙がったのはMarlon JamesとかFatimah Asgharとか。
あと、ほぼ知らないのでコメントしようがないのだが、TVプログラムの”Love Island”とか“Vanderpump Rules”の話題で客席ときゃーきゃー盛りあがっていた。あと、”The Real Housewives”のシリーズではどの都市が一番よいですか? の質問にはAtlantaかなあ、だって。Beverly Hillsのに出てくる連中には自分の本を読ませてやりたいよ、って(拍手)。
客席からの質問は30分以上続いて、質問する女性たちの様子から彼女の本がどれだけ彼女たちに火を点けたのか、がようくわかるのだった。最近よく使われるEmpowermentて、あんま好きな言葉ではないのだが、こういうことなんだろうな。
60年代頃からフェミニズムに関わって、そのありようについて真剣に考えてきた人たちが彼女のことをどう見て思っているのかは知らないけど、でも間違いなく彼女のvoice, body, text, act などを通してフェミニズムってこんなふうでもあんなふうでもあっていいのよ、ということになってきたのはよいことで、それだけ状況はクソみたいになってきているということだし、あんな腐れたクズ共にやられっぱなしで黙っているわけにはいかないのだ、ってこと、でいいよね?
女性作家、の関連で、11月の終わりにSOHOにオープンした女性作家本を扱う古本屋 – The Second Shelfのことを少し。
最初にぶつかったのはBarbicanでのNew Suns: A Feminist Literary Festivalのブースで、その時はそうとは知らずに買ったりしていたのだが、11月24日の土曜日から週一回、土曜日の昼間に通うようになってしまった。本当は毎日でも通いたいくらいなのだが、そうするとたぶん簡単に、ストレートに、あっという間に破産する、それくらい週ごとにここの本たちは棚から溢れて床のほうにまで増殖を続けていてホラーとしか言いようがないの。 それでも見ていない棚、触ったら瞬間でやられそうなので目をあわせないようにしている本とかがあって、1時間くらいいて汗びっしょり死にそうになって這いだしてくる、というのを繰り返しているの。(恋か..)
アメリカにいた時はそんなでもなかったのだが、こっちに来て古本の、ジャケットとか紙質も含めた美しさに魅かれるようになって、とってもたいへんやばい。女性作家の古本て、挿画も含めて素敵なのが多いし。昔ヘーレン・ハンフが夢中になって英国から取り寄せていたのも、そういうことだったのかなあ、と。
なんて書いていたらRoxane Gayさんがここを訪れているインスタが ...
Roxane Gayさんのことは昔に”Bad Feminist”をぱらぱらしたくらいだったが、こういう人の話はおもしろいに決まってるから。 来ているのはもちろん女性が圧倒的に多い。8割くらい?
進行はLiv Littleさんを進行役に、手話と字幕も入って、わかりやすい、ありがたい。
入ってきて会場をぐるっと見渡して、ここStar Warsの議会場みたいじゃん、て(うん、そういう会場なの)。
英国は始めてだそうで、飲み物に氷が入ってなくてさあ … とか。(わかるわかる)
つかみで、彼女の本 - ”Hunger: A Memoir of (My) Body”の2箇所を朗読する。エクササイズのトレーナーとのエピソードと、名前が定かでないかつての同級生をGoogleで探して思いを巡らせるエピソードと。 静かで深くて、とても素敵な声のひと。
そこから話題は自分の体や性的指向のことトラウマのこと、両親のこと、ハイチからの難民の子として(有色人種人口が少ない)ネブラスカで暮すということ、フェミニストであること、などを転々としながらもこれらのことをどうやって書くのか、どういう状態になったら書くのか、なんのために書くのか、というところに常に戻っていくのだった。
で、まずは自分のために書くこと、その限りにおいては急ぐことも無理することもなくて、書ける状態になったら、書けるところから書いていけばよいのだ、と。まとまっていなくても、断片(Fragment)でも構わない、lifeそのものがそもそもFragmentされたものなんだからね、って。
印象的だったのは、今のグローバルな社会はとにかく差異 (Difference)を恐れて、違っていることをShameだと思うように強いてくるので、そことの距離は十分にとって、自分(と自分に大切なひと)がmindfulでいられるようにすることだという指摘。これ、本当にそうで、いまの格差や差別問題の根幹てほぼここだよね。自分と同じサイズ、同じ嗜好、同じ経験、同じ肌の色であるのが当然と思って、同じでない(になれない)可能性を疑おうとしない、想像しようともしないその心証って、どこでどうやって醸成されてくるんだか(やっぱ教育なの? あの医学部関係者のしょうもなさとか)。
“Bad Feminist”はフィクションが売れなくてどうしようもなかった頃に、いろんなところに書いたものを纏めてみたら当たった、って。 ”World of Wakanda”は、最初あのMarvelではなく、別の会社のことだと思っていたのでやや驚いたが、colonizeされていない女性のことを書けるのはとても楽しい、と。
その他の話題としては、フェミニストはreligiousであってはいけないのか(もちろんそんなことないよ)とか、Western CountryとNon-Western CountryにおけるDiasporaのこととか、Twitterのこととか。
質問コーナーで影響を受けた本と作家では、Edith Whartonの”The Age of Innocence”, Laura Ingalls Wilderの“Little House on the Prairie” – 『大草原の小さな家』、Alice Walkerのいくつか、Zadie Smithの”NW”、などなど。『大草原…』は作者がレイシストであることはわかっているけど、でもしょうがなく好きなんだ、って(同感)。
他に名前が挙がったのはMarlon JamesとかFatimah Asgharとか。
あと、ほぼ知らないのでコメントしようがないのだが、TVプログラムの”Love Island”とか“Vanderpump Rules”の話題で客席ときゃーきゃー盛りあがっていた。あと、”The Real Housewives”のシリーズではどの都市が一番よいですか? の質問にはAtlantaかなあ、だって。Beverly Hillsのに出てくる連中には自分の本を読ませてやりたいよ、って(拍手)。
客席からの質問は30分以上続いて、質問する女性たちの様子から彼女の本がどれだけ彼女たちに火を点けたのか、がようくわかるのだった。最近よく使われるEmpowermentて、あんま好きな言葉ではないのだが、こういうことなんだろうな。
60年代頃からフェミニズムに関わって、そのありようについて真剣に考えてきた人たちが彼女のことをどう見て思っているのかは知らないけど、でも間違いなく彼女のvoice, body, text, act などを通してフェミニズムってこんなふうでもあんなふうでもあっていいのよ、ということになってきたのはよいことで、それだけ状況はクソみたいになってきているということだし、あんな腐れたクズ共にやられっぱなしで黙っているわけにはいかないのだ、ってこと、でいいよね?
女性作家、の関連で、11月の終わりにSOHOにオープンした女性作家本を扱う古本屋 – The Second Shelfのことを少し。
最初にぶつかったのはBarbicanでのNew Suns: A Feminist Literary Festivalのブースで、その時はそうとは知らずに買ったりしていたのだが、11月24日の土曜日から週一回、土曜日の昼間に通うようになってしまった。本当は毎日でも通いたいくらいなのだが、そうするとたぶん簡単に、ストレートに、あっという間に破産する、それくらい週ごとにここの本たちは棚から溢れて床のほうにまで増殖を続けていてホラーとしか言いようがないの。 それでも見ていない棚、触ったら瞬間でやられそうなので目をあわせないようにしている本とかがあって、1時間くらいいて汗びっしょり死にそうになって這いだしてくる、というのを繰り返しているの。(恋か..)
アメリカにいた時はそんなでもなかったのだが、こっちに来て古本の、ジャケットとか紙質も含めた美しさに魅かれるようになって、とってもたいへんやばい。女性作家の古本て、挿画も含めて素敵なのが多いし。昔ヘーレン・ハンフが夢中になって英国から取り寄せていたのも、そういうことだったのかなあ、と。
なんて書いていたらRoxane Gayさんがここを訪れているインスタが ...
[film] Le Livre d'image (2018)
2日の日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。午後いちはここでサイレントの”The Lost World” (1925)のファミリー向け上映会、ていうのを見てその直後で、これはこれでLost World的ななんかかもね、と。 英語題は”The Image Book”。
Jean-Luc Godardの新作。 LFFでは見逃して、その後にあったCiné Lumièreでの上映も逃して、これが3回目。英国 – 少なくともLondonではこの日のこの時間帯にいくつかのシアターで同時に上映していて、この1回でおわりみたい。 CurzonのBloomsburyのは売り切れていたが、BFIの上映はいちばんでっかいシアターで、座席が指定ではないので念のため早めに行ったらがらがらで半分埋まっていなかったかも。(Ciné Lumièreではシンポジウム付きの上映をやっていた)
東西のいろんな誰かに、その誰かの声を通して過去の誰かとか自分じゃない誰か、の言葉を喋らせる/伝える、という演劇ぽい(or ライブパフォーマンスぽい)アプローチをしていた直近の数作から、”Histoire(s)du cinéma” - 「映画史」の頃の過去のソースを直に読みこんで編みあげて本をつくる、というアプローチ。 ただ「映画史」の場合は「映画」という対象とその「歴史」を編むというテーマだか欲望だかが明確にあったのに対して、こんどのは「イメージ」の「本」て、あまりにぼんやり投やりなかんじはする。 でもただもちろん、「ゴダール」だからね、ていうのはどこのなににも犬のようについてまわる。 のはいつもの通り。
これはこれで論文が軽く一本書けそうな内容だと推察するのだがわたしは専門家でもなんでもなく映像とか音処理がかっこいいー、っていうばかりの、引用元だってJoan Crawfordは(見てきたばかりなので)わーってなったけど他のはあーとこれなんだっけ?あれだれだっけ? とかやっているうちに風景は後ろに飛んでいってしまい、終わったあとで復習&答え合わせすらしようとしない、という適当なやつなのだが、それでもちっとも眠くはならずにすげー、とか言っているうちに終わってしまう。ので、おもしろい、でいいと思う。
展開されていくイメージは、映画史とか美術史上のあれこれ(ゴダールのいつもの)とホロコーストやアラブ世界が関わっていそうなアーカイブ映像、ニュース映像、自身で撮ったと思われるもののコラージュで、ダビングとか重ね焼きしすぎて原型を留めず判別できなくなったような映像の塊り、あるいはスマホから4Kまで、フェイクも含めたあらゆる映像がデータとして増殖しながら勝手に流れていくなか、指先に引っかかったようなのをかろうじて拾いあげて繋いでみた、かのような。あるいは前作 “Adieu au Langage” (2014)のエピローグで語られたMary Shelley / Frankensteinがその200歳のお祝いにこんな形で立ちあがってきた、というか。
音声は何チャンネルのサラウンドなのか、これもカラフルにいろんな音像・音塊がぶつかったり散ったり廻ったりしている。それでも最後に残るのは呪文のような坊さんのようなゴダール自身の声 – これだけモノラルで動かない定点から聞こえてくるような(確認してみないとわからないけど)。
こういう- 個々の映像の文脈が取っぱらわれたように見える - 状態のなかに「今の」アラブ世界を置いてみることの意味ってなんなのか、とか。 表面だけだと70-80年代にNam June Paikがビデオアートの世界で"super highway"とか能天気にやっていたのと同じように見えたりするところもある – よくもわるくも。 アラブ世界のことってイメージの表出のしかたも含めて現在進行形ののっぴきならないトピック(これもまた西側のイメージ操作?)で、必要なのは本を編むことではなくて石つぶてを放ることだと、ゴダールはぜんぶわかってやっているのだろうけど、なんかね。 アラブ中東の悲惨さについては現地からのドキュメンタリー映像がいくらでもあって、そしてその此岸だか彼岸だかにこんなふうなコーヒーテーブル「本」がある、と?
こないだの“Visages Villages” (2017) – “Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』でAgnès Vardaを門前払いしたあの冷たさを思いだしてしまったり。
それがゴダールだって言うのなら別にいいけどさ。けどそれがなんなのさ、くそじじい。
Jean-Luc Godardの新作。 LFFでは見逃して、その後にあったCiné Lumièreでの上映も逃して、これが3回目。英国 – 少なくともLondonではこの日のこの時間帯にいくつかのシアターで同時に上映していて、この1回でおわりみたい。 CurzonのBloomsburyのは売り切れていたが、BFIの上映はいちばんでっかいシアターで、座席が指定ではないので念のため早めに行ったらがらがらで半分埋まっていなかったかも。(Ciné Lumièreではシンポジウム付きの上映をやっていた)
東西のいろんな誰かに、その誰かの声を通して過去の誰かとか自分じゃない誰か、の言葉を喋らせる/伝える、という演劇ぽい(or ライブパフォーマンスぽい)アプローチをしていた直近の数作から、”Histoire(s)du cinéma” - 「映画史」の頃の過去のソースを直に読みこんで編みあげて本をつくる、というアプローチ。 ただ「映画史」の場合は「映画」という対象とその「歴史」を編むというテーマだか欲望だかが明確にあったのに対して、こんどのは「イメージ」の「本」て、あまりにぼんやり投やりなかんじはする。 でもただもちろん、「ゴダール」だからね、ていうのはどこのなににも犬のようについてまわる。 のはいつもの通り。
これはこれで論文が軽く一本書けそうな内容だと推察するのだがわたしは専門家でもなんでもなく映像とか音処理がかっこいいー、っていうばかりの、引用元だってJoan Crawfordは(見てきたばかりなので)わーってなったけど他のはあーとこれなんだっけ?あれだれだっけ? とかやっているうちに風景は後ろに飛んでいってしまい、終わったあとで復習&答え合わせすらしようとしない、という適当なやつなのだが、それでもちっとも眠くはならずにすげー、とか言っているうちに終わってしまう。ので、おもしろい、でいいと思う。
展開されていくイメージは、映画史とか美術史上のあれこれ(ゴダールのいつもの)とホロコーストやアラブ世界が関わっていそうなアーカイブ映像、ニュース映像、自身で撮ったと思われるもののコラージュで、ダビングとか重ね焼きしすぎて原型を留めず判別できなくなったような映像の塊り、あるいはスマホから4Kまで、フェイクも含めたあらゆる映像がデータとして増殖しながら勝手に流れていくなか、指先に引っかかったようなのをかろうじて拾いあげて繋いでみた、かのような。あるいは前作 “Adieu au Langage” (2014)のエピローグで語られたMary Shelley / Frankensteinがその200歳のお祝いにこんな形で立ちあがってきた、というか。
音声は何チャンネルのサラウンドなのか、これもカラフルにいろんな音像・音塊がぶつかったり散ったり廻ったりしている。それでも最後に残るのは呪文のような坊さんのようなゴダール自身の声 – これだけモノラルで動かない定点から聞こえてくるような(確認してみないとわからないけど)。
こういう- 個々の映像の文脈が取っぱらわれたように見える - 状態のなかに「今の」アラブ世界を置いてみることの意味ってなんなのか、とか。 表面だけだと70-80年代にNam June Paikがビデオアートの世界で"super highway"とか能天気にやっていたのと同じように見えたりするところもある – よくもわるくも。 アラブ世界のことってイメージの表出のしかたも含めて現在進行形ののっぴきならないトピック(これもまた西側のイメージ操作?)で、必要なのは本を編むことではなくて石つぶてを放ることだと、ゴダールはぜんぶわかってやっているのだろうけど、なんかね。 アラブ中東の悲惨さについては現地からのドキュメンタリー映像がいくらでもあって、そしてその此岸だか彼岸だかにこんなふうなコーヒーテーブル「本」がある、と?
こないだの“Visages Villages” (2017) – “Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』でAgnès Vardaを門前払いしたあの冷たさを思いだしてしまったり。
それがゴダールだって言うのなら別にいいけどさ。けどそれがなんなのさ、くそじじい。
12.11.2018
[music] A Perfect Circle
5日の晩、Wembley Arenaで見ました。初めて行った。Wembleyのスタジアムの方はサッカーとかLive Aidとかをやるとこで、Arenaはその横にあって、建物は結構古い、でっかい体育館みたいなかんじ。
チケットは結構余っていたぽくて、何度も買わない? 買わない? ってでろでろ蛸のメールが次々にやってきたので3日前くらいに買っちゃった。 前座はChelsea Wolfeだし。へろへろだったのでスタンディングのフロアではなくてサイドのイス席。
どんな客層の人たちが来るのかしら? と思っていたら見事に年齢層高めのまじめそうな文系ぽい人々ばかり。暴れそうなやばめの臭いの奴はいなくて、Rushのライブに来るような連中を少しまともにしたかんじ – ってそれはただのとってもふつうのひとびとじゃんか、て自分で自分に突っこむ。
Chelsea Wolfeはライティング真っ赤かまっ黒か、闇のなかに包まれていて顔とかぜんぜん見えなくて、でもゆっくり地表を這ってばちばち火花をあげながらでっかくなっていく音はその暗がりを突き破る勢いの鳴りでかっこいいったらない。でっかい会場にぜんぜん負けない堂々たる歌いっぷり。でも次はもうちょっと近いところで見たい。
9時のAPCの開演前に野太いおっかなそうな声で、本公演はno-photo policyで行くので、一切の撮影も録音も禁止、アーティストをリスペクトしような、ていうアナウンスが流れたのでみんなスマホは切る。それでもやっているとどうなるかというと、公演中に上からサーチライト当てられて、それでもやめないと警備員のひとがそこに向かうの。客席に光がちらちらしていないととても見易くて音楽に集中できることに気づいた。昔のライブはこうだったはず – でも煙もうもう - なのよね。
ステージは奥手に円柱のお立ち台が3つ、左からKeyとG、まんなかにMaynard、一番高いとこがDrumsで、前のほうでBとGのふたりが暴れまわる。ライティングはこの円柱とか垂れ下がったプレートとかAPCの三日月とかにいろんな光があたったり浮かびあがったり。でもそれくらいでバックスクリーンはないし、Maynard を始め個々のメンバーにスポットライトが当たることは最後までなかった。
APCを見るのは初めて、1stの”Mer de Noms” (2000)がなぜか好きでずっと聴いていた、くらい。
新譜も聴いて、ちょっとおとなしくなったかしら?と、でも聴いていくうちに印象が変わっていった。タコも噛んでいればだんだんに、のかんじ。
“Eat the Elephant” - 「象をお食べ」から始まって、”Delicious” -「おいしー」で終わるアンコールなし、約100分のでっかい折詰重箱弁当。 ステージ配置、曲順と同様に一見きちんと並べられているかのようで、でもその内部で展開される音の清濁混沌としたぶっとび具合ときたらひどい、じゃなくてすごい。 アメリカにはミュージシャンシップが極まって気がついたらどうしようもなく変態、になっている連中が多い気がするが、このバンドはその典型ではないか。
バックにJames Ihaはいなくて、GとKeyで入っているGreg Edwards (Failure – Autolux)の貢献 - 音の厚みへの - がすばらしい。
新譜の初めの2曲を最初からエンディング、みたいな情感で歌いあげてから"The Hollow"で弾けて、そこから先は新旧を往ったり来たり、でも曲間のギャップはぜんぜんない。カバーの ”(What's So Funny 'bout) Peace, Love and Understanding”ですら、カバーしてます感はゼロで、アレンジをあそこまで変えてしまった責任も含めて、100%APCの楽曲としてシリアスに(元々シリアスな曲なんだけど、それを踏まえた極めて正しいアレンジで)こちらに届けてくる。
もういっこのカバーはMalcolm Young追悼でAC/DCの”Dog Eat Dog”を、これもMalcolm追悼としかいいようのないうねりと厚みで鳴らしてくる(Angusエキス薄い)。こないだBBCで流れたMaynardの“Music Ruined My Life”のリストを見ても、ほーんとどこまでも素直にまじめに音楽に壊されちゃった人なんだねえ、としか言いようがない。
そしてライブで聴いた一番の収穫はそのMaynardの声のすばらしさだったかも。ステージの後ろの暗闇の奥でタコ踊り(としか見えなかった)をしながら曲とその内容によって湿度や強度を自在に変化させていく様ときたらまるでサーカスを見ているようだった。曲間のおしゃべりはロボットみたいで半分くらいなに言っているのかわからなかったのだが。
ラストの”Delicious”でご協力ありがとうー、ってno-photo policyの禁が解かれて、客席で次々に点灯されていくスマホが紙吹雪のようにきれいに瞬く。 これいいかも。
来年はToolの年になるようだが、なんだかこわいよう。 たぶんあれの数千倍の規模でタコが。
チケットは結構余っていたぽくて、何度も買わない? 買わない? ってでろでろ蛸のメールが次々にやってきたので3日前くらいに買っちゃった。 前座はChelsea Wolfeだし。へろへろだったのでスタンディングのフロアではなくてサイドのイス席。
どんな客層の人たちが来るのかしら? と思っていたら見事に年齢層高めのまじめそうな文系ぽい人々ばかり。暴れそうなやばめの臭いの奴はいなくて、Rushのライブに来るような連中を少しまともにしたかんじ – ってそれはただのとってもふつうのひとびとじゃんか、て自分で自分に突っこむ。
Chelsea Wolfeはライティング真っ赤かまっ黒か、闇のなかに包まれていて顔とかぜんぜん見えなくて、でもゆっくり地表を這ってばちばち火花をあげながらでっかくなっていく音はその暗がりを突き破る勢いの鳴りでかっこいいったらない。でっかい会場にぜんぜん負けない堂々たる歌いっぷり。でも次はもうちょっと近いところで見たい。
9時のAPCの開演前に野太いおっかなそうな声で、本公演はno-photo policyで行くので、一切の撮影も録音も禁止、アーティストをリスペクトしような、ていうアナウンスが流れたのでみんなスマホは切る。それでもやっているとどうなるかというと、公演中に上からサーチライト当てられて、それでもやめないと警備員のひとがそこに向かうの。客席に光がちらちらしていないととても見易くて音楽に集中できることに気づいた。昔のライブはこうだったはず – でも煙もうもう - なのよね。
ステージは奥手に円柱のお立ち台が3つ、左からKeyとG、まんなかにMaynard、一番高いとこがDrumsで、前のほうでBとGのふたりが暴れまわる。ライティングはこの円柱とか垂れ下がったプレートとかAPCの三日月とかにいろんな光があたったり浮かびあがったり。でもそれくらいでバックスクリーンはないし、Maynard を始め個々のメンバーにスポットライトが当たることは最後までなかった。
APCを見るのは初めて、1stの”Mer de Noms” (2000)がなぜか好きでずっと聴いていた、くらい。
新譜も聴いて、ちょっとおとなしくなったかしら?と、でも聴いていくうちに印象が変わっていった。タコも噛んでいればだんだんに、のかんじ。
“Eat the Elephant” - 「象をお食べ」から始まって、”Delicious” -「おいしー」で終わるアンコールなし、約100分のでっかい折詰重箱弁当。 ステージ配置、曲順と同様に一見きちんと並べられているかのようで、でもその内部で展開される音の清濁混沌としたぶっとび具合ときたらひどい、じゃなくてすごい。 アメリカにはミュージシャンシップが極まって気がついたらどうしようもなく変態、になっている連中が多い気がするが、このバンドはその典型ではないか。
バックにJames Ihaはいなくて、GとKeyで入っているGreg Edwards (Failure – Autolux)の貢献 - 音の厚みへの - がすばらしい。
新譜の初めの2曲を最初からエンディング、みたいな情感で歌いあげてから"The Hollow"で弾けて、そこから先は新旧を往ったり来たり、でも曲間のギャップはぜんぜんない。カバーの ”(What's So Funny 'bout) Peace, Love and Understanding”ですら、カバーしてます感はゼロで、アレンジをあそこまで変えてしまった責任も含めて、100%APCの楽曲としてシリアスに(元々シリアスな曲なんだけど、それを踏まえた極めて正しいアレンジで)こちらに届けてくる。
もういっこのカバーはMalcolm Young追悼でAC/DCの”Dog Eat Dog”を、これもMalcolm追悼としかいいようのないうねりと厚みで鳴らしてくる(Angusエキス薄い)。こないだBBCで流れたMaynardの“Music Ruined My Life”のリストを見ても、ほーんとどこまでも素直にまじめに音楽に壊されちゃった人なんだねえ、としか言いようがない。
そしてライブで聴いた一番の収穫はそのMaynardの声のすばらしさだったかも。ステージの後ろの暗闇の奥でタコ踊り(としか見えなかった)をしながら曲とその内容によって湿度や強度を自在に変化させていく様ときたらまるでサーカスを見ているようだった。曲間のおしゃべりはロボットみたいで半分くらいなに言っているのかわからなかったのだが。
ラストの”Delicious”でご協力ありがとうー、ってno-photo policyの禁が解かれて、客席で次々に点灯されていくスマホが紙吹雪のようにきれいに瞬く。 これいいかも。
来年はToolの年になるようだが、なんだかこわいよう。 たぶんあれの数千倍の規模でタコが。
12.07.2018
[film] RBG (2018)
で、こっちが正真正銘のフェミニスト映画 – いや、なんとかイストとかイズムとかいうより正義とはどういうものか、に正面から向き合ったドキュメンタリー映画。とにかくおもしろい。
3日の月曜日の晩、BFIで見ました。 この日のこの晩、隣のRoyal Festival HallではMichelle Obamaの本の出版にあわせた彼女のトークがあって、自分ももちろんメンバー先行予約の朝にネットで突撃したわけだがオープン2時間前に入ったのに前方に3000人のキューができてて、2時間後に轟沈した。来シーズンはもっと上のレベルのメンバーになるべきか、まじで検討する。
で、当日もリターンチケットを狙って粘ったのだがネットではダメで、その替わりじゃないけど、とこっちを取った。 英国では1月に正式公開となる映画の早めのプレビューで、上映後に共同監督(制作も)のふたり - Betsy West, Julie CohenのトークとQ&Aつき。
93年に女性で史上2人目の米国最高裁判事となった現在85歳のRuth Bader Ginsburg – “Notorious R.B.G.” としてカルチュラルアイコンにまでなってしまった彼女のキャリアを追ったもの。
監督のふたりによるとドキュメンタリーを作りたいと彼女に申し入れたのは2015年の秋で、その頃はネットでこんなに騒がれるひとになるとは思っていなかった、と(映画のプロモーションにはよいことだったけど、便乗企画ではないのよ)。
ブルックリンのユダヤ系の家庭に生まれてCornellで夫となるMartin Ginsburgと出会って結婚して当時女性がぜんぜんいなかったHarvard Law Schoolに進み、夫の仕事にあわせてColumbiaに移って、子育てをしながら勉強して法学の教授になって、訴訟案件も手掛けるようになる。
映画は93年、クリントンによって最高裁判事に指名された際の上院での弁論 – Orrin Hatchとの対決 - をひとつの軸に、それ以前の分も含めて彼女が裁判で戦って勝ち取ってきた女性差別事案のいくつかを紹介していく。
その中には有名な、それまで男性のみが入学を許可されてきたVirginia Military Institute (VMI)の件(1996)などもあって、要は、女性が、女性であることを理由に除外されたり排除されたり不当な扱いを受けたりすることは憲法の精神からすれば間違っているのだ、と(異議なし)。このことを言葉を選んで、ロジカルに戦略を立てて、ゆっくりソフトな声で喋って丁寧に相手を潰していく。「傾向」とか「慣習」とか、そんな言いぐさは瞬殺される。 差別というのは差別している側が「知らなかった」「意識していなかった」で済まされることが多いけど、肝心なのは差別されている側が「いま」感じている苦痛の方であり、これは法によって断固救われなければいけないものだ。
というようなことを彼女は畳みかけるように、ではなく、とてもスローにわかりやすい言葉で説いていく。でもその破壊力ときたら爆弾以上で、でもそれに火を点けて放ってくるのは折れそうなくらい華奢で小柄な青い目をしたおばあさんである、という痛快さ。
彼女の対応した判例を追っていくと、法を通して強烈に世界を変えていったひとだねえ、て改めて思ったし、放送業界でキャリアを積んできた監督のふたり(女性)も自分が入った頃と比べると彼女が変えてくれた風景は確実にあるというし、今のこんなご時勢に彼女が注目されるのは当然のことなのだわ。
翻ってしみじみひどすぎる今の日本の差別事情に泣きたくなる(日本のLegal Landscapeって、米国だと70年代くらいのレベルよ)。入試の件なんて明確に犯罪だと思うし、女性活用を謳うなんとか委員会に男性しかいないとか、法感覚以前のところで倫理的に腐っている – だってみんなへらへら他人事じゃん - としか言いようがないし。
という法律と正義を巡る彼女の活躍とは別に、ずっと一緒に連れ添った夫Martinとの純愛としか言いようのないエピソードも横に流れていて、いいなー。
上映後のQ&Aで、彼女に映画を見せた時の反応は? という質問に、彼女が涙を見せたのは彼女が自身で音楽 - オペラへの愛を語るところで、Martinのところは結構悲しいシーンもあるのにぜんぜん平気で以外だったと(Martinについては、彼の写真とかが出てくるだけで嬉しいんだって)。
あと、先月肋骨3本折ったけど、もう元気でエクササイズも再開していて、今のところ引退するつもりもないって。
”9”がよい数字(最高裁判事の数)だから90までは、とか言っているって。
最後にDiane Warren - Jennifer Hudsonによるパワフルとしか言いようのないテーマ曲 - ”I’ll Fight”ががんがんくるし、笑えるところもいっぱい - SNLでKate McKinnonがRBGのネタをやるのを見るとことか - あるよ。
これ、日本では絶対公開されないとだめ。法曹関係者は全員必見必修だし、企業もしょうもないセクハラ対策ビデオとか流すんだったらこれを見せろ。
法律の知識ゼロでもへいきだから(学校で法律も法学もいっこも取らなかったの。経済も)。人権や正義がどうやって実現されるのか、なぜそれが必要とされるのかについて教えて、考えさせてくれる最高の教材になっているから。
RIP Pete Shelley.. ありがとうございました。
3日の月曜日の晩、BFIで見ました。 この日のこの晩、隣のRoyal Festival HallではMichelle Obamaの本の出版にあわせた彼女のトークがあって、自分ももちろんメンバー先行予約の朝にネットで突撃したわけだがオープン2時間前に入ったのに前方に3000人のキューができてて、2時間後に轟沈した。来シーズンはもっと上のレベルのメンバーになるべきか、まじで検討する。
で、当日もリターンチケットを狙って粘ったのだがネットではダメで、その替わりじゃないけど、とこっちを取った。 英国では1月に正式公開となる映画の早めのプレビューで、上映後に共同監督(制作も)のふたり - Betsy West, Julie CohenのトークとQ&Aつき。
93年に女性で史上2人目の米国最高裁判事となった現在85歳のRuth Bader Ginsburg – “Notorious R.B.G.” としてカルチュラルアイコンにまでなってしまった彼女のキャリアを追ったもの。
監督のふたりによるとドキュメンタリーを作りたいと彼女に申し入れたのは2015年の秋で、その頃はネットでこんなに騒がれるひとになるとは思っていなかった、と(映画のプロモーションにはよいことだったけど、便乗企画ではないのよ)。
ブルックリンのユダヤ系の家庭に生まれてCornellで夫となるMartin Ginsburgと出会って結婚して当時女性がぜんぜんいなかったHarvard Law Schoolに進み、夫の仕事にあわせてColumbiaに移って、子育てをしながら勉強して法学の教授になって、訴訟案件も手掛けるようになる。
映画は93年、クリントンによって最高裁判事に指名された際の上院での弁論 – Orrin Hatchとの対決 - をひとつの軸に、それ以前の分も含めて彼女が裁判で戦って勝ち取ってきた女性差別事案のいくつかを紹介していく。
その中には有名な、それまで男性のみが入学を許可されてきたVirginia Military Institute (VMI)の件(1996)などもあって、要は、女性が、女性であることを理由に除外されたり排除されたり不当な扱いを受けたりすることは憲法の精神からすれば間違っているのだ、と(異議なし)。このことを言葉を選んで、ロジカルに戦略を立てて、ゆっくりソフトな声で喋って丁寧に相手を潰していく。「傾向」とか「慣習」とか、そんな言いぐさは瞬殺される。 差別というのは差別している側が「知らなかった」「意識していなかった」で済まされることが多いけど、肝心なのは差別されている側が「いま」感じている苦痛の方であり、これは法によって断固救われなければいけないものだ。
というようなことを彼女は畳みかけるように、ではなく、とてもスローにわかりやすい言葉で説いていく。でもその破壊力ときたら爆弾以上で、でもそれに火を点けて放ってくるのは折れそうなくらい華奢で小柄な青い目をしたおばあさんである、という痛快さ。
彼女の対応した判例を追っていくと、法を通して強烈に世界を変えていったひとだねえ、て改めて思ったし、放送業界でキャリアを積んできた監督のふたり(女性)も自分が入った頃と比べると彼女が変えてくれた風景は確実にあるというし、今のこんなご時勢に彼女が注目されるのは当然のことなのだわ。
翻ってしみじみひどすぎる今の日本の差別事情に泣きたくなる(日本のLegal Landscapeって、米国だと70年代くらいのレベルよ)。入試の件なんて明確に犯罪だと思うし、女性活用を謳うなんとか委員会に男性しかいないとか、法感覚以前のところで倫理的に腐っている – だってみんなへらへら他人事じゃん - としか言いようがないし。
という法律と正義を巡る彼女の活躍とは別に、ずっと一緒に連れ添った夫Martinとの純愛としか言いようのないエピソードも横に流れていて、いいなー。
上映後のQ&Aで、彼女に映画を見せた時の反応は? という質問に、彼女が涙を見せたのは彼女が自身で音楽 - オペラへの愛を語るところで、Martinのところは結構悲しいシーンもあるのにぜんぜん平気で以外だったと(Martinについては、彼の写真とかが出てくるだけで嬉しいんだって)。
あと、先月肋骨3本折ったけど、もう元気でエクササイズも再開していて、今のところ引退するつもりもないって。
”9”がよい数字(最高裁判事の数)だから90までは、とか言っているって。
最後にDiane Warren - Jennifer Hudsonによるパワフルとしか言いようのないテーマ曲 - ”I’ll Fight”ががんがんくるし、笑えるところもいっぱい - SNLでKate McKinnonがRBGのネタをやるのを見るとことか - あるよ。
これ、日本では絶対公開されないとだめ。法曹関係者は全員必見必修だし、企業もしょうもないセクハラ対策ビデオとか流すんだったらこれを見せろ。
法律の知識ゼロでもへいきだから(学校で法律も法学もいっこも取らなかったの。経済も)。人権や正義がどうやって実現されるのか、なぜそれが必要とされるのかについて教えて、考えさせてくれる最高の教材になっているから。
RIP Pete Shelley.. ありがとうございました。
12.06.2018
[film] 9 to 5 (1980)
11月28日水曜日の晩、BFIのComedy Genius特集で見ました。前にも書いたように、これの4Kリストアにあわせたリバイバル上映とJane Fondaの登場(+ 特集)がこの企画の目玉のひとつだし、立て看板も出ているので見てみようかな、と。
ヒットした主題歌のことは知っていたし、”9 to 5”というのが会社の始業時刻と終業時刻を示すものだというのも確かこれで学んだのだが、当時ちーっとも見る気がしなかったのは、自分はこういう世界に入っていくことになるなんて1ミリも思っていなかったからで、同様の理由で”The Secret of my Success” (1987) -『摩天楼はバラ色に』も見てない。(”Working Girl” (1988) は見たな。 Girlsモノだと思ったのかな)
おめでたいことだったねえ、と思うし、ほうれ見たことか、とも思う。気が付いたらこんなんなってて、どうすんのさ、って。
Judy (Jane Fonda)は彼と別れて人生をリセットすべく職を探して、なんとか大企業の秘書の職を得て、てきぱきした上司のViolet (Lily Tomlin)にくっついていくのが精一杯で、でもだんだんそこのボス(Dabney Coleman)の横暴さ – Violetのやったことを自分の手柄にする、けど昇進は別の男に、とか、同僚を平気でクビに、とか - にあきれてきて、そこに同様にセクハラの対象に曝されてあったま来ているDoralee (Dolly Parton)も加わって、酔っ払ってはっぱ吸ってあのクソ野郎をどうやって虐めるか八つ裂きにするか、とか妄想して盛りあがっている(あるある)。
翌日Violetはぼうっとした頭でボスのコーヒーに殺鼠剤を入れてしまい、椅子から転げ落ちて気を失っただけの彼を勘違いして病院送りにして、死んでなくてよかったのだが、ちょっと待てこのままこいつをどっかに閉じ込めておければ、と思いついて、彼が裏でやってる悪事の証拠を取り寄せるのと、彼がオフィスにいないうちに好き勝手にやっちゃえ、って改善活動して、でもやがて戻ってきやがったら逮捕するとか息巻いてて。(本当は最初のすれ違いのときに殺して死体も差し替えておけば .. ってこれじゃサスペンスになっちゃうか)
最初は虐げられている3人のOLが力をあわせて性悪上司をとっちめるシンプルな奴(or それを通して自分を取り戻していくJudyのお話し)かと思っていたら、3人もそれぞれ相当にワルで、そのえげつないやり合い刺し合いが楽しいのだが、最後は結局どれも会社のためみんなのためになっちゃうのでなんですかこれ? っていうブラックユーモア。 でいいの?
