9日、月曜日の晩、London Korean Film Festival – ここのとこFestivalばっかだ - の上映作品のなかにホン・サンスの新作があったので見た。原題は”도망친 여자”、邦題は『逃げた女』。これ、『失われた時を求めて』の『逃げ去る女』を思い浮かべたのだがこれの英語題は”The Fugitive”だった。今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞して、こないだのNYFFでも上映されていた。
ニワトリがいる郊外(?)に暮らすヨンスン(Young-hwa Seo)のアパートにカムヒ(Min-hee Kim)が肉などを持って訪ねてきて、料理担当のもうひとりも一緒に焼肉をしながらこういう暮らしもいいよねーとかいろんなことを話していく。カムヒは結婚して5年間夫とはずっと一緒で、彼は愛する人とはずっと一緒にいなければいけない、って強く言う人なので今回初めて別々に行動するのだとか、向かいの住人がそこにいるノラ猫に餌をやらないようにやんわり言いにきたり(話の噛み合わないことときたらすばらしい)、軒先の監視カメラに映る夜中に家の外に現れてタバコを吸う女性 - 粗暴な夫から逃げているらしい - のこととか。
続いてスヨン(Seon-mi Song)がひとりで暮らすアパートをカムヒが訪ねて、スヨンはこの辺にはアーティストが沢山いてバーに行くといろんな人と出会えておもしろいの、というのだが、そうやって出会ったらしい若い詩人男が突然玄関のところに現れて、スヨンはあんたストーカーかよ、って撃退して、一度あいつと酔っ払って寝ちゃったのねあーあ、とかいう。
それから映画館で映画を見ていたカムヒは、そこで働くウジン(Sae-Byuk Kim)と偶然会って、ウジンはカムヒに過去のことを謝罪して、その謝罪元と思われる男 - カムヒのexらしい – とも偶然会ってぎこちなく会話して、なんとなくもやもやを抱えたままカムヒは映画館の椅子に身を沈める。
これまでのホン・サンス映画は酒場とかで出会った男女がやあやあって近づいてくっついて離れて再会して、とか酒を飲んでいくうちに突然あららってぐんにゃりしたり、といった男女間のドラマが多かった気がするが、今度のは既に知り合いの女性同士の会話でほぼ成り立っていて、出てくる男子はカムヒの訪問先で背中を見せる2名と、最後にカムヒと会話する彼女のex くらいで男性の影は薄い(あと、あの猫は♂だと思う)。 薄いのだが、カムヒが3回言い訳のように使う「夫婦は離れていてはぜったいダメ」という夫の存在とこのタイトルが、カムヒのこの映画で描かれる行動の起点にはなっているようなので、やはり男の影は見え隠れして、その影たちの関係も見えたりして、でもそうやって会話や出来事の中に現れる男たちはなんかうざくて、女性たちはそんなのはもういい(いい家は見つかった - いい男はあんましいない)、と思っているような。
カムヒが訪れる先の女性たちの住居は何度も景色とか環境がとっても素敵、とカムヒから言われて住んでいる彼女たちはそうなのいいでしょー、と返すのだがカムヒの住居のことはどうも触れられない、カムヒが語るのは例の旦那のことだけで、つまりたぶん。
ここのとこ、MUBIでずっとやっているロメールの「喜劇と格言劇」シリーズを見ているので、よく言われるロメールとホン・サンスについても改めて考えてみたのだが、今作に関していうと、出てくる男が半端でろくでもないのばっかり、というとこは似ているが、女性たちが恋愛に向かってGo! になっていない – どちらかというと距離を置いて眺める態度にある、というとこは違うかも。でも、逃げても逃げても追ってくる過去(の自分)とか、通りを歩いて建物に入っていくシンプルな動作がストーリーのリズムを作っている、というあたりは似ているかも。
ねちっこい男たちがいなくなった分、全体はとても静かで削ぎ落されたかんじがある。窓から切り取られた風景を眺める、そんな彼女たちの視点で過去と現在、彼女たちが去ったり捨てたりしたもの、彼女たちが逃げようとしているものが整理されていて、その点でラストにカムヒが映画館に入ってスクリーンを見つめるのはなんかわかるの。
でもやっぱり、あの猫がぜんぶ持っていっちゃったかんじがー。
11.17.2020
[film] The Woman Who Ran (2020)
11.16.2020
[film] Recorder: The Marion Stokes Project (2019)
8日、日曜日の晩、BFI Playerで見ました。 ドキュメンタリー。
フィラデルフィアのアフリカン・アメリカンの女性Marion Stokesは70年代後半から2012年、83歳で亡くなるまで、複数のTV局のニュース番組を24時間 - 30年間ずっと録画し続けて、死後そのビデオテープが約30,00本残されている、と。彼女はどうして、なんのためにそんなことをしたのか?
