15日、土曜日の夕方、Stormぼうぼうの中、BFIのFellini特集で見ました。
英語題は”Juliet of the Spirits”、邦題は『魂のジュリエッタ』。
中年に差し掛かったGiulietta (Giulietta Masina)にはパブリシストでかっこいい夫のGiorgio (Mario Pisu)がいて、パラサイトされそうなぱりっとした邸宅に暮らしていて、数名のメイドを抱える裕福な暮らしをしているのだが、冒頭の結婚15周年記念パーティとか、親戚も含めた来客が常に溢れていざわざわしていて、そこにやってくるのは見るからに怪しそうな(偏見です)男女ばかりで、降霊術とかチャネリングとかやっていて、Giuliettaも誘われるままに手を繋いで、バカバカしいわと思いつつも無視できず気になってどうしたものか。
他方で仕事が忙しそうで朝早くに出て行って夜遅くに帰宅するGiorgioには彼の寝言から浮気疑惑が持ちあがり、覚悟を決めて探偵事務所に調査を依頼してみればその結果は..
あとは近所に住むかっこいいSuzy (Sandra Milo)のこととか、今の自分のこと、これからの自分のこと、置いて行かれて誰からも相手にされなくなるのではないか不安とかをどうにかすべくいろんなとこにすがろうとしてもどれもいんちきぽくてどうしよう .. という典型的なミドルエイジ・クライシスの諸相をコントラストの強い色彩(初めてのカラー作品なのね)にインテリア雑誌のインテリア、臭気ぷんぷんの登場人物たちを絡めて描いている、ように見えて『甘い生活』のMarcello (Marcello Mastroianni)の彷徨いと同じようなのを、彼にほうって置かれた女性の側から映しだしているのかなあ、ともとれたり。
でもなんか、Marcelloがどこまでもフィジカルな方に涎たらしてやらしく寄っていくのに対してGiuliettaはスピリチュアル – しかも、どう見てもやばい系 – ってなんかねえ、とは思った。だってそんなふうなんだと思うよ、って言われてしまえばそれまでだけど、でもぜったいそんなふうに「あってほしい」、も入っているよね、とか。いやだからそういう集団的無意識が.. とか向こうもなかなかしぶとくて。
自身の抱える存在の希薄さ不確かさを周囲に現れる変なひと(たち)、変な街、夢のような出来事などに溶かしこんで、安心させるのか不安を煽るのか - そこに存在することそのものの危うさとか病(のようなもの)を上空から映し出すのがFellini映画のでっかいテーマとしてあるのであれば、そこに階層やジェンダーといった要素が反映されるは当然なのだと思うけど、あえてcontroversialななにかをぶちこむ、ってやらないのかな。Luis Buñuelなんかはよろこんでやっているように想えるのだけど。
そうはいっても、Giuliettaを真ん中に据えたこの世界が結末も含めてその不安定さをうまく丸めこんだ収まりのよいきれいな物語を作っていることは確かで、いやだからそれこそがー、っていうのもわかるけど、55年前に作られたカラー映画としてはよいのではないかしら。猫もでてくるし。
2.19.2020
[film] Amarcord (1973)
9日、日曜日の晩にBFIのFellini特集で見ました。この特集もがんばって見ないと、ってできる限り追っているのだが、彼の映画ってだいたいどれも軽く2時間を超えてて、ぼーっと眺められるようなもんでもないから、なかなか大変なの。 軽くピッツアとかパスタ、って思っていてもその後に当然のように大皿のメインがやって来るの。食べるよね? こんなの食べてあたりまえでしょ、みたいに。
ここまでに上映された特集の作品はだいたい4Kリストアデジタルなのに、この作品だけ何故か35mmでの上映だった。柔らかくふやけて滲んだような色みがとてもよいかんじだった。
Felliniが子供の頃に見たり経験したりした出来事、半径数10メートルの周りにいた人々を四季に沿って網羅して並べていくだけ、と言えばそれだけで、それも解説を読むとそう書いてあるから、というだけだしその男の子の語りが入ったりするわけでもない、そもそもそれらしいそいつが主人公であるかどうかはよくわからないし、主人公ぽい人物を軸にストーリーのようなものが展開していくわけでもないのだが、それでもいいって。知らない宇宙の話ではなさそう。
冒頭の、なにかの綿毛がぼうぼうに散って舞ってもうじき春だよ、っていうところから始まって、ファシストがやって来たり、でっかい船が来たり、椅子を高く積みあげて燃やしたり、いろんな女性がいっぱいいて、バイクに跨ってすっとんでいくのとか怪しい男もいっぱいいて、どれもこれも我々の子供の頃の記憶にすとんとはまるような大きさとか柔らかさで親しげにやってくる。 なんのために? これらの記憶って(夢、でも)なんのために我々の頭の奥に居座って、日々の行動になにを仕掛けようとしているのだろうか。
こんなの答えがあるわけないってわかった上で、Felliniはそれは具体的にはこんなふうなスペクタクルだったり、あんなふうな痴話喧嘩だったり、なんだったんだ… ていう脱力だったり、ていうのを自在に組みあげてミックスして、例えばこれって(「これ」ってなんだよ、と頭のなかは言う)こんなふうじゃなかった? とかマジシャンみたいにひょいひょい出してくる。 小説を読んでいると割と起こるようなことがFelliniの映画でも起こって、それって映画だから当たり前かもだけど具体的な色とか表情とかお天気とかを伴ってやってくるからすごいな、って。 そうやって構築された世界の確かさとか変てこさに触れてしまうと抜け出せなくなってしまうかんじもわかる。プルーストのコンブレーやフォークナーのヨクナパトーファ、それらの土とか水とかと繋がっている、のかな。
