6.09.2021

[film] Cruella (2021)

6月6日、日曜日の午後、シネマカリテで見ました。 ひさしぶり〜 カリテ。

Disney+のストリーミングで見ることもできるのだが、別途料金がバカ高い(これは英国でもそうだった)し、それなら映画館の方が、と。ディズニーのメジャーなやつなのにTOHOとかのシネコンでやっていない件については、どっちもどっちだ(どっちも酷い)と思うので割とどうでもいい。作品に興味なければこんなの行くもんか。行かなくたって連中の損益計算には響かないように計算済み。ほんとひどいくそったれのどうでもいい話。

わたしはGlenn CloseがCruella DeVilを演じた”101 Dalmatians” (1996) - 脚本はJohn Hughes ! – が大好きでTVで何十回も見ているから。今回の、Glenn CloseがThe Baronessやってもよかったのにな...

母Catherine (Emily Beecham)とふたりで暮らすEstella (Tipper Seifert-Cleveland)は学校では虐められっ子で、でも負けなくて、学校の扱いにあきれた母娘はロンドンで暮らすことにして、その途中でCatherineはThe Baroness (Emma Thompson)の屋敷のパーティに立ち寄るのだが、そこでEstellaはCatherineが誰かと口論の末に崖から突き落とされるのを見てしまう。

そこから10年、時は70年代、ひとりロンドンに渡ったEstella (Emma Stone)は同じく孤児のJasper (Joel Fry)とHorace (Paul Walter Hauser)に拾われて棲み処を共にし窃盗とかしながら逞しく育っていて、ふたりからの誕生日プレゼントで憧れのLiberty(行きたいよう.. 涙)に偽のレジュメで採用されて、ここでも虐められこき使われて散々なのだが、好き勝手に飾りつけたウィンドウディスプレイがやってきたThe Baronessの目にとまって、なんとかデザイナーハウスに雇われることになる。

こうして厳しい修業時代を生き延びながら頭角を現していくEstellaだったが、母の持っていた家宝のネックレスをThe Baronessがしているのに気づき、そこから彼女が母の仇であることがわかると、Estellaは白黒髪のCruellaにトランスフォームしてKings RoadのブティックにいたArtie (John McCrea)と組んで、The Baronessのショーをゲリラ的にジャックしていくようになる。 Cruellaの登場は都度センセーションを巻きおこして、当然おもしろくないThe Baronessは…

Joker的なモンスターキャラの前日譚として見ることもできるし、虐められっこの撥ね返り逆転物語として見ることもできるし、70年代パンクファッション誕生の話として見ることもできるし、でもやっぱり仇討ち(&醜いアヒルの子の成長) - EstellaはいかにしてCruellaになったか - のお話、がはまるのだろうか。 ディズニー的には。

“Mad Max: Fury Road” (2015)を手掛けたJenny Beavanによるコスチュームは見事だし、ファッション好きのみんなは必見だと思うものの、他方で、これがパンクだぜ!ってされて盛りあがることについては、ここに限らずいつだって微妙で、なんかねえ、になる。それがどうした、ではあるし、売れたもんが勝ち、なのだし、我々が最初に触れたパンクだってすでにとっくに業界で練りあげられたものだったわけだし、でもそれでも、そうではない形の残滓としてのパンクがまだ世界のどこかにあることも知っている。そしてこの映画にはEmma Stoneの感動的なやけくその大見得によって、それがかろうじて、奇跡のようにぶちまけられている。気がした。

この映画のファッションとパンクについては、この記事がわりと。
https://www.theguardian.com/film/2021/may/27/disney-cruella-punk-fashion-design

流れてくる音楽は悪くないけど、どこを切ってもちっともパンクじゃないので、そこはもう少しなんとかできなかったのかー、とか。 BlondieとClashとIggy、連中にとってはそんなもんなのよ。