(たぶんだれもやらないだろうけど)これを今の会社のコンプラ教材として使って「誰のどこがいけなかったと思いますか?」とかやってみたらどっち側にも相当酷い点がつきそうだし、「じゃあどうすべきだったのでしょう?」てやると、もっと早い段階でSpeak Upを! とかになるんだろうか。 でもさあSpeak Upできない状態にあったからこうなっていったわけで、そういう状態にしておいたのは会社だってこと、そしてそれをいまになってしゃあしゃあとSpeak Upだの言い出したのも同じ会社だってこと忘れちゃだめよ。社会の縮図だねえ、とか言うのは簡単だけど、こんなの社会の縮図にしたってくそ不愉快だから、この映画くらいの適当に壊れたかんじでいいのかも。
そういう点で割と最近の”The Wolf of Wall Street” (2013) は壊れててよかったねえ。(あれは実話で、実際に壊れたわけだが)
共同脚本のPatricia Resnickさんは当時のオフィス事情をきちんとリサーチして書いているのでOA機器(って今は言わないの?)以外のところの雰囲気、空気感みたいのはあんなふうかも(こそこそ話しててもだいたい伝わってきちゃう、とか)。 そういう辺りから今の会社・オフィスのありようを含めて振り返ってみたりするのにはよいネタかも。
コメディとしては、そんなに笑えないかなあ。以下の記事にあるようにフェミニストの映画ではないよね。 系列としてはやがて“Horrible Bosses” (2011) あたりに繋がっていくどたばた系のやつよね。
https://www.theguardian.com/film/2018/oct/19/is-9-to-5-really-a-feminist-movie
ヒットした主題歌のことは知っていたし、”9 to 5”というのが会社の始業時刻と終業時刻を示すものだというのも確かこれで学んだのだが、当時ちーっとも見る気がしなかったのは、自分はこういう世界に入っていくことになるなんて1ミリも思っていなかったからで、同様の理由で”The Secret of my Success” (1987) -『摩天楼はバラ色に』も見てない。(”Working Girl” (1988) は見たな。 Girlsモノだと思ったのかな)
おめでたいことだったねえ、と思うし、ほうれ見たことか、とも思う。気が付いたらこんなんなってて、どうすんのさ、って。
Judy (Jane Fonda)は彼と別れて人生をリセットすべく職を探して、なんとか大企業の秘書の職を得て、てきぱきした上司のViolet (Lily Tomlin)にくっついていくのが精一杯で、でもだんだんそこのボス(Dabney Coleman)の横暴さ – Violetのやったことを自分の手柄にする、けど昇進は別の男に、とか、同僚を平気でクビに、とか - にあきれてきて、そこに同様にセクハラの対象に曝されてあったま来ているDoralee (Dolly Parton)も加わって、酔っ払ってはっぱ吸ってあのクソ野郎をどうやって虐めるか八つ裂きにするか、とか妄想して盛りあがっている(あるある)。
翌日Violetはぼうっとした頭でボスのコーヒーに殺鼠剤を入れてしまい、椅子から転げ落ちて気を失っただけの彼を勘違いして病院送りにして、死んでなくてよかったのだが、ちょっと待てこのままこいつをどっかに閉じ込めておければ、と思いついて、彼が裏でやってる悪事の証拠を取り寄せるのと、彼がオフィスにいないうちに好き勝手にやっちゃえ、って改善活動して、でもやがて戻ってきやがったら逮捕するとか息巻いてて。(本当は最初のすれ違いのときに殺して死体も差し替えておけば .. ってこれじゃサスペンスになっちゃうか)
最初は虐げられている3人のOLが力をあわせて性悪上司をとっちめるシンプルな奴(or それを通して自分を取り戻していくJudyのお話し)かと思っていたら、3人もそれぞれ相当にワルで、そのえげつないやり合い刺し合いが楽しいのだが、最後は結局どれも会社のためみんなのためになっちゃうのでなんですかこれ? っていうブラックユーモア。 でいいの?
(たぶんだれもやらないだろうけど)これを今の会社のコンプラ教材として使って「誰のどこがいけなかったと思いますか?」とかやってみたらどっち側にも相当酷い点がつきそうだし、「じゃあどうすべきだったのでしょう?」てやると、もっと早い段階でSpeak Upを! とかになるんだろうか。 でもさあSpeak Upできない状態にあったからこうなっていったわけで、そういう状態にしておいたのは会社だってこと、そしてそれをいまになってしゃあしゃあとSpeak Upだの言い出したのも同じ会社だってこと忘れちゃだめよ。社会の縮図だねえ、とか言うのは簡単だけど、こんなの社会の縮図にしたってくそ不愉快だから、この映画くらいの適当に壊れたかんじでいいのかも。
そういう点で割と最近の”The Wolf of Wall Street” (2013) は壊れててよかったねえ。(あれは実話で、実際に壊れたわけだが)
共同脚本のPatricia Resnickさんは当時のオフィス事情をきちんとリサーチして書いているのでOA機器(って今は言わないの?)以外のところの雰囲気、空気感みたいのはあんなふうかも(こそこそ話しててもだいたい伝わってきちゃう、とか)。 そういう辺りから今の会社・オフィスのありようを含めて振り返ってみたりするのにはよいネタかも。
コメディとしては、そんなに笑えないかなあ。以下の記事にあるようにフェミニストの映画ではないよね。 系列としてはやがて“Horrible Bosses” (2011) あたりに繋がっていくどたばた系のやつよね。
https://www.theguardian.com/film/2018/oct/19/is-9-to-5-really-a-feminist-movie
[film] Garry Winogrand: All Things are Photographable (2018)
11月27日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
今年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Awardを受賞している。
写真家Garry Winograndの作品と生涯を追って、でも彼自身が記録や証言やノートやメモをそんなに残しているわけではないので、彼の生前に関係あった人たちの証言やインタビューを彼の生涯に沿って並べていく。彼自身のインタビューやトークの映像、彼が撮った8mmの映像も少しだけ。もちろん写真だけは大量にあるので、なによりそれを見ろ、って。
ただものすごくいろんなテーマ(ていうかテーマを置いて撮っていないよね)の、ただ撮りましたみたいのが大量にあって捉えどころがないことも確かで、ある人はそれを写真界のNorman Mailerに例えたり、ある人は彼の被写体の人たちはみんなダンスを踊っている – 彼は写真界のJerome RobbinsでありBob Fosseなのだ、とか言うし。
写真家同士でいうと、同時期の「アメリカ」を捕えたRobert Frankとの比較(Robert Frankのアメリカはアメリカの外から来たひとのそれ)、あるいは括弧で括らないアメリカの風景を追うWalker Evans、並べて語られることの多いDiane ArbusやLee Friedlanderとの比較。 彼らを拾いあげて”New Documents” としてキュレーションしたMoMA写真部門の大御所 - John Szarkowskiの眼。
個々の写真を並べてそういう(キュレーター的な)視点から彼のカメラが追っていたもの、彼の写真が写しだしてきたものに迫る、それもよいのだが、とにかく彼の写真て、スクリーンにでっかく映しだされると今にも動きだしそうなすごい迫力で圧してきて、眺めておもしろいったらない、というのがまずわかったこと。とにかくそうやってぱらぱらと追っていくのが楽しくて、彼にとっての写真って言葉や文章でだらだらべらべら綴って追って考えるものではなく、大量に並べられたコンタクトシートやロールの間からぼんやり浮かんでくるなにかで、彼はそこに埋もれていられれば十分だったのではないかしら。
たまに被さってくる彼自身の声は割れんばかりのブロンクス訛りで、被写体に寄り添うなんて繊細なかんじはこれぽっちもない、彼が写真を撮っている姿なんて、道路にてきとーに突っ立って、フィルムをくいくい装着して(←この動きがおもしろ)ろくにファインダーも眺めずにぱしゃぱしゃ乱れ撃ちしてそれだけ。 見つめる/捕える、というよりも眺める/切り取る、そんな無造作な動作のなかから生みだされてくるDocuments - “All Things are Photographable”て言い切る不遜さ、適当さ。 - 改めて”The Animals” (1969)や ”Public Relations” (1977) に見られるインターアクションのおもしろさ、フレームの外に向かっていって決して閉じることなく動いていく人々の目線とか。
でも”Women are Beautiful” (1984)はフェミニズム観点では賛否あったりするのね - (結局彼が追っているのは女性の乳首だけなのよ)- とか。
彼の闘病もあって西海岸の方に移ってからの作品は力が落ちたと賛否が分かれていることも知ったが、そうなのかしら。彼の写真て、例えば通りの隅に立って雑踏を見渡したときに最初に飛び込んでくるいろんなの、そこでわーっとくる瞬間をスライスしているようで、その風景がその瞬間にもたらす鮮烈ななにか(光)はそんなに変わっていない、失われていないような。 晩年は朝にしか撮らなかったという、その朝の光もまた(美しい、ていうのとは違うけど)。
とにかく、彼の写真がまだいくらでも残っているのであれば、可能な限り見れるし見たいし、見られるべき、て思った。 江戸の風俗画とか、誰のであってもいくらでも眺めていられるのと同じかんじかも。
ラストにあーら懐かし、R.E.M.の”Catapult”が流れるのがうれしい。”Did we miss anything?” てフレーズが繰り返される曲なの。
今年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Awardを受賞している。
写真家Garry Winograndの作品と生涯を追って、でも彼自身が記録や証言やノートやメモをそんなに残しているわけではないので、彼の生前に関係あった人たちの証言やインタビューを彼の生涯に沿って並べていく。彼自身のインタビューやトークの映像、彼が撮った8mmの映像も少しだけ。もちろん写真だけは大量にあるので、なによりそれを見ろ、って。
ただものすごくいろんなテーマ(ていうかテーマを置いて撮っていないよね)の、ただ撮りましたみたいのが大量にあって捉えどころがないことも確かで、ある人はそれを写真界のNorman Mailerに例えたり、ある人は彼の被写体の人たちはみんなダンスを踊っている – 彼は写真界のJerome RobbinsでありBob Fosseなのだ、とか言うし。
写真家同士でいうと、同時期の「アメリカ」を捕えたRobert Frankとの比較(Robert Frankのアメリカはアメリカの外から来たひとのそれ)、あるいは括弧で括らないアメリカの風景を追うWalker Evans、並べて語られることの多いDiane ArbusやLee Friedlanderとの比較。 彼らを拾いあげて”New Documents” としてキュレーションしたMoMA写真部門の大御所 - John Szarkowskiの眼。
個々の写真を並べてそういう(キュレーター的な)視点から彼のカメラが追っていたもの、彼の写真が写しだしてきたものに迫る、それもよいのだが、とにかく彼の写真て、スクリーンにでっかく映しだされると今にも動きだしそうなすごい迫力で圧してきて、眺めておもしろいったらない、というのがまずわかったこと。とにかくそうやってぱらぱらと追っていくのが楽しくて、彼にとっての写真って言葉や文章でだらだらべらべら綴って追って考えるものではなく、大量に並べられたコンタクトシートやロールの間からぼんやり浮かんでくるなにかで、彼はそこに埋もれていられれば十分だったのではないかしら。
たまに被さってくる彼自身の声は割れんばかりのブロンクス訛りで、被写体に寄り添うなんて繊細なかんじはこれぽっちもない、彼が写真を撮っている姿なんて、道路にてきとーに突っ立って、フィルムをくいくい装着して(←この動きがおもしろ)ろくにファインダーも眺めずにぱしゃぱしゃ乱れ撃ちしてそれだけ。 見つめる/捕える、というよりも眺める/切り取る、そんな無造作な動作のなかから生みだされてくるDocuments - “All Things are Photographable”て言い切る不遜さ、適当さ。 - 改めて”The Animals” (1969)や ”Public Relations” (1977) に見られるインターアクションのおもしろさ、フレームの外に向かっていって決して閉じることなく動いていく人々の目線とか。
でも”Women are Beautiful” (1984)はフェミニズム観点では賛否あったりするのね - (結局彼が追っているのは女性の乳首だけなのよ)- とか。
彼の闘病もあって西海岸の方に移ってからの作品は力が落ちたと賛否が分かれていることも知ったが、そうなのかしら。彼の写真て、例えば通りの隅に立って雑踏を見渡したときに最初に飛び込んでくるいろんなの、そこでわーっとくる瞬間をスライスしているようで、その風景がその瞬間にもたらす鮮烈ななにか(光)はそんなに変わっていない、失われていないような。 晩年は朝にしか撮らなかったという、その朝の光もまた(美しい、ていうのとは違うけど)。
とにかく、彼の写真がまだいくらでも残っているのであれば、可能な限り見れるし見たいし、見られるべき、て思った。 江戸の風俗画とか、誰のであってもいくらでも眺めていられるのと同じかんじかも。
ラストにあーら懐かし、R.E.M.の”Catapult”が流れるのがうれしい。”Did we miss anything?” てフレーズが繰り返される曲なの。
12.05.2018
[film] Last Night (1998)
11月18日、日曜日の昼間、Prince Charles Cinemaで見ました。なんかの映画祭の関連企画で、1回きりの上映。 35mmで。 日本では公開されていないみたい。タイトルは「昨晩」ではなくて「最後の晩」のほう。
最近の子は知らないかもだけど、前世紀の終わりには2000年問題ていうのがあって、更にその少し前にはノストラダムスの予言とかあって、2000年になるときに地球は滅びるよって言われていたことがあって、「どうせみんななくなっちゃうんだから、さ」とか「なくなっちゃうとして最後になにする、なに食べる?」とか、そういうのをムダに考えていた時代 - 村上春樹の大部分てこの辺からきていると思う - があって、ほーんとあの頃のあの時間を返してほしいわ、って思うけど、返してもらったからってどうせろくなことに使わないであろうことはわかっている。くらいの大人にはなった。
カナダの俳優のDon McKellarが自分で書いて主演して監督した自主製作ぽいかんじの – そういう事情によるのかカナダの映画人たち - Sarah PolleyとかDavid Cronenbergが出演している。でもとにかく映画そのものはすばらしくよかった。
深夜の12時がくると世界が隅から隅までぜんぶ、完全に終わってしまう – そういうことになっていてもうどうすることもできないらしい – その当日の昼から、トロントの街中はお祭りしていたりやけのどんちゃん騒ぎしたり泥棒や暴行もやりたい放題が横行していて、その中にあって横一線で最後を迎えようとしているいろんな人達の動きを追っていく。
妻に先立たれて独り身でどんよりしているPatrick (Don McKellar)は、一応実家に行ってクリスマスとサンクスギビングが一緒になったような家族そろって(姉にSarah Polleyとか)のお食事の会をするのだが最後の瞬間はひとりで過ごしたいから、って自分のとこに戻ろうとする。
Sandra (Sandra Oh)は車で移動中に買い物をしようと車を止めたら車を勝手に移動されて壊されて、夫と連絡とりたいのにどうしよう、て泣いて往生しているときに戻る途中のPatrickと出会って、Patrickは一緒に夫を探してあげることにする。
Patrickの友達のCraig (Callum Keith Rennie)は朝からセックスマラソンをしてて、これまでやったことがないようなのを、と別の人種のひととか高校の時のフランス語の先生とかヴァージンとか次々に自分のアパートに呼んで懸命にがんばっていて、そこにPatrickとSandraがきて彼がコレクションしている車をくれ(どうせいらないだろ)、という。(CraigはついでにPatrickともやってみたい、と提案するが拒否される)
ガス会社に勤務するSandraの夫のDuncan (David Cronenberg) は顧客名簿の上から順に線を引きながら暖房のためのガスは最後まで供給しますから、って律義に一軒一軒電話をしていって、それが終わって帰る途中に殺されてしまう。Duncanと心中するつもりだったSandraは悲しむのだが、Patrickがぼくでよければ、って申し出たのでふたりは銃を手にして –
他にもいろんな人が出てきて、それぞれに焦ったり騒いだり嘆き悲しんだりべったりくっついたり、その描き方、距離がとても丁寧なのでそこがかえって都市の終末感 – ああ世界は終わっちゃうんだねえ、を膨らませていて、いいの。もう会うのはこれで最後になるであろういろんな人たち、のようにカメラが登場人物たちを見つめて、登場人物たちも見返してくる。
俳優さんはみな素敵なのだが、監督が彼女を想定して書いたというSandra Ohがすばらしくて、もしラストで彼女とDuncanが出会うことができていたら - Sandra OhとDavid Cronenbergがどう絡んだのか、は見てみたかったかも。
もちろん映画は0:00 – 世界の最後の瞬間(のほんの少し手前)でおわるのだが、誰もがその瞬間、自分はどこにいて誰となにをするだろうか、どうやって終わりたいだろうか、って考えると思う。キスをして終わるのか、殺しあって終わるのか、どっちにしても息を止めて。 そんなことを考えさせるように内側に刺さってくるので、よい映画だわ、って。
最後には本を読むべきか音楽を聴くべきか、映画.. はちがうかな、とか。あるいは最後に読む本、聴くレコード、見る映画は、食べ物は、とかのリストは。
そして気がつけば2018ベストがちょこちょこ発表されだしていて、2018年の世界は終わろうとしているのだった。
最近の子は知らないかもだけど、前世紀の終わりには2000年問題ていうのがあって、更にその少し前にはノストラダムスの予言とかあって、2000年になるときに地球は滅びるよって言われていたことがあって、「どうせみんななくなっちゃうんだから、さ」とか「なくなっちゃうとして最後になにする、なに食べる?」とか、そういうのをムダに考えていた時代 - 村上春樹の大部分てこの辺からきていると思う - があって、ほーんとあの頃のあの時間を返してほしいわ、って思うけど、返してもらったからってどうせろくなことに使わないであろうことはわかっている。くらいの大人にはなった。
カナダの俳優のDon McKellarが自分で書いて主演して監督した自主製作ぽいかんじの – そういう事情によるのかカナダの映画人たち - Sarah PolleyとかDavid Cronenbergが出演している。でもとにかく映画そのものはすばらしくよかった。
深夜の12時がくると世界が隅から隅までぜんぶ、完全に終わってしまう – そういうことになっていてもうどうすることもできないらしい – その当日の昼から、トロントの街中はお祭りしていたりやけのどんちゃん騒ぎしたり泥棒や暴行もやりたい放題が横行していて、その中にあって横一線で最後を迎えようとしているいろんな人達の動きを追っていく。
妻に先立たれて独り身でどんよりしているPatrick (Don McKellar)は、一応実家に行ってクリスマスとサンクスギビングが一緒になったような家族そろって(姉にSarah Polleyとか)のお食事の会をするのだが最後の瞬間はひとりで過ごしたいから、って自分のとこに戻ろうとする。
Sandra (Sandra Oh)は車で移動中に買い物をしようと車を止めたら車を勝手に移動されて壊されて、夫と連絡とりたいのにどうしよう、て泣いて往生しているときに戻る途中のPatrickと出会って、Patrickは一緒に夫を探してあげることにする。
Patrickの友達のCraig (Callum Keith Rennie)は朝からセックスマラソンをしてて、これまでやったことがないようなのを、と別の人種のひととか高校の時のフランス語の先生とかヴァージンとか次々に自分のアパートに呼んで懸命にがんばっていて、そこにPatrickとSandraがきて彼がコレクションしている車をくれ(どうせいらないだろ)、という。(CraigはついでにPatrickともやってみたい、と提案するが拒否される)
ガス会社に勤務するSandraの夫のDuncan (David Cronenberg) は顧客名簿の上から順に線を引きながら暖房のためのガスは最後まで供給しますから、って律義に一軒一軒電話をしていって、それが終わって帰る途中に殺されてしまう。Duncanと心中するつもりだったSandraは悲しむのだが、Patrickがぼくでよければ、って申し出たのでふたりは銃を手にして –
他にもいろんな人が出てきて、それぞれに焦ったり騒いだり嘆き悲しんだりべったりくっついたり、その描き方、距離がとても丁寧なのでそこがかえって都市の終末感 – ああ世界は終わっちゃうんだねえ、を膨らませていて、いいの。もう会うのはこれで最後になるであろういろんな人たち、のようにカメラが登場人物たちを見つめて、登場人物たちも見返してくる。
俳優さんはみな素敵なのだが、監督が彼女を想定して書いたというSandra Ohがすばらしくて、もしラストで彼女とDuncanが出会うことができていたら - Sandra OhとDavid Cronenbergがどう絡んだのか、は見てみたかったかも。
もちろん映画は0:00 – 世界の最後の瞬間(のほんの少し手前)でおわるのだが、誰もがその瞬間、自分はどこにいて誰となにをするだろうか、どうやって終わりたいだろうか、って考えると思う。キスをして終わるのか、殺しあって終わるのか、どっちにしても息を止めて。 そんなことを考えさせるように内側に刺さってくるので、よい映画だわ、って。
最後には本を読むべきか音楽を聴くべきか、映画.. はちがうかな、とか。あるいは最後に読む本、聴くレコード、見る映画は、食べ物は、とかのリストは。
そして気がつけば2018ベストがちょこちょこ発表されだしていて、2018年の世界は終わろうとしているのだった。
12.04.2018
[film] The Other Side of Everything (2017)
11月13日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
原題は”Druga strana svega”。監督はMila Turajlićで、セルビアのベオグラードにある彼女が生まれ育ったアパートが舞台。で、登場人物はほぼひとり - 彼女の母で、引退した大学教授(電気工学専攻)で、政治活動家(ずっと)で、政治家として閣僚経験もあるSrbijanka Turajlić。彼女も同じアパートで生まれ育って、今もずーっとそこにいて、家の手すりや取っ手を磨いたりしている。
彼女たちが暮らしているアパートには第二次大戦直後(Srbijankaが2歳のとき)に当時の共産主義政権によって閉じられた扉があって、その扉の向こう側の部屋は政府が没収して別の家庭に与えてしまったので、SrbijankaもMilaもたまに音がしたり食べ物の匂いがしたり誰かが暮らしていることはわかるものの、向こう側がどうなっているのかは全くわからないままに70年近くが過ぎている。
初めはその開かずの扉を巡って、その扉の向こうにはいったい何が? ひょっとしたらあんなのとかこんなのとかが? の謎や驚きを探るようなやつかと思ったのだがそうではなくて、母Srbijankaの言葉により語られる家族の歴史、そしてユーゴスラヴィア – セルビアの歴史、そしてそこに並走していくニュースやアーカイブの映像、など。 監督の曽祖父のDušan Pelešはユーゴ建国の起草書にサインをしているくらいの人物で代々法律家で、そのアパートも彼がその場所に建てたもので、そういう歴史や血を背負った彼女(たち)がアパートの窓から見渡す風景(頻繁に集会やデモや騒ぎが起きてる)はどんなもので、それはどう変わっていったのか。
ユーゴスラヴィア - セルビアの歴史に詳しくない – せいぜいミロシェヴィッチの頃のことくらいしかわからなくても、ひとりの女性、ひとつのアパート、そのいくつかの窓、扉を通して語られる自国の歴史がこれほどまでにダイナミックで生々しいものになるものか、と感動する。それはもちろん、彼女の家族が辿ってきた運命 - 家も彼女の活動もずっと当局の監視下にあった - や、そういったことが培ってきた政治に対する意識によるところが大きいのかもしれないが、でも、普段毎日ずっと見つめている手すりとか蝶番とか小さな覗き窓(筋とは関係ないけどそれらの意匠はとても素敵)から、その向こう側に広がる世界を、その向こう側を成り立たせている世界のありようとかこちら側と向こう側の差異とかについて考えてみることって、そんなに難しいこととは思えないし、我々も割と無意識にぼんやり考えたり想像したりしていることではなかろうか。
という具合にこちらの扉を叩いてくるなにかが描かれているのと、Srbijanka Turajlićそのひとの落ち着いた物腰、タバコを吸いながら遠くを見る目、ゆっくりと喋る低めのハスキーな声、Ministry of Educationにいたことがあるくらいなので教育者としてとても優れたひとだったのだろうな、ていうのと、なによりあれだけ不安定な時代をくぐり抜けてきてもなお、希望を失っていない – 少なくとも絶望はしていない、その姿を見ているだけでなんかよいの。
撮影中に扉の向こう側に住んでいた人は高齢のため亡くなって、最後の最後に開かずの扉が開かれるのだが、ちっともドラマチックな描き方をしていないのもよかった。扉の向こう側にあったのは扉の向こう側にあった世界だった(やっぱりな)、みたいな。 もちろん、Srbijankaさんがそこに見たものがどんなだったか、知る由もないのだが。
あと、扉がその向こうに積んであるなにかによって開かなくなったりするのは民主化とはまったく関係のないお片づけ事案なので、積みあげるのはやめてこまめにお片づけをしないとね、って師走だから書いておくから。 もう師走なんだからね。
原題は”Druga strana svega”。監督はMila Turajlićで、セルビアのベオグラードにある彼女が生まれ育ったアパートが舞台。で、登場人物はほぼひとり - 彼女の母で、引退した大学教授(電気工学専攻)で、政治活動家(ずっと)で、政治家として閣僚経験もあるSrbijanka Turajlić。彼女も同じアパートで生まれ育って、今もずーっとそこにいて、家の手すりや取っ手を磨いたりしている。
彼女たちが暮らしているアパートには第二次大戦直後(Srbijankaが2歳のとき)に当時の共産主義政権によって閉じられた扉があって、その扉の向こう側の部屋は政府が没収して別の家庭に与えてしまったので、SrbijankaもMilaもたまに音がしたり食べ物の匂いがしたり誰かが暮らしていることはわかるものの、向こう側がどうなっているのかは全くわからないままに70年近くが過ぎている。
初めはその開かずの扉を巡って、その扉の向こうにはいったい何が? ひょっとしたらあんなのとかこんなのとかが? の謎や驚きを探るようなやつかと思ったのだがそうではなくて、母Srbijankaの言葉により語られる家族の歴史、そしてユーゴスラヴィア – セルビアの歴史、そしてそこに並走していくニュースやアーカイブの映像、など。 監督の曽祖父のDušan Pelešはユーゴ建国の起草書にサインをしているくらいの人物で代々法律家で、そのアパートも彼がその場所に建てたもので、そういう歴史や血を背負った彼女(たち)がアパートの窓から見渡す風景(頻繁に集会やデモや騒ぎが起きてる)はどんなもので、それはどう変わっていったのか。
ユーゴスラヴィア - セルビアの歴史に詳しくない – せいぜいミロシェヴィッチの頃のことくらいしかわからなくても、ひとりの女性、ひとつのアパート、そのいくつかの窓、扉を通して語られる自国の歴史がこれほどまでにダイナミックで生々しいものになるものか、と感動する。それはもちろん、彼女の家族が辿ってきた運命 - 家も彼女の活動もずっと当局の監視下にあった - や、そういったことが培ってきた政治に対する意識によるところが大きいのかもしれないが、でも、普段毎日ずっと見つめている手すりとか蝶番とか小さな覗き窓(筋とは関係ないけどそれらの意匠はとても素敵)から、その向こう側に広がる世界を、その向こう側を成り立たせている世界のありようとかこちら側と向こう側の差異とかについて考えてみることって、そんなに難しいこととは思えないし、我々も割と無意識にぼんやり考えたり想像したりしていることではなかろうか。
という具合にこちらの扉を叩いてくるなにかが描かれているのと、Srbijanka Turajlićそのひとの落ち着いた物腰、タバコを吸いながら遠くを見る目、ゆっくりと喋る低めのハスキーな声、Ministry of Educationにいたことがあるくらいなので教育者としてとても優れたひとだったのだろうな、ていうのと、なによりあれだけ不安定な時代をくぐり抜けてきてもなお、希望を失っていない – 少なくとも絶望はしていない、その姿を見ているだけでなんかよいの。
撮影中に扉の向こう側に住んでいた人は高齢のため亡くなって、最後の最後に開かずの扉が開かれるのだが、ちっともドラマチックな描き方をしていないのもよかった。扉の向こう側にあったのは扉の向こう側にあった世界だった(やっぱりな)、みたいな。 もちろん、Srbijankaさんがそこに見たものがどんなだったか、知る由もないのだが。
あと、扉がその向こうに積んであるなにかによって開かなくなったりするのは民主化とはまったく関係のないお片づけ事案なので、積みあげるのはやめてこまめにお片づけをしないとね、って師走だから書いておくから。 もう師走なんだからね。
[television] The Young Ones (1982-84)
11月24日土曜日の午後、BFIのComedy Genius特集で見ました。
映画ではなくて80年代の英国のTVのSitcomで、Q&Aも含めると210分のやつだったが、ぜんぜん知らなかったしお勉強のために行ってみようか、と。
会場はBFIのいちばんでっかいところで、Sold Outはしていなかったみたいだがほぼいっぱい、同年代にしか見えない熱のこもった怪しそうな老人たちで埋まっていて、The Clashとかのオールドパンクががんがん流れている。えらくなごめる。
上映前にBFIのひとが出てきて、後の時代になって”Game Changer”と呼ばれる作品がある、先週BFIで紹介した”I Love Lucy”は米国SitcomのGame Changerだったが、英国の場合、まさにこの”The Young Ones”がそれにあたるのである、とかなんとか。
BBC2で2シーズン(82年と84年)、6 x 2の計12エピソードが放映されて、今回は最初の3エピソード - "Demolition", “Oil”, “Boring” – を続けて上映して、休憩のあとに関係者のQ&A。
同じアパートをシェアして暮らしている4人のぽんこつ大学生 + 時々変な大家が顔を出す。4人は外見もろパンク(でもTシャツはメタルとかRushとか)でネジが外れて凶暴な医学生Vyvyan (Adrian Edmondson)、アナーキストの観念パンクでいっつも怒ってじだんだ踏んでる社会学徒のRick (Rik Mayall)、長髪のヒッピーでおっとり平和主義だけど自殺することばかり考えているNeil (Nigel Planer)、おしゃべり頭からっぽヤッピーふうでスタイル命のMike (Christopher Ryan)、ここに国籍不詳でがみがみうるさいスキンヘッドの大家Balowski (Alexei Sayle)が絡んでくる。 VyvyanとRickはいつもしょうもない小競り合いばかりしてて、Neilはそのとばっちりで酷いめにあって自殺しようかな、とか言っている。あとはアパートに暮らすネズミとかVyvyanのペットのハムスターなどがマペットというほどちゃんとしてない、適度に動いて喋るぬいぐるみみたいのが出てきて、住民に虐殺されたりぶっとばされたりしている。
ふつうのSitcomにある冒頭でなにか問題とか事件が起こって、それがエピソードの終わりに解決してよかったね、みたいなよく知るスタイルではなくて、止まらない喧嘩やおしゃべりの延長で物が飛んだり割れたり壁が抜けたり水が溢れたり器物や建物の破壊行為が連鎖して収拾がつかなくなり、それがどうしたよ、これからどうすんだおら、みたいにぷつりと終わる。更に彼らが見ているTVのコメディーショーがそのまま挿入されてきたり、リビングやパブでバンドが演奏しているのがそのまま流れて、そのバンドと主人公たちがやりあったりする。今回見た回に出てきたのはNine Below Zero(しってる)、Radical Posture (しらない)、Madness (!) – 主人公たちが行ったパブで"House of Fun"を演奏してるの。 他のエピソードに出てきたのはDexys Midnight Runners, Rip Rig + Panic, Motörhead, The Damned などだと。 えーいいなーすごいなー、としか言いようがないわ。
みんなのお料理係のNeilが料理をひっくり返したり鍋や皿が飛んだり、天井からなんか落ちてきて全壊したり、小学生の頃にドリフのネタで食べ物を粗末にしたり物を壊したりするのはいけないことなのでマネしないように、って散々親とかPTAから言われてきたやってはいけませんネタがよりダイナミックに遠慮なくどかどか展開されている、しかもそこに(ぬいぐるみだけど)動物虐待まで加わって、めちゃくちゃ乱暴でアナーキーで、こんなのGame ChangerというよりGame Disruptorだよね、って。しかもそれを天下のBBCがやっていたって。 ふつうにびっくりした。
85年にはアメリカに渡ってMTVで放映されたりアメリカ版も製作されたりしたようだが、思いつくところでいうと”Beavis and Butt-Head”の実写版、みたいな。それくらいバカ一直線で容赦のないかんじ。
上映後のQ&AにはプロデューサーのPaul Jackson、ライターのLise Mayer、Neil役のNigel Planer、大家役のAlexei Sayleが並んだ。
やはり一番聞きたいところはよくBBCがこんなのにGoを出したよね何故? というところだったが、当時BBCは若者向けの番組を作れないかって検討していて、丁度Channel Fourがもうじき若者向けのを始めると聞いて焦り始めて、そこに準備していた我々の企画を見せたらすぐにできるならやってみろ、になったと。 ただ内容自体はスタッフの間に新しいドラマをやってみたいという熱が相当あってテストもいっぱいしていたからそれなりの自信はあったのだ、と。
80年代初の英国って、音楽に関してはものすごくいろんな思い入れがあるので、こういうのもあったのね、と知って新鮮で、でもどんな人達が楽しみに見ていたのかしら? とは思った。この頃って(日本だけど)TVとか全く見ていなかったので、話を聞くだけでおもしろいわ。
映画ではなくて80年代の英国のTVのSitcomで、Q&Aも含めると210分のやつだったが、ぜんぜん知らなかったしお勉強のために行ってみようか、と。
会場はBFIのいちばんでっかいところで、Sold Outはしていなかったみたいだがほぼいっぱい、同年代にしか見えない熱のこもった怪しそうな老人たちで埋まっていて、The Clashとかのオールドパンクががんがん流れている。えらくなごめる。
上映前にBFIのひとが出てきて、後の時代になって”Game Changer”と呼ばれる作品がある、先週BFIで紹介した”I Love Lucy”は米国SitcomのGame Changerだったが、英国の場合、まさにこの”The Young Ones”がそれにあたるのである、とかなんとか。
BBC2で2シーズン(82年と84年)、6 x 2の計12エピソードが放映されて、今回は最初の3エピソード - "Demolition", “Oil”, “Boring” – を続けて上映して、休憩のあとに関係者のQ&A。
同じアパートをシェアして暮らしている4人のぽんこつ大学生 + 時々変な大家が顔を出す。4人は外見もろパンク(でもTシャツはメタルとかRushとか)でネジが外れて凶暴な医学生Vyvyan (Adrian Edmondson)、アナーキストの観念パンクでいっつも怒ってじだんだ踏んでる社会学徒のRick (Rik Mayall)、長髪のヒッピーでおっとり平和主義だけど自殺することばかり考えているNeil (Nigel Planer)、おしゃべり頭からっぽヤッピーふうでスタイル命のMike (Christopher Ryan)、ここに国籍不詳でがみがみうるさいスキンヘッドの大家Balowski (Alexei Sayle)が絡んでくる。 VyvyanとRickはいつもしょうもない小競り合いばかりしてて、Neilはそのとばっちりで酷いめにあって自殺しようかな、とか言っている。あとはアパートに暮らすネズミとかVyvyanのペットのハムスターなどがマペットというほどちゃんとしてない、適度に動いて喋るぬいぐるみみたいのが出てきて、住民に虐殺されたりぶっとばされたりしている。
ふつうのSitcomにある冒頭でなにか問題とか事件が起こって、それがエピソードの終わりに解決してよかったね、みたいなよく知るスタイルではなくて、止まらない喧嘩やおしゃべりの延長で物が飛んだり割れたり壁が抜けたり水が溢れたり器物や建物の破壊行為が連鎖して収拾がつかなくなり、それがどうしたよ、これからどうすんだおら、みたいにぷつりと終わる。更に彼らが見ているTVのコメディーショーがそのまま挿入されてきたり、リビングやパブでバンドが演奏しているのがそのまま流れて、そのバンドと主人公たちがやりあったりする。今回見た回に出てきたのはNine Below Zero(しってる)、Radical Posture (しらない)、Madness (!) – 主人公たちが行ったパブで"House of Fun"を演奏してるの。 他のエピソードに出てきたのはDexys Midnight Runners, Rip Rig + Panic, Motörhead, The Damned などだと。 えーいいなーすごいなー、としか言いようがないわ。
みんなのお料理係のNeilが料理をひっくり返したり鍋や皿が飛んだり、天井からなんか落ちてきて全壊したり、小学生の頃にドリフのネタで食べ物を粗末にしたり物を壊したりするのはいけないことなのでマネしないように、って散々親とかPTAから言われてきたやってはいけませんネタがよりダイナミックに遠慮なくどかどか展開されている、しかもそこに(ぬいぐるみだけど)動物虐待まで加わって、めちゃくちゃ乱暴でアナーキーで、こんなのGame ChangerというよりGame Disruptorだよね、って。しかもそれを天下のBBCがやっていたって。 ふつうにびっくりした。
85年にはアメリカに渡ってMTVで放映されたりアメリカ版も製作されたりしたようだが、思いつくところでいうと”Beavis and Butt-Head”の実写版、みたいな。それくらいバカ一直線で容赦のないかんじ。
上映後のQ&AにはプロデューサーのPaul Jackson、ライターのLise Mayer、Neil役のNigel Planer、大家役のAlexei Sayleが並んだ。
やはり一番聞きたいところはよくBBCがこんなのにGoを出したよね何故? というところだったが、当時BBCは若者向けの番組を作れないかって検討していて、丁度Channel Fourがもうじき若者向けのを始めると聞いて焦り始めて、そこに準備していた我々の企画を見せたらすぐにできるならやってみろ、になったと。 ただ内容自体はスタッフの間に新しいドラマをやってみたいという熱が相当あってテストもいっぱいしていたからそれなりの自信はあったのだ、と。
80年代初の英国って、音楽に関してはものすごくいろんな思い入れがあるので、こういうのもあったのね、と知って新鮮で、でもどんな人達が楽しみに見ていたのかしら? とは思った。この頃って(日本だけど)TVとか全く見ていなかったので、話を聞くだけでおもしろいわ。
12.03.2018
[film] The Girl in the Spider's Web (2018)
11月25日、日曜日の晩、Haymarketのシネコンで見ました。
David Fincherによる”The Girl with the Dragon Tattoo” (2011)のシリーズの第二弾、のはずだったが、キャストもスタッフも総とっかえ(David Fincherの名前はExec. Producerのとこにはある。Trentはいないよ)のようで、どんなもんかしら、と。
冒頭が姉妹の幼い頃の回想シーンで、はっきりとは語られないもののLisbethの生い立ちとか過去に関わってくる話なんだな、て思って、ちょっとだけあーあ、になる。おいらは過去なんて棄てたんだ知るかよ、ていう鉄面で冷たく相手を絞めあげていくLisbethがかっこよかったのにさ。
元NSAのプログラマーからの依頼でNSAからFirefall(ぷぷ)ていうプログラムを盗みだしたLisbeth (Claire Foy)だったが、その直後に自宅を襲われて火をつけられて、その依頼主と男の子を守るのと、プログラムを狙ってくるやばそうな組織とスウェーデン(お国)のセキュリティ組織と、米国から取り戻しにくるNSAの間でぐるぐる追っかけっこが始まる。 で、いちばん悪っぽい組織がSpider – 蜘蛛蜘蛛団で、こいつらがLisbethの過去に関わっていそうで、痛くて痒いかんじで。
Lisbethの側にいるのはジャーナリストのMikael Blomkvist (Sverrir Gudnason)で - この人は前作ではDaniel Craigだったはずなんだがなあ - と、ずんぐりむっくり(なんでいっつもそんなイメージ?)でキーとモニターだけが友達のハッカー君だけ。
プログラムを盗んでも有効にできる鍵を持っていそうなのはとっても賢そうで殆ど喋らないプログラマーの息子で、チェスが得意なこいつに自分の子供時代を重ねてしんみりするLisbethだったが彼をプログラムごと組織にさらわれちゃったので、それどころじゃなくなる。
前作にあった隔離された旧家にどす黒く流れる闇の歴史を緻密にクールに追いつめていく謎解きのスリル、ひとの傷をどこまでも突っついておらおらやる変態なところはどこかに行って、ただの凍える町とか森とか家のなかを走り回ってPCと子供の争奪戦をやっているだけで、クライマックスも、なんであなたがぁぁー? って断崖で叫んでるTVドラマみたいなふうで、これ、もし原作がそうなのだとしたら、David Fincherはそれで降りちゃったのかしら、とか。
ラストの銃撃のとこ、お屋敷の3Dイメージをどこからどうやって読み込むんだかわかんないけど立ち上げて、そこを介して遠隔でどんぱちするのがおもしろくて、あのプログラムの方がFirefallなんかよりよっぽど危険で実用的でほしいぞ、って思った。
Claire Foyさんもがんばっているのだが、Rooney Maraさんと比べるとやはりちょっとWetなのよね。今回のストーリーだとそれでよかったのかも、だけど。彼女の顔でWetだとトサカ髪もかわいく見えたりしちゃうところとか、なあ。
で、その状態で更にMikaelも甘めで弱っちいので頼れそうなのがまわりに誰もいないかんじなのもきつかった。
もう少しLisbethの役に立ってあげればいいのに、なMikaelの同僚役でVicky “Phantom Thread” Kriepsさんが出ていて、毒キノコをいっぱつやってくれるかと思ったけど、なんもしなかった。あの人たちなにしに出てきたのかしら?