こういうのって、たぶん今の世の中でいちばん必要とされていない、役に立たないとされてしまうに違いない情景(.. 情報としてはゼロ。ニル。)で、であればかえって全面的に肯定したくなるし、映画館でスマホをいじりだす若者を縛りつけて、とにかく見ろ、とか。
あと、これを見てしまうと”Jojo Rabbit”なんて、よくもわるくもファストフードだよね、とか。
ここまでに上映された特集の作品はだいたい4Kリストアデジタルなのに、この作品だけ何故か35mmでの上映だった。柔らかくふやけて滲んだような色みがとてもよいかんじだった。
Felliniが子供の頃に見たり経験したりした出来事、半径数10メートルの周りにいた人々を四季に沿って網羅して並べていくだけ、と言えばそれだけで、それも解説を読むとそう書いてあるから、というだけだしその男の子の語りが入ったりするわけでもない、そもそもそれらしいそいつが主人公であるかどうかはよくわからないし、主人公ぽい人物を軸にストーリーのようなものが展開していくわけでもないのだが、それでもいいって。知らない宇宙の話ではなさそう。
冒頭の、なにかの綿毛がぼうぼうに散って舞ってもうじき春だよ、っていうところから始まって、ファシストがやって来たり、でっかい船が来たり、椅子を高く積みあげて燃やしたり、いろんな女性がいっぱいいて、バイクに跨ってすっとんでいくのとか怪しい男もいっぱいいて、どれもこれも我々の子供の頃の記憶にすとんとはまるような大きさとか柔らかさで親しげにやってくる。 なんのために? これらの記憶って(夢、でも)なんのために我々の頭の奥に居座って、日々の行動になにを仕掛けようとしているのだろうか。
こんなの答えがあるわけないってわかった上で、Felliniはそれは具体的にはこんなふうなスペクタクルだったり、あんなふうな痴話喧嘩だったり、なんだったんだ… ていう脱力だったり、ていうのを自在に組みあげてミックスして、例えばこれって(「これ」ってなんだよ、と頭のなかは言う)こんなふうじゃなかった? とかマジシャンみたいにひょいひょい出してくる。 小説を読んでいると割と起こるようなことがFelliniの映画でも起こって、それって映画だから当たり前かもだけど具体的な色とか表情とかお天気とかを伴ってやってくるからすごいな、って。 そうやって構築された世界の確かさとか変てこさに触れてしまうと抜け出せなくなってしまうかんじもわかる。プルーストのコンブレーやフォークナーのヨクナパトーファ、それらの土とか水とかと繋がっている、のかな。
こういうのって、たぶん今の世の中でいちばん必要とされていない、役に立たないとされてしまうに違いない情景(.. 情報としてはゼロ。ニル。)で、であればかえって全面的に肯定したくなるし、映画館でスマホをいじりだす若者を縛りつけて、とにかく見ろ、とか。
あと、これを見てしまうと”Jojo Rabbit”なんて、よくもわるくもファストフードだよね、とか。
2.18.2020
[dance] Tanztheater Wuppertal Pina Bausch: Bluebeard. While Listening to a Tape Recording of Béla Bartók’s “Duke Bluebeard’s Castle”
14日、金曜日の晩、Saddler’s Wellで見ました。
Pina Bauschが亡くなってもう10年過ぎているのかー、としみじみしつつ彼女が亡くなってから初めてTanztheater Wuppertalの公演に行った。90年代、ほぼ年次で彼女の新作公演を見ることができた(BrooklynのNext Wave Festival)ので、 彼女のように”Tanztheater”という様式を通して世界のありようを丸ごと見せてくれるのって(あってよさそうなのに)なくなっちゃったよねえ、って改めて。
初演は1977年、英国では今回が初演になるという4日間公演の3日め。 どうでもよいことだが、スチール写真がずっとモノクロだったので、モノクロで展開される世界をイメージしていた(当然そんなことはなかった)。
タイトルをそのまま訳すと『バルトークの「青ひげ公の城」のテープを聴きながら青ひげは.. 』。
舞台上には大量の枯葉が一面に敷き詰められていて、動けばかさかさ音がするし動きが激しくなる後半は捲きあげられた枯葉のよい香りがふわーっと漂う。 そこにBluebeard (Christopher Tandy)と妻のJudith (Silvia Farias Heredia)がいて、Judithは床に仰向けに固まって転がっていて、Bluebeardはテープコンソール台(天井から伸縮する紐で結ばれていて可動)からバルトークの「青ひげ公の城」(1911)を流し、それに合わせるように床のJudithに被さって一緒にずるずる這いずり(彼女の髪の毛は枯葉まみれ)、音楽のある箇所まで来ると慌てて戻って同じ箇所をリピートして同じ動作を繰り返す。このテープオペレータ(DJ?)としてのBluebeardの挙動は最後まで貫かれて、この一幕ものオペラが彼のテーマであり行進曲でありこの世界を統御するために必要な規範のようななにかなのだ、ということがわかる。