もちろん、ディズニー的な配慮というかジェントリフィケーション(?)はあって、ダルメシアンの皮を剥ぐような話(そこを抜いてどーする)は周到に(or わざと)避けられているし、セックスもドラッグもないし、最後はいつもの家族的な集団の神話に幸せそうに収まってめでたしめでたし、になるの。 そんなの始めからわかっていた - だから見ない、か、それでも見ておく、に行くか。

あの蛹の衣装、ランウェイで羽化するようにすればよかったのに。


京都のピピロッティ・リストに日帰りで行こうかなーと思って、でも現地にたどり着くまでのいろんなのを考えるとそれだけで疲れてしまうのでどうしたものか。 便不便でいうと英国の方がぜったい面倒なはずなのに、ね。へんなの。

6.08.2021

[film] Faisons un rêve (1936)

6月3日、木曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。 あらなんでいきなりSacha Guitry? とか。
英語題は”Let's Make a Dream”、邦題は『夢を見ましょう』。“A Comedy for Three Characters”とでる。
原作はSacha Guitryによる戯曲で、映画と同様、彼自身の主演で舞台で演じられていたもの。

冒頭、民族衣装をきた6人の弦楽隊がぴろぺろぱらぺろれんれろれろれんぱらぱられんぱらりろられりろれらりん♪ みたいなのを絶妙の抑揚と節回しで演奏していて、これだけで楽しすぎて夢の入り口だわ、と思う。 ここからパーティでカードの卓や食事をつまんだりしながら男女の縁とか結婚とか年齢とかについてどうでもよいしょうもないことを喋り続けていて、そのうちダンスの時間になる。カメラが音楽と同じリズムで人から人に渡り続けて気持ちよいったらない。

続いて、The Lover (Sacha Guitry)の家に4:00に、と言われたので、3:45頃にThe Husband (Raimu)とThe Wife (Jacqueline Delubac)のふたりが現れて、時間通りに来たのになんでいないんだ? とかぐだぐだ文句を言って、でもThe Husbandの方は南米の客と会う用事があるから、ってややぎこちなく、The Wifeを置いて出ていってしまう。

ひとりになった彼女がどうしたものかと座っていると奥からThe Loverがいきなり現れて、隠れていたのね? ええだってあなたとお話したかったから、ってものすごいスピードと勢いで彼女を口説きにかかる。ふつうそんなふうに登場した男に一方的に喋りまくられたら引いてしまいそうなものだが、The Loverの怒涛のおしゃべり - セールスの勧誘みたいにも見える - に彼女は笑顔で返すようになって、びっくりしたことに彼女に”I Love You”と言わせてしまう。 ここまでで二人になってから5分くらいしか経っていない。で、彼らは夜9時にもう一度会うことにしてキスするの。 なんだこの勢いは、夢か、って。

で、冒頭の楽隊の音楽が響くなか、ガウンを羽織って、部屋に香水を撒いて召使いに帰ってよろしい、って言って、彼女がこの部屋にやってくるまでの時間経過とタクシーでの行程とタクシーを降りて階段を昇ってきてベルを鳴らすまでをべらべら想像上の実況をして、来た! と思ったら郵便屋でがっかりで、でもめげずにこちら側に向かってひとり延々喋り続ける。でも彼女が現れないので、そうなった場合に起こりうることとか言い訳とかもあれこれ喋って、電話までかけて交換手相手にやりあってなんとかThe Wifeと話し始め - というかやはり一方的にべらべらべら、こりゃどう見たってビョーキの挙動だな、と思っていると彼女は向こう側で受話器を捨てちゃってて、あーあ、と思っているとThe Loverの家のドアが開いて受話器に喋り続ける彼に彼女はそうっと寄ってキスをする。

ここまで - The LoverがThe Wifeを落っことすところまでと、The WifeがThe Loverのところに現れるまでの(ほぼ)一人芝居が「夢」の醍醐味で、ひとりスクリューボールコメディとしか言いようのない怒涛の勢いがすごくて、この後、ふたりが翌朝8;00に目覚めてThe Husbandも含めた現実をどうするか、結婚するしかないよ - “Let’s Dream!”  というThe Loverと、じゃああたしの結婚はなんだったの? とThe Wifeが聞くと、オリジナルじゃなかった、夫を替えるだけのことさ、ってふたりの結婚生活をシミュレーションしようとしたら、The Husbandがドアを叩いてくる。 The Loverはピストルを手にして..

