10月25日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
原作はDaniel Krausによる同名小説(2023)、脚本は原作者と監督Brian Duffieldの共同。製作には大好きな”Splash” (1984)のBrian Grazerがいる。あれとはちょっと違うけど。
邦題は『クジラに落ちた男』。落ちたというよりのまれたのだが。
カリフォルニアの海岸沿い、冒頭、具合の悪そうなMitt (Josh Brolin)が船の上で手紙を残して重しをつけて海に潜っていく。船にいるおじさんは泣いていて、それが自殺であることがわかって、そこから1年後、彼の息子のJay (Austin Abrams)が実家に戻ってきて母(Elisabeth Shue)や家族と再会して、父とのことを振り返る。幼い頃からスキューバダイビングの特訓を受けてきたがまったく父の期待には応えられないまま家を離れた息子だったなあ、など、ぐじぐじ思いだしたりしているうち見つかっていない父の遺骨を拾ってみよう、と思ってひとりで海に入っていく。シャチが出るので海辺は遊泳禁止だったのに。
海に入ってしばらくすると、ダイオウイカとクジラが追いかけっこをしていて、ひえー、とか見ていると再び現れたダイオウイカに絡まれて、絡まれた状態で引きずられてクジラにのまれてしまう。最初はパニックでなにがなんだかわからず、でもまだ死んだり溶けたりしていないのでどうにかしてみよう、といろいろやってみることにする。酸素の残りは約1時間。
自分がそうなったら絶対、簡単に諦めて消化されていくよね(どれくらい痛いのか、麻酔みたいにやられるのか、等)、と思うのだが父親に認められなかった/認められたいJayは、父の教えを思い起こしたりしつつ、がんばろうと決意する。でも先にのまれたダイオウイカは暴れたけど消化されちゃうし、その嘴が刺さって負傷するし、強い力でのまれて運ばれた胃の次の部屋では消化液で手がただれたり、ここにいたらやばい、って発光クラゲの明かりと尖った嘴を使って食道の方に戻る。更にがんばったら口の方まで行けて少し外が見えて、クジラクルーズの人たちの声が聞こえておーいおーい、ってやるのだが、クジラは深海のほうに急降下していって…
こないだの”Resident Evil” (2026)でも巻き込まれて散々な目にあって災難続きのAustin Abramsが
Jason Stathamでもあるまいし、落ち着け、と、だいじょうぶ、を自分に向かって連発しながらがんばっていくのだが、この人の最大の魅力は、引っぱられたりやられたりしたときの(”Resident Evil”にもあった)「きゃーっ」っていう叫びにならないような小さい叫びで、この生々しさがたまんないのかも、と気づいた。
結論はのみこまれて排泄されちゃった... とか、のみこまれたら父に会えたよ、とかになるわけはなくて、じゃあどうやって、の中身は結構バカバカしいのだが、のまれてじたばたしていったり、海に入る前の段階でこれは… のことも多いので、そこそこ安心する(どこが?)。 荒唐無稽だけど、父と息子のお話として筋は通っていたかも。
というか、最後にタイトルである”Whalefall”の意味が明らかになると、父と子の関係とか、マスキュリニティとか、この映画の中で描かれたいろんな層での戦い、サバイバルなどが、すべてそれなりのスケールで説明されてしまう、その風呂敷の大きさはなんかよいと思った。 そこらの海洋パニックやサメ映画よりもどこか純文学ぽいというか。
あと、クジラはなーんも悪くなくてかわいそうすぎるので、次はクジラ目線で、ほんとうについていなかった散々・最悪の日、を映画にしてあげて。
11.02.2026
[film] Whalefall (2026)
[film] 三味線とオートバイ (1961)
10月24日、土曜日の昼、シネマヴェーラで始まった特集『映画監督 篠田正浩 レトロスペクティブ』で見ました。 レトロスペクティブなのにたった一週間でよいのか。
原作は川口松太郎のこてこて同名小説、撮影は小杉正雄。真鍋博によるタイトルデザインが楽しい。
房雄(川津祐介)と初子(桑野みゆき)が友人たちとバイクで神奈川の方を飛ばして楽しんでいて、その帰り道、ふたりだけでどっか行こう、って抜けたら事故って初子は病院で目覚める。彼女は神楽坂辺りで小唄の師匠をしているとよ枝(月丘夢路)と2人暮らしをしていて、父は既に亡くなっていて、病院で彼女を診る医師の畔柳(森雅之)はいろいろ世話を焼いてきて変なかんじ。
房雄の方はよいとこのぼんで、事故の後の治療も自分だけ別の病院に移っちゃうし、彼の家に訪ねていっても会わせて貰えなくてちょっとやなかんじ。
そういうのに加えてとよ枝と畔柳がよいかんじになっているのがなんか気にくわなくて、居場所がなくなってきた初子はどこに向かうのかー。
三味線かオートバイか、の二択でぎりぎりしていく、のかと思ったらその辺りの掘り下げはやや中途半端、ごくふつうのcoming of ageモノで、恋愛や母からの自立を巡って、階層の段差とか戦争/男の勝手とか母の幸せなどが去来して頭きて揺れ動いてがんばらなきゃー、になっていく娘のお話し。 あと、川津祐介のどこがよいのだかまったくわからないのと、森雅之はなんもしないで一番楽なポジションなのと。
わが恋の旅路 (1961)
10月28日、水曜日の晩、シネマヴェーラの篠田正浩特集で見ました。
原作は曽野綾子の『わが恋の墓標』、脚本は寺山修司と篠田正浩、音楽は山本直純、撮影は↑と同じ小杉正雄、タイトルデザインは和田誠 - この時点で既にあの風味が。
お金持ちの宇佐美夫人(月丘夢路)との縁を断ち切って新聞記者としてスタートしたばかりの潔(川津祐介)が、溜まり場の喫茶店「朱印船」でウエイトレスの千江(岩下志麻)と知りあって恋に落ちてしまうのだが、彼女には競輪狂いのどうしようもない父親がいて、そんな地獄から抜けさせてあげよう、って富豪のぼんぼん木村(渡辺文雄)が声をかけていて、でも彼女を幸せにできるのは自分しかいない、と信じて疑わずにいたら仕事のタイミングあれこれで木村に持っていかれて連絡が取れなくなってしまう。
結婚した千江は家事とかがんばるものの木村の父(山村聰)からは認められずにストレスまみれで、そのうち事故で一切の記憶を失ってしまい潔との仲はどうなるのか、かつての愛の記憶を取り戻すことはできるのか、というこてこてのメロドラマで、ありきたりの感動に落とそうとはせず、道路とか芝刈り機などに繋いでいくところは悪くなかったかも。それが他人(外国人)の家の庭、というところもおもしろいかも。
しかし、しょうもない父親から離れられない娘=岩下志麻、その周辺をうろつく嫌らしい男ども、という構図はどうしても『秋刀魚の味』 (1962)を思い起こさせて、確かに岩下志麻の清楚な美しさはそうでしょうとも、なのだが、こういうのを見ると『戦争に負けて馬鹿な奴らが威張らなくなってよかった」(by 加東大介)けどスケベな奴らは変わらず残ったのだなあーあー、って。
11.01.2026
[dance] Hofesh Shechter Company “Theatre of Dreams”
10月25日、日曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
埼京線が最寄りの与野本町の駅に止まってくれなくて少し焦った。
イスラエル出身の振付家Hofesh Shechterが主宰するイギリスをベースとしたカンパニーの公演。現地では2024年に上演されている。休憩なしの90分。
客電がついた状態で、ジーンズ姿のひとりのダンサー(男)が客席の通路からステージにゆっくり歩いていくと、彼のために幕に隙間があいて、昇ってそこに入ると少しづつ人数を増やしながら全体では12人(たしか)のダンサーによる群舞が始まる。照明の暗い黒と青と赤、奥に向かって幾層にもレイヤーになって続く奥まで、右左で閉じたり遮っては開いてを繰り返すカーテン幕と、その奥に隙間に見え隠れしながら蠢いて重なったり連なったりしていくダンサーたち。背後ではややノイジーで工場のように圧迫感のある音(Hofesh Shechter自身が作っているそう)が壁としてずっと覆っていて、照明(by Tom Visser)も音と一緒にダイナミックに明滅して、(イメージする)夢に入っていく、夢の世界に取り込まれて閉じこめられ抜けられなくなっていく様がわかりやすく描かれる。ところどころ一列二列に並んでの止められない群舞やひとりで立ち尽くしてどうしようの不安や理不尽… 等は当然のようにPina BauschのTanztheaterを思い起こさせたりするのだが、これらみんな「夢だから」とか「悪夢だし」で片づけてしまえそうなやつかも。というかそもそもダンスというのは現実の反対側の夢や幻想がもたらすものではなかったか、と。
途中から赤いスーツを纏った3人組のミュージシャン(パーカッション、管、ギター、ヴォイスなど全員がマルチ)がステージの右奥でバッキングするようになると、ダンサーの動きにライブのダイナミズムが重なるようになって、夢の世界が外に滲み出てじわじわ圧してくるかんじになって、でもまだ夢は夢かなー、って見ていると、その流れで「さあみんな立って踊って~(日本語)」でステージ側から煽られ客電がついて、ダンサーもわらわら客席に降りてきたりふつうのライブのようになる。(ダンス見にきてあんま立ったり踊ったりしたくない派)
このまま止まらずに最後まで立って見るのはしんどいかも、と思ったらこれは終盤の入口だったようで、ダンサーたちは元に戻って座ることもできて、ただ音楽はより激しいラテン寄りのパーカッシヴなのに変わり、ええじゃないかええじゃないかの止まらないようなの(どっちみち止まっていないのだが)になって、最後は神殿のような(幕の上の飾りとか)ところにたどり着いて、たぶんもうじき目覚めがやってくるのかも、くらい。
