1.13.2016

[art] YOKO ONO: FROM MY WINDOW

まだ立ち直れない。 星が消えるというのはこういうことなんだ、と実感している。
“Black Star”とはよく言ったもんだわ。 こんちくしょうめ。

8日の金曜日は朝から築地で目の定期検診があって、ずいぶん長いことサボって行っていなかったのでいろいろ面倒になりそうだった(実際、そうなった)から、会社休むことにして、そのまま美術館行ったり映画行ったりした。

午前中に東京都現代美術館で見ました。
行くのも含めてあまり好きな美術館ではないのだが、これだけは。

昨年のMOMAでの展示 -“ Yoko Ono: One Woman Show, 1960 - 1971" - 彼女が昔、半分うその個展案内として出したやつを40年の時を経て実現させたやつ - の方が見たくて、それとどの程度違うのかわからないのだが、とりあえず見る。

個々の作品についてはいいよね。 彼女の個々の作品をこんなふう、あんなふう、と形容したり説明したりすることほどかったるく、彼女の作品の本質から外れていってしまうことはないと思うし、See - Touch - Feel するのが一番手っとり早い、そういうたぐいのアートなのだし、興味あるひとには彼女の本(「グレープフルーツ」必読)だってあるし。

見て、なるほどー、とか、これかー、とか、一目で、一瞬でわかってしまうものと、詩や文章のようにちょっとだけ咀嚼して飲みこんで染みてくるものと二通りあるのだが、どちらもシンプルでダイレクトで、彼女の窓がどこにあるのか、それがわかってしまえばあとはそれを自分のに同期させて開け放つだけ。 風とか光とか気持ち良く流れこんでくる。

わたしが彼女の作品とか、Nam June PaikとかFluxusの活動も含めたあれこれにはまっていたのは80年代初だったので、ずいぶん時間が経ってしまったねえ、というのと、今どき、あれらの作品が色褪せてみえてしまうのだとしたら、それってどういうことなのだろうか、とか考える。

おそらく、当時の受け取られ方のひとつだったかもしれない瞬間芸的なおもしろさ、でいうといまの時代は、万事インタラクティブで可視化してリンクしてタグして共有して、みたいなのを誰とでも、どこでもできて、しかも場所も容量も制約なし、であるから、例えば、おもしろいおもしろくない、とか、要不要の議論でいうと、昔のは(いまの時点でみれば)あんまおもしろくないし、(いまの時点でみれば)あんまいらないかも、なのだろう。 金になんないしね(嫌味)。

「アート」がコンテンツだったりコンテキストだったりアセットだったりクリエイティブだったりイノベーティブだったり社会貢献だったりするかもしれない今の時代の子供たち、35年前のJohn Lennonの死もおとといのDavid Bowieの死もあんまよくわかんない、そもそも彼らを知らない今の子供たちにとって、ここに並べられたような「アート」の数々はおっそろしくかったるい変てこなポエムとか電波とかに見えてしまうのかもしれない。

べつにアート至上主義云々いうつもりはないけど、会場を流していくと、所謂「ソーシャル」な最近のいろんなのとはまったく別の、寧ろそれとは対極の、ひとりひとりの窓と向かい合うパーソナルな表現だよね、とおもった。 届けられた手紙、手渡されるインストラクション、手渡されるハサミ、手渡されるズタ袋、それらでなにができるだろう、なにが見えるだろう。 というところから自分の窓を。

Bowieに”Breaking Glass” (1978) ていう曲があるのだが、それなの。
(なんでもBowieに繋いでみる)

葉書アートを見て、昨年のGuggenheimでの河原温を思いだした。 NYでふたりの関わりはなかったのかもしれないが、なんか不思議でおもしろいねえ。

彼女のライブで印象深かったのが、911の直後、Beastiesが主催したベネフィット - ”New Yorkers Against Violence” で、ひとりステージに仁王立ちになり、「うぎゃううううーー」とか絶叫して咆哮して、それだけで消える、ていうやつ。 惚れました。
 

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