まだ立ち直れない。 星が消えるというのはこういうことなんだ、と実感している。
“Black Star”とはよく言ったもんだわ。 こんちくしょうめ。
8日の金曜日は朝から築地で目の定期検診があって、ずいぶん長いことサボって行っていなかったのでいろいろ面倒になりそうだった(実際、そうなった)から、会社休むことにして、そのまま美術館行ったり映画行ったりした。
午前中に東京都現代美術館で見ました。
行くのも含めてあまり好きな美術館ではないのだが、これだけは。
昨年のMOMAでの展示 -“ Yoko Ono: One Woman Show, 1960 - 1971" - 彼女が昔、半分うその個展案内として出したやつを40年の時を経て実現させたやつ - の方が見たくて、それとどの程度違うのかわからないのだが、とりあえず見る。
個々の作品についてはいいよね。 彼女の個々の作品をこんなふう、あんなふう、と形容したり説明したりすることほどかったるく、彼女の作品の本質から外れていってしまうことはないと思うし、See - Touch - Feel するのが一番手っとり早い、そういうたぐいのアートなのだし、興味あるひとには彼女の本(「グレープフルーツ」必読)だってあるし。
見て、なるほどー、とか、これかー、とか、一目で、一瞬でわかってしまうものと、詩や文章のようにちょっとだけ咀嚼して飲みこんで染みてくるものと二通りあるのだが、どちらもシンプルでダイレクトで、彼女の窓がどこにあるのか、それがわかってしまえばあとはそれを自分のに同期させて開け放つだけ。 風とか光とか気持ち良く流れこんでくる。
わたしが彼女の作品とか、Nam June PaikとかFluxusの活動も含めたあれこれにはまっていたのは80年代初だったので、ずいぶん時間が経ってしまったねえ、というのと、今どき、あれらの作品が色褪せてみえてしまうのだとしたら、それってどういうことなのだろうか、とか考える。
おそらく、当時の受け取られ方のひとつだったかもしれない瞬間芸的なおもしろさ、でいうといまの時代は、万事インタラクティブで可視化してリンクしてタグして共有して、みたいなのを誰とでも、どこでもできて、しかも場所も容量も制約なし、であるから、例えば、おもしろいおもしろくない、とか、要不要の議論でいうと、昔のは(いまの時点でみれば)あんまおもしろくないし、(いまの時点でみれば)あんまいらないかも、なのだろう。 金になんないしね(嫌味)。
「アート」がコンテンツだったりコンテキストだったりアセットだったりクリエイティブだったりイノベーティブだったり社会貢献だったりするかもしれない今の時代の子供たち、35年前のJohn Lennonの死もおとといのDavid Bowieの死もあんまよくわかんない、そもそも彼らを知らない今の子供たちにとって、ここに並べられたような「アート」の数々はおっそろしくかったるい変てこなポエムとか電波とかに見えてしまうのかもしれない。
べつにアート至上主義云々いうつもりはないけど、会場を流していくと、所謂「ソーシャル」な最近のいろんなのとはまったく別の、寧ろそれとは対極の、ひとりひとりの窓と向かい合うパーソナルな表現だよね、とおもった。 届けられた手紙、手渡されるインストラクション、手渡されるハサミ、手渡されるズタ袋、それらでなにができるだろう、なにが見えるだろう。 というところから自分の窓を。
Bowieに”Breaking Glass” (1978) ていう曲があるのだが、それなの。
(なんでもBowieに繋いでみる)
葉書アートを見て、昨年のGuggenheimでの河原温を思いだした。 NYでふたりの関わりはなかったのかもしれないが、なんか不思議でおもしろいねえ。
彼女のライブで印象深かったのが、911の直後、Beastiesが主催したベネフィット - ”New Yorkers Against Violence” で、ひとりステージに仁王立ちになり、「うぎゃううううーー」とか絶叫して咆哮して、それだけで消える、ていうやつ。 惚れました。
1.13.2016
1.11.2016
[music] RIP David Bowie
今日は昼間に新宿で”He named me Malala”を見て、それから”Creed”を見て、やっぱし戦わなければいけないんだ、と拳を握りなおして外に出たら、スマホでニュースを知って、もうなんもやる気なくなってしまった。 言葉もない。 なんかもう、ぜんぶどうでもいい。
2014年に出たCompilationでは”Nothing Has Changed”と言っていたし、最新作の”★”は、こんなに気持ちのよいドラムスの音は”Low”以来だからこれからまた始まるのだわ、と強く思わせる内容だった。 逆に今にして思えば、なことばかりだったのがとても悔しくて残念で …
彼の歌は、宇宙でも異界でも冥界でも、別の次元にいなくなってしまった彼、不可視の、遠い遠い砂漠の向こうにいる彼からのメッセージとして届いてきた。彼の音楽はそういう地点からぴゅんと投げられた命綱として我々を生かし、それによって彼もまたどこかの世界で生きているのだと、Bowieの音楽はそういう極めて切迫したパーソナルな共犯関係のなかで、我々の生と愛と孤独と死を雷鳴のように貫いて響き渡るものだった。
BeatlesもStonesもなくなったって一向に構わないが、彼の音楽をこれらと同列で考えることはできない。
The Little Princeと同じように、「ぼくはいなくなるからね」と死と戯れるようにしていなくなってしまった。 「あと5年しかない」と、”Let's turn on with me”と手を伸ばしてくれるひとはもういない。
彼はいま、どこにいるのだろう? そして我々は … ?