“Dreams”というお題だけで90分を流すのはしんどいかも、と思っていたが一応ストーリー的な流れと、音楽と照明とカーテン幕をうまく使って全体の熱がうねって上がって収まっていく様を描き、これが“Theatre of Dreams”なのだ、と見せる。 強弱、揃える揃えないのバランスも含めてとてもうまく考えられたステージではあった。
迫ってくる夢の始まりから終わりまでの冷熱と明暗を叩きつける強さで一気に見せる、その強度と完成度は申し分ないと思ったのだが、どこから始まるでも終わるでもない夢にだらだら浸ったり醒めたりを繰り返し、その流れで映画館とか美術館を彷徨って仕事なんてやだー、の日々のぐだぐだを生きているものとして、あのびっちりきびきびと動いていくテンションはきついわー、とちょっと思ってしまったのだった。
無意識とかしらんけど、夢ってまずあんなふうにオーガナイズされていない、なによりも自分しか見れない、共有不能・不要のどうしようもなく隠微で腐れたしょうもないものであってほしかったの。 Pinaの「夢」がすばらしいのはそのどうしようもなく不恰好でみっともないとこにあったのだと思うし。
[film] Blue Heron (2025)
10月25日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下の9Fで見ました。
システムのメンテナンスでずっとオンラインでチケットが取れないので窓口で買った。
カナダのSophy Romvariの作・監督長編デビュー作で、ハンガリー・カナダ共同制作。監督がヨーク大学の修士修了で作った短編ドキュメンタリー”Still Processing” (2020) – 未見- が元になっているそう。
90年代半ばのバンクーバー島で、道路脇の一軒家に車に乗った一家が越してくる。母(Iringó Réti)と父(Ádám Tompa)と小学生低学年くらいのSasha (Eylul Guven)と二人の兄弟と、他の子達より少し年長のティーンで父親がちがうJeremy (Edik Beddoes) の6人で、父は会社には行かずに家のPCでプログラミングのようなことをしていて、全体としてはとても静かな家族。両親は、子供たちの前では英語、彼らに聞かれたくない内容の時はハンガリー語で会話をする。
そのうち、家族がとても静かに見える背景には、ひょろっとしてメガネをかけてたまに薄笑いを浮かべる程度で殆ど喋らないJeremyの何をしでかすかわからない厄介な挙動、存在があることがわかってきて、万引きで捕まって手錠をかけられて帰宅したり、壁をどすどすやっていたり屋根に登っていたり、ずっとどこかに消えてしまったり。その度に父と母は口論になるので家族は静まり、医者や外部からやってきたソーシャルワーカーがいろいろ言うけど - どっかに移す“voluntary placement”とか - 原因も対策も的を得たなにかのようには思えない。
他方で、家族みんなで博物館に行ったり、暗室で写真を現像したり、水遊びをしたり、やはり静かではあるが楽しい思い出もいくつか描かれるので、どこにでもある家族の斑な思い出、不安定でも途切れず続いていく、いこうとする何かはみんなの中にある。
映画はそのトーンを変えることなく、気がつけば現代に飛んで続いていて、映像作家であるらしい女性がオンラインで療養士や専門家の意見交換を聞いたり、アーカイブの箱を開けてみたり、そのうちその中心にいるのが成長したSasha (Amy Zimmer)であることがわかる。彼女はJeremyがどうしてあんなふうだったのか、なにが彼をあんなふうにしたのか、あの時、家族はどうすればよかったのか、自分にできることはなかったのか、をいまだに踏みしめるように追っていて、そのうち彼がもうこの世にはいないことも明らかになるのだが、でもそれでも… という静かな思いに彼女とカメラは引っ張られているよう。
家族みんなで博物館に行ったときに聞いたBlue Heron(アオサギ)の大きくなるとどこかに飛んでいっちゃいます後はどうなることやら、という、その生態、何を考えているのかまったくわからない顔(サギ類って本当にそう)がJeremyに重ねられて、どうしたものか、どうすることができようか、が改めて浮かぶ。アオサギ、京都にいくとよく見るけど、あんたいっつもそんなふうで、なに考えてんの? しかないよね。
小さい頃の不安定だった家族との思い出を撮る、成長してから振り返る、というと”Aftersun” (2022)を思いだしたりもするが、あそこまでエモや情愛に溢れていないし、Paul Mescal(的な人物)が引っ張ったりするわけでもない。淡々と振り返って、あれこれ重ねていくだけ、だけなのに/だけだから、助けてあげられなくてごめんね、また会いたいよ、がじんわり迫る。でもアオサギはどこかに飛んでいっちゃった。
JeremyはPearl Jamの曲から取ったのかしら? って少しだけ。
10.28.2026
[film] 太陽に背く者 (1959)
10月17日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画を輝かせるために』の邦画篇で見ました。
結局この特集の邦画の方、見れたのは2本だけだった。
監督は酒井辰雄、脚本は浅野辰雄、関沢新一、瀬川昌治、撮影は倉持友一。
昭和30年の冬、京都の西陣で、呑んでいたちんぴら同士の小競り合いがバーの外の路地に広がって、ひとりが夜の路上で刺殺され、4人組が逮捕されるが、捜査を担当した志村喬、杉浦直樹、田中春男の3人の刑事は言いたい放題で二転三転していくちんぴら達の証言に翻弄され、証拠探しで夏も冬も街中を這いずり回り、裁判では拷問虐待されたとか言われて世間から叩かれ、ぼろぼろになりながらも捜査を続けていく志村喬たち、それを支える妻の田中絹代など、地味な犯罪捜査・刑事モノ、というより世の中にはいろんな人がいるなー、のような広がりを見せる。
ちんぴらの喧嘩や恫喝の迫力と、とにかく全方位で耐えて黙々と捜査を続ける刑事たちと、それらを眺めつつバーでなんもしない記者とか、狭いながら太陽に背く者たちのいろんな世界がまるごと詰まっていて、それらを志村喬と田中絹代がぜんぶさらっていく。このふたりの労苦によってこの時期の日本は支えられていたのだな、ということがわかった。
愛することと生きること (1959)
10月20日、火曜日の晩、国立映画アーカイブの特集『映画監督 木村荘十二』で見ました。
この監督も作品もまったく知らないのだが、知らないので見てみるしかない。
『1957年に売春防止法が施行されたが、依然として対策が必要であるとの認識から、一般の理解と協力をより深めるべく製作された啓蒙映画』(チラシより)だそう。 『赤線地帯』 (1956)のその後、赤線の彼方に。 47分。
新宿の路地裏の暗い連れこみ宿の一室でひとり自殺を図った娼婦のたか子(小沢弘子)が婦人相談員の峰岸(平松淑美)や民生委員の協力を得ながら、少しづつ回復していく話。回想のなかでたか子は田舎で坑夫の実(左右田一平)と結婚して、職がないので東京に出てきたもののやっぱり職は見つからず、仕方なく売春を始めて、実はそれを横で見ていることしかできず、たか子は妊娠していることがわかり… というような経緯が綴られる。
みんな苦しかったし誰も悪くない、とされるのかもしれないが、やっぱり大枠では男がダメで悪いし酷いし、そうして弾かれた女性を女性たちが集まってどうにかしなきゃ、になる構図はこないだの『ファーストボイス』まで変わらず。外側だけだとお先真っ暗の、ものすごく暗い話なのだが甘さや湿り気をなくして、背後の善も悪も強く出さず、コトの経緯(どんなんなっても、こんなふうに救うことができる)をきちんと追って、最後、次の女性を救いに向かう女性たちがかっこよいの。
しかし、↑のも1959年。暗く大変な時代だったのだなあ、って。
末っ子大将 (1960)
上のとの2本立て。婦人団体(大阪母親プロ)の筋書の公募により村田忠昭が書いた原作を依田義賢が脚本に仕上げている。 後に『暴れん坊大将』と改題されたそうだが、そんなには暴れてないかも。
兄弟を亡くしながらも母親(望月優子)の愛情を受けて育つ7人兄弟の末っ子少年が読みあげる作文、という形式で母と子の日々のやりとりを追っていく。成瀬の『おかあさん』 (1952)みたいになるのか、と身構えたがそんなことはなかった。
犬を簡単にあげちゃうところとか、少年に空き巣の疑いをかけた警官とのやり取りのおもしろさとか、依田義賢すごいかも、ってなるのと、望月優子の笑顔もすばらしいの。 これも『愛すること...』と同じで湿っぽくなる隙間がなく、みんながきびきびと動いていって止まらないのがよかった。
ロケーション (1984)
10月22日、木曜日の晩、シネマヴェーラの特集『映画を輝かせるために』で見ました(邦画ふたつめ)。
森﨑東監督による松竹映画。 森﨑東の映画って見たことなかったかも。 原作はスチールカメラマン津田一郎の同名本。
ピンク映画のカメラマンの西田敏行が自宅に戻ると妻で主演女優の大楠道代が自殺未遂していて、監督の加藤武も喘息で倒れていなくなってどうしようって、でも現場に向かって宿屋の掃除婦の美保純を強引に主演に据えて撮り始めたら彼女は故郷にお墓参りに行く、というのでロケ隊ごと移動して、とにかく止めずに撮っていく。よくある現実とフィクションと現場がぐだぐだになっていくバックステージものなのだが、全員が自分の足元しか見ていないし、西田敏行も美保純もすぐに簡単に裸になってしまう人たちなので、どうにかなってしまう。
あと、これが映画デビューとなる助監督役の竹中直人ほか、現在は程よくじじいとして枯れている連中がみんな若くて、べったべたの80’s(演技)ムーブをしているのが楽しくて、そういう中でのこんなこともあったりして、のノリで転がっていく自由が楽しくて、これらが恥ずかしく見えない(笑えるか、というと微妙。ただこれは当時から)のはさすが。 これだから映画ってすばらしいな! にならないところも。