LisbethがなんでLisbethになったのか、だいたいのとこはわかるのだが、それでも何が彼女と姉を隔てたのかは明確にならなくて、そこが物語としては決定的に弱いかも。姉妹なんてそういうもんだから、とか言わないで。
あと、アメリカとスウェーデンのセキュリティ当局は互いに本件どう落とし前をつけたのか、ちょっとだけ気になる。
あと、すごく寒そうなんだけど、みんな寒くないの? ちょっとは寒そうな顔とか振りとかして。
David Fincherによる”The Girl with the Dragon Tattoo” (2011)のシリーズの第二弾、のはずだったが、キャストもスタッフも総とっかえ(David Fincherの名前はExec. Producerのとこにはある。Trentはいないよ)のようで、どんなもんかしら、と。
冒頭が姉妹の幼い頃の回想シーンで、はっきりとは語られないもののLisbethの生い立ちとか過去に関わってくる話なんだな、て思って、ちょっとだけあーあ、になる。おいらは過去なんて棄てたんだ知るかよ、ていう鉄面で冷たく相手を絞めあげていくLisbethがかっこよかったのにさ。
元NSAのプログラマーからの依頼でNSAからFirefall(ぷぷ)ていうプログラムを盗みだしたLisbeth (Claire Foy)だったが、その直後に自宅を襲われて火をつけられて、その依頼主と男の子を守るのと、プログラムを狙ってくるやばそうな組織とスウェーデン(お国)のセキュリティ組織と、米国から取り戻しにくるNSAの間でぐるぐる追っかけっこが始まる。 で、いちばん悪っぽい組織がSpider – 蜘蛛蜘蛛団で、こいつらがLisbethの過去に関わっていそうで、痛くて痒いかんじで。
Lisbethの側にいるのはジャーナリストのMikael Blomkvist (Sverrir Gudnason)で - この人は前作ではDaniel Craigだったはずなんだがなあ - と、ずんぐりむっくり(なんでいっつもそんなイメージ?)でキーとモニターだけが友達のハッカー君だけ。
プログラムを盗んでも有効にできる鍵を持っていそうなのはとっても賢そうで殆ど喋らないプログラマーの息子で、チェスが得意なこいつに自分の子供時代を重ねてしんみりするLisbethだったが彼をプログラムごと組織にさらわれちゃったので、それどころじゃなくなる。
前作にあった隔離された旧家にどす黒く流れる闇の歴史を緻密にクールに追いつめていく謎解きのスリル、ひとの傷をどこまでも突っついておらおらやる変態なところはどこかに行って、ただの凍える町とか森とか家のなかを走り回ってPCと子供の争奪戦をやっているだけで、クライマックスも、なんであなたがぁぁー? って断崖で叫んでるTVドラマみたいなふうで、これ、もし原作がそうなのだとしたら、David Fincherはそれで降りちゃったのかしら、とか。
ラストの銃撃のとこ、お屋敷の3Dイメージをどこからどうやって読み込むんだかわかんないけど立ち上げて、そこを介して遠隔でどんぱちするのがおもしろくて、あのプログラムの方がFirefallなんかよりよっぽど危険で実用的でほしいぞ、って思った。
Claire Foyさんもがんばっているのだが、Rooney Maraさんと比べるとやはりちょっとWetなのよね。今回のストーリーだとそれでよかったのかも、だけど。彼女の顔でWetだとトサカ髪もかわいく見えたりしちゃうところとか、なあ。
で、その状態で更にMikaelも甘めで弱っちいので頼れそうなのがまわりに誰もいないかんじなのもきつかった。
もう少しLisbethの役に立ってあげればいいのに、なMikaelの同僚役でVicky “Phantom Thread” Kriepsさんが出ていて、毒キノコをいっぱつやってくれるかと思ったけど、なんもしなかった。あの人たちなにしに出てきたのかしら?
LisbethがなんでLisbethになったのか、だいたいのとこはわかるのだが、それでも何が彼女と姉を隔てたのかは明確にならなくて、そこが物語としては決定的に弱いかも。姉妹なんてそういうもんだから、とか言わないで。
あと、アメリカとスウェーデンのセキュリティ当局は互いに本件どう落とし前をつけたのか、ちょっとだけ気になる。
あと、すごく寒そうなんだけど、みんな寒くないの? ちょっとは寒そうな顔とか振りとかして。
12.02.2018
[film] Klute (1971)
11月20日の晩、BFIで見ました。”Comedy Genius”特集の目玉で、4Kリストアされた”9 to 5” (1980)がリバイバルされるのに関連しているのかいないのか、Jane Fondaの特集 “Jane Fonda: Coming of Age”も並行してやっている。 10月には本人が来てトークしたりしていたのだが(Isabella Rosselliniのと被ってて)、やはりこれもぜーんぜん行けていない。
70年代、Pennsylvaniaの会社の重役が失踪して、警察は彼がNYの娼婦(あ、邦題は『コールガール』ね)Bree Daniels (Jane Fonda)に宛てた卑猥な手紙を見つけていて、会社と彼の家族はコトを広げたくないからか彼と面識のあった捜査官John Klute (Donald Sutherland)をNYに送る。
Breeはオン・コールで娼婦をしながらモデルのオーディション受けたりセラピーに通ったり、なんとか今の生活を変えようとしているところでもあって、Kluteの質問なんて初めは相手にしないのだが、KluteがBreeのアパートの下に部屋を借りて地味に辛抱強く貼りついているとだんだんに距離が縮まっていく。
そのうちBreeの間近にいた娼婦ふたりが自殺したり消えたりしていることを知り、Breeの部屋も荒らされたりして、明らかに彼女が狙われていることがわかって。
複数の失踪が絡む犯罪サスペンスなのだがそんなに猟奇的でもパラノイアックでもなくて、犯人も割とすぐにわかるしアクションは地味でなにやってるかわからないとこもあるし、それでも印象に残るのは都会でぽつんと猫と暮らしているBreeの部屋を遠くから捉えたところとか、いつの間にか彼女の横にいるようになる仏頂面して寡黙なKluteとのふたりの絵とかそういうので、70年代のNYをしっとり柔らかいコントラストで美しく撮った作品 - 撮影は名手Gordon Willis – として記憶されるべき。
テープレコーダーで始まってテープレコーダーで終わる。 録音されたBreeの声も素敵で、Jane Fondaはこれで(勿論声だけじゃないよ)オスカーの主演女優賞を獲っているのね。
“Don't Look Now” (1973)より前のDonald Sutherland。Nicolas Roegについては追悼できるほど見ていないのですが、“Don't Look Now”は以下の記事にあるように最近のモダン・ホラーとの関連で今こそ見られるべき作品かもしれないねえ。
https://www.newyorker.com/recommends/watch/dont-look-now-nicolas-roegs-uncanny-masterpiece?
Cat Ballou (1965)
10月26日、金曜日の晩にBFIで見ていたやつ。これもJane Fonda特集からの1本。
真面目なCatherine (Jane Fonda)が教師になるべく学校を終えて列車でワイオミングにある自宅の農場に戻ると、その土地は悪党に狙われていることがわかったので用心棒の凄腕ガンマンKid Shelleen (Lee Marvin)を雇うのだが、こいつはいつも酔っ払っていて役立たずで、父親も目の前で殺されてしまう。色恋狙いでくっついてきた若造たちとShelleenとで復讐すべく訓練して立ち向かって暴れてみるのだが結局お縄になって首吊り台へ、彼女 – “Cat Ballou”の運命やいかに― ていうややおちゃらけ寄りのウェスタンで、ただひとり、異次元から来たようなぼうぼうに小汚いLee Marvin - お酒を飲めば百発百中 – だけがフランケンシュタインみたいにそこに生々しく立っているかんじ。
西部劇なので”The Ballad of Buster Scruggs”との関連も考えてみたのだが、関連なんてぜんぜんなしでよいのだと思った。 歌のところだけ、Nat King ColeとStubby Kayeのふたりが辻辻 – クロスロードに立ってて琵琶法師みたいに歌にして風に飛ばしてくれる。 そうやって飛んできたやつが本とかに落ち着いて、それが開かれて再び映画になって、ていう無間のサイクルのなかを我々は生きているのだねえ、って。
これはこれでぜんぜんよいのだが、”The Ballad of Buster Scruggs”がそれを見る我々に意識させる現代性みたいのって、なんなのだろうか。 “Cat Ballou”に時代を感じさせてしまうなにか、ってなんなのだろうか。
Preston Sturgesの”The Beautiful Blonde from Bashful Bend” (1949)とかを見たい気分かも。
(限りなくバカなやつを遡っていきたいかんじ)
70年代、Pennsylvaniaの会社の重役が失踪して、警察は彼がNYの娼婦(あ、邦題は『コールガール』ね)Bree Daniels (Jane Fonda)に宛てた卑猥な手紙を見つけていて、会社と彼の家族はコトを広げたくないからか彼と面識のあった捜査官John Klute (Donald Sutherland)をNYに送る。
Breeはオン・コールで娼婦をしながらモデルのオーディション受けたりセラピーに通ったり、なんとか今の生活を変えようとしているところでもあって、Kluteの質問なんて初めは相手にしないのだが、KluteがBreeのアパートの下に部屋を借りて地味に辛抱強く貼りついているとだんだんに距離が縮まっていく。
そのうちBreeの間近にいた娼婦ふたりが自殺したり消えたりしていることを知り、Breeの部屋も荒らされたりして、明らかに彼女が狙われていることがわかって。
複数の失踪が絡む犯罪サスペンスなのだがそんなに猟奇的でもパラノイアックでもなくて、犯人も割とすぐにわかるしアクションは地味でなにやってるかわからないとこもあるし、それでも印象に残るのは都会でぽつんと猫と暮らしているBreeの部屋を遠くから捉えたところとか、いつの間にか彼女の横にいるようになる仏頂面して寡黙なKluteとのふたりの絵とかそういうので、70年代のNYをしっとり柔らかいコントラストで美しく撮った作品 - 撮影は名手Gordon Willis – として記憶されるべき。
テープレコーダーで始まってテープレコーダーで終わる。 録音されたBreeの声も素敵で、Jane Fondaはこれで(勿論声だけじゃないよ)オスカーの主演女優賞を獲っているのね。
“Don't Look Now” (1973)より前のDonald Sutherland。Nicolas Roegについては追悼できるほど見ていないのですが、“Don't Look Now”は以下の記事にあるように最近のモダン・ホラーとの関連で今こそ見られるべき作品かもしれないねえ。
https://www.newyorker.com/recommends/watch/dont-look-now-nicolas-roegs-uncanny-masterpiece?
Cat Ballou (1965)
10月26日、金曜日の晩にBFIで見ていたやつ。これもJane Fonda特集からの1本。
真面目なCatherine (Jane Fonda)が教師になるべく学校を終えて列車でワイオミングにある自宅の農場に戻ると、その土地は悪党に狙われていることがわかったので用心棒の凄腕ガンマンKid Shelleen (Lee Marvin)を雇うのだが、こいつはいつも酔っ払っていて役立たずで、父親も目の前で殺されてしまう。色恋狙いでくっついてきた若造たちとShelleenとで復讐すべく訓練して立ち向かって暴れてみるのだが結局お縄になって首吊り台へ、彼女 – “Cat Ballou”の運命やいかに― ていうややおちゃらけ寄りのウェスタンで、ただひとり、異次元から来たようなぼうぼうに小汚いLee Marvin - お酒を飲めば百発百中 – だけがフランケンシュタインみたいにそこに生々しく立っているかんじ。
西部劇なので”The Ballad of Buster Scruggs”との関連も考えてみたのだが、関連なんてぜんぜんなしでよいのだと思った。 歌のところだけ、Nat King ColeとStubby Kayeのふたりが辻辻 – クロスロードに立ってて琵琶法師みたいに歌にして風に飛ばしてくれる。 そうやって飛んできたやつが本とかに落ち着いて、それが開かれて再び映画になって、ていう無間のサイクルのなかを我々は生きているのだねえ、って。
これはこれでぜんぜんよいのだが、”The Ballad of Buster Scruggs”がそれを見る我々に意識させる現代性みたいのって、なんなのだろうか。 “Cat Ballou”に時代を感じさせてしまうなにか、ってなんなのだろうか。
Preston Sturgesの”The Beautiful Blonde from Bashful Bend” (1949)とかを見たい気分かも。
(限りなくバカなやつを遡っていきたいかんじ)
12.01.2018
[film] The Ballad of Buster Scruggs (2018)
11月19日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。Netflixのだけど映画館でも上映している。
Joel & Ethan Coenの、”True Grit” (2010)以来の西部劇、でよいのかしら。
関連のない(あるように見えない)全6話からなるオムニバスで、各話は本の扉を開いてページをめくるところから入って、閉じるところで終わる。にほん昔ばなし集、みたいなかんじ。
以下かんたんに。短いのでぼうぼうにネタバレするから。
The Ballad of Buster Scruggs
Buster Scruggs (Tim Blake Nelson)は民謡を歌いながら超早撃ちもできちゃう無敵のガンマンで、酒場で因縁つけてくる奴もあっという間に片づけてしまうのだが、若いガンマンからの挑戦を受けたら、今度はあっという間に …
Near Algodones
カウボーイ(James Franco)が原っぱにぽつんとある銀行に強盗に入ったら向こうはフライパン片手に反撃してくる変な野郎で手強くて、やがて馬上で高い木の上から縄で吊るされてもうだめか.. てなったところで奇跡の逆転をして、でも結局は首吊り台に立たされて「あそこにかわいい女の子がいるなー」とか言ってももうおそい。
Meal Ticket
Liam Neesonが馬車でどさまわりをする興業をやっていて、演じるのは手も足もないHarry Mellingで、お化粧してきれいな恰好をした彼が詩を詠んだりリンカーンの演説を諳んじたりして、終わると興行主がお金を回収してまわる。 ふたりはずっと無言で移動しているのだが、ある日興行主は計算芸をするニワトリを見かけてそいつを買って、実入りの減ってきた喋る胴体くんは..
All Gold Canyon
泉が湧いててシカがいてフクロウがいる楽園のようなとこに浮浪者みたいな金掘り(Tom Waits)が現れて、根気よく掘って洗って測量してを繰り返し、ようやくここかな、というところを見つけて量産に入ったら後ろから若いのに撃たれて、若いのは金をそのままいただくぜ、てなったところで金掘りが蘇って若いのをぶっ殺し、掘った穴をそのままそいつの墓にして次のとこに旅立って、楽園は元に戻る。
The Gal Who Got Rattled
西のOregonに向かって原野をコーチで渡っているAlice (Zoe Kazan)たちがいて、途中で兄が急死してどうしよう、っていうところで助けてくれたりしたBilly Knapp (Bill Heck)と仲良くなってポロポーズされて天にも昇るかんじになるのだが、その翌朝プレーリードッグを見ているときにインディアンに襲撃されて彼女ひとりが死んじゃうの。Billyになんと言ったらよいのやら …
The Mortal Remains
乗合コーチで移動している5人がいて、うちふたりは仕事仲間らしく、ひとりは女性で、夫婦関係とか言葉とか信仰とか、とりとめのない話しをしているのだが、女性は容態が悪くなって、それをアイリッシュのおじさん(Brendan Gleeson)が歌って鎮めて、やがてふたりは賞金稼ぎで死体を運んでいることがわかって、残りの3人は怖いよう … って。
それぞれの話し、その関連や成り立ちについていろんな角度からいろんなことが言えると思うが、少しだけ。
各話はだいたい20分くらい、開かれた本(おそらく古書)のページから立ちあがって、明らかにデジタルで撮影された(加工も?)ぺったんこで雄大な西部の風景をバックに、古書のページとデジタルランドスケープの間に展開される物語、でもそれはたったの20分だし、なにをどう説明できるのやら。
6つの話はどれも死を扱っていて、それは死ぬことであったり殺すことであったり突然やってくる死であったり、でもそれ以外の共通項はあまりなくて、そこにくっついて来がちな無常感、悲壮感、孤絶感、みたいのも希薄な即物的で動物のような死、それぞれは独立して切り離された別の世界でばらばらに起こっている話のように見える。20分だからそうならざるを得ない、というか、20分でもこれだけの幅を出せるのだ、というか。
それでも2つずつで束ねられたりしないだろうか。 最初のふたつは孤高のカウボーイが自分では思いもよらなかった死に方をする話、真ん中のふたつは、どうみても先のなさそうな汚れた年寄りが若者を殺して自分が生き延びる話、最後のふたつは思いもよらない陰から忍び寄ってくる死とその恐怖。 ただ、最後のエピソードだけトーンがちょっと抽象的で、全体を総括しているイメージもあるけど。
あとは歌。Tim Blake Nelsonの素っ頓狂なBalladで始まって、Brendan Gleesonの静かなアカペラで閉じる。
好きなのは真ん中のふたつかなあ。やがてふたりの老人 - Liam NeesonとTom Waits - が荒野でぶつかって対決するの。 ニワトリとフクロウで。
もうフィルムでは撮影しない宣言をしているCohensによるデジタルワールドへの嫌味、みたいに取れないこともないかも。
12月だってさ。 どうするんだ。
Joel & Ethan Coenの、”True Grit” (2010)以来の西部劇、でよいのかしら。
関連のない(あるように見えない)全6話からなるオムニバスで、各話は本の扉を開いてページをめくるところから入って、閉じるところで終わる。にほん昔ばなし集、みたいなかんじ。
以下かんたんに。短いのでぼうぼうにネタバレするから。
The Ballad of Buster Scruggs
Buster Scruggs (Tim Blake Nelson)は民謡を歌いながら超早撃ちもできちゃう無敵のガンマンで、酒場で因縁つけてくる奴もあっという間に片づけてしまうのだが、若いガンマンからの挑戦を受けたら、今度はあっという間に …
Near Algodones
カウボーイ(James Franco)が原っぱにぽつんとある銀行に強盗に入ったら向こうはフライパン片手に反撃してくる変な野郎で手強くて、やがて馬上で高い木の上から縄で吊るされてもうだめか.. てなったところで奇跡の逆転をして、でも結局は首吊り台に立たされて「あそこにかわいい女の子がいるなー」とか言ってももうおそい。
Meal Ticket
Liam Neesonが馬車でどさまわりをする興業をやっていて、演じるのは手も足もないHarry Mellingで、お化粧してきれいな恰好をした彼が詩を詠んだりリンカーンの演説を諳んじたりして、終わると興行主がお金を回収してまわる。 ふたりはずっと無言で移動しているのだが、ある日興行主は計算芸をするニワトリを見かけてそいつを買って、実入りの減ってきた喋る胴体くんは..
All Gold Canyon
泉が湧いててシカがいてフクロウがいる楽園のようなとこに浮浪者みたいな金掘り(Tom Waits)が現れて、根気よく掘って洗って測量してを繰り返し、ようやくここかな、というところを見つけて量産に入ったら後ろから若いのに撃たれて、若いのは金をそのままいただくぜ、てなったところで金掘りが蘇って若いのをぶっ殺し、掘った穴をそのままそいつの墓にして次のとこに旅立って、楽園は元に戻る。
The Gal Who Got Rattled
西のOregonに向かって原野をコーチで渡っているAlice (Zoe Kazan)たちがいて、途中で兄が急死してどうしよう、っていうところで助けてくれたりしたBilly Knapp (Bill Heck)と仲良くなってポロポーズされて天にも昇るかんじになるのだが、その翌朝プレーリードッグを見ているときにインディアンに襲撃されて彼女ひとりが死んじゃうの。Billyになんと言ったらよいのやら …
The Mortal Remains
乗合コーチで移動している5人がいて、うちふたりは仕事仲間らしく、ひとりは女性で、夫婦関係とか言葉とか信仰とか、とりとめのない話しをしているのだが、女性は容態が悪くなって、それをアイリッシュのおじさん(Brendan Gleeson)が歌って鎮めて、やがてふたりは賞金稼ぎで死体を運んでいることがわかって、残りの3人は怖いよう … って。
それぞれの話し、その関連や成り立ちについていろんな角度からいろんなことが言えると思うが、少しだけ。
各話はだいたい20分くらい、開かれた本(おそらく古書)のページから立ちあがって、明らかにデジタルで撮影された(加工も?)ぺったんこで雄大な西部の風景をバックに、古書のページとデジタルランドスケープの間に展開される物語、でもそれはたったの20分だし、なにをどう説明できるのやら。
6つの話はどれも死を扱っていて、それは死ぬことであったり殺すことであったり突然やってくる死であったり、でもそれ以外の共通項はあまりなくて、そこにくっついて来がちな無常感、悲壮感、孤絶感、みたいのも希薄な即物的で動物のような死、それぞれは独立して切り離された別の世界でばらばらに起こっている話のように見える。20分だからそうならざるを得ない、というか、20分でもこれだけの幅を出せるのだ、というか。
それでも2つずつで束ねられたりしないだろうか。 最初のふたつは孤高のカウボーイが自分では思いもよらなかった死に方をする話、真ん中のふたつは、どうみても先のなさそうな汚れた年寄りが若者を殺して自分が生き延びる話、最後のふたつは思いもよらない陰から忍び寄ってくる死とその恐怖。 ただ、最後のエピソードだけトーンがちょっと抽象的で、全体を総括しているイメージもあるけど。
あとは歌。Tim Blake Nelsonの素っ頓狂なBalladで始まって、Brendan Gleesonの静かなアカペラで閉じる。
好きなのは真ん中のふたつかなあ。やがてふたりの老人 - Liam NeesonとTom Waits - が荒野でぶつかって対決するの。 ニワトリとフクロウで。
もうフィルムでは撮影しない宣言をしているCohensによるデジタルワールドへの嫌味、みたいに取れないこともないかも。
12月だってさ。 どうするんだ。
11.30.2018
[film] Le Baron fantôme (1943)
17日の土曜日の午後、BFIで見ました。英語題は“The Phantom Baron”。日本公開はされていないみたい。
BFIでは10月から11月にかけて(ああ11月が飛んでいく)、Jean Cocteauの4Kリストア版“Orphée” (1950)のリバイバル公開(ああ見逃した)にあわせてSight & Sound誌の選による”Fantastique: The Dream Worlds of French Cinema”ていう特集をやっていて、フランス産の怪奇・幻想・スリラーを古いのから新しめ(2004年くらい)のまで上映しているのだが、そのなかの1本。 これ以外はぜーんぜん見れなかったわ。 他に上映されたのは、Jean Epsteinの”The Fall of the House of Usher” (1928)『アッシャー家の末裔』とか、Marcel L’Herbierの”La Nuit fantastique” (1942) -『幻想の夜』とか、Georges Franjuの”Eyes Without a Face” (1960) -『顔のない眼』とか、Anna Karinaがでてくる”L’Alliance” (1970) – “The Wedding Ring”とか、Orson Wellesがでてくる”Malpertuis” (1970) とか、”Innocence” (2004) -『エコール』とか… 書いててうんざりしてきた。なにやってたんだろ自分。ばかばかばか。
スクリプトをJean Cocteau が書いて(出演もして)て、衣装はChristian Dior(40年代のDior)。Cocteauは今作に続けてトリスタンとイゾルデもの – “L’Eternel retour” (1943) - 『悲恋』も書いている。まだ戦時中、占領下なのに。
フランスの田舎の朽ちかけたような古城にSaint-Helie伯爵夫人とElfy (Odette Joyeux)とAnne (Jany Holt)の娘ふたりが馬車でやってきて暮らし始める。ここの主の Julius Carol (Jean Cocteau) – 彼が亡霊男爵ね – は城のどこかに消えてしまったとか言われていて、猟場番の息子のHervé (Alain Cuny)とElfyとAnneの3人はいつも納屋の干し草のなかで一緒に遊びながら大きくなる。
美しく成長したAnneはHervéと恋仲になっていて、Elfyはどっかの貴族ぽい若者と恋のゲームを始めたりするのだが、やがて消えた男爵の祟りだか魔法だかがどこからか滲みだしてきてお日さまを遮りはじめて。
ストーリーそのものは、3人の子供たちが成長してからの恋のあれこれ、貴族社会でのあれこれ、これに古城にまつわる伝奇とか怪奇譚 - 男爵とか猫とか - と、それらの渦のなかで怨念とか情念とか黒い計算とか - のせめぎ合いがあって生き残るのはどっちだ、と言う程、四角四面の息詰まったものではなくて、怪談にもならなくて、ジュブナイル要素の入った幻想小説のような、とてもフレンチな小品。
最後に明らかになる謎とそれに対する登場人物たちの対応もなんかあっさりしていて、ぬぁんだとおおおおー(憤)みたいに目をむいてでんぐり返ったりせず、最後に回想シーンを入れてあんなだったのにね、って甘酸っぱい夢のように閉じたりしてて、大人なの。
「嵐が丘」やJane Austenモノといった英国の荒野、貴族サークルが出てくるのとは材料は似ているようで、これも違う。
冒頭の霧の中、馬車がゆっくりと城に近づいていくシーンとか、陽が昇るころにHervéがAnneを抱えて森や岩の上を彷徨うシーン(ドレスのひだひだ)とか、息を呑むくらい絵画的な美しさに溢れていて、ドイツ表現主義の”The Cabinet of Dr. Caligari” (1920)とか“Nosferatu” (1922)の影響が指摘されているようだが、これもやっぱりちょっと違ってて、そんなにおどろおどろしてないの。 Cocteauが夢遊病歩きしたりするとこもあるのだが、なんかさまになってないし。
というか、そんな様式云々より、Cocteauはこれをはっきり若い少年少女に向けて書いているのよね。
BFIでは10月から11月にかけて(ああ11月が飛んでいく)、Jean Cocteauの4Kリストア版“Orphée” (1950)のリバイバル公開(ああ見逃した)にあわせてSight & Sound誌の選による”Fantastique: The Dream Worlds of French Cinema”ていう特集をやっていて、フランス産の怪奇・幻想・スリラーを古いのから新しめ(2004年くらい)のまで上映しているのだが、そのなかの1本。 これ以外はぜーんぜん見れなかったわ。 他に上映されたのは、Jean Epsteinの”The Fall of the House of Usher” (1928)『アッシャー家の末裔』とか、Marcel L’Herbierの”La Nuit fantastique” (1942) -『幻想の夜』とか、Georges Franjuの”Eyes Without a Face” (1960) -『顔のない眼』とか、Anna Karinaがでてくる”L’Alliance” (1970) – “The Wedding Ring”とか、Orson Wellesがでてくる”Malpertuis” (1970) とか、”Innocence” (2004) -『エコール』とか… 書いててうんざりしてきた。なにやってたんだろ自分。ばかばかばか。
スクリプトをJean Cocteau が書いて(出演もして)て、衣装はChristian Dior(40年代のDior)。Cocteauは今作に続けてトリスタンとイゾルデもの – “L’Eternel retour” (1943) - 『悲恋』も書いている。まだ戦時中、占領下なのに。
フランスの田舎の朽ちかけたような古城にSaint-Helie伯爵夫人とElfy (Odette Joyeux)とAnne (Jany Holt)の娘ふたりが馬車でやってきて暮らし始める。ここの主の Julius Carol (Jean Cocteau) – 彼が亡霊男爵ね – は城のどこかに消えてしまったとか言われていて、猟場番の息子のHervé (Alain Cuny)とElfyとAnneの3人はいつも納屋の干し草のなかで一緒に遊びながら大きくなる。
美しく成長したAnneはHervéと恋仲になっていて、Elfyはどっかの貴族ぽい若者と恋のゲームを始めたりするのだが、やがて消えた男爵の祟りだか魔法だかがどこからか滲みだしてきてお日さまを遮りはじめて。
ストーリーそのものは、3人の子供たちが成長してからの恋のあれこれ、貴族社会でのあれこれ、これに古城にまつわる伝奇とか怪奇譚 - 男爵とか猫とか - と、それらの渦のなかで怨念とか情念とか黒い計算とか - のせめぎ合いがあって生き残るのはどっちだ、と言う程、四角四面の息詰まったものではなくて、怪談にもならなくて、ジュブナイル要素の入った幻想小説のような、とてもフレンチな小品。
最後に明らかになる謎とそれに対する登場人物たちの対応もなんかあっさりしていて、ぬぁんだとおおおおー(憤)みたいに目をむいてでんぐり返ったりせず、最後に回想シーンを入れてあんなだったのにね、って甘酸っぱい夢のように閉じたりしてて、大人なの。
「嵐が丘」やJane Austenモノといった英国の荒野、貴族サークルが出てくるのとは材料は似ているようで、これも違う。
冒頭の霧の中、馬車がゆっくりと城に近づいていくシーンとか、陽が昇るころにHervéがAnneを抱えて森や岩の上を彷徨うシーン(ドレスのひだひだ)とか、息を呑むくらい絵画的な美しさに溢れていて、ドイツ表現主義の”The Cabinet of Dr. Caligari” (1920)とか“Nosferatu” (1922)の影響が指摘されているようだが、これもやっぱりちょっと違ってて、そんなにおどろおどろしてないの。 Cocteauが夢遊病歩きしたりするとこもあるのだが、なんかさまになってないし。
というか、そんな様式云々より、Cocteauはこれをはっきり若い少年少女に向けて書いているのよね。
11.29.2018
[film] Exit Smiling (1926)
9日の金曜日の晩、BFIのComedy Genius特集で見ました。 71分のサイレントと66分の中編の2本立て。
Exit Smiling (1926)
ピアノ伴奏つきのサイレントで、カナダ生まれの英国人女優Beatrice Lillieのデビュー作(彼女のサイレントはこれだけ)。 Morrisseyの本との関連は不明。
どさまわり劇団で見習い女優兼メイドをしているViolet (Beatrice Lillie)の日々の奮闘 - 主演女優が開演時間になっても現れないのでついに自分の出番が、と思っているとぎりぎりで現れやがったり、劇団に転がりこんできた銀行員Jimmy (Jack Pickford – Mary Pickfordの弟)の面倒を見ているうちになんかよいかんじになってきたのでひょっとしたら .. とかを描く。
どちらも彼女の思いこみが暴走していただけであらら残念、になってしまうのだが、そんなことよりも彼女の妄想でどこかにいっちゃった目つき、フルスイングの挙動振る舞い、リアクション、どれもおもしろすぎて彼女が動き回るだけで大笑いが起こる。
今のひとでいうと間違いなくKate McKinnonの元祖。 奮闘が空振りに終わったあとの取り繕いも、聞こえてきそうなぼやきも、ちぇっていう表情もいちいちすばらしい。
彼女、歌手としても活躍したそうなので歌声も聞いてみたいなー。
She Done Him Wrong (1933)
邦題は『わたしは別よ』 .. なにが別なのか?
20年代中頃、当時のセンサーシップぎりぎりのいかがわしい自作の戯曲でブロードウェイの寵児になっていたMae Westがこれも自作の”Diamond Lil”を – 戯曲はHays Codeでは発禁になっていたにも関わらず別のひとが映画用に脚色したもので、映画は当たってよかったね、になったそう。
1890年代、NYのBoweryでLady Lou (Mae West)が酒場の女王みたいに君臨してて、そこにギャングみたいのとか闇の帝王みたいのがいっぱい寄って集ってきてLady Louにひれ伏したりしている。そこに軍服を着たちゃきちゃきのCary Grantが現れてなんだこの坊やは? になるのだがこいつが実は覆面で、最後にガサ入れになるとCary GrantがLady Louをさらってにんまり運んでいくの。
とにかくMae Westの声とオーラの本物なかんじ(本物だよ、伝説の)がものすごくて、Cary Grantは彼女をさらった後でどうしたのかしら、どうなったのかしら、とかそういう方が気になって。
The Cohens and the Kellys (1926)
サイレントをもうひとつ、Barbicanの月いち上映会 - Silent Film and Live Musicの11月の分。
25日、日曜の午後に見ました。ライブ伴奏はアコーディオン、サックス、フィドル、チェロの4人編成。
リストア元のプリントがベルギーのアーカイブにあったやつだったので、字幕はフランス語とフラマン語で、その上に英語が被ってせわしなかったけど、がんばった。
NY(1124 2nd Ave だって。昔住んでた近所)の同じアパートの同じフロアに暮らすユダヤ系のCohen家とアイリッシュ系のKelly家はずっと犬猿で、まず互いの犬がいがみ合って、それぞれのガキが取っ組み合いになって、それぞれ関取みたいな母親ふたりが組みあって、父親同士(George SidneyとCharles Murray)も当然殴り合いで、でもCohenの長女とKellyの長男だけは妙な顔して後ろで控えてて、なぜかというとふたりは恋仲だから(あーあ)。
基本は典型的なユダヤ系のあれこれとアイリッシュ系のあれこれの応酬と総力戦で、互いになにを見ても聞いても喋っても気にくわないし理解するつもりも毛頭なく子供みたいにムキになって罵りあうばかりなのだが、見ていて気持ちいいくらいにすぐ沸騰して向かっていったり(Kelly)、ぼろぼろ泣きだしたり(Cohen)するので飽きない。
ある日Cohen家に大叔母の遺したという遺産$2億が転がりこんできて彼らは大邸宅で成金の暮らしを始める、っていうのと、それの前に長男長女はこっそり結婚していて子供も生まれる、ていう火種が炸裂して大騒ぎになるの。喜劇なので昭和のホームドラマみたいに最後はめでたしめでたしよかったねえ、になるのだが、人種とか家族っていう括りじゃなくてひとりひとりがきちんと描かれているので見終わったあとの余韻がとってもよいの。 なのでこのシリーズは当たって、この後に全部で8作作られたんだって。 オールナイトでマラソン上映しないかしら。
伴奏は見事で、アイリッシュのどんどこ民謡からクレズマーまで変幻自在だし、フィドルがあると犬の吠えるのまで再現できるのね。
これを見たあと、お食事をどうするかで喧嘩になるかしら? デリに行くかパブに行くかで。
Exit Smiling (1926)
ピアノ伴奏つきのサイレントで、カナダ生まれの英国人女優Beatrice Lillieのデビュー作(彼女のサイレントはこれだけ)。 Morrisseyの本との関連は不明。
どさまわり劇団で見習い女優兼メイドをしているViolet (Beatrice Lillie)の日々の奮闘 - 主演女優が開演時間になっても現れないのでついに自分の出番が、と思っているとぎりぎりで現れやがったり、劇団に転がりこんできた銀行員Jimmy (Jack Pickford – Mary Pickfordの弟)の面倒を見ているうちになんかよいかんじになってきたのでひょっとしたら .. とかを描く。
どちらも彼女の思いこみが暴走していただけであらら残念、になってしまうのだが、そんなことよりも彼女の妄想でどこかにいっちゃった目つき、フルスイングの挙動振る舞い、リアクション、どれもおもしろすぎて彼女が動き回るだけで大笑いが起こる。
今のひとでいうと間違いなくKate McKinnonの元祖。 奮闘が空振りに終わったあとの取り繕いも、聞こえてきそうなぼやきも、ちぇっていう表情もいちいちすばらしい。
彼女、歌手としても活躍したそうなので歌声も聞いてみたいなー。
She Done Him Wrong (1933)
邦題は『わたしは別よ』 .. なにが別なのか?