まずは彼女が暮らしていたフィラデルフィアの裕福なエリアのアパートが紹介され、そこで彼女の世話をしていた運転手とか世話 - 日々のビデオの操作を含む - をしていた男女とか、彼の最初の夫との間の息子から彼女の人柄とか暮らしぶりが紹介される。
あの時代の公民権運動の只中を生きたアフリカン・アメリカンとして社会主義者になり、キューバを含めた世界情勢に敏感で、TVプロデューサーとして67年から69年まで、フィラデルフィアのローカル局で社会正義をテーマにしたトーク番組を作った。ここで二人目の夫となる白人でリベラルのJohn Stokesと出会って、彼との出会いが彼女の社会(変革)に対する理想を強めて後押ししていった、と。
ひとつのきっかけは1979年11月にイランで発生したアメリカ大使館への占拠/人質事件で、この事件の詳細をリアルタイムで報道するためにTV各局は東海岸の23時にニュース番組を組み(そうだったのかー)、更には24時間ニュースを流し続けるCNNが開局された(そうだったのかー)。それまでのニュース番組のありようを大きく変えたこの事件は、ニュースを通して人々の意識や関心を世界で起こっていることに振り向けることに貢献した。こうしたニュースメディアの動勢を記録しておくって、ひょっとしたら大きな可能性を秘めたなにかになるのではないか、と当時発売されたばかりのベータマックスのビデオデッキを複数台買いこんで、24時間エンドレスの録画を始めた、と。
そうやって記録された中で紹介されるのが例えば、2001年9月11日の、あの火曜日の朝8時40分くらいから、モーニングショーをやっている各局の画面が緊急ニュース映像に次々に切り替わっていくところ。あの朝、会社の窓から煙が出ているWTCを見て、なんだこれ? って思っていたんだなー。とにかく逃げるべし(次のアタックがくる可能性があったから)って自分のアパートに戻ってしばらくの間、ニュースしか見るものがなくて、これずっと録画しておこうかな、と少し思ったことも思い出した。(でも録画したとしても見れなかったかも。いまだに辛くて見れない。)
Marionが収集したのはビデオテープだけではなくて、アップルのPCも初期の世代から入れ込んでものすごい数を買いこんでいたとか。単なる新しもの好き説もあるようだが、70年代末から80年代初ってやはりいろんな可能性があった時期だったのではないか(パンクとかも)。90年代以降にこれをやってもただのサブカルとかオタクとしか呼ばれない。
残された30,000本のテープは大学のアーカイブに寄贈されデジタル化が進行しているそうで、今後の貴重な資料になることは間違いない。 けど、思ったのは、こないだの大統領選のもそうだけど、メディアの主軸 - 少なくとも半分くらい? - がインターネット上のソーシャルメディアに移ってきたことで、デジタルでスマートでインタラクティブになったことで、いくらでも起こりうるようになったフェイクに書き換え/差し替えに消失の問題をどうするか、ってことよね。あるいは、情報として「誤り」とまでは言えないけど言葉の使い方や発話者やそのトーンを恣意的に操作することでいくらでも「世論」を形成したり押したり推したり炎上させて「ネタ」にしうる今の「ニュース」のありようになどついて。