最後に見たライブは2005年9月15日、Central ParkのArcade Fireのアンコールだった。”Queen Bitch”と”Wake Up”をやった。 その前のフルのライブだと、2002年10月12日、BrooklynのSt. Ann's Warehouseのだった(Five boroughs tourのふつか目)。アンコールで”The Bewlay Brothers”をやってくれた。 その前だと97年の1月9日、MSGでの50th Birthday concertになる。 これでももう19年前、共演したLou Reedさんももうとうにいない。
ご冥福をお祈りいたします。
また地球に落ちてきますように。
Don't believe in yourself
Don't deceive with belief
Knowledge comes with death's release
(from “Quicksand”)
2014年に出たCompilationでは”Nothing Has Changed”と言っていたし、最新作の”★”は、こんなに気持ちのよいドラムスの音は”Low”以来だからこれからまた始まるのだわ、と強く思わせる内容だった。 逆に今にして思えば、なことばかりだったのがとても悔しくて残念で …
彼の歌は、宇宙でも異界でも冥界でも、別の次元にいなくなってしまった彼、不可視の、遠い遠い砂漠の向こうにいる彼からのメッセージとして届いてきた。彼の音楽はそういう地点からぴゅんと投げられた命綱として我々を生かし、それによって彼もまたどこかの世界で生きているのだと、Bowieの音楽はそういう極めて切迫したパーソナルな共犯関係のなかで、我々の生と愛と孤独と死を雷鳴のように貫いて響き渡るものだった。
BeatlesもStonesもなくなったって一向に構わないが、彼の音楽をこれらと同列で考えることはできない。
The Little Princeと同じように、「ぼくはいなくなるからね」と死と戯れるようにしていなくなってしまった。 「あと5年しかない」と、”Let's turn on with me”と手を伸ばしてくれるひとはもういない。
彼はいま、どこにいるのだろう? そして我々は … ?
最後に見たライブは2005年9月15日、Central ParkのArcade Fireのアンコールだった。”Queen Bitch”と”Wake Up”をやった。 その前のフルのライブだと、2002年10月12日、BrooklynのSt. Ann's Warehouseのだった(Five boroughs tourのふつか目)。アンコールで”The Bewlay Brothers”をやってくれた。 その前だと97年の1月9日、MSGでの50th Birthday concertになる。 これでももう19年前、共演したLou Reedさんももうとうにいない。
ご冥福をお祈りいたします。
また地球に落ちてきますように。
Don't believe in yourself
Don't deceive with belief
Knowledge comes with death's release
(from “Quicksand”)
[film] Pawn Sacrifice (2014)
順番は前後しますが、9日の土曜日の晩、日比谷で見ました。「完全なるチェックメイト」
“Bourne Supremacy”と韻をふみそうでふまない。
冷戦の頃、国の威信をかけて米ソ - Bobby Fischer (Tobey Maguire)とBoris Spassky (Liev Schreiber) - がアイスランドでチェス対局をしたときのお話し。
大一番の初戦で敗れたあと、周囲から行方をいったん晦ませて部屋の暗がりに籠ったBobby Fischerの姿から遡って、BrooklynのJewishコミュニティの片隅でチェスに目覚めた子供時代から時代時代のBobbyの動きを、神経質な変人の挙動を、チェスの駒の動きを追うかのように(そんなふうに追えるものかどうかも含めて)辿っていく。
あの時代の国家同士のやりとりをチェスのゲームに例えて、みたいな解りやすい見せかたはせず、すべてはBobby Fischerの頭のなかで絶えず呪文のように渦を巻き続ける - そこには常に影の脅威として底から突きあげ、つきまとってくるソ連のSpasskyの姿もある - 駒の交錯や食いあいどつきあいとして世界は、見えて、聞こえてくる。 ここでは過去も現在も、頭のなかで起こるそれらの召還や混濁も、ものすごい情報の奔流として、そのバリエーションとして、ひたすらやかましく脳内を圧迫する目障り耳障りななにかとして現れてくる。
最後の方でBobbyが、すべては思考と記憶の産物で、だから無限にあると思われがちな駒の動きも実はものすごく限定されたものにならざるを得ないのだ、というようなことを言うのだが、ここに勝敗もことの次第も集約されてきて、そんな安易なふうでよいの? と思わないでもないのだが、この映画のBobby Fischerと世界の描き方 - すべてがなんかいびつでぼやけたり滲んだりくすんだりノイズに覆われたりしているそれ - を見るとそういうもんなのかも、と思ってしまう。 冷戦の時代の「正史」なんて誰がどうやって描くことができるのか、という問いに対する答えのサンプルがここに。
