9月10日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
ドキュメンタリーで、英語題は”The Gullspång Miracle”、邦題は『グルスポングの奇跡』。
作・監督はMaria Fredriksson、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク合作映画。2023年のTribeca Film Festivalでプレミアされている。
ノルウェー北部に暮らす老婦人のMayがスウェーデン南部のグルスポングに暮らす妹のKariを訪ねていて、長期滞在者向けのアパートを探している場面が冒頭、彼女が見にいった家にかけてあった果物の静物画を見て、こういう絵が欲しかったのよ! ってこの場所に決めて、家主(?)のOlaugに会ったらびっくり。彼女は1988年に自殺した彼女たちの姉、Astrid – 愛称”Lita”に瓜二つで、誕生日もOlaugと同じ年の同じ日で、彼女も若い頃はLitaと呼ばれていた、と。
MayとKariが調査を進めてみると、Litaは実は双子で、更に家族に突っこんだ聞き込みをしてみると、当時ノルウェーに侵攻してきたナチスに人体実験のため誘拐される恐れがあったのでOlaugだけを家族から引き離したことがわかり、更にDNA検査をするとOlaugとLitaはMariとKariの姉妹とは異母姉妹であることがわかって、Olaugは先祖代々の家族が暮らす農場に行って、自分がこれまで知らなかった沢山の親族と会う。全員とても信心深くて、よい人たちっぽい。
ここまでは、TVにもありそうな感動再会ファミリーヒストリーとして見ていけて、大変だったんだなー、なのだが、その先、自殺だったはずのLitaの死因が警察の記録と検視報告では心不全だったこと、更にその場所が人里離れた田舎の湖畔だったことがわかる(そういう場所まで行って自殺、ならわかるけど)。敬虔なキリスト教徒である姉妹は死因が自殺でないのがわかっただけでもよかった、って安堵するのだが、かつて軍の中尉まで昇進して、あの人たちとは知的レベルが違うのよ、と自分でいうOlaugは、これは他殺だ、Litaは殺されたのだ、と主張し、Litaが亡くなった晩に彼女と車を目撃した近隣の人の証言や、Litaに3種の保険がかけられていたこと、いかにも怪しいLitaの前夫のインタビュー等も被されると、ここから先、Mayたち家族とOlaugの仲は急速に悪化していって。 とどめを刺すように2回目のDNAテストの結果として、Olaugと姉妹たち、Litaの娘とは血縁関係がある可能性は殆どない、と出て… (監督もお手あげ)。
互いが互いを憎みあうところまで来てしまったので(Mayたちは縁を切りたかったOlaugが検査結果を改竄したのだ、とまで言う)、最後はもう二度と会わないわさよならー、で終わって、表面上は元に戻るようなのだが。
他人の家族、の話だし、かわいそうなLitaを除けば誰かが嘘をついている、明らかに邪悪な人がいる、というわけでもなさそうなので、映画はそのままあっさり終わってしまう。 フィクションであれば、北欧の大家族、その底に渦を巻いた陰謀と憎悪の顛末を凍てつく湖の景色と共に描けたのだろうなー、とか夢想しつつ、そういうネタの在処が暴かれた、というか、そんなようなネタはこんなふうに表向き奇跡みたいな顔をして眠っているものなのかも、と思ったりした。
あと、ドキュメンタリーにしては全員の顔とかツブが揃いすぎている気がしたので、そのままOlaugを探偵役にしてミステリー仕立てのドラマにしちゃえばおもしろくなったのに(シャレにならず)。
あと、同じようなことが自分の身内に起こったら、結構嫌なかんじになるかも。 猫とかフグとかの話のほうがいいかも。
明日から夏休みをとって少しいなくなります。
9.16.2026
[film] Mirakelet i Gullspång (2023)
9.15.2026
[film] 25 Cats from Qatar (2025)
9月7日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
ドキュメンタリーで、邦題は『猫たちと7000マイルの旅』。監督はMye Hoang。