いまはもうフェイクや情報操作はいくらでも起こりうる - ソースが国だろうが新聞だろうがTV局だろうが個人だろうが - という前提を置いて注意深くニュースに接していくしかない。っていうのと、そうなったときに土台になるのは、社会正義とか平和とか人権とか国家とか、それってどういうものか/どうあるべきなのか(これって右左とか両論を置いて云々できる相対的なものではない)についての一人一人の認識とか知恵とかで、これって情報に接する機会とか規制とか頻度の話ではなくて教育というインフラがどうあるべきか、っていうことなんだよね。 にっぽんがもうだめだと思うのはここのベースが既に徹底的に破壊されているから(今のあの国の政治家を、メディアを見てみ)。
といったことを考えるのにとってもよいネタにもなるので、日本でも公開されてほしい。
今日から”The Crown”のシーズン4が始まって、評判もよさそうなので最初の2話くらいを見た。これまでのはだいたい3〜4話くらいで挫折していたので、今回はもうちょっとがんばりたい。
11.15.2020
[film] Love on the Run (1936)
1日、日曜日の昼、Criterion ChannelのJoan Crawford特集で見ました。この特集、どれ見ても楽しいので週1回は通っている。
監督 - W.S. Van Dyke、プロデュース- Joseph L. Mankiewiczによるスクリューボール・コメディ。 邦題は『空駆ける恋』。空はあんま駆けないのだけど。
ロンドンに駐在するアメリカの新聞記者ふたり(それぞれ別の新聞社) - Mike (Clark Gable)とBarney (Franchot Tone)がいて、退屈そうなその日のネタをふたりで分担している。Mikeがその日にロシアの王子と結婚するお金持ちSally (Joan Crawford)の取材に向かったら、彼女がウェディングドレスのまま逃げ出すところにぶつかって、なんだなんだってそのまま彼女についていく。記者であることを隠したまま事情を掘りたくなったMikeは彼女の逃避行を手伝うことにして、逃げる途中でBarneyの取材相手だった男爵夫妻の部屋にあった飛行服を拝借してそのまま飛行場に向かい、飛行機の運転なんてできないかも、と言いながらも飛行機は飛びたち(ありえない)、フランスの田舎になんとか降りたって、そしたら飛び立つときに渡された花束から書類みたいのがでてくる。
実はBarneyが取材していた男爵夫妻はスパイで、花束に隠してあったのは軍事機密だったものだからMikeとSallyを追って、男爵夫妻と突然様子がおかしくなった彼らをネタと思いこんだBarneyが三つ巴で追っかけっこを繰り広げていくの。その途中のフォンテーヌブローの宮殿で亡霊になりすましたりしながら、どたばた道中のなかMikeとSallyは恋に落ちていって、目くらましの取り違えがあったり、MikeとBarneyの特ダネ合戦があったり、詰め込み過ぎてはらはらどきどき、とまでは行かないけど、最後まで楽しく見ることができる。
Joan CrawfordとClark Gableの共演はこれが7回目で、Joan CrawfordとClark GableとFranchot Toneの三角関係は”Dancing Lady” (1933)にもあったけど、いっつもFranchot Toneの方が下げられちゃうのはしょうがないのか。
これ、Runaway brideとそれを追う新聞記者(実は諜報部員)ていう設定にすれば今リメイクしてもおもしろくなると思った。 あ、Tom Cruise & Cameron Diazの”Knight and Day” (2010) - だいすき - ってちょっと近いかな - そうでもないかな? とか。
The Last of Mrs. Cheyney (1937)
8日、日曜日の昼に、同じとこの同じ特集で見たもの。 邦題は『真珠と未亡人』(?)