Bobbyの頭のなかで絶えず鳴って蠢く音 - 硬くてごつくてリアルなよい音 - のドラマ、として聴くこともできる。 そして世界は当時のポピュラー音楽やラジオの音声を通してちゃらちゃら右から左に流れていくばかり。
同じ耳鳴り自閉系の天才のドラマとして”A Beautiful Mind” (2001)と見比べてみたらどうか、とか。
彼特有の醒めた目の動きをして揺るがないTobey Maguireがすばらしくて、Spassky役のLiev Schreiberも、Bobby Fischerのお付きの神父役のPeter Sarsgaardもゆったり優雅で素敵で、優れた男優たちのドラマでもある。
アイスランドに移住した晩年の彼の写真(本人)が最後に出るのだが、彼はかの地でひつじ飼いなったのだな、ということがわかる。 「ひつじ村の兄弟」を見てからこれを見ると、ぜったい笑うよ。
“Bourne Supremacy”と韻をふみそうでふまない。
冷戦の頃、国の威信をかけて米ソ - Bobby Fischer (Tobey Maguire)とBoris Spassky (Liev Schreiber) - がアイスランドでチェス対局をしたときのお話し。
大一番の初戦で敗れたあと、周囲から行方をいったん晦ませて部屋の暗がりに籠ったBobby Fischerの姿から遡って、BrooklynのJewishコミュニティの片隅でチェスに目覚めた子供時代から時代時代のBobbyの動きを、神経質な変人の挙動を、チェスの駒の動きを追うかのように(そんなふうに追えるものかどうかも含めて)辿っていく。
あの時代の国家同士のやりとりをチェスのゲームに例えて、みたいな解りやすい見せかたはせず、すべてはBobby Fischerの頭のなかで絶えず呪文のように渦を巻き続ける - そこには常に影の脅威として底から突きあげ、つきまとってくるソ連のSpasskyの姿もある - 駒の交錯や食いあいどつきあいとして世界は、見えて、聞こえてくる。 ここでは過去も現在も、頭のなかで起こるそれらの召還や混濁も、ものすごい情報の奔流として、そのバリエーションとして、ひたすらやかましく脳内を圧迫する目障り耳障りななにかとして現れてくる。
最後の方でBobbyが、すべては思考と記憶の産物で、だから無限にあると思われがちな駒の動きも実はものすごく限定されたものにならざるを得ないのだ、というようなことを言うのだが、ここに勝敗もことの次第も集約されてきて、そんな安易なふうでよいの? と思わないでもないのだが、この映画のBobby Fischerと世界の描き方 - すべてがなんかいびつでぼやけたり滲んだりくすんだりノイズに覆われたりしているそれ - を見るとそういうもんなのかも、と思ってしまう。 冷戦の時代の「正史」なんて誰がどうやって描くことができるのか、という問いに対する答えのサンプルがここに。
Bobbyの頭のなかで絶えず鳴って蠢く音 - 硬くてごつくてリアルなよい音 - のドラマ、として聴くこともできる。 そして世界は当時のポピュラー音楽やラジオの音声を通してちゃらちゃら右から左に流れていくばかり。
同じ耳鳴り自閉系の天才のドラマとして”A Beautiful Mind” (2001)と見比べてみたらどうか、とか。
彼特有の醒めた目の動きをして揺るがないTobey Maguireがすばらしくて、Spassky役のLiev Schreiberも、Bobby Fischerのお付きの神父役のPeter Sarsgaardもゆったり優雅で素敵で、優れた男優たちのドラマでもある。
アイスランドに移住した晩年の彼の写真(本人)が最後に出るのだが、彼はかの地でひつじ飼いなったのだな、ということがわかる。 「ひつじ村の兄弟」を見てからこれを見ると、ぜったい笑うよ。
1.10.2016
[film] Hrútar (2015)
新作の洋画初め。3日の午後、新宿で見ました。
「ひつじ村の兄弟」。 英語題は"Rams”。
本来であれば12月中に - 羊年のクリスマスに見るべき映画であった。そんな盛りあがる内容でもないけど。
恥ずかしいことだが、ずっとアイルランドの羊の話しだと思いこんでいて、アイルランドの羊なら見にいかねばなるまい(なんで?)、て中に入って、始まってからも英語じゃないねえゲール語かしら、とか思ってて、この土地ってひょっとしたらアイスランド? .. アイスランドだねえ、となったの。
まあとにかく、北のほうででっぷりした酔っ払いみたいな男たちともふもふの毛玉が右往左往する話だよ。
アイスランドのどっかの村(別にひつじ村て名前じゃない)で隣同士で羊飼いをしている兄弟 - Kiddi (兄)とGummi(弟)がいて、外見は髪も髭もまっ白ぼうぼうの牧神赤ら顔であんま見分けつかなくて、兄のほうが少し禿げあがっているくらい、でもなにがあったか知らんが仲はとっても悪くてほぼ40年間口もきかない目も合わせないでいる。 そこで年一回の羊の品評会があって優勝したのがKiddiのとこの羊でGummiのとこのは2位、Gummiは負け続けているらしく悔しそうで、終ってから兄のとこの優勝羊をいじってみたら、なんか様子がおかしかったのでこれはひょっとしたら… て調査してもらったらこれまで発生したことのなかった疫病で村の羊をぜんぶ処分しなければならないことがわかる。