想定していない悪夢が続いていく撮影現場のやけくそと居直りを幾重にも自在な、どうとでもしたれ、のフリーフォームのなかに描いて、最初と最後が西田敏行の尻(入浴シーン)なのに、なんでこんなに爽やかな後味のになってしまうのか、謎としか言いようがないの。
10.27.2026
[film] NAZA (2026)
10月24日、土曜日の午後、シアター・イメージフォーラムで見ました。
監督は“No Other Land” (2024)のYuval Abraham とRachel Szor - ふたりのイスラエル人。Guardian紙とJW Filmsの制作による英国映画/ドキュメンタリーで、こないだのヴェネツィアでプレミアされて喝采を浴びて審査員特別賞を受賞している。
既に50以上の国で公開され、グローバルのストリーミングは11月下旬からGuardianのサイトで可能になるとのこと。
テルアビブの夜中のビルの上 - 屋外(室内だと盗聴される可能性があるから)でYuval Abrahamが匿名のイスラエル軍の関係者24名に3年間に渡ってインタビューをしていった記録(もう1人のRachel Szorは撮影担当)、それだけの77分。 インタビューされる軍関係者の顔は見えないように、声も変えられている。
戦闘や虐殺の凄惨な現場が映しだされるわけではない。夜の、相手の表情が見えない聞き語りと軍関係者が自分で描いたりする説明の絵図と、たまに向かいのビルのなかで瞬くディスプレイとか、その程度の、全体としては極めて静かな都会の夜を映した映画。 なのだが、しばらく吐気が止まらなくなる、そういう強さをもった内容ので、でも必見。 現代の戦争ではここまでのことができてしまう、それが許されてしまう、という現実は広く知られるべき。
NAZAはIsrael Defense Forces (IDF)が使うヘブライ語の軍内の符牒で 、Nezek Agavi - Collateral damage - 巻き添え被害 - 民間人の巻き添えとなる規模を示す単位のこと。 彼らが標的とするハマス構成員を殺害する際に巻き添えで殺される可能性のある民間人(含子供)の数で、NAZA20、というのはその暗殺の巻き添えで近くにいる20人の女性や子供が殺される可能性がある、ということを示し、NAZA20までなら上の承認を必要とせずに即時で実行可能、それ以上であっても却下されることはほぼなく、ハマス構成員のまわりのNAZAを全部足すとガザの総人口を軽く上回ってしまう、と。つまり…
何度も言及される2023年10月7日のハマスによるイスラエル攻撃、これへの報復、というかたちでイスラエル軍はガザ地区での標的特定のためにAIや携帯電話による監視、盗聴、妨害、建物内部まで含めた地図、地形へのリンクを用意し、目的(報復)達成のためにあらゆるインテリジェンスにテクノロジーを駆使して、実証実験も含めてやりたいように実行してきた。インタビューに答える軍関係者は、そこにおける自分の役割を語り、その「実行」については、AIがドローンが狙撃部隊が、という言い方をするが、目的はガザ地区からパレスチナ人を一掃する(ジェノサイド)こと、で統制されている。
というような語り口だけを取れば淡々としたやり取りが、静かなテルアビブの夜景にしみていく。そこにモンタージュされるTVのニュース映像に映るネタニヤフの姿、「みんなでやれば…」みたいなスローガンの看板、シネマテークでのランズマン特集など。
やり口は異なるもののここで進められている殺人の自動化効率化による住民の徹底的な排除と殲滅、はナチスがやったこととどこがどう違うのか、仮に違っていたとしてもこの組織的、計画的な取組みの何をもって、どう正当化しうるのか、まったく理解できない。
そしてこんな国と関係(友好だろうがビジネスだろうが)を結ぼうとしている自分の国がほんとうに恥ずかしい。お金のためで、自分の税金がそこに流れているのだとしたら許せないし、勝ち組だからみたいな意識なのだとしたらサイテーのクズ以下だし、あんなふうに人を、子供を殺して平気な連中と対話なんてできるはずがあろうか。
いま行われている選挙の結果如何で、大量殺戮が更に進んだりしませんように(祈)。
この映画が将来裁かれるであろうIDFについての、悪についての証拠映像となりますように。
Là-bas (2006)
10月23日、金曜日の晩、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。今回の特集で自分がみた最後の1本。 上映後に彼女の映画の編集を担当してきたClaire Athertonさんとのオンライントーク付き。 英語題は”Down There”、邦題は『彼方』。
Artist in residenceでテルアビブにアパートを借りて滞在するChantalが現地で撮ったドキュメンタリーで、簾のようなカーテン越しに見える隣のアパートでなにかしている住民たちの様子、海辺、夜景などに、彼女の声、電話での会話等が被さっていく。見知らぬ街に滞在するということ、そこから見える風景がすべてで、そこで感じられる距離、断絶、違和、それらの知覚や経験を確かめるようにひとつひとつ置いていく。 その落ち着きのない落ち着き。
目に映る耳に聞こえる平坦な平穏な景色、その彼方、背後、少し遠くで実行されてきた(ことを知っている)非道な暴力、その歴史と蓄積、その均衡のありように戸惑い、緊張・疲弊するさまが景色の切り取られかた、声の様子、などから窺うことができて、それは後のClaireさんとのトークでも、そういうかたちで編集していった – 彼女が書いていた大量のテキストを声におとす、等 - ことがわかって、なるほどー、だった。
そしてこの翌日に”NAZA”を見ると、その映像構成の類似に驚いてしまう。(製作者たちは影響を受けた作品として『関心領域』や”SHOAH”を挙げているようだが)
この20年後、おなじ街の夜景が、こんなかたちで再現されることになるなんて、Chantalは想像しただろうか? そんなようなことも含めての『彼方』、もう一度見返してみたくなる。
10.26.2026
[film] September 30, 1955 (1977)
10月21日、水曜日の晩、菊川のStrangerで見ました。
監督はJames Bridges、撮影はGordon Willis、音楽は『エデンの東』 (1955)のLeonard Rosenman。邦題は『ジェームズ・ディーンにさよならを』。
ここで始まる、これまで劇場公開されてこなかった作品を紹介する「CULT CLASSICS」のシリーズ第一弾、とのこと。
アーカンソー州の小さな映画館で大学生のJimmy J (Richard Thomas)が『エデンの東』をぼろぼろ泣きながら見ていて(映画のラストシーンも音楽もそのまま画面に映される)、終わるとひとり名残惜しそうに映画館を出て、相当にJames Dean (JD)が好きなんだろうな、というのがわかる。翌日 – 1955年9月30日の昼間、フットボールの練習中にラジオからJDが自動車事故で亡くなった、というニュースを耳にした彼は、そんなバカな!って全てを放って走りだし、ラジオ局に向かってアナウンサーがニュースを読むのを聞いても本当らしいので錯乱して、同じくJDを芯から愛するBillie Jean (Lisa Blount)と電話で話して、恋人のCharlotte (Deborah Benson)やルームメイトたちを誘って、川辺で呑もう! ってデリでアルコールを万引きして吞みながらJDがいかに偉大かを話して、泥でオスカー像を作ったり、夜に降霊式をやろう、ってBillie Jeanも誘うことにする。
Jimmy JはJDのことになると急に暴力的・病的・感情的になったりついていけないのだが、それが当時のふつうの体育会系の若者の挙動なのか、あの頃のJDのオーラがもたらした何かなのか、って見ていくのだが、ゴスできめてきたBillie Jeanも参加した夜の降霊式は大惨事に終わって、大火傷を負ってベッドで動けなくなったBillie Jeanに対してJimmy Jは…
大好きだったJDの死によって永遠に喪われてしまった、自分のなかで死んでしまったなにかを当時の風景のなか、自分史のなかに置いて振り返るような哀悼に満ちた青春映画、なのだと思っていたのだが、それにしては主人公の行動は軽いんだか重いんだかめちゃくちゃだし、最後なんて邪悪すぎて、ふつうのJDのファンが見たらがっくりくるだろうし、とにかく美しいと思いたいあの頃のことを、渦中にあった人々が振り返るような形のものになっていない、していないのがすごい。あの頃のことなんて思いだしたくもないのだ、ということならなんとなくわかる。
特に包帯ぐるぐるのBillie Jeanに公開されたばかりの『理由なき反抗』 (1955)を見に行ったJimmy Jが無邪気に興奮して映画のJDと同じ格好をしてバイクも買ったし、とかポスター剝がしてきたよほら、ってやるとか、ファンがファンに対していちばんやっちゃいけないようなことをするとか、でもそういうのがある(どちらかというとそんなのばっかりである)ことはわかるので、思いだしたくないなにかどこかを突かれたような気がして、それってさー、に。
上映後の遠山純正、髙橋佑弥両氏によるトークもその辺を廻っていたが、最後に遠山さんより小森のおばちゃまがこれを見たらどう思っただろうか? という問いが提起され、これ以上に衝撃だったのが、もう一人の方が小森のおばちゃまが誰かを知らないこと、なのであった…
この上映企画の第二弾は“Last Summer” (1969)になるのかー。これも後味はなかなか…
The Breakfast Club (1985)
↑のに続けて見ました。おまけが貰えてうれしかったJohn Hughes監督作品。昨年の40th Anniversaryはロンドンでも見たし、封切りの時からだと4〜5回は見ているのではないか。 だし、これからも見ていくことになるのだろう。そのたびになんかしょうもない気になってしまうのはどうしてなのか?