1925年にロンドンで上演されたFrederick Lonsdaleの同名戯曲が原作。同じ原作で29年と51年にも映画化されている(未見)。
アメリカから英国に向かう客船の上で、英国の金持ち貴族 - Francis Kelton卿 (Frank Morgan)とArthur Dilling卿 (Robert Montgomery)のふたりが Fay Cheyney (Joan Crawford)とぶつかって、未亡人である彼女はロンドンに移住するところだと言うので、遊び人のふたりはそれはそれはぜひお近づきに、ってでれでれして、そういうコネもあったせいかFayは瞬く間にロンドン社交界の華となりArthurのおばのEbley公爵夫人 (Jessie Ralph)にも気に入られ、KeltonとArthurからはそれぞれに求愛されるのになぜかつれないの。
実はFayの家の使用人たちは執事のCharles (William Powell)を中心とした窃盗団で、Fayはそこの鉄砲玉として公爵夫人の家にある真珠のネックレスを狙っているのだった。公爵夫人宅でのディナーの後でいよいよ盗みに.. って取り掛かろうとしたらKeltonとArthurの両方からプロポーズされるわメイドは邪魔に入るは最悪のことばかり起こって..
豪華客船でやわな金持ち貴族を女詐欺師がひっかけてめろめろにして、それを通して貴族社会をおちょくって、でも結局大金じゃなくてハートを手に入れる .. というとBarbara Stanwyckさまの大傑作 - ”The Lady Eve” (1941)があって、この作品は設定をアメリカンの英国貴族社会への殴り込みにしていているせいか、ややテンポが鈍重で面倒なかんじになっているのだが、貴族のぼんが腰の据わった女子にやられちゃうとこは同じで、いい気味なの。 でもこのタイトルだけは一応男社会の機嫌をとってあげるという。
週末はずうーっと雨らしい。もううんざり。
11.14.2020
[film] City Hall (2020)
7日、土曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。Frederick Wisemanの新作。4時間32分。
これを見始めた時点で米国の大統領選の勝者はまだ決まっていなくて(英国で決定の報道が出たのは これを見終わって暫くしたあと)、うううアメリカ.. っていう状態のなかで見た、と。
City Hallといったら市役所。前作の”Monrovia, Indiana” (2018)、その前の“Ex Libris – The New York Public Library” (2017)、更にその前の”In Jackson Heights” (2015)にはアメリカの具体的な地名が入っていたが、今回はそれがない。ボストン市の市長Marty Walshと市の職員やその周りの人達と市民との間の活動を追っているので、”Boston City Hall”としてよいのかもしれないが、そうしていない。そしていつものWisemanドキュメンタリーのように字幕もキャプションも一切ない。インタビューのように被撮影者が撮影者の方に向かって語りかける映像も一切ない。なので最初はここに映っているのがどこの街なのか、ここで喋っているおじさん(その他みんな)が誰なのか、これが何を目的とした集まりなのか、などなど全くわからなくて、それがだんだん、これはボストンなのか、このおじさんが市長なのね、とか見えてくる。Wisemanがそうしているのには全て理由があるのだが、そんなことよかおもしろいんだからまずは見てみ、になるのがいつもの。
市役所がやっていること、で誰もが想像できそうな仕事がほとんど網羅されているかんじなので、4時間を超えるのは当然かも。市のコールセンター (311)でのやりとり、市長と警察のミーティング、予算の説明、市庁舎での簡易結婚式(同性!)、Red Socksのパレード(優勝してたのか↓)の準備、いろんなタスクフォースでのいろんなやりとり、NPOのSenior Actionの活動、Housing Developerの法律家との会議(ボストンの災害の歴史が振り返られる)、建築現場、ホームレス対策、ゴミ収集(マットレスとか家具も食べちゃう清掃車がすごい)、ラティーノコミュニティとの対話、いろんな窓口での対応、ナースの集会、いろんな人々へのケア全般、戦争経験を語る会、大学のセミナー、Food Bankの開所式、考古学のArchival Centerのこと、植物プラント、幹線道路の監視、アニマルケアのシェルター、感謝祭、ホロコーストメモリアル、スーパーマーケットの誘致を巡るコミュニティミーティング、チャイニーズ新年にSt. Patrick Day などなど。2018年から2019年までに起こったことの一部。