Kiddiは見つけて通報したGummiのとこに怒り狂って怒鳴りこんでくるし、Gummiはこんなことになるとは、て悔やむのだがもう遅くて、自分で銃を取って自分の羊たちを処分して、Kiddiはやけくそで飲んだくれてぼろぼろで、村全体で力を合わせなければいけない時なのに、中心にいる兄弟の亀裂は更に広がってどうしようもなくて、もう羊飼いをやめるわ、ていう家も出てくる。
でもじつはGummiは家の地下で2位だった牡羊と取り巻きの牝羊数頭をこっそり隠して育てていて、
それが当局にばれちゃってやばくなって、兄に助けを求めたら山の向こうで放牧すれば火山もあってあったかいから、と二人でひとつのバイクに跨がり羊を連れて逃亡の旅に出たら、とんでもない嵐がやってくる。
間に羊が挟まっているので暖かかったりふわふわしているかと思った兄弟同士の確執は実はものすごく深く険しくて、牡羊が巻き角をがんがんぶつけあっているのと同じく激しく当たりすぎて互いにへろへろになっている、犬も喰わねえ羊だし、そういうのがアイスランドの原野の点景としてぽつん、とあって、ここはそれしかない国、星みたいなかんじで。
兄弟はわりとなんでか割と簡単にヌードになってしまうのだが、そうするとWilliam Blakeの版画 - “The Ancient of Days”とか - みたいで、すると途端に世界がでっかく神々しくひろがって、なんかよいの。
でもやっぱし羊だよねえ。 アイスランドの固有種らしいけど、角の巻き具合とかそのバランスが素敵で兄弟よか羊のほうに見とれて気になっちゃってさあ。
「ひつじ村の兄弟」。 英語題は"Rams”。
本来であれば12月中に - 羊年のクリスマスに見るべき映画であった。そんな盛りあがる内容でもないけど。
恥ずかしいことだが、ずっとアイルランドの羊の話しだと思いこんでいて、アイルランドの羊なら見にいかねばなるまい(なんで?)、て中に入って、始まってからも英語じゃないねえゲール語かしら、とか思ってて、この土地ってひょっとしたらアイスランド? .. アイスランドだねえ、となったの。
まあとにかく、北のほうででっぷりした酔っ払いみたいな男たちともふもふの毛玉が右往左往する話だよ。
アイスランドのどっかの村(別にひつじ村て名前じゃない)で隣同士で羊飼いをしている兄弟 - Kiddi (兄)とGummi(弟)がいて、外見は髪も髭もまっ白ぼうぼうの牧神赤ら顔であんま見分けつかなくて、兄のほうが少し禿げあがっているくらい、でもなにがあったか知らんが仲はとっても悪くてほぼ40年間口もきかない目も合わせないでいる。 そこで年一回の羊の品評会があって優勝したのがKiddiのとこの羊でGummiのとこのは2位、Gummiは負け続けているらしく悔しそうで、終ってから兄のとこの優勝羊をいじってみたら、なんか様子がおかしかったのでこれはひょっとしたら… て調査してもらったらこれまで発生したことのなかった疫病で村の羊をぜんぶ処分しなければならないことがわかる。
Kiddiは見つけて通報したGummiのとこに怒り狂って怒鳴りこんでくるし、Gummiはこんなことになるとは、て悔やむのだがもう遅くて、自分で銃を取って自分の羊たちを処分して、Kiddiはやけくそで飲んだくれてぼろぼろで、村全体で力を合わせなければいけない時なのに、中心にいる兄弟の亀裂は更に広がってどうしようもなくて、もう羊飼いをやめるわ、ていう家も出てくる。
でもじつはGummiは家の地下で2位だった牡羊と取り巻きの牝羊数頭をこっそり隠して育てていて、
それが当局にばれちゃってやばくなって、兄に助けを求めたら山の向こうで放牧すれば火山もあってあったかいから、と二人でひとつのバイクに跨がり羊を連れて逃亡の旅に出たら、とんでもない嵐がやってくる。
間に羊が挟まっているので暖かかったりふわふわしているかと思った兄弟同士の確執は実はものすごく深く険しくて、牡羊が巻き角をがんがんぶつけあっているのと同じく激しく当たりすぎて互いにへろへろになっている、犬も喰わねえ羊だし、そういうのがアイスランドの原野の点景としてぽつん、とあって、ここはそれしかない国、星みたいなかんじで。
兄弟はわりとなんでか割と簡単にヌードになってしまうのだが、そうするとWilliam Blakeの版画 - “The Ancient of Days”とか - みたいで、すると途端に世界がでっかく神々しくひろがって、なんかよいの。
でもやっぱし羊だよねえ。 アイスランドの固有種らしいけど、角の巻き具合とかそのバランスが素敵で兄弟よか羊のほうに見とれて気になっちゃってさあ。
1.08.2016
[film] The Little Prince (2015)
もうずっと昔々、11月の28日の土曜日の晩、日本橋で見ました。
冒頭で、Wild Bunchのロゴが出てきたので、あ、だいじょうぶかも、よいかも、て思った。
おおもと(≠原作)の「星の王子さま」(内藤濯訳)は小学校の頃からずっと読んでて、大学でも半年間(日本語テキストだけど)中味を勉強するゼミにいた、くらいずっとお気にいりで、「バナナブレッドのプディング」と並んでいまの自分を作った本のひとつで、映画も予告をみたとこで内容はだいたい予測ついて、外れなかった。 (あ、成長した王子が出てくるとは思わなかったけど)