ひとつの部屋で、午後と晩と翌朝の3場面で見事に展開される夢のすばらしいこと。「夢を見せてやる」じゃなくて「夢を見ましょう」になっているところが素敵な85年前の魔法。ちっとも古くない。 舞台で見たらすごかっただろうなー。
関係ないけど、Sacha Guitryがこのテンションで、お芝居 - ”The Judas Kiss”のOscar Wildeを演じるのを見たい。


会社の帰りにはじめてGINZA SIXっていうとこに寄った。なーんて下品でつまんない施設でしょう、て思った。
あそこの本屋を見たかったのだが、やっぱりわたしはあの本屋、だめだわ。代官山のもそうだけど。
ぜんぜん掘っていく気になれない。だいたいさー、めくることも開くこともできない本を「ヴィンテージ」とかラベル貼って偉そうに並べて、本の世界をばかにしてるわ。読まれる前の本なんてただの紙束だよ。古本、でいいじゃんか。

6.07.2021

[film] Chocolat (1988)

5月30日、日曜日の晩、MUBIで見ました。昼間に見た”U.S. Go Home” (1994)に続けてClaire Denis作品を。これが彼女の長編デビュー作で、アフリカで過ごした彼女の幼年時代を描いた作品。

フランス領だったカメルーンに若い女性 - France (Mireille Perrier)が降りたって、アフリカン・アメリカンのWilliam J. Park (Emmet Judson Williamson)の車に拾われて移動していくうち、Franceの脳裏に50年代末、ここで過ごした子供の頃のことが蘇ってくる。

幼いFrance (Cécile Ducasse)は、この土地の官吏である父 Marc(François Cluzet)と母 Aimée (Giulia Boschi)と一緒に原野の一軒家で大勢の召使いに囲まれて暮らしていて、召使いのひとりProtée (Isaach de Bankolé)は万能で優秀で、みんなのお気に入りで、Franceにもいろんなことを教えてくれる。のんびり平和な日々を過ごしていたのに、ある日家の近くにプロペラ機が不時着して、それに乗っていた白人たちが家にやってきて飛行機が修理されるまで同じ屋根の下に滞在することになると、彼らが抱えて持ち込んだ鬱憤や野卑が家族 - 特に召使いと家族との間に - 緊張をもたらすことになる。

不時着民はみんな白人で、それぞれに(彼らにとって)大事な仕事を抱えていてそれが中断されたこと、さらに修復までに時間が掛かってしまうことに苛立っていて、その苛立ちはホストであるFranceたち家族にではなく、現地民である召使いたち - 特に黙々と仕事をこなすProtéeにその矛先は向けられて、はじめは相手にしなかったProtéeもAiméeとのことを揶揄されると我慢できなくなって..

それがどうでもいいようなでっちあげであれば、そんなに大ごとにはならなかったのかも知れないが、外部からの淫らな目線によって掻き立てられてしまった何かがはっきりと露わになって、Protéeはクビになってしまう。それがなんでなのか、幼いFranceには十分理解できないのだが、大人になったFranceには運転手Williamとの会話を通してわかるようになっている。