若者たちが互いを認めるはあるにしても、わかりあう、親友になる、そんな話ではないの。1984年3月24日の土曜日、イリノイの学校に集められて閉じこめられた傾向もなにもばらばらな5人の男女学生が、泣かせたり泣いたり笑ったり騒いだり踊ったりをする、それだけの1日で、この後にどうなるか、どうなってしまうのかはわからない。最初にくる印象としては、自分の居場所があるんだ! みたいなことよりも、嫌味を言われたり傷つけられたりの居たたまれない生々しさが常にくる。40年経っても、この他者が容赦なくぶつかってくる無礼で嫌なかんじ、だけはずっと健在で、それって↑のJimmy Jの意地の悪いのと重なる。 この作品が数十年に渡って、ずーっと見られ続けているのって、この苦み故なのではないかしら、って思った。 ここのところだけ生々しくて”Don't You (Forget About Me)”で浮かびあがるのもそこなのだよきっと、とか。 (↑のと続けて見たことでそうなった効果とかあるかも)
10.23.2026
[thatre] Christopher Rüping "Gier (Crave/渇望)" by Sarah Kane
10月18日、日曜の夕方、東京芸術劇場のプレイハウスで見ました。
舞台芸術祭「秋の隕石2026東京」(アーティスティック・ディレクター:岡田利規)の演目のひとつ。
原作は英国の劇作家Sarah Kane(1971-1999)による”Crave” (1998)、同年エジンバラで、Kaneがwriter-in-residenceをしていたPaines Ploughによって初演された。彼女にとって4作目(遺作のひとつ前)の戯曲で、彼女の過去の戯曲の暴力描写がもたらす印象や偏向を避けるべくMarie Kelvedonという筆名で発表されたそう。演出はドイツのChristopher Rüping。
休憩なしの105分。舞台の奥正面にスクリーンがあって、最初はドイツ語タイトルの”GIER”が中央小さめに投影されている。スクリーン上部に日本語の字幕、英語字幕対応は別デバイスになるらしい。向かって左手に、右側を向いた椅子とそれを収めようとする撮影スタジオのような機材が一式、ステージ手前右に鍵盤兼指揮者、その並びに客席の方を向いたライブの弦奏者が3名。
舞台に出てくる俳優は男2,女3の計5名。原作では、A, B, C, Mの4名のみで、それぞれ名前も属性も役割も明らかにされていないが、原作者が過去のインタビュー等で、A (Author, Abuser) – 年長の男性、B (Boy) – 若い男性、C (Child) – 若い女性、M (Mother) – 年長の女性である、と大枠を語っている。彼らは地味な服装でばらばらの動きをして、会話になるようなならないような短いフレーズのような台詞を互いにだったり世界に向かったり - 吐き、でも会話を深めたり一緒に動いたりすることはない。そして原作の設定にはない女性(Wiebke Mollenhauer)が左手の椅子に座り、白バックに彼女の顔を中心に置いた画像がライブでスクリーンに大きく映しだされる。彼女だけは最後まで喋らず、他の4人は彼女に向かってそれぞれ自分たちの言葉をばらばらと投げて、彼女はそれを無言で受けとめていて、たまに表情を変えたりするが、そこから動くことは許されていないよう。
AがCに何か言ったり、MがBに何か言ったりはあって、それによって近寄ったり遠ざかったり、自由な4人はダンスのように動いたりもするが、それらはすべて舞台中央の彼女の表情、その動きに吸い込まれていくようにも見える。
5人目の女性が誰なのかについては、いろんな解釈が成り立つだろう。原作者のSarah Kane自身と取ることもできるし、見ている観客 – 我々自身、ということもできるし、それよりもう少し広くて遠い、所謂傍観者・観察者ということも。自分はアニメーション映画 “Inside Out” (2015)の主人公の頭のなかに湧いてでて彼女の頭や行動を統御していくエモに近いようなやつらに近いのではないか、と思った。答えはそれぞれで、正解なんてない、のだろうが。 そして、この5人目の人物によって全体を見渡しやすくなった、とは思ったものの、そのわかりやすさはかえって危険だったりしないか? とも。
劇の終わりのほうで、女性は突然メイクを始めて、しばらくするとそのメイクを自分で崩しはじめ、最後には思い切ったように全てをきれいに拭い去って、『外の世界は過大に評価されすぎている』というフレーズを残し、椅子を立ってステージ~劇場を抜けて池袋の街に走りだす (その後ろ姿をライブカメラが併走して捕らえていく)。
ここまでくるとメッセージとして見えてくるものはあるのだが、原作にない設定のキャラがここまで終わりを巻きとってしまってよいのか? は当然あって、しかもそれが、分裂~混沌~統合~解放・引き受け、のようなわかりやすいストーリーラインに沿ったものに見えたので、こんなのでよいの? って思った。 こんなようなアタッチメントを許容する抽象度、自由度をもった原作なのかもしれないし。でも、最後あんなふうにプールに飛びこんじゃうことができるのなら幸せなのよ。(ビルから飛び降りたらどうしよう… って思った)
原作戯曲のエンディングがどんなものなのか知らないのだが、「(それでも)さあ、街へ出よう!」みたいのはどうなのかしら、にちょっとだけなった。 Wiebke Mollenhauerの笑顔はとても素敵だったのだが。
10.22.2026
[music]「The Wonderful and Frightening World of The Fall」 ~ザ・フォールの深遠な世界
10月15日、木曜日の晩、SUPER DOMMUNEに行って見て聞きました。
発売になったばかりのFall本『ザ・フォールの素晴らしき世界』の刊行記念で著者の上村彰子さんと司会の鈴木喜之さん他ゲストによるトークとミニライブとDJ。
7月にイギリスから船便が着いて、オーディオ機器の前に箱が積まれて家で音楽を聴けない状態になってしまった(箱を開けてお片付けをすればよいだけなのになぜそれができない?)ので、ライブ以外で音楽を聴くのはこういう機会とか場所に出かけるしかない、という情けないことになっている。
The Fallについては、2022年8月のRock Cafe Loftでのトークにも行って、轟音で楽曲を視聴する〜浸る、というよりこれってなんなの?へんなの~ のような与太話と共に珍奇なものを眺めたり流したりしていくのがなんだかとても気持ちよかったので。(なぜちっとも明るくないのに、気持ちよくないのに気持ちよいのか問題)
あと、14日の夜に映画『審判』を見て、Josef KからThe Fallへ。カフカからカミュであり、自分が最初にThe Fallと出会った日本編集オムニバス盤『Clear Cut』のA面1曲目(Josef K “It's Kinda Funny”)~2曲目(The Fall “City Hobgoblins”)の流れそのままなので、なんだかうれしい。
中心にあるThe Fall本については、まだ読んでいる最中だが、The Fallの全体像ってディスコグラフィやバンドの変遷を追うだけでは捕捉できないのだ、ということを言うために現地側と日本側双方で見えた聴こえたものをぜんぶきちんと追った上で、音楽史におけるマンチェスターの位置づけや、曖昧に片づけられがちな「ポストパンク」の時間的、概念的な広がりについて触れ、それを語るためにそもそものパンク(遺物ではなく現在の)とは、まで踏みこんだ後、そんな文脈やストーリーから離れて「ぞっとするもの」がひしめく彼の詞の世界に至る。で、結果的にThe Fall抜きでは成りたたないような(実際そうなのだが)形で70年代からの英国音楽を俯瞰・総括してしまっている。あんな隅っこにいた、入れ歯がたがたのマイナーなバンドでそれができてしまう、それがThe Fallだとできてしまうのだ、それがThe Fall(のThe Wonderful and Frightening World)の淵なのだ、と。 イギリスには当然のように大量のThe Fall本があって、それらはThe Fallが有史以前からあるようなものとして書かれているのに対して、ここでの書きよう、丁寧な網羅ぶりはすばらしい。
特に日本でのリリースまできちんと追っているのはえらいなー、だった。Rough Tradeの日本盤は第一弾リリースの時だけ、あとはきちんと売ろうとしているとは思えない宣伝コピーとかライナーもムダとしか思えず輸入盤のみ、にシフトしてしまったので、日本でもそれなりに追うことで受容史のようなものは見えてくるものなのか、とか。
トークの最後の方、締めくくりのように語られた、端からきちんきちんと追って聴かなくても流しておいて、お!ってなればよい、というのはThe Fallを聴く正しい態度で、彼らの音楽そのものが、集中して聞きこむような態度を拒むようなバラック、パルプ感(→ Mark Fisher)に溢れている、というか、田舎道を壊れた車で走っていく感覚(Simon "Ding" Archerのでげでんでげでんベース)があり、流れていく景色をちゃんと見つめたら気持ち悪くなる、止まらないけど、そのうち勝手に、簡単に壊れる – くらいの距離感で聞いていくやつー。
Mark E Smithのあの湧いた端から吐きだすようなポエトリー手前の雑言をどうトラックに乗せるのか、どう乗っかるか、それらのせめぎ合いの気持ちよさ、がThe Fall的な音楽のベースとしてあるような気がしていて、あれは言っていること・言われていることを含めて、たぶんイギリス的に気持ちよい形式なのだと思う。
あと、なんでMark E SmithやThe Fall(だけ)があんなふうに出てきたのだろうか、って思うとき、アメリカのクリーブランド、David ThomasのPere Ubu(←Alfred Jarry起源) - どちらも一時期Rough Tradeにいた – のアヴァン・ガレージ、砂漠の広がりを補助線として引いてみたい(のだが、オーディオが..)。どちらもよれよれになっても、最後までステージの上で歌う – がなるように呻くように歌って吠えることをやめなかった犬じじい共。
あと、本のなかの、MarkのリストにあったPeter Hammillも(ずっと聴いてきているので)宿題で。
10.21.2026
[film] Le Procès (1962)
10月14日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
英語題は”The Trial”、邦題は『審判』。監督、脚本はOrson Wellesによるフランス・イタリア・ドイツ映画、でも言葉は英語。
1962年、『市民ケーン』 (1941)がSight & Sound誌の「史上最高の映画」の一位に輝いた際、プロデューサーのAlexander SalkindがWellesに15本の古典小説の中から1つを選んで映画化しないかと持ちかけて、彼の選んだのがカフカの死後に出版された小説『審判』 (1925)。 4Kリストア版、エッジの効いたモノクロ。出口なしのどん詰まりの迷路がものすごく綺麗に精緻に生々しく目の前に現れるので必見。 あと、オルセー美術館になる前のオルセー駅が出てくるので美術(館)ファンも必見。
冒頭、Alexandre AlexeieffとClaire Parker(夫妻)によって作られたPin Screenによるアニメーションが流れ、『掟の門前』 (1915)がWellesのあの声で朗読される。「掟」に入ろうとしてやってきた田舎の男が門番に入れるけど、今はだめ、と言われてずっと待っているうちに老いてそのまま死ぬことになって、最期になぜ自分以外の人はこの門に現れなかったのか? と聞くと「これはお前ひとりのために用意された門だからだ」と言われてしまう。 自分のために用意されている、と説明されているのに自分が入ることを許されない不条理の寓話が入口で示される(原作では後ろのほう)ことで、覚悟しとけ、と。
Josef K (Anthony Perkins)が共同下宿のベッドで目を覚ますと、スーツ姿の男が2人いてKが「逮捕」されたのだと言うが、彼らは自分たちの身分も明かさないし、どういう罪状なのか、容疑なのか、も明かさず、更に部屋の向こうにKの職場の同僚が3人いて、なにかを探しているようで、でも追い払ったらいなくなって連行されることもなくて、なんなの? ってなる。(悪夢の続き、始まり)
彼らがいなくなった後、家主のMrs. Grubach (Madeleine Robinson)や、隣に住んでいて朝帰りしたBürstner (Jeanne Moreau)と話してみるが、なんだかよくわからず、職場にいくと上司から彼の十代の従姉妹と不適切な関係にあるのではないか、と疑われ、晩にオペラを見に行ったら捕まって法廷に連行されてしまう。
この先はいろんな人がいろんなアドバイス、というか勝手なことを言って、通り道抜け道はどんどん細く狭くなっていって、裁判を待つ大量の被告人とか弁護士のHastler (Orson Welles)とその看護婦(Romy Schneider)とか司祭(Michael Lonsdale)とか出てくるものの、容疑も罪状もなにひとつ明らかにされず、判事も法廷での裁判もないまま、なぜか「審判」だけは下されたらしく、処刑人に捕まって石切り場に連れていかれて…