ママ(The Mother - Rachel McAdams)はシングルだけどばりばりのお仕事ウーマンでお受験を控えた小学生の女の子(The Little Girl)が、冒頭で入学面接に失敗して、最後の手段として志望校の通学圏内に引っ越してくる。 引っ越してもお勉強と規則正しい生活は必須でがんばるのだが、隣にへんなじじいが住んでて、余りにやかましいのでなんか覗いてみたら何故か飛行機とか置いてあってなんか楽しそうでだんだん道を踏み外していくの。
老師との出会いを経た少女が大人の世界を渡りながら大切なことを学んでいく。 ていういつもの、ほんとによくあるお話し。
原作は砂漠に不時着して先が見えなった、死を覚悟したパイロットが変な子供と出会う、というお話し。(だから本当は大島弓子の「金髪の草原」みたいになればなー、とちょっと思っていた)
ふたつの矢印の方角はやや異なるが、偉大すぎる原作のコアにあるものは変わらないし断固ぶれてないし、多少の謎かけ、多少の脚色があったくらいで崩れるもんではないの。
生きていくのはしんどいし、恋をするのも大変だし、大人の世界はわけわかんないし、要するにこんな世の中生きててどこがいいわけ ? うーん、でもね、たぶん、きっとね … みたいなかんじ。
日本の勤勉アニメみたいに「生きろ」とか「がんばれ」とかお願いだから言わないで、と思っていたらそこはなんとかだいじょうぶだったかも。
声優がなかなか素敵で見事で、Marion CotillardのThe Roseとか、Benicio Del ToroのThe Snakeとか、Bud CortのThe Kingとか、そして成長した王子さまがPaul Ruddとか、仏語版のThe FoxがVincent Cassel(英語版はJames Franco) とか、この声優キャストでそのまま実写版を作ってほしいくらいだった。
アニメーションとしては、少女の世界が最近のふつうのアニメ、老飛行士の体験した世界が紙(?)アニメ、そのつなぎに原作本の紙と3層になっていて、そりゃそうなんだけどもうちょっと冒険したりぶっ壊したりしても、とか。 少しだけ。
でも2015年のアニメーションは、"Inside Out”があって、”The Peanuts Movie”があって、これがあって、よい1年だったのではないでしょうか。ね。
冒頭で、Wild Bunchのロゴが出てきたので、あ、だいじょうぶかも、よいかも、て思った。
おおもと(≠原作)の「星の王子さま」(内藤濯訳)は小学校の頃からずっと読んでて、大学でも半年間(日本語テキストだけど)中味を勉強するゼミにいた、くらいずっとお気にいりで、「バナナブレッドのプディング」と並んでいまの自分を作った本のひとつで、映画も予告をみたとこで内容はだいたい予測ついて、外れなかった。 (あ、成長した王子が出てくるとは思わなかったけど)
ママ(The Mother - Rachel McAdams)はシングルだけどばりばりのお仕事ウーマンでお受験を控えた小学生の女の子(The Little Girl)が、冒頭で入学面接に失敗して、最後の手段として志望校の通学圏内に引っ越してくる。 引っ越してもお勉強と規則正しい生活は必須でがんばるのだが、隣にへんなじじいが住んでて、余りにやかましいのでなんか覗いてみたら何故か飛行機とか置いてあってなんか楽しそうでだんだん道を踏み外していくの。
老師との出会いを経た少女が大人の世界を渡りながら大切なことを学んでいく。 ていういつもの、ほんとによくあるお話し。
原作は砂漠に不時着して先が見えなった、死を覚悟したパイロットが変な子供と出会う、というお話し。(だから本当は大島弓子の「金髪の草原」みたいになればなー、とちょっと思っていた)
ふたつの矢印の方角はやや異なるが、偉大すぎる原作のコアにあるものは変わらないし断固ぶれてないし、多少の謎かけ、多少の脚色があったくらいで崩れるもんではないの。
生きていくのはしんどいし、恋をするのも大変だし、大人の世界はわけわかんないし、要するにこんな世の中生きててどこがいいわけ ? うーん、でもね、たぶん、きっとね … みたいなかんじ。
日本の勤勉アニメみたいに「生きろ」とか「がんばれ」とかお願いだから言わないで、と思っていたらそこはなんとかだいじょうぶだったかも。
声優がなかなか素敵で見事で、Marion CotillardのThe Roseとか、Benicio Del ToroのThe Snakeとか、Bud CortのThe Kingとか、そして成長した王子さまがPaul Ruddとか、仏語版のThe FoxがVincent Cassel(英語版はJames Franco) とか、この声優キャストでそのまま実写版を作ってほしいくらいだった。
アニメーションとしては、少女の世界が最近のふつうのアニメ、老飛行士の体験した世界が紙(?)アニメ、そのつなぎに原作本の紙と3層になっていて、そりゃそうなんだけどもうちょっと冒険したりぶっ壊したりしても、とか。 少しだけ。
でも2015年のアニメーションは、"Inside Out”があって、”The Peanuts Movie”があって、これがあって、よい1年だったのではないでしょうか。ね。