植民地下、そこを管轄する管理官の家に初めからあった主従関係をはじめとするいろんな境界 - 植民者と被植民者、白(フランス)人と黒(アフリカ)人、男性と女性 - 等が維持しつつ補強していた目にみえない、でも誰もが認識していたに違いない現地民への差別意識が、外部の闖入者たちによって表に暴かれ、でも解消されることもなく日常は維持され - 結果として差別も温存される。でもどうすることもできなかったし、Protéeのことは好きだったし、でもそういう表明もまた差別 / 被差別の状態をそのまま補強する力にしかならない - 熱い鉄パイプを握りしめるしかないProtéeの行き場のない苛立ち。 Franceの父が地平線の比喩で説明する遠くにはっきりと見えているものの、近寄れば近寄るほど実体なく遠ざかってしまうなにか。

“Chocolat”っていうのは50年代のあの土地のスラングで「騙される」という意味で、アフリカ人の肌の色とその色が暗示する甘さ、等々が包まれている、と。時間が経ってみるとほんのり苦さが際立ったり甘さが耐え難かったり。差別そのもの、その実態を描くというよりも、いつまでも消えない鉄パイプを握った瞬間の掌に走った痛み、その跡を見つめる、というか。

そしてこれらの境界線や分断を観念的な会話劇のなかではなく、異国の乾いた風景とむきっとした筋肉の弛緩と暴発(怒り)のなかに鮮やかに描きだすClaire Denisはすでに十分Claire Denisなのだった。これを踏まえてもう一度、”White Material” (2009)を見直してみたい。


低気圧も湿気もひどいが、いまだに消えない時差ボケも相当にひどい。リモートで仕事していると空いた時間に寝ちゃうからだ、と無理して(よくないことだけど)通勤してみたりするのだが、帰宅した途端に気を失うように寝てしまったりする。そうすると朝の4時5時に目が開く、の繰り返し。 どこまでこの状態を維持できるのかやってみてもいいかも。

6.06.2021

[film] U.S. Go Home (1994)

5月30日、日曜日の昼、YouTubeで見ました。

フランスのTVシリーズ - “Tous les garçons et les filles de leur âge…” - “All the Boys and Girls of Their Time”用に作られたClaire Denisによる58分の中編。  このTVシリーズ、全部で9話あって、他の監督にはAndré Téchinéとか、Chantal Akermanとか、Olivier Assayasとか、Patricia Mazuyとか、Cédric Kahnとか、なかなかすごい。ぜんぶ見たい。制作にはTV会社の他にフランスのSONYが入って、自分の青春時代をテーマにしたものを、予算は約$100万、Super16mmでの撮影、などなど。

米国では1995年にMoMAで一度上映されて、2019年にBAMでのClaire Denisの回顧上映 - “Strange Desire”で再上映されて、英国では同じく2019年のBFIでの彼女の回顧上映 - “The Original Sin of Claire Denis”でも上映されたのだが、この時はー行けなかったのよね。  脚本には、Claire Denisともうひとり、Anne Wiazemskyの名前がある。撮影はAgnès Godard。

パリ近郊のアメリカ人駐屯基地 - “The Story of a Three-Day Pass” (1968)の主人公がいたとこ? - の近くに家族と暮らす15歳のMartine (Alice Houri)がいて、兄のAlain (Grégoire Colin)がいて、どちらも日々つまんなくてうだうだしていて、親友のMarlène (Jessica Tharaud)とお金持ちが自宅でやる夜通しのパーティに行こう、そこでバージンを捨てたい、とか言ってて、でもそこにはAlainも来るらしい。

金持ちでいっぱいのハイソなやつだから、と精一杯めかしこんで、でもお金も車もないのでヒッチハイクしてなんとかお屋敷にたどり着いて、恐る恐る中に入ると、音楽 - AnimalsとかYardbirdsとかSam CookeとかOtis Reddingとかのごりごりめのやつ、でも当時の最先端だったのだろう - ががんがんに流れていて、人はいそうだけどあちこちで固まっていてほぼ誰も相手にしてくれない。立ち尽くしているうちにMarlèneはタバコの火を貰いながらうまく誰かといなくなり、残されたMartineも同じ手でやってみようとしても引っかかるのはしょうもないのばかりなので、あーあ、って途方に暮れていると、奥でおなじ顔をしているAlainと目が合ってしまったり。