例えば、自分がぜんぜん知らない会議やイベントをやっている会議室とか会場に入っていったら、ふつうになんだこれ?になるよね。この映画がやっているのはそういうことで、そういう場面がえんえん続いてもひとつとして「失礼しましたー」にならずに、すうっと議論に入れてテニスや卓球のゲームのようにそのラリーを食い入るように見てしまうのは、全体で数十時間分もそこで撮影したものの中から的確に選んで編集しているからで、個々の現場のおもしろさは勿論、それを切り取って繋ぐ不思議の魔法があるのだと思う。
こういう入り口の入りやすさはあるとして、もういっこはそこで議論されている中味ややりとりそのものが誰もがどこかで覚えのあることだから – どこかの土地(ただし民主主義)で市民とかやったことがあるのであれば – というのもある。これはWisemanのドキュメンタリーに共通していることでもあって、図書館とか美術館とかについてもそうだし、あるコミュニティのいろんなことについてもそうだし。これって我々ひとりひとりが社会とどう関わって暮らしているのか、っていうことの土台とか血管とか骨組みみたいなところ - 役所のパンフレットとかがイラスト図解で「わかりやすく」説明していることをこういうふうなんだよ、って生々しく – もちろん芝居じゃないし - 見せてくれる。これってドキュメンタリーに期待されがちな驚愕の真実!なんかとは全く異なる次元のものなのだが、気が付けばうんうんって1分に3回くらいは頷いている。
今回の映画を見ながら改めて思ったのは、市役所だと、市民に対するサービスを提供する機関です – それはそうなんだけど、ほんとに幅広くいろんなことをやっていて、それってサービスとかそういう枠を軽く超えていて、税金払っているかどうかとか受益者とか、そういうのに関係なくそこに暮らす人達ぜんぶの話を聞けるだけ聞いて彼らに向かってできることをぜんぶやろうとしているみたいで、えらいなー、って。でも社会ってそういうもの、そうあるべきものじゃないのか。
もちろんそういうことをやって予算超過したり赤字にならないかとか働きすぎにならないかとか裏ではあるのかもしれない。けど、やっぱりお役所ってそうやって社会を維持する – そこで生きるひとりひとりを守ったり救ったりするためにある組織であり機構なのだと、ふつうに思って納得して、こんなことでこんなにも腑に落ちて感動してしまうのはやっぱりあれよね… って。
例えばこないだの大阪の件について、自分は大阪に3回のべ10日くらいしか行ったことないのであんま言う資格ないかも、って黙っていたのだが、やっぱしあれってやり方そのものが異常で異様だよね。お役所の仕事って税金の対価としてのサービス提供、みたいな企業の営利追求の考え方でやっちゃいけないことだと思う。ごくふつうに人の道として。でもいまやあの国はそもそもの国がそこの(彼らがいらないと思っている)民を殺しにかかっているから。無知に偏見・無視・遺棄・隠蔽、などなどのオンパレードで。やだやだ。
そしておそらく、(彼はあの笑みを浮かべるだけだろうけど)Wiseman氏がこのタイミングでこういう作品をリリースした理由もこの辺にあったのではないかしら。彼には次にCovid-19対応に奔走する病院組織の奮闘か、今回の選挙の選管とか投票所の様子を撮ってほしい。やらないだろうけど。
自治体の長とか役職ある連中全員に見てほしいけど、たぶん連中はBoston市長の頭の中とかまったく理解できないだろうから、どちらかというと住民と上の板挟みでぐったり苦しんでいるお役所のスタッフの人たちに見てほしい。自分たちの仕事は本来こういうものだったはずだ、って思い出してもらえる気がする。(“Ex Libris”が図書館の人たちに希望を与えた - と信じている - のと同じように)
そして我々が見ると、ある地域に生きる、暮らすっていうのはこういうことか - 選挙でちゃんとした人を選ぶのはだいじなことね、って改めて。
ドキュメンタリー映画のお祭りDOC NYCがバーチャルで始まった。
