7月25日、土曜日の午後、彩の国さいたま芸術劇場で見ました。
(船便到着の2日前に 〜 以下略。だってチケット取っちゃっていたんだもの)
開演は午後3時で、とにかく駅から劇場までのあの距離がだいじょうぶか(熱波) だったのだがどうにか。(次からはちゃんと備えるようにしたい)
日本のダンスカンパニーのも見ていったほうがよいのかも、くらいで。
Noism Company NiigataはNoism0とか1とか2とかあって、NDCみたいなやつ? と思ったらそうみたいだった。演出・振付は金森穣による2本立て。
私は海をだきしめていたい
原作(?)は今年生誕120年を迎える新潟の坂口安吾の同名短編(青空文庫で読める)、音楽はエリック・サティで、暑さから退避すべく暗めの会場に入ると生誕160年であるサティのピアノ - 『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux / あなたがほしい: 1902)が不機嫌に鳴り響いていて気もちよい。
短編の『私は海を~』がどんなやつかというと、例えば 『この女の不具な肉体が変に好きになってきた。真実というものから見捨てられた肉体 ~ 私の孤独な肉慾に応ずる無限の影絵であって欲しい ~ 私の肉慾も、あの海の暗いうねりにまかれたい』(雑な切り貼り)というような、役立たずの毒男がひとりでぶつぶつ呟きつつ空中をぐるぐる回ってやっぱり独りでどうしようもないわ、って片隅に追いやられていく、それを離れて見ているような感覚の絵で、サティのピアノの定点をぐるぐる陰険に回っていく虚無・無常の図にうまくはまる。
最初に客席側の階段を燕尾服で黒の傘をさした男がひとり静かに下りていって、ゆっくりとステージにあがり、ステージの奥には赤を纏った女性がひとり光を浴びるように立っていて、背景には淀んで曇った海(日本海?)、ステージ上の男は影がいくつかに分裂してそのいくつかが交互に静かに不穏に回りながら女性に絡みついていって、でも最後にはひとりにもどる。 海を抱きしめていたい、のだろうが言ってみただけ or うまく言語化できず - でどうあがいてもひとり… という静かに煩悶して崩れていく肉のさまが生々しく描かれていたような。
なんとなくPina Bauschの“Café Müller” (1978) - 音楽はPurcellだったが... を思い出してしまったのは、次のが「春の祭典」だったからだろうか。
改訂版 春の祭典
初演はコロナ禍にあった2020年で、ここからダンサーの人数を減らし(20数名→たしか12名)、舞台装置もよりシンプルなものになったそう。 照明も衣装もスリムな白系、小道具として、人数分の四角い椅子(デザイン:須長檀)が縦横斜めに置かれ、これらがダンサーたちによって組み合わされるとベッドにもバリケードにも要塞にもなって、有機的なところ無機的なところが絡み合い、2名の生贄を生んでしまう生々しいニンゲンたちの春のドラマが展開されていく。
私小説的だった「私は海を~」に比べるといきなりダイナミックな神話の世界に飛びこんでいくような明確な変化~ 個の虚しい呟きから集団の暴力・狂騒へ(黒→白)、があって、今回の「改訂」は前半部分からの流れのなかに置こうとすると必要だったのだろうな、と思われた。(それかあるいは、コロナ禍に要請されたものとポスト・コロナで要請されるもの、のちがい? とか)
ストラヴィンスキーなので、聴いているだけでそれなりに盛りあがることはできてしまう、という点を差っ引いてしまうと、割とふつうのモダンの群舞に見えてしまったのがやや残念だったかも。 海を抱きしめようとしたら嵐がきて落ちて溺れて死にそうになった、とかそんなめちゃくちゃに狂ったのを見たかったかも。
8.02.2026
[dance] 私は海をだきしめていたい
8.01.2026
[film] Sois belle et tais-toi! (1981)
7月26日、日曜日の午後、ル・シネマ 渋谷宮下の7Fで見ました。
英語題は”Be Pretty and Shut Up!”、邦題は『美しく、黙りなさい』(「黙りなさい」に赤の取り消し線)。
翌日の船便到着を前に、お片付けはよいのか? という声もあったが、『美しく、黙りなさい』って言われた。(美しくない)
制作から50年を記念しての劇場公開で、今後パッケージ化される予定はなく劇場上映と自主上映のみに限定されているそうなので、とにかく見に行くしかないのよ。
監督であるDelphine Seyrigが1976年に23名のフランス人、アメリカ人の女優、映画人たちに対して実施したインタビューをCarole Roussopoulosが撮影して、編集をCaroleとIoana Wiederがして、1981年に公開されている。
ボーヴォワール視聴覚センターとフランス国立図書館が主導して、2022年に修復~公開したもの、とのことで、でもどこかでなんか見た記憶が、と思ったら、2020年の初め、マドリードのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaでの企画展 - ”Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s”で7つのモニターを横並びにしたインスタレーション作品として流れていたことを思い出した。他には同じモニターでChantal Akermanの”Woman Sitting after Killing” (2001) - Jeanne Dielmanがあの後に座っているシーンを延々 – も流れていた。
質問はふたつ、「もしあなたが男性だったとしても、この職業(女優業)を選びましたか?」、「他の女優と友好的な場面を演じたことがありますか?」 - これは誘導のようなもので、最初の問いに対しては「いいえ、男性だったらもっといろんな選択肢があったはず」になるし、次の質問に対しては「いいえ、求められるのは常に男性とのインターアクションばかりだった」になることは容易に想像がつく。なぜなら我々が商業映画として接する殆どの映画は、「男優との間で」女優として輝く – その存在を最大化、最適化する形でその姿を表に出してくるものだったからで、この聞き方は動物園の動物にもし野生にいる別の動物だったら… って聞いているのと同じではないかと。
なので、殆どの女優が、それは面白い質問ね! と言ってから質問の答え以外のあんなことこんなことを嬉々としてとめどなく喋りまくるのがとにかくおもしろくて、でもそれらのおもしろい語りの背後に見える各自の業のようなものが固化していく「女性」という型の周辺に、あるいはこれに抗するかたちで立ちあがってくる何かが見えてくる。
あと、ここから、この50年で変わったこと、依然として変わっていないことについても考えないわけにはいかない。
あと、映画のなかで、Ellen Burstyn(..正確に覚えていない)だったかが語っていたEleanor Perryが夫のFrank Perryと作った映画 – ひとりの少女と4人の男が出てきて少女がレイプされてしまうやつ – って、2025年にBFIのFilm on Film Festivalで発掘上映された”Last Summer” (1969)のことだ! って少し自分内で盛りあがった。
Delphine et Carole, insoumuses (2019)
7月19日、日曜日の昼、日仏学院で見ました。
邦題は『デルフィーヌとキャロル』、タイトルを直訳すると『デルフィーヌとキャロル:反逆のミューズたち』、であり、”insoumuses”は、Caroleが立ち上げたビデオグループ “Les Insoumuses”にも繋がる。 68分の中編。
監督はCallisto Mc Nulty。 スイス生まれのCarole Roussopoulosが、1970年にJean Genetの勧めを受けて当時発売されたばかりのVideo Cameraを購入 – これを最初に買ったのはゴダール、次に彼女が、フランスの女性として初めて買った – して、Angera Davisのドキュメンタリーを制作、その後も人権擁護運動の様子をカメラに撮っていくなかで1976年にDelphine Seyrigと出会い、そこからは↑を含む女性の権利やフェミニズムをテーマにしたドキュメンタリー作品を沢山残した。 あと、↑を復元したボーヴォワール視聴覚センターもこれらの活動を通して彼女たちが設立したもの。
とにかく、デルフィーヌとキャロルのふたりが現地で、女性たちと一緒になって戦ったり議論したりしつつ記録していった70年代以降のデモの記録、TV討論の様子などが、げろげろになる点も含めてものすごくおもしろくて、↑にも書いたけど、この50年で変わったこと、変わらないことについて考えてしまう。
昨年、BFIで行われたLaura Mulveyの企画特集も、結構人が入っていたしすごくおもしろかったし、割とそういうとこに足を運んで見ているほうだと思うのだが、足元を見るとぜんぜん、なにひとつ変わっていないのでは… ってものすごく暗澹として、例えば、日本の映画女優にいま、”Sois belle et tais-toi!”の質問を投げたらどうなるだろうか? とか。
この国が得意としている「ガラパゴス」なのかもしれないが、ガラパゴス(の動物たち)だって環境に合わせて進化はしていくもので、これは適応する先を愚かなことに完全に誤ってどうにも動けなくなっているような…
でもとにかく、そういうのとは別に、見ていると不思議と明るくなれる映画だからー
渋谷宮下の特集上映でももうじきかかるらしいので、この機会にぜひ。
7.30.2026
[film] Sangue del mio sangue (2015)
7月25日、土曜日の夕方、イメージフォーラムで見ました。
Marco Bellocchioの10年以上前の作品が何で突然今頃? なのだが、彼の作品、最近はTVシリーズなどもあって見るのが難しくなっている気もするので、見れるものは見ておきたい。
見事な濃淡・陰影を湛えた撮影は “Vincere” (2009) - 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のDaniele Cipri。
英語題は”Blood of My Blood”、邦題は『私の血に流れる血』。 後半、老吸血鬼も少しだけ出てくるが、吸血鬼もの、ではない。というか、吸血鬼ものの形をとったキリスト教批判というか。
二部構成で、最初のパートは17世紀、イタリアのボッビオ – Bellocchioの生まれ故郷で監督デビュー作-『ポケットの中の握り拳』の舞台でもある – の修道院を若いFederico (Pier Giorgio Bellocchio)が訪ねてくる。そこの修道女Benedetta (Lidiya Liberman)と関係をもって、自殺した兄をキリスト教徒としてきちんと埋葬してほしい、と頼みにきたのだが、そのためにはBenedettaが悪魔の影響下にあったことを証明する必要がある、ということで、大勢の立ち合いのもと、水責め(重い鎖を巻いて沈められて沈んだままだったら善人とか)、火責めの残忍な異端審問が行われて、彼女は傷だらけのまま狭い石の牢獄に監禁されるのだが、なにをやっても効かなくて、他方でFedericoは別の修道女ふたり(うち一人はAlba Rohrwacher!)との愛欲に溺れたり、兄の仇であるはずのBenedettaにも疼くように惹かれたりしてかなりどうしようもない。
次のパートは同じ土地の現代に時代は移り、自称税務調査官、見るからに怪しいFederico (ふたたびPier Giorgio Bellocchio)が、ロシア人の資産家Ivan Rikalkov (Ivan Franek)を伴って、かつて修道院で、現在は修道院兼刑務所となり、ぼろぼろに朽ちかけている建物を購入したいと言って訪問してくる。管理人はこんな廃墟のようなところを、と戸惑うのだが、かつて修道院だったこの場所には老いたBasta伯爵 (Roberto Herlitzka)がひとりでひっそりと暮らしている。
伯爵の表情はずっと固まったように凍り付いたまま(すごい横顔)、ほぼ喋ることもなく、その状態で町を徘徊して歯医者に行ったり(レントゲンで吸血鬼であることが...)、バーでひとり佇んだりしていて、そんなしおしおになっても、とにかくずっと生きているらしい - なんのために?