少し逸れるけどここの、パーティにどうやって溶けこんで、溶けこまないまでも居心地わるいかんじを表に出さないようにしていられるのか、って未だに自分にとっては苦手の難所で、いまのとこの最適解は、抜けられそうだったら一刻も早く抜ける、言い訳を思いつくのだったら可能な限り行かない、のこれだけ。でも子供の頃はこういうのは学校みたいに馴染まないとだめ、って思いこんでしまうので、きついかも。 家の暗がりと傍若無人に鳴り響く音楽と嫌な感じしかしない男たちの連なり、それらに直面したMartineの表情にある硬さと困惑はこの辺の事情をくっきりと、それこそ悪夢のようなだんだらで映しだす。

もうこりゃ無理だ、と外に出たMartineにAlainが付いてきて一緒に家に帰るか、ってなって、外に置かれた車の中にいた米兵のBrown (Vincent Gallo)に声をかけて、Alainは嫌がるのだが乗せていってもらうことにする。Brownとの片言英語での会話もぎこちないのだが、半分やけくそのMartineはこのアメリカ野郎くらいは自分でなんとかしないと、って執拗に上に乗っかろうとして、そのうちAlainはあきれて車を降りて..  

セックスや肉体に対する妄想に近い思い込みがまっすぐに対象を射抜くのではなく緩やかなカーブを描いて自分のとこに戻ってきて、思いも寄らずに突然手元で暴発して、でも最後には”U.S. Go Home” って吹っ切ってしまうしなやかさと強さ。この辺はClaire Denisかも。通過儀礼的ななにか、と呼ぶにはあまりに生々しく、居心地悪くいまだに燻っているあれらの。

AlainとMartineの兄妹はこの後、“Nénette et Boni” (1996)のふたりに - 不仲模様もそのままに移行する(ついでにVincent Galloも)。ふたりの諍いはこの頃からあって、ひょっとしてNénetteの妊娠はこの映画のあれだったのでは..  とか。

自分の青春時代を、というテーマでこういう小品を作ってしまうClaire Denis、えらいなー。


外に出られるようになって最初の土日。土曜日は神保町に行って、日曜日は新宿で映画を見たりしたのだが、低気圧と人出でくらくらになって、戻ってきてばたんきゅーでしんだ。この時期の日本の湿気が殺人的であることを思い出した。しかもまだ梅雨入りしていないよね? これからこういうのが二ヶ月くらい続くんだよね(泣)...  

6.04.2021

[film] Old Joy (2006)

5月29日、土曜日の晩、英国のMUBIで見ました。

”First Cow” (2019)の劇場公開記念ということでKelly Reichardtのこの作品だけ。確かに原作は同じJonathan Raymondだし、どちらもオレゴンの森の奥を舞台にした男ふたりのお話、ではある。Kelly Reichardt作品のうち、これだけは未見だった。

妻とふたりで暮らすMark (Daniel London) – 彼女との間にほんのりテンションある - のところにKurt (Will Oldham)が電話をかけてきて、よさそうな温泉を見つけたから一緒に行かないか、と能天気に誘ってくる。妊娠中の妻がよい顔をしないのは見えているのだが、父親になったらこういうこともできないだろうし – とは言わずに黙って犬のLucy(あのLucy)を連れて車を出して、Kurtを拾って森の奥の温泉を目指す。それはふたりにとっては、昔からずっと繰り返してきた”Old Joy”のひとつで。

KurtはReichardt作品におけるWill Oldhamの役割を忠実にこなしていて、つまり、べらべら(本人以外の人にとっては)どうでもよいことをどうでもよくないような表情と聞き流しに最適の抑揚で喋り続ける(あれって芸の域)のでそれを撮っているカメラ自身が飽きてきてどうしようになる - そんな位置にあって、山道を歩くMarkは慣れたもので適当に相手をしながら自分自身の思考の糸を辿っていく – つまりほぼ相手にしないので、どこまでも盛りあがったり口論になったりすることもない。そんなふたり&Lucyが森の奥に行ったらどうなるのか。 - もちろん期待通りどうにもならない。