20年代中頃、当時のセンサーシップぎりぎりのいかがわしい自作の戯曲でブロードウェイの寵児になっていたMae Westがこれも自作の”Diamond Lil”を – 戯曲はHays Codeでは発禁になっていたにも関わらず別のひとが映画用に脚色したもので、映画は当たってよかったね、になったそう。
1890年代、NYのBoweryでLady Lou (Mae West)が酒場の女王みたいに君臨してて、そこにギャングみたいのとか闇の帝王みたいのがいっぱい寄って集ってきてLady Louにひれ伏したりしている。そこに軍服を着たちゃきちゃきのCary Grantが現れてなんだこの坊やは? になるのだがこいつが実は覆面で、最後にガサ入れになるとCary GrantがLady Louをさらってにんまり運んでいくの。
とにかくMae Westの声とオーラの本物なかんじ(本物だよ、伝説の)がものすごくて、Cary Grantは彼女をさらった後でどうしたのかしら、どうなったのかしら、とかそういう方が気になって。
The Cohens and the Kellys (1926)
サイレントをもうひとつ、Barbicanの月いち上映会 - Silent Film and Live Musicの11月の分。
25日、日曜の午後に見ました。ライブ伴奏はアコーディオン、サックス、フィドル、チェロの4人編成。
リストア元のプリントがベルギーのアーカイブにあったやつだったので、字幕はフランス語とフラマン語で、その上に英語が被ってせわしなかったけど、がんばった。
NY(1124 2nd Ave だって。昔住んでた近所)の同じアパートの同じフロアに暮らすユダヤ系のCohen家とアイリッシュ系のKelly家はずっと犬猿で、まず互いの犬がいがみ合って、それぞれのガキが取っ組み合いになって、それぞれ関取みたいな母親ふたりが組みあって、父親同士(George SidneyとCharles Murray)も当然殴り合いで、でもCohenの長女とKellyの長男だけは妙な顔して後ろで控えてて、なぜかというとふたりは恋仲だから(あーあ)。
基本は典型的なユダヤ系のあれこれとアイリッシュ系のあれこれの応酬と総力戦で、互いになにを見ても聞いても喋っても気にくわないし理解するつもりも毛頭なく子供みたいにムキになって罵りあうばかりなのだが、見ていて気持ちいいくらいにすぐ沸騰して向かっていったり(Kelly)、ぼろぼろ泣きだしたり(Cohen)するので飽きない。
ある日Cohen家に大叔母の遺したという遺産$2億が転がりこんできて彼らは大邸宅で成金の暮らしを始める、っていうのと、それの前に長男長女はこっそり結婚していて子供も生まれる、ていう火種が炸裂して大騒ぎになるの。喜劇なので昭和のホームドラマみたいに最後はめでたしめでたしよかったねえ、になるのだが、人種とか家族っていう括りじゃなくてひとりひとりがきちんと描かれているので見終わったあとの余韻がとってもよいの。 なのでこのシリーズは当たって、この後に全部で8作作られたんだって。 オールナイトでマラソン上映しないかしら。
伴奏は見事で、アイリッシュのどんどこ民謡からクレズマーまで変幻自在だし、フィドルがあると犬の吠えるのまで再現できるのね。
これを見たあと、お食事をどうするかで喧嘩になるかしら? デリに行くかパブに行くかで。
11.28.2018
[film] The Lady Eve (1941)
Screwball Comedy3つ。BFIのComedy Genius特集ではレンジがでっかいせいか、いくつかのカテゴリーで区切っているようで、その中に”Screwball Sunday”っていうのがある。日曜の午後にクラシックなScrewball Comedyを、ってとっても素敵だと思うのだが、べつに日曜の午後以外にも(本数は多くないけど)やっていて、とにかく見れるならうれしいので行く。
The Lady Eve (1941)
10月22日、月曜日の晩に見ました。
夏から秋にかけてずっとJoan Crawford一筋だったがやっぱりBarbara Stanwyckも好きだし、監督はPreston Sturgesだしな、と見てみたら、冒頭のヘビのアニメであーこれだったかあ、になった(←ちゃんと憶えとけ)。
Jean (Barbara Stanwyck)とパパともう一人の詐欺師一家がいて、ビール会社の御曹司でヘビ専門家のCharles Pike (Henry Fonda)がアマゾン探検からの帰途、豪華客船に乗ってきたので、こいつを落としたれ、ってパパがカードですってんてんにして、Jeanでめろめろの骨抜きにするのだが、船を下りる直前に正体がばれてご破算になって、こんにゃろー、ってなったJeanは貴族お嬢さま"Lady Eve Sidwich"になりすましてCharlesのおうちに近づいて、今度はまんまと結婚までこぎつけるのだが、ハネムーンに向かう列車のなかでJeanが過去の男遍歴大告白大会を始めて止まんなくなって… (悲鳴をあげて突っ走る暴走機関車がめちゃくちゃおかしい)
蹴躓いてばかりのぼんくらHenry Fondaにねっちりヘビ女のBarbara Stanwyckが絡みついてぎりぎり絞めあげていくSMコメディで、とにかく彼女がとてつもなくキュートでこれならどんな王様だろうがドMだろうがいくらでも落とせるだろ、て思うのだが、最後はなんだ結局好きでやってたのね、になる。 ずっこけてばかりのヘビ好きCharlesのいったいどこに惚れたのか、ここだけは最後まで謎。
でもあのふたりは長続きしないとおもうわ。
The Awful Truth (1937)
11月17日、土曜日の午後に見ました。 邦題は『新婚道中記』..?
Jerry (Cary Grant)とLucy (Irene Dunne)の夫婦がいて、Jerryはウソついてカラ出張したり、Lucyは音楽家とデートしたりしているのでそれじゃもう離婚しようか、って手続きを始めて、Lucyは越した先の叔母のアパートでオクラホマの成金 - 人あたりはよいけど中味は牛のようにからっぽ - Dan (Ralph Bellamy)と知り合ってつきあってみるのだが、どうも違うかんじで、やっぱしヨリ戻そうかと思うのだが、うまくいかなくて、他方でJerryは金持ち令嬢のBarbara (Molly Lamont)と婚約手前までいって、妨害すべくLucyはJerryの妹になりすまして乗りこんでいくのだがやはり失敗して、離婚手続きの期限が迫ってきて、どうなっちゃうのか。
“The Awful Truth” – おぞましい真実、っていうのはふたりがやっぱり互いを好きなのに断固認めたくなくて、それぞれの都合で隠そうとしたり暴こうとしたりじたばた - Lucyのアパートで関係者全員が鉢合わせして収拾つかなくなるところ最高 - すればするほど事態は真実から遠ざかっていって、最後には犬猫がしょうがねえなあ、ってなんとかするようなところまでいっちゃうの。おぞましい真実をわかっていたのは犬猫だけだった - そういうのも含めておぞましいことだねえ、なにやってたのかねえ、ていうお話し。
元気なわんわんのSkippy (Mr.Smith) は、次の“Bringing Up Baby” (1938) - 「赤ちゃん教育」でも大活躍するあいつで、映画史的にはCary Grantと同じくらい偉いと思う。
監督のLeo McCareyはこれで同年のオスカー監督賞を貰っているの。
The Palm Beach Story (1942)
11月18日に見ました。日曜の午後、BFIのいちばんでっかいシアターがこれを見る客(そりゃ老人が多いけどさ)でほぼ埋まっている、っていいよね。
Tom (Joel McCrea)とGerry (Claudette Colbert)の夫婦は結婚5年を過ぎて(公開当時の邦題は『結婚五年目』だって)、もう続けるのは無理かもって思い始めたGerryは離婚してもっといい金づるを探すべくPalm Beachに行くことにするのだが、出払おうとしていたアパートで怪しげなソーセージ王の老人から札束を貰い(いいなー)、なのに列車のなかでは狂乱の酔っ払い集団 - The Ale and Quail hunting clubのどんちゃん騒ぎに巻き込まれて身ぐるみ失って、すると今度はとてつもないお金持ちのJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée)と出会って見初められて、こいつはすごいかも、になるのだが、やはりソーセージ王からお金を貰ったTomが後を追っかけてきて面倒になりそうだったので彼を兄ということにして、そしたらJohn D.の姉だか妹だかでいっぱい結婚してて変な愛人を連れたPrincess Centimillia (Mary Astor)がTomのことを気に入ったみたいで嬉しそうに寄ってくるので、ふたりはどうなっちゃうのか、になる。
これもPreston Sturgesの監督作品で、“The Lady Eve”にもあった、人はやっぱし外見、とか、走り出した列車はなにがあっても止まらない、とか肝心なところは変わらず、人から聞いたら法螺話かよ、みたいなのが整然と問答無用に展開していくのでお手上げで、どうしようもない。 ナンセンス、ていうのとも違って、あるのはぜんぶちゃんとした意味の上に乗っている or 乗っけようとしている、のだがその途上でなにかどこかが過剰になって、でもそこにしがみつくしかないのでしがみついているとでんぐり返って大火事に.. そしてこれはあなたの身に起こってもおかしくないのよ、って。
しかし、お金なんてあるとこにあるもんよ、って結構めちゃくちゃな”The Lady Eve” (1941)とこれの間に”Sullivan's Travels” (1941)を撮っている(主演は同じJoel McCrea)Preston Sturgesって、なんなのこのひと? だわ。
“Christmas in July” (1940)も久々に見たいなー。
The Lady Eve (1941)
10月22日、月曜日の晩に見ました。
夏から秋にかけてずっとJoan Crawford一筋だったがやっぱりBarbara Stanwyckも好きだし、監督はPreston Sturgesだしな、と見てみたら、冒頭のヘビのアニメであーこれだったかあ、になった(←ちゃんと憶えとけ)。
Jean (Barbara Stanwyck)とパパともう一人の詐欺師一家がいて、ビール会社の御曹司でヘビ専門家のCharles Pike (Henry Fonda)がアマゾン探検からの帰途、豪華客船に乗ってきたので、こいつを落としたれ、ってパパがカードですってんてんにして、Jeanでめろめろの骨抜きにするのだが、船を下りる直前に正体がばれてご破算になって、こんにゃろー、ってなったJeanは貴族お嬢さま"Lady Eve Sidwich"になりすましてCharlesのおうちに近づいて、今度はまんまと結婚までこぎつけるのだが、ハネムーンに向かう列車のなかでJeanが過去の男遍歴大告白大会を始めて止まんなくなって… (悲鳴をあげて突っ走る暴走機関車がめちゃくちゃおかしい)
蹴躓いてばかりのぼんくらHenry Fondaにねっちりヘビ女のBarbara Stanwyckが絡みついてぎりぎり絞めあげていくSMコメディで、とにかく彼女がとてつもなくキュートでこれならどんな王様だろうがドMだろうがいくらでも落とせるだろ、て思うのだが、最後はなんだ結局好きでやってたのね、になる。 ずっこけてばかりのヘビ好きCharlesのいったいどこに惚れたのか、ここだけは最後まで謎。
でもあのふたりは長続きしないとおもうわ。
The Awful Truth (1937)
11月17日、土曜日の午後に見ました。 邦題は『新婚道中記』..?
Jerry (Cary Grant)とLucy (Irene Dunne)の夫婦がいて、Jerryはウソついてカラ出張したり、Lucyは音楽家とデートしたりしているのでそれじゃもう離婚しようか、って手続きを始めて、Lucyは越した先の叔母のアパートでオクラホマの成金 - 人あたりはよいけど中味は牛のようにからっぽ - Dan (Ralph Bellamy)と知り合ってつきあってみるのだが、どうも違うかんじで、やっぱしヨリ戻そうかと思うのだが、うまくいかなくて、他方でJerryは金持ち令嬢のBarbara (Molly Lamont)と婚約手前までいって、妨害すべくLucyはJerryの妹になりすまして乗りこんでいくのだがやはり失敗して、離婚手続きの期限が迫ってきて、どうなっちゃうのか。
“The Awful Truth” – おぞましい真実、っていうのはふたりがやっぱり互いを好きなのに断固認めたくなくて、それぞれの都合で隠そうとしたり暴こうとしたりじたばた - Lucyのアパートで関係者全員が鉢合わせして収拾つかなくなるところ最高 - すればするほど事態は真実から遠ざかっていって、最後には犬猫がしょうがねえなあ、ってなんとかするようなところまでいっちゃうの。おぞましい真実をわかっていたのは犬猫だけだった - そういうのも含めておぞましいことだねえ、なにやってたのかねえ、ていうお話し。
元気なわんわんのSkippy (Mr.Smith) は、次の“Bringing Up Baby” (1938) - 「赤ちゃん教育」でも大活躍するあいつで、映画史的にはCary Grantと同じくらい偉いと思う。
監督のLeo McCareyはこれで同年のオスカー監督賞を貰っているの。
The Palm Beach Story (1942)
11月18日に見ました。日曜の午後、BFIのいちばんでっかいシアターがこれを見る客(そりゃ老人が多いけどさ)でほぼ埋まっている、っていいよね。
Tom (Joel McCrea)とGerry (Claudette Colbert)の夫婦は結婚5年を過ぎて(公開当時の邦題は『結婚五年目』だって)、もう続けるのは無理かもって思い始めたGerryは離婚してもっといい金づるを探すべくPalm Beachに行くことにするのだが、出払おうとしていたアパートで怪しげなソーセージ王の老人から札束を貰い(いいなー)、なのに列車のなかでは狂乱の酔っ払い集団 - The Ale and Quail hunting clubのどんちゃん騒ぎに巻き込まれて身ぐるみ失って、すると今度はとてつもないお金持ちのJohn D. Hackensacker III (Rudy Vallée)と出会って見初められて、こいつはすごいかも、になるのだが、やはりソーセージ王からお金を貰ったTomが後を追っかけてきて面倒になりそうだったので彼を兄ということにして、そしたらJohn D.の姉だか妹だかでいっぱい結婚してて変な愛人を連れたPrincess Centimillia (Mary Astor)がTomのことを気に入ったみたいで嬉しそうに寄ってくるので、ふたりはどうなっちゃうのか、になる。
これもPreston Sturgesの監督作品で、“The Lady Eve”にもあった、人はやっぱし外見、とか、走り出した列車はなにがあっても止まらない、とか肝心なところは変わらず、人から聞いたら法螺話かよ、みたいなのが整然と問答無用に展開していくのでお手上げで、どうしようもない。 ナンセンス、ていうのとも違って、あるのはぜんぶちゃんとした意味の上に乗っている or 乗っけようとしている、のだがその途上でなにかどこかが過剰になって、でもそこにしがみつくしかないのでしがみついているとでんぐり返って大火事に.. そしてこれはあなたの身に起こってもおかしくないのよ、って。
しかし、お金なんてあるとこにあるもんよ、って結構めちゃくちゃな”The Lady Eve” (1941)とこれの間に”Sullivan's Travels” (1941)を撮っている(主演は同じJoel McCrea)Preston Sturgesって、なんなのこのひと? だわ。
“Christmas in July” (1940)も久々に見たいなー。
11.27.2018
[film] Suspiria (2018)
21日の水曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
これもダンス・ホラー、というよりは1977年のDario Argentoの、あの鮮血のなんとか、のリメイクということで、怖いけどがんばって見てみよう、って行った。 昨年Dario Argentoのトーク付きの”Suspiria”上映会に行ったときも、今作についてはいろいろ聞かれるのでアドバイスしている、がんばっているようじゃの、って言っていたし。
見たかんじではオリジナルより数段いろいろ練りこまれたものすごいやつだった。 オリジナルから40年たって、魔物たちも程よく腐ってきたんだか発酵したんだか。
6 Acts + epilogueからなる152分びっちり。
77年、寒そうで天気のよくない秋のベルリン、RAFによるLufthansa機のハイジャック事件だのがラジオから流れてくる暗く荒んだ時世、何かに怯えて挙動がおかしくなっているPatricia (Chloë Grace Moretz)が精神科医のDr. Josef Klemperer (Lutz Ebersdorf) のところにやってきて、所持品を残して消えてしまう。同じ頃、アメリカ人(from Ohio)のSusie (Dakota Johnson)がダンスシアターを訪れて、Madame Blanc (Tilda Swinton)によるオーディションを受けてシアターの一員となりそこの寮で暮らし始める。ダンサーのOlgaはMadame Blancとぶつかって追い出されて、Susieがその後を継いで(そしてOlgaは…)。
他にアメリカと思われるだだっ広い農地の一軒家で死にそうな形相の女性がいたり、Dr. KlempererがPatriciaの残していった冊子の書き込みから何が起こっているのかを探り始めたり、東ドイツ側を訪問したり、シアターの代表人の選挙とか、いくつかのエピソードが並行していって、最後はSusieがリードに選ばれた演目”Volk” - 40年代に作られた作品のお披露目の日がきて、そこにはDr. Klempererもやってきて。
こわくないところを並べてみるとこんなふうで、あとはダンスシアターのからくり屋敷みたいな建物の内部で起こる禍々しいあれこれ、そこを支配している魔女みたいな(魔女なんだけど)女性たちと生徒たちのあれこれ、その中でMadame Blancに認められてのし上がっていくSusieのお話しとが重なって、あの時代のベルリンで、ダンス(Tanz)を軸に展開される集団劇として、それがぐしゃぐしゃのホラーに向かっていくしかないような暗黒の設定ができあがっている。
それはLuca Guadagnino が前作“Call Me by Your Name”で、80年代のイタリアの田舎の陽の下、古代彫刻や音楽を愛するブルジョワジーの家庭に彫刻みたいな身体のアメリカ人の男が現れたらあんなのふつうに起こることよね、というふうに描かれていたのにも似ている。 今度のはあれ以上に周到に過去も含めた情景がこまこま厚く深く描きこまれていて、なんかすごい。一冊本を書けそうなくらい。
ダンス(コレオグラフ: Damien Jalet)のところはコスチュームも含めて誰のマネだパクリだが既にいっぱい出ているようだが、ダンスの元なんて胴体ひとつに手足4本、頭と首しかないんだからパクリもくそもないじゃろ、とか思うもののMartha Graham, Mary Wigman, Pina Bausch, Sasha Waltzといった女性コレオグラファーの名前は簡単に出てくるし、演目の”Volk”からはLeni Riefenstahlの名前も浮かぶし、”Climax”にあったような何かに酔っぱらった集団の狂熱、みたいのもあると思うし。一番近いと思ったのはMadame Blancが所属していたというMartha Grahamかなあ。 Pina Bausch以降だとダンスを異化したりメタしたりする要素が入ってくるのでちょっと違うかんじがする。
77年のオリジナルのが即物的で血の色とかも含めて目で見てわかりやすい怖さがいっぱい、今回の方がダンスの身体とかフィジカルなとこにフォーカスしているのに観念的で頭をいっぱい使わせて、あとから怖さじんわり、ていうのはおもしろい。
映画だと冷戦時代のドイツの根っこ、のような観点からR.W. Fassbinder的なものは掘ればいっぱい出てきそう - 単に変な動きをする変な顔のひとたちが横並び、というだけでも、All Female Castの”The Bitter Tears of Petra von Kant” (1972)とか。(Fassbinderとの交流についてはDario Argentoも語っていた)
最近のホラーだと、”Hereditary” (2018)の宙に浮いて遠隔で飛んでくるやつもあると思った。
美術だとFrancesca Woodmanの他にいくらでも出てきそう。
これらはみな女性がその中心にいて、それってなぜ、どういうことなのか、というのが最後の方で明らかになると、そのエピソードはものすごく悲しくて辛くて、見ている間は怖さではらはらがたがたしていて泣くどころじゃなかったのだが、できればもう一回みてきちんと泣きたいところかも。
Tilda Swintonさんは”Orlando” (1992)のあたりから得意とする転生、転移、変態の(時代)劇で、こういうのを演じるときの石鹸とか大理石みたいな輝きと安定感ときたらものすごい。 他方でDakota Johnsonさんの(現代の女の子の)顔はどうかしら? これはこれで、なのかなあ。
Thom Yorke氏の音楽は、RadioheadでThe Merce Cunningham Dance Companyの伴奏(Sigur Rosとの共演、2003年のBAM)をやったこともあるくらいなので、一昔前(ここがポイント)のモダンとの相性はとてもよい。台詞の少ないドラマなので、サイレントにして音楽のみで、というのがあってもおかしくないかも。むしろそっちの方が盛りあがるかも。
これも3部作になるのだろうか。この調子で魔女みんなに付きあっていたら体がもたない。べつに戦うつもりないし勝てないし。
あと、こないだの“Widows”にもあったけど、針で中途半端にぐさぐさ突いたり、鉤爪で引っかけたりとかって、魚じゃないんだからやめてほしい。
これもダンス・ホラー、というよりは1977年のDario Argentoの、あの鮮血のなんとか、のリメイクということで、怖いけどがんばって見てみよう、って行った。 昨年Dario Argentoのトーク付きの”Suspiria”上映会に行ったときも、今作についてはいろいろ聞かれるのでアドバイスしている、がんばっているようじゃの、って言っていたし。
見たかんじではオリジナルより数段いろいろ練りこまれたものすごいやつだった。 オリジナルから40年たって、魔物たちも程よく腐ってきたんだか発酵したんだか。
6 Acts + epilogueからなる152分びっちり。
77年、寒そうで天気のよくない秋のベルリン、RAFによるLufthansa機のハイジャック事件だのがラジオから流れてくる暗く荒んだ時世、何かに怯えて挙動がおかしくなっているPatricia (Chloë Grace Moretz)が精神科医のDr. Josef Klemperer (Lutz Ebersdorf) のところにやってきて、所持品を残して消えてしまう。同じ頃、アメリカ人(from Ohio)のSusie (Dakota Johnson)がダンスシアターを訪れて、Madame Blanc (Tilda Swinton)によるオーディションを受けてシアターの一員となりそこの寮で暮らし始める。ダンサーのOlgaはMadame Blancとぶつかって追い出されて、Susieがその後を継いで(そしてOlgaは…)。
他にアメリカと思われるだだっ広い農地の一軒家で死にそうな形相の女性がいたり、Dr. KlempererがPatriciaの残していった冊子の書き込みから何が起こっているのかを探り始めたり、東ドイツ側を訪問したり、シアターの代表人の選挙とか、いくつかのエピソードが並行していって、最後はSusieがリードに選ばれた演目”Volk” - 40年代に作られた作品のお披露目の日がきて、そこにはDr. Klempererもやってきて。
こわくないところを並べてみるとこんなふうで、あとはダンスシアターのからくり屋敷みたいな建物の内部で起こる禍々しいあれこれ、そこを支配している魔女みたいな(魔女なんだけど)女性たちと生徒たちのあれこれ、その中でMadame Blancに認められてのし上がっていくSusieのお話しとが重なって、あの時代のベルリンで、ダンス(Tanz)を軸に展開される集団劇として、それがぐしゃぐしゃのホラーに向かっていくしかないような暗黒の設定ができあがっている。
それはLuca Guadagnino が前作“Call Me by Your Name”で、80年代のイタリアの田舎の陽の下、古代彫刻や音楽を愛するブルジョワジーの家庭に彫刻みたいな身体のアメリカ人の男が現れたらあんなのふつうに起こることよね、というふうに描かれていたのにも似ている。 今度のはあれ以上に周到に過去も含めた情景がこまこま厚く深く描きこまれていて、なんかすごい。一冊本を書けそうなくらい。
ダンス(コレオグラフ: Damien Jalet)のところはコスチュームも含めて誰のマネだパクリだが既にいっぱい出ているようだが、ダンスの元なんて胴体ひとつに手足4本、頭と首しかないんだからパクリもくそもないじゃろ、とか思うもののMartha Graham, Mary Wigman, Pina Bausch, Sasha Waltzといった女性コレオグラファーの名前は簡単に出てくるし、演目の”Volk”からはLeni Riefenstahlの名前も浮かぶし、”Climax”にあったような何かに酔っぱらった集団の狂熱、みたいのもあると思うし。一番近いと思ったのはMadame Blancが所属していたというMartha Grahamかなあ。 Pina Bausch以降だとダンスを異化したりメタしたりする要素が入ってくるのでちょっと違うかんじがする。
77年のオリジナルのが即物的で血の色とかも含めて目で見てわかりやすい怖さがいっぱい、今回の方がダンスの身体とかフィジカルなとこにフォーカスしているのに観念的で頭をいっぱい使わせて、あとから怖さじんわり、ていうのはおもしろい。
映画だと冷戦時代のドイツの根っこ、のような観点からR.W. Fassbinder的なものは掘ればいっぱい出てきそう - 単に変な動きをする変な顔のひとたちが横並び、というだけでも、All Female Castの”The Bitter Tears of Petra von Kant” (1972)とか。(Fassbinderとの交流についてはDario Argentoも語っていた)
最近のホラーだと、”Hereditary” (2018)の宙に浮いて遠隔で飛んでくるやつもあると思った。
美術だとFrancesca Woodmanの他にいくらでも出てきそう。
これらはみな女性がその中心にいて、それってなぜ、どういうことなのか、というのが最後の方で明らかになると、そのエピソードはものすごく悲しくて辛くて、見ている間は怖さではらはらがたがたしていて泣くどころじゃなかったのだが、できればもう一回みてきちんと泣きたいところかも。
Tilda Swintonさんは”Orlando” (1992)のあたりから得意とする転生、転移、変態の(時代)劇で、こういうのを演じるときの石鹸とか大理石みたいな輝きと安定感ときたらものすごい。 他方でDakota Johnsonさんの(現代の女の子の)顔はどうかしら? これはこれで、なのかなあ。
Thom Yorke氏の音楽は、RadioheadでThe Merce Cunningham Dance Companyの伴奏(Sigur Rosとの共演、2003年のBAM)をやったこともあるくらいなので、一昔前(ここがポイント)のモダンとの相性はとてもよい。台詞の少ないドラマなので、サイレントにして音楽のみで、というのがあってもおかしくないかも。むしろそっちの方が盛りあがるかも。
これも3部作になるのだろうか。この調子で魔女みんなに付きあっていたら体がもたない。べつに戦うつもりないし勝てないし。
あと、こないだの“Widows”にもあったけど、針で中途半端にぐさぐさ突いたり、鉤爪で引っかけたりとかって、魚じゃないんだからやめてほしい。
11.26.2018
[film] Climax (2018)
ずいぶん前、10月6日の土曜日の午後、Curzon SOHOで見たやつを。
これの予告篇がおもしろくて、踊って騒いでサングリア!踊ってぐちゃぐちゃそれでもサングリア!みたいなかんじのいけいけで、なんかすごそうだぞ、って。あと、どこかのレビューに”Busby Berkeley goes to hell” とかあったのでおもしろいかも、と。
Gaspar Noéの新作で、Gaspar Noéってダークでゴスでおっかなくて、というイメージはあったけど、これまで見たことはなかった。
たしか。
冒頭、雪が吹雪いて真っ白の中を半裸で血まみれの女性がひとりずるずる滑るように動いていくのを上からの俯瞰でとらえて、視界はそのまま真っ白になっちゃって、ちっちゃく”Inspired by the true event”とか表示されるので震えあがる。
続いてダンスグループのオーディションと思われるインタビュー映像が流れて、あなたにとってダンスとは? とか、将来はなにをやりたい? とか、公演でNYに行ったらなにをする? とか聞いてて、それぞれみんなダンスが大好きでポジティブに真面目に答えているよいこたちで。
次が稽古場でのリハーサルで、これが10~15分くらい続いただろうか、ノンストップのワンカットで撮ってて、そんなにテクニカルではない、最近のポップカルチャー寄りの群舞でところどころ雑だけど、それも含めてなかなかかっこよくて威勢よくていいの。コレオグラフはRihannaとかの振りつけをしているNina McNeelyていうひと。 しばしの休憩が入って、こんどは天井目線で捕らえたリハーサルで、少し疲れてきたのか乱れも見えて、カットも入る。 そうやってこのグループがやろうとしてるダンスの大枠を紹介したところで、今日はこれでお開きなのでサングリアでも飲んでリラックスして休んでってね、になる。
ここのサングリアは特製だから是非飲んでいって、という台詞は何度か聞かれるものの、誰かがそこになにかを仕込むところもそれを飲んですぐにおかしいと指摘するようなところもなくて、どこの立ち飲みの場でも見られるような光景 - 数名が集まって談笑したり、誰かが誰かを口説いていたり、ダンスの議論をしていたり、子連れの女性は子供を預けなきゃとか、音楽はリハーサルからの延長でいろんなのががんがん流れていて、そこからこれもどこでも見られるようなちょっとした小競り合いや小突き合いがぽこぽこ出てきて、それも始めのうちはまあまあまあ、の仲裁が入って分離されたり収まったりしているのだが、それを抑える勢力がなくなったのかなんか暴れたい方が多勢になったのか、ダンスのうねりが連鎖してより大きなうねりになっていくように、あちこちで殴り合いとっくみあい凶器手にして.. が止まらなくなっていって。
怖いのは個々のぶつかり合い殴り合いの描写やその重なり方ではなくて、そこに至るまでの流れがあまりにスムーズで気がついたら誰も止めることができないパニック状態になっていた、と後になって言われるような、そういうコトの顛末が神の視点でもなく特定の当事者AやBの視点でもなく、全方位の、これっぽっちも救いのない場所(孤絶した雪山の奥)から描かれていることで、これってアルコールなのドラッグなの、それともひょっとしたら … ダンスなの? という問いが雪山の向こうからぴゅーっ、て吹いてくるのだった。
知っている俳優さんはSofia Boutellaさんくらいで、始めは彼女とわからないくらいグループに溶けこんでいて、彼女がそのしなやかな脚でキックを繰り出してその場をなんとかするなんてことはなく、むしろグループ全員が”The Mummy” (2017)のあの魔物にやられてしまったかのようなずぶずぶで、ダンスっておっかないよう、ということで ―
これの予告篇がおもしろくて、踊って騒いでサングリア!踊ってぐちゃぐちゃそれでもサングリア!みたいなかんじのいけいけで、なんかすごそうだぞ、って。あと、どこかのレビューに”Busby Berkeley goes to hell” とかあったのでおもしろいかも、と。
Gaspar Noéの新作で、Gaspar Noéってダークでゴスでおっかなくて、というイメージはあったけど、これまで見たことはなかった。
たしか。
冒頭、雪が吹雪いて真っ白の中を半裸で血まみれの女性がひとりずるずる滑るように動いていくのを上からの俯瞰でとらえて、視界はそのまま真っ白になっちゃって、ちっちゃく”Inspired by the true event”とか表示されるので震えあがる。
続いてダンスグループのオーディションと思われるインタビュー映像が流れて、あなたにとってダンスとは? とか、将来はなにをやりたい? とか、公演でNYに行ったらなにをする? とか聞いてて、それぞれみんなダンスが大好きでポジティブに真面目に答えているよいこたちで。
次が稽古場でのリハーサルで、これが10~15分くらい続いただろうか、ノンストップのワンカットで撮ってて、そんなにテクニカルではない、最近のポップカルチャー寄りの群舞でところどころ雑だけど、それも含めてなかなかかっこよくて威勢よくていいの。コレオグラフはRihannaとかの振りつけをしているNina McNeelyていうひと。 しばしの休憩が入って、こんどは天井目線で捕らえたリハーサルで、少し疲れてきたのか乱れも見えて、カットも入る。 そうやってこのグループがやろうとしてるダンスの大枠を紹介したところで、今日はこれでお開きなのでサングリアでも飲んでリラックスして休んでってね、になる。
ここのサングリアは特製だから是非飲んでいって、という台詞は何度か聞かれるものの、誰かがそこになにかを仕込むところもそれを飲んですぐにおかしいと指摘するようなところもなくて、どこの立ち飲みの場でも見られるような光景 - 数名が集まって談笑したり、誰かが誰かを口説いていたり、ダンスの議論をしていたり、子連れの女性は子供を預けなきゃとか、音楽はリハーサルからの延長でいろんなのががんがん流れていて、そこからこれもどこでも見られるようなちょっとした小競り合いや小突き合いがぽこぽこ出てきて、それも始めのうちはまあまあまあ、の仲裁が入って分離されたり収まったりしているのだが、それを抑える勢力がなくなったのかなんか暴れたい方が多勢になったのか、ダンスのうねりが連鎖してより大きなうねりになっていくように、あちこちで殴り合いとっくみあい凶器手にして.. が止まらなくなっていって。
怖いのは個々のぶつかり合い殴り合いの描写やその重なり方ではなくて、そこに至るまでの流れがあまりにスムーズで気がついたら誰も止めることができないパニック状態になっていた、と後になって言われるような、そういうコトの顛末が神の視点でもなく特定の当事者AやBの視点でもなく、全方位の、これっぽっちも救いのない場所(孤絶した雪山の奥)から描かれていることで、これってアルコールなのドラッグなの、それともひょっとしたら … ダンスなの? という問いが雪山の向こうからぴゅーっ、て吹いてくるのだった。
知っている俳優さんはSofia Boutellaさんくらいで、始めは彼女とわからないくらいグループに溶けこんでいて、彼女がそのしなやかな脚でキックを繰り出してその場をなんとかするなんてことはなく、むしろグループ全員が”The Mummy” (2017)のあの魔物にやられてしまったかのようなずぶずぶで、ダンスっておっかないよう、ということで ―
11.22.2018
[film] Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald (2018)
17日、土曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。2Dでも結構目がまわったので3Dだったらしんだかも。
Harry Potterの頃からそうだけどタイトルが長くて、”Fantastic Beasts”ですらちゃんと覚えられないので自分のなかでは「妖怪大戦争」って呼んでいる。
だいたいさあ、ScamanderとかGrindelwaldとかDumbledoreとかCredenceとかCredenceとか長すぎて(”d”がいっぱいで)憶えらんないわよ。 本で読むなら別だけど、ってそうか元は本だったよね。
前作の最後にColin FarrellからJohnny Deppに変態したGrindelwald がNYから移送される途中で逃げだして、Newt Scamander (Eddie Redmayne)はロンドンにいて、かつての先生だった Dumbledore (Jude Law)からGrindelwaldはパリにいるみたいだからなんとかして、とか無責任に振られて、気がつけば前作のメンバー(含.パン屋)が揃っていて、Grindelwaldはやはり前作で呪われた子だったCredence (Ezra Miller)を仲間に取りこもうとしていて、捕物だか争奪戦だかの追っかけっこが始まるの。
前作”Fantastic Beasts and Where to Find Them” (2016)がどういうのだったか思いだしてみると、駆け出しの魔法使いで変てこ動物使いのNewt Scamanderが悪い奴らって魔物動物みたいなもんよね、って巻き込まれて捕物をやってみる、そういうやつで、一番の魅力はHarry Potterのシリーズで画面の隅っこをちょろちょろしていた変な動物たちが前面に出てきたこと、それだけでじゅうぶんで、Colin FarrellやらJohnny Deppやらの暗い顔なんてべつに見たくもなかった。
でも今回のは登場人物ほぼ全員、ずっと景気のよくない顔しててちっともFantasticじゃないし。前作で面倒みてたあの動物たちはみんなどこに行っちゃったんだよう。
基本はハリポタでも重要なテーマだった血縁探し = 自分探しみたいなとこで、自分がどこの誰から生まれたどういう奴なのかを知ることがとっても大切なことらしい。わかんないと怖くて魔法も使えないんだったら魔法使いなんてやめちまえ、って思うし、魔法をいっぱい使える使えないって、彼らの生活 - お給金とか査定とかそういうのと関係あるの? 生活に支障きたさないんだったら放っておけばいいんじゃないの? とか。もちろん、ファンタジーの世界に浸るというのは向こうの世界の約束事に身を置くことでもあるので我慢するけど、今回、明確にハリポタの世界と繋がってしまったことで、またあのパワーとかそれによる制覇だの覇権だのを巡るぐぁあああー(悶)ばっかりの世界になるのかあ、って。箒に乗ってびゅーん、とかもないから子供が見てもおもしろくないんじゃないの?とか。
強大な魔法のパワーが脅威になるのはわかるけど、Beastがうようよいる世界だったらほんとにすごいのは人の形していないかもしれないし、英語しゃべんない仙人みたいのかもしれないし、そういう中で*Crimes*って、何に対するものなのさ? とか、なんかね、今回の物語の方角って見ている我々の想像力をわざわざ縛って、ほうらおっかないだろー、ってやってるだけのような気がしてならない。
20年代のロンドンやパリ、っていう設定、Johnny Deppのケレン味たっぷりの振る舞いとか (彼の海賊のをあんま好きになれないのも同じ理由かもね)。せっかくの楽しい化け物たちがさあー。
お話しはまだ続いていくみたいだけど、どうせ続くならこの闇の戦いが第二次大戦の引き鉄となった、くらいのでっかい法螺話にしてほしいもんだわ。
なんども書いているようにこの映画で見たいのは動く変てこ化け物なので、カモノハシみたいなのとか緑のナナフシみたいのが出てきてくれれば幸せで、今回だと中国のでっかい獅子みたいなあれかなあ。 あいつをあやすガラガラみたいやつ、忘年会に向けて売りだせばぜったい当たるよ。
Harry Potterの頃からそうだけどタイトルが長くて、”Fantastic Beasts”ですらちゃんと覚えられないので自分のなかでは「妖怪大戦争」って呼んでいる。
だいたいさあ、ScamanderとかGrindelwaldとかDumbledoreとかCredenceとかCredenceとか長すぎて(”d”がいっぱいで)憶えらんないわよ。 本で読むなら別だけど、ってそうか元は本だったよね。
前作の最後にColin FarrellからJohnny Deppに変態したGrindelwald がNYから移送される途中で逃げだして、Newt Scamander (Eddie Redmayne)はロンドンにいて、かつての先生だった Dumbledore (Jude Law)からGrindelwaldはパリにいるみたいだからなんとかして、とか無責任に振られて、気がつけば前作のメンバー(含.パン屋)が揃っていて、Grindelwaldはやはり前作で呪われた子だったCredence (Ezra Miller)を仲間に取りこもうとしていて、捕物だか争奪戦だかの追っかけっこが始まるの。
前作”Fantastic Beasts and Where to Find Them” (2016)がどういうのだったか思いだしてみると、駆け出しの魔法使いで変てこ動物使いのNewt Scamanderが悪い奴らって魔物動物みたいなもんよね、って巻き込まれて捕物をやってみる、そういうやつで、一番の魅力はHarry Potterのシリーズで画面の隅っこをちょろちょろしていた変な動物たちが前面に出てきたこと、それだけでじゅうぶんで、Colin FarrellやらJohnny Deppやらの暗い顔なんてべつに見たくもなかった。
でも今回のは登場人物ほぼ全員、ずっと景気のよくない顔しててちっともFantasticじゃないし。前作で面倒みてたあの動物たちはみんなどこに行っちゃったんだよう。
基本はハリポタでも重要なテーマだった血縁探し = 自分探しみたいなとこで、自分がどこの誰から生まれたどういう奴なのかを知ることがとっても大切なことらしい。わかんないと怖くて魔法も使えないんだったら魔法使いなんてやめちまえ、って思うし、魔法をいっぱい使える使えないって、彼らの生活 - お給金とか査定とかそういうのと関係あるの? 生活に支障きたさないんだったら放っておけばいいんじゃないの? とか。もちろん、ファンタジーの世界に浸るというのは向こうの世界の約束事に身を置くことでもあるので我慢するけど、今回、明確にハリポタの世界と繋がってしまったことで、またあのパワーとかそれによる制覇だの覇権だのを巡るぐぁあああー(悶)ばっかりの世界になるのかあ、って。箒に乗ってびゅーん、とかもないから子供が見てもおもしろくないんじゃないの?とか。
強大な魔法のパワーが脅威になるのはわかるけど、Beastがうようよいる世界だったらほんとにすごいのは人の形していないかもしれないし、英語しゃべんない仙人みたいのかもしれないし、そういう中で*Crimes*って、何に対するものなのさ? とか、なんかね、今回の物語の方角って見ている我々の想像力をわざわざ縛って、ほうらおっかないだろー、ってやってるだけのような気がしてならない。
20年代のロンドンやパリ、っていう設定、Johnny Deppのケレン味たっぷりの振る舞いとか (彼の海賊のをあんま好きになれないのも同じ理由かもね)。せっかくの楽しい化け物たちがさあー。
お話しはまだ続いていくみたいだけど、どうせ続くならこの闇の戦いが第二次大戦の引き鉄となった、くらいのでっかい法螺話にしてほしいもんだわ。
なんども書いているようにこの映画で見たいのは動く変てこ化け物なので、カモノハシみたいなのとか緑のナナフシみたいのが出てきてくれれば幸せで、今回だと中国のでっかい獅子みたいなあれかなあ。 あいつをあやすガラガラみたいやつ、忘年会に向けて売りだせばぜったい当たるよ。
11.21.2018
[talk] Tracey Ullman on Ullman
14日の水曜日の晩、BFIで見ました、というかTracey Ullmanのお喋りを楽しんだ。
BFI Southbankでは10月から12月まで、”Comedy Genius”ていう古今のコメディ映画(だけじゃなくてこういうトークとかも)大特集をやっていて、宣伝も含めて規模もでっかくて、すでにいくつか見始めているのだが、英国の笑いと米国の笑の違いとか、いろいろ考えさせられる。(考えていないで、笑え)
