11月13日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
原題は”Druga strana svega”。監督はMila Turajlićで、セルビアのベオグラードにある彼女が生まれ育ったアパートが舞台。で、登場人物はほぼひとり - 彼女の母で、引退した大学教授(電気工学専攻)で、政治活動家(ずっと)で、政治家として閣僚経験もあるSrbijanka Turajlić。彼女も同じアパートで生まれ育って、今もずーっとそこにいて、家の手すりや取っ手を磨いたりしている。
彼女たちが暮らしているアパートには第二次大戦直後(Srbijankaが2歳のとき)に当時の共産主義政権によって閉じられた扉があって、その扉の向こう側の部屋は政府が没収して別の家庭に与えてしまったので、SrbijankaもMilaもたまに音がしたり食べ物の匂いがしたり誰かが暮らしていることはわかるものの、向こう側がどうなっているのかは全くわからないままに70年近くが過ぎている。
初めはその開かずの扉を巡って、その扉の向こうにはいったい何が? ひょっとしたらあんなのとかこんなのとかが? の謎や驚きを探るようなやつかと思ったのだがそうではなくて、母Srbijankaの言葉により語られる家族の歴史、そしてユーゴスラヴィア – セルビアの歴史、そしてそこに並走していくニュースやアーカイブの映像、など。 監督の曽祖父のDušan Pelešはユーゴ建国の起草書にサインをしているくらいの人物で代々法律家で、そのアパートも彼がその場所に建てたもので、そういう歴史や血を背負った彼女(たち)がアパートの窓から見渡す風景(頻繁に集会やデモや騒ぎが起きてる)はどんなもので、それはどう変わっていったのか。
ユーゴスラヴィア - セルビアの歴史に詳しくない – せいぜいミロシェヴィッチの頃のことくらいしかわからなくても、ひとりの女性、ひとつのアパート、そのいくつかの窓、扉を通して語られる自国の歴史がこれほどまでにダイナミックで生々しいものになるものか、と感動する。それはもちろん、彼女の家族が辿ってきた運命 - 家も彼女の活動もずっと当局の監視下にあった - や、そういったことが培ってきた政治に対する意識によるところが大きいのかもしれないが、でも、普段毎日ずっと見つめている手すりとか蝶番とか小さな覗き窓(筋とは関係ないけどそれらの意匠はとても素敵)から、その向こう側に広がる世界を、その向こう側を成り立たせている世界のありようとかこちら側と向こう側の差異とかについて考えてみることって、そんなに難しいこととは思えないし、我々も割と無意識にぼんやり考えたり想像したりしていることではなかろうか。
という具合にこちらの扉を叩いてくるなにかが描かれているのと、Srbijanka Turajlićそのひとの落ち着いた物腰、タバコを吸いながら遠くを見る目、ゆっくりと喋る低めのハスキーな声、Ministry of Educationにいたことがあるくらいなので教育者としてとても優れたひとだったのだろうな、ていうのと、なによりあれだけ不安定な時代をくぐり抜けてきてもなお、希望を失っていない – 少なくとも絶望はしていない、その姿を見ているだけでなんかよいの。
撮影中に扉の向こう側に住んでいた人は高齢のため亡くなって、最後の最後に開かずの扉が開かれるのだが、ちっともドラマチックな描き方をしていないのもよかった。扉の向こう側にあったのは扉の向こう側にあった世界だった(やっぱりな)、みたいな。 もちろん、Srbijankaさんがそこに見たものがどんなだったか、知る由もないのだが。
あと、扉がその向こうに積んであるなにかによって開かなくなったりするのは民主化とはまったく関係のないお片づけ事案なので、積みあげるのはやめてこまめにお片づけをしないとね、って師走だから書いておくから。 もう師走なんだからね。
12.04.2018
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