一組みの夫婦による一通りの修羅場、加虐 - 被虐の構図が描かれるなか、舞台の後方にゾンビみたいに変な恰好で固まった男女がゆっくりと一列になって侵入してくる。この辺、きたきたきた.. ってかんじでたまんない。で、そこから先、彼ら - 召使なのか幽閉されていた連中なのかが脱いだり脱がされたり、ムキムキを誇示したり絶叫したり抱きあったり、男女間の、あるいは労使間の典型的かつバカバカしい乱痴気騒ぎがところどころランダムに、全体としては整然と指揮され - テープコンソールは舞台上を行ったり来たりして、狂ったDJが催すパーティのようでもあるのだが、そんな宴もいつの間にか終わって、なにかがすっきりしたのか、これからも同じことが繰り返されるのか。
この辺の世界に対する冷めた目線 - 世界(そんなに広くない)には虐める側と虐められる側があって、でもどいつもこいつも変態ばっかしでしょうもなくて、であるが故に脆弱で転覆可能ななにかかも、ていうのと、そこにおいて美とか醜とか妖艶さとかってどんな意味を持ちうるのか、というのがマスの動きとパーソナルな呻きや叫びや悶絶の交錯のなかで描かれる。 それは社会のドラマでありながら個人のドラマの方に転覆しうるなにかとして、それを見つめる客席の方にまで繋がり、拡がってくるの。
いま、Pina Bauschが求められる背景とか必然って、10年前よりも遥かに強くなっている気がする。 “Social”なんてものがいかにろくでもないいんちきのまがい物なのか、彼女の舞台ほど強く、しなやかに叩き割ってくれるのってなかった。
オリジナルメンバーも数名入っていたみたいだけど、もうDominique Mercyとかは見ることできないのかなあ。
帰り際、やっぱり我慢できなくてステージから飛んでいた枯葉を一枚拾ってプログラムに挟んだ。どこで拾ってきた葉っぱなのかしら?
Pina Bauschが亡くなってもう10年過ぎているのかー、としみじみしつつ彼女が亡くなってから初めてTanztheater Wuppertalの公演に行った。90年代、ほぼ年次で彼女の新作公演を見ることができた(BrooklynのNext Wave Festival)ので、 彼女のように”Tanztheater”という様式を通して世界のありようを丸ごと見せてくれるのって(あってよさそうなのに)なくなっちゃったよねえ、って改めて。
初演は1977年、英国では今回が初演になるという4日間公演の3日め。 どうでもよいことだが、スチール写真がずっとモノクロだったので、モノクロで展開される世界をイメージしていた(当然そんなことはなかった)。
タイトルをそのまま訳すと『バルトークの「青ひげ公の城」のテープを聴きながら青ひげは.. 』。
舞台上には大量の枯葉が一面に敷き詰められていて、動けばかさかさ音がするし動きが激しくなる後半は捲きあげられた枯葉のよい香りがふわーっと漂う。 そこにBluebeard (Christopher Tandy)と妻のJudith (Silvia Farias Heredia)がいて、Judithは床に仰向けに固まって転がっていて、Bluebeardはテープコンソール台(天井から伸縮する紐で結ばれていて可動)からバルトークの「青ひげ公の城」(1911)を流し、それに合わせるように床のJudithに被さって一緒にずるずる這いずり(彼女の髪の毛は枯葉まみれ)、音楽のある箇所まで来ると慌てて戻って同じ箇所をリピートして同じ動作を繰り返す。このテープオペレータ(DJ?)としてのBluebeardの挙動は最後まで貫かれて、この一幕ものオペラが彼のテーマであり行進曲でありこの世界を統御するために必要な規範のようななにかなのだ、ということがわかる。
一組みの夫婦による一通りの修羅場、加虐 - 被虐の構図が描かれるなか、舞台の後方にゾンビみたいに変な恰好で固まった男女がゆっくりと一列になって侵入してくる。この辺、きたきたきた.. ってかんじでたまんない。で、そこから先、彼ら - 召使なのか幽閉されていた連中なのかが脱いだり脱がされたり、ムキムキを誇示したり絶叫したり抱きあったり、男女間の、あるいは労使間の典型的かつバカバカしい乱痴気騒ぎがところどころランダムに、全体としては整然と指揮され - テープコンソールは舞台上を行ったり来たりして、狂ったDJが催すパーティのようでもあるのだが、そんな宴もいつの間にか終わって、なにかがすっきりしたのか、これからも同じことが繰り返されるのか。
この辺の世界に対する冷めた目線 - 世界(そんなに広くない)には虐める側と虐められる側があって、でもどいつもこいつも変態ばっかしでしょうもなくて、であるが故に脆弱で転覆可能ななにかかも、ていうのと、そこにおいて美とか醜とか妖艶さとかってどんな意味を持ちうるのか、というのがマスの動きとパーソナルな呻きや叫びや悶絶の交錯のなかで描かれる。 それは社会のドラマでありながら個人のドラマの方に転覆しうるなにかとして、それを見つめる客席の方にまで繋がり、拡がってくるの。
いま、Pina Bauschが求められる背景とか必然って、10年前よりも遥かに強くなっている気がする。 “Social”なんてものがいかにろくでもないいんちきのまがい物なのか、彼女の舞台ほど強く、しなやかに叩き割ってくれるのってなかった。
オリジナルメンバーも数名入っていたみたいだけど、もうDominique Mercyとかは見ることできないのかなあ。
帰り際、やっぱり我慢できなくてステージから飛んでいた枯葉を一枚拾ってプログラムに挟んだ。どこで拾ってきた葉っぱなのかしら?