一概には言えないと思うけど、英国の人がげらげら笑う箇所って、ちょっと独特で、英国人は米国のコメディも英国のコメディも同様に楽しむのだが、英国人がおもしろいと思うギャグって米国人にはそんなでもないのではないか、ツボが違うというか、英国好きの米国人にしか喜ばれないとこがあったりするのではないか、自分のなかにはそんな仮説がある。
なので、英国のコメディエンヌTracey Ullmanがアメリカでブレークしたのはなんでだろう? – 90年代に見ていたHBOの”Tracy Takes On …”は本当におもしろかったけど - ていうのはずっと謎で、このトークで彼女のキャリアを振り返ってその辺の謎が明らかになったらよいなー、程度で。
BBCのアナウンサーと対話をしながら、時代時代の彼女のクリップを振り返り、その頃の思い出話をしていく。 だけど基本は彼女の独演会になってしまい、なにをどう喋ってもおかしくてしょうがない。
舞台で即興のギャグをやっていた頃にTVから声がかかって、それを見て見初めたアメリカ人のAllan McKeownと結婚して彼に請われて米国に渡り、子育てをしながらNYのMuseum of Television and Radioとかに通ってアメリカの笑いを勉強したりして、Foxのコメディショーに出たらそれが当たって、そこからは映画も含めてみんなが知っている世界のTraceyに。
わたしが彼女を知ったのは83年、当然の、必殺の名盤 “You Broke My Heart in 17 Places”から、Stiffレーベルのシンガーとしてで(だから昔は音楽をやめてコメディの方に行っちゃった人だと思っていた)、話が音楽のことになって、なぜ突然に音楽を? と振られた彼女はひと言 - ”Kirsty MacColl!” - 続けて、彼女の”They Don’t Know”を歌いたかったのよ!(客席から拍手いっぱい。じーん)。それに当時のStiffといったらElvis Costello, Nick Lowe, the Damned, Devo, Wreckless Eric(Wreckless Ericの名前まででる)なんかがいて、こんな人達と一緒のレーベルになるなんてめちゃくちゃクールだと思った、って。
音楽クリップは"They Don't Know"のPVとBBCのTop of the Popsに出て"Breakaway"を歌ったときのが流れて、BBCに出たときに、両脇で踊ってくれたのは高校のときのクラスメートで、よくロッカーのとこでブラシを手にして一緒に歌ってたからそれをそのままやったんだ、って … 最高だよね。
米国で子育てもあって暇してた時は、よくBrooklynの中古車ディーラーのとこに電話かけて彼らがどんなふうに喋るのかを聞いてマネできるようにしたりしてた、とか、Museumのアーカイブを見て昔のコメディを勉強したり、SNLのGilda Radnerを見てあたしもあんなふうにやりたいんだ、って思った、って(じーん)。
米国でのクリップもいくつか紹介されたが、空港のセキュリティのとこに立ってるラティーノのおばちゃんのマネ、とか最高。
(彼女って世界最強の権力者よね、どんなセレブが来たって思いのまま身ぐるみはがすことができるのよ)。
映画のところはMeryl Streepと共演した”Plenty” (1985)とかWoody Allenとの諸作のはなしが勿論でたのだが、後のQ&Aで客席から”A Dirty Shame” (2004)って重要だと思うんですがどうなんでしょう? って(拍手おこる)。
あの映画、最初の30分はすごいと思うのよね、ていうのと、John Watersは偉大だと思うわ、って(どちらも同感)。
英国に戻って2015年にBBC(BBCだってさ、はぁ?ってかんじよ)に出るようになってからは政治ネタもやるようになって(歳とったら政治の世界がおもしろくてたまんなくなってさー。うんうん)、Maggie SmithとかJeremy Corbynのネタは彼女がなんかいるだけでおもしろい世界になってしまうし、全体の締めはもちろん、Theresa Mayのマネをやったクリップで。
コンサートで好きな曲をやってくれてうわーってなるのと同じかんじで、彼女の口からコメディアンや映画の名前が出るたびに、いちいちじーんとしてばっかりだった。そして彼女はみんなを笑わせてお腹をよじらせるプロで、自分もそうやってずっと笑わされてきた - そのことの幸運をあらためて噛みしめて、コメディっておもしろいよねえ、としみじみ。
BFI Southbankでは10月から12月まで、”Comedy Genius”ていう古今のコメディ映画(だけじゃなくてこういうトークとかも)大特集をやっていて、宣伝も含めて規模もでっかくて、すでにいくつか見始めているのだが、英国の笑いと米国の笑の違いとか、いろいろ考えさせられる。(考えていないで、笑え)
一概には言えないと思うけど、英国の人がげらげら笑う箇所って、ちょっと独特で、英国人は米国のコメディも英国のコメディも同様に楽しむのだが、英国人がおもしろいと思うギャグって米国人にはそんなでもないのではないか、ツボが違うというか、英国好きの米国人にしか喜ばれないとこがあったりするのではないか、自分のなかにはそんな仮説がある。
なので、英国のコメディエンヌTracey Ullmanがアメリカでブレークしたのはなんでだろう? – 90年代に見ていたHBOの”Tracy Takes On …”は本当におもしろかったけど - ていうのはずっと謎で、このトークで彼女のキャリアを振り返ってその辺の謎が明らかになったらよいなー、程度で。
BBCのアナウンサーと対話をしながら、時代時代の彼女のクリップを振り返り、その頃の思い出話をしていく。 だけど基本は彼女の独演会になってしまい、なにをどう喋ってもおかしくてしょうがない。
舞台で即興のギャグをやっていた頃にTVから声がかかって、それを見て見初めたアメリカ人のAllan McKeownと結婚して彼に請われて米国に渡り、子育てをしながらNYのMuseum of Television and Radioとかに通ってアメリカの笑いを勉強したりして、Foxのコメディショーに出たらそれが当たって、そこからは映画も含めてみんなが知っている世界のTraceyに。
わたしが彼女を知ったのは83年、当然の、必殺の名盤 “You Broke My Heart in 17 Places”から、Stiffレーベルのシンガーとしてで(だから昔は音楽をやめてコメディの方に行っちゃった人だと思っていた)、話が音楽のことになって、なぜ突然に音楽を? と振られた彼女はひと言 - ”Kirsty MacColl!” - 続けて、彼女の”They Don’t Know”を歌いたかったのよ!(客席から拍手いっぱい。じーん)。それに当時のStiffといったらElvis Costello, Nick Lowe, the Damned, Devo, Wreckless Eric(Wreckless Ericの名前まででる)なんかがいて、こんな人達と一緒のレーベルになるなんてめちゃくちゃクールだと思った、って。
音楽クリップは"They Don't Know"のPVとBBCのTop of the Popsに出て"Breakaway"を歌ったときのが流れて、BBCに出たときに、両脇で踊ってくれたのは高校のときのクラスメートで、よくロッカーのとこでブラシを手にして一緒に歌ってたからそれをそのままやったんだ、って … 最高だよね。
米国で子育てもあって暇してた時は、よくBrooklynの中古車ディーラーのとこに電話かけて彼らがどんなふうに喋るのかを聞いてマネできるようにしたりしてた、とか、Museumのアーカイブを見て昔のコメディを勉強したり、SNLのGilda Radnerを見てあたしもあんなふうにやりたいんだ、って思った、って(じーん)。
米国でのクリップもいくつか紹介されたが、空港のセキュリティのとこに立ってるラティーノのおばちゃんのマネ、とか最高。
(彼女って世界最強の権力者よね、どんなセレブが来たって思いのまま身ぐるみはがすことができるのよ)。
映画のところはMeryl Streepと共演した”Plenty” (1985)とかWoody Allenとの諸作のはなしが勿論でたのだが、後のQ&Aで客席から”A Dirty Shame” (2004)って重要だと思うんですがどうなんでしょう? って(拍手おこる)。
あの映画、最初の30分はすごいと思うのよね、ていうのと、John Watersは偉大だと思うわ、って(どちらも同感)。
英国に戻って2015年にBBC(BBCだってさ、はぁ?ってかんじよ)に出るようになってからは政治ネタもやるようになって(歳とったら政治の世界がおもしろくてたまんなくなってさー。うんうん)、Maggie SmithとかJeremy Corbynのネタは彼女がなんかいるだけでおもしろい世界になってしまうし、全体の締めはもちろん、Theresa Mayのマネをやったクリップで。
コンサートで好きな曲をやってくれてうわーってなるのと同じかんじで、彼女の口からコメディアンや映画の名前が出るたびに、いちいちじーんとしてばっかりだった。そして彼女はみんなを笑わせてお腹をよじらせるプロで、自分もそうやってずっと笑わされてきた - そのことの幸運をあらためて噛みしめて、コメディっておもしろいよねえ、としみじみ。
11.20.2018
[art] Picasso: Bleu et rose
いろいろばたばたしていたのでその辺の備忘も含めて。
5日から7日まで仕事でドバイで、ドバイは昨年に続いて2回めだったのだが、やっぱし酸欠の金魚状態になった。 気候(だいたい30℃)のせいだけじゃなくて、都市が聳え立ってきらきらしているかんじがあわなくて、これはシンガポールでもそうなって、ドバイやシンガポールを訪れるとめらめら燃えてくる、っていうビジネスに恋した人々も間違いなくいるのだろうし、そういう人を非難するつもりもぜんぜんないのだが、自分はそうじゃないんだわ無理だわ、て思った。いまの東京も都市としては間違いなくそっちの方に向かっているのよね。あーあ。
で、7日の午前3:30にドバイからミュンヘンに飛んで、ミュンヘンに直行する飛行機はエミレーツだけだったのでそれにしたのだが、あのターミナルもラウンジも、ばかみたいにでっかくてすごくて、あそこまで行くとサービスがどうこう、ていう世界じゃなくて、とりあえずなんでも用意しておくから勝手に使えって。 これでじゅうぶんじゃないのか、この世界に「おもてなし」なんかで向かっていっても疲れてしぬだけじゃんそんなのやめちゃえば、とか思った。
で、8日の朝6時過ぎにミュンヘン着いて、薄暗いなか車で街中に入っていったのだが、もう車の窓から通り過ぎる建物を見ているだけでなんか、体中が解れて溶けていくみたいだった。 お湯がでなくても冷蔵庫がしんでも洗濯機が詰まってもしょっちゅうブレーカーが飛んでも地下鉄が止まってもバスがいいかげんでも、基本のインフラがどれだけしょぼくてその中で小突きまわされてぐったりになっても、こっちのが、こんなんでいいんだわ、って思った。
8日の晩のお仕事食事の前に少しだけ時間があいたのでDallmayrの本店とか行って、ああお菓子もお惣菜もハムもソーセージもこんなにすごくて呼んでいるのに、池みたいなとこには青いザリガニ(?あれなに?)までいる、のになんで手も足もだせないのか、とか呻きながら気づいたらお菓子とかハムとか手にしていた。自分でもなにやってるのかわからないかんじ - レコードとか古本漁っているとたまにやってくるあの忘我の感覚がー。
15の晩から16の夕方までは仕事でパリに行った。15の晩、木曜日のMusée d'Orsayは21:45までやっているので、とりあえず行くしかない。美術館に駆け込んだのは20:40くらいだった。
Picasso: Bleu et rose
昨年から今年にかけて何気にピカソが続いていて、パリのピカソ美術館で” Picasso 1932. Année érotique”をみて、それが英国にきたTate Modernでの“Picasso 1932 – Love, Fame, Tragedy”を何度か見て、昨年はマドリッドで「ゲルニカ」も見た。”Picasso 1932”は、パリとロンドンでタイトルが少しだけ違うように違っていて、ロンドンのがやや厚めの構成で丁寧だったかもしれない。”Pablo vestido de arlequin” (1924) とかも展示されていたし。
この展示は「青の時代(1901-1904)」とそれに続く「バラの時代(1904-1907)」に的を絞った内容で、この時期のピカソというと97年(20年前かあ..)にWashington DCのNational Galleryで行われた企画展 - “Picasso: The Early Years, 1892-1906” - が圧巻で、ピカソはどうやってピカソになっていったのか、がものすごい物量と共にわかりやすく示されていた。ピカソってこの時代を通過してしまえば、あとはどの年(1932年とか)でスライスしようが、どのテーマ(エロとか牛とか戦争とか)で切り出そうが十分な幅と厚みがあって、それは牛のいろんな部位みたいにどこをどう味わってもピカソでお腹いっぱいになるからそれはそれでよいのだが、なんといってもおもしろいのはこの初期の、悩んだり(青)萌えたり(バラ)して不安定に揺れながら線が撚りあわされていく、色とその肌理が定まっていくその過程にあるのだが、その過程を追えるようにするにはWashington DCの時のような圧倒的な量がないとだめで、その点はだいじょうぶだったかも。世界中から個人蔵のも含めて相当数来ていたし(広島とかからも)、必見のもほぼ網羅されていたとおもう。のでどっちにしても必見。 ピカソに少しでも興味があるひとは行ったほうがいい。 自分もたぶんもう一回、できれば行きたい。
Renoir père et fils: Peinture et cinéma
ピカソと同じかそれ以上に見たかったやつ。(シュナーベルのはどうでもよいかんじ)
PhiladelphiaのBarnes Foundationで9月まで行われていた展示が総本山でも。
2008年にBunkamuraで行われた「ルノワール+ルノワール展」、それの元になった2005年の”Renoir / Renoir”との異同は不明なのだが(「ルノワール+ルノワール展」の時、ふん、とか言って行かなかったのね..)、こっちはルノワール一族というより、父と息子、絵と映画の関係に的を絞っていて、それをやるには後から来たジャン(ルノワール)の映画作品から入っていくのが適切だよね、と各セクションは暗くしてあってジャンの時代ごとの代表作が投影されていて、それに関連したテーマのパパ・ルノワールの絵が展示されている、というもので、パパ視点からすればナメられたもんじゃの、になるのかもしれないが、息子からすればいやいやこれは最大級のRespectなのですよパパ、ということになると思う。
冒頭から”Partie de campagne” (1936) - “A Day in the Country” - 『ピクニック』で、これだけでぜんぶ入っていて十分じゃないの、とか思うのだが、そこから”Madame Bovary” (1934)とか、”French Cancan” (1955)とか、最後はお約束のように”The River” (1951)で おわる。
転換期にあったアートのありようを親子二代でいちばん解りやすく、その表現形態も含めて示すことができる稀有なケースで、いやそういうことよりも、このふたりのっておいしい料理とおなじでうっとりして、それだけで幸せになる、とってもお得なやつ。あとはそのまま映画館に向かえばいっちょうあがり。
Alphonse Mucha
16日の金曜日、この日は夕方にはロンドンに戻る必要があってぜんぜん時間なかったのだがMusee du Luxembourgに駆けこんで見た。 今年はチェコ建国100周年の関連なのかPragueでもここでもMuchaの企画展があって、これまであんま見てこなかった(ほれなんか子供向け、ってかんじだし、国民的なんとか、って嫌だし)のだが、見てみようかな、くらい。
どこかで見たことがある気がするポスターとかがいっぱいあって、この見たことがあるかんじ、とか統合されてかっこよく見えるかんじ、がくせものなんだろうな、とかやっぱし神さまとかやりだすといろいろ似てきちゃうんだろうな、とか。途中で投げちゃったみたいに燻んだり滲んだりしたぼんやりした作品のほうが素敵に見えた。 7月にポーランドのMuzeum Narodowe w Krakowieで見たWyspiański展もおもしろかったのだが、あれにも近いと思ったし、こういうの、日本だとアニメの世界になっちゃうんだろうなー。でも今の日本のアニメって、明らかに大政翼賛のあれだよね。
そこから食材屋のLa Grande Epicerie de Parisに走って、ヨーグルトとかパンとかブドウとか目についたのをざーっとカゴに入れて買ってホテルに戻りメトロで北駅に向かってなんとかユーロスターに間に合った。
5日から7日まで仕事でドバイで、ドバイは昨年に続いて2回めだったのだが、やっぱし酸欠の金魚状態になった。 気候(だいたい30℃)のせいだけじゃなくて、都市が聳え立ってきらきらしているかんじがあわなくて、これはシンガポールでもそうなって、ドバイやシンガポールを訪れるとめらめら燃えてくる、っていうビジネスに恋した人々も間違いなくいるのだろうし、そういう人を非難するつもりもぜんぜんないのだが、自分はそうじゃないんだわ無理だわ、て思った。いまの東京も都市としては間違いなくそっちの方に向かっているのよね。あーあ。
で、7日の午前3:30にドバイからミュンヘンに飛んで、ミュンヘンに直行する飛行機はエミレーツだけだったのでそれにしたのだが、あのターミナルもラウンジも、ばかみたいにでっかくてすごくて、あそこまで行くとサービスがどうこう、ていう世界じゃなくて、とりあえずなんでも用意しておくから勝手に使えって。 これでじゅうぶんじゃないのか、この世界に「おもてなし」なんかで向かっていっても疲れてしぬだけじゃんそんなのやめちゃえば、とか思った。
で、8日の朝6時過ぎにミュンヘン着いて、薄暗いなか車で街中に入っていったのだが、もう車の窓から通り過ぎる建物を見ているだけでなんか、体中が解れて溶けていくみたいだった。 お湯がでなくても冷蔵庫がしんでも洗濯機が詰まってもしょっちゅうブレーカーが飛んでも地下鉄が止まってもバスがいいかげんでも、基本のインフラがどれだけしょぼくてその中で小突きまわされてぐったりになっても、こっちのが、こんなんでいいんだわ、って思った。
8日の晩のお仕事食事の前に少しだけ時間があいたのでDallmayrの本店とか行って、ああお菓子もお惣菜もハムもソーセージもこんなにすごくて呼んでいるのに、池みたいなとこには青いザリガニ(?あれなに?)までいる、のになんで手も足もだせないのか、とか呻きながら気づいたらお菓子とかハムとか手にしていた。自分でもなにやってるのかわからないかんじ - レコードとか古本漁っているとたまにやってくるあの忘我の感覚がー。
15の晩から16の夕方までは仕事でパリに行った。15の晩、木曜日のMusée d'Orsayは21:45までやっているので、とりあえず行くしかない。美術館に駆け込んだのは20:40くらいだった。
Picasso: Bleu et rose
昨年から今年にかけて何気にピカソが続いていて、パリのピカソ美術館で” Picasso 1932. Année érotique”をみて、それが英国にきたTate Modernでの“Picasso 1932 – Love, Fame, Tragedy”を何度か見て、昨年はマドリッドで「ゲルニカ」も見た。”Picasso 1932”は、パリとロンドンでタイトルが少しだけ違うように違っていて、ロンドンのがやや厚めの構成で丁寧だったかもしれない。”Pablo vestido de arlequin” (1924) とかも展示されていたし。
この展示は「青の時代(1901-1904)」とそれに続く「バラの時代(1904-1907)」に的を絞った内容で、この時期のピカソというと97年(20年前かあ..)にWashington DCのNational Galleryで行われた企画展 - “Picasso: The Early Years, 1892-1906” - が圧巻で、ピカソはどうやってピカソになっていったのか、がものすごい物量と共にわかりやすく示されていた。ピカソってこの時代を通過してしまえば、あとはどの年(1932年とか)でスライスしようが、どのテーマ(エロとか牛とか戦争とか)で切り出そうが十分な幅と厚みがあって、それは牛のいろんな部位みたいにどこをどう味わってもピカソでお腹いっぱいになるからそれはそれでよいのだが、なんといってもおもしろいのはこの初期の、悩んだり(青)萌えたり(バラ)して不安定に揺れながら線が撚りあわされていく、色とその肌理が定まっていくその過程にあるのだが、その過程を追えるようにするにはWashington DCの時のような圧倒的な量がないとだめで、その点はだいじょうぶだったかも。世界中から個人蔵のも含めて相当数来ていたし(広島とかからも)、必見のもほぼ網羅されていたとおもう。のでどっちにしても必見。 ピカソに少しでも興味があるひとは行ったほうがいい。 自分もたぶんもう一回、できれば行きたい。
Renoir père et fils: Peinture et cinéma
ピカソと同じかそれ以上に見たかったやつ。(シュナーベルのはどうでもよいかんじ)
PhiladelphiaのBarnes Foundationで9月まで行われていた展示が総本山でも。
2008年にBunkamuraで行われた「ルノワール+ルノワール展」、それの元になった2005年の”Renoir / Renoir”との異同は不明なのだが(「ルノワール+ルノワール展」の時、ふん、とか言って行かなかったのね..)、こっちはルノワール一族というより、父と息子、絵と映画の関係に的を絞っていて、それをやるには後から来たジャン(ルノワール)の映画作品から入っていくのが適切だよね、と各セクションは暗くしてあってジャンの時代ごとの代表作が投影されていて、それに関連したテーマのパパ・ルノワールの絵が展示されている、というもので、パパ視点からすればナメられたもんじゃの、になるのかもしれないが、息子からすればいやいやこれは最大級のRespectなのですよパパ、ということになると思う。
冒頭から”Partie de campagne” (1936) - “A Day in the Country” - 『ピクニック』で、これだけでぜんぶ入っていて十分じゃないの、とか思うのだが、そこから”Madame Bovary” (1934)とか、”French Cancan” (1955)とか、最後はお約束のように”The River” (1951)で おわる。
転換期にあったアートのありようを親子二代でいちばん解りやすく、その表現形態も含めて示すことができる稀有なケースで、いやそういうことよりも、このふたりのっておいしい料理とおなじでうっとりして、それだけで幸せになる、とってもお得なやつ。あとはそのまま映画館に向かえばいっちょうあがり。
Alphonse Mucha
16日の金曜日、この日は夕方にはロンドンに戻る必要があってぜんぜん時間なかったのだがMusee du Luxembourgに駆けこんで見た。 今年はチェコ建国100周年の関連なのかPragueでもここでもMuchaの企画展があって、これまであんま見てこなかった(ほれなんか子供向け、ってかんじだし、国民的なんとか、って嫌だし)のだが、見てみようかな、くらい。
どこかで見たことがある気がするポスターとかがいっぱいあって、この見たことがあるかんじ、とか統合されてかっこよく見えるかんじ、がくせものなんだろうな、とかやっぱし神さまとかやりだすといろいろ似てきちゃうんだろうな、とか。途中で投げちゃったみたいに燻んだり滲んだりしたぼんやりした作品のほうが素敵に見えた。 7月にポーランドのMuzeum Narodowe w Krakowieで見たWyspiański展もおもしろかったのだが、あれにも近いと思ったし、こういうの、日本だとアニメの世界になっちゃうんだろうなー。でも今の日本のアニメって、明らかに大政翼賛のあれだよね。
そこから食材屋のLa Grande Epicerie de Parisに走って、ヨーグルトとかパンとかブドウとか目についたのをざーっとカゴに入れて買ってホテルに戻りメトロで北駅に向かってなんとかユーロスターに間に合った。
11.19.2018
[music] MC50
12日の月曜日の晩、Shepherd's Bush Empireで見ました。
結成して40年のバンドを見た翌日に結成50年を機に再編されたバンドのライブ。
月曜日だったし、いろいろあってぐったりだったのでスタンディングのフロアではなく2階の椅子席(指定なし)にした。2階はもう老人の寄り合いみたいに年寄りだらけでよれよれ挨拶しながら(それでも)ビール飲んでて、UKってライブに結構お年寄り(←きみもな)が来るし、それはとってもよいことだと思うのだが、この日は特に多かったかも。どんなに盛りあがってもだれひとり椅子から立たないし、立てないし。
これよりずっと前、2004年にWayne KramerさんはDKT/MC5ていうプロジェクトでMC5の曲をやるライブをやっていて、Boweryで見たことがあった。そのとき”Kick Out the Jams”を歌っていたのはEvan Dandoで、他のヴォーカルにはMark Armさんもいて、コンソールの前ではJim Jarmusch氏が満面の笑顔で首を振っていて、その姿が目に焼き付いている。
よい席で見たかったので早目に行ったら、前座に出てきたのはMichael Monroeで、まだやっていたのね、だったが、音は大変元気なバケツ転がしどかすかロックで、本人も走って飛んで煽って客と歌って、元気でよかったね、としか言いようがない。しぬまでやっててほしい。
MC50は、少しは貫禄ある重厚なふうに出てくるかと思ったらWayne Kramerがひょこひょこ跳ねながら昔のドリフみたいなかんじで現れて、元気なのはわかったけどもうちょっとさあ、だった。
で、最初の”Ramblin' Rose”は彼がそのまま気持ちよさそうに歌って、2曲目はもう”Kick Out the Jams”で、ステージの端に突っ立っていたアンドレ・ザ・ジャイアントみたいなアフロ野郎がマイクを握って痙攣しながらぶちかましてくる。アクションだけだと体がでっかすぎてコントロールがきかなくて一層やばくなったJames Brown、みたいなかんじ。
バックの音は申し分ないの。Kim ThayilもBrendan CantyもBilly Gouldも元のバンドでは人力のグルーヴを作り出す天才たちで、MC5というのはWayne Kramerさんが終わりのほうで述べていたように、ホーンセクションをギターに置き換えたソウル・ミュージックをやるバンドだったのだから、MC5が10倍に濃縮されたMC50が高機能グルーヴィーミュージックマシーンになるのは必然だったし、それは一旦スイッチが入ったら止まらずに回り続けて気持ちいいったらない。特にKim ThayilとBrendan Cantyの編みだすぐるぐるときたら初期のThe Whoみたいで、気持ちよすぎて卒倒もん。 立ちあがれない老人たちも嬉しそうに首を振っていた。
特に終盤の”Tonight” – “Shakin' Street” – “Future/Now” からラストの”Call Me Animal”までの音の拡がりと豊かさときたらR&BもガレージもR&Rのリフも軽くすっとんで、MC5ってこんなすごい曲あったんだっけ?と思ってしまうくらいにすばらしいのだった。
アメリカから来てこんなこと言うのもさー、と言いつつもやはり今の政治状況に対する危機意識と今こそ立ちあがるべし! はここでも毅然と表明されて、客もわあわあーで、これを言うためにWayne Kramerさんは50年前の亡霊(かつてのメンバーの名前もきちんと紹介される。Respect! って)と共にここに現れたのだな、と思った。
アンコールではMichael Monroeがサックスで入った。本人はとっても歌いたかったようでサックスのマイクになんとか口をもっていこうとするのだが、飼い主(Wayne Kramer)に犬みたいに止められていておかしかった。
このメンツでMC5をカバーするレコード作ってくれないかしら。ライブだけで終わるのはあまりにもったいないわ。
結成して40年のバンドを見た翌日に結成50年を機に再編されたバンドのライブ。
月曜日だったし、いろいろあってぐったりだったのでスタンディングのフロアではなく2階の椅子席(指定なし)にした。2階はもう老人の寄り合いみたいに年寄りだらけでよれよれ挨拶しながら(それでも)ビール飲んでて、UKってライブに結構お年寄り(←きみもな)が来るし、それはとってもよいことだと思うのだが、この日は特に多かったかも。どんなに盛りあがってもだれひとり椅子から立たないし、立てないし。
これよりずっと前、2004年にWayne KramerさんはDKT/MC5ていうプロジェクトでMC5の曲をやるライブをやっていて、Boweryで見たことがあった。そのとき”Kick Out the Jams”を歌っていたのはEvan Dandoで、他のヴォーカルにはMark Armさんもいて、コンソールの前ではJim Jarmusch氏が満面の笑顔で首を振っていて、その姿が目に焼き付いている。
よい席で見たかったので早目に行ったら、前座に出てきたのはMichael Monroeで、まだやっていたのね、だったが、音は大変元気なバケツ転がしどかすかロックで、本人も走って飛んで煽って客と歌って、元気でよかったね、としか言いようがない。しぬまでやっててほしい。
MC50は、少しは貫禄ある重厚なふうに出てくるかと思ったらWayne Kramerがひょこひょこ跳ねながら昔のドリフみたいなかんじで現れて、元気なのはわかったけどもうちょっとさあ、だった。
で、最初の”Ramblin' Rose”は彼がそのまま気持ちよさそうに歌って、2曲目はもう”Kick Out the Jams”で、ステージの端に突っ立っていたアンドレ・ザ・ジャイアントみたいなアフロ野郎がマイクを握って痙攣しながらぶちかましてくる。アクションだけだと体がでっかすぎてコントロールがきかなくて一層やばくなったJames Brown、みたいなかんじ。
バックの音は申し分ないの。Kim ThayilもBrendan CantyもBilly Gouldも元のバンドでは人力のグルーヴを作り出す天才たちで、MC5というのはWayne Kramerさんが終わりのほうで述べていたように、ホーンセクションをギターに置き換えたソウル・ミュージックをやるバンドだったのだから、MC5が10倍に濃縮されたMC50が高機能グルーヴィーミュージックマシーンになるのは必然だったし、それは一旦スイッチが入ったら止まらずに回り続けて気持ちいいったらない。特にKim ThayilとBrendan Cantyの編みだすぐるぐるときたら初期のThe Whoみたいで、気持ちよすぎて卒倒もん。 立ちあがれない老人たちも嬉しそうに首を振っていた。
特に終盤の”Tonight” – “Shakin' Street” – “Future/Now” からラストの”Call Me Animal”までの音の拡がりと豊かさときたらR&BもガレージもR&Rのリフも軽くすっとんで、MC5ってこんなすごい曲あったんだっけ?と思ってしまうくらいにすばらしいのだった。
アメリカから来てこんなこと言うのもさー、と言いつつもやはり今の政治状況に対する危機意識と今こそ立ちあがるべし! はここでも毅然と表明されて、客もわあわあーで、これを言うためにWayne Kramerさんは50年前の亡霊(かつてのメンバーの名前もきちんと紹介される。Respect! って)と共にここに現れたのだな、と思った。
アンコールではMichael Monroeがサックスで入った。本人はとっても歌いたかったようでサックスのマイクになんとか口をもっていこうとするのだが、飼い主(Wayne Kramer)に犬みたいに止められていておかしかった。
このメンツでMC5をカバーするレコード作ってくれないかしら。ライブだけで終わるのはあまりにもったいないわ。
11.18.2018
[music] Alison Statton, Stuart Moxham and Spike
11日、日曜日の晩、Café Otoで見ました。
Young Marble Giants (YMG)としてはもう活動しないようなのだが、このメンツであれば、と。
70年代の終わりから80年代の初め、今はpost-punkとしてカテゴライズされる彼らの音ってなんだったのだろう、といまだに考えてしまうことがあって、簡単にいうとそういうことをいまだに考えさせてしまうくらいに後継のない、ぽつんとそこに出てきた音であり声だったのだなあ、と。 変なところに置かれってそのままにされた大理石のようなやつ。
7時半にドアが開いて、開演は8時半で、右手からStuart, Alison, Spike、Stuartはちゃんとした身なりのスーツ姿で、ぜんぜん関係ないけどSlapp Happyの時のPeter Blegvadさんとおなじような佇まいと雰囲気。 お客さんの前で演奏して、何かを広めてるのだからね、って。
で、彼が新しいのだってやるもん、と新曲の弾き語りから始めて、ぜんぶ新曲だったらどうしよう… と思ったけど続けて”Salad Days”をやったので少しほっとして、そこから先の流れはリラックスして次なにやろうか、と3人で目配せしたり相談して、Alisonは歌詞を探して譜面台に乗せて、せーの、で始まって、時折間違ったりして、2分くらいでしゃん、と小石に躓くようにしてぷつりと終わる。
2台のアコギの絡みは悲しいほどぺらぺらで爪と弦がぶつかる音まで容赦なくぎこちなくて、そこに乗っかるでも被さるでもなく、爪と弦と等間隔で波を寄せてくるAlisonの歌と声。 融和しない、でも分解もできない、石ころ(大理石)のように冷たくそこにあるだけのすかすかした音と言葉と。
愛想 - 不愛想とか暖かい - 冷たいとか、そういう形容から離れて弦が爪弾かれて物理的に震えるのとおなじように声もそこにある。 "Final Day"が終わったところでStuwartが今時点で米国政府が保有している核兵器の数は.. とニュースキャスターのように喋り始める、そんなようなトーンで奏でられていく静かで喧しい音楽。
欲を言えばもうちょっとだけWeekendの曲があればなー、だったけど、The Gistの曲を結構やっていたのが嬉しかった。”Love at First Sight”なんて何十年ぶりに聴いたけど、いい曲だよね。(Stuartも自分が書いた中で一番いい曲かも、って)
1回のアンコール含めて1時間半くらい。お喋りが半分くらいだった気もしたが、すばらしく充実していた。彼らのキャリアをおさらいする、というだけでなく、それを通して我々のここ30 〜 40年の”La Varieté”を考えさせてくれる、そんな隙間と余裕がいっぱいあって。
Stuartが、初めてロンドンでライブをやった時のことを話して、その時一緒に出たのがThe Raincoatsで、フェミニストみたいな人達がいっぱい来ていて怖かったことを思いだす、と。その時に端の方がざわざわしていたのでRaincoatsの関係のひとがいたのかしら。
お土産にStuartの詩が載っている小冊子 - 挿画はWendy Smithさん、ものすごくちっちゃくStuartのサインがある – を買った。(£10)
直接関係ないけど、今年も音楽関係のドキュメンタリー映画祭 - Doc'n Roll Film Festivalがあって、ばたばたしているうちに気づいたら終わりそうで、その頃になってメニューを見てみれば”The Wedding Present: Something Left Behind”はあるわ、RaincoatsのGina Birchさん監督による“Stories from She Punks”はあるわ、ばかばかばか、って頭を抱えたのだが、10日の夕方にBarbicanで1本だけ見たやつ。
Anne Clark: I’ll Walk Out Into Tomorrow (2018)
Anne Clarkさんは80年代初にVini Reillyと、更にはJohn Foxxとの共演盤を出していた人で、いつの間にか消えちゃったなあと思っていたのだが、実情はVirginから全米進出をする手前でマネージャーとかにお金とかぜんぶ持ち逃げされて、沈黙せざるを得なかったのだと。
でも彼女は北欧に渡ってずっと音楽(ややエレクトロ寄り)を作り続けていて元気です、という近況も含めた報告ドキュメンタリーだった。 上映後にはAnne Clarkさんも登場してQ&Aもあった。80年代初期のあたりのことをもう少し知りたかったんだけどな。
Young Marble Giants (YMG)としてはもう活動しないようなのだが、このメンツであれば、と。
70年代の終わりから80年代の初め、今はpost-punkとしてカテゴライズされる彼らの音ってなんだったのだろう、といまだに考えてしまうことがあって、簡単にいうとそういうことをいまだに考えさせてしまうくらいに後継のない、ぽつんとそこに出てきた音であり声だったのだなあ、と。 変なところに置かれってそのままにされた大理石のようなやつ。
7時半にドアが開いて、開演は8時半で、右手からStuart, Alison, Spike、Stuartはちゃんとした身なりのスーツ姿で、ぜんぜん関係ないけどSlapp Happyの時のPeter Blegvadさんとおなじような佇まいと雰囲気。 お客さんの前で演奏して、何かを広めてるのだからね、って。
で、彼が新しいのだってやるもん、と新曲の弾き語りから始めて、ぜんぶ新曲だったらどうしよう… と思ったけど続けて”Salad Days”をやったので少しほっとして、そこから先の流れはリラックスして次なにやろうか、と3人で目配せしたり相談して、Alisonは歌詞を探して譜面台に乗せて、せーの、で始まって、時折間違ったりして、2分くらいでしゃん、と小石に躓くようにしてぷつりと終わる。
2台のアコギの絡みは悲しいほどぺらぺらで爪と弦がぶつかる音まで容赦なくぎこちなくて、そこに乗っかるでも被さるでもなく、爪と弦と等間隔で波を寄せてくるAlisonの歌と声。 融和しない、でも分解もできない、石ころ(大理石)のように冷たくそこにあるだけのすかすかした音と言葉と。
愛想 - 不愛想とか暖かい - 冷たいとか、そういう形容から離れて弦が爪弾かれて物理的に震えるのとおなじように声もそこにある。 "Final Day"が終わったところでStuwartが今時点で米国政府が保有している核兵器の数は.. とニュースキャスターのように喋り始める、そんなようなトーンで奏でられていく静かで喧しい音楽。
欲を言えばもうちょっとだけWeekendの曲があればなー、だったけど、The Gistの曲を結構やっていたのが嬉しかった。”Love at First Sight”なんて何十年ぶりに聴いたけど、いい曲だよね。(Stuartも自分が書いた中で一番いい曲かも、って)
1回のアンコール含めて1時間半くらい。お喋りが半分くらいだった気もしたが、すばらしく充実していた。彼らのキャリアをおさらいする、というだけでなく、それを通して我々のここ30 〜 40年の”La Varieté”を考えさせてくれる、そんな隙間と余裕がいっぱいあって。
Stuartが、初めてロンドンでライブをやった時のことを話して、その時一緒に出たのがThe Raincoatsで、フェミニストみたいな人達がいっぱい来ていて怖かったことを思いだす、と。その時に端の方がざわざわしていたのでRaincoatsの関係のひとがいたのかしら。
お土産にStuartの詩が載っている小冊子 - 挿画はWendy Smithさん、ものすごくちっちゃくStuartのサインがある – を買った。(£10)
直接関係ないけど、今年も音楽関係のドキュメンタリー映画祭 - Doc'n Roll Film Festivalがあって、ばたばたしているうちに気づいたら終わりそうで、その頃になってメニューを見てみれば”The Wedding Present: Something Left Behind”はあるわ、RaincoatsのGina Birchさん監督による“Stories from She Punks”はあるわ、ばかばかばか、って頭を抱えたのだが、10日の夕方にBarbicanで1本だけ見たやつ。
Anne Clark: I’ll Walk Out Into Tomorrow (2018)
Anne Clarkさんは80年代初にVini Reillyと、更にはJohn Foxxとの共演盤を出していた人で、いつの間にか消えちゃったなあと思っていたのだが、実情はVirginから全米進出をする手前でマネージャーとかにお金とかぜんぶ持ち逃げされて、沈黙せざるを得なかったのだと。
でも彼女は北欧に渡ってずっと音楽(ややエレクトロ寄り)を作り続けていて元気です、という近況も含めた報告ドキュメンタリーだった。 上映後にはAnne Clarkさんも登場してQ&Aもあった。80年代初期のあたりのことをもう少し知りたかったんだけどな。
11.17.2018
[film] Widows (2018)
10日、どしゃぶりの土曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。
現代のシカゴで、Harry Rawlins (Liam Neeson)と3人の仲間が強盗をしたら車で逃げる手前から銃撃戦になり、ようやく逃げこんだ倉庫でなぜか待ち伏せしていたSWATに車ごと吹っ飛ばされて、Harryの妻のVeronica (Viola Davis)は嘆き悲しむのだが、そんな暇もなくやくざっぽいJamal Manning (Brian Tyree Henry)からHarryがうちから盗っていった$2milを返さないとただじゃ… て脅されて、途方に暮れているとHarryが遺したノートに次の強盗計画の詳細が書かれているのを見つける。これをうまくやらかせば$5mil - 借りを返してもおつりがくる。 Veronicaはこの襲撃で亡くなったHarryの仲間の未亡人たち - Linda (Michelle Rodriguez) とAlice (Elizabeth Debicki) – どっちもそれなりに絶望して自棄になっている – に声を掛けて、やるかやらないかを決めさせて、やると言ってきたふたりと共にこまこま準備と下調べと訓練にとりかかる。 のだが、当然その行動はやくざ側(Daniel Kaluuyaがとってもこわい)にはぜんぶマークされていて運転手とか知り合いは消されていくし、その金ときたら地元の有力政治家(Robert Duvall)の2世(Colin Farrell)の選挙戦絡みのやつらしく、きれいごと汚れごと混じってきな臭いことこの上ないし、でもどうせ先はないんだからやるよ、って。
夫たちを殺された妻たちが玉突きのように同様の犯罪に走っていく、そういうシンプルな流れのやつかと思っていると、白テリアのOlivia(かわいいー)の思わぬ発見から物語はどす黒いとぐろを巻き始めて、でも後戻りはできなくて、いよいよ決行の時がやってくる。
夫への仇討ちとか復讐、というよりは夫の死によって今後の生活が(希望みたいなとこも含めて)どうにもならなくなった未亡人たちが突破口として選んだ次の手、その世界に戸惑ったりどきどきしたりしつつ、退路も断たれてハラを据えて突っこんでいく、顔面のアップが多用される緊張感が延々続き、Veronicaの過去やそれぞれの家族の事情も語られたりするので裏街道犯罪スリラーとして130分はちょっと長いかもしれないが、3人 + 運転手として加わったBelle (Cynthia Erivo)も含めて女性それぞれの真剣な顔を追っかけるドラマとして見ごたえじゅうぶんで、特にラストなんてほんとに。
なので拳を握って、やったれ! みたいな興奮も決行後の爽快感もあんまない、けどこのお話しであればこれはこれでよいの。
(邦題はぜんぜん違うし、日本語のWikiにあるあらすじもでたらめ。 なんで日本て極妻みたいな方に落としたがるのか? なんかの病気じゃねーのか?)
