9日、日曜日の晩にBFIのFellini特集で見ました。この特集もがんばって見ないと、ってできる限り追っているのだが、彼の映画ってだいたいどれも軽く2時間を超えてて、ぼーっと眺められるようなもんでもないから、なかなか大変なの。 軽くピッツアとかパスタ、って思っていてもその後に当然のように大皿のメインがやって来るの。食べるよね? こんなの食べてあたりまえでしょ、みたいに。
ここまでに上映された特集の作品はだいたい4Kリストアデジタルなのに、この作品だけ何故か35mmでの上映だった。柔らかくふやけて滲んだような色みがとてもよいかんじだった。
Felliniが子供の頃に見たり経験したりした出来事、半径数10メートルの周りにいた人々を四季に沿って網羅して並べていくだけ、と言えばそれだけで、それも解説を読むとそう書いてあるから、というだけだしその男の子の語りが入ったりするわけでもない、そもそもそれらしいそいつが主人公であるかどうかはよくわからないし、主人公ぽい人物を軸にストーリーのようなものが展開していくわけでもないのだが、それでもいいって。知らない宇宙の話ではなさそう。
冒頭の、なにかの綿毛がぼうぼうに散って舞ってもうじき春だよ、っていうところから始まって、ファシストがやって来たり、でっかい船が来たり、椅子を高く積みあげて燃やしたり、いろんな女性がいっぱいいて、バイクに跨ってすっとんでいくのとか怪しい男もいっぱいいて、どれもこれも我々の子供の頃の記憶にすとんとはまるような大きさとか柔らかさで親しげにやってくる。 なんのために? これらの記憶って(夢、でも)なんのために我々の頭の奥に居座って、日々の行動になにを仕掛けようとしているのだろうか。
こんなの答えがあるわけないってわかった上で、Felliniはそれは具体的にはこんなふうなスペクタクルだったり、あんなふうな痴話喧嘩だったり、なんだったんだ… ていう脱力だったり、ていうのを自在に組みあげてミックスして、例えばこれって(「これ」ってなんだよ、と頭のなかは言う)こんなふうじゃなかった? とかマジシャンみたいにひょいひょい出してくる。 小説を読んでいると割と起こるようなことがFelliniの映画でも起こって、それって映画だから当たり前かもだけど具体的な色とか表情とかお天気とかを伴ってやってくるからすごいな、って。 そうやって構築された世界の確かさとか変てこさに触れてしまうと抜け出せなくなってしまうかんじもわかる。プルーストのコンブレーやフォークナーのヨクナパトーファ、それらの土とか水とかと繋がっている、のかな。
こういうのって、たぶん今の世の中でいちばん必要とされていない、役に立たないとされてしまうに違いない情景(.. 情報としてはゼロ。ニル。)で、であればかえって全面的に肯定したくなるし、映画館でスマホをいじりだす若者を縛りつけて、とにかく見ろ、とか。
あと、これを見てしまうと”Jojo Rabbit”なんて、よくもわるくもファストフードだよね、とか。
2.19.2020
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