そして最後に石の壁のなかに(数十年?数百年?)放置・幽閉されていたBenedettaが彼女を閉じ込めたのと同じ枢機卿によって「ひょっとして聖女なのかも」という畏れと共に解放され、汚れにまみれていたはずの全裸の彼女は少しも老いておらず、ちょうどその反対側で伯爵は...
お話はBellocchioによるフィクションだが、Benedettaは16世紀に実在し、修道院に13年間幽閉された「モンツァの修道女」 - Marianna de Leyva – の生涯から引かれていて、最新作の”Rapito” (2023)でも顕著だったキリスト教(がその教義のもとで支配し、その名のもとで為してきた悪業)への批判が炸裂している。
故郷ボッビオで撮っていること、前半後半それぞれに息子のPier Giorgioを起用していることからも『私の血に流れる血』、というときの「私」とはBellocchio本人だと思われるのだが、なにがここまで彼をキリスト教批判に向かわせるのか、”Rapito”イギリスでの公開時のトークでも本人が語っていた記憶が。ものすごく真っ当な宗教(的なもの権力、教条主義全般)に対する異議申し立てだったの。
という見方もあれば、聖女(聖なるもの)→ 吸血鬼(邪なるもの)→ ロシアの資産家(のっぺら)という歴史の流れのなかで淘汰されてきたもの、それでも残されているなにか(あるとしたらそれは?)、を概観する、というのもあるのかも。 修道院なのに、ずーっと生きにくい状態はどこまでも続いている。例えばこんなふうに、と。
[film] Obsession (2025)
7月23日、木曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。
邦題は『オブセッション 災愛』。
プロダクションはBlumhouseで、ホラーだと聞いていたし「災愛」なんていかにも、なかんじなのだが、出てくる人数少なめ、画面は地味で暗そうなので、この程度なら乗り越えられるのではないか、ってなんとなく。目を覆ったり口や頬を押さえたくなるような恐怖描写はないのだが、シンプルで後からじわじわ沁みてくる、80年代のB級風味がある。
作・監督・編集は元YouTuberのCurry Barker、これが劇場公開デビュー長編で、昨年のトロントの”The Midnight Madness”という部門でプレミアされている。
楽器店で働くBear (Michael Johnston)は幼馴染で同僚のNikki (Inde Navarrette)と付きあいたいと思っているが、なかなか言い出せなくて、ひとりうじうじ行ったり来たりを繰り返していて、彼女がクリスタルのネックレスをなくしたというので、替わりを買ってプレゼントしてあげよう… と地元の怪しげな雑貨屋に行くと、そこで紙の小箱に入った"One Wish Willow" - 「願いが叶う柳の枝」 - 願をかけてその枝を折ると願い - ひとつだけ - が叶うというブツを見つける。胡散臭いけどおもしろそうなので買って、軽いかんじでぽきっ、てやってみる。
そしたらだんだんに、やがてはっきりとNikkiが寄ってきて、自分に好意を持ってくれている、それどころか愛してくれているようで、家にも来て、ずっと一緒にいたい、とか言われて、あまりの急展開に驚きながらも自分が望んでいたことだったので歓んでいちゃいちゃべたべた過ごすのだったが、突然彼女が錯乱して怒鳴ったり、強い態度に出る - 自分が家を出たり彼女から離れようとすると – のが目立つようになる。
はじめのうちはNikki自身も我に返って後で謝ったりして、Bearもそういうものか、って思ったりしたのだが、家の扉を内側からテープでがちがちに留めて外に出られなくしていたり、を見ると、ちょっとこれは… になって枝を買ったお店に行って願いが呪いみたいに強すぎるやつなので元に戻せないのか、って聞いてみると、そんなのムリ、死ぬしかないよ、とか言われて..
素朴なお願いを、(素朴だから素朴に)お願いしたらちょっと効きすぎてびっくり恐いよう、って素朴に夢見た相思相愛が地獄の釜底にまで転がっていくドラマで、最後はやっぱりびっくりぼこぼこ血みどろの「そこまでやらなくても」になっていくのだが、そもそも愛とはここまで相手を縛って苦しめたりするものなのだ、少なくともそういう思いと紙一重の厄介な呪いみたいなもんなのだ覚悟しておけ、ということを109分かけて伝えようとしていて、でもこれなら90分くらいでも十分だったかも。
通常のホラーであれば、こういう呪いとか呪縛を解く、あるいはどうやって解くのか、に向けて主人公はしゃかりきになって動いていくものだと思うが、この映画の場合、もちろんそういう動きはしてみるものの、終盤は為すすべもなくやられて埋もれていくばかりで、この辺は気弱でなかなか愛を告げることができなかった最初の方の主人公の設定とも整合していて、つまりこの彼の場合はかわいそうだけどそもそもどうしようもなかったのね、で終わり(でよいのか?)。
画素の粗いデジタルで撮られたような暗めの籠ったような映像も、あんまり好きではないのだが、このテーマだとやはりそうなってしまうのか。
だから愛なんてさ、って軽く蹴っ飛ばしてどこかに高跳びしてくれることも期待したのだが、そうもならなくて、この辺はやっぱり律儀でまじめなのね、って思った。
7.29.2026
[film] Reign of Terror (1949)
7月16日、木曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。
邦題は『秘密指令』。めちゃくちゃおもしろいフランス革命ノワール。Walter Wangerのプロダクションで、撮影はJohn Alton。
冒頭のタイトルでは”The Black Book”と出て、エンディングのタイトルで”The End of “Reign of Terror””って出るの。
フランス革命直後の混乱期、独裁 - 恐怖政治の準備を進めるMaximilien Robespierre (Richard Basehart)はDantonとか政敵を片っ端からギロチンに送りまくっていて、これに対抗する反乱軍の愛国者Charles D'Aubigny (Robert Cummings)のグループは地下に潜って暗闘を繰り広げている。
CharlesはRobespierreがパリに召喚したストラスブールの検察官デュヴァルをホテルで殺害して彼になりすましてRobespierreに近づくと、彼はこれから処刑する予定の市民の名前が記された”Black Book”が盗まれた、全権を与えるので探しだしてほしい、とCharlesに依頼する。”Black Book”の存在が市民に知れてしまうと独裁者として君臨することは難しくなるし、逆に反乱軍はこの本を手に入れて国民公会までにその内容を暴くことができれば、Robespierreによる恐怖政治 - “Reign of Terror”を止めることができる。
こうしてCharlesはかつての恋人Madelon (Arlene Dahl)の助けを借りながら魔法のBlack Bookを探そうとパン屋の奥とか地下を這いずりまわり、そこに絡んでくる爬虫類の策士Fouché (Arnold Moss)、捕らえられてしまう同志François Barras (Richard Hart)、いつでもどこでも、誰ひとり信じることができないなか、迫ってくる期限と包囲網のはらはらが最後のギロチン台に向かっていって…
フランス革命ものとか、ノワールとかジャンルなんてどうでもいい、とにかく革命の同志になって手に汗握るってこれよね、になるからー。
The Far Country (1954)
7月18日、土曜日の午後、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『遠い国』、アラスカを舞台にしたテクニカラーの西部劇。アラスカで撮っているわけではないと(ぜんぜん寒そうじゃないし)。
19世紀の終わりのアメリカ、Jeff Webster (James Stewart)と相棒のBen (Walter Brennan)はゴールドラッシュの噂を聞いて牛たちを連れ、面倒な連中を吹っきったりしながら旅をしている途中、絞首刑の執行を邪魔したので地元の傲慢な自称判事Gannon (John McIntire)に目を付けられて、家畜を没収されたり脅されたり、GannonのパートナーのRonda (Ruth Roman)とか勝気な少女Renee (Corinne Calvet)に助けられたりしながら、どこに行っても騙されたり盗られたりの無頼の土地を渡っていくの。
困難を乗り越えていくなか、避けられない暴力の応酬から堪忍袋が膨れていくよくありそうな辺境開拓民たちのお話しなのだが、これは今の世であればJeffとBenのブロマンスとして仕上げられたのだろうな、というくらい彼らふたりの繋がりの濃さと切なさが際立って、最後の方、夜闇の中、遠くから響いてくる鈴の音がたまんない効果をもたらすの。
Thunder Bay (1953)
7月21日、火曜日の晩、シネマヴェーラで見ました。
邦題は『雷鳴の湾』。これもテクニカラーで、↑と同じような海底油田採掘をフィールドにした変則アドヴェンチャー西部劇 - 流れ者、よそ者がその土地起源の何かに手を出そうとして現地の者の抵抗にあったり対立したりしてざわざわしてどうにかなる/する、というドラマ。 そしてこれもJames Stewartが主演。
終戦後、海軍あがりの技術者(には見えない)Steve Martin (James Stewart)とJohnny Gambi (Dan Duryea)がエビの獲れるルイジアナの湾沿いに現れて、絶対油田が出るから、って近くの海の試掘をすべく地元漁師にとりあって石油会社のMac (Jay C. Flippen)からの合意も取り付けて、やり始めるのだが、人が集まれば騒ぎが起きてきな臭くなるし、漁師は漁場を荒らされるし、地場の船乗りは許嫁を取られてやけになっちゃうし、最後にはやっぱり台風がやってきて…
酒場で与太者共を網で一網打尽にするところとか、嵐の海のぐじゃぐじゃとかおもしろい見所はあるものの、外からやってきた開拓者が当然のように現地の人の反発を招いて、やりあいながらも最後は相手を丸めこんで自分のやりたいことをやり遂げるのって、今の視点で見るとアメリカのエゴ(開拓精神とか呼ばれる)のゴリ押しで、このやり方で世界中のリソースを都合よく自分のものにしてきたんだろうなー、って割とうんざりする。昨今は特に。 ふつうになんで? ってなることが多すぎ。