2.17.2020
[film] Emma. (2020)
15日土曜日の昼、CurzonのMayfairで見ました。
公開直後の週末なのだが、ちょうど(先週末に続いて)Storm Dennisっていうのが来るぞ来るぞって風がぼうぼうに吹いてて、ここはただでさえ週末の昼間はひとがいない館なので、この回もでっかいホールに近隣のお年寄りが5~6人いるだけだった。
原作は問答無用のJane Austen。タイトルに”.”が入っているのはなんでかしら?
監督のAutumn de Wildeさんはこれが映画デビューのようだがRilo Kileyをはじめ、The Decemberists, Elliott Smith, Spoon, The Raconteurs, Death Cab for Cutieなど、ある時期のアメリカの最良のバンドたち(この時代ってどのバンドのライブに行っても外れなかったねえ)のジャケット写真やPVを手掛けてきた方なので心配いらない。し、実際まったく心配いらなかった。 春に向けてのとても爽快な一本。
原作を読んでいなくても十分に楽しめるのだが、後でもよいので 本は読んでほしいかも。Jane Austen原作のはTVも含めていっぱい映像化されているけど、100%パーフェクトって言えるのはやっぱり紙の上を流れて行くやつだし、そこを押さえておけば映画でもTVでもあ、ここはそう撮るのね、とか、この役って彼/彼女でいいの? とかえんえんぶつぶつ言えておもしろいし、ここは80点とかここは60点、とか遊べるよ。最近のだと”Love & Friendship” (2016)があるし、いまだに(永遠に)議論になってる”Pride & Prejudice” (2005)とか。 あと”Pride and Prejudice and Zombies” (2016)とかもあったよね。 なかでも“Emma”はストレートにコメディとして楽しめるので大好き。
冒頭には原作通り、”Emma Woodhouse, Handsome, Clever, and Rich..”って出て、その通りのEmma Woodhouse (Anya Taylor-Joy)のつーんと強くて自信たっぷり頼もしい - 時折べそかいたりするけど - の秋冬春夏を通した大活躍が描かれる。Alexandra Byrneのカラフルな衣装が隅々まで眩しくかっこよく、いろんな女子男子が隊列を組んでざっざっざって横移動していくとこの華やかさとか、ボールルームのダンスシーンのジェットコースターとか、いちいち手に汗にぎって息とめてたまんないの。
ここまでキュートで胸躍るかんじのがやって来るとは思っていなくて、Emmaの黄色を中心としたこれって、そういえば“Clueless” (1995)にもあったやつで、小娘感がなんだかすばらしいぞあんた、のHarriet (Mia Goth)は、Tai (Brittany Murphy)の転生というのか前世というのか、そういうやつとしか言いようがなくて、なんか泣きたくなったり。
あとはEmmaとGeorge Knightley (Johnny Flynn)が恋におちる瞬間、その瞬間がしっかりと刻まれているので、それだけでじゅうぶん。
あとは、ただいるだけでなんもしない - それだけで明らかに尋常ではないかんじの父 - Mr. Woodhouse (Bill Nighy)の佇まい。これってWes Anderson映画におけるBill Murrayと同じような位置付けだろうか。 他の男子 - Mr. Martin (Connor Swindells)も、Mr. Elton (Josh O'Connor)も、Frank Churchhill (Callum Turner)も、その適度かつ絶妙なぼんくら模様がすばらしいったらなくて、Emmaサイドの勝利は明白なの。
↓ の”David Copperfield”といいこれといい”Little Women”といい、まだ古典からいくらでもおもしろい映画は作れるんだし、日本はそういうのの宝庫なんだから、もっとやればいいのにな。もったいないな。
邦題、お願いだから「わたしのエマ物語」とかになりませんように。
公開直後の週末なのだが、ちょうど(先週末に続いて)Storm Dennisっていうのが来るぞ来るぞって風がぼうぼうに吹いてて、ここはただでさえ週末の昼間はひとがいない館なので、この回もでっかいホールに近隣のお年寄りが5~6人いるだけだった。
原作は問答無用のJane Austen。タイトルに”.”が入っているのはなんでかしら?