1.07.2016
[film] Heaven Knows What (2014)
それにしても、毎日しぬほどねむい。 どこか壊れているのか。
31日の大晦日の午後、新宿で見ました。 今年最後の1本。年が明けてから見るもんでもない、気がしたので。
「神様なんかくそくらえ」
NYの路上(おそらく、Upper Westのほう Needle Park?)でからからに擦りきれて鼻が嘴みたいに尖がった女の子 - Harleyが同じようなぼろぼろの風体の男 - Ilya(Black Metal好き)にびーびー泣きながらごめんよう許してよう、て喚いていて、Ilyaのほうはうるせえ死んじまえ、みたいに怒鳴って、Harleyはわかったよう、って剃刀買ってきてやっちゃうからねマジだからね、とか言ってほんとに手首切って病院運ばれて、でもとっととそこを抜け出して仲間のとこに戻って、食事するみたいに薬もらって薬が切れるとわめいて暴れて喧嘩して、みたいな修羅場がえんえん続いていく。 仲間にしても薬にしても煙にしても、自分がハイになれるかなれないか、その境界、一線を求めて、屋外を雀とか鳩みたいに彷徨っているばかり。 やがて泥棒とかをやって得たお金でどっかに行こう、と北行きの長距離バスに乗って二人旅に出るのだが、Harleyが寝ている間にIlyaだけ降りちゃって、彼は寒いからそこらの廃屋にもぐりこんで寝ているときに火事で丸焼けになっちゃって、彼女は泣きながら元の場所に戻って、結局なにもかも前とおんなじで。
修羅場も喧嘩も注射針もアルコールも煙も、ぜんぶ苦手で見たくない関わりたくないと思いながら片隅でひっそり生きようとしているのでなかなか見ているのはきつかったのだが、なんでそういうことになってしまったのか、とか経緯や背景の話も、親兄弟も学校も職場の話も一切なく、タイトル通り天国もくそもない地点(神様なんてとてもとても)から始まっている、その突き放したかんじはよかったかも。 救いがあるとしたら注射針か、みたいな。
主人公の実体験に基づく実話、らしいが"Heaven Knows What"て始めからケツまくっているので、「たいへんでしたねえ」とでも言っておけばよいのかどうか。
そういう始まりもなく出口もない底抜け状態を表すのにうにょうにょとうねってくねって止まらない電子音楽は恰好で、74年の冨田勲の「月の光」とAriel Pinkがあっさりすんなり同居している。 たぶん200年前から路上で繰り返されてきた擦り切れた木っ端のような風景と中心のない空洞で鳴り続ける電子音はとっても相性がよいのかも。
あと、タイトルバックとか、John Cassavetesなんかを意識しているのかしら。 果てしなく流れていく、みたいな。
同じ系統の薬まみれでせつない青春映画、というと"The Panic in Needle Park" (1971)が思いだされて、あれもUpper Westが舞台だったけど、青春映画としてはこっちのがよかったかなあ。 "The Godfather" 前のAl Pacinoが出ていて、Film ForumとかでNY映画の特集なんかがあるときには必ずかかる古典。
どうでもいいけど、主人公達がドラッグストアで万引きしてマガジンスタンドに転売する"5Hours"のドリンク(5時間眠くなりません、てやつ)、ぜったい、ぜんぜん効かないんだよね。
Pierre Boulezさんが亡くなりました。
クラシックだと、ポリーニさんに次いでたくさんライブに行ったひと。 2003年の3月、Carnegie HallでEnsemble Intercontemporainが演奏した”Répons”とか”Éclat”はすごかったなあ。 古典とモダンを極めて理路整然に繋いでしまう音楽家であり指揮者でありすばらしい笑顔のおじいちゃんでした。
天国ではどんな音を鳴らしているのでしょう。 ご冥福をお祈りします。
31日の大晦日の午後、新宿で見ました。 今年最後の1本。年が明けてから見るもんでもない、気がしたので。
「神様なんかくそくらえ」
NYの路上(おそらく、Upper Westのほう Needle Park?)でからからに擦りきれて鼻が嘴みたいに尖がった女の子 - Harleyが同じようなぼろぼろの風体の男 - Ilya(Black Metal好き)にびーびー泣きながらごめんよう許してよう、て喚いていて、Ilyaのほうはうるせえ死んじまえ、みたいに怒鳴って、Harleyはわかったよう、って剃刀買ってきてやっちゃうからねマジだからね、とか言ってほんとに手首切って病院運ばれて、でもとっととそこを抜け出して仲間のとこに戻って、食事するみたいに薬もらって薬が切れるとわめいて暴れて喧嘩して、みたいな修羅場がえんえん続いていく。 仲間にしても薬にしても煙にしても、自分がハイになれるかなれないか、その境界、一線を求めて、屋外を雀とか鳩みたいに彷徨っているばかり。 やがて泥棒とかをやって得たお金でどっかに行こう、と北行きの長距離バスに乗って二人旅に出るのだが、Harleyが寝ている間にIlyaだけ降りちゃって、彼は寒いからそこらの廃屋にもぐりこんで寝ているときに火事で丸焼けになっちゃって、彼女は泣きながら元の場所に戻って、結局なにもかも前とおんなじで。