元はイギリスのTVシリーズだったのをシカゴに持っていった、元のドラマは見ていないのだが、シカゴ郊外の治安があまりよくない地域、人種と格差の問題が顕在化していて、政治や宗教がそこに程よく介在することを求められている、顔の知れた連中はほぼ裏や傷のある悪人 - そういう地盤に展開される女性たちのドラマとしてとっても適切かつありそうで、なぜ彼女たちは? が状況の説明と共にくっきりと浮かびあがる、そういうところも含めて極めて政治的なドラマだよね、とも思った。
俳優さんたちに知った顔がいっぱい出てきてオールスターキャストみたいに紹介されているのだが、ひと昔前だったらいそうなDe NiroもPacinoもいない(かろうじてRobert Duvall)。あたり前だけどオールスターっていうのも世代が変わっていくんだねえ。
Viola Davisさんはいつものように”ど”が付くすごさなのだが、Alice役のElizabeth Debickiさんがすばらしい。 ポーランド系移民の娘がだんだん強くなっていくの。 彼女だけでスピンオフできるな。
もし続編が作られるのだとしたらViola DavisとMichelle RodriguezがColin Farrellをぼこぼこにするやつを期待したい。
(こんどは爽快なやつで)
現代のシカゴで、Harry Rawlins (Liam Neeson)と3人の仲間が強盗をしたら車で逃げる手前から銃撃戦になり、ようやく逃げこんだ倉庫でなぜか待ち伏せしていたSWATに車ごと吹っ飛ばされて、Harryの妻のVeronica (Viola Davis)は嘆き悲しむのだが、そんな暇もなくやくざっぽいJamal Manning (Brian Tyree Henry)からHarryがうちから盗っていった$2milを返さないとただじゃ… て脅されて、途方に暮れているとHarryが遺したノートに次の強盗計画の詳細が書かれているのを見つける。これをうまくやらかせば$5mil - 借りを返してもおつりがくる。 Veronicaはこの襲撃で亡くなったHarryの仲間の未亡人たち - Linda (Michelle Rodriguez) とAlice (Elizabeth Debicki) – どっちもそれなりに絶望して自棄になっている – に声を掛けて、やるかやらないかを決めさせて、やると言ってきたふたりと共にこまこま準備と下調べと訓練にとりかかる。 のだが、当然その行動はやくざ側(Daniel Kaluuyaがとってもこわい)にはぜんぶマークされていて運転手とか知り合いは消されていくし、その金ときたら地元の有力政治家(Robert Duvall)の2世(Colin Farrell)の選挙戦絡みのやつらしく、きれいごと汚れごと混じってきな臭いことこの上ないし、でもどうせ先はないんだからやるよ、って。
夫たちを殺された妻たちが玉突きのように同様の犯罪に走っていく、そういうシンプルな流れのやつかと思っていると、白テリアのOlivia(かわいいー)の思わぬ発見から物語はどす黒いとぐろを巻き始めて、でも後戻りはできなくて、いよいよ決行の時がやってくる。
夫への仇討ちとか復讐、というよりは夫の死によって今後の生活が(希望みたいなとこも含めて)どうにもならなくなった未亡人たちが突破口として選んだ次の手、その世界に戸惑ったりどきどきしたりしつつ、退路も断たれてハラを据えて突っこんでいく、顔面のアップが多用される緊張感が延々続き、Veronicaの過去やそれぞれの家族の事情も語られたりするので裏街道犯罪スリラーとして130分はちょっと長いかもしれないが、3人 + 運転手として加わったBelle (Cynthia Erivo)も含めて女性それぞれの真剣な顔を追っかけるドラマとして見ごたえじゅうぶんで、特にラストなんてほんとに。
なので拳を握って、やったれ! みたいな興奮も決行後の爽快感もあんまない、けどこのお話しであればこれはこれでよいの。
(邦題はぜんぜん違うし、日本語のWikiにあるあらすじもでたらめ。 なんで日本て極妻みたいな方に落としたがるのか? なんかの病気じゃねーのか?)
元はイギリスのTVシリーズだったのをシカゴに持っていった、元のドラマは見ていないのだが、シカゴ郊外の治安があまりよくない地域、人種と格差の問題が顕在化していて、政治や宗教がそこに程よく介在することを求められている、顔の知れた連中はほぼ裏や傷のある悪人 - そういう地盤に展開される女性たちのドラマとしてとっても適切かつありそうで、なぜ彼女たちは? が状況の説明と共にくっきりと浮かびあがる、そういうところも含めて極めて政治的なドラマだよね、とも思った。
俳優さんたちに知った顔がいっぱい出てきてオールスターキャストみたいに紹介されているのだが、ひと昔前だったらいそうなDe NiroもPacinoもいない(かろうじてRobert Duvall)。あたり前だけどオールスターっていうのも世代が変わっていくんだねえ。
Viola Davisさんはいつものように”ど”が付くすごさなのだが、Alice役のElizabeth Debickiさんがすばらしい。 ポーランド系移民の娘がだんだん強くなっていくの。 彼女だけでスピンオフできるな。
もし続編が作られるのだとしたらViola DavisとMichelle RodriguezがColin Farrellをぼこぼこにするやつを期待したい。
(こんどは爽快なやつで)
11.14.2018
[film] Wildlife (2018)
11日の日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。上映後にCarey MulliganさんとのQ&Aつき。
原作はRichard Fordの同名小説(1990)- 未読。これをPaul DanoとZoe Kazanが一緒に脚本にしてPaul Danoが監督したもの。映画製作は初めてとなる文芸オタクの二人が膝付きあわせて、どんな議論を重ねて練りあげていったのか目に浮かぶようだが、出来あがったものは微笑ましい、なんてところをはるかに越えたすばらしいものだった。
60年代、モンタナの一軒家にJeanette (Carey Mulligan)、Jerry (Jake Gyllenhaal)、彼らの息子で16歳になるJoe (Ed Oxenbould)が仲良く暮らしていたのだが、ある日突然Jerryが勤務先のカントリークラブをクビになって、後日それは勤務先の方のミスだったと言ってくるのだがプライドを傷つけられたJerryに戻るつもりはなく、失業状態となった彼は家や車のなかでぼーっとしていることが多くなる。 Jeanetteとの関係も危ういかんじになってきたところで、Jerryは頻発している山火事の消防隊の支援に手を挙げて、ひとり山奥の方に消えてしまう。
Jeanetteはパニックを起こしつつも仕事を探さなきゃと、どうにか地元のスイミングスクールのトレイナーの職を得て、親子の生活を立て直していくのだが、スイミングスクールに来た生徒として知り合った年寄りでそこそこ金もあるWarren Miller (Bill Camp) に吸い寄せられるように近づいて親しくなっていく。
というような、ついこの間までみんな幸せだったのに突然なんで? と目の前に迫ってくる山火事を見ているかのような光景(実際に彼が間近にそれを見るシーンがある)が多感なJoeの目を直撃し、ママのところにやってくるやらしそうなMillerやMillarとの密会に向かうママ、彼女の外観や挙動が荒んでいくのを信じられない思いで見つめ、彼は学校よりも町の写真館でのバイトに精を出すようになったころに、Jerryが山から戻ってくる。
少しやつれたJerryの目、突然消えた夫に対するJeanetteの憎悪の目、元に戻すことができない山火事になることは目に見えているのに、Joeの目はふたりをはらはら見つめるしかなくて、でもここから先の展開とラストの切り取りかたがとてもよいの。 あのラストはねえ、思いだしただけで身もだえするくらい素敵で、ここだけのために何回でも見たい。
激しいシーンはあまりなくて静かでスローで、モンタナの山を眺めつつ遠くに汽笛が聞こえたりバス停に散りはじめる雪の見事なこと、色彩や構図はEdward Hopperの絵画で、アメリカの60年代の田舎だからこそ描けたような情景、あるいは“Little Miss Sunshine” (2006)で言葉を失ってしまった男の子を演じたPaul Danoだからこそ描けた家族のドラマ、この映画については繊細すぎるくらい繊細に考え抜かれたディテールがすばらしく、だから全体を通して一回だけ口にされる”Wildlife”という言葉も活きてくるのだと思った。
ぜんぜん関係ないけど、山火事が出てくるせいか成瀬の『山の音』を思いだしたりした。成瀬のメロドラマにある、こまこまどこかしら狂っていて戻ってこれなくなる怖さと切なさ、あるかも。
上映後のCarey MulliganさんとのQ&Aは、ひとりの女優としてJeanetteのような女性をどう演じ、彼女の挙動についてどう思ったか、というところに集中して、それに対する彼女の答えもとても納得いくものだった。突然愛する夫が失業して家を出て行ってしまったとき、混沌と共にショック状態がくるのは当然で、そこでまずしなきゃいけないのは子供を守ってその食い扶持を確保することなので、彼女が取った行動に特別おかしなところはなくて(実際に母親になって – もうじき次のも、って - わかったところもある)、少なくともそういう状態をもたらした男の側がそっちの論理であれこれ判定したりするのはおかしいと思う、というようなことを実際にはこれよりずっと長く喋っていて、彼女も相当考えながら役作りをしていったことは明らかで、そういえば彼女のこれまでの作品も理知的な眼差しと獰猛な眼差し、その隙間に現れる羞恥の間を微細に揺れ動いていくスリルに満ちた、そういうものだったねえ、と思った。
Paul Danoはこのまま映画監督になっちゃうのかしら? 俳優としての彼が演じてきた変てこなキャラが好きだったので、そっちも続けてほしいのだけど。
邦題、こんどふざけたらただじゃ..
原作はRichard Fordの同名小説(1990)- 未読。これをPaul DanoとZoe Kazanが一緒に脚本にしてPaul Danoが監督したもの。映画製作は初めてとなる文芸オタクの二人が膝付きあわせて、どんな議論を重ねて練りあげていったのか目に浮かぶようだが、出来あがったものは微笑ましい、なんてところをはるかに越えたすばらしいものだった。
60年代、モンタナの一軒家にJeanette (Carey Mulligan)、Jerry (Jake Gyllenhaal)、彼らの息子で16歳になるJoe (Ed Oxenbould)が仲良く暮らしていたのだが、ある日突然Jerryが勤務先のカントリークラブをクビになって、後日それは勤務先の方のミスだったと言ってくるのだがプライドを傷つけられたJerryに戻るつもりはなく、失業状態となった彼は家や車のなかでぼーっとしていることが多くなる。 Jeanetteとの関係も危ういかんじになってきたところで、Jerryは頻発している山火事の消防隊の支援に手を挙げて、ひとり山奥の方に消えてしまう。
Jeanetteはパニックを起こしつつも仕事を探さなきゃと、どうにか地元のスイミングスクールのトレイナーの職を得て、親子の生活を立て直していくのだが、スイミングスクールに来た生徒として知り合った年寄りでそこそこ金もあるWarren Miller (Bill Camp) に吸い寄せられるように近づいて親しくなっていく。
というような、ついこの間までみんな幸せだったのに突然なんで? と目の前に迫ってくる山火事を見ているかのような光景(実際に彼が間近にそれを見るシーンがある)が多感なJoeの目を直撃し、ママのところにやってくるやらしそうなMillerやMillarとの密会に向かうママ、彼女の外観や挙動が荒んでいくのを信じられない思いで見つめ、彼は学校よりも町の写真館でのバイトに精を出すようになったころに、Jerryが山から戻ってくる。
少しやつれたJerryの目、突然消えた夫に対するJeanetteの憎悪の目、元に戻すことができない山火事になることは目に見えているのに、Joeの目はふたりをはらはら見つめるしかなくて、でもここから先の展開とラストの切り取りかたがとてもよいの。 あのラストはねえ、思いだしただけで身もだえするくらい素敵で、ここだけのために何回でも見たい。
激しいシーンはあまりなくて静かでスローで、モンタナの山を眺めつつ遠くに汽笛が聞こえたりバス停に散りはじめる雪の見事なこと、色彩や構図はEdward Hopperの絵画で、アメリカの60年代の田舎だからこそ描けたような情景、あるいは“Little Miss Sunshine” (2006)で言葉を失ってしまった男の子を演じたPaul Danoだからこそ描けた家族のドラマ、この映画については繊細すぎるくらい繊細に考え抜かれたディテールがすばらしく、だから全体を通して一回だけ口にされる”Wildlife”という言葉も活きてくるのだと思った。
ぜんぜん関係ないけど、山火事が出てくるせいか成瀬の『山の音』を思いだしたりした。成瀬のメロドラマにある、こまこまどこかしら狂っていて戻ってこれなくなる怖さと切なさ、あるかも。
上映後のCarey MulliganさんとのQ&Aは、ひとりの女優としてJeanetteのような女性をどう演じ、彼女の挙動についてどう思ったか、というところに集中して、それに対する彼女の答えもとても納得いくものだった。突然愛する夫が失業して家を出て行ってしまったとき、混沌と共にショック状態がくるのは当然で、そこでまずしなきゃいけないのは子供を守ってその食い扶持を確保することなので、彼女が取った行動に特別おかしなところはなくて(実際に母親になって – もうじき次のも、って - わかったところもある)、少なくともそういう状態をもたらした男の側がそっちの論理であれこれ判定したりするのはおかしいと思う、というようなことを実際にはこれよりずっと長く喋っていて、彼女も相当考えながら役作りをしていったことは明らかで、そういえば彼女のこれまでの作品も理知的な眼差しと獰猛な眼差し、その隙間に現れる羞恥の間を微細に揺れ動いていくスリルに満ちた、そういうものだったねえ、と思った。
Paul Danoはこのまま映画監督になっちゃうのかしら? 俳優としての彼が演じてきた変てこなキャラが好きだったので、そっちも続けてほしいのだけど。
邦題、こんどふざけたらただじゃ..
11.13.2018
[film] The Nutcracker and the Four Realms (2018)
2日の金曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。いろいろあってへとへとだったのでなんも考えずに見れるのがよくて、Disneyだけど監督はなぜかLasse Hallström(とJoe Johnston)だし、どんなもんかしら? くらい。 日本でももうじきやるよね。
原作はバレエのくるみ割り人形、というよりE. T. A. Hoffmannのくるみ割りの方、というので楽しみにしていったのだが、はて、あーんな筋だったかしらん?
ヴィクトリア朝時代のロンドン、母を亡くしてしょんぼりしているStahlbaum家の姉弟のところにもクリスマスは来て、Clara (Mackenzie Foy) への贈り物は鍵のかかったタマゴみたいので、でも鍵はついてないので、ちっ、てなって、今度はDrosselmeyer (Morgan Freeman)氏のパーティに行ってそのタマゴを見せるとふふーんとか言われて、今度はそこの家のプレゼントを貰うときに、張り巡らされた糸を手繰っていくとなぜか雪山のなかに出てしまい、いい加減にしろよ、てなったら鍵があったので手を伸ばしたらネズミがそれを咥えていっちゃって追いかけていくとCaptain Philip Hoffman (Jayden Fowora-Knight)と会って、彼を案内役にして進んでいくとでっかいネズミのおばけとか張りぼてのロボットみたいのが現れ、妖精のSugar Plum (Keira Knightley)のところまで行くと、ここはあなたのママが作った世界なのよ、とか言われて、でもママは死んじゃったんだよ、というとええーって悲しまれて、そうすると突然無政府状態になって鉛の兵隊が束になって襲ってきて、Mother Ginger (Helen Mirren) はおっかないし、Claraどうする? になるの。
かんじとしては節操なく場当たり的に進行して余りにご都合よく収束してしまう「不思議の国のアリス」とかジブリ系(てきとー)のなんかで、これがクリスマスじゃなかったらぜってえ許さねえからなてめー、くらいのかんじ。
本来であれば怪しげな魑魅魍魎が跋扈して戦争状態にある4つの王国(「指輪物語」?)を理系の知恵と技術をもったClaraがなんとか丸く治めて、ママあたしがんばったのえらい? になるはずだった、のかなあ。
そもそも4つの王国がなんなのかよくわかんなかったし、それになんでママは家族に内緒であんな世界をこしらえて、そこでなにをしようとしていたのかよくわかんないし、Drosselmeyer氏はなんで解ったふりしてニタニタしているのか不気味だし、なんでまた思わせぶりにフクロウを飛ばすの、とかいっぱい出てきて、そうかこの混沌こそがヴィクトリア朝時代のロンドンなのね、でいいの? ドイツロマン派の夢を土足で踏みにじるヴィクトリア朝の野蛮、ていうこと?
Keira Knightleyは楽しそうに狂いまくってはしゃぎまくっていてよいけど、もうちょっとSugar Plumなかんじになっててもよかったし、Helen Mirrenは生姜婆あ、みたいにもっと脳につんとくるかんじがあってもよかったかも。
主役のMackenzie Foyってどっかで見た気が、と思ったら、あの(”The Twilight Saga: Breaking Dawn – Part 2”(2014)の)Renesmeeか! パパがRobert Pattinsonで、ママがKristen Stewartなら最強(の吸血鬼)に決まってるよね。
そうか、だからヴィクトリア朝なのか(←ひとりで納得してる)。
あと、ABTのMisty Copelandさんがくるくる踊ってくれるシーンもあるので、バレエの「くるみ割り」を見た気分にちょっとだけ浸れてお得、ていうのもあるよ。
原作はバレエのくるみ割り人形、というよりE. T. A. Hoffmannのくるみ割りの方、というので楽しみにしていったのだが、はて、あーんな筋だったかしらん?
ヴィクトリア朝時代のロンドン、母を亡くしてしょんぼりしているStahlbaum家の姉弟のところにもクリスマスは来て、Clara (Mackenzie Foy) への贈り物は鍵のかかったタマゴみたいので、でも鍵はついてないので、ちっ、てなって、今度はDrosselmeyer (Morgan Freeman)氏のパーティに行ってそのタマゴを見せるとふふーんとか言われて、今度はそこの家のプレゼントを貰うときに、張り巡らされた糸を手繰っていくとなぜか雪山のなかに出てしまい、いい加減にしろよ、てなったら鍵があったので手を伸ばしたらネズミがそれを咥えていっちゃって追いかけていくとCaptain Philip Hoffman (Jayden Fowora-Knight)と会って、彼を案内役にして進んでいくとでっかいネズミのおばけとか張りぼてのロボットみたいのが現れ、妖精のSugar Plum (Keira Knightley)のところまで行くと、ここはあなたのママが作った世界なのよ、とか言われて、でもママは死んじゃったんだよ、というとええーって悲しまれて、そうすると突然無政府状態になって鉛の兵隊が束になって襲ってきて、Mother Ginger (Helen Mirren) はおっかないし、Claraどうする? になるの。
かんじとしては節操なく場当たり的に進行して余りにご都合よく収束してしまう「不思議の国のアリス」とかジブリ系(てきとー)のなんかで、これがクリスマスじゃなかったらぜってえ許さねえからなてめー、くらいのかんじ。
本来であれば怪しげな魑魅魍魎が跋扈して戦争状態にある4つの王国(「指輪物語」?)を理系の知恵と技術をもったClaraがなんとか丸く治めて、ママあたしがんばったのえらい? になるはずだった、のかなあ。
そもそも4つの王国がなんなのかよくわかんなかったし、それになんでママは家族に内緒であんな世界をこしらえて、そこでなにをしようとしていたのかよくわかんないし、Drosselmeyer氏はなんで解ったふりしてニタニタしているのか不気味だし、なんでまた思わせぶりにフクロウを飛ばすの、とかいっぱい出てきて、そうかこの混沌こそがヴィクトリア朝時代のロンドンなのね、でいいの? ドイツロマン派の夢を土足で踏みにじるヴィクトリア朝の野蛮、ていうこと?
Keira Knightleyは楽しそうに狂いまくってはしゃぎまくっていてよいけど、もうちょっとSugar Plumなかんじになっててもよかったし、Helen Mirrenは生姜婆あ、みたいにもっと脳につんとくるかんじがあってもよかったかも。
主役のMackenzie Foyってどっかで見た気が、と思ったら、あの(”The Twilight Saga: Breaking Dawn – Part 2”(2014)の)Renesmeeか! パパがRobert Pattinsonで、ママがKristen Stewartなら最強(の吸血鬼)に決まってるよね。
そうか、だからヴィクトリア朝なのか(←ひとりで納得してる)。
あと、ABTのMisty Copelandさんがくるくる踊ってくれるシーンもあるので、バレエの「くるみ割り」を見た気分にちょっとだけ浸れてお得、ていうのもあるよ。
11.12.2018
[film] Play It As It Lays (1972)
Barbicanで3日の土曜日、丸一日開催されたNew Suns: A Feminist Literary Festival、ていうイベントで見ました。
“New Suns”っていうのはOctavia Butlerの”There is nothing new under the sun, but there are new suns”から来ていて、この日Barbicanの施設内では映画上映、講演、ワークショップ、ブックフェア、等々が開かれていた。映画はこれの他に、アーシュラ・K・ル=グウィンのドキュメンタリー - ”Worlds of Ursula K Le Guin” (2018)もあったのだが、これは売り切れてて、見れたのはこの1本だけ。
原作はJoan Didionの同名小説(未読)、脚本はJoan Didionと夫のJohn Gregory Dunne、監督は(JoanはSam Peckinpahに監督してほしかったようだが)Frank Perry、プロデュースは監督と義兄のDominick Dunne – この製作陣は前の年に作られた”The Panic in Needle Park” (1971)とほぼ同じ。 日本での公開はされていない模様。 あったり前の35mm上映。
LAに暮らすMaria (Tuesday Weld)が、どこかの療養所と思われる施設のきれいな庭園の通路を往ったり来たりしながらぶつぶつと過去を回想していく内容で、ネヴァダからモデルとして出て、女優になってお色気アクションみたいなTVシリーズをやっていたものの、プロデューサーのCarter Lang (Adam Roarke)との間は結婚生活も含めて破綻していて、娘のKateも障害を抱えて施設に入っていて、いろいろ面倒みて話しを聞いてくれる友人のB.Z. (Anthony Perkins)はゲイで、彼女がまっ黄色のシボレーで道路をブッ飛ばしても何しても結局捕まったりでろくなことがなくて、とにかく全体として不幸でどうしようもなくて、だから施設にいるのだと思うのだが、で、だからどうしろと? って、彼女はこちらに問いかけてくる。
まず思い浮かべたのはJohn Cassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』- で、あれもそうだったけど、彼女たちからすれば混沌としたメンズの荒野を極めてロジカルに、誰にも頼らず頼まず前に行こうとしているだけの話しで、Cassavetesよりは散文的で緩いものの、力強いことは確かで、かっこいいの。 ただ、”A Woman Under the Influence”にあんな邦題を付けてしまうようなメンタリティも含めて、これを受け取る男共のしょうもない反応(and 無反応)のどん詰まりはじゅうぶんに予測できて、最後にB.Z.が服毒自殺してしまうのもそういうのがあったからではないだろうか、とか。
そしてもういっこ思い浮かべたのは、見たばかりだったこれ。
The Other Side of the Wind (2018)
3日、土曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。こちらではNetflixだけでなく1週間くらい劇場でも上映されていた。
Orson Welles については9月の頭に同じ場所でドキュメンタリー”The Eyes of Orson Welles” (2018)を見ていて、それはWellesの三女がNYのチェルシーのどこかの倉庫に眠っていた彼の遺品が入った箱を開けてみて、そこから出てきたメモやドローイングを元にWellesが映画を通してやろうとしていたことをShakespeareやKafkaへの言及も含めて追っていく、というもので、どちらかというとドキュメンタリーを作成した監督のWellesへの思いに溢れかえったやつだったのだが、なんにせよ、まだWellesは生きているのだ、のかんじはとってもした。
(チェルシーにWellesの資料が保存されている件については、昔どこかで聞いたことがあって、それがどこだったか思い出せない)
“The Other Side of the Wind” - 70歳を迎える著名な映画監督Jake Hannaford (John Huston)の未完の、ところどころ欠落して(いつまで経っても終わらない)作品を巡って周辺のいろんな関係者が、よりによって監督のお誕生日に合わせてわーわー言うのと、その映画にも登場するミューズ - Oja Kodar – が映画の中からなのか外からなのかいろんな妖気を送ってくるのと。
こまこま筋やロジックを追うのがばかばかしくなるくらい多彩なイメージが次から次にやってきて時系列を無視した支離滅裂な追っかけっこを繰り広げる。 これらがほんとにWellesの晩年の頭のなかにあったのだとしたら、先の”The Eyes of Orson Welles”で出てきた映画の魂を求めて彷徨う求道的なのとはよい意味で違う、映画についての映画なのでおもしろいのと、どっちにしてもすごいのはWellesのことなんて殆ど知らない、今回の復元の意味やありがたみをちっともわからない連中にもなんだこれ.. って見入らせてしまうとらえどころのなさ、だと思った。
印象としては70年代のAltmanの群像劇の、どこまでも即物的に行こうとするところをふわふわ骨折脱臼させてわけわかんなくしたような、そんなかんじで、あそこで無言のミステリアスな位置に置かれていたOja Kodarに言葉と行動を与えてリアルワールドに解き放ったのが”Play It As It Lays”のMariaなのかも。
どうしてあれもこれも70年代のアメリカだったのか。”The Last Movie” (1971)で映画が終わった辺りから始まっている気がするあれこれ、風の向こう側にあるのはなにで、こちら側にあるのはなんなのか、それらをそう置いているのはなんなのか、等については引き続き考えていきたい。
New Sunsの会場ではフェミニズム関連のブックフェアもやっていて、PenguinからLondon Review of Booksからぜんぜん知らないマイナーなZineみたいのまで10店くらい出店していた。
古本を売ってたコーナーでMuriel SparkとDerek Stanfordの選/編によるMary Shellyの書簡集 - “My Best Mary”を買った。いつになったら読めるのやら。
“New Suns”っていうのはOctavia Butlerの”There is nothing new under the sun, but there are new suns”から来ていて、この日Barbicanの施設内では映画上映、講演、ワークショップ、ブックフェア、等々が開かれていた。映画はこれの他に、アーシュラ・K・ル=グウィンのドキュメンタリー - ”Worlds of Ursula K Le Guin” (2018)もあったのだが、これは売り切れてて、見れたのはこの1本だけ。
原作はJoan Didionの同名小説(未読)、脚本はJoan Didionと夫のJohn Gregory Dunne、監督は(JoanはSam Peckinpahに監督してほしかったようだが)Frank Perry、プロデュースは監督と義兄のDominick Dunne – この製作陣は前の年に作られた”The Panic in Needle Park” (1971)とほぼ同じ。 日本での公開はされていない模様。 あったり前の35mm上映。
LAに暮らすMaria (Tuesday Weld)が、どこかの療養所と思われる施設のきれいな庭園の通路を往ったり来たりしながらぶつぶつと過去を回想していく内容で、ネヴァダからモデルとして出て、女優になってお色気アクションみたいなTVシリーズをやっていたものの、プロデューサーのCarter Lang (Adam Roarke)との間は結婚生活も含めて破綻していて、娘のKateも障害を抱えて施設に入っていて、いろいろ面倒みて話しを聞いてくれる友人のB.Z. (Anthony Perkins)はゲイで、彼女がまっ黄色のシボレーで道路をブッ飛ばしても何しても結局捕まったりでろくなことがなくて、とにかく全体として不幸でどうしようもなくて、だから施設にいるのだと思うのだが、で、だからどうしろと? って、彼女はこちらに問いかけてくる。
まず思い浮かべたのはJohn Cassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』- で、あれもそうだったけど、彼女たちからすれば混沌としたメンズの荒野を極めてロジカルに、誰にも頼らず頼まず前に行こうとしているだけの話しで、Cassavetesよりは散文的で緩いものの、力強いことは確かで、かっこいいの。 ただ、”A Woman Under the Influence”にあんな邦題を付けてしまうようなメンタリティも含めて、これを受け取る男共のしょうもない反応(and 無反応)のどん詰まりはじゅうぶんに予測できて、最後にB.Z.が服毒自殺してしまうのもそういうのがあったからではないだろうか、とか。
そしてもういっこ思い浮かべたのは、見たばかりだったこれ。
The Other Side of the Wind (2018)
3日、土曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。こちらではNetflixだけでなく1週間くらい劇場でも上映されていた。
Orson Welles については9月の頭に同じ場所でドキュメンタリー”The Eyes of Orson Welles” (2018)を見ていて、それはWellesの三女がNYのチェルシーのどこかの倉庫に眠っていた彼の遺品が入った箱を開けてみて、そこから出てきたメモやドローイングを元にWellesが映画を通してやろうとしていたことをShakespeareやKafkaへの言及も含めて追っていく、というもので、どちらかというとドキュメンタリーを作成した監督のWellesへの思いに溢れかえったやつだったのだが、なんにせよ、まだWellesは生きているのだ、のかんじはとってもした。
(チェルシーにWellesの資料が保存されている件については、昔どこかで聞いたことがあって、それがどこだったか思い出せない)
“The Other Side of the Wind” - 70歳を迎える著名な映画監督Jake Hannaford (John Huston)の未完の、ところどころ欠落して(いつまで経っても終わらない)作品を巡って周辺のいろんな関係者が、よりによって監督のお誕生日に合わせてわーわー言うのと、その映画にも登場するミューズ - Oja Kodar – が映画の中からなのか外からなのかいろんな妖気を送ってくるのと。
こまこま筋やロジックを追うのがばかばかしくなるくらい多彩なイメージが次から次にやってきて時系列を無視した支離滅裂な追っかけっこを繰り広げる。 これらがほんとにWellesの晩年の頭のなかにあったのだとしたら、先の”The Eyes of Orson Welles”で出てきた映画の魂を求めて彷徨う求道的なのとはよい意味で違う、映画についての映画なのでおもしろいのと、どっちにしてもすごいのはWellesのことなんて殆ど知らない、今回の復元の意味やありがたみをちっともわからない連中にもなんだこれ.. って見入らせてしまうとらえどころのなさ、だと思った。
印象としては70年代のAltmanの群像劇の、どこまでも即物的に行こうとするところをふわふわ骨折脱臼させてわけわかんなくしたような、そんなかんじで、あそこで無言のミステリアスな位置に置かれていたOja Kodarに言葉と行動を与えてリアルワールドに解き放ったのが”Play It As It Lays”のMariaなのかも。
どうしてあれもこれも70年代のアメリカだったのか。”The Last Movie” (1971)で映画が終わった辺りから始まっている気がするあれこれ、風の向こう側にあるのはなにで、こちら側にあるのはなんなのか、それらをそう置いているのはなんなのか、等については引き続き考えていきたい。
New Sunsの会場ではフェミニズム関連のブックフェアもやっていて、PenguinからLondon Review of Booksからぜんぜん知らないマイナーなZineみたいのまで10店くらい出店していた。
古本を売ってたコーナーでMuriel SparkとDerek Stanfordの選/編によるMary Shellyの書簡集 - “My Best Mary”を買った。いつになったら読めるのやら。
11.11.2018
[film] L'Hirondelle et la Mésange (1920)
LFFのずっと前、9月30日の日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。
ここでは9月から11月にかけてSilent Film & Live Musicていう小特集をやっていて、それの最初の1本(ぜんぶで3回)。
日本でも昨年アンスティチュとかで『ツバメ号とシジュウカラ号』として公開されて、いいなー見たいなーと思っていたやつなので、見れてよかった。
英国でタイトルがフランス語原題のままなのは、”la Mésange”に該当する鳥が英国にはいないので適切な訳語が出てこなくて、ということらしく、主催のひとが「だれかしってるひと? ”Titmouse”でいいの?」とか会場で聞いていた。
音楽はライブ伴奏で、ピアノとハープのふたり、ちょっと切ないメランコリックな旋律で、ピアノはアコーディオンとかフルートも兼務するし、ハープは爪弾くだけじゃなく縁を叩いたり引っ掻いたりふたりだけとは思えない多彩なアンサンブルを聴かせてくれてすばらしい。音だけでご飯おかわりできる。
20年の頃、ツバメ号とシジュウカラ号 - アントワープからフランスに向かっていく束ねられた2隻の船があって、ベテラン船頭のピエールが動かして妻のグリエとその妹のマルテがそれを助けて順調に運行仕事をしているふうで、積み荷の様子とかを横でみていた若者ミッシェルが雇ってほしいと言ってきて、試してみるとミッシェルは仕事もしっかりやるし、だんだん家族の信頼を得てマルテとも仲良くなっていくのだが、ミッシェルの狙いは闇で運んでいる積み荷のほうにあって、やがて..