監督のAutumn de Wildeさんはこれが映画デビューのようだがRilo Kileyをはじめ、The Decemberists, Elliott Smith, Spoon, The Raconteurs, Death Cab for Cutieなど、ある時期のアメリカの最良のバンドたち(この時代ってどのバンドのライブに行っても外れなかったねえ)のジャケット写真やPVを手掛けてきた方なので心配いらない。し、実際まったく心配いらなかった。 春に向けてのとても爽快な一本。
原作を読んでいなくても十分に楽しめるのだが、後でもよいので 本は読んでほしいかも。Jane Austen原作のはTVも含めていっぱい映像化されているけど、100%パーフェクトって言えるのはやっぱり紙の上を流れて行くやつだし、そこを押さえておけば映画でもTVでもあ、ここはそう撮るのね、とか、この役って彼/彼女でいいの? とかえんえんぶつぶつ言えておもしろいし、ここは80点とかここは60点、とか遊べるよ。最近のだと”Love & Friendship” (2016)があるし、いまだに(永遠に)議論になってる”Pride & Prejudice” (2005)とか。 あと”Pride and Prejudice and Zombies” (2016)とかもあったよね。 なかでも“Emma”はストレートにコメディとして楽しめるので大好き。
冒頭には原作通り、”Emma Woodhouse, Handsome, Clever, and Rich..”って出て、その通りのEmma Woodhouse (Anya Taylor-Joy)のつーんと強くて自信たっぷり頼もしい - 時折べそかいたりするけど - の秋冬春夏を通した大活躍が描かれる。Alexandra Byrneのカラフルな衣装が隅々まで眩しくかっこよく、いろんな女子男子が隊列を組んでざっざっざって横移動していくとこの華やかさとか、ボールルームのダンスシーンのジェットコースターとか、いちいち手に汗にぎって息とめてたまんないの。
ここまでキュートで胸躍るかんじのがやって来るとは思っていなくて、Emmaの黄色を中心としたこれって、そういえば“Clueless” (1995)にもあったやつで、小娘感がなんだかすばらしいぞあんた、のHarriet (Mia Goth)は、Tai (Brittany Murphy)の転生というのか前世というのか、そういうやつとしか言いようがなくて、なんか泣きたくなったり。
あとはEmmaとGeorge Knightley (Johnny Flynn)が恋におちる瞬間、その瞬間がしっかりと刻まれているので、それだけでじゅうぶん。
あとは、ただいるだけでなんもしない - それだけで明らかに尋常ではないかんじの父 - Mr. Woodhouse (Bill Nighy)の佇まい。これってWes Anderson映画におけるBill Murrayと同じような位置付けだろうか。 他の男子 - Mr. Martin (Connor Swindells)も、Mr. Elton (Josh O'Connor)も、Frank Churchhill (Callum Turner)も、その適度かつ絶妙なぼんくら模様がすばらしいったらなくて、Emmaサイドの勝利は明白なの。
↓ の”David Copperfield”といいこれといい”Little Women”といい、まだ古典からいくらでもおもしろい映画は作れるんだし、日本はそういうのの宝庫なんだから、もっとやればいいのにな。もったいないな。
邦題、お願いだから「わたしのエマ物語」とかになりませんように。
2.16.2020
[film] The Personal History of David Copperfield (2019)
13日、木曜日の晩にPicturehouse Centralで見ました。 英国ではLondon Film Festivalで上映されて、1月末に公開されてだいぶ経ってしまっているのだが米国はこれから(5月?)なのね。
いうまでもなくディケンズの”David Copperfield”の映画化で、でも翻訳で読んだのは数十年前だし、ディケンズ掘りでもないのでだいじょうぶかな、だったのだがまーったく問題ない。原作読んでなくてもディケンズ知らなくてもぜったい楽しめると思うし、見たら読みたくなるよ。
大きくなって成功しているらしいDavid Copperfield (Dev Patel)がそんな大きくないホールの壇上で、ひとり自分の生い立ちを語り始めるところから。
そこから先は、ディケンズ好きならこれぞディケンズの.. って大喜びしたくなるかもしれない変人奇人性悪変態 .. - でも「ふつう」の人々があんま出てこないのでなにをもってそう言うのかわかんなくて、とにかくそういう連中がはばを利かせているのでストーリーもくそもないような行き当たりばったりのなるようになれワールドが転がっていって誰にも止めることができないし止める気もないし。
登場人物ひとりひとりがどんなふうかを紹介していったらディケンズの本になっちゃうのでやらないけど、ロバをみると狂ってすっとんでいくBetsey Trotwood (Tilda Swinton)とか、”Dumb and Dumber”のJim Carreyにしか見えないUriah Heep (Ben Whishaw) とか、とにかくまともぽい人はあんま出てこない。変な人たちが好き勝手に動いたその果てに浮世離れした世界を作っていく、というとWes Andersonの世界を思い浮かべるし、確かに似たところはある - というかWes Andersonがそもそもディケンズぽいのか - のだが、彼のほどカラフルにスタイリッシュに構築された世界のかんじはなくて、もっとストリートっぽいというか、野蛮で猥雑で雑然としてて危なっかしくて、いろんな人に出会って変わったり変えられたりしてのどきどきと、人はどうしてこんなにも違ってて邪悪だったり善良すぎたりしながら遠くに動いていっちゃうのだろうか、どうなっちゃうのかな、どうすることもできないのかな、って笑いながらも切なさみたいのが来るところはディケンズを読んでいるときの感覚に近いかも。