James Stewartの一見強面ではない柔そうな佇まいも、そういう辺りで活きるのだろうなー、とか。
7.27.2026
[film] Ce n'est qu'un au revoir (2024)
7月18日、土曜日の昼、ユーロスペースのGuillaume Bracの特集上映で見ました。彼の一番新しいドキュメンタリー作品2本だて。
ここ数年の日本の夏が酷い、というのは聞いて覚悟していて、今年のヨーロッパも同様らしいのだが、こっちのありえないのはとにかく湿気で、これが視界と汗腺をぜんぶ塞いで、過ぎ去ってくれるはずの夏をべったべたの最悪のにしてくれる。ホラーや怪談がこいつらに対抗できるものとは思えないのだが、Guillaume Bracの映画ならどうだろうか、って。
Un pincement au cœur (2023)
邦題は『リンダとイリナ』 - タイトルを直訳すると「胸を刺すような痛み」。 38分の中編。
フランス北部の、かつて炭鉱があった町エナン=ボーモンで、町を行き交う人はそんなに多くなくてみんなマスクをしている2021年のコロナ禍でのロックダウンの最中、公的機関からの依頼を受けて高校生のワークショップを開いたりしていると、LindaとIrinaという仲のよいふたりが目に留まって、彼女たちふたり(とあともうひとり)がどんなふうにくっついていて、一緒の時間を過ごして、どんなふうに離ればなれになるのか、を(コロナだから)近くに寄ることができないカメラが追っていく。
育った環境も家族も違うし、やがて別別になることは分かっているけど、一緒に踊れば楽しいし、ちょっと険悪になったら悲しいし、やっぱり今は別れたくなんかないし。でもそれが向こうからやってくる時の嫌だ、あと少しでいいから一緒にいさせて、の溢れてくる思いが去っていく夏模様のなかに描かれて、そこにFrançoise Hardyの”L'Amitié”が流れてくる。
ほーんと、なんの変哲もない夏のバイバイを、ここまで沁みるものにしているのはなんなのだろうか、と。
Ce n'est qu'un au revoir (2024)
↑と同時上映の64分の中編ドキュメンタリーで、↑のとは土地 - ドローム県 - も学校も若者たちも、撮影に至るまでの経緯も異なるらしいのだが、ずっと楽しく一緒にいた若者たちの、やがて迎える別れの季節を追って↑の作品との際立った段差はない。同年のカンヌのACID部門に出品されている。
邦題は『また会えるよね』で、このタイトルがすべて。直訳すると「これはただの「またね」に過ぎない」と。
寄宿舎つきの公立の学校なので、昼も夜もずっと一緒に暮らしているのでマットレス倒しも大騒ぎも腰が据わって揺るがないし、『よき谷の物語』にあったような川遊びも楽しい。彼らが普段、どんなふうに校内の施設で立ったり座ったり走ったり、どんなふうに校外で笑ったり遊んだりしているのかが、絶妙な粒感で捉えられていて、いくらでも見ていられる。
肉親の死や幼い頃からの家での辛さなどについて語る子もいて、これらの(小さな)声も集団生活の中で埋もれることなく、ちゃんとそこにある。あるよ、聞いているよ、っていう絶妙なカメラの位置とそこで持続する、こちらに声が届くまでの時間のありようについて。
その流れのなかでの、不可避でやってきてしまう「別れ」に対する態度って、「また会えるよね」しかないなー、って思うと、いまここにある夏も、そのすべてが愛おしいものにー。
これまで見てきたGuillaume Bracのフィルム、フィクションも含めて、人に向かう時の柔らかさ、人懐こさ - 人に出会いたいと願う人への眼差しの暖かさは一貫していて、そんな彼が少女たちのしばしの別れ、その節目に立っているのってなんて素敵なことだろうか、って。
船便はとりあえず着いて、なんとか作った床のスペースに箱は積まれて、向こうで買って運ばれてきた小さな本棚に開けられた箱からの数冊は並べられた。かんたん。 あと18箱くらいあるぞどうする。
今回、床スペースを開けるのに紙束を整理していて、もう何度もそういうシャッフルをしているので、80年代のStudio 200のチラシに、90年代のFilm Forumのチラシに、10年代のBarbicanのパンフに、古雑誌も含めてあれこれ入り混じっていておもしろくて飽きなかった。会社やめたら毎日これやって遊べる。
7.24.2026
[film] Dead Man's Wire (2025)
7月19日、日曜日の午後、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
英国滞在の最後のほうで公開されていたが、時間がなくて見れないままで悔しかったやつ。
70年代に実際に起こった犯罪を元にしたサスペンス。監督はGus Van Sant。
ところで、少し前に映画会社の宣伝がSNSで話題になっていたが、あれは新人設定にしてAIに書かせたものだと思う。そして、あんなもんをAIにやらせたとしてもAIでなかったとしても、どっちにしてもレベル低すぎるし効果あるとは思えないし、こんなのがこの国の洋画配給会社の「実力」なのだろう。あーあ、になるしかない。
77年2月のインディアナポリスでのある朝、現地の実業家のTony Kiritsis (Bill Skarsgård)が車でモーゲージ会社のビルに乗りつけ、受付で社長のM.L. Hall (Al Pacino)と会いたい、と伝えるが彼は不在で、替わりに息子のRichard Hall (Dacre Montgomery)が出てきて応接室で応対していると、突然Richardを縛りあげて箱から出したショットガンを彼の首に引っかけ、抵抗したり警察が絡んできたら引き金が引かれてどん! になるからおとなしくしろ、のDead Man’s Wireを仕掛けられてしまう。
TonyはHall一族の会社 – 特にM.L.の方には商用の土地購入で自分の尊厳も含めて積みあげてきたものをめたくそにやられてふんだくられたのでふざけんじゃねえ、とにかく謝れ、賠償しろ、ってずっとテンション高くぶち切れていて(ホラーみたいに恐い)、その勢いで彼をビルの階下まで引き摺って車に乗せ、警察や報道からも隠れることなくこれ見ろ、寄ってくるな、って説明して、自分のアパートに連れこんで閉じこもる。
閉じこもってからは、報道を中心に24時間通しの大盛りあがりになり、Tonyは人命優先の当局から負債の取り下げなどを保障して貰い、お気に入りのラジオ局DJのFred Temple (Colman Domingo)に自分の話を聞いて貰ったり、やりたい放題で、でも電話が繋がって会話ができたM.L.からは謝罪を取りつけることはできなかったり - Al Pacino、ほぼ妖怪の頑迷さ。
つい間違って引き金を引いちゃった… はなさそうで、ぶつかったり詰まったり、ずっとテンションの高いTonyとのじりじりした駆け引きが続いて、人質のRichardはずっと死んだ魚の目で煮るなり焼くなり好きにしろ、になって、でも最後はやはりじりじり交渉、という熱さ冷たさの温度感が乱高下する空気をところどころ70年代映画のような粗め冷ための画質(撮影はデジタルらしい)が捉えていって、最近のこういう映画にある現場のライブ感は余りないけど、ここにはGus Van Sant映画の主人公のいつもの危なっかしい彷徨いがあって、緊張感は途絶えることなく、いろんなことを考える。
70年代を舞台にした最近の犯罪映画、でいうと”The Mastermind” (2025) – これも半分実話であるが - 辺りにも似た、生活に困窮した男があまりぱっとしない装備でコトを起こして悶えまくる、というのにも似た、なんともいえない切なさがあって、これはなんなのかしら。 “One Battle After Another” (2025) の最初期のBattleなのか。
脚本はAustin Kolodney、音楽はDanny Elfmanなのだが、挿入歌が近年稀にみるすばらしさで、エンディングに流れるGil Scott-Heronの”The Revolution Will Not Be Televised” (1970)をはじめ、最初の方のLabi Siffreの“Cannock Chase” (1972)とか、決着したときのYes - “I've Seen All Good People” (1971)とか、個人的にはHarpers Bizarreの”Witchi Tai to” (1969)かしら。これの入ったLP - ”Harpers Bizarre 4”、ジャケットがぼろぼろのを青山のパイドパイパーハウスで買ったなあ、って。
主人公が心酔するDJのColman Domingoがひとり異世界のクールネスを放っているのだが、彼が家に帰ったら”Michael”がいたとか...
3月24日にロンドンのフラットから荷出しして、4月16日に英国のサザンプトン港を出港して、6月16日にシンガポールに着いて、そこで荷物を積みかえて、6月30日に東京の港に着いた船便が、こんどの月曜日にようやくやってくる。本当にまる4カ月かかるとは。
3月の終わりに帰国して、どうせこれが来るから、ってお片付けをずっと先延ばしにしてて、その間だって2年間で買っていなかったあんな本こんな本や新刊本は考えなしに買ってそのまま積んでて、もんだいは、今いるところに20箱ぶんの本をどうやって上積むのか? で、ふつうに見ただけでどう見ても考えてもこれ以上はむり。最近の世間には積読を称賛する傾向もあるらしいが、もうどう見ても何をしても絶対むり…
7.23.2026
[film] Side Street (1949)
7月15日、水曜日の晩、シネマヴェーラのAnthony Mann特集で見ました。邦題はそのまま『サイド・ストリート』。
監督Anthony Mannにとっては最後のノワール作品で、主演はFarley GrangerとCathy O'Donnell。Nicholas Rayのデビュー作、”They Live by Night” (1948) - 『夜の人々』のふたりで、これが日本で公開された1988年に有楽町スバル座で見てぼろぼろに泣いて、映画でこんなに泣けることってあるんだーと自分でびっくりしたあの作品のあのふたりによる2作目。 ”They Live by Night”はHoward Hughesが気に入らなくてお蔵入りになりそうだったところ、MGMが今作でふたりを再フィーチャーしたのを聞いて、慌ててリリースしたものだそう。(あんなすごいデビュー作なのに..)