カタールの町には人口100万人と同じくらいの数の捨て猫がいて街中に溢れている。異国から働きに来た人たちが帰国する際にそのまま捨てていったりするからだと(怒)。
最初は夜中に、そうやって道路際に捨てられている野良猫たちのご飯とか病のケアをして、場合によっては医者に連れていったりしているおじさん、その他ボランティアの人たちの日常が描かれる。
そこからアメリカのミルウォーキーで猫カフェを経営しているKaty(元CA)の活動が紹介される。彼女は地元の猫カフェに猫を集めて紹介しながら猫の里親も募っていて、今回はカタールに飛んで、現地の猫25匹を連れ帰ろうと冒頭のおじさんたちに連絡を取って、カゴなどを揃えて - 手続きとか気が遠くなるくらいに大変そう - いくぜ! って飛んでいく。
現地に着いてからは、いろんな人たちと猫たちに会って、連れ帰る候補猫を選んでいくのだが、健康でかわいいの、というよりは大きな傷があったり片目だったり脚がなかったり、の猫たちを拾うように集めていく。ぼろぼろでも人が好きな子、とか。フライトで病が悪化しそうな子は外すのだが、本当に様々なぼろ猫が揃っていて、痛くない? 辛くない? とか思いつつも猫好きなので見ているだけで。
結局運ぶ猫の数は28匹くらいになって、飛行機での移動もこれまた大変で(シカゴでワンストップ – 乗り継ぎ)、でもどうにかミルウォーキーまでたどり着いて、猫たちは元気で、このこは… と思った猫はやはりあっという間に里親が見つかったりする。よかったね。
猫ってなんでこんなぼろぼろになってしまってもかわいいのだろうー、っていう猫好きは見て損はないけど、同時に、彼女が救うことができる猫なんてほんのひと握りだし、なんで捨てるのか世話できないなら飼うな、の怒りも結構わいてきたり、アップダウンが激しかった。
GUN FISH あなたの知らないフグの世界 (2026)
9月11日、金曜日の晩、テアトル新宿で見ました。
これもドキュメンタリーで、猫とおなじく、かわいかったりおいしかったりで死に至るかもしれないのに死んでもいいや、ってやめられない動物を相手に、それに憑りつかれたしょうもない人間たちを描く。
フグって、”pufferfish”(英語字幕ではこれ)とか”blowfish”だと思っていたのだが、ここでは”GUN FISH”で、要は命中したら死ぬから、って。
ものすごくきちんと作ってあるドキュメンタリーで、フグの調理師免許取得を目指す若い女性ふたりの奮闘を通して、なんで免許が必要なのか→毒があってふつうに食べたら死ぬから→毒と向き合ってきたこれまでの歴史とか、地域ごとの調理法などの幅と広がりまで、とても勉強になることがいっぱい。
フグって財界人とか偉い大物とか自民党などが、密談のようなことをするために料亭に入って、だいじなことを決める際に供される(場合によってはその毒で..)、という重いイメージ(GUN)があり、ふつうの人が簡単に食卓に並べて食べれるものではないし、調理法も刺身とか鍋とか皮とかいろいろあって面倒そうだし、そもそもの話として、これは何なのか? なんで当たったら簡単に死ぬようなものを歓待の場で重宝して用いるのか? そもそもそんなの食うなよ、ではないのか? と思いつつ、たぶん自分はフグの本当のおいしさ、底の深さを知らないのだろう、ってなって、これってものすごく境界のくっきりした、境界を際立たせる形で機能するひとつの文化のありようなのだろう、と思った。
養殖のフグには毒がない可能性がある、と科学者が検証を進めて、毒なしフグのリリースに向かおうとしたところで湧いてくる反対の声とか、どこかでいくらでも見てきたような。 これもまた日本の風景だよね。(ほめてない)
というように、ところどころとても男臭くヤニ臭くどす黒くて、これはこれで見事に日本文化を語っているように思った。ウナギやクジラも同じ世界なのだろうか。動物はちっとも悪くないのにね。
9.14.2026
[film] La cérémonie (1995)
9月6日、日曜日の夕方、恵比寿ガーデンシネマのクロード・シャブロル傑作選で見ました。
英語題は”The Ceremony”、邦題は『沈黙の女』と、webでは『ロウフィールド館の惨劇』ていうのも出てくる(どちらもなんか違う)。