最後はみんな笑っているのだがそこに説教とか教訓めいたなんかはこれぽっちもなくて、こんなのとにかく乗り切ったりやり過ごしたりするしかないよね、みたいに突っぱねてくるところは今の我々の世の中と繋がっているのだと思った。
ひとりひとりの違いでいうと演じている俳優さんも - Davidはインド系だしMr Wickfield (Benedict Wong)はアジア系だし、その娘のAgnes (Rosalind Eleazar)はアフリカンだし、肌の色なんてそれがなにか? みたいな出し方はなんかよくて、そんなとこ、だれも気にしていないでしょ、っていう世界なの。
原作はこれまで何度も映画化、TV化されているのだが、1935年のGeorge Cukor版は見てみたいなー。
Dev Patelさんの必死さが全身から滲んでくる演技はここでも冴えていて、次はDavid Loweryの新作なのね。
いうまでもなくディケンズの”David Copperfield”の映画化で、でも翻訳で読んだのは数十年前だし、ディケンズ掘りでもないのでだいじょうぶかな、だったのだがまーったく問題ない。原作読んでなくてもディケンズ知らなくてもぜったい楽しめると思うし、見たら読みたくなるよ。
大きくなって成功しているらしいDavid Copperfield (Dev Patel)がそんな大きくないホールの壇上で、ひとり自分の生い立ちを語り始めるところから。
そこから先は、ディケンズ好きならこれぞディケンズの.. って大喜びしたくなるかもしれない変人奇人性悪変態 .. - でも「ふつう」の人々があんま出てこないのでなにをもってそう言うのかわかんなくて、とにかくそういう連中がはばを利かせているのでストーリーもくそもないような行き当たりばったりのなるようになれワールドが転がっていって誰にも止めることができないし止める気もないし。
登場人物ひとりひとりがどんなふうかを紹介していったらディケンズの本になっちゃうのでやらないけど、ロバをみると狂ってすっとんでいくBetsey Trotwood (Tilda Swinton)とか、”Dumb and Dumber”のJim Carreyにしか見えないUriah Heep (Ben Whishaw) とか、とにかくまともぽい人はあんま出てこない。変な人たちが好き勝手に動いたその果てに浮世離れした世界を作っていく、というとWes Andersonの世界を思い浮かべるし、確かに似たところはある - というかWes Andersonがそもそもディケンズぽいのか - のだが、彼のほどカラフルにスタイリッシュに構築された世界のかんじはなくて、もっとストリートっぽいというか、野蛮で猥雑で雑然としてて危なっかしくて、いろんな人に出会って変わったり変えられたりしてのどきどきと、人はどうしてこんなにも違ってて邪悪だったり善良すぎたりしながら遠くに動いていっちゃうのだろうか、どうなっちゃうのかな、どうすることもできないのかな、って笑いながらも切なさみたいのが来るところはディケンズを読んでいるときの感覚に近いかも。
最後はみんな笑っているのだがそこに説教とか教訓めいたなんかはこれぽっちもなくて、こんなのとにかく乗り切ったりやり過ごしたりするしかないよね、みたいに突っぱねてくるところは今の我々の世の中と繋がっているのだと思った。
ひとりひとりの違いでいうと演じている俳優さんも - Davidはインド系だしMr Wickfield (Benedict Wong)はアジア系だし、その娘のAgnes (Rosalind Eleazar)はアフリカンだし、肌の色なんてそれがなにか? みたいな出し方はなんかよくて、そんなとこ、だれも気にしていないでしょ、っていう世界なの。
原作はこれまで何度も映画化、TV化されているのだが、1935年のGeorge Cukor版は見てみたいなー。
Dev Patelさんの必死さが全身から滲んでくる演技はここでも冴えていて、次はDavid Loweryの新作なのね。
2.15.2020
[music] Pop Crimes: The Songs of Rowland S Howard
12日の晩、Royal Festival Hallで見ました。今年最初のライブ。 最初にライブの告知を見たときは、なんとまあ地味な.. でもあんなでっかいホールが会場でお客入るのかしら? って思って、実際に告知が何回も来たので、売れていないんだろうなー、じゃあ行ってみるか、と行ってみたらほぼ一杯になっていた。
このライブは2009年に50歳で亡くなったRowland S Howardが昨年秋に60歳になったのと彼のソロが再発されたのを記念して、メルボルン~パリ〜ロンドンと回っている。でも一番最初にやったのは2011年のメルボルンで、2013年のATP (なつかし)でもやっているのだそう。
Rowland S Howardは主なバンドだとThe Birthday Party - Crime & the City Solution - These Immortal Souls - Nikki Sudden and the Jacobites (!) などなどを経てきて、今回のライブでもこれまでのバンドの人たち - Mick Harvey, J.P. Shilo, Harry Howard, Genevieve McGuckinなんかが固めている。
自分にとっての彼というとCrime & the City Solutionのひとで、でもライブは見ていない。
客層は見てすぐわかる同年代の、若い頃から今までずっと後ろ向きで萎びたままでやってきた - ねえねえブリットの頃ってみんなどこでなにやってたの? - って問い詰めたくなる枯れた老年層がいっぱい。こんなに居心地よくて異邦感がなくていいのかしら、くらい。
基本のバンドは4~5ピースで、この音がまたすばらしく馴染む。アッパーだったりキャッチーだったりする箇所なんて微塵もなく、重心も目線もひたすら地表を這ってがしゃがしゃがりがり引っ掻いて瘡蓋を作っては剥がしてを繰り返しているだけの、救いようのないルーザーの音なのだが、いまの自分を作ったのは間違いなくこういう音の毛布というかブランケットというかの団子の寝床で、だからいまだに芯から腐っててしょうもないんだな… はは(脱力)、って。 音に突きあげられたり、音にダイブしたりする必要のまったくないずるずる万年床なの。