全編NYの街中でロケをしていて、NYを舞台にしたノワールや犯罪映画がよくやっているように冒頭にNYってこんな街なのさ、の紹介がはいる。
身重の妻Ellen (Cathy O'Donnell)を抱えて生活が苦しくて郵便配達をしているJoe (Farley Granger)は配達先の弁護士事務所でちらっと見てしまった$200くらいを盗もうとしたら思っても見なかった$30000が手に入ってしまい、黙って隠れていればよいのに息子が生まれたからって、わざわざ一部を返しに行ったりしたもんだから当然のように狙われて、金の出処や隠し場所をめぐって次々と殺人が起こって、やくざと警察の両方から追い回されて大変な目にあうの。
最後はダウンタウンで結構大がかりなカーチェイス - 通りを疾走していくのを上から撮る - があって、Trinity Churchになだれ込んでの銃撃があり、ああまたFarley Grangerは.. ってハンカチを出そうとしたら大丈夫になった。死ななくてよかった。
すごくどうでもいいことだが、今も残る3rd AvenueのP.J. Clarke's(ダイナー)が”Clarke’s Cafe”っていう名前でちょっとだけ映る。ここのハンバーガーが自分にとっては世界の3本指でー。(食べたいなー)
それにしても中心のふたりは一緒にいるだけでなんか光が浮かんでくるような。自分が何かの病気なのか。
The Tall Target (1951)
7月15日の晩、↑のに続けて見ました。 “TTT” - 邦題は『高い標的』。
1861年2月、NY市警のJohn Kennedy (Dick Powell)はかつて護衛をしたリンカーンがワシントンD.C.での就任演説に向かう途中で暗殺される、という情報を得て上に報告するが誰も相手にしてくれないので職を辞して単身列車に乗り込んで暗殺阻止に向けて動き出す... という今もふつうに、どこにでもありそうな要人警護サスペンスアクション。
実際に列車に乗りこんでみれば、周りはガチの南軍支持者だらけ、客車にいる全員がやらかしてもおかしくない状況下で、D.C.に直接向かわずボルチモアで降りて演説するという情報が入ってくるとさらにてんやわんやになって、狭い車内での乱闘で殴っては殴られて気を失ったり、でも列車はちっとも止まってくれず、車窓に書かれたメッセージなんてわかるわけないじゃん、とか思うのだが、ここでケネディががんばらなかったらリンカーンは.. って思うとやはりみんな熱くなってしまうのだろう、か。
アクションものとしては列車のなか、客室や車両が変われば人も含めて別世界、というのを主人公の徒労感も含めてうまく表現していたと思うが、遠くて果てのないかんじがちょっと疲れたかも。
最後にリンカーンも横顔だけ出てきてなんか喋るのだが、いい気なもんよね、って少しだけ思った。
そんなことよりリンカーンから代々積みあげてきた遺産を台無しにして、世界中に害悪を撒き散らしているあのでぶをどうにかしてほしい。
7.22.2026
[film] Mektoub, My Love: Canto Due (2025)
7月12日、日曜日の夕方、日仏学院の『第7回映画批評月間 批評家たちが選ぶ2024-2025ベスト』からの1本で、見ました。
邦題は『メクトーブ、マイ・ラブ:第2章』。タイトルの”Mektoub”は、アラビア語の”Maktūb”に由来する言葉で、アラブ・イスラム圏の背景も含んで、運命とか宿命とか、なるようにしかならないもの、として口語的に使われるもの、だそう。 これ、男性が女性に対して言う場合と、女性が男性に対して言う場合で、トーンが結構変わるような。
『アデル、ブルーは熱い色』 (2013)のAbdellatif Kechicheによる”Canto Uno” (2017)、“Intermezzo” (2019)に続くシリーズの3作目で、シリーズを通しての原作はFrançois Bégaudeauの小説- ”La Blessure, la vraie” (2011)。 昨年のロカルノ国際映画祭のコンペティション部門でプレミアされている。
撮影は“Intermezzo”と同時にされていたものの、同作での出演女優による告発があったり、製作会社が法的トラブルに見舞われていたこと等により6年に渡ってポストプロダクションが中断されていたこと、現在Kechicheは脳卒中で倒れて映画を撮ることができない状態になってしまったこと等々、なんとも… な状態に置かれた作品ではあるが、とりあえず見る。 最初の2作を見ていなくても何の困難もなく、ふつうに、とってもおもしろかった。
1994年の夏、南仏の港町Sèteで、カメラを抱えたAmin (Shaïn Boumedine)がOphélie (Ophélie Bau)の姿を撮ったりしていて、彼女には婚約している軍人Clémentがいて、結婚式ももうじきなのだが、AminのいとこのTony (Salim Kechiouche)の子を妊娠していて、中絶するしかないか、って将来のことも含めて少し揺れている。しばらく見ていくと、Aminはそんな周囲のいろんな人が言ってくること、やってくることを静かに見たり受けとめたりしている透明な存在であることがわかってくる。
営業を終えたレストランにTVドラマ等に出ているアメリカ人女優Jessica (Jessica Pennington)とその夫でプロデューサーのJack (Andre Jacobs)が車でやってきて、結構傲慢にかんじ悪くお腹が空いてるのでなんか食べさせておくれ、ってクスクスとかを作らせてもりもり食べてて、そんなのがきっかけで彼らと知り合ったAminは、食事と引き換えに自分の書いたSF映画の脚本 - “The Essential Elements of Universal Existence” - 『普遍的な存在の本質的な要素』を読んで貰って、そしたら数日後、Jackはいくつか注文を付けつつもまじで映画化したい、と言ってきて、将来が少し明るくなる。
どこまで本当にしてよいのか、のハリウッド行きの話と、足元でのOphélieの今後が揺れているなか、TonyとJessicaが豪邸でべたべたしているところにJackが帰ってきて – の先に広がる修羅場展開が息が詰まるくらいにおもしろく、ぜんぜん関係ないのにそこに巻き込まれて散々な目にあうAmin…
穏やかでやさしくて、周囲の欲動の行く末を間近に見ているばかりのAminにとって、Ophélieの妊娠の件でどちらにどう転ぶのか、の微細な、けど重要な選択肢と決断の行方と、突然勃発して生死の瀬戸際に立たされる痴情沙汰 - 金玉が鉛玉で… - の幅に振り回され深夜に走りまわされて、そんなんなっても”Mektoub, My Love”、なんて言うの?
ロメールの夏映画にある(例えば)夏のオープンな欲望あれこれをどこまでもぺったんこに引き延ばしてすべての登場人物を宙づり状態にして楽しむカルダーのモビールみたいな、風鈴みたいな様、とはぜんぜん別の、すべてが熱い地面の上で起こって、熱すぎて踊ったりもしながら全員が団子状態でゆっくりと茹でられていく、これもまた夏の映画だなあ、って。 過ぎ去っていく夏の寂しさや切なさなんてなくて、沸騰したらそれで終わり、のようなごった煮の、往生際の悪さ。これもまた、という。そういう状態だと、クスクスがとってもおいしくなるようなー。
それにしても日本の夏の、ここ数日の不快さ - 気候だけでなく - ときたら、ちょっともうむり。
7.21.2026
[film] The Lavender Hill Mob (1951)
7月12日、日曜日の昼、K’s CinemaのEaling Studios特集で見ました。この特集で見た最後の1本となった。
邦題は『ラベンダー・モブ・ヒル』。1999年にBFIが実施した20世紀の偉大な英国フィルムのアンケートでは17位になっているそう。
原作はEaling Studioで多くの脚本を書いたT. E. B. Clarke、監督はCharles Crichton、音楽はGeorges Auric。
Henry "Dutch" Holland (Alec Guinness)がリオデジャネイロの豪華なリゾートホテルで豪勢におらおらって振るまっていて – なにしろAudrey Hepburn(カメオ)が挨拶にくる - イギリス人相手にいかにして自分はここまで来たのか、を得意げに語り始める…
ここから1年前、Dutchは真面目な銀行員で、昇進の話も頑なに拒むくらい毎日毎日金塊を積んだ車の輸送業務を担当して、銀行とLavender Hillの下宿屋との間を行ったり来たり、これを20年間ずっと続けてきて、でもあまりに頑なすぎたところで、金塊を盗むことができたら、みたいなことを考え始めたら止まらなくなり、そこに、新たな下宿人として、土産品を卸したり売ったりしているPendlebury (Stanley Holloway)が現れて、盗んだ金塊をお土産で売っているエッフェル塔のペーパーウェイトの形に鋳造してパリに輸送すれば足がつかないじゃん、て思いついて、ふたりで計画を立てて、そしたらDutchの異動の話が出てきてしまったので、少し早めに、強奪の実行時にはさらにふたりのちんぴらを雇い入れて実行して、Dutchは強盗にやられた被害者、ということになる。
全編を通して、なにかが計画通りにきっちり実行されることはなくて、必ず横から変な、想定していなかった邪魔や障害が入って当事者が(静かに)「きゃーー」って顔をゆがめて絶叫しそうになり、しかしその邪魔も、極めて英国的な合理/不合理によって処理され流されて、結果はどうにかなってしまって、全員が普通の平顔に戻る、というのを延々とやっている。(その反復にかける律儀な執念深さもまた、英国なのである)
とにかくふたりでフェイクのエッフェル塔を受けとるべくパリに行ったら、土産物屋のおばちゃんが、女子小学生に6個売ってしまったことがわかったふたりはきゃーって飛びあがり、女子小学生を追いかけてリアルエッフェル塔の天辺から一気に駆け下りて(ここのカメラがたのし)、彼女たちがカレーの港から英国に戻る船に乗り込もうとするのだが、出国手続きでいらつく(他人事とは…)ところもおかしい。
英国に戻った彼らは小学生ひとりひとりを追っかけて順番にエッフェル塔を取り戻していくのだが、ひとりだけ仲のよい警察官への贈り物にするから嫌だ、って拒否した娘がいて、そのブツはよりによって警察学校で開催されている展示会に持ちこまれて捜査方法の紹介で化学分析にかけられるところで…
あっと驚くような仕掛けもどんでんもないけど、偶然と成り行きばかりで転がっていって止まらない軽めの犯罪コメディで、動機もそこに込められた念にも深いところはなくて、すべてがまるで他人事のように(非情に)推移して、結果も誰もどうすることができず、だからどうした? になりがちなところなのに、こんなもんなんだよ、って軽く言って超然としている、それが戦後の、爆撃された瓦礫があちこちに残る町で起こるのがとっても趣深い。
