2日の日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。午後いちはここでサイレントの”The Lost World” (1925)のファミリー向け上映会、ていうのを見てその直後で、これはこれでLost World的ななんかかもね、と。 英語題は”The Image Book”。
Jean-Luc Godardの新作。 LFFでは見逃して、その後にあったCiné Lumièreでの上映も逃して、これが3回目。英国 – 少なくともLondonではこの日のこの時間帯にいくつかのシアターで同時に上映していて、この1回でおわりみたい。 CurzonのBloomsburyのは売り切れていたが、BFIの上映はいちばんでっかいシアターで、座席が指定ではないので念のため早めに行ったらがらがらで半分埋まっていなかったかも。(Ciné Lumièreではシンポジウム付きの上映をやっていた)
東西のいろんな誰かに、その誰かの声を通して過去の誰かとか自分じゃない誰か、の言葉を喋らせる/伝える、という演劇ぽい(or ライブパフォーマンスぽい)アプローチをしていた直近の数作から、”Histoire(s)du cinéma” - 「映画史」の頃の過去のソースを直に読みこんで編みあげて本をつくる、というアプローチ。 ただ「映画史」の場合は「映画」という対象とその「歴史」を編むというテーマだか欲望だかが明確にあったのに対して、こんどのは「イメージ」の「本」て、あまりにぼんやり投やりなかんじはする。 でもただもちろん、「ゴダール」だからね、ていうのはどこのなににも犬のようについてまわる。 のはいつもの通り。
これはこれで論文が軽く一本書けそうな内容だと推察するのだがわたしは専門家でもなんでもなく映像とか音処理がかっこいいー、っていうばかりの、引用元だってJoan Crawfordは(見てきたばかりなので)わーってなったけど他のはあーとこれなんだっけ?あれだれだっけ? とかやっているうちに風景は後ろに飛んでいってしまい、終わったあとで復習&答え合わせすらしようとしない、という適当なやつなのだが、それでもちっとも眠くはならずにすげー、とか言っているうちに終わってしまう。ので、おもしろい、でいいと思う。
展開されていくイメージは、映画史とか美術史上のあれこれ(ゴダールのいつもの)とホロコーストやアラブ世界が関わっていそうなアーカイブ映像、ニュース映像、自身で撮ったと思われるもののコラージュで、ダビングとか重ね焼きしすぎて原型を留めず判別できなくなったような映像の塊り、あるいはスマホから4Kまで、フェイクも含めたあらゆる映像がデータとして増殖しながら勝手に流れていくなか、指先に引っかかったようなのをかろうじて拾いあげて繋いでみた、かのような。あるいは前作 “Adieu au Langage” (2014)のエピローグで語られたMary Shelley / Frankensteinがその200歳のお祝いにこんな形で立ちあがってきた、というか。
音声は何チャンネルのサラウンドなのか、これもカラフルにいろんな音像・音塊がぶつかったり散ったり廻ったりしている。それでも最後に残るのは呪文のような坊さんのようなゴダール自身の声 – これだけモノラルで動かない定点から聞こえてくるような(確認してみないとわからないけど)。
こういう- 個々の映像の文脈が取っぱらわれたように見える - 状態のなかに「今の」アラブ世界を置いてみることの意味ってなんなのか、とか。 表面だけだと70-80年代にNam June Paikがビデオアートの世界で"super highway"とか能天気にやっていたのと同じように見えたりするところもある – よくもわるくも。 アラブ世界のことってイメージの表出のしかたも含めて現在進行形ののっぴきならないトピック(これもまた西側のイメージ操作?)で、必要なのは本を編むことではなくて石つぶてを放ることだと、ゴダールはぜんぶわかってやっているのだろうけど、なんかね。 アラブ中東の悲惨さについては現地からのドキュメンタリー映像がいくらでもあって、そしてその此岸だか彼岸だかにこんなふうなコーヒーテーブル「本」がある、と?
こないだの“Visages Villages” (2017) – “Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』でAgnès Vardaを門前払いしたあの冷たさを思いだしてしまったり。
それがゴダールだって言うのなら別にいいけどさ。けどそれがなんなのさ、くそじじい。
12.12.2018
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