おお昔に読んだ原作との違いでいうと、絶望しながら弱弱しく萎えて諦めて閉じていく小説のKに対して、映画のKは乱暴までは行かないがアグレッシブで反抗的で、簡単に他人の言うことには従わない、でも詰めが甘いというか次に行きたがってしまうせいなのか、「自分がどうだから、何をしたからこういうことになっているのか?」をきちんと問えないので、行く先々でぶつかったり、的外れなことになったりしているように見えて、最期はナイフではなくダイナマイトでぶっとばされないとわからない。(ぶっとばされてもたぶんなんか言っている)
でも、「自分が何もので、何をしているのか」について、身分証なし、人種とか職業とかを外して相手にわかるように語るのは難しい、というところで「逮捕する」と言われたらどうなってしまうのか、強制連行も収容もこういう流れのなかで起こって、誰もどうすることもできずに殺されていった – という戦前に経験した恐怖を踏まえた、ひとを裁く or ひとを裁くまでもなく連れていく、ということが許されてしまう恐怖と不条理。そして最近何よりも恐ろしいのが、「効率」とか「体裁」などを理由にこれらをすっとばして、とりあえず目の前から見えなくしまうこと。
アウシュビッツや原爆 - 不条理の先を行って狂っている - を踏まえて、「審判」を読み直し、ここまでのものにしてしまうのってすごい、というのと、この手の「審判」なら今日いくらでも転がっていて、許される世の中になってしまったなー、と。
同じ原作の映画版だと、Harold Pinterが脚本を書いたDavid Jones監督版(1993)を見てみたい。(たぶん見ていない)
10.20.2026
[film] PARKS パークス (2017)
10月13日、火曜日の晩、シネマリスの橋本愛特集で見ました。
もう約10年前の作品で、公開時はロンドンにいたので見れなくて、向こうであー見たい、と思ったことを思い出し、この特集での最終上映にどうにか滑りこむ。
2014年にバウスシアターがなくなり、オーナーだった本田拓夫さんが吉祥寺と井の頭公園を舞台にした映画を作りたいと思い、そこに井の頭公園の開園100周年という節目が重なり.. という官民共同(じゃないけど)のような、周囲からいろいろ被さってくるのはとっ散らかって恥ずかしいものになってしまいがち、の偏見を軽く蹴っとばす、素敵な音楽映画になっていた。 尚、この上映は先の8月に亡くなられた本田拓夫さんの追悼も兼ねて、とのこと。
(本当はFrederick Wisemanにドキュメンタリーを撮ってほしかったかも)
映画館が町と共にあって、そこで上映される映画が人を育てて、その人は必ず映画館に、その町に戻ってくる、という鮭の回遊みたいな話は、戻る先の映画館がなくなったらどうなってしまうのか… ということを切々と訴えたのがこの作品と次の『BAUS 映画から船出した映画館』 (2024)だったと思うのだが、だからいまこんなんなっちゃったんじゃないか!! ということはずっと思っている。町を形づくるものはなんなのか、という問い。 それは公園と美術館と映画館と図書館と本屋と劇場とライブハウス、なんだよ。文化が根を張って育っていくための苗床。ロンドンとNYをみてみ。
監督・脚本・編集は瀬田なつき、音楽はトクマルシューゴ、配給はboid。
吉祥寺のアパートに暮らす大学生の吉永純(橋本愛)は、恋人にはふられて卒業も危うくて、そこに陽気なハル(永野芽郁)が訪ねてくる。彼女は亡くなった父について小説を書こうとしていて、父の恋人がここに暮らしていたらしい、とアパートの写真をもってきて、純はすることもなかったので付きあうことにして、その恋人がその後に住んだ家にたどり着くと、既に亡くなっていた彼女 - 佐知子の孫だという時生(染谷将太)が出てきて、こいつも暇だったのでみんなで家のなかを探していったら、遺品の箱からオープンリール・テープが出てきて、再生してみると、ハルの父と佐知子が一緒に歌っているのが聞こえてきて、でもテープの音は途中までだったので、この歌の先をどうにかしよう! っていう話と、その曲を公園のフェスで披露しよう! っていう話が重なって、なんだか盛りあがっていくの。
ハルの父と時生の祖母はどうして別れちゃったのか、そういうどろどろした話はなし、悪い人は出てこない、恋愛もなし、3人がこれからどこに行くのかもわからない、公園と音楽だけで走りぬけていくミュージカルで、音楽を介して時を超えていろんな人たちが公園に集まってくるよ、きたよ、というおはなし。 これと交錯するかたちで家族史とここからの船出を描いたのが『BAUS…』 で、公園と映画館が吉祥寺という町を作った、それに関わったり通り過ぎていったりしたいろんな人たち、その盛衰を掴まえてきた映画という(メディアとは呼びたくない)でっかい反射板のようなやつについて。
簡単に音楽が人を繋いだり癒したりしないのもよかった。曲を作る、それを鳴らす、聞いてもらう、それを公園の光と風の中でやる、歌う。そこに浮かびあがってくるかつての恋人たちの姿 – PARKS。
約10年前、コロナが覆う前の、公園や花びらの輝度とか、人と人の間の距離のとりかたも、今とはちょっと違う気がする。自転車で抜けていく風のかんじもなんだか(気のせい)。コロナ後の『BAUS…』と続けて比べてみたかったかも。
テーマもスケールもぜんぜん違うのだが、それぞれに抱えていて大変な、アーケードとブティックを舞台にした”Golden Eighties” (1986)を - なんだかこっぱずかしくなるところも含めて - 思いだしたりした。
最後に流れる相対性理論の『弁天様はスピリチュア』から大友良英から牧野琢磨まで、公園で鳴る音を寄せて彼方に掃き散らかしたようなサウンドトラックもすばらしく豪華。
しかしBAUSもなくなり、大島弓子先生も描かなくなってしまったので、吉祥寺はどこかの遠い星のようになってしまったねえ。(ロンドンより遠いかも)
10.19.2026
[film] 旅籠屋騒動 (1939)
10月12日、祝日の月曜日の午後、シネマヴェーラの『映画を輝かせるために』特集で見ました。
この週末から上映作品が洋画系のから邦画系に変わっていて、自分の場合、洋画と邦画だと太陽と月くらい見てきたものも過ごした時間も違うのでだいじょうぶかしら、なのだが、今はとにかく見れるものをー。
『お伊勢詣り』 改題とあって、戦後にこのタイトルに変わったらしい。
監督は森一生、脚本は依田義賢、56分。製作は新興キネマ京都、というところで、当時吉本興業から移籍した人気の関西芸人が大勢出ていて、ふつうの時代劇というより、後半はほぼ関西漫才のプロモーションVのようにも見える。
江戸時代のお伊勢参りで賑わう街道沿いの旅籠が舞台で、そこの主人(伴淳三郎)が病で臥せっていて、でもなかなか死ななくて、そこのバカな長男がやってきた女中に惚れてばたばたしているのと、そこにやってきた偉いお殿様に粗相をして、殿様がわしを笑わせたら許してやるわ、っていうので、そこにいた連中が代わる代わる座敷に出ていって「漫才」らしきものをするの。疎いのでよくわからないのだが、演者が前に出ていって、こちら(カメラの方)を向いて、こちらを意識しながら会話らしきやりとりとか芸っぽいものを披露して、おもしろいでしょ? ってやるのが漫才なのか、殿様の前には3組出てきて、でもどれもなにがおもしろいのかさっぱりわからないのが、おもしろい、といえばおもしろい。ネタがどう、容姿がどう、ではないし、彼らの話を際立たせるようなカメラの角度とかアップとかカットとか照明とか、工夫もなんもなくて、ただ殿様の正面に出ていって、なんかピンポンで喋って、失礼しましたー、を流して終わり。これらをほぼ素で流しているように見えて、漫才のネタとか内容(1週間経ったら完全に消えた.. くらいの)より、そのなんの作為もない垂れ流し技の強さ、斬新さが印象に残っていたり。
ただ、あんなしょうもないぽんこつ殿様の言いなりになる漫才師たちと、いまの政権の太鼓持ちで利権も含めてべったりの吉本は、この頃からずっと繋がっているのだな、って思って、あーあになった(ここはあまり笑えない)。
マリヤのお雪 (1935)
10月12日、↑のに続けて見ました。 76分。 英語題は”Oyuki the Virgin”…
監督は溝口健二、35mmフィルム上映で、フィルムの状態が音声も含めて結構ぼろぼろだったので次はデジタルで見たい。
川口松太郎の舞台劇「乗合馬車」が原作で、モーパッサンの「脂肪の塊」(1880)を西南戦争の時代に翻案した作品で、西部劇、と呼んでよいのかどうか。
西南戦争の戦火が迫ってきたので、乗合馬車で町を出ることにした一団がいて、乗合なので上流の人たちから酌婦おきん(原駒子)とお雪(山田五十鈴)まで揃っていて、上流の人たちはなんで彼女たちのようなのが? って蔑んでいて、でも彼女たちは黙って相手にしない。そのうち官軍の隊長朝倉(夏川大二郎)に捕まって、馬車の面々は彼女たちを差し出すように置き去りにして、仕方なく自分たちの店に戻ってきたふたりは、怪我をした朝倉と再会して…
フィルムはあんなにぼろぼろなのに、お雪の立ち姿と桜の散っていくさまだけは白く浮きあがって神々しくて、まるで宗教画のようで、なんだこれは、になる。翌年の『祇園の姉妹』 (1936)もそうだけど、この時期 - 当時18歳 - の山田五十鈴のとんでもなく、突き抜けてそこに生きているかんじ、ってなんなのか、っていつも、改めて思うのだった。
[film] Digger (2026)
10月11日、日曜日の昼、二子玉川の109シネマズのIMAXで見ました。
特殊メイクでぶよぶよしわしわ不格好なTom Cruiseが明らかにロボットなぼろ猫をなでなでしながら地球資源起因の大規模危機について偉そうな連中とわーわー激論してさあ大変! みたいな予告だけで、悪ふざけにしてもこんなのぜったいムリ、見るもんか、だったのだが、Mark Cousinsさんが自分にとってブレヒトやマックス・ベックマンに近い、オーソン・ウェルズも気に入ったと思う、と言っていたとか、Neil Youngも絶賛、とかいうので見ることにした。思っていたようなさいてーの映画ではなかったが、描かれた先の世界がさいてーであることには変わりない。ほーらこんなにおかしいだろ? というパロディも含めて笑わせる映画というより、根にある目線はものすごくシリアスで暗いやつ。
もう公開から時間が経っていろいろバレ始めているのでそのまま書くけど、まだ知りたくないひとは以下、読まないほうがよいかも。見た後だと割とどうでもよくなるような小細工(← ほめてる)ではあるのだが。
監督Alejandro González Iñárritu、撮影Emmanuel Lubezki、プロダクション・デザインはDennis Gassner。 いちおうWarner Bros.としての最後の映画作品になるのだそう。
父親の代からテキサスの石油で財をなした”Digger” Rockwell (Tom Cruise)が窓の向こうに壮麗な景色が広がる豪邸のベッドで目を覚まして瀕死の老猫Maggie(『熱いトタン屋根の上の猫』のマギーだよね)をよしよししてから、彼の会社が開発を強行したアラスカとグリーンランドの石油掘削基地で進行している深刻な事態について部下から緊急の連絡を受けて、科学者Ganesh (Riz Ahmed)も間違いなくやばいと言っているし、肛門のガンで死にそうなアメリカ合衆国大統領(John Goodman)以下宗教関係者も含めて喧々諤々の議論の末に、やっぱりこれはかなりやばいぞ、ってなったところで、ここまでの一式は、演劇“Fossil Fools”の舞台セットで、ここまでのやりとりは本番直前のドレスリハーサルであることがわかる。
間もなくこの舞台の初日を迎えようといていて主役のDiggerを演じるCurtis Markson (Tom Cruise)は、20年前の初演時からこの役を演じているので、テーマや演技・役のあり姿については自信たっぷりなのに、事あるごとに女性の若手演出家と衝突してどうにも居心地が悪く、そんな時に、ジャマイカの空港から飛びたった娘の飛行機が消息不明になっていることを知ってあれこれがたがたになっていく。
ここで楽屋に貼ってある(結構長い時間映っていた)John Cassavetesの”Opening Night” (1977)とか、同じIñárrituによる”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)のMichael Keatonを思い起こしたりもするのだが、Gena Rowlandsのように劇を改変してしまう度胸はないし、Tom Cruiseはあの時落ち目だったMichael Keatonとも違うので、主演の苦悶を通して演劇のありようを探ったり問うたりするようなものでもないのか、と思って。
リハーサルの舞台袖にいて、Curtisの娘を捜してあげましょう、という気弱そうな青年Kenny (Jesse Plemons)が申し出て実際に探しだしてくれて、実は彼がこの舞台のプロデューサーで、実在したDiggerの親戚だったと…
政府高官と富豪を巻き込んだバカバカしい環境危機茶番「劇」として、上演後は大喝采 – ただしよく見ると客席には動いていないマネキンがいっぱい – で、Curtisもやり遂げたぞ、って英雄伝説を更新するそんな劇場の外に広がっているのは ー。
“Don’t Look Up” (2021)のように茶化そうが、この映画のようにメタ演劇にしてDigしてみようが、世界の危機は止まらないし、止めようがないだろう、どうしてかというと.. っていうのを二重三重くらい念を入れて語って、劇場から出た人たちの家路までこんなだぞ、っていうのだが、そうなってもそんな時に演劇を見る人たち、演劇を作る人たちには響かないのだろうよ、って。最近のチケット代のあがり方をみると、演劇すばらしいい! なんてあまり…