山道を延々歩いて温泉に着いて服を脱いで、隔てられた浴槽に別々に横になって、カメラの位置は手前にMark、奥にKurtで、会話の切り返しもないので、お湯に浸かってぼうっとした湯気の向こうから声が聞こえてきて気持ちいいなー、程度なのだが、Kurtがマッサージをしてやろう、ってMarkのところにきて、彼の体に触る。ここの瞬間だけ、予感されていたところではあるが肉のかんじが突然露わになってざわっとなる。この辺、Claire Denisの映画での男性のマッシヴな肉の描きかたと比べてみたくなる。

でもここもマッサージした/してもらった、というだけの話で、ふたりとLucyは家路について、薄暗い道路脇、アパートの手前でKurtを降ろす。あの後、Kurtはどんなふうに扉を開けて、自分の部屋に入ったのだろう、何か食べたのかしら? あの後、Markは妻とどんな表情で、どんな会話をしたのかしなかったのか。 Lucyは?とか。”First Cow”のふたりもそうだったけど、カメラがオフになって離れたその瞬間、その向こうで主人公たちはどんな表情を浮かべたのか、どこに目を向けたのか、どんな生を送っていったのか、Kelly Reichardt作品が抱えるどうにも切ないかんじ、ってこの辺なのかも。手から放れる – とまる – でも続いていく、このとめどない繰り返しのなかにあるひとりひとりの生の。

ふたりの男の間の距離のありよう - 親密な/疎遠な - を描くのではなく、そもそもが隔たってあるふたり(誰だってそうなの)が緑の山道を歩いていく、同じパスを渡っていくその不思議な影の連なりとか背中を追っていく、それだけでそこになにがあるんだろう? ってなるの。Kelly Reichardtの作品の根っこにはいつもこの問いがあるような。

こういうドラマのありように寄り添う、なにかが生起する予感をはらみつつ淡々とリズムとメロを刻んでいくYo La Tengoの音楽(ギターにSmokey Hormel)のすばらしいこと。この時期のYo La Tengoって他のフィルム用にもいろいろ作っていて、その観点からも興味深い。

もういっこ、Jonathan Raymondの原作はどんななのか、は読んでみないことにはわからないのだが、押さえておく必要があるだろう。特に彼自身が脚本(Reichardtとの共同)を書いている”First Cow”との対比において、どうなのか。なかでも、あの映画における牛とはなんだったのか、って。日本公開されたところで、もう一回みて、書いてみたいところ。

Jonathan Raymondの原作本に写真を寄せているのは、かのJustine Kurland氏で、結構な値段がついているのだが、欲しくなってきた。


今日マチ子さんの『Distance』を買ってきて開いてじーんとしている。2020年4月から1年間の、1日1枚の絵日記。 ロンドンもこんなふうだったの。なんでこんなになっちゃったんだろう、って人の消えた路地や川べりや家屋や窓を見つめすぎると、そこに幽霊や妖怪やあってはいけないもの、いてほしい人が現れたり浮かんできたりした。それは必ずしも自分にとっての、だけじゃない気がした。みんなが不安に揺れながら想像の淵に立って、風景に向かって祈るしかなかった、そんな日々の記録。まだ生々しくて、少しだけ痛かったり。

6.02.2021

[film] Her Man (1930)

5月29日、土曜日の昼、Samuel R. DelanyのCarte Blancheをやっている(あーん、ほぼ見逃してる)MoMAで見ました。2015年に失われていたネガが発見されてデジタル修復されて、2017年にBFIで上映された時、当時結構話題になったやつをようやく。 日本では公開されていない?