修羅場も喧嘩も注射針もアルコールも煙も、ぜんぶ苦手で見たくない関わりたくないと思いながら片隅でひっそり生きようとしているのでなかなか見ているのはきつかったのだが、なんでそういうことになってしまったのか、とか経緯や背景の話も、親兄弟も学校も職場の話も一切なく、タイトル通り天国もくそもない地点(神様なんてとてもとても)から始まっている、その突き放したかんじはよかったかも。 救いがあるとしたら注射針か、みたいな。
主人公の実体験に基づく実話、らしいが"Heaven Knows What"て始めからケツまくっているので、「たいへんでしたねえ」とでも言っておけばよいのかどうか。
そういう始まりもなく出口もない底抜け状態を表すのにうにょうにょとうねってくねって止まらない電子音楽は恰好で、74年の冨田勲の「月の光」とAriel Pinkがあっさりすんなり同居している。 たぶん200年前から路上で繰り返されてきた擦り切れた木っ端のような風景と中心のない空洞で鳴り続ける電子音はとっても相性がよいのかも。
あと、タイトルバックとか、John Cassavetesなんかを意識しているのかしら。 果てしなく流れていく、みたいな。
同じ系統の薬まみれでせつない青春映画、というと"The Panic in Needle Park" (1971)が思いだされて、あれもUpper Westが舞台だったけど、青春映画としてはこっちのがよかったかなあ。 "The Godfather" 前のAl Pacinoが出ていて、Film ForumとかでNY映画の特集なんかがあるときには必ずかかる古典。
どうでもいいけど、主人公達がドラッグストアで万引きしてマガジンスタンドに転売する"5Hours"のドリンク(5時間眠くなりません、てやつ)、ぜったい、ぜんぜん効かないんだよね。
Pierre Boulezさんが亡くなりました。
クラシックだと、ポリーニさんに次いでたくさんライブに行ったひと。 2003年の3月、Carnegie HallでEnsemble Intercontemporainが演奏した”Répons”とか”Éclat”はすごかったなあ。 古典とモダンを極めて理路整然に繋いでしまう音楽家であり指揮者でありすばらしい笑顔のおじいちゃんでした。
天国ではどんな音を鳴らしているのでしょう。 ご冥福をお祈りします。
1.06.2016
[film] Sylvia Scarlett (1935)
お正月の2日は毎年そうであるように、映画初めでシネマヴェーラに行くしかない定めになっていて「映画史上の名作14」から2本見ました。
そしてほぼ満席。 TV死ぬほどつまんないし、世界のどこにも居場所ないもんねえ。
(ほんとうは元旦の深夜にTVでやってた”Silver Linings Playbook”を少しみたけど)
Sylvia Scarlett (1935) 「男装」
George CukorにKatharine HepburnにCary Grantなんだから、失敗作と言われていようがなんだろうが見ないわけにはいかない。
冒頭、マルセイユに暮らすSylvia (Katharine Hepburn)は母を亡くして、父が英国に行って母の遺したレースとかを売ってくるというので一緒に連れていって、と頼むのだが女は面倒なことになるからだめだ、と返されたので頭きて長髪をばっさり、Sylvesterていう名前の男の子になって父と一緒に海を渡る。 道中でJimmy (Cary Grant)ていう怪しげな男にひっかかってすっからかんになった父子は、もうひとりメイドのMaudieを加えてキャラバンのどさ回りをしていくの。
その過程で父とMaudieは仲良くなって、Sylviaは画家のMichael(Brian Aherne)にちょっと惹かれたりするのだが、「男の子」なのでどうすることもできなくて、とにかくいろんなことが起こる。
ストーリーの焦点があんまし定まらないのとか、Sylviaが女の子であることを明かすところがあっさりしすぎてて盛りあがらないとか、なかなかしょうもないのだが、ショートヘアのKatharine Hepburnと彼女が女装に変わったとこ(浜辺に脱ぎ捨ててあったのを盗っちゃう)がすんごくキュートでとってもよいし、最後にJimmyが吐き捨てるようにいう”It's a pig's world” て台詞で「んだんだ!」ってすべて救われるかんじがするの。
Scarlet Street (1945)
“Sylvia Scarlett”から”Scarlet Street”へしりとり。 (最後の”t”がちがうけど)
もう何回も見ているのだが見るたびに金縛りになって戦慄するやつ。
銀行の出納係として真面目に働くChris (Edward G. Robinson)は、勤続25年で会社から表彰された晩、道路で小競り合いする男女を見て女性のほうを助けてあげる。 彼女 - Kitty (Joan Bennett)は女優の卵とか(うそです)で話をいろいろ聞いてあげるとなんかかわいそうで、Chrisも自分を貧乏画家だ、みたいに軽く嘘ついて会うようになる。 Kittyの裏には実はJohnnyていうちんぴらがヒモみたいにくっついて金をせびっていて、Chrisにはがみがみやかましい妻がいて、あまり若い女性と接したことがなかったChrisは、そのままずるずる彼女の虜になって言われるままにアパート借りてあげたり、やがては会社のお金を着服するようになって、いろんなのが崩れ始める。