でも当時って、The Birthday Partyなんて野蛮人だわ、とか結構酷いこと言ってあまり聴いてなくて、でも最近になって彼らの音を聴くとすごくよかったりする。若いころってやっぱしバカだったんだな … と思うことにしている。
ちょこちょこいろんなゲストが出るのだが、有名なところだとLydia Lunchが出てきて、そこにBobby Gillespieが加わってデュエットして、Bobbyは第二部にも出てきて盛りあげ役をやっていた。Lydia Lunch、元気そうでよかった。最後に彼女を見たのはKnitting Factoryで、横のギターはNels Clineで、最後にJames Chanceが出てきたなー、とか。
真ん中に20分くらいの休憩があって、第二部の頭でNick Cave氏がひとりすたすた出てきたのでびっくりする。そりゃこの方がいらしたっておかしくはないけどさ、告知にはなかったし。Rowlandがどんなにいい奴だったか、どれだけ素敵な思い出を共有しているかを語って、彼はこの曲を16歳の時に書いたんだよ、ってピアノに座って”Shivers” (1979) – The Birthday Partyの前身バンド - The Boys Next Doorの曲なの - を自分の曲のように滑らかに歌って去る。
J.P. ShiloのギターとGenevieve McGuckinの鍵盤がとにかく気持ちよくて、こんな形で自分の音を継いで貰えるのって幸せかも、って少し思った。みんなRowlandへの愛と想いを語り、それらも込みでステージ上に呼びこもうとしていて、で、彼はぜったいあそこに天使になって立っていたの。
このライブは2009年に50歳で亡くなったRowland S Howardが昨年秋に60歳になったのと彼のソロが再発されたのを記念して、メルボルン~パリ〜ロンドンと回っている。でも一番最初にやったのは2011年のメルボルンで、2013年のATP (なつかし)でもやっているのだそう。
Rowland S Howardは主なバンドだとThe Birthday Party - Crime & the City Solution - These Immortal Souls - Nikki Sudden and the Jacobites (!) などなどを経てきて、今回のライブでもこれまでのバンドの人たち - Mick Harvey, J.P. Shilo, Harry Howard, Genevieve McGuckinなんかが固めている。
自分にとっての彼というとCrime & the City Solutionのひとで、でもライブは見ていない。
客層は見てすぐわかる同年代の、若い頃から今までずっと後ろ向きで萎びたままでやってきた - ねえねえブリットの頃ってみんなどこでなにやってたの? - って問い詰めたくなる枯れた老年層がいっぱい。こんなに居心地よくて異邦感がなくていいのかしら、くらい。
基本のバンドは4~5ピースで、この音がまたすばらしく馴染む。アッパーだったりキャッチーだったりする箇所なんて微塵もなく、重心も目線もひたすら地表を這ってがしゃがしゃがりがり引っ掻いて瘡蓋を作っては剥がしてを繰り返しているだけの、救いようのないルーザーの音なのだが、いまの自分を作ったのは間違いなくこういう音の毛布というかブランケットというかの団子の寝床で、だからいまだに芯から腐っててしょうもないんだな… はは(脱力)、って。 音に突きあげられたり、音にダイブしたりする必要のまったくないずるずる万年床なの。
でも当時って、The Birthday Partyなんて野蛮人だわ、とか結構酷いこと言ってあまり聴いてなくて、でも最近になって彼らの音を聴くとすごくよかったりする。若いころってやっぱしバカだったんだな … と思うことにしている。
ちょこちょこいろんなゲストが出るのだが、有名なところだとLydia Lunchが出てきて、そこにBobby Gillespieが加わってデュエットして、Bobbyは第二部にも出てきて盛りあげ役をやっていた。Lydia Lunch、元気そうでよかった。最後に彼女を見たのはKnitting Factoryで、横のギターはNels Clineで、最後にJames Chanceが出てきたなー、とか。
真ん中に20分くらいの休憩があって、第二部の頭でNick Cave氏がひとりすたすた出てきたのでびっくりする。そりゃこの方がいらしたっておかしくはないけどさ、告知にはなかったし。Rowlandがどんなにいい奴だったか、どれだけ素敵な思い出を共有しているかを語って、彼はこの曲を16歳の時に書いたんだよ、ってピアノに座って”Shivers” (1979) – The Birthday Partyの前身バンド - The Boys Next Doorの曲なの - を自分の曲のように滑らかに歌って去る。
J.P. ShiloのギターとGenevieve McGuckinの鍵盤がとにかく気持ちよくて、こんな形で自分の音を継いで貰えるのって幸せかも、って少し思った。みんなRowlandへの愛と想いを語り、それらも込みでステージ上に呼びこもうとしていて、で、彼はぜったいあそこに天使になって立っていたの。
2.14.2020
[film] Birds of Prey: and the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn (2020)
11日、火曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。 21時過ぎの回だったせいか久々の客ひとり状態。
“Birdman” (2014)もそうだった – “or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” - けど、主人公に鳥を絡めるとなんでタイトルに補足とか言い訳みたいのがいっぱいつくのかしら?