オープニング・クレジットの文字が浜辺の砂に書かれていて、それを波がさらってめくっていくお洒落。
アメリカの港に着いた船からAnnie (Marjorie Rambeau)が降りてくると警察が寄ってきて、逮捕されたくなかったら船に戻って元きたところに帰れ、って脅すので、彼女はしぶしぶ船に戻る。

戻った船では、Annieのくるりと翻る足元だけをカメラは追って、その足先がどこかの港に着くと彼女は船から降りて、すたすた歩いていく。この彼女を追っていくショットのえんえん続く長回しがびっくりで、いろんな声が彼女に声をかけてきて、それがスペイン語なので、ここはメキシコかキューバか(ハバナだった)、中華街を通り抜けて更に怪しげな界隈にやってくると、怪しげな酒場の扉をくぐる。 ここまでですごいため息。”Touch of Evil” (1958)のオープニング並みの驚嘆。

そこは怪しげな人たちばかりがたむろする酒場&売春宿で、ここで真ん中の女性はAnnieからFrankie (Helen Twelvetrees)に替わって、ひとりぱりっとしたスーツを着て笑わないやくざのJohnnie (Ricardo Cortez)に酒場ごと囲われてて、Frankieが客を引っ掛けてバーに合図すると、酒のグラスと水のグラスが運ばれてきて、カモの客を酔わせてぐでんぐでんにしてお金を抜く、やばくなったらJohnnieがナイフを投げてさようなら、を繰り返している。 Frankieはあーあ、って思いつつも他にどこにも行けないのでそういう暮らしをしてて、Annieはそんな彼女を酒場の隅で見ている。

ある日、肩出しルックの船員のDan (Phillips Holmes)がやってきて、彼の歌う姿にぽーっとなったFrankieは、いつものようにスリをやろうにもできなくて、Danは彼女のことが好きになって、僕と一緒にここから脱けだそう、って誘うのだが、当然Johnnieは黙っちゃいなくて…

というメインのストーリーとは別に、とても演技とは思えないようなめちゃくちゃぶっとんでらりらりした連中がうろうろしていて目が離せない。ぐでんぐでん状態でスロットマシンに絶対当たらない男と絶対に当たっちゃう男のコンビとか、帽子を被っている奴を見るとひたすらぶんなぐる奴とか、どいつもこいつも目が遠くを見ててとても演技しているとは思えない連中ばかりで、プレ・コードがやばい、検閲しないと、っていうのはこれを見れば即座にわかる気がする。酔っ払いばんざい。

で、最後はこいつらはぐれもの全員を巻き込んだ大乱闘 - より正確にはDan vs. Johnnie & 酔っ払いぜんぶ、で、そのスピードと腕のぶんまわしの凄さときたら”Come and Get It” (1936)の乱闘シーンを上回ってあんぐりしかない。 Frankieを自分のものにするため、っていうより、ぜったいただの喧嘩大好き、でぶちかましてるだろあんた、っていう怒涛の勢いなの。こんなの見たら大乱闘の大喧嘩したくなってもおかしくないかも(だからプレ・コードは)。

そうやって一応、最後はめでたしめでたし、になるのだがでもFrankieは本当にぜんぶ捨ててDanについていっちゃってよいのか、とか、そこに残るAnnieは..  とか、そういう余韻もあってよいの。今から約90年前のハバナにはこんな連中がいたんだなー、とか。


ほぼ1年2ヶ月ぶりにまる1日会社にいる(じゃない、仕事する)、をやった。こんなにも疲れるとは、こんなのを毎日毎日ずうっと続けていたとは。これじゃいろいろうんざりしちゃうわけだわ。

6.01.2021

[film] Minnie and Moskowitz (1971)

5月28日、金曜日の晩、Criterion Channelの特集 - “Gena Rowlands: An Actor’s Actor”で見ました。
そしていま、6月になったので、ここではCarole Lombardさまの特集が始まっている。