底に流れる悪意、とまでは言わないどろどろ凝り固まった何か、みたいなのは“Kind Hearts and Coronets” (1949)とか”The Ladykillers” (1955) - 『マダムと泥棒』の方が渦を巻いていた気がして、Alec Guinnessはそっちの方ではないか、と思う。 この調子で自分が消えた後に、Lukeにもずっと、うるさいくらいにべらべら喋り続ければよかったのに。
[film] Milton Bituca Nascimento (2025)
7月11日、土曜日の晩、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
邦題は『ビトゥーカ ミルトン・ナシメント フェアウェルツアー』。
2025年に83歳で生涯を閉じたMilton Nascimentoが2022年のフェアウェル・ツアーで世界をまわった後、Belo Horizonteのスタジアムで行った最後のライブまでを追いつつ、彼の人と音楽を紹介していくドキュメンタリー。
“Bituca”というのは彼の幼時からの愛称で、タバコを吸うときのように唇をちょっと尖がらせているさまから来ているそう。その愛称のままずっと来た、というのが素敵。
フェアウェル・ツアーで曲を演奏し、歌っていく姿を追う、というよりは、彼の音楽、その歌のもつ広がりとか意義について、彼自身の言葉だけでなく、ブラジル音楽、米国のジャズやフュージョンの文脈から、いろんな人たちが彼の音楽について紹介したり語ったりしていって、そのメンツがとにかくすごい。
ブラジル音楽界からはChico Buarque, Caetano Veloso, Gilberto Gil, Toninho Horta, João Bosco, Djavan, Ivan Lins, Lô Borges, Sergio Mendes, アメリカ音楽界からはPat Metheny, Wayne Shorter, Herbie Hancock, Stanley Clarke, Quincy Jones, Paul Simon, Steve Jordan, Spike Lee(←出たがり)などなど。 人間国宝、なんてもんじゃないくらいすごい。
アメリカ音楽界からは、おそらくTom Jobimの後、のようなところを受けて、70年代のJazzやフュージョンが追及していって、でもきちんと捉えきれなかったり創ることができなかった音や声の肌理、のようなものをMiltonの音の複雑さと、彼らが他の「ワールドミュージック」の文脈で好んで取りあげる「野生」みたいな文脈で取りこもうとしたのではないか、とか。
ブラジル音楽界からは、ボサノヴァ等のわかりやすい海の音楽とも「ポピュラー」というのとも別に、彼の音楽から「みんなのうた」として魂の根底を揺さぶる、山のこだまのような何かを受けとっているような気がして、それは最初の方で紹介されたElis Reginaとの関わりからも明らかなように、彼の声の震えと滑らかさ、その広がりが根源的なところで人々を魅了した、ということなのだろうか。
わたし自身はというと、1990年のCaetano Velosoの初来日公演でブラジル音楽に結構な衝撃を受けて、かの地のレコードを手あたり次第に掘って聴いたりしていくなか、Miltonの音楽に対してはちょっと別もののとっつきにくい何かをずっと感じていて、それがたしかNYかどこかで彼のライブに触れてなんかわかってしまった気になった、くらい。そのときはPaulo Bragaの叩き出すぶっといグルーヴにやられて、おうこれなのかー、ってかなりびっくりした。
なので、このドキュメンタリーでミュージシャンたちが語る彼の音楽の特徴とかそこから広がる何か、はとてもよくわかるものだったが、その反対側で、彼の音楽に触れたことのないひとにどこまで訴えるものになっていたか、についてはやや「?」で、だからもっとライブの場面 - せめて1曲をフルで - とか、若い頃の彼のライブのフッテージも紹介してほしかった。 これだとお葬式で次々にコメントと感謝を述べている人たちの図、で終わってしまうような。
あと、彼を描いた彼の像って、ほぼ仏画みたいだな、って。そして、彼が仏様なのだとしたら彼の歌って、空也上人像みたいに、実体のある念仏として彼の口から(踊りながら)空に放たれていくのだな、って思った。 最後に彼がぽつんとしているシーンなんて、まるでお地蔵様のようだし。
[film] The Great Flamarion (1954)
7月11日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 - 『ノワールから西部劇へ アンソニー・マン特集』で見ました。
この特集からまだ7本くらいしか見れていないのだが、とにかく何を見てもおもしろくてこの人なんなの? ってあきれている。上映時間だとどれも70〜90分くらいのものばかりなのだが、ここまでのことができるのか、って。
メキシコの見世物小屋でショーの最中、どこかで銃声が響いて、駆けつけると楽屋で女性が絞殺されていて、その夫が怪しいって逮捕されるのだが、その後に舞台の上から傷を負って落ちてきたThe Great Flamarion (Erich von Stroheim)は息も絶え絶えにこれまでのことを語り始める… というノワールの典型的なスタイルで、宿命の女と思い込んでいた彼女にやられてしまうまでのこと。
百発百中の拳銃ばんばん芸で各地のどさ回りを続けてそれなりに稼いでいるFlamarionがConnie (Mary Beth Hughes)とそのアル中のだめ夫Al (Dan Duryea)と組んでやっているうち、Connieに言い寄られて言われるままに夫から逃れて実家の方に隠れたい、でも1年後に一緒になりましょう、と言うのでそれを信じてお金を渡して待ち合わせを誓ったシカゴの豪華ホテルで待ったのにぜんぜん現れなくて、気づいたら彼女は別の自転車芸の男と一緒に興行していると聞いて…
わかりやすすぎて同情の余地があまりないロマンス詐欺事案なのだが、Erich von Stroheimの純情の痛さと怖さ、それに相性よく絡みつくヨーロッパ・ホラーの暗い粘着力とMary Beth Hughesの軽い悪女っぷりが見事な模様を描くクラシック。
The Furies (1950)
7月13日、月曜日の晩に見ました。邦題は『復讐の荒野』。Walter Hustonの最後の出演作 - にしてはあまりに見事にみっしり詰まって漲っている。Mannの作品にしては長い109分。
ニューメキシコに広大な牧場 “Furies”を経営する家父長制の権化のような親分T. C. (Walter Huston)がいて、家でもビジネスでも現地民から搾取しまくっているのに周りからは豪快ないい親父って見られていて(よく見る)、その愛娘Vance (Barbara Stanwyck)は父を尊敬しつつも貰えるものは貰うから、って負けなくて、追い出されると頭きて父を敵視する男たちと組んだりしながらやり合って自分の道を切り開くまで、を女性映画ウェスタンのように描く。わたしはBarbara Stanwyckがかっこよければそれでだいたい満足なのだが、この映画でそれ以上にかっこよかったのが、現地民側で息子たちを従えて狂喜しながら撃ちまくる豪快なママだったかも。
父に対抗すべく味方になってくれそうな男と付き合ってみるのだが、結局男なんて簡単に裏切るし父には敵うわけないか、って愛・憎・諦めで身動き取れなくなっていく自分に苛立つ彼女 - こんな複雑なエモを表現できるのは彼女くらいよね、って。
Strange Impersonation (1946)
7月13日の晩、↑のに続けて見ました。邦題は『仮面の女』。68分の作品。
化学研究者として頭角を現してきたNora (Brenda Marshall)は同じ職場の婚約者Stephen (William Gargan)から早く一緒になろう、って言い寄られているのだが仕事に熱中したいので先延ばしにしていて、同僚で助手のArline (Hillary Brooke)からはほどほどに、って言われていて、ある晩、Arlineと一緒に自分を使って麻酔薬の実験をしたら火事になって大やけどをして、顔が変わってしまい人生終わった、になっていたところに訪ねてきた女性Jane Karaski (Ruth Ford) – 車でちょっと引っかけてしまっただけなのにたちの悪い保険屋とつるんで金を巻きあげようとやってきた – とやりあううちにJaneはアパートから落ちて顔がわからない状態で死んでしまったので、Noraは西海岸で整形して名前も含めて彼女になりすまして、Stephenと結婚しているArlineのところに近づいていくと…
よくある復讐劇、だけではない、女性と仕事、お金にまで踏み込んだ深い作品で、でも最後はやはり破綻してノワールの悲劇として終わるのか、と思ったら。
しかし、Noraが家に持ち帰って実験をした理由が、研究所だと申請がめんどくさいから、って、いまだと確実にコンプラで…
7.17.2026
[film] 海灘的一天 (1983)
7月12日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。
Edward Yang - 楊德昌の最初の長編劇映画、撮影のChristopher Doyleにとっても長編劇映画デビュー作、侯孝賢も登場する、記念碑的な作品のリストア版。ようやく見れた(とみんなが言う)。
英語題は”That Day, on the Beach”、邦題は『海辺の一日』。
166分、ちょっと長いけど、海辺で一日ぼーっとしている時に浮かんでくるようなことが押し寄せてきて - 押し寄せてくるかんじを体感できて - とても満ち満ちて固まった、豊かな午後の時間を過ごすことができる。これこそが自分にとってのEdward Yangのイメージかも。
ヨーロッパでずっと活動してきたピアニストの蔚青(Terry Hu)が13年ぶりに母国の台湾に還ってきてコンサートをする、というラジオのアナウンスが流れ、晩に向けた準備をしようとしている彼女のところに、旧友の佳莉(Sylvia Chang)が会って話したい、と連絡してきたので、彼女は午後の予定をキャンセルして、再会したふたりはお茶を飲みながら対面する。
ここでふたりの関係、その過去を掘り下げていくのかと思ったら、佳莉の兄の佳森(Ming-Hsiang Tseng)が父の経営する医院を継ぐべくお見合いで結婚することになり、彼が当時付きあっていた蔚青が海外に出てしまった経緯が語られ、そこからふたりのその後に向かうかと思ったら、今度は佳莉の方に向かい、彼女の方にも親からよろしくあてがわれた男が紹介されたので、大学から兵役に出るところだった徳偉(David Mao)を捕まえて家を出て一緒になる。徳偉はとてもよい人で幸せだったが、大学の金持ち友人だった阿財(Hsu Ming)の会社に就職してから忙しくなり、ふたり一緒に過ごす時間が減って、互いにぎすぎすして追い詰められていって、そういう状態で今から3年前に、徳偉が行方不明になって、彼の名前が書かれた薬瓶が海岸で見つかって、それらしい男の影も目撃されていたので捜索が進められるなか、阿財が現れて徳偉の周辺で会社のお金が無くなっていること、怪しい出張を繰り返していたこと、実は死んでいないのではないか、と語るのだが、佳莉は彼女のなかで彼の死亡認定をする。浜辺では見つかったぞ、のようなシーンも描かれるが、彼女はもう振り返らない。