Kittyの部屋に持ち込まれたChrisの絵を金欲しさに露店に出してみたらそれが売れて評価されて画廊が札束もってやってくるのだが、Chrisの絵を無断で売ったとか言えないので、描いたのはKitty、ということになったり、こんなふうにいろんな嘘が重なって塗り固められてその上をChrisは転がり落ちていって、その成り行き、顛末、筋運びの機械のように精巧な進め方が生々しくて、加えて機械故の非情さときたら半端じゃない。 転落とか絶望とか、その描きかたはいろいろあると思うけど、慟哭も涙もほとんどなしで、ここまで人やエモを織りこんでしまうってなんて恐ろしい(Fritz Lang)、としか言いようがないの。
Joan Bennett、ほんとわるそうだしー、Edward G. Robinson、ほんとあわれだしー。
シネマライズが閉館なのかー。 新宿ミラノの時とかはべつにぜんぜんだったけど、ここはなー。
「ホテル・ニューハンプシャー」とか、ほぼゆいいつ、とっても甘酸っぱいなんかと映画館と映画が結びついているのよねー(遠い目)。
そしてほぼ満席。 TV死ぬほどつまんないし、世界のどこにも居場所ないもんねえ。
(ほんとうは元旦の深夜にTVでやってた”Silver Linings Playbook”を少しみたけど)
Sylvia Scarlett (1935) 「男装」
George CukorにKatharine HepburnにCary Grantなんだから、失敗作と言われていようがなんだろうが見ないわけにはいかない。
冒頭、マルセイユに暮らすSylvia (Katharine Hepburn)は母を亡くして、父が英国に行って母の遺したレースとかを売ってくるというので一緒に連れていって、と頼むのだが女は面倒なことになるからだめだ、と返されたので頭きて長髪をばっさり、Sylvesterていう名前の男の子になって父と一緒に海を渡る。 道中でJimmy (Cary Grant)ていう怪しげな男にひっかかってすっからかんになった父子は、もうひとりメイドのMaudieを加えてキャラバンのどさ回りをしていくの。
その過程で父とMaudieは仲良くなって、Sylviaは画家のMichael(Brian Aherne)にちょっと惹かれたりするのだが、「男の子」なのでどうすることもできなくて、とにかくいろんなことが起こる。
ストーリーの焦点があんまし定まらないのとか、Sylviaが女の子であることを明かすところがあっさりしすぎてて盛りあがらないとか、なかなかしょうもないのだが、ショートヘアのKatharine Hepburnと彼女が女装に変わったとこ(浜辺に脱ぎ捨ててあったのを盗っちゃう)がすんごくキュートでとってもよいし、最後にJimmyが吐き捨てるようにいう”It's a pig's world” て台詞で「んだんだ!」ってすべて救われるかんじがするの。
Scarlet Street (1945)
“Sylvia Scarlett”から”Scarlet Street”へしりとり。 (最後の”t”がちがうけど)
もう何回も見ているのだが見るたびに金縛りになって戦慄するやつ。
銀行の出納係として真面目に働くChris (Edward G. Robinson)は、勤続25年で会社から表彰された晩、道路で小競り合いする男女を見て女性のほうを助けてあげる。 彼女 - Kitty (Joan Bennett)は女優の卵とか(うそです)で話をいろいろ聞いてあげるとなんかかわいそうで、Chrisも自分を貧乏画家だ、みたいに軽く嘘ついて会うようになる。 Kittyの裏には実はJohnnyていうちんぴらがヒモみたいにくっついて金をせびっていて、Chrisにはがみがみやかましい妻がいて、あまり若い女性と接したことがなかったChrisは、そのままずるずる彼女の虜になって言われるままにアパート借りてあげたり、やがては会社のお金を着服するようになって、いろんなのが崩れ始める。
Kittyの部屋に持ち込まれたChrisの絵を金欲しさに露店に出してみたらそれが売れて評価されて画廊が札束もってやってくるのだが、Chrisの絵を無断で売ったとか言えないので、描いたのはKitty、ということになったり、こんなふうにいろんな嘘が重なって塗り固められてその上をChrisは転がり落ちていって、その成り行き、顛末、筋運びの機械のように精巧な進め方が生々しくて、加えて機械故の非情さときたら半端じゃない。 転落とか絶望とか、その描きかたはいろいろあると思うけど、慟哭も涙もほとんどなしで、ここまで人やエモを織りこんでしまうってなんて恐ろしい(Fritz Lang)、としか言いようがないの。
Joan Bennett、ほんとわるそうだしー、Edward G. Robinson、ほんとあわれだしー。
シネマライズが閉館なのかー。 新宿ミラノの時とかはべつにぜんぜんだったけど、ここはなー。
「ホテル・ニューハンプシャー」とか、ほぼゆいいつ、とっても甘酸っぱいなんかと映画館と映画が結びついているのよねー(遠い目)。
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