ロンドンでやる予定だった音楽ドキュメンタリーのお祭り - Doc'n Roll Film Festivalはロックダウンで萎んでしまったので、この週末は(IFC Centerに思いを馳せつつ)DOC NYCをぼーっと見ていくことにした。
11.13.2020
[film] Om det oändliga (2019)
8日、日曜日の午後、Curzon Home Cinemaで見ました。
スウェーデンのRoy Anderssonの新作で、昨年のヴェネツィアでは銀獅子賞を受賞している78分の小品。
タイトルを翻訳にかけると”About the infinite”と出るのだが、英語題は”About Endlessness”で、なるほどこっちの方がしっくりくるかも。邦題は例によって訳がわからない。ついこないだもディケンズのでうんざりしたばかり。はいはい、フィルムを売る側はリスクを背負って買ってきたものに好き勝手なタイトルをつける権利があるのだろうし、マーケットのことを知らない外野が口を出すな、なのだろうが、やっぱり作品に失礼だと思う(何度でもいうよ)。若草物語やディケンズのように明確にクラシックをベースとしているものをぼかすのも、この作品のようにもともと抽象的なタイトルに別の抽象を被せるのもやめてほしい。これって小説や絵画だったらあまりしないよね? なんで映画だと宣伝という名目で慣例みたいにこんなバカバカしいことが延々(誰が許しているんだか知らんが)許されてしまうの?
冒頭、男女のカップルが抱きあって空に浮かんでいる(彼らは終わりの方にも出てくる)。Manoel de Oliveiraの『アンジェリカの微笑み』 (2010)を思い浮かべて、でも彼らは死んでしまった人達なのか、夢の中にいるのか、飛びたったところなのか降りようとしているのか降りられなくなっているのか、ここからEndlessnessの両義性 - 終わらないことに対する絶望と終わらずに続いていることに対する希望 – とその普遍を巡る街角や人々のスケッチが始まる。
大半がセットで撮影されたそうだが、どのスケッチもどこの街なのか、どこの(国の)人々なのかはっきりとはわからないし、人の顔はうっすら白塗りされているように見える。ここで簡単に思い浮かぶのはこの(各エピソードの中心にいる)人達はみんな亡くなっていて – つまりEndlessnessの状態が保証されていて – その地点からEnd. が保証されている世界のことを恨めしや~ ってやっているのかしら? ということなのだが、そんな簡単に線を引いておもしろいものになるとも思えない。時代設定も十字架を担いで歩いていく人とか、どうみてもナチスの人々とか、ばらばらで、ひとつあるのはどの人達もぱっとしなくて疲れていて、歌をうたうようにひとりで何かをひたすら、繰り返し呟いている。
“Endlessness”のことを「地獄」、と言い換えることもできるのかもしれないが、地獄の凄惨なイメージもないの。その手前にいる人達が見ているのは果たして地獄なのか、その少し手前の緩衝地帯のようなところ - 『天国は待ってくれる』(1943) の受付とか – なのか。それを待ったり見たりしている時間もまたEndlessnesに近くて、あと少しでコメディスケッチの方に転びそうな。それはStephen Shoreの写真の世界に現れたEdward Hopperの絵画の世界にいる人々、のような。それかEdvard Munch のシンプルなドローイングがつかまえようとした貌、のような。
この状態が居心地よかろうが悪かろうが、ここで生きていかなければならないのが大部分のひとで、そうである時に、この自分がいる世界の、自分が立っているこの場所の確かさ揺るがなさってどんなものなのだろうか(夢であってくれたらどんなに..)、というのは – だいたいしんどい時に - よく思うことで、そうやって地面を見つめたりするときのかんじがうまく表現されていると思った。どのスケッチもワンカットで、どちらも動けない事態・状態でカメラの場所と撮られる人と見ている人が固まって、そのまま陽が沈んでいく。
動きも映っているものも地味なのでモノクロでもよいのかもしれないが、ここの世界には色がついている必要がある、と思った。
ずっと見ていたいしいくらでも見ていられるかんじなのだが、この状態に浸かってずっと世を眺めるのって、それはそれであんまよくない気がした。そういう気になってしまう、という点での中毒性は高いかんじで、やっぱしすごい映画なのかも。そういえばベルイマンの国の映画..