タイトルからふたつの船が仲良く並んで川面を滑っていくのをみんなで助け合ったりの爽やかなやつかと思っていたのだが、結構ダークなのがギラリとするのではらはらしていると、展開はその想像のうえをいくやばい方に行ってしまい、でもそんなのお構いなしに川は流れて船は滑っていくねえ、という全体に漂う無常感が、一次大戦でところどころ破壊された川辺の町の風景にも合って、何とも言えない詩情を引き起こすところがすごい。どいつもこいつも必死だったんだなあ、って。
とにかく川辺の風景がゆっくり後ろに流れていくだけでたまんないの。
St. Wenceslas (1929)
BarbicanのSilent Film & Live Music特集の10月の。28日、日曜日の昼間に見ました。
この日は丁度今のチェコが建国されて100年の記念日で、この日からロンドンで始まるCzech100: Made in Prague Festivalの第一弾で、この作品はチェコの映画史にとっても記念碑的な一本なのだと。
演奏はCappella Marianaていうプラハで古音楽を演奏するグループで、太鼓&笛、ハープ、男性ヴォーカルの6人編成で、男子のコーラスが入るサイレントって珍しいかも、と。
チェコ(というかボヘミア)の建国に貢献したSaint Wenceslaus I, Duke of Bohemia (907-935)のお話しで、当時ものすごいお金をかけて千人規模のエキストラをいれて作った歴史超大作、だそうなのだが、あんまそんなかんじはしなくて、ものすごい数の外敵が襲ってきてもオーラと人徳でへへーって捻じ伏せてしまうものの、それを妬んだ劣等感まみれのブサイクな兄に殺されてしまう、というシンプルな筋で、あんま超大作には見えないの。
それでも撮影は、後にMichael Caineの“The Ipcress File” (1965)や”Alfie” (1966) を撮ることになるOtto Hellerが参加していてなかなかエモでドラマチックで、宮廷ドラマとしては悪くなかったかも。
音楽は、生の声の重なりがあんなふうに映像に合うのかー、ておもしろかった。群像劇だと特に映えるねえ。
サイレントの世界って底なしにすごいかもやばいかも、になりつつあることを改めて。
ここでは9月から11月にかけてSilent Film & Live Musicていう小特集をやっていて、それの最初の1本(ぜんぶで3回)。
日本でも昨年アンスティチュとかで『ツバメ号とシジュウカラ号』として公開されて、いいなー見たいなーと思っていたやつなので、見れてよかった。
英国でタイトルがフランス語原題のままなのは、”la Mésange”に該当する鳥が英国にはいないので適切な訳語が出てこなくて、ということらしく、主催のひとが「だれかしってるひと? ”Titmouse”でいいの?」とか会場で聞いていた。
音楽はライブ伴奏で、ピアノとハープのふたり、ちょっと切ないメランコリックな旋律で、ピアノはアコーディオンとかフルートも兼務するし、ハープは爪弾くだけじゃなく縁を叩いたり引っ掻いたりふたりだけとは思えない多彩なアンサンブルを聴かせてくれてすばらしい。音だけでご飯おかわりできる。
20年の頃、ツバメ号とシジュウカラ号 - アントワープからフランスに向かっていく束ねられた2隻の船があって、ベテラン船頭のピエールが動かして妻のグリエとその妹のマルテがそれを助けて順調に運行仕事をしているふうで、積み荷の様子とかを横でみていた若者ミッシェルが雇ってほしいと言ってきて、試してみるとミッシェルは仕事もしっかりやるし、だんだん家族の信頼を得てマルテとも仲良くなっていくのだが、ミッシェルの狙いは闇で運んでいる積み荷のほうにあって、やがて..
タイトルからふたつの船が仲良く並んで川面を滑っていくのをみんなで助け合ったりの爽やかなやつかと思っていたのだが、結構ダークなのがギラリとするのではらはらしていると、展開はその想像のうえをいくやばい方に行ってしまい、でもそんなのお構いなしに川は流れて船は滑っていくねえ、という全体に漂う無常感が、一次大戦でところどころ破壊された川辺の町の風景にも合って、何とも言えない詩情を引き起こすところがすごい。どいつもこいつも必死だったんだなあ、って。
とにかく川辺の風景がゆっくり後ろに流れていくだけでたまんないの。
St. Wenceslas (1929)
BarbicanのSilent Film & Live Music特集の10月の。28日、日曜日の昼間に見ました。
この日は丁度今のチェコが建国されて100年の記念日で、この日からロンドンで始まるCzech100: Made in Prague Festivalの第一弾で、この作品はチェコの映画史にとっても記念碑的な一本なのだと。
演奏はCappella Marianaていうプラハで古音楽を演奏するグループで、太鼓&笛、ハープ、男性ヴォーカルの6人編成で、男子のコーラスが入るサイレントって珍しいかも、と。
チェコ(というかボヘミア)の建国に貢献したSaint Wenceslaus I, Duke of Bohemia (907-935)のお話しで、当時ものすごいお金をかけて千人規模のエキストラをいれて作った歴史超大作、だそうなのだが、あんまそんなかんじはしなくて、ものすごい数の外敵が襲ってきてもオーラと人徳でへへーって捻じ伏せてしまうものの、それを妬んだ劣等感まみれのブサイクな兄に殺されてしまう、というシンプルな筋で、あんま超大作には見えないの。
それでも撮影は、後にMichael Caineの“The Ipcress File” (1965)や”Alfie” (1966) を撮ることになるOtto Hellerが参加していてなかなかエモでドラマチックで、宮廷ドラマとしては悪くなかったかも。
音楽は、生の声の重なりがあんなふうに映像に合うのかー、ておもしろかった。群像劇だと特に映えるねえ。
サイレントの世界って底なしにすごいかもやばいかも、になりつつあることを改めて。
11.10.2018
[film] Juliet, Naked (2018)
4日、日曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンで見ました。公開直後のはずなのに、なんでこんな変なとこでぽつぽつとしかやってないんだよう。こんなにおもしろくて素敵なのにさ。
原作は(プロデュースも)Nick Hornby、プロデュースにはJudd Apatowもいて、音楽は(元Shudder To Thinkの)Nathan Larsonで、ここんとこの活動に外れなしのEthan Hawkeが主演しているRom-Comなんだから、悪いわきゃないの。必見なの。
英国のSandcliffていう海辺の田舎町の博物館で学芸員をしているAnnie (Rose Byrne)がいて、彼女には15年くらい一緒に暮らしているBFのDuncan (Chris O'Dowd)がいて、彼は90年代に一瞬有名になってツアーの途中に忽然と消えてしまった伝説のミュージシャン - Tucker Crowe (Ethan Hawke)のファンサイトを作ってそれをこつこつ幸せに運営してて、Annieはその様子があんま気に食わないしDuncanとの間に子供も欲しいけど彼は嫌みたいだし、少し距離を置き始めたところ。 ある日、家に届いたDuncan宛の包みを開いたら”Juliet, Naked”と書かれたCDが出てきて、どうやらTucker Croweの昔のデモ音源らしい。ぼーっと聴いていたらDuncanがやってきてなんだこれ? って彼は驚愕して狂喜して(泣いてんの)、サイトにもUpして得意になってて、Annieは腹立ててそこに自分のシニカルなコメントを書き込んでみたらTucker Crowe本人らしいアドレスからメールがきて、そんなことを正しく指摘してきたのは君が初めてだ、とかいう。半信半疑でメールのやりとりを始めたら互いに止まらなくなってだんだん惹かれていったあたりでDuncanが町女と浮気していることを知った彼女は彼を家から追い出す。
Tuckerの方はペンシルベニアかどこかでEx-妻のガレージに彼女との間の息子のJackson (Azhy Robertson) - かわいい - とごろごろ適当に暮らしていて、Ex-Ex妻との間の娘Lizzieが出産で相手の男の住むロンドンに行くとかいうので、ついでに行ってみるから会わない? てAnnieに連絡して会うことにするのだが、ロンドンに着いたところでTuckerは突然倒れて入院してしまう。病院からの彼の求めに応じて本を持って(Foylesの袋をさげてる)、病院に行くと、Tuckerはもうしんじゃうに違いないと思ったLizzieがEx-Ex-ExとかEx-Ex-Ex-Exの子供とか家族・コロニーまるごとをみんな呼んでいてものすごい状態で、こりゃ世界がちがう、無理だわ、とあきれたAnnieは一旦田舎に戻る。
やがて回復したTuckerはJacksonを連れてAnnieのところに現れるのだが、ほほうAnnieに新しい彼ができたか、と軽く寄っていったDuncanが見たのは、彼が20年間追い続けてきた伝説の… だったと。ここから先、3人それぞれにとってぐるぐるの惑いと悶えに巻かれてまみれての修羅場がめちゃくちゃおもしろい(他人の不幸は..)、に決まってるの。
傷を抱えたまま突然音楽をやめてしまい、そのままぶくぶくゴミにまみれている元音楽家、田舎でそんな彼の消息を追いながらぶつぶつ燻っているひねくれ男、そんなろくでなしとの関係を引き摺ったままあーあ、って溜息ばかりの女、どいつもこいつもよい具合に枯れて腐れて救いようがなくて、だからこそ惹かれあうのかなんなのか。そして子供たちだけはいつも元気いっぱいで輝いていてよかったね(というNick Hornbyの世界)。
“Before …”シリーズでも見ることができたある瞬間に突然スイッチが入ってそこからの世界をがらりと一変させてしまうEthan Hawkeの魔法をここでも見ることができてとても興奮するのだが、Chris O'Dowdのぶれのない高慢ちきぷんぷんの臭気もたまんないし、Rose Byrneの眉間の皺(たまにJulie Delpyを想起させる)もすばらしくて、要は、Rom-Comとしては”High Fidelity”より断然すてきで好きだと思いましたの。
若い頃 - 90年代のTucker Crowe – 当然90’sのEthan Hawke - の写真はとても90’sしていて、そこに被ってくる彼のバンドの音もオルタナの少し前にあったようなのに近くて、このかんじってやっぱり00年代のとは違う、なんだろ、とか思った。
そんな昔に録音されたデモの音が20年以上経ってから恋の嵐を巻き起こす、ってやっぱり素敵で、音楽は聴きつづけておくにこしたことはない、と。(CDプレイヤーは捨てないでおいたほうがいいのか)
原作は(プロデュースも)Nick Hornby、プロデュースにはJudd Apatowもいて、音楽は(元Shudder To Thinkの)Nathan Larsonで、ここんとこの活動に外れなしのEthan Hawkeが主演しているRom-Comなんだから、悪いわきゃないの。必見なの。
英国のSandcliffていう海辺の田舎町の博物館で学芸員をしているAnnie (Rose Byrne)がいて、彼女には15年くらい一緒に暮らしているBFのDuncan (Chris O'Dowd)がいて、彼は90年代に一瞬有名になってツアーの途中に忽然と消えてしまった伝説のミュージシャン - Tucker Crowe (Ethan Hawke)のファンサイトを作ってそれをこつこつ幸せに運営してて、Annieはその様子があんま気に食わないしDuncanとの間に子供も欲しいけど彼は嫌みたいだし、少し距離を置き始めたところ。 ある日、家に届いたDuncan宛の包みを開いたら”Juliet, Naked”と書かれたCDが出てきて、どうやらTucker Croweの昔のデモ音源らしい。ぼーっと聴いていたらDuncanがやってきてなんだこれ? って彼は驚愕して狂喜して(泣いてんの)、サイトにもUpして得意になってて、Annieは腹立ててそこに自分のシニカルなコメントを書き込んでみたらTucker Crowe本人らしいアドレスからメールがきて、そんなことを正しく指摘してきたのは君が初めてだ、とかいう。半信半疑でメールのやりとりを始めたら互いに止まらなくなってだんだん惹かれていったあたりでDuncanが町女と浮気していることを知った彼女は彼を家から追い出す。
Tuckerの方はペンシルベニアかどこかでEx-妻のガレージに彼女との間の息子のJackson (Azhy Robertson) - かわいい - とごろごろ適当に暮らしていて、Ex-Ex妻との間の娘Lizzieが出産で相手の男の住むロンドンに行くとかいうので、ついでに行ってみるから会わない? てAnnieに連絡して会うことにするのだが、ロンドンに着いたところでTuckerは突然倒れて入院してしまう。病院からの彼の求めに応じて本を持って(Foylesの袋をさげてる)、病院に行くと、Tuckerはもうしんじゃうに違いないと思ったLizzieがEx-Ex-ExとかEx-Ex-Ex-Exの子供とか家族・コロニーまるごとをみんな呼んでいてものすごい状態で、こりゃ世界がちがう、無理だわ、とあきれたAnnieは一旦田舎に戻る。
やがて回復したTuckerはJacksonを連れてAnnieのところに現れるのだが、ほほうAnnieに新しい彼ができたか、と軽く寄っていったDuncanが見たのは、彼が20年間追い続けてきた伝説の… だったと。ここから先、3人それぞれにとってぐるぐるの惑いと悶えに巻かれてまみれての修羅場がめちゃくちゃおもしろい(他人の不幸は..)、に決まってるの。
傷を抱えたまま突然音楽をやめてしまい、そのままぶくぶくゴミにまみれている元音楽家、田舎でそんな彼の消息を追いながらぶつぶつ燻っているひねくれ男、そんなろくでなしとの関係を引き摺ったままあーあ、って溜息ばかりの女、どいつもこいつもよい具合に枯れて腐れて救いようがなくて、だからこそ惹かれあうのかなんなのか。そして子供たちだけはいつも元気いっぱいで輝いていてよかったね(というNick Hornbyの世界)。
“Before …”シリーズでも見ることができたある瞬間に突然スイッチが入ってそこからの世界をがらりと一変させてしまうEthan Hawkeの魔法をここでも見ることができてとても興奮するのだが、Chris O'Dowdのぶれのない高慢ちきぷんぷんの臭気もたまんないし、Rose Byrneの眉間の皺(たまにJulie Delpyを想起させる)もすばらしくて、要は、Rom-Comとしては”High Fidelity”より断然すてきで好きだと思いましたの。
若い頃 - 90年代のTucker Crowe – 当然90’sのEthan Hawke - の写真はとても90’sしていて、そこに被ってくる彼のバンドの音もオルタナの少し前にあったようなのに近くて、このかんじってやっぱり00年代のとは違う、なんだろ、とか思った。
そんな昔に録音されたデモの音が20年以上経ってから恋の嵐を巻き起こす、ってやっぱり素敵で、音楽は聴きつづけておくにこしたことはない、と。(CDプレイヤーは捨てないでおいたほうがいいのか)
[film] They Shall Not Grow Old (2018)
10月27日の土曜日の晩、Imperial War Museum (IWM)で見ました。
第一次大戦の際に残された大量のアーカイブ映像をPeter Jacksonが復元して纏めたもの。第一次大戦終結から100年の今年、英国ではいろんな追悼イベントが行われていて、その中のひとつとしてこれがLFFでプレミア上映された際にはウィリアム王子も列席して、そこでの上映は売り切れでぜんぜん見れなかったのだが、LFFの後にイギリスやロンドンの外れの方でぽつぽつ(一日一回くらい)上映していて、IWMではこの週末の2~3日、17時からと19時からの2回だけFreeで上映すると。入場は先着順だから早目に来てね、というので1時間くらい前から並んだ。
IWMていうのは戦争関係の資料とかいろんな実物とかを収集保存展示している国の機関で、戦争はきらいなので行ったことはないのだが、反戦のポスター展とかもやっていたりするのでやっぱ一度は行ったほうがいいよね、くらいは思っていた。でもここの終了時間間際に並んだので他の展示などは見れないまま。
映画を上映した場所は映画以外にレクチャーとかもできそうな隙間風が来るだだっ広いホールで、でも画面も音も申し分なかった。LFFのときは3D上映されたようだが、ここのは2Dで、一番最初にPeter JacksonがIWMに見に来てくれた皆さんありがとう、見てね、って画面の向こうから挨拶する。
最初は開戦が宣言された時の晩から、これはこの前に見たサイレント”Blighty” (1927)にもあったように静かであっけなくて、こないだまでドイツの連中とはラグビーの試合してたのになー、くらいのトーンで起こって、みんな1ヶ月くらいでとっとと終わるよね、くらいの楽観的なかんじで、そのかんじのままの勢いで軍に志願してくる若者はいっぱいいて、年齢を偽ってでも入隊したい、と言ってきた連中のいろんな手口まで紹介される。
音声はおそらく当時の記録として文書とかに残されていたものを起こして複数の声優がフィルムに被せていく、後の方の戦場での声は、フィルムに映しだされた口の動きを読唇の専門家がお喋りとして復元して、声優がそこにあわせていく。後者のリアルさときたらすごい。デジタルすごい。
軍に入った若者たちは服とか靴とか銃とか日用品一式を支給されて、6週間だかの訓練を経た後、川辺から船に乗せられてフランスに渡って… という具合に、市民が戦争に参加するまでの過程が極めて具体的に描かれて、ふつうのひとが戦争に行くっていうのはこういうことなんだ、ということがわかる。
で、フランス国内を隊列組んで平坦な陸地を移動していくところから画面がするする大きくなって、色がついて、背景音、喋っている声も含めて音声がいきなりリアルな臨場感をもって、戦場のなかに入っていく感覚がやってくる。(ここはちょっとびっくり)
それと共に兵隊たちの顔から笑顔が消えて何が起こってもおかしくない緊張感のなかに放りこまれていることがわかる。そこから先の前線の塹壕の描写は泥まみれのぐじゃぐじゃ、ひどい衛生状態のなか死体がそこらじゅうに転がっていて、蠅がたかっているその羽音まで聞こえて、ネズミもうようよ、炎症を起こした足先が腐っていくようなところもぜんぶ映されている。人だけじゃなくて馬もそこらじゅうで重なって死んでいて、走っている馬車ごと爆弾で飛ばされるようなシーンまである。大砲をぶっぱなすと衝撃で周囲の民家の瓦がぼろぼろ落ちたり、大砲の後は戦車がめりめり進んで行って、最後に歩兵部隊の突撃、となるのだが、指令が出るときに向けて彼らが銃の先に剣を据えるとこなんて胸が張り裂けそうになる。向こう側には機関銃の掃射があるかもなのに(実際にあったことを我々は知っている)、どんな気持ちだったのだろう。そしてその先には死体の山があって、その血は泥と一緒くたになってどす黒いだけ。
映画みたいに見えるところもあるけど、これらはぜんぶリアルの、本当に撮られたもので、こんなふうにしてイギリスでは少なくとも100万人が戦死した。
そういうの以外には休憩時とかみんなで酒飲んで歌うところか、ドイツの捕虜とのやりとりとかもあって少しだけ笑顔も見えたりするのだが、ここでの笑顔はもうやけくそのそれにしか見えなくてとっても痛ましいし虚しいし。
映像は彼らが故郷に戻っていくところで再び縮んで最初とおなじサイズのモノクロに戻るのだが、見るだけでもぐったりしすぎて安堵どころじゃない。あんなところにずっといたら後遺症にもなるよね。
“As You’ve Never Seen It Before”というコピーがあって、確かにそれは映像の異様な生々しさも含めてそうなのだが、なんでこれまで見ることができなかったのか、ていうのと、こういうのがありながらも次の大戦は起こったし、未だに世界中で戦争は起こり続けているし、なんなのかしら、っていうのはふつうに思う。
同様の戦場での記録は二次大戦でもベトナム戦争でもあるのだろうが、近代になればなるほど、兵器の破壊力殺傷力は増して、ここまでスローな(という形容は嫌だけど)、見た目にはっきりとわかる地獄はなくなっているのではないか(地獄はどっちみち地獄、であるにせよ)。
タイトルはLaurence Binyonの詩"For the Fallen"から取られていて、映画は従軍したPeter Jacksonの祖父に捧げられている。
こないだの”The Great Victorian Moving Picture Show”といいこれといい、英国の古い映像の復元や保存にかける情熱ってすごいな。
古いものを大事にっていうのは英国人のベースにあるんだろうけど、それにしてもえらい。
映像どころか日報ですら平気で隠蔽しようとするきれいごとだいすきの国にっぽんでも見られるべきよね。
*英国のひと、11日日曜日の21:30からBBC Twoでまるごと放映するみたいよ。
第一次大戦の際に残された大量のアーカイブ映像をPeter Jacksonが復元して纏めたもの。第一次大戦終結から100年の今年、英国ではいろんな追悼イベントが行われていて、その中のひとつとしてこれがLFFでプレミア上映された際にはウィリアム王子も列席して、そこでの上映は売り切れでぜんぜん見れなかったのだが、LFFの後にイギリスやロンドンの外れの方でぽつぽつ(一日一回くらい)上映していて、IWMではこの週末の2~3日、17時からと19時からの2回だけFreeで上映すると。入場は先着順だから早目に来てね、というので1時間くらい前から並んだ。
IWMていうのは戦争関係の資料とかいろんな実物とかを収集保存展示している国の機関で、戦争はきらいなので行ったことはないのだが、反戦のポスター展とかもやっていたりするのでやっぱ一度は行ったほうがいいよね、くらいは思っていた。でもここの終了時間間際に並んだので他の展示などは見れないまま。
映画を上映した場所は映画以外にレクチャーとかもできそうな隙間風が来るだだっ広いホールで、でも画面も音も申し分なかった。LFFのときは3D上映されたようだが、ここのは2Dで、一番最初にPeter JacksonがIWMに見に来てくれた皆さんありがとう、見てね、って画面の向こうから挨拶する。
最初は開戦が宣言された時の晩から、これはこの前に見たサイレント”Blighty” (1927)にもあったように静かであっけなくて、こないだまでドイツの連中とはラグビーの試合してたのになー、くらいのトーンで起こって、みんな1ヶ月くらいでとっとと終わるよね、くらいの楽観的なかんじで、そのかんじのままの勢いで軍に志願してくる若者はいっぱいいて、年齢を偽ってでも入隊したい、と言ってきた連中のいろんな手口まで紹介される。
音声はおそらく当時の記録として文書とかに残されていたものを起こして複数の声優がフィルムに被せていく、後の方の戦場での声は、フィルムに映しだされた口の動きを読唇の専門家がお喋りとして復元して、声優がそこにあわせていく。後者のリアルさときたらすごい。デジタルすごい。
軍に入った若者たちは服とか靴とか銃とか日用品一式を支給されて、6週間だかの訓練を経た後、川辺から船に乗せられてフランスに渡って… という具合に、市民が戦争に参加するまでの過程が極めて具体的に描かれて、ふつうのひとが戦争に行くっていうのはこういうことなんだ、ということがわかる。
で、フランス国内を隊列組んで平坦な陸地を移動していくところから画面がするする大きくなって、色がついて、背景音、喋っている声も含めて音声がいきなりリアルな臨場感をもって、戦場のなかに入っていく感覚がやってくる。(ここはちょっとびっくり)
それと共に兵隊たちの顔から笑顔が消えて何が起こってもおかしくない緊張感のなかに放りこまれていることがわかる。そこから先の前線の塹壕の描写は泥まみれのぐじゃぐじゃ、ひどい衛生状態のなか死体がそこらじゅうに転がっていて、蠅がたかっているその羽音まで聞こえて、ネズミもうようよ、炎症を起こした足先が腐っていくようなところもぜんぶ映されている。人だけじゃなくて馬もそこらじゅうで重なって死んでいて、走っている馬車ごと爆弾で飛ばされるようなシーンまである。大砲をぶっぱなすと衝撃で周囲の民家の瓦がぼろぼろ落ちたり、大砲の後は戦車がめりめり進んで行って、最後に歩兵部隊の突撃、となるのだが、指令が出るときに向けて彼らが銃の先に剣を据えるとこなんて胸が張り裂けそうになる。向こう側には機関銃の掃射があるかもなのに(実際にあったことを我々は知っている)、どんな気持ちだったのだろう。そしてその先には死体の山があって、その血は泥と一緒くたになってどす黒いだけ。
映画みたいに見えるところもあるけど、これらはぜんぶリアルの、本当に撮られたもので、こんなふうにしてイギリスでは少なくとも100万人が戦死した。
そういうの以外には休憩時とかみんなで酒飲んで歌うところか、ドイツの捕虜とのやりとりとかもあって少しだけ笑顔も見えたりするのだが、ここでの笑顔はもうやけくそのそれにしか見えなくてとっても痛ましいし虚しいし。
映像は彼らが故郷に戻っていくところで再び縮んで最初とおなじサイズのモノクロに戻るのだが、見るだけでもぐったりしすぎて安堵どころじゃない。あんなところにずっといたら後遺症にもなるよね。
“As You’ve Never Seen It Before”というコピーがあって、確かにそれは映像の異様な生々しさも含めてそうなのだが、なんでこれまで見ることができなかったのか、ていうのと、こういうのがありながらも次の大戦は起こったし、未だに世界中で戦争は起こり続けているし、なんなのかしら、っていうのはふつうに思う。
同様の戦場での記録は二次大戦でもベトナム戦争でもあるのだろうが、近代になればなるほど、兵器の破壊力殺傷力は増して、ここまでスローな(という形容は嫌だけど)、見た目にはっきりとわかる地獄はなくなっているのではないか(地獄はどっちみち地獄、であるにせよ)。
タイトルはLaurence Binyonの詩"For the Fallen"から取られていて、映画は従軍したPeter Jacksonの祖父に捧げられている。
こないだの”The Great Victorian Moving Picture Show”といいこれといい、英国の古い映像の復元や保存にかける情熱ってすごいな。
古いものを大事にっていうのは英国人のベースにあるんだろうけど、それにしてもえらい。
映像どころか日報ですら平気で隠蔽しようとするきれいごとだいすきの国にっぽんでも見られるべきよね。
*英国のひと、11日日曜日の21:30からBBC Twoでまるごと放映するみたいよ。
[film] Rudeboy: The Story of Trojan Records (2018)
LFFからの1本、10月15日、月曜日の昼間にBFIで見ました。
チケットを取っていなくてSold Outしてて、でもStand-byに並べばなんとか、と勝手に思って行ったらシアターが小さいせいかぜんぜん戻りチケットがなくて、ぎりぎり直前で中に入れた。
Trojan Recordsを中心に据えた音楽ドキュメンタリーで、このレーベルの生み出したスカやレゲエがなぜ、どうやって英国の音楽シーンに浸透していったのか。 個人的には、これらの音はなんであんなふうにパンクとくっついてポストパンクのあれらを生み出したのか、とかその辺。
映画は50年代、まだイギリスの植民地だったジャマイカから始まって、関係者証言や資料映像だけでなく、ところどころ役者さんによる再現ドラマも交えながらなにが起こっていったのかを追っていく。まずは倉庫にサウンドシステムを構えて工場や農場での労働の後に歌って踊れる場所をつくって、それが当たってヒット曲とかが生まれたのが始まり。62年にジャマイカが独立すると、ジャマイカから労働力として大量の移民が英国に渡るようになり、そこで、故郷を懐かしむ人々が同様のサウンドシステムを組んで、あそこでやっていたのと同じようなダンスミュージックを作って流していこう、と68年に始まったのがTrojanで、それは単にレーベルを作って音楽を「流通」させよう、とかいうのではなく、移民たちマイノリティの置かれた社会や文化的な状況を反映した生活に不可欠ななにか、メディアとして立ちあがっていったのだと。 その音楽もジャマイカ本国でスカやロック・ステディが流行ればそのまま取り入れられて、やがてそれは同様に社会の隅っこにいた白人の労働者階級の若者たちを取りこんで、スキンヘッドでかっこよく踊る子供たちが現れて、Chris BlackwellのIsland Recordsを経由した音楽シーンへも拡がりを見せるのだが、レーベル自身は7inchや廉価盤の量産の繰り返しで膨張して、経営が悪化して潰れてしまう。
最初のほうに出てくるミュージシャンはほぼ知らなくて、Lee "Scratch" PerryとかDesmond Dekker, Jimmy Cliff, The Maytalsあたりから知ってるかんじになるのだが、そういうのよりおもしろいのは週末に向かう酔っ払いのための音楽として白人の子達を取りこんで、ちと洒落たRudeboyの音楽としてでっかくなっていった、という辺り。この辺て、パブロックがパンクの下地を作っていったのと同じような流れを感じる。酔っ払いの憂さ晴らし、週末に向けたひと暴れのためのBGMがこれら「革命」の音楽を準備していったって、なんかね、金曜の昼からパブでうだうだしているロンドンの人達を見ると納得するし、いいなって。 ああいうのを見ると生産性を巡る議論なんてブロイラーの鶏(鶏ごめん)のための妄想だわくそったれ、って改めて思う。
60年代にジャマイカから渡ってきたスカ、レゲエ、70年代にNYから飛び火してきたパンク、これら外からやって来た音楽が英国でどうやって内在化 - 肉化していったのか。 ダンスでよってたかってフロアを踏み鳴らす、っていうのはあったんだろうなー。パンクがレゲエやダブにくっついていったのも、まず音としてかっこよかった、ていうのもあるのだろうが、辺境コミュニティの芯を貫いて鳴るその強さと太さと雑多さ、ていうのもあったのではないか。
そこのところ - 音楽が流行り歌からぶっとい本流に練りあがっていくところ – って、音楽メディアが7inch – 12inch – CDを経て、ヴァイナルとストリーミングにまで来た今もあまり変わっていないのではないかしら。むしろストリーミングでいろんな音を簡単に摂取できる今の方がそれらの流れをより俯瞰しやすくなっていて、こういう音楽ドキュメンタリーが沢山作られるようになったのもその辺の事情と関係あったりするのかしら。
関係ないけどむかーし、”Rude Boy” (1980)っていうThe Clashが出てくるドキュメンタリーとフィクション半々みたいな映画があったのだが、あれ、今みたらどんな印象もつだろうか? 当時見たときはさあ…
チケットを取っていなくてSold Outしてて、でもStand-byに並べばなんとか、と勝手に思って行ったらシアターが小さいせいかぜんぜん戻りチケットがなくて、ぎりぎり直前で中に入れた。
Trojan Recordsを中心に据えた音楽ドキュメンタリーで、このレーベルの生み出したスカやレゲエがなぜ、どうやって英国の音楽シーンに浸透していったのか。 個人的には、これらの音はなんであんなふうにパンクとくっついてポストパンクのあれらを生み出したのか、とかその辺。
映画は50年代、まだイギリスの植民地だったジャマイカから始まって、関係者証言や資料映像だけでなく、ところどころ役者さんによる再現ドラマも交えながらなにが起こっていったのかを追っていく。まずは倉庫にサウンドシステムを構えて工場や農場での労働の後に歌って踊れる場所をつくって、それが当たってヒット曲とかが生まれたのが始まり。62年にジャマイカが独立すると、ジャマイカから労働力として大量の移民が英国に渡るようになり、そこで、故郷を懐かしむ人々が同様のサウンドシステムを組んで、あそこでやっていたのと同じようなダンスミュージックを作って流していこう、と68年に始まったのがTrojanで、それは単にレーベルを作って音楽を「流通」させよう、とかいうのではなく、移民たちマイノリティの置かれた社会や文化的な状況を反映した生活に不可欠ななにか、メディアとして立ちあがっていったのだと。 その音楽もジャマイカ本国でスカやロック・ステディが流行ればそのまま取り入れられて、やがてそれは同様に社会の隅っこにいた白人の労働者階級の若者たちを取りこんで、スキンヘッドでかっこよく踊る子供たちが現れて、Chris BlackwellのIsland Recordsを経由した音楽シーンへも拡がりを見せるのだが、レーベル自身は7inchや廉価盤の量産の繰り返しで膨張して、経営が悪化して潰れてしまう。
最初のほうに出てくるミュージシャンはほぼ知らなくて、Lee "Scratch" PerryとかDesmond Dekker, Jimmy Cliff, The Maytalsあたりから知ってるかんじになるのだが、そういうのよりおもしろいのは週末に向かう酔っ払いのための音楽として白人の子達を取りこんで、ちと洒落たRudeboyの音楽としてでっかくなっていった、という辺り。この辺て、パブロックがパンクの下地を作っていったのと同じような流れを感じる。酔っ払いの憂さ晴らし、週末に向けたひと暴れのためのBGMがこれら「革命」の音楽を準備していったって、なんかね、金曜の昼からパブでうだうだしているロンドンの人達を見ると納得するし、いいなって。 ああいうのを見ると生産性を巡る議論なんてブロイラーの鶏(鶏ごめん)のための妄想だわくそったれ、って改めて思う。
60年代にジャマイカから渡ってきたスカ、レゲエ、70年代にNYから飛び火してきたパンク、これら外からやって来た音楽が英国でどうやって内在化 - 肉化していったのか。 ダンスでよってたかってフロアを踏み鳴らす、っていうのはあったんだろうなー。パンクがレゲエやダブにくっついていったのも、まず音としてかっこよかった、ていうのもあるのだろうが、辺境コミュニティの芯を貫いて鳴るその強さと太さと雑多さ、ていうのもあったのではないか。
そこのところ - 音楽が流行り歌からぶっとい本流に練りあがっていくところ – って、音楽メディアが7inch – 12inch – CDを経て、ヴァイナルとストリーミングにまで来た今もあまり変わっていないのではないかしら。むしろストリーミングでいろんな音を簡単に摂取できる今の方がそれらの流れをより俯瞰しやすくなっていて、こういう音楽ドキュメンタリーが沢山作られるようになったのもその辺の事情と関係あったりするのかしら。
関係ないけどむかーし、”Rude Boy” (1980)っていうThe Clashが出てくるドキュメンタリーとフィクション半々みたいな映画があったのだが、あれ、今みたらどんな印象もつだろうか? 当時見たときはさあ…
11.04.2018
[film] Bohemian Rhapsody (2018)
10月25日の木曜日、Picturehouse Centralで見ました。BFIのIMAXで見るべきだったのかもしれないが、Dolby Atmosのとこでいいや、にしてしまった。
英国のレビューは全般にあんまよくなくて、まあそうかな、って。
音はものすごくよいし、これだけでもでっかい音のシアターに聴きにいく意味はあると思うし、Freddie Mercury を演じたRami Malekもよいと思うし、ところどころバンドのよい絵が描けているところはあると思うけど、でもこれがQueenというバンドを描いたドラマなのだとしたらだめだ、っていう。だってQueenなんだからさ。
世界的な大成功の裏側ではこんな.. ていうバックステージものの定石で、しかもそこに人種のことやHIVやLGBTQのエッセンスがちょっとづつ入ってくるのであれば、いまどきこんなにおいしい話はないのかもしれない、けどQueenに関してはそんなの見たくない。だってQueenなんだから。
Queenは自分が中学生の頃に最初のピーク - AerosmithがいてCheap TrickがいてKissがいてQueenがいた洋楽の幸せな時代 – があって、でも自分にとってのQueenは2ndまで、「手をとりあって」のあたりに来るともうこれ無理、になってSex Pistolsの”God Save The Queen”を聴いたあたりから離れてしまうことになる。(でもラジオで今泉さんのQueen情報はちゃんと聞いていたからそんなに疎遠でもなかった気がする)
であったとしても、そんな彼らの全盛期がいかにゴージャスで圧倒的だったかを知るものとしては、あれがFreddie Mercuryの実像だったのだとしても見たくなんかないし、なによりFreddieがこれ見たら怒るとおもうよ。
Freddie Mercuryはワイルドで異形で獰猛で傲慢で問答無用で、周囲をあんぐりのぼけナスに変えてしまう圧倒的な、完全無欠の、パーフェクトな変態だった。その解析不能な変態を天文物理学者とか歯医者とか電気技師とかの理系ギークが取り囲む奇怪な花園に仕上げたのがQueenで、ビジュアルも漫画みたいにわかりやすくて、こういうのが奇跡的にそろっていたからこそ彼らの音楽 – ハードロック -はどれだけ言葉を尽くしても語りきれないくらいのきらきらとスリルと華麗さに溢れたものとして襲いかかってきたのだが、そういう魅力を正面からぶちかまして客を鷲掴みにしないでどうするよ、てことなの。
彼らがどれだけ華麗なレースを繰り広げて伝説のチャンピオンとなったか、そこらにいくらでも生えていそうなステージパフォーマーとか、60-70年代のロック泥沼物語と同列に置いて矮小化しないでほしかった。 Queenを知らずに来ている若い子たちにこんなめちゃくちゃをやってスターになった連中がいたのだということ叩きつけてほしかった。
1985年、Wembley StadiumでのLive Aidのパフォーマンスが始めと終わりに置かれていて、ここでの「奇跡の」復活に至るまでが物語として描かれるのだが、当時、Freddieやバンドがあんな状態にあったなんて殆どの者は知らなかったし、でも、それでも圧倒的なパワーを見せつけたことを聞いて、あ、戻ってきたのね、とふつうに思った。だからこの映画を見てやってくる感動と、当時の人達がパフォーマンスを見て感じたそれはおそらく異なる、そこが(そこも)なんかなあ、だったの。
Queenはそんな配慮しなくたって、Freddieの拳を振りあげたあのポーズだけで圧巻だったのだからそこを掘りさげてほしかった。 ていうか、Live Aidのとこはあんな小細工しないで当時の映像まるごとそのまま使えばよかったんじゃないの? (Bob Geldofとかかっこよすぎやしないか)
あとね、John Deaconはただのよいひと、Roger Taylorはいらいらしてるひと、Brian Mayはなんも考えてないひと、みたいに描かれているけど、そんなわけないの。バンドのひとりひとりのキャラがばらばらに立ってて、でもそこにすばらしいケミストリーがあった、Freddie Mercury物語じゃなくて、Queenのバンドストーリーであるなら、そこは最低限押さえてほしかった。(ひょっとしたらこれ、Freddie Mercury物語なの?)