Seymour Moskowitz (Seymour Cassel)はもうもうのムスタッシュとポニーテールの髪を束ねて陽気に豪快に笑って喋って、匂ってきそうなかんじで街をうろついても周りに寄ってくるのは同様のむさくて狂った剛毛野郎ばかりで、仕事はパーキングの駐車係をしていて、それが好きでやっているというよりは他にできることがなくて、でも自分にはなんだってできると思い込んでいるから見栄きって勇んでLAにやってくるのだが、いつもと同じように小競り合いを起こしてばかりでなかなかしょうもない。

Minnie Moore (Gena Rowlands)は美術館 - The Los Angeles County Museum - LACMAだー - でキュレーターをしている独身で、同僚と映画館でHumphrey Bogartのクラシックを見てぼーっとなって、でもそうやってうっとりして帰ると、つきあっている不倫相手でもう別れたはずのJohn Cassavetesが家にいて絡んでくるのでもういい加減にして、になって泣いていたり。

そんな駐車場以外には交わるところがなさそうなふたりが巻き込まれ喧嘩のまんなかで出会って、出会うというよりSeymourが彼女だ - 彼女しかいないって興奮して、Lauren Bacallみたいだ、って突っ込んだりしたのでMinnieはついぼうっとなって、いやでもやっぱりそれぞれの境遇とか違いすぎるし無理だし、って押し戻して、そういうことを繰り返しながら結婚へとなだれこんでいくロマンチック・コメディであり、ふたりのぶあつい境遇の違いを考えるとスクリューボール・コメディなのかもしれない、けど、笑えたり爽快になったりするようなところはあまりない。家族が集うとこはおもしろいけど。

全体として迫ってくるのはやって来てほしくない夜の闇であり、ぶつかったりぶつかられたりの暴力と怒りに満ちた生(なま)の世界であり、そのなかをちっとも演技をしているようには見えない生身の俳優たちがこんなの好きになっちゃったんだからしょうがないじゃないかどうしろっていうのか、って震えながらこっちに向かってくる。そのアクの強さにこんなふうに始まる恋もある.. よね.. にならざるを得ない。何回見てもこんなことがあってよいのか、って震えるのだが、ここにこうしてあるのだから黙って見てろ、目を逸らすな、と映画の世界の人々はいう。

ここでこんなふうに描かれた愛の誕生は、続く”A Woman Under the Influence” (1974)でその瓦解を経験し、続く”Opening Night” (1977)でその復活と再生を、最後の”Love Streams” (1984)で、愛ってやつはなにがあろうととめどなく流れていくのだ、って断言する。それは、その中心にいるJohn CassavetesとGena Rowlandsのふたりが断言している、というより、愛そのものがそこで語っているような、そういう錯視と盲信の世界に我々を導く。 で、なんども言うようにそれはロマンチックでドリーミーななんかではなくて、常に死と隣り合わせの暴力と諦めのなかにある過酷なしんどいやつで、なのに目を離すことができない。なんでだろう? っていつも思うの。思うのだが、John CassavetesとGena Rowlandsのふたりを見るとこんなのしょうがないどうしようもないわ、ってなる。

これもAnti-romcomだし、”Punch-Drunk Love” (2002)がやりたかったのもこれなんだろうな、って。

このタイトル、Minnieがファーストネームで、Moskowitzがラストネームなのはなんでだろう? っていつも思う。 結婚の話だから?

Cassavetes夫妻のそれぞれの実のママが出てきたり、ふたりの娘のZoeがまだ赤ん坊だったり、ちゃっかりCassavetes家のファミリーアルバムになっている変な作品でもある。それにしたって、なんて家だろうね。


とにかく会社に出勤した。もう二度と行きたくない、とか言えないストレスと辛さ。
あまりに辛いので、帰りの本屋で『Mornington Crescent Tokyoの英国菓子』を買ってきた。あのMaids of Honourの作り方が出ている。 クリームチーズなの?  という衝撃..  恋しいよう。