どこのなにをどう攻めたいのかあんまよくわかんなかった“Suicide Squad” (2016)で一番鮮烈でかっこよかったキャラ - Harley Quinn - Harleen Quinzel (Margot Robbie)を主人公に彼女が生まれてから大きくなるまでをアニメと彼女の語りでざっとなめて、JokerにフラれてGothamに放り出されて、チャイナタウンに暮らしてハイエナを飼って、ローラーダービーとかやって、Jokerと暮らしたお城の化学プラントを派手にぶっとばして – ここ素敵 – なんとか生きてますわ、ていうとこから。
闇の世界を仕切っているRoman Sionis (Ewan McGregor)の周辺で、彼に拾われたシンガーBlack Canary (Jurnee Smollett-Bell)とか、上と衝突してざけんじゃねえ、って辞める警部 – Montoya (Rosie Perez)とか、幼い頃に家族を殺されて復讐に燃えるHuntress (Mary Elizabeth Winstead)とか、ダイヤモンドを飲みこんじゃったスリの女の子とか、境遇もばらばらの女性たちが、ゆるゆると撚り合わさっていって、最後に街はずれでRomanの軍団と激突するの。 “Suicide Squad”のように束ねる雇い主がいるわけでも明確な共通の敵がいるわけでもない、Tarantino みたいに漲るなにかがあるわけでもない、それぞれの事情で目の前のうざいのを蹴とばしたりぶん殴ったりしていたやつらがダイヤモンドのまわりに近寄ってきて、よくわかんないノリでだんだんやばくなってきて、結局あいつかー、あれかー、ってどんぱちになだれこむの。
悲壮感とか使命感とか義理人情みたいなところから遠く離れて、Harley Quinnはエモくなる手前の快-不快とかなんか気に食わねえな、とかで怪しく動き回るとこは徹底していて、しかもミソジニー野郎がいちばん嫌がりそうな女の挙動をわざと踏んで貫いていくので素敵ったらない。 しかも銃とかナイフ – 流血 - じゃなくて、接近戦での金属バットとかトンカチの打突とかで相手を凸凹にする肉弾戦で、なんとなく70年代のカンフー映画みたいなのだが、これがとってもよいの。
DCコミックスなので、スーパーヒーロー的なパワープレイがあってもおかしくないのに、そういうので出てくるのはBlack Canaryの超音波くらいで、寄せ集められたやくざの抗争 - というか猛禽が猿とか豚とかをとっちめて舞いあがる、それだけで気持ちいいから、いいんだ。
そしてこの世界はJoaquin PhoenixのJokerがいたあの世界とあまりにも違いすぎる。これも世界の分断とかいうのか。- いや、そうではなくてだからふたりは別れた。それだけのことかも。
それにしても、”Ocean’s 8” (2018)でもそうだったけど、アジア系の女子ってなんであっさりスリ名人になっちゃうのかしら?とか。
あと、Ewan McGregor、とても楽しそうだし、そういう役柄なのかもしれないけど、できればSam Rockwellと差別化してほしい。
あと、ハイエナもっと出して暴れさせればよかったのに。
あとはなんといっても、あのエッグサンドイッチだよね。あれがすべての発端だったのよね。
“Birdman” (2014)もそうだった – “or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” - けど、主人公に鳥を絡めるとなんでタイトルに補足とか言い訳みたいのがいっぱいつくのかしら?
どこのなにをどう攻めたいのかあんまよくわかんなかった“Suicide Squad” (2016)で一番鮮烈でかっこよかったキャラ - Harley Quinn - Harleen Quinzel (Margot Robbie)を主人公に彼女が生まれてから大きくなるまでをアニメと彼女の語りでざっとなめて、JokerにフラれてGothamに放り出されて、チャイナタウンに暮らしてハイエナを飼って、ローラーダービーとかやって、Jokerと暮らしたお城の化学プラントを派手にぶっとばして – ここ素敵 – なんとか生きてますわ、ていうとこから。
闇の世界を仕切っているRoman Sionis (Ewan McGregor)の周辺で、彼に拾われたシンガーBlack Canary (Jurnee Smollett-Bell)とか、上と衝突してざけんじゃねえ、って辞める警部 – Montoya (Rosie Perez)とか、幼い頃に家族を殺されて復讐に燃えるHuntress (Mary Elizabeth Winstead)とか、ダイヤモンドを飲みこんじゃったスリの女の子とか、境遇もばらばらの女性たちが、ゆるゆると撚り合わさっていって、最後に街はずれでRomanの軍団と激突するの。 “Suicide Squad”のように束ねる雇い主がいるわけでも明確な共通の敵がいるわけでもない、Tarantino みたいに漲るなにかがあるわけでもない、それぞれの事情で目の前のうざいのを蹴とばしたりぶん殴ったりしていたやつらがダイヤモンドのまわりに近寄ってきて、よくわかんないノリでだんだんやばくなってきて、結局あいつかー、あれかー、ってどんぱちになだれこむの。
悲壮感とか使命感とか義理人情みたいなところから遠く離れて、Harley Quinnはエモくなる手前の快-不快とかなんか気に食わねえな、とかで怪しく動き回るとこは徹底していて、しかもミソジニー野郎がいちばん嫌がりそうな女の挙動をわざと踏んで貫いていくので素敵ったらない。 しかも銃とかナイフ – 流血 - じゃなくて、接近戦での金属バットとかトンカチの打突とかで相手を凸凹にする肉弾戦で、なんとなく70年代のカンフー映画みたいなのだが、これがとってもよいの。
DCコミックスなので、スーパーヒーロー的なパワープレイがあってもおかしくないのに、そういうので出てくるのはBlack Canaryの超音波くらいで、寄せ集められたやくざの抗争 - というか猛禽が猿とか豚とかをとっちめて舞いあがる、それだけで気持ちいいから、いいんだ。
そしてこの世界はJoaquin PhoenixのJokerがいたあの世界とあまりにも違いすぎる。これも世界の分断とかいうのか。- いや、そうではなくてだからふたりは別れた。それだけのことかも。
それにしても、”Ocean’s 8” (2018)でもそうだったけど、アジア系の女子ってなんであっさりスリ名人になっちゃうのかしら?とか。
あと、Ewan McGregor、とても楽しそうだし、そういう役柄なのかもしれないけど、できればSam Rockwellと差別化してほしい。
あと、ハイエナもっと出して暴れさせればよかったのに。
あとはなんといっても、あのエッグサンドイッチだよね。あれがすべての発端だったのよね。
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