最初のシーンは夕刻の海辺の捜索が一瞬だけ、彼が消えてしまったあの日、海辺で過ごした一日はどんなだったのだろうか – その場面を直接には描かず、↑のような十数年に渡って散らばったストーリーを十数年ぶりに再会したふたりの対話を通して、回想 - 回想のなかでも回想して右に左に振れまくり、起こったことはリニアではない形でとめどなく流れていって、誰にも止めることも巻き戻すこともできない時間の塊りに対する後悔や残響をもたらして、もちろん、だからどうなるというものでもない。 蔚青が海外に出るきっかけを作った佳森も数年前に寂しく病死したことが、最後に付け足されて、ふたりは別れてそれぞれのトラックに戻る。
映画の文法、のようなところで言えば、たぶんやってはいけないこと - 見る側を困惑させるし、だらだら締まりなく起こってしまったこと、を回想のがんじがらめで封じ込めていくので、どこに連れていきたいの? になるのだが、愛を求めるひと、愛から逃げるひとのシンプルな往復によるメロドラマがなんだか心地よくなっていく不思議。
なんとなく、成瀬の容赦ない『流れる』、ではなく『流れた』 みたいな(佳莉の髪型)。公開に近い年代でいうと”Love Streams” (1984)にあったある種の気持ちのよさ。 ここでとめどなく流れていったのは時間ではなく愛だったけど。
蔚青はその晩のコンサートで、どんな曲を弾いて、そのピアノはどんなふうに鳴ったのだろうか? といったことまで思ってしまったり。
7.16.2026
[film] Historias del buen valle (2025)
7月11日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。上映後に監督José Luis Guerínとのトークつき。
英語題は”Good Valley Stories”、邦題は『よき谷の物語』。
ドキュメンタリー作品で、最後に見た彼のフィルムも確か”Correspondences: Jonas Mekas - J. L. Guerin” (2011) というドキュメンタリーだったかも。
バルセロナ近郊のVallbona地区、Besòs川と運河と鉄道の線路に挟まれた三角地帯のような場所があって、都市開発から取り残されたこのエリアに昔から住んでいる人、どこかからやってきて住み着いた人などが暮らし共存して、独特のコミュニティを形作っている、そこに暮らす人々と、開発の要請はここにも来て、という谷の物語。
冒頭はモノクロで、後のトークによると、バルセロナ現代美術館(←よいところ)からの依頼で10分程の短編をスーパー8で撮ったもの。これが良かったので、ひとりでやっていたのを広げて腰を据えて撮ることにした。ただお金がなかったので映画学校の若者たちに手伝って貰って、完成までに2年を要した。(と、後のトークで語っていた)
元気に川遊びをしたり走り回ったりする子供たちもいるが、住民の多くは高齢者で、所謂働き盛り、で漲っているような人たちはほぼ出てこない。子供たちと女性たち、老人たち、そして他国からやってきた移民、そしてアヒル。 12ヶ国語が話されていて、人との間だけでなく、植物と会話している人たちまで出てくる。
映画を撮っていると、西部劇にすべきだ、という老人がいて、決め手は風だ、なんてかっこいいことを言う人もいれば、奥さんと出会った頃の話をしながら泣いてしまう人もいる。老人の話は何を聞いてもしみるし、威勢のいいガールズトークもたまんないし、彼ら自身の言葉での会話がぜんぶ聞こえてきたらどんなに楽しいだろう、ってくらいにいろいろな人々が次々と現れる。
画面をひっきりなしに電車(こないだ大事故を起こしたやつ?)が通って(この映画のなかで40本通るって)、一度もこの地に停車することはない。列車が停まって、人々がそこから下りてくるところから始まるドラマではなく、川は昔から動かなくて、道路もそうで、そういう境界の狭間に(保護されていない)ポケットのように生まれてしまったエリア、地帯に、どこかから流れてきた人たちが集まってきてそこに暮らす、というどこにでもありそうな絵。 滞在許可は?みたいな話にはならない。
でも古い住宅は建て替えられて、さらに大きな開発が入って、住民たちは出ていかざるを得なくなり、終わりの方では警察がくるぞー、ってざわざわする場面もある。でも立ち退き拒否とか、強制執行、のような話にはならず、文明の拡張、都市の拡張、によって他所に追いやられる人々という、大きな物語の一部(よき谷の物語)として語られる。(もちろん、だからと言って体制に与するような話ではない)
変わっていかざるを得ない地域のなかで、移っていくもの変わらないもの、という代理店が喜んで制作しそうなテーマなのだが、なぜこの谷に人々は集まってくるのか、集まって暮らすというのはどんなことなのか、という根源的なことを個々の会話のなかから掬いあげようとしていて、そこから彼らを主人公にしたフィクション(John Fordのような?)まで浮かんでくる大きな風呂敷のような造りと広がりがあるの。
後のトークで、住民に演技指導のようなことはしていなくて、あえて言えば、そういう動きをしてくれそうな状況を作るべく動いたりはした、と。でも肝心なのは、いつどこで撮影するかである、と。
どんな町でも村でも、谷でも島でも、これと同じような人々のお話を編むことはできるのかもと、なんとなく先月見た羽田澄子の『早池峰の賦』 (1982)を思い起こしたり。
エンドクレジットでは、この映画に登場して亡くなられた方々の名前に並べてJonas Mekasの名が。Jonas Mekasという人もNYのロングアイランドという島に流れてきて、そこに住み着いた人として映画(日記)を撮り続けた人で、この映画の終わりに名前が載るのにまったく違和感ないような。
“Innisfree” (1990)を見たいな、見なきゃな、と言い続けて軽く10年以上かも。
7.15.2026
[theatre] バストリオ セザンヌによろしく!
7月9日、木曜日の晩、浅草九劇で見ました。 浅草に行ったのなんて数十年ぶりではないか。
月1回は見たい演劇シリーズ。 場所も劇団もまったく知らないところだったが、せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリとオーディエンス賞をW受賞した作品の再演である、と。「セザンヌ」がタイトルにあるのであれば、サント=ヴィクトワール山をふらふら見に行ってしまった者としては見たほうがよいのかしら、くらいで。
初演は2023年、兵庫県豊岡市の神鍋山で『セザンヌの神鍋山』(どんなところなのか見当もつかないや)という野外劇として上演されたものらしい。
会場はシアターというより服がいっぱいぶら下がっていたりステージの前に半透明のビニールが掛かっていたり、中央に水の溜まった透明な箱があったり、実生活が進行中のゴミ屋敷~大昔の雑然とした小劇場ふう、バストリオも劇団ではなくパフォーマンス・コレクティブ、というらしい。開演時間前から演者と思われる人々が舞台や仕掛けの周囲を行ったり来たりせわしなく、プロジェクターでステージ前の様子を映しだしていたり、上演前には主宰の今野裕一郎から上演時間は約60分、少しでるかも、と話があった(実際には1時間10分くらい)。
最初にドラムスの人が出てきて、使いこんでいくうちに削れて折れてしまったスティックの話をしつつ、いろんなドラムスのリズムのパターンを試して、そこからいろんな人たちがステージに上がったり下りたり回ったり、ステージ下で絵を描いているのをライブでプロジェクションしたり、サックスを吹き鳴らしたりしつつ、いろんな言葉と声、音が飛んでは消えていってとにかくせわしなく、同時性のごちゃごちゃの中で突然(のように見える)山を見つめる、山と向かいあう話が浮かびあがり、それを訴える(ようにみえる)セザンヌはプログラムの紙によるとセザンヌ1から3まで女性3名がいて、とにかくゴミだろうがなんだろうが何がどれだけ溢れかえってやかましくても死ぬまで山の肌理、壁、その硬さと向かいあって自問していろんなひとつの山を刻んでいった彼/彼女の姿があちらこちらに現れては消えていく。
いまここ、の一回性に集中して何かを表現しようとする、それを見にその時間、その場所に人が集まってくる演劇/パフォーマンスという様態とセザンヌがあのアトリエから丘を登って山が見える場所に行ってずっとひとつの山を見つめ、探求しながら描いていったその姿勢(のようなもの)は、このとっちらかったパフォーマンスが見せる80~90年代の相対主義的なバラけぶりと相容れないように見えるし、むしろただの偏屈な困った人として隅に追いやられてしまうであろうことまで示される。
セザンヌがたった一人で、それなりの時間をかけて追い求めていった事物の、対象の本質(のようなもの)を見据えて掴みとろうとする試みは、せわしない今の世の中でどこまで可能となるのか、をものすごく落ちつきのない雑踏とかお茶の間のなかから伝えようとして、その難しさに苦笑したりへらへらしそうになりつつなんとか『よろしく!』とだけは言って、最後にパレスチナ、シリアといったこの世の地獄を正面から突きつける。
とてもまじめで今できるのはこういうことなのだろうな、と思いつつ、わたしはセザンヌをパンクとして見たものなので、ここまできちきち積みあげないと突破はむずかしいのかー、たいへんだよなー現代って(そんなもんか)。
あと、このしんどさ、複雑さ、雑多さにぶつけるのであれば、セザンヌというよりキーファーあたりではないのか、とか(… とりかえしのつかないことに)。
7.14.2026
[film] Blood on the Moon (1948)
7月8日、水曜日の晩、シネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。この特集での最後の2本。
邦題は『月下の銃声』。 ゴスメタル系のアルバムタイトルにありそうな。
原作はLuke Shortによる小説”Gunman's Chance” (1941)をLillie Haywardが脚色している。
放浪のカウボーイJim Garry (Robert Mitchum)が友人のTate Riling (Robert Preston)に会いに行く途中で牛の大群に襲われて、近くの牧場主John Lufton (Tom Tully)のところに寄ったら彼の家族への手紙を託され、持って行ったらそこの娘2人に敵意をむきだしにされて、なんでだろう? と思っていたらRilingはインディアンの代理人と組んでLuftonの牛を買い叩いて土地から追い出そうとしている謀略が背後にあることを知る。