Tom Cruiseはふつうによいのだが、あんなふうに体型くずして老いた無様な姿を晒さないと- この映画に限った話ではないか - こんなメッセージも受け取って貰えないって、これはこれでやばいような。だーかーらーずっとやばいって言ってるだろ、ってぐるぐる。
環境問題とAIと富豪問題、これらをほんとどうにかしないと、Warnerどころか映画そのものがなくなるよ。
あと、地球温暖化、環境問題について本当に頭にきて悔しくてたまらないのは、こいつら金持ちを嗤ったりどうにかすればどうにか、なんて話ではなくて、連中の利益や高笑いの反対側でずっと生きてきた動物たちが殺されたり種を絶たれてしまったりすることなんだよ、だから地獄におちろ!消えろ!って(ずっと念じている)。
10.16.2026
[film] Toute une nuit(1982)
10月10日、土曜日の昼、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『一晩中』、英語題は”All Night Long”。上映前と後にMarilyn Wateletさんのトークがあった。
Marilyn WateletさんはChantalの映画プロデューサーで、15歳の頃からChantalと一緒に映画館に入り浸っていた彼女の盟友で、Chantalの短編”Family Business: Chantal Akerman Speaks About Film” – アメリカ西海岸に”Golden Eighties” (1986)への出資を求めて旅をした時のどたばた旅コメディ – に出てくるひと。ロックダウン中の2020年6月6日、Chantalの誕生日を祝ってYouTubeで特別公開します! ってtweetしていたのも彼女ではなかったかしら?
この『一晩中』も、ものすごく好きな作品で、一晩中だって見ていられるやつ。これが最初の撮影監督作品となったCaroline Champetierによる夜の闇、影の描写 – その奥で蠢いているようななにか - がどこを切っても美しいとしか言いようがない。冒頭のEdward Hopperの濃赤の陰影 – Hopperだよねえ、と思ったら後のトークでも言及されていた。
ブリュッセルの街中、暑そうな夏の晩 - 開いているドアや窓からいろんな音が響いてくるなか – いろんな人々が家に入る、家から出る、道路を横切る、抱擁する、追いかける、何やら言い合う、などなど、アルコール・ドラッグ・セックス・バイオレンス、夜の物語というと付いてくるこれらをとりあえず視界から外して、夜になると自分が何をしているのか、何をしたかったのか、わからなくなってごそごそうろうろを始めてしまう困った人々が右往左往して横切っていくさまを描いて止まらない。
夜は家に帰って寝るもの – 異議なし、だけど、寝れない、寝れなくなったり、誰かに会いたくなったりしてしまうことも動かしがたい事実で、なんで寝れなくなるのか、どうしたら寝れるようになるのか、などそれぞれ悩みを抱えていてもいなくても、なんだか人は建物の、部屋の中や外で集まったり散ったりキスしたりしたくなる – 「なんでどうして?」はない。理性はどこかで眠ったまま。 そんな総勢80人の夜中を抜けて空が明るくなるまで。
Marilyn Wateletさんのトークでも出てきたが全体として見るとPina Bauschのダンスのような、日々の小さな窓から見える動きから何かの箍が外れて、個々の動きや抱擁が背景も含めて制御できない大きなマスのうねりとなって押し寄せて元に戻れなくなっていく、その説明できない動物たちの、でも深く頷いて感動してしまう何かがやってくる。 この「やってくる」「押し寄せてくる」たまらないかんじとか。それが朝の光のなかに冗談のように溶けて散っていくかんじとか。
この後の”J'ai faim, j'ai froid” (1984)も” Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles” (1994)も、この舞台設定、シチュエーションの変奏というか、ここから流れでてきた少女たちの朝までバージョンのようにも見えるし、このひとつ前の”Les rendez-vous d'Anna” (1978) - 『アンナとの出会い』から、として見るとAnna個の孤独な声、彷徨いが薄まることなく滞留し凝集するように厚く重ねられていくよう(Aurore Clémentも続けて出てくる)だし、この群れの声にならない動き蠢きは、ドキュメンタリーの”D'Est” (1993) - 『東から』の寒気のなか立っている人々の間からも聞こえてくるような。短編でもフィクションでもドキュメンタリーでも、彼女はこんなふうに世界と向かいあって世界を作りあげようとする。そして、この世界まるごとの静かでやかましいざわめきは、”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)のあの家、あの台所から鳴り始めたような気もする。
10.15.2026
[film] J'ai faim, j'ai froid (1984)
10月9日、金曜日の夕方、日仏学院のChantal Akerman特集で見ました。
邦題は『おなかすいた、寒い』、英語題は”I'm Hungry, I'm Cold”。
オムニバス映画“Paris vu par...” (1965) - 『パリところどころ』の20年周年記念で製作された” Paris vu par... 20 ans après” (1984) - 『新パリところどころ』のなかの1本、最初のエピソード。 Philippe Garrelなど6人の監督のうちの1名(唯一の女性監督)として参加して作られたモノクロ、17分の短編。
ブリュッセルからパリに出てきたふたりの女の子(Maria de Medeiros, Pascale Salkin)が一緒に街中を彷徨い、おなかすいたので、カフェでパンとオレンジジュースをもりもり食べて逃げて、更におなかすいたので、レストランで一緒に歌を歌ったらご飯を奢ってもらって、その男性のところに転がりこんで、ひとりは彼と寝て、もうひとりはひとりで、というそれだけ。 ふたりの少女の冒険でもなく、初体験でもなく、ちょっと遠出してきて、おなかがすいて、寒かったからなんかした、というそれだけの行動、ふたりの会話、それらの懲りない反復を捕らえた作品。 家庭や規範や男性からこんなにも自由である、ということを街をぶっとばすこともなく、こんなにも軽やかに、かっこよく描けるなんて。
『街をぶっ飛ばせ』 (1968)がそうだったように背後でがしゃがしゃ鳴っていなくても、映像だけでじゅうぶんパンク、としか言いようがないやつなの。
Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles (1993)
邦題は『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』、英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。
“Tous les garçons et les filles de leur âge” - 「彼らと同年代の少年少女は皆…」 という思春期をテーマにしたTVシリーズの1本として製作された。長さは約1時間、予算は約540万フラン、撮影はスーパー16で、撮影期間は18~23日、メインテーマは青春、1960年から1990年の間のいずれかの年代の前半、中間、後半を選択し、その年代の音楽を用いたパーティーシーンが含まれること、など変てこな制約があり、Chantalの作品の他にはClaire Denisの” US Go Home” (1994)や、Olivier Assayasの” La Page blanche” 後で長いバージョンの”L'Eau froide” (1994) - 『冷たい水』になる、など。見たことあるのもあるけど、ぜんぶ通しで見たい。
1968年4月のブリュッセルで、学校に行きたくない15歳のMichèle (Circé Lethem)はパリから出てきた20歳のPaul (Julien Rassam)と道端で知り合って、映画館でべたべた過ごして、彼とは寝たのかどうしたのか、夜になるとDanielle (Joëlle Marlier)と一緒にパーティに参加して踊って、朝に原っぱをずーっと歩いてどこに行こうかー。
パーティでのダンスシーンは、翌日に見た”Toute une nuit” (1992) - 『一晩中』のそれと同様、Pina Bauschぽさがたっぷり。相手に合わせたり導いたりするダンスというより、どうしようもなくひっついている、ひっついてしまって離れなくてちょっと困った–でもやめられないかんじ。
『おなかすいた、寒い』から(時代は遡るけど)約10年経って、ここでもふたりの少女が、家出ではないものの、「おなかすいた、寒い」的なところでひたすら彷徨い歩いて踊って喋って朝を迎える。そんなポートレート。なにも背負いこまない、明日のことなんて知らない、その断面のなかに現れる顔 - 少女たちの像。
ここから後、『囚われの女』 (2000)や『オルメイヤーの阿房宮』 (2011)といったやや重めの文芸(?)大作になっても、テクスチャーは異なるものの、女性(の身体、言葉)がなんで、ここに、こんなふうに、なきゃならんのか? とか、二度と戻るもんか、といった生理・身体的な苛立ちとそこからの逃走は続いているように見える。
あと、少女のポートレートというとMarguerite Duras(の少女時代のそれ)を思い浮かべたりもして、両者の違いを見ていくのもおもしろいかも。場所(土地)、熱、声のありよう、ぜんぶがあまりにも違うし。
この後、斉藤綾子さんによるレクチャー『アケルマンと少女たち - アケルマンにとって60年代を振り返ることとは: 映像と感情の記憶を描くこと』があって、途中までしかいられなかったのだが、とても示唆にとんだ、あれこれ繋がってくるおもしろい内容だった。
10.14.2026
[theatre] チャリング・クロス街84番地
10月8日、木曜日の晩、東池袋のあうるすぽっとで見ました。 劇団昴による公演。演出は菊池准。
原作はHelene Hanffの“84, Charing Cross Road” (1970)、邦訳は江藤淳による『チャリング・クロス街84番地』(中公文庫の)で、自分もここから入って、サンリオ文庫から出ていた『ニューヨーク、ニューヨーク ニューヨークっ子のN.Y.案内』は自分がNYに行く前から最良のNYガイド本だったし、ロンドンに行ってからは”84”の英国版のハードカバーの第二版とか、彼女の別の小説のサイン本なども手に入れた。(まだどこかの箱から出てきてくれない)
映画版は、David Jones監督による英国映画 - ”84 Charing Cross Road” (1987)という、Anne BancroftとAnthony Hopkinsの主演(他にDoelの妻役でJudi Dench)のがあり、よい映画だと思ったけど自分のあたまの中で組みあげられたあの本のイメージたちとはちょっと違ったかも。
演劇版は、James Roose-Evans脚本・演出により1981年に初演されてWest Endまで行って、1990年まで英国をツアーして、その後2015年からも演じられていて、とにかくずーっと人気があるようで、今回の舞台版もそれをベースにしている。
NYのへレーンはマンハッタンの東の上の方の凍てつくアパートにいて、古書店Marks & Co.があった場所はいまではいつも混み混みのマクドナルドになっている。ここでは、Grand Big Macというのが出ていた時期があって、何度か懲りずに食べては吐きそう、を繰り返した記憶が。
原作はそんなアメリカとイギリスの2地点を行き来した往復書簡集で、手紙のやりとりなので時間にも場所にもギャップがある。
舞台の左手は高くなっていて、そこがNYのへレーン(一柳みる)の書斎で、右手が低くて、そこがドエル(金尾哲夫)たちの働く古書店Marks & Coの店内で、左側でへレーンが自分の手紙を読みあげると、それは右手のドエルに届いて(聞こえて)いて、ドエルが返事を読みあげるとへレーンにも直に届いていて、その返信には古本もついてくるので、わあってなる。 本を読んでいくときにはページめくりの時間差があって、それがよいのだが、舞台版のテニスのような卓球のような右左のやりとりも楽しくて、時間が進むにつれて近くて遠くて、どうしても届かない距離のもどかしさ、切なさがやってくる。手紙でしか知らない人が突然いなくなってしまうことのぽっかり空いた日々の隙間とか。
あとは、セシリーやメガンといった、書簡のやりとりでは少ししか出てこなかった彼女たちもそこにいて、それぞれの戦後を生きていて、大変だったんだろうな、って思うところとか。
本との違いでいうと、原作はふたりの書簡のやりとりも楽しいが、英国の古典への最良のガイドでもあったこと - 最良、というのは彼女の手紙を読むと、ああこれ読みたいかも!ってお腹が鳴ること。サミュエル・ピープスもジョン・ダンもラム随筆もウォルトンもクイラー・クーチも、翻訳があれば読んでみるようになったし、ロンドンの古書店や古ペンギンでもあると手に取るようになったし。(ここにシェイクスピアが出てこないのはなんで?アメリカでもふつうに手に入っていたから?)