もういっこいうと、彼らの音楽の志向 - オペラ的なトータルアート、美への執着 - 特にファッションのとこはフォーカスして欲しかった。レコーディングしてツアーして内輪の喧嘩、そんなのばかりじゃなかったに決まってるのに。
タイトルにもなっている”Bohemian Rhapsody”がフルで流れないのもなんかさー。
“Wayne's World” (1992)で再発見されたこの曲の魅力をあの映画がもたらしてくれた以上のカタルシスで本家にぶちかましてほしかったんですけど。
なんかどうでもいいことばかり書いてるけど、Live Aidのとこ、改めてあの日、日曜の昼間にTV中継ぶち切られたことを思い出して当時の怒りが再沸騰した。あのせいでいまだにフジTVはだいっきらいだし、ああいう恨みって30年以上経っても消えないもんなのね。
英国のレビューは全般にあんまよくなくて、まあそうかな、って。
音はものすごくよいし、これだけでもでっかい音のシアターに聴きにいく意味はあると思うし、Freddie Mercury を演じたRami Malekもよいと思うし、ところどころバンドのよい絵が描けているところはあると思うけど、でもこれがQueenというバンドを描いたドラマなのだとしたらだめだ、っていう。だってQueenなんだからさ。
世界的な大成功の裏側ではこんな.. ていうバックステージものの定石で、しかもそこに人種のことやHIVやLGBTQのエッセンスがちょっとづつ入ってくるのであれば、いまどきこんなにおいしい話はないのかもしれない、けどQueenに関してはそんなの見たくない。だってQueenなんだから。
Queenは自分が中学生の頃に最初のピーク - AerosmithがいてCheap TrickがいてKissがいてQueenがいた洋楽の幸せな時代 – があって、でも自分にとってのQueenは2ndまで、「手をとりあって」のあたりに来るともうこれ無理、になってSex Pistolsの”God Save The Queen”を聴いたあたりから離れてしまうことになる。(でもラジオで今泉さんのQueen情報はちゃんと聞いていたからそんなに疎遠でもなかった気がする)
であったとしても、そんな彼らの全盛期がいかにゴージャスで圧倒的だったかを知るものとしては、あれがFreddie Mercuryの実像だったのだとしても見たくなんかないし、なによりFreddieがこれ見たら怒るとおもうよ。
Freddie Mercuryはワイルドで異形で獰猛で傲慢で問答無用で、周囲をあんぐりのぼけナスに変えてしまう圧倒的な、完全無欠の、パーフェクトな変態だった。その解析不能な変態を天文物理学者とか歯医者とか電気技師とかの理系ギークが取り囲む奇怪な花園に仕上げたのがQueenで、ビジュアルも漫画みたいにわかりやすくて、こういうのが奇跡的にそろっていたからこそ彼らの音楽 – ハードロック -はどれだけ言葉を尽くしても語りきれないくらいのきらきらとスリルと華麗さに溢れたものとして襲いかかってきたのだが、そういう魅力を正面からぶちかまして客を鷲掴みにしないでどうするよ、てことなの。
彼らがどれだけ華麗なレースを繰り広げて伝説のチャンピオンとなったか、そこらにいくらでも生えていそうなステージパフォーマーとか、60-70年代のロック泥沼物語と同列に置いて矮小化しないでほしかった。 Queenを知らずに来ている若い子たちにこんなめちゃくちゃをやってスターになった連中がいたのだということ叩きつけてほしかった。
1985年、Wembley StadiumでのLive Aidのパフォーマンスが始めと終わりに置かれていて、ここでの「奇跡の」復活に至るまでが物語として描かれるのだが、当時、Freddieやバンドがあんな状態にあったなんて殆どの者は知らなかったし、でも、それでも圧倒的なパワーを見せつけたことを聞いて、あ、戻ってきたのね、とふつうに思った。だからこの映画を見てやってくる感動と、当時の人達がパフォーマンスを見て感じたそれはおそらく異なる、そこが(そこも)なんかなあ、だったの。
Queenはそんな配慮しなくたって、Freddieの拳を振りあげたあのポーズだけで圧巻だったのだからそこを掘りさげてほしかった。 ていうか、Live Aidのとこはあんな小細工しないで当時の映像まるごとそのまま使えばよかったんじゃないの? (Bob Geldofとかかっこよすぎやしないか)
あとね、John Deaconはただのよいひと、Roger Taylorはいらいらしてるひと、Brian Mayはなんも考えてないひと、みたいに描かれているけど、そんなわけないの。バンドのひとりひとりのキャラがばらばらに立ってて、でもそこにすばらしいケミストリーがあった、Freddie Mercury物語じゃなくて、Queenのバンドストーリーであるなら、そこは最低限押さえてほしかった。(ひょっとしたらこれ、Freddie Mercury物語なの?)
もういっこいうと、彼らの音楽の志向 - オペラ的なトータルアート、美への執着 - 特にファッションのとこはフォーカスして欲しかった。レコーディングしてツアーして内輪の喧嘩、そんなのばかりじゃなかったに決まってるのに。
タイトルにもなっている”Bohemian Rhapsody”がフルで流れないのもなんかさー。
“Wayne's World” (1992)で再発見されたこの曲の魅力をあの映画がもたらしてくれた以上のカタルシスで本家にぶちかましてほしかったんですけど。
なんかどうでもいいことばかり書いてるけど、Live Aidのとこ、改めてあの日、日曜の昼間にTV中継ぶち切られたことを思い出して当時の怒りが再沸騰した。あのせいでいまだにフジTVはだいっきらいだし、ああいう恨みって30年以上経っても消えないもんなのね。
11.03.2018
[theatre] Link Link by Isabella Rossellini
LFFのがまだ少し残っているし、その前のやつも後のやつもいっぱい溜まっているのでとっとと書いていく。
10月24日の水曜日の晩、SouthbankのQueen Elizabeth Hallで見ました。直前の週末にSouthbankからこれやるから来てね、っていうのが来て、よく読むと”Green Porno”の続編で、2日間しか公演しないというので慌てて取った。
“Green Porno”は2014年の1月にBAMで見た。それまでいろんな動物のセックスや生殖に関するなんだこりゃ?な短篇動画を発表していたIsabella Rosselliniがそれを纏めるような形で講義の檀上に立ち、奇天烈な被り物を身に纏ってくねくねしたりして、なんておもしろい世界なんでしょう! ← いやいちばん変てこでおもしろいのはあんたや、って客のみんなが突っ込む、そういうパフォーマンスだった。
ステージ上には”Link Link Circus”ていう垂れ幕が下がっていて(いちおう、Ringling Bros. Circusへのしゃれ、だと思う)、ステージ上にはおもちゃみたいな小道具が散らばってて、アリストテレスとデカルトとスキナーの像みたいのが置いてあり、時間になると黒子(日本のシアターからインスパイアされた、って言ってた)のおにいさんが出てきて挨拶してルールの説明して、あと小型犬のPan、ていう元気いっぱいのわんわんが登場して、曲芸というほどではないけど、くるくる回ったりジャンプしたり、別の動物に変態したり、いろいろやってくれる。
Isabella Rosselliniさんは”Green Porno”の時のように檀上には立たず、サーカスの団長さんのかんじでステージ上を動き回りながら、わんわんによる実演を交えておしゃべりしていく。
今回のテーマは「動物はヒトと同じように考えたり感じたりするものなのか?」で、”Green Porno”がとっても下半身寄りの内容だったのに対して、こんどのは上半身のほうだから、だいじょうぶなのよ、って強調するのだが、話題はつい下の方に寄っていってしまうようで、棒を突っ込まれても相手の♂が気にくわないと棒を横にそらす技をもつ♀Duck、とか、メスが発する低周波を聞きつけるとNYからボストンまででっかいのをぶらぶらさせて泳いでいくクジラとか、いちいちあらごめんあそばせ、とか言ってる。
“Green Porno”のときも彼女はちゃんと大学に通って勉強した上でプレゼンしていたのだが、今度のもそうで、ヒトと動物の違いからきちんと入って(アリストテレス)、ヒトを人にしているのは何なのか(デカルト)、さらに動物の行動はどんなふうに定義されるものなのか(スキナー)とかを、(時々つっかえるところもあったけど)テキストなしで解説していた。
結論からいうと、動物だって感じるし考えるし、でもそのやり方や成り立ちは人間のそれとはちょっと違うところがあるので、そこをきちんとわかった上で付きあってあげるととってもよい友達になれるよ、とか、そんなかんじかしら。動物を大切にしよう、なんてのはああああったり前の話しなので言わなくてもよくて、大事なのはそこに至るまでに、どれだけ動物が我々の想像を超えたところでいろんなことをしているのか、我々の視野思考の範囲内で彼らを見てしまうことがどんなによくないことなのか、それらを正しく知ることなのだ、と。それは上半身でも下半身でもそうで、げー気持ちわるーじゃなくて、まずふつうにRespectしてつきあってみようよ、って。
そこのぶれのなさは”Green Porno”から一貫しているので、彼女がどれだけ変態したってついていくから。
それにしても彼女の小さい頃の写真 – ママ(大女優)、パパ(大監督)、いろんなペットたちと一緒の – どれもすさまじくかわいいのだが、ママもパパもなんとなくペットと同列、なのね。
第三弾はふたたび下半身に戻ってほしいかも。VRとか使って。
10月24日の水曜日の晩、SouthbankのQueen Elizabeth Hallで見ました。直前の週末にSouthbankからこれやるから来てね、っていうのが来て、よく読むと”Green Porno”の続編で、2日間しか公演しないというので慌てて取った。
“Green Porno”は2014年の1月にBAMで見た。それまでいろんな動物のセックスや生殖に関するなんだこりゃ?な短篇動画を発表していたIsabella Rosselliniがそれを纏めるような形で講義の檀上に立ち、奇天烈な被り物を身に纏ってくねくねしたりして、なんておもしろい世界なんでしょう! ← いやいちばん変てこでおもしろいのはあんたや、って客のみんなが突っ込む、そういうパフォーマンスだった。
ステージ上には”Link Link Circus”ていう垂れ幕が下がっていて(いちおう、Ringling Bros. Circusへのしゃれ、だと思う)、ステージ上にはおもちゃみたいな小道具が散らばってて、アリストテレスとデカルトとスキナーの像みたいのが置いてあり、時間になると黒子(日本のシアターからインスパイアされた、って言ってた)のおにいさんが出てきて挨拶してルールの説明して、あと小型犬のPan、ていう元気いっぱいのわんわんが登場して、曲芸というほどではないけど、くるくる回ったりジャンプしたり、別の動物に変態したり、いろいろやってくれる。
Isabella Rosselliniさんは”Green Porno”の時のように檀上には立たず、サーカスの団長さんのかんじでステージ上を動き回りながら、わんわんによる実演を交えておしゃべりしていく。
今回のテーマは「動物はヒトと同じように考えたり感じたりするものなのか?」で、”Green Porno”がとっても下半身寄りの内容だったのに対して、こんどのは上半身のほうだから、だいじょうぶなのよ、って強調するのだが、話題はつい下の方に寄っていってしまうようで、棒を突っ込まれても相手の♂が気にくわないと棒を横にそらす技をもつ♀Duck、とか、メスが発する低周波を聞きつけるとNYからボストンまででっかいのをぶらぶらさせて泳いでいくクジラとか、いちいちあらごめんあそばせ、とか言ってる。
“Green Porno”のときも彼女はちゃんと大学に通って勉強した上でプレゼンしていたのだが、今度のもそうで、ヒトと動物の違いからきちんと入って(アリストテレス)、ヒトを人にしているのは何なのか(デカルト)、さらに動物の行動はどんなふうに定義されるものなのか(スキナー)とかを、(時々つっかえるところもあったけど)テキストなしで解説していた。
結論からいうと、動物だって感じるし考えるし、でもそのやり方や成り立ちは人間のそれとはちょっと違うところがあるので、そこをきちんとわかった上で付きあってあげるととってもよい友達になれるよ、とか、そんなかんじかしら。動物を大切にしよう、なんてのはああああったり前の話しなので言わなくてもよくて、大事なのはそこに至るまでに、どれだけ動物が我々の想像を超えたところでいろんなことをしているのか、我々の視野思考の範囲内で彼らを見てしまうことがどんなによくないことなのか、それらを正しく知ることなのだ、と。それは上半身でも下半身でもそうで、げー気持ちわるーじゃなくて、まずふつうにRespectしてつきあってみようよ、って。
そこのぶれのなさは”Green Porno”から一貫しているので、彼女がどれだけ変態したってついていくから。
それにしても彼女の小さい頃の写真 – ママ(大女優)、パパ(大監督)、いろんなペットたちと一緒の – どれもすさまじくかわいいのだが、ママもパパもなんとなくペットと同列、なのね。
第三弾はふたたび下半身に戻ってほしいかも。VRとか使って。
11.02.2018
[music] The Dresden Dolls -- Oct 31st 2018
10月31日、ハロウィンの晩のDay2。場所はおなじLimehouseのTroxy。ハロウィンなのでそれなりの恰好のひともいるが、そーんなでもない。米国のハロウィンライブときもこんなかんじだったのだが、まじめなファン(含.自分)が多いんだろうな、と勝手に推測する。
前日、ぎりぎりに入って後悔したので19:30くらいに会場に入ったら、前座の – ミュージシャンというよりコメディアンのAndrew O'Neillというひとがギター抱えて客席まきこんで煽りまくってて、なかなかおもしろい。この人、”A History of Heavy Metal”ていう本を出してて、Alan Mooreが絶賛してたりするのね..
Day1は1階のスタンディングで、遅れていったので後ろのほうで、でっかい酔っ払いの壁に視界を阻まれて苦労したのだが、Day2は2階の椅子席で、見るのは楽になったけどちょっと遠くなった。
Andrew O'Neillさんの煽り – “We Will Rock You”までやる - に乗って20:00頃に登場して、”Good Day”から。あくまで印象だけど、前日よりも足がついて、じっとり、ねちっこくなっているかんじ。2曲目の”Missed Me”なんか準備体操みたいな曲だと思うのだが、より手数が増えて手脚も目一杯のびたり縮んだりしていておもしろい。
まず、今日はこのバンドができて18回目のお誕生日だから、18歳っていったらアメリカじゃ選挙できる年頃なのよやーねー、とか、昨日ここに来たひと~? で手を挙げたみんなに、いくつか同じ曲やっちゃうけど我慢してね~でも昨日やらなかったのとか新しいこともやるから楽しみにね~、とか。
全体のかんじとしては、Day1が割とポリティックス寄りの、こんな世の中だから戻ってきたぜ!って威勢よく啖呵を切った、のに対し、Day2は記念日っていうこともあるからか、そこにしっとりエモが込められて、ここまでやってこれたよありがとうみんな and 自分たち、みたいにちょっとWetになっていた。政治とエモ、どっちもだいじよね。
おしゃべりは、Trumpネタ - Trump風船を英国は受けいれてくれてありがとう、あんなしょうもないの、どこに保管されるのかしら? Tate Modern? とか - と選挙の話し(とにかく投票しろ。まじやばいぞ)は前日と同じトーン – でも内容は結構変えていたのと、結成記念日なので、Brianと出会ったときのエピソード - これは2010年のライブ時にも喋っていたけど、Amandaの家のホームパーティーでハロウィンの晩であたしはまだ派遣社員で.. この辺、いつか誰かがThe Dresden Dolls伝(略:どれどるでん)として纏めたほうがよいと思うわ。
曲のピークは - デビュー当時あたし(Amanda)は相当こんがらがった関係のなかにいて、当時の曲って殆どがこの頃のことをネタにしているんだけど、これは当時の彼とまだつきあっているときに彼との別れを予感したように書いた曲で、そんだけどうかしてたってことなんだけど、リハーサルで歌ってたらあたし泣いちゃってさあ .. (実際にはもっと長くずっと喋ってた)なんてバーのカウンターにいるかのようなおしゃべりの後に演奏された”Boston”で、もともと大好きな曲だったのだが、とっても深い情感を込めて歌っていてしんみりした。改めて、いい曲だよね。
前日もそうだったのだが“Delilah”のときは、Brianの奥さんのOlya Viglioneさんがコーラスで入るの。彼らの夫婦バンドScarlet Sailsは4日にLondonでライブやるからみんな来てね!って。
今日はすごいゲストが来るからって、Amandaから前の日に言われて、誰だろってどきどきしてたら、終わりくらいにAndrew O'Neillさんが出てきて、皆の衆ついにこの時がきた!って、今宵この場にいる我々はSex Pistolsの伝説のManchesterのライブと同じくらいすごいものを目撃することになるのだ!!とか散々煽って(このひとの煽り芸、天才的)、では登場してもらいましょう - ”OASIS !!” とかいうのでおいおい、と思ったらそれらしいださい恰好したバンド(5人)が出てきて” Don't Look Back In Anger”を始める。よく見るとドラムスはBrianで、さっきまで上半身裸だったのに薄緑のもこもこしたスウェットとか着て、その叩き方ももっさりどかどかやってて、そうかこれが彼らにとってはハロウィンの仮装なのか、と。歌も演奏もとっても中途半端にうまかったり下手だったりするとこがミソなの。みんなげらげら笑いながらもつい一緒に歌う。
前日もそうだったのだが、”Coin-Operated Boy” 〜 ”Killing in the Name” ~ “Half Jack”の流れは、”Killing the Name”の後半のインストの応酬から鍵盤と太鼓のどやし合いみたいになっていて、この人達、演奏技術と集中力もすごいのよね、て改めて思いしらされる。ほれ、BrianはずっとSabbathとSlayerが大好きなメタル小僧で、あたしはDepeche Modeだったからさ、とAmandaは言っていたが、それでなんでこういう音になって出てくるのかはよくわからない。
新曲も披露されて、まだ作業中で完成していないから撮ってもWebとかにはUpしないでね、と言っていた。けど既に十分Dresden Dollsの音にはなっていたのはさすが。
今回のロンドン公演は12年ぶりだったけど、次は間置かずにまた来るから、って。 自分も今回は8年ぶりだったけど、次はもっと短い間隔で見れますように。アメリカでも見たいな。
エンディングの"Sing"、前日より多くの人たちがステージにあがったのだが、あの中にNeil Gaimanいたよね。
とにかく何度でもいうけど、おかえり。
前日、ぎりぎりに入って後悔したので19:30くらいに会場に入ったら、前座の – ミュージシャンというよりコメディアンのAndrew O'Neillというひとがギター抱えて客席まきこんで煽りまくってて、なかなかおもしろい。この人、”A History of Heavy Metal”ていう本を出してて、Alan Mooreが絶賛してたりするのね..
Day1は1階のスタンディングで、遅れていったので後ろのほうで、でっかい酔っ払いの壁に視界を阻まれて苦労したのだが、Day2は2階の椅子席で、見るのは楽になったけどちょっと遠くなった。
Andrew O'Neillさんの煽り – “We Will Rock You”までやる - に乗って20:00頃に登場して、”Good Day”から。あくまで印象だけど、前日よりも足がついて、じっとり、ねちっこくなっているかんじ。2曲目の”Missed Me”なんか準備体操みたいな曲だと思うのだが、より手数が増えて手脚も目一杯のびたり縮んだりしていておもしろい。
まず、今日はこのバンドができて18回目のお誕生日だから、18歳っていったらアメリカじゃ選挙できる年頃なのよやーねー、とか、昨日ここに来たひと~? で手を挙げたみんなに、いくつか同じ曲やっちゃうけど我慢してね~でも昨日やらなかったのとか新しいこともやるから楽しみにね~、とか。
全体のかんじとしては、Day1が割とポリティックス寄りの、こんな世の中だから戻ってきたぜ!って威勢よく啖呵を切った、のに対し、Day2は記念日っていうこともあるからか、そこにしっとりエモが込められて、ここまでやってこれたよありがとうみんな and 自分たち、みたいにちょっとWetになっていた。政治とエモ、どっちもだいじよね。
おしゃべりは、Trumpネタ - Trump風船を英国は受けいれてくれてありがとう、あんなしょうもないの、どこに保管されるのかしら? Tate Modern? とか - と選挙の話し(とにかく投票しろ。まじやばいぞ)は前日と同じトーン – でも内容は結構変えていたのと、結成記念日なので、Brianと出会ったときのエピソード - これは2010年のライブ時にも喋っていたけど、Amandaの家のホームパーティーでハロウィンの晩であたしはまだ派遣社員で.. この辺、いつか誰かがThe Dresden Dolls伝(略:どれどるでん)として纏めたほうがよいと思うわ。
曲のピークは - デビュー当時あたし(Amanda)は相当こんがらがった関係のなかにいて、当時の曲って殆どがこの頃のことをネタにしているんだけど、これは当時の彼とまだつきあっているときに彼との別れを予感したように書いた曲で、そんだけどうかしてたってことなんだけど、リハーサルで歌ってたらあたし泣いちゃってさあ .. (実際にはもっと長くずっと喋ってた)なんてバーのカウンターにいるかのようなおしゃべりの後に演奏された”Boston”で、もともと大好きな曲だったのだが、とっても深い情感を込めて歌っていてしんみりした。改めて、いい曲だよね。
前日もそうだったのだが“Delilah”のときは、Brianの奥さんのOlya Viglioneさんがコーラスで入るの。彼らの夫婦バンドScarlet Sailsは4日にLondonでライブやるからみんな来てね!って。
今日はすごいゲストが来るからって、Amandaから前の日に言われて、誰だろってどきどきしてたら、終わりくらいにAndrew O'Neillさんが出てきて、皆の衆ついにこの時がきた!って、今宵この場にいる我々はSex Pistolsの伝説のManchesterのライブと同じくらいすごいものを目撃することになるのだ!!とか散々煽って(このひとの煽り芸、天才的)、では登場してもらいましょう - ”OASIS !!” とかいうのでおいおい、と思ったらそれらしいださい恰好したバンド(5人)が出てきて” Don't Look Back In Anger”を始める。よく見るとドラムスはBrianで、さっきまで上半身裸だったのに薄緑のもこもこしたスウェットとか着て、その叩き方ももっさりどかどかやってて、そうかこれが彼らにとってはハロウィンの仮装なのか、と。歌も演奏もとっても中途半端にうまかったり下手だったりするとこがミソなの。みんなげらげら笑いながらもつい一緒に歌う。
前日もそうだったのだが、”Coin-Operated Boy” 〜 ”Killing in the Name” ~ “Half Jack”の流れは、”Killing the Name”の後半のインストの応酬から鍵盤と太鼓のどやし合いみたいになっていて、この人達、演奏技術と集中力もすごいのよね、て改めて思いしらされる。ほれ、BrianはずっとSabbathとSlayerが大好きなメタル小僧で、あたしはDepeche Modeだったからさ、とAmandaは言っていたが、それでなんでこういう音になって出てくるのかはよくわからない。
新曲も披露されて、まだ作業中で完成していないから撮ってもWebとかにはUpしないでね、と言っていた。けど既に十分Dresden Dollsの音にはなっていたのはさすが。
今回のロンドン公演は12年ぶりだったけど、次は間置かずにまた来るから、って。 自分も今回は8年ぶりだったけど、次はもっと短い間隔で見れますように。アメリカでも見たいな。
エンディングの"Sing"、前日より多くの人たちがステージにあがったのだが、あの中にNeil Gaimanいたよね。
とにかく何度でもいうけど、おかえり。
11.01.2018
[music] The Dresden Dolls -- Oct 30th 2018
10月30日の晩、ロンドンの東、Limehouse、ていう名前だけは素敵だけど謎の土地にあるTroxyていうホールで見ました。初めて行くとこで、調べたら30年代からある貫禄たっぷりのホールだった。
彼らの復活と30-31日の2 daysが5月に発表されたときはぜったい、なにがなんでもチケット取ったる、ってNIN以上に意気込んで(なんで?)、がんばった。これの少し前、27日にこことは別の小屋で、リハーサルぽいライブもあったのだがそちらの方には行けず。
彼らを最後に見たのはNYのIrving Plazaで2010年10月31日ハロウィンのとき、これも復活に近いやつで、あのときはロンドンからNYに滑り込んだその晩、ぎりぎりで見たのだった。このときは彼らふたりが出会って10年、というアニバーサリーでもあって、今回、そのハロウィンにあわせて蘇る、というあたりもとっても彼ららしい。
18:30ドアで、サポートもあるだろうから21時くらいを目指して行けばいいか、でも念のために.. と20時ちょうどくらいに着いたら、小屋の前にあまり人はいなくて、扉の向こうにAmandaみたいな女性が見えて、え? なに? と思ったら1曲目の”Girl Anachronism”が始まったところだった。なんだよサポートなかったのかよ、だった。あぶなかった。(注:実はあったみたい)
音はもう雷のようにばりばりで(この2日間のためだけに米国からミキサーが来てくれたのだそう)、そもそも調子悪かったらライブなんてやるわけない連中なので、始めっからつんのめって飛ばしまくる。 このけたたましい、すばらしいエッジをもって転がっていく音が太鼓と鍵盤とふたりの声だけでできているなんて、何度聴いても信じられない。
あの大統領のせいで、すっかり”GREAT”になっちゃって鼻が高くてしょうもないアメリカから来ました - それだけじゃなくてBrexitだのHarvey Weinsteinだの(他にも最近のうざいのをいっぱい列挙する)、The Dresden Dollsが動きだすのにちょうどよい(relevantな)状況になってくれちゃったのよねまったく、とか言いながら”Mised Me”の変態骨折脱臼音頭に入って、マイムの応酬とかBrianの帽子芸とかが始まって、ああこれ、こいつらだわ、てしみじみ噛みしめる。
この辺からAmanda節も全開になって、Trump政権はトランスジェンダーのみんなをInvisibleにしようとしているけど、我々は断固LBGTQRSTUVWX.. (て言ってた)の側に立つし、決してみんなを消したり(erase)なんてしないんだから!! って叫んで”Sex Changes”のピアノが鳴りだし、そこにドラムスの一撃が思いっきり叩きこまれた時はちょっと泣きそうになった。
いまアートをやっている以上、政治的なあれこれに向き合わざるを得ないのはしょうがないことで、でも個人的にはそんなのやりたくないんだけど、でもさ.. ていうぐしゃぐしゃしたところを歌にしたのがこれです、と”Small Hands, Small Hearts”に行ったときは場内爆笑(興味あるひとは歌詞を読んでみてね)。
いまはなんでもかんでもインターネットで、あたしが旦那と知り合ったのもtechnicallyにはインターネットだからあんま言えないけど、次の曲はインターネットなんかできるずうっと昔にネットが作りだす野蛮なろくでなしひとでなし状態みたいなところをブレヒトって人が書いた曲なの(作曲はクルト・ヴァイルね)、と『三文オペラ』から”Pirate Jenny”をやったり。
とめどないおしゃべりからシリアスな方、コミカルな方、それぞれに振れるタイミングとかバランス(ていうのとは違うな、綱渡り芸みたいな)が絶妙なの。
アメリカのことは関係ないって言うかも知れないけど、向こうは11月6日に本当に大切な選挙がある、このことを君たちの周りにいるアメリカ人に伝えてほしい、って背中にでかでか”PLEASE Fucking VOTE”って書いてある着物を羽織って、この写真を撮ってTwitterでもインスタでもなんでもいいから拡散してほしい、って。言われたので自分のインスタには載せた。 これを読んでいてアメリカの投票権があるそこのあなた、つべこべ言わずに投票に行くのよ。
カバーはHozierのと、RATMの” Killing in the Name”と、アンコールでBrelの” Amsterdam”をやった。2010年のときは”War Pigs”だったねえ。
彼らのライブに初めて触れたのは2005年のNINの復活ツアーの前座の時で、あの時は第二次Bush政権に対する抵抗の嵐が米国では吹き荒れていた。この2018年、NINとDresden Dollsが共に復活としかいいようがない勢いで土煙と共に立ちあがったのは、決して偶然ではないと思う。 Bushの時にもみんな相当怒っていたけど、Trumpの方が想像をはるかに超えるひどさがあるよね。
アンコール、ステージから離れて階段のところでキャバレーみたいに”Amsterdam”を歌ったあと、ステージに戻り、こないだまで育児もあったからロンドンとアメリカを往ったり来たりしてて、9月にCamdenのヨガ教室にいたときのこと、そこで迎えた9月11日、異国から911のことを思ったことについて語り、バンド結成直後、911の起こったすぐ後に書いたという”Truce”を歌う。
彼らがなぜ何度でも墓場から蘇り、異国にいても、あれから十数年が過ぎた今になってもなお、なぜ911のところに立ち返って歌わなければいけないのか、全てが説明される。そして、それを聴く我々もまた、なぜ彼らの音に向かい続けるのかを問われる。
そしてこの曲は、エンディングの後に“Amanda, you're telling me a fairy tale” ていう声が入るの。
これで終わり、かのように少しだけひっこむものの、でも、それでもわたしは歌うんだよ、って最後に”Sing”がくる。
そして、だから我々も歌う、歌いはじめる。
本編2時間強、アンコール40分くらい。
おかえり人形たち。
2日間のを1本にまとめて書こうと思ったけど、2日目はぜんぜんちがうかんじのだった(予想してたけどね)ので、別にします。
10.31.2018
[film] Monrovia, Indiana (2018)
21日の日曜日の昼間、BFIで見ました。 LFFの1本で、昨年はここで”Ex Libris – The New York Public Library” (2017)の上映があって、Frederick Wiseman監督本人も来たのだが、今年、監督は来ていない模様。 全143分。なんだ短いじゃねえか、とがっかりしてしまうってなんか変。
タイトルのとおり、インディアナ州の小さな町、Monrovia(人口1500人程度)のあれこれを描いた、それだけ。 前の2作 - “In Jackson Heights” (2015)や ”Ex Libris – The New York Public Library” (2017) のように、明確な理念や目的意識を持った共同体の日々の悪戦苦闘を描くのではなく、ここにはそんなものなんもないんですけど、それがなにか、とアメリカの地方の大多数が持っているであろう、なんにもないがある、を撮ってみようと思ったのではないか、と推測する。(Wiseman本人によるとMidwestの小さな町をこれまであまり撮っていなかったので、知り合いに頼んでみたらいろいろ紹介してくれて … といういつものアプローチのもよう)
というわけで、農場を耕す、牛や豚を飼う、高校、通り沿いの床屋、美容室、タトゥー屋、ピザ屋、ガンショップ、でっかいスーパー、町を通り過ぎていくライダーたち。動物病院 – 会場の前に動物を虐めているかに見える映像があるので注意ください、という貼り紙があったのでどきどきしていたが、これだった – わんわんに麻酔して、尻尾の毛を丁寧に剃ってから、尻尾をちょん切るの。なんのためか不明だったけど。 延々続くタウンミーティング - 人口減を解消しないと町の未来はない、でもそのために投資するお金はないし、消防設備ですら整っていないのどうすんのよ? 、とか。フリーメーソンの表彰の儀式、ストリート・フェスティバルの準備に本番、結婚式にお葬式、最後に埋葬。
雨はほとんど降らない、季節の変動もそんなにない(ように見える)、主力となる産業もなさそうで、車での移動がほとんどで、教育もケアもそこそこで治安も悪くはなさそう、人種は白人のが多そうで、なんか全般に退屈そうだよね、なんだけど、これがおそらく今のアメリカのもっとも平均的な町の像 - 生活のありようで、例えば社会を変えるとか、言うのは簡単だけど、こういうところに住む人達 - 2016年の選挙ではここの76%の人達がTrumpに投票している - のなにをどうやったら変えていけばよいのだと思う?こんなところで”America First”とか言ってもさあ? とか。
もちろん、フィルムがそういう政治的な煽りや提起をするわけではないのだが、”Ex Libris – The New York Public Library”がTrumpのおかげで結果的に政治的なフィルムになってしまった(by Wiseman)のと同じように、この映画は政治的に見えざるを得ないなにかを映しだしてしまっていると思った。(今のにっぽんの郊外を撮ってもおそらく同じようになる -政治から遠いそぶりをすればするほど)
彼の映画は始まる前にいつも少しどきどきして、これからの3時間くらいの旅を乗り切ることができるのか、と思うのだが、今回もまったく心配はいらなかった。ほんとに、何をどう撮ったら、どう撮るからこんなふうに見えて、映しだされた世界に没入することになってしまうのか、不思議でしょうがない。 ラストの教会での葬儀のシーンで、牧師だか親族だかが亡くなったShirleyという方への弔辞を述べるところをそのまま- 20分くらい? - 流していて、それはShirleyを知らない我々にも彼女の人生が見えてくるようなすばらしいものだったのだが、彼のフィルムにもそういうところがあるのかも。
今回150時間分の映像を撮ったそうで、それは実際に暮らしている人達のすべてを捕えているわけでは当然ないのに、そのそれぞれの断片がひとつの地面の上でぜんぶ繋がっているかのように(いや、繋がっているんだけど)繋いで、一枚のでっかい土地の地図にしてしまう、そのやり口みたいのがあるんだろうな。
そして、こんなふうに彼の映画を見ることでそこに映し出された世界を知る、あるいは世界を「知る」ということはどういうことかがわかる、という点でWisemanの映画はまだまだいろんな世界に、より一層必要とされているよね、と改めて思った。
だからとにかく日本でも、日本でこそこういうのは公開されないと、なんだよ。
で、上映終了後、シアター飛びだして、かつてない勢いで橋を走り抜けて地下鉄に飛び乗って、Ciné Lumièreに駆けこんでAssayasの新作をみたの。
タイトルのとおり、インディアナ州の小さな町、Monrovia(人口1500人程度)のあれこれを描いた、それだけ。 前の2作 - “In Jackson Heights” (2015)や ”Ex Libris – The New York Public Library” (2017) のように、明確な理念や目的意識を持った共同体の日々の悪戦苦闘を描くのではなく、ここにはそんなものなんもないんですけど、それがなにか、とアメリカの地方の大多数が持っているであろう、なんにもないがある、を撮ってみようと思ったのではないか、と推測する。(Wiseman本人によるとMidwestの小さな町をこれまであまり撮っていなかったので、知り合いに頼んでみたらいろいろ紹介してくれて … といういつものアプローチのもよう)
というわけで、農場を耕す、牛や豚を飼う、高校、通り沿いの床屋、美容室、タトゥー屋、ピザ屋、ガンショップ、でっかいスーパー、町を通り過ぎていくライダーたち。動物病院 – 会場の前に動物を虐めているかに見える映像があるので注意ください、という貼り紙があったのでどきどきしていたが、これだった – わんわんに麻酔して、尻尾の毛を丁寧に剃ってから、尻尾をちょん切るの。なんのためか不明だったけど。 延々続くタウンミーティング - 人口減を解消しないと町の未来はない、でもそのために投資するお金はないし、消防設備ですら整っていないのどうすんのよ? 、とか。フリーメーソンの表彰の儀式、ストリート・フェスティバルの準備に本番、結婚式にお葬式、最後に埋葬。
雨はほとんど降らない、季節の変動もそんなにない(ように見える)、主力となる産業もなさそうで、車での移動がほとんどで、教育もケアもそこそこで治安も悪くはなさそう、人種は白人のが多そうで、なんか全般に退屈そうだよね、なんだけど、これがおそらく今のアメリカのもっとも平均的な町の像 - 生活のありようで、例えば社会を変えるとか、言うのは簡単だけど、こういうところに住む人達 - 2016年の選挙ではここの76%の人達がTrumpに投票している - のなにをどうやったら変えていけばよいのだと思う?こんなところで”America First”とか言ってもさあ? とか。
もちろん、フィルムがそういう政治的な煽りや提起をするわけではないのだが、”Ex Libris – The New York Public Library”がTrumpのおかげで結果的に政治的なフィルムになってしまった(by Wiseman)のと同じように、この映画は政治的に見えざるを得ないなにかを映しだしてしまっていると思った。(今のにっぽんの郊外を撮ってもおそらく同じようになる -政治から遠いそぶりをすればするほど)
彼の映画は始まる前にいつも少しどきどきして、これからの3時間くらいの旅を乗り切ることができるのか、と思うのだが、今回もまったく心配はいらなかった。ほんとに、何をどう撮ったら、どう撮るからこんなふうに見えて、映しだされた世界に没入することになってしまうのか、不思議でしょうがない。 ラストの教会での葬儀のシーンで、牧師だか親族だかが亡くなったShirleyという方への弔辞を述べるところをそのまま- 20分くらい? - 流していて、それはShirleyを知らない我々にも彼女の人生が見えてくるようなすばらしいものだったのだが、彼のフィルムにもそういうところがあるのかも。
今回150時間分の映像を撮ったそうで、それは実際に暮らしている人達のすべてを捕えているわけでは当然ないのに、そのそれぞれの断片がひとつの地面の上でぜんぶ繋がっているかのように(いや、繋がっているんだけど)繋いで、一枚のでっかい土地の地図にしてしまう、そのやり口みたいのがあるんだろうな。
そして、こんなふうに彼の映画を見ることでそこに映し出された世界を知る、あるいは世界を「知る」ということはどういうことかがわかる、という点でWisemanの映画はまだまだいろんな世界に、より一層必要とされているよね、と改めて思った。
だからとにかく日本でも、日本でこそこういうのは公開されないと、なんだよ。
で、上映終了後、シアター飛びだして、かつてない勢いで橋を走り抜けて地下鉄に飛び乗って、Ciné Lumièreに駆けこんでAssayasの新作をみたの。
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