どうもLuftonが善玉でRilingが悪玉らしいのだが、Luftonの娘のうちひとりはRilingと繋がっていたり、全体に薄暗い照明や夜明かりのなか、主人公Garryと同じようにどっちが敵でどっちが味方なのか、誰がどうしようとしているのか明確に把握できず、主人公の思惑も含めて簡単には見えてこなくて、GarryはRilingの仲間であることをチラつかせたりしたせいで脅されたり刺されたりぼろぼろになりながら、威勢のよいLuftonの娘Amy (Barbara Bel Geddes)と一緒に戦っていくことになる。
最初に登場した頃のRobert Mitchumは無精ひげの胡散臭い風体で、狙われたり真相を知ったりするなかで、ひげはきれいになってて、でも何が正しくてどっちがどうなのか、などは薄暗くて(彼も察知しているのかどうか)見えてこなくて、謀略とか思惑に巻き込まれ、裏切りに夜討ちの連続で、これを「西部劇ノワール」と呼ぶのであればそうなのだろうな、としか言いようがない暗さと徒労感がずっと渦を巻いてつきまとい、拳銃早撃ちとか馬駆けとかで悪党をやっつけていく爽快感なんてまるでないのだが、ぼそぼそ喋って地面に転がってばかりのRobert Mitchumの重さと地味な暗さ、天井の低さのどん詰まり感がなかなかよくて、とても見ごたえがあった。
いまやっている時代劇ノワール『黒牢城』よりも、こっちかも、とか。
All That Money Can Buy (1941)
上のに続けて、シネマヴェーラで見ました。 邦題は『悪魔の金』。
監督はWilliam Dieterle、編集がRobert Wise、音楽はこれでオスカーを受賞したBernard Herrmann。 原作はStephen Vincent Benétによる短編小説"The Devil and Daniel Webster" (1936)を戯曲化したもの (1938)で、当初は同名のタイトルでリリースされる予定だったが、”The Devil and Miss Jones”っていう似た名前の映画があったので、”All That …”の方に変更された、と。 最近だと“All the Money in the World” (2017)っていうRidley Scottの映画もあったよね。あんま関係ないけど。
1840年のニューハンプシャーにJabez Stone (James Craig)という真面目な農夫が妻のMary (Anne Shirley)と敬虔な母(Jane Darwell)と一緒に暮らしていて、子供も生まれそうなのについてない、お先真っ暗なことばかりで途方に暮れていたら悪魔- Mr. Scratch (Walter Huston)が現れて、自分と契約したら楽になるよ、って金貨をちらつかせて、契約したら確かに生活は楽になって大きな家も建つのだが、Jabezの性格はどんどん嫌な方に変わってあれこれ手が付けられなくなっていく。
そこに以前から地元の貧しい者の味方として慕われていた議員で弁護士で弁のたつDaniel Webster (Edward Arnold)が現れて、Mr. Scratchは彼にも大統領にしてあげるよ、って誘惑しようとするのだがー。
監督のWilliam Dieterleにとっては『ノートルダムの傴僂男』 (1939) – これも編集はRobert Wise – に続く作品で、古くからある御伽噺ふう – というかふつうのファウスト伝説の悪魔がやってくるのをやっていて、そんなに怖くはないけど、見てすぐわかるキャラクターたち – 特にWalter Hustonうますぎ - とか舞台劇のようなセリフ回しとか、楽しいし、ヨーロッパの民話がこんなにも19世紀の腐り始めたアメリカにはまってしまうことにびっくり。
悪魔と戦う政治家、というと、そういえばゾンビと戦うリンカーンもいたし、アメリカだとやはりそうなるのか。いま、その伝統の線上に立って、政治家本人がしょうもない悪魔になってしまったら誰がどうするのか、が問われている。べつに問わなくてもいいからだれかどうにかしろあの腐れでぶを。
あと、William Dieterleと言えば大好きな“Portrait of Jennie” (1948)とか“September Affair” (1950)なのだが、あのちょっと不思議で独特なストーリーの運び、テンポは、既にあるような。
7.13.2026
[film] Höhenfeuer (1985)
7月7日、火曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『山の焚火』、英語題は”Alpine Fire”。 作・監督であるFredi M. Murerの「マウンテン・トリロジー」を構成する1本で、デジタルリマスター版での上映。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞しているし、いろんなところで必見、と言われている。 ので見る。
アルプスの山の奥のウリ州、そこの山腹に4人家族が暮らしている。家畜として豚、牛、鶏などがいて、4人それぞれ働いているが息子のBub (Thomas Nock)は聾唖で、文字は読めるようだが、ちょっとしたやり取りも難しそうで、でも家族はしっかりと強い父(Rolf Illig)と敬虔深くやさしい(何も言わない)母(Dorothea Moritz)と辛抱強く弟の面倒を見て読み書きを教えたりしている姉のBelli (Johanna Lier)がいて、父はBubを施設に預けたりはせず、躾のようなところまで含めてBelliに任せていて、学校に行きたいであろうBelliは、それを諦めてずっと家にいる。
Bubは大きくなって思春期を迎えて力仕事もこなせるようになってきた半面、挙動が荒く、思うようにいかなくなった時の反発やぶち壊しがだんだん手に負えなくなっていって、彼はとうとう自分で家族の家から出て、少し離れた山の奥に籠ってひとりで暮らして石を積んだり並べたりするようになり、Belliはそこに食料や衣類を届けたりしているのだが、そのうちBelliが妊娠していることがわかって、母はそれを察知しても黙り、でもそれを知った父親は激怒して銃を手に取って…
登場するのは家族の4人と、一度だけ少し離れたところに暮らす祖父母が出てくるくらい、外の世界(社会)との交流はほぼ描かれず、それでどうにか暮していけてしまう家族がある、あった時に、そこでの時間や季節、生活の営為はどんなふうに流れていくのか、をドキュメンタリーのように追っていく。アルプスの山でのお話だが、山の雄大でドラマチックな景色とかが映されることはなく、白い霧だか雲だかと岩と草だらけで騒がしいのは家畜ばかり、ドキュメンタリーとして見せられてもわからないかもしれない時間の流れ方、喋らない人々の表情や挙動が野生動物のように生々しい。
なので、Belliの近親相姦 - 妊娠も大問題として挙げられるのではなく、起こってしまったこと、として山中暮らしの雑事のように、せいぜい焚火を焚いて暖をとるような所作のなかで起こって、なにをどうすることもできないような事態として放置される。 『最後通告』で忽然と消えてしまう子供たち、あそこで最後に現れる謎の少年のように、言葉を発しない、あるいは発したとしても届かない距離のなかに置かれた者たちが行き交う、そこから出ていくことのない山の暮らし(最後の方でヘリに吊るされて山の向こうに飛んでいく牛だけが… )。それを過酷と思うのは都会人の勝手だが、とりあえず焚火はあったかくないと死んでしまうし。
これは悲劇であり破滅なのか? という本作への問いが反転して現れたのが『最後通告』なのかもしれないが、ストーリーを貫く意思のような力は『焚火』のほうが『満月』よりも強く効いているかも。どちらも柔らかい光で、あのラストシーンを狂ってるなんて言えるだろうか。
思い出したのはピランデルロ/タヴィアーニ兄弟の”Kaos” (1984) - 『カオス・シチリア物語』だったかも。海の物語に対する山の物語、というか。これらがどちらも80年代の中頃に出てきた、というのはー。
[film] Vollmond (1998)
7月6日、月曜日の晩、ユーロスペースのFredi M. Murer小特集で見ました。
彼の作品はこれまで見たことなかったので。 英語題は”Full Moon”、邦題は『最後通告』。35mmプリントでの上映。 作・監督はFredi M. Murerによるスイス - 仏 - 独合作映画。
山間の村に暮らすEscher家で、満月の次の日、10歳の息子が帰ってこないままになって、これは誘拐かなにかの事件かも、と通報して警察が動き出して刑事のWasser (Hanspeter Müller)が派遣されるのだが、捜査をしていくうち、この日同様に一帯の12人の子供達が突然に姿を消してしまっていたことがわかる。全員10歳の子供たちで、スイスの4つの言語圏にきれいに散らばって(各3名)いて、誰ひとり書き置きを残さず、争ったり抵抗したりした形跡も怪しい人物の目撃情報もない模様。
という、あまりに静かで穏やかな事件 - 「児童の誘拐」らしくない事件であることが消息を追っていく中で明らかになっていって親たちの焦りや苛立ちとは反対方向のみんなお手あげにならざるを得なくて、彼らが消えた1週間後、各家庭に同じ宗教的なシンボルのようなものが描かれた手紙が届き、宛名の筆跡は子供たちそれぞれのものであることがわかる。この件も含めて不穏な様子がほとんど見えないので、どこかに匿われてどうにか生きているのではないか、になる。
こうしてストーリーは、誰が何を目的にどうして子供たちを拐っていったのか、という犯罪捜査 - 領域や条件を狭めていく - から、こんな不可思議なことが起こってしまった環境や地勢の方に目を向けさせるように動いていって - あまりに手掛かりがないから - いまこの土地で神隠しのようなことが起こりうるとしたら、たぶんたとえば、というふんわりとした考察に向かっていくような – もちろん、ふんわりのはずがない。
グローバル化(云々が言われ始めた前世紀末)、という流れの反対側で言語や人種による分断と孤立化が進み、自然はいくらでも好きなように破壊され淘汰され、テロも戦争も一向になくならず、人類は反省も躊躇もしない - 劇中の子供がいなくなった母親とWasserが一夜を共にしてしまったり、もっと真剣に生きろどうにかしろ、って山の神が何かに向かって怒った - 『最後通告』 - ということでよいのか。
同様に子供たちの集団神隠しを扱った映画 - “Picnic at Hanging Rock” (1975)あたりと比べても神秘的だったり退廃的だったりの雰囲気からは遠く、例えばいまは満月の距離感で離れているだけ、欠けてもじきにまた戻ってくるから、くらいの緩やかな、より現実的に足元を見ているような感覚がある。都会で起こったことではなく、田舎の山奥なので誰も真剣に動こうとはしない、という辺りも含めて、それでも満月は不穏にあたりを照らしだして人々を惑わせる。
いまの、ここ数年の現実世界では、ガザでもイランでも数千人規模で白人たちによって子供たちが殺されていて、それに対して誰も何もどうすることもできない。ここでの『最後通告』を遥かに超えた、本当にひどいところまで来てしまっている、という。(だから半端になだらかに見えてしまうのかな?)