夢に見た英国に行けなかったへレーン、直接出会うことが叶わなかったへレーンとドエル、でもこうして手元にやってきた古書たちを抱きしめ、わたしにとっての英国はここにあるのです! っていうくだりが本では大好きなのだが、舞台版でそこがないのはしょうがないか。
あとは実際にロンドンで古書店に通うと、そこの書店員の人たちって博識なのは当然として、メールのやりとりだけでもとにかくやさしくあれこれ教えてくれて、それも一軒二軒の話ではなかったので、そういう文化なのかも。日本の古書店もそうなのかもしれないけど、そういうところには巡りあっていない。
帰国してからはWebで注文したりするのだが、それでもオーダー確認の際に、こんなのもあるけど、まだWebには出していないけどこんなのどう? …など、機械ではなく教えてくれたりして、ありがたいの(除.お財布)。
あと、値段感とか。いつからはわからないけど、古典の古書って高いのはとんでもなく高くなってしまって、手に届かないのも多い。劇中でヴァージニア・ウルフの「一般読者」 - “The Common Reader”のことね – が2冊で$2とか言っていたが、これのちゃんとした2冊揃えなんて、いまなんて軽く£800超えるのよ。ウルフの初版本なんて、軽く£2000~4000くらい。誰に文句言ったらよいのやら。
10.13.2026
[film] Hotel Monterey (1973)
10月3日、土曜日の夕方、東京日仏学院エスパス・イマージュで行われている特集『シャンタル・アケルマン映画祭2026 『母が笑う』刊行記念』で見ました。
Chantal Akermanの映画はこれまでの特集 - 一番古いのは前世紀のアテネの - とイギリスでコロナのロックダウンになった時に、いま見れるものは(たぶん)ほぼ見ているので、今回の特集は好きなのだけをつまんで見ていくことにする。
62分、サイレント、字幕もなにも入らないドキュメンタリーで、彼女の最初の長編。撮影のBabette Mangolteと組んだ最初の作品でもある。
Hotel Montereyは、NYのアッパーウェスト - 住所は215 W 94th Street。Broadway沿いにあり、現在も名前を変えてどこかのチェーンのホテルとして営業しているようだが、90年代を過ぎても治安はそんなによくなかったエリアで、昔の映画だと”The Naked City” (1948)とか、”The Panic in Needle Park” (1971)とか、そういうやばめのが撮られた界隈にある。
そんなエリアに建つホテルに滞在する人々も安全第一を求めてはいなくて、そういうところに滞在したChantalとBabetteはここで映画を撮り始める。多くの人が当時のNYの実験映画の前線 - Michael Snowなどからの影響を指摘しているが、Chantal自身はそれらからの影響は認めつつもそんなでも、と言っているし、そもそも知覚や認識をどうにかしたれ、のような「実験」の姿勢と本作から見えてくるものは随分ちがう気がする。
固定されたカメラをホテル内から入口の方に向けてとかエレベーターの前とかに置いておく。最初は何が映っているのかよくわからないのもあり、(まるで幽霊のように)人が通ったりすることでその色 - 明暗、距離感とか、調度の配置などがぼんやりと浮かんできて、そうやって「ホテル」という「家」とは異なる都会の建築構造物のありようとか特性が見えてくる。通過と定住の間を行き来する壁や柱などで仕切られた空間。この作品を見る殆どの時間は、そんな空間を空間としてどう把握する、どこまで把握できるのか、等を頭のなかで転がしていくことに費やされるような。
カメラは下から上に移動していって、最後は屋上に出て、ハドソン川やBroadwayを見渡してゆっくり横に回ったりもする。 『眺めのいい部屋』的なヴューを求めて、というよりは、非常口を抜けたらここに出たけど、あとは飛び降りるしかないのか? のような「おわり」感まで漂っている気がするのは気のせい?
La Chambre (1972)
11分の短編で、これもサイレントだが、”La Chambre 2” – こっちは見たことないかも – の方にはサウンドトラックがついているらしい。
当時彼女が滞在していたNYのSpring Streetのアパートで撮影された2テイク。 マンハッタンの北にある”Hotel Monterey”、南にある「部屋」、パブリック vs. プライベート。いろんな点で対になっているような。
“Hotel Monterey”のカメラは主に上下に動いていくが、こちらのカメラはゆっくりと回転していって、そこにベッドに寝転んでこちらを見ているChantalが映って、2回転めくらいではリンゴを齧っていたりする。とにかく部屋の散らかりよう、ごちゃごちゃが見事で、美しいかんじすら漂っていて、どうしたらこんなふうにできるのだろう、と。
部屋(空間)のなかにひとがいる、それを見る、その状態・様態をカメラがとらえて、それを見ている我々が把握するというのはどういうことか、は後の”Jeanne Dielman...” (1975)に繋がっていくし、寝転んで食べる、というのは、後の”Je Tu Il Elle” (1974) の紙袋から砂糖むしゃむしゃ、のシーンに繋がっていくので、この” Hotel Monterey”と”La Chambre”はものすごく重要な、サイレントであることも含めて、これからの見取り図、テンプレートのようなもの – 特に”Jeanne Dielman...”で顕著にあらわれる部屋のなかで誰かが動いている、何かをしている、それってなんだ? っていう、画面の奥、その向こうを探っていくような、彼女の映画を見る時に湧いてくる不思議な感覚は既にあって、これってなんなのだろうか、って…
10.12.2026
[film] ファーストボイス (2026)
10月4日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
脚本は橋本裕志、監督は前田哲。
好景気に浮かれていた1989年の日本で、最初のセクシャル・ハラスメント裁判に臨んで勝利した女性たちのお話をinspired by true events で描いたもの。
これまで基本、この時期に作られた、この時期を描いた邦画は見てこなくて、なぜならやっぱりファッションとかやりとりとかどうにも恥ずかしくていたたまれなくなるから。特に女性のメイクとかボディコンシャスと言われていた頃のファッションとか。みんなが軽薄で浮かれていることが許された時代だったから、であるし、これは日本だけではない、全世界的な傾向であったこともわかっているのだが、それでもこの国の場合は。
屈辱的な敗戦〜安保の敗北を経ての高度成長期、みんなが猛烈に働いてがんばって、それが日本を経済大国に押し上げて、その行き方・行き末に異議を唱えるものなんていない、誰もが深く考えない/みんなと同じにしていればよい、というありようを象徴する、そのなれの果てがあのファッションで、なにを着ようが勝手だろ、は当然だとしても、ああいう格好で会社に行った女性たちが男性社員のためにお茶汲みとか事務全般なんでも、をやらされて待遇でも給与でもすごい男女格差や制限があって、それを誰もなんとも思わず、居酒屋の無礼講以外では声もあげていなかった。(それをなんだかんだよかった、と回顧するじじいの今だに多いこと。この世代のなれの果てがよりによって首相としてこの国をなんも考えずに破壊しようとしていること、など)
そんな時代の、そんな腐れたオフィスで執拗な嫌がらせを受けた末に仕事を奪われる(いちおう自主退職にしておいてやるよ)という性別に起因する差別 - ハラスメントが起こって、編集者の仕事を奪われた上原恵(ファーストサマーウイカ)が女性弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の事務所に駆けこんで、他の弁護士や女性支援団体の支持も受けて、ここを崩すのは極めて難しい、と言われていたケースに勝利するまで。
どうして難しいかというと、当時の日々のビジネスの習慣や慣行、進め方働き方とあまりに普通に無反省に結びついたり基礎になったりしていて、劇中の台詞にも(たしか)あったように「こんなことで目くじら立てていたらビジネスが成り立たなくなる」ようなレベルのことに見えたから。だから当然のように、原告の行動や振るまいにそもそも落ち度があったのではないか、ってそっちに目が向けられたり。
360°こんなふう、当時の職場や男性社員、メディアの風向きがどんなだったかを知るものが見ると、たぶんものすごくその通りすぎてうんざりがっくりするし、知らない人が見ると中世か… のようだろうし、見ていて楽しいエンタメにはなっていないと思うが、でも本当にあんなもんだったんだから。
と思っていた者にとって、具体的なケースや審議に沿う形できちんと表に出してくれるので、やはり偉大かつ重要な裁判だったのだなあ、と思うし、これがなかったら - グローバルの流れもあったのでそれなりに変わっただろうとは思うものの - どうなっていたことやら、って。
↑のビジネスが成り立たなくなる発言ではないが、日本経済の今の長い不振停滞は結構この辺のこととも関連あると思っていて、昔はハラスメントやり放題の豪傑マンが強引に推し進めていたやり方が世界のどこでも通用しなくなった、というのが大きいのではないか。行動原理の礎のところまで染みこんでいたやり方(恫喝とか)を根から変えていくには時間がかかるし。
見方を変えれば昔より少しはましに、よくなってはいるのだ、ということもできる - でも今の経営の中核を担っている層はバリバリだった連中に洗脳された世代なので油断ならないけど - 政治の世界も同じか。まだまだよね、など、いろいろ考えさせられたので、みんなに見られてほしい。ハリウッドの法廷ドラマと比べたらへなちょこで、もっとかっこつけてよいのに、とか思うけど、これでも十分。
あと、いまの企業のコンプラ問題って、だいたいにっぽんのヤンキー文化(虐めとかやっちまったもん勝ち)と飲酒文化(呑んで忘れればOK)と地続きなので、ここからどうにか、ってしようとすると結局いまの政治風土に行き着くんだよ。だから政治をどうにかしないと、なの!