11.12.2020
[film] The Witches (2020)
6日、金曜日の晩、Skyのケーブルで見れるようになっていたので、見ました。
まだまだ選後の緊張を解くところまではいかないが、これの前の日に見た”Relic”ほど怖くないやつで、とハロウィンから一週間後に。
監督はRobert Zemeckis、原作はRoald Dahlの『魔女がいっぱい』(絵はSir Quentin Blake!)、脚本には監督本人に加えてGuillermo del Toro(元は彼がストップモーションアニメでやりたかった企画らしい)、Kenya Barrisが参加していて、プロデューサーにはGuillermo del ToroにAlfonso Cuarónの名前もある。
舞台は60年代末のアラバマで(もちろん原作とはちがう)、冒頭、Chris Rockがあの軽妙なナレーションで「魔女はいるんだよ!」とか得意そうにやってて、そこからお話しは彼の回想という形で親を失った少年Charlie (Jahzir Bruno)がおばあちゃんのAgatha (Octavia Spencer)の元に引き取られてくるところから。 塞ぎこんでいる彼を慰めるためにおばあちゃんは彼にネズミを与えて、彼は彼女をDaisyと名付けてずっと一緒にいるようになる。
そのうちCharlieがスーパーマーケットで魔女らしき女性を目撃して、それをAgathaに告げるとそれは魔女だ、やつらが来たのじゃ、って言われて、なにかを察知したのか咳が止まらなくなったAgathaはCharlieを連れて豪華なホテルに居を移して、そうすると魔女(と明確にわかるわけではないがどうみても)の集団がホテルに現れて集会の準備を始めて、その親玉がおっかないGrand High Witch (Anne Hathaway)で、子供が嫌で嫌でたまらない魔女はまずそこにいた食いしん坊のガキをネズミに変えて、やがてその手はCharlieにも伸びて、こうして魔女軍団とネズミ3匹 & Agathaの戦いが始まるの。
これ、最初の方のジュークボックスから当時のR&Bが流れてAgathaが踊るあたりは最高だし、女の子がニワトリに変えられてしまうあたりは、これヴードゥーだわ!(del Toroがやっていたらメキシコの呪術モノになったのかしら?)って楽しく盛りあがって、この流れでOctavia Spencer vs. Anne Hathawayなんてすごい! だったのだが、なんかネズミと魔女がやりあうあたりからなんとなく萎んでいった気がした、のはなぜかしら?
なんかAgathaから魔女の仕様や特徴が説明されてて、その通りにGrand High Witchの足先があんなだったり頭が剥げていたり腕があんなふうに伸びていったりすると、その通りすぎるからなんかつまんないのかも、とか。魔女があんなふう(説明の通り)であることがわかって子供たちがネズミになった時点から、互いにそんなに必死になって戦わなくてもいいんじゃないか、ってなってしまうのね。ホテルでみんな楽しく一緒に暮らせばいいのに… とか。 魔女のみんなが膨れてぶしゅーって飛んでいくところは楽しいんだけど。
子供向けのお話しなので怖がるところは諦めるとしても、それでも身体が変形したり壊れたりするところはもうちょっとわわわわ、とかびっくりしたかったかも。Zemeckisの”Death Becomes Her” (1992)での2大女優の「体を張った」陰惨な戦い、あるいは前作の”Welcome to Marwen” (2018) の人形にならなにやったって構うもんか、のふっきれた残忍さがあまり見られない。やはりOctavia Spencer vs. Anne Hathawayを正面に据えるべきだったのではないか。 ミソジニー野郎とか非難されたとしても(実際そうだったとしても)。
「子供嫌いのRoald Dahlと女嫌いのRobert Zemeckis、奇跡のコラボ!」 ←宣伝コピー。
Nicolas Roeg版の“The Witches” (1990)も最近TVでよくやっているので、改めて見て比べてみよう。
11.11.2020
[film] Relic (2020)