35mmフィルムのややぼやっとした、シャープではない質感が手の施しようのない霧のかんじをうまく出していたかも。
7.10.2026
[film] Kind Hearts and Coronets (1949)
7月5日、日曜日の午前、K’s Cinemaのイーリング・コメディ特集で見ました。
映画史に残る名作、とかそういうのではないと思うが、やっているとつい見てしまう1本で、このサイトでも書いているのだが、それでもまた見てしまった。 1950年のBAFTAではBest British Filmにノミネートされていて、結果は『第三の男』の前に敗れている。
コメディにしてはかなりダークな、Oscar Wildeの系譜に連なるようなストーリーテリングで、決して明るく楽しい結末でもないのだが、踏板外しみたいなラストの見事さには、ううう、ってなる。
エドワード朝時代のイギリスの牢獄に公爵Louis D'Ascoyne Mazzini (Dennis Price)が入っていて、翌日絞首刑が執行されるというので教会からも人が来て、看守たちも公爵さまだから、ってやや緊張しているのだが、彼はずっと書き溜めていた手記を仕上げようとしていて… というところから回想がはじまる。
彼の母は公爵の末娘だったが、身分違いのイタリア人のオペラ歌手と結婚したことで放り出され、それでも夫婦にはLouisが生まれて貧しくても一家で幸せで、でも父が亡くなるとすべてが一変し、生活に困って実家に助けを求めてもすべて却下されて失意のなか母も亡くなる。こうして復讐の鬼となったLouisは、爵位継承順位で自分より上位にいるD'Ascoyne家の8人を順番に殺害していくことにする。この皆殺し計画と並行して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)との実らなかった恋、自分のせいで未亡人となり、やがて妻となるEdith (Valerie Hobson)とのこともあり、決して明るくはないけど、きちきち律儀に復讐を成しとげていくさまがクールにすっとぼけつつ進んでいって、とにかく爵位を取り返すの。すっとぼけと言えば、殺される側の8人をひとりで演じているAlec Guinnessの絶妙なこと。殺される側がなんだか楽しんでいるように見えてしまう巧さ。
原作はRoy Hornimanの小説“Israel Rank: The Autobiography of a Criminal” (1907)で、タイトルだけでわかる主人公 - Israel Rank - の人種はユダヤ人で、赤ん坊を毒殺したり、かなり陰惨で露骨な反ユダヤ主義小説 – という形で反ユダヤ主義を風刺しているものらしく、これをイタリア人のハーフに主人公を替えてイギリスの階級制度への風刺にひっくり返した監督Robert HamerとJohn Dightonの脚色はすごいと思った。
これ、舞台を日本にして家父長制へのどろどろした呪いと復讐を… って既にいっぱいありそうなー。
日本の皇室で38親等離れているけど継承権があると主張するやくざが… ← ちょっと生々しすぎる(そしてくそばかばかしい)
Girl, Dance, Girl (1940)
同じ5日、↑のを見たあと、日仏のデュラス特集で“Aurelia Steiner”の(Melbourne)と(Vancouver)を見て、このまま週末を終えてしまうのはどうか、ってなったので、途中で渋谷によってシネマヴェーラのRobert Wise特集で見ました。 帰れよ。
もう何回も見ているし、書いているし、でもいいの。 Dorothy Arzner監督による『恋に踊る』。この作品でRobert Wiseは編集をしていて、彼の次の編集ワークが”Citizen Kane” (1941)で、この他にもWilliam DieterleやGregory La Cavaといった監督の編集を手掛けているのね。
オハイオからNYに出てきて、ダンスで成功を目指すJudy (Maureen O'Hara)とBubbles (Lucille Ball)がいて、Bubblesは”Tiger Lily”の名でブロードウェイのバーレスクのステージに立って、途中からJudyがクラシックバレエの衣装でステージにあがると客から引っ込めーってぶうが出て、改めてTiger Lilyが出てきてやんやの喝采になる、という演出がうけて大当たりするのだが、本当か? っていつも思う。
だって、Maureen O'Haraが現れて踊るんだよ? 節穴かよ? って思うのだが、最後にやっぱり彼女に怒られるのでストーリーとしての筋は通っているのか。
とにかく必見だからー。
7.09.2026
[film] Césarée (1978)
7月4日、土曜日の午後、日仏学院のデュラス特集で見ました。
今回のこの特集で、再見するのも含めてデュラス作品を見てきて、映画としてはおもしろいのだが、感想を書くのは難しいなー、って改めて。今回の短編について言えば、映像として映しだされるものとデュラス自身の何かを語らんとするその語りは関係ない、と言えるものなのか、どこかなにかの繋がりや連関が見えてくるのではないか、と探りながら見る、というやり方もあれば、その土地と歴史、その記憶に関係するもの、それらを呼び覚ますもの、として彼女が練りあげようとしたストーリーを読もうとする、いやそもそもの映画的な語りをぶっ壊すものとして... など、映画とは、小説とは、ということよりもアートをつくる、考えるということの豊かな根幹を考えさせるもの、としか言いようがない。そういうのに対して感想もくそもないわ。ふつうに論考になっちゃうわ。
“Les Mains negatives” (1979) - 『陰画の手』と同様、Pierre Lhomme, Éric Dumage, Michel Cenetの3名が撮影し、Amy Flamerの弦が響きわたる現代の映像と音にデュラスの声が被さっていく。
古代ローマの要衝だった地中海沿岸の都市Césarée、紀元66年に始まったユダヤ戦争で、ヘロデ朝ユダヤの統治者の王女ベレニケはローマ軍司令官と密会して、やがて追放される、という愛と裏切りの悲劇が語られて、そこで映しだされる映像はパリのコンコルド広場や工事中のマイヨールの彫像、テュイルリー庭園など、なんとなく王家の残り滓っぽいあれこれ。
『陰画の手』では紀元前に遺された洞窟の手の跡(陰画)に朝の到来と共に半端に置きざりにされて目覚める現代パリの路地を重ね、そこから愛を求めるひとつの声を響かせていたが、その一年前に作成されたこの作品は、捨てられたベレニケの聞かれることのなかった声を現代の喧噪のなか - 都市と戦争の非情さのなかに放り出す。
Duras et le Cinéma (2014)
『陰画の手』の併映作品だった”Marguerite, telle qu'en elle-même” (2002) - 『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』と同様、Dominique Auvrayが監督したデュラス生誕100周年に向けて作られたドキュメンタリー作品。 邦題は『デュラスと映画』。
『あるがままの彼女』がデュラスの生い立ちや思想や愛がどんなふうに生まれ育まれていったのか、その背景を順に追っていったのに対して、こちらは彼女が映画に(小説ではなく映画に)向かっていった思いや考え方をストレートかつ具体的に示す。彼女の言葉だけではなく、撮影現場の記録、関係者たちの証言 - Melvil PoupaudがBruno Nuyttenの声を、Nahuel Pérez BiscayartがBenoît Jacquotの言葉をあてて、中心にある大きな空洞となったデュラス、そこに当時の関係者たちの声を響かせて彼女の不在を際立たせる。
内容からして、『陰画の手』の後に『マルグリット・デュラス、あるがままの彼女』を、”Césarée”の後に『デュラスと映画』を合わせたのは、狙ったことだったのだな、と今になって気づいた。
Le Navire Night (1978)
↑のに続けて見ました。 邦題は『船舶ナイト号』
パリのドイツ占領時代の名残である使われていない電話回線を通して偶然に知り合った、互いの顔も本名も知らない男女のやりとりが語られる(声はデュラスとBenoît Jacquot)。進行するにつれひとりは裕福な父親の別荘で暮らす白血病の女性、ひとりは電話会社で夜勤をしている男性であることがわかってくるがそれがどうしたで、最後まで彼らの姿が映しだされることはなく、かわりに屋内のインテリア(あのきらきらしたやつなに?)とか、この映画に出演する予定だったDominique Sanda, Bulle Ogier, Mathieu Carrièreらの、メークアップしたり、ただ立っていたり、ピアノを弾いていたりする背中が映しだされる。
“Le camion” (1977) - 『トラック』が運転手とそこに乗りこむ女性を映さないまま、それを遠目で見ながらデュラスとGérard Depardieuがなにやら言い合っていたのと同じように。 乗り物映画 - 車から船へ – こっちには船すら出てこない、頭のなかでとめどなく、どうとでも転がっていく、でも確かにそこにあったらしい愛の物語。
はじめから難破・破綻した映画を計画すること - 彼女は『スクリーンを覆う素材を見つけた』と言っている。なんで映画はルックスに、ヴィジュアルに従属しなければならないのか、という根源的な問い。電話回線を通してここまでの愛を描くことができるのであれば。
そして、この撮影で撮られた素材たちを使って、約2000年前の愛 - ”Césarée”、数万年前の愛 - 『陰画の手』 - が語られる。 『ヴェネツィア時代の彼女の名前』 (1976)のように、そんなの朽ちた建物の隙間からいくらでも湧いてくるのだ、って。