[film] Balada de um Batráquio (2016)
10月3日、土曜日、午前にシネマリスで『未知との遭遇』を見た後、ふらふらしながらアテネ・フランセ文化センターの坂をのぼって、午後からこの週にやっていた『現代ポルトガル映画傑作選2026』で見ました。最終日。
11分の短編 英語題は、”Batrachian’s Ballad”、邦題は『とある蛙のバラード』。
92年生まれのLeonor Telesの2作目。2016年のべルリン国際映画祭で短編部門金熊賞を史上最年少で受賞している。
ドキュメンタリーで、冒頭に昔々、すべての生き物は自由で平等で互いに寄り添うことができて、みんなが一緒に踊って幸せだった – のにお祝いに蛙だけが招かれなくて、蛙は絶望にかられて死んでしまった、という寓話が語られる。
ポルトガルでは「ロマ人立入禁止」のしるしとして、店先に陶器の蛙を置く風習があって(そんなのまったく知らなかった)、父方の祖母がロマ系である監督は、「そんなつもりじゃなかった」などど言われることは百も承知のうえで、それぞれの店に対して一軒一軒アクションを起こしていく、その記録。彼女が店の入り口に踏み入って、そこにある蛙の置物を手に取って、それを外の路上に叩きつけて壊して、逃走する。それだけ。アクションは一瞬で終わるのだが、入り口にある蛙の破壊が連続していくことで、なんとも言えない感覚をよびおこす。こんなに沢山の蛙とその数だけの絶望が店先に晒されている…
矢野顕子の『ふりむけばカエル』を流してほしかったかも、ってちょっとだけ思った。
あと、さっき見てきた”Digger”の最後もカエルの合唱だったな…
Terra Franca (2018)
↑のに続けて見ました。 英語題は”Ashore”、邦題は『水際』。原題をそのまま訳すと「率直な、自由な土地」、英語題だと「岸にあがって」くらい。
同じくLeonor Teles監督の長編第1作 - 80分。監督の故郷であるテージョ川沿いにある漁村 - Vila Franca de Xira - ヴィラ・フランカ・デ・シーラに暮らす漁師の一家の日常 〜 娘の結婚式に向かうあれこれを写し取ったドキュメンタリー。びっくりするくらいよくて、José Luis Guerínの『よき谷の物語』を思い起こしたりした。シネマ・デュ・レエル映画祭でSCAM賞のほか、多数の賞を受賞しているそう。
漁師で父親のAlbertinoは寡黙で70年代のBurt Reynoldsを崩したかんじのおじさんで、ひとり小さな舟に乗り込んで、毎日仕掛けた仕掛けの結果を見て、ぜんぜんだめっぽいのが続いてうううむー、なのだが文句を言ってもしょうがないので喋らずに腕を組んで遠くを見てばかり、更にここに自治体の環境規制や漁獲規制の話もあるので、どうしたものか、って更に固まっていくのだが、やはりどうすることもできなくて、黙るしかない。そんな彼の前に広がる川の、水の、すばらしい広がりときたら。
仕事はそんなでも家に帰れば妻のDáliaがいて、既に赤ん坊がいるけどもうじき結婚式をする予定の娘がいて、式や新しい生活に向けた準備あれこれと際限のないお喋りがあってなんだかんだ慌ただしく、こんなものかな、になっていく。
そんな家族の真ん中にカメラを置いて、インタビュー形式で語らせるのではなく、彼らがリビングやカフェで勝手に喋ったり言いあいしたりを撮って録っているだけで、特にすごい事件が起こったり感動的なストーリーやエピソードが語られたりするわけではないのだが、とにかくおもしろいったらない。
最後の結婚式も、ごく普通にみんなが笑って祝福している家族の集まりで、みんなずっと喋ったり踊ったり、その横でカメラを回している、それだけなのになんだかじーんとしてしまうのはなんでだろう? 『よき谷の物語』もそんなかんじのだった。自分のこれまでにもこれからにも、一切関係なかった、これからもないであろう人たちの声、語り、笑い、がなんでこんなに近くにやってきてくすぐってくるのか?
エンドクレジットで家族のスナップショットのバックにBill Withersの”Lovely Day”が流れてくるともうそれだけで…. ずるいや..
10.09.2026
[film] Disclosure Day (2026)
10月4日、日曜日の昼、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 本国公開から4カ月遅れてようやく。
一応備えというか、振り返りというか、前日3日の朝に、シネママリスで”Close Encounters of the Third Kind - Final Cut” (1977)を見ておいた。劇場で見るのは4回目くらい、最初に見たのは日本公開時の小学生のときで、この時は盛りあげを狙ったのか”Star Wars”か『未知との遭遇』か、みたいなのがあり、周囲には「未知との遭遇」の方が断然おもしろいよ、と言っていた。実際そう思ってて、そう言いながらSWに通いまくっていたのだが。
宇宙人との遭遇を描く、というより宗教の話 – なにを信じるかというより、信じているもののありようを開示する話、だと思った。おもしろいおもしろくないで言うと、すごくおもしろかった。
脚本David Koepp、監督Steven Spielberg、撮影Janusz Kamiński、音楽John Williams。
冒頭、プロレス興行が行われている会場からDr. Daniel Kellner (Josh O'Connor)が恋人Jane (Eve Hewson)と一緒に車で逃げだす。 彼はアメリカ政府の下請け業者Wardex (Waived Reporting, Development, and Extraction)のサイバーセキュリティ専門家で、そこから持ち出したアーカイブ一式と怪しげなデバイスのようなブツをもっていて、彼を導いていくのはWardexを抜けた彼の元上司のHugo (Colman Domingo)、彼を追っかけていくのはWardexのヘッド、Noah Scanlon (Colin Firth)。かつて修道院にいたJaneは、Danielと一緒にそこに匿ってもらい、彼の抱えているモノの中身となんで追われているのかを聞くと動揺する。
カンサスのローカルTV局の気象予報士Margaret Fairchild (Emily Blunt)は、出勤前にアパートのキッチンに迷いこんできたカーディナル - 赤い鳥と目が合ったらちょっと眩暈がして、そこから仕事場に車で向かう途中、交通違反で呼びとめられた警官の心に暖かく触れてしまったり、北朝鮮情勢で緊迫している局内の関係者をロシア語と韓国語で落ち着かせたり、更に生放送中に、ヒトの言葉とは思えない変な音声を発声して自分でびっくりする。(聖霊降臨)
TVであんな声を発してしまってから、Wardexはあいつだ、って彼女の方も追い始めて、Noah自らが変なデバイスを握りしめ憑りついてぼろぼろに消耗しながら突きとめようとするその場所には、Noah(と元Wardexのスタッフたち)がある施設を作りあげていて、それはやがて到来するその日その時 – Disclosure Dayに向けたものだった。
約束の地と時に向かって走る啓示を受けた者とそれを阻止しようとする者の追いかけっこで、その過程で誰がなんのためにそんなことをしているのかが見えてきて、そうやって見えてくるものに大きな驚きはなくて、どちらかというとやはりこういうことだったのか、に落ち着いていく。 『未知との遭遇』でも、約束の地、あの晩、は決まっていて、そこに向かう追いかけっこはあったが、その情報を持つものの立場、優位性のようなもの、は逆転している。そこの落ち着き(落ち着かせ)かたが過去のSteven Spielberg作品と比べるとあまりにわかりやすすぎ、座りがよくない、つまんない、唖然とするようなものがない、ということなのではないか。
Spielbergは過去の自作で何度も地球には宇宙人がいる/きているのだ、ということを描き続けてきて、よくわかんないけど追っかけていく対象だったり、友達になるものだったり、襲ってくるものだったり、古代からずっといるものだったり(まだありそう)するし、それは他のハリウッド映画でも同様なので、映画のフィクションとして”Disclose”したところで、今さらふううん程度でしかないし、そこに重みを持たせるには宗教(キリスト教)的な啓示(覚醒~伝搬~迫害~開示)や象徴(カーディナルも雄鹿も狐も)に重ねて委ねて、でっかいストーリーとして語ってみることだったのでは。
この映画で示される開示がどうして宗教的な認知や啓示の更新に繋がる(懸念のある)おおごとなのか - おおごとと言えるのか、とか、最後に出てくるリンカーンの椅子に座ったあれを、この時期が到来するまで維持したりケアしたりしてきたのはどこのだれだったのか、とか、最後の一言とか、あえてぼかしているところもなー。
MargaretがTVであの声を出して、それがブロードキャストされてしまったことで、他にも同様の人々がいっぱい湧いてくるとか、感応した動物たちがわらわら立ちあがるとか、ノアの箱舟とか、それくらいのスケールのやつを期待したのだが。
ラストで開示されていく映像のなかには『未知との遭遇』のもあった。”Independence Day”のとか”Paul”とかも出てきてほしかったのに。
でも、追いかけっことぐるぐる動きまくるカメラとEmily Bluntがとにかくおもしろい。それだけで十分ではないか。