5日、木曜日の晩、CurzonのHome Cinemaで見ました。
あの国の選挙で緊張を緩めてはいけないと思って怖そうなのにしてみたら怖くて、更に少し悲しくなった。
オーストラリアのNatalie Erika Jamesの作・監督による彼女の長編デビュー作。プロデューサーにはJake Gyllenhaalの名前があり、エクゼクティブ・プロデューサーにはRusso兄弟の名前もある(なんで?)。
田舎の一軒家にひとりで暮らすEdna (Robyn Nevin)と連絡が取れなくなっている、ということで娘のKay (Emily Mortimer) と孫娘のSam (Bella Heathcote)が車で現地に向かう。家には内側から鍵が掛かっていて、なんとか中に入ると誰もいなくて、家のなかは暗くて、ポストイットのメモがあちこちに貼ってある。 - この時点で十分に怖くて、奥では壁の向こうから変な物音が聞こえたりクローゼットのクリーニングのビニール袋がみしって鳴ったり。
警察にも通報して様子を見ていると数日後、突然Ednaが現れて体に痣のようなものがある以外は自分の誕生日も娘の誕生日も言えるし、問題ないようで、でもやっぱり今後のことが不安なのでケアセンターへの入居の検討を始めて、KayとSamはしばらくEdnaの面倒を見ながらこの家に残されているいろんな写真とか蝋燭とか浴槽とか、隣に住むダウン症の青年の話を聞いたり、夢なのか現実なのか少し離れたところにある掘っ立て小屋とか不気味な仕掛けがいろいろ揃ってくる。
人がいなくてずっと放置されたままの家が怖いのはあたり前だけど、ひとりで住んでいる老人 - アルツハイマーで記憶を - 自分が自分であることを失いかけている人がずっといる家というのも怖い。その人が失いたくないと思っている何かが、或いはその家 - 長年かけてその住人が形作ってきたその家の何かが、自身を保って失われないようにするためにどんなことをしようとするのか? 自分の半分くらいを失いかけている人を動かしているのは一体なんなのか - それはその人といえるのか? そいつはその人を、家をどうしようとするものなのか?
べつになんの新味もない、古典的な人と家にまつわるホラーというよりE.A.ポーが書く怪談に近いようなお話しで、同じオーストラリアの”The Babadook” (2014)にも近いかんじなのだが、Babadookの天井の隅から湧いてきたような何かよりこっちのおばあさんの方が怖い。昭和の日本には「鬼婆」ていう伝統的な枠があったが、Ednaはそういうかんじではなくて、割とそこらにいそうなふつうの老人でSamにはよいおばあちゃんだったのに、でもそういう人が突然壊れてどこかに行って、というのもよくわかるから。
ここに本当に悪いのがいるとしたら、それは時間、かもしれない。時間の経過が果物を腐らせ、壁のシミをつくり、彼女(たち)に老いと不安をもたらす。でもそれはすべてに平等に働くなにかで抗いようがない。
はじめはボケた老人が自分が死んだこともわからずに歩き回っていた、という落語みたいなオチも考えたのだが、そういうのではなくて、終わりはとても切なくて哀しい。そういうことだったのか、って。彼女は探していたのだ - かさぶたのようにごわごわになっていく肌の内側で、その内側にあるものを。大島弓子の『8月に生まれる子供』とかを思いだしたり。
これ、主人公たちが男性だったら? 怖いものにはできたかもしれないけど、監督が描きたかったのはおそらくそれだけではなかったはず。
音楽はBrian ReitzellとサウンドデザインのRobert Mackenzieがものすごく怖くてよい音を出している。
ここ数日、TVが”Avengers: Endgame” (2019)をずっと流しているのだが、あの大統領選の動画の後であのシーンは前のようには見れなくなってしまった。 しかしこの作品、失われた5年間を取り戻す戦い、ってこの大統領選を狙って作られたものではないか、と思ったりする。 最後にでてくるSteve Rogersの姿なんてBidenにそっくりではないか。 あいつらもThanosみたいにぜんぶ粉になってどっかに散ってくれないだろうか。