原作はイギリスのRuth Rendellによる小説”Judgement in Stone” (1977) – これの翻訳タイトルが『ロウフィールド館の惨劇』なのね - をChabrolとCaroline Eliacheffが脚色している。この原作からは映画化がふたつ出て、ひとつはこれ、最初の映画化は1986年にRita Tushingham主演で”A Judgement in Stone”のタイトルで。 あと、1992年にはイギリスでミュージカルになっているらしい。
おとなしそうなSophie (Sandrine Bonnaire)が画廊を経営するCatherine Lelièvre (Jacqueline Bisset)と面接してブルターニュの田舎にある彼女の邸宅にメイドとして雇われる。 田舎のお屋敷には主人のGeorges (Jean-Pierre Cassel)と、Catherineの前夫との間の息子Gilles (Valentin Merlet)とGeorgesの前妻との間の娘で大学生のMélinda (Virginie Ledoyen)がいて、Catherineが忙しくて家事が大変だし、推薦状も問題なさそうだったので住みこみで来てもらうことになる。
家族は全員ふつうのよい人たちからなるよい家族ぽくて、Sophieの仕事ぶり、特に料理にはみんな満足しているようだったが、近くの町の郵便局員Jeanne (Isabelle Huppert)に対しては一家向けの郵便物を故意に汚した疑惑があったり、過去には無罪になったものの実娘の事故死の容疑者とされていたり、なによりも無礼だし、って顰蹙で、そんなJeanneはSophieに近づいていって、一緒に教会の慈善活動(バザー)に行ったりして仲良くなっていく。 その反対側で一家から毛嫌いされているJeanneとの付き合いは雇い主とSophieの間に溝をつくって、孤立した彼女はひとり自室でTVを見ることが多くなっていく。
Sophieは文字の読み書きができなくて、でも一家には目が悪いから(メガネを買う)、ということにしていたのだが、BFの子を妊娠して揺れて近寄ってきたMélindaとのやりとりでそれがばれちゃって、その報復に彼女の電話を盗み聞きして妊娠をネタに(読み書きの件を)黙っているように脅したら逆に父親に泣きつかれて、一発で解雇、一週間でここから出ていくように通告されてしまう。
教会の方でもバザーの品物回収でふたりの態度があまりにひどい(こんなゴミばかり出してくるんじゃねーよ、って投げ返す)ので教会から出入り禁止を言い渡されて、いよいよ行き場のなくなったふたりは、引き払うSophieの荷物をまとめている時にGeorgesの猟銃を発見して…
1933年に雇い主の妻と娘を惨殺したフランス人メイドの実話があり、それをもとにしたJean Genetの戯曲 “The Maid” (1947) – この演劇はロンドンでみた – もあったりするので、ネタとしてはフィクションでもノンフィクションでも人気のものなのかもしれないのだが、原作の方に少しはあったであろう復讐のやったれ!な押していくかんじは殆どなくて、あらゆる温かいものを撥ねのける冬の旅のSophie - Sandrine Bonnaireと、あらゆる攻撃をそのまま反射で打ち返すJeanne - Isabelle Huppertの組合せ、ふたりの間には絆のようなものも希薄、というか必要としていないし、なので結末もどん詰まりで明るく楽しいものではなくて、でもそれがつまんなさに繋がっているかというとそんなことは全くなくて、Sophieはあのまま”Vagabond”になっていったのだろうな、とか。
オペラ”Don Giovanni”ががんがん流れる中での殺戮って、スコセッシあたりが演出したら随分違ったものになったろうなー、と思いつつ、こちらのあっけない切り捨て方も悪くないかも、と思った。
[film] Backrooms (2026)
9月6日、日曜日の昼、池袋のグランドシネマサンシャインのDolby-Atmosのシアターで見ました。
前日にみた”The Odyssey”と共に今年を代表する作品たちであるのかどうか、など。
監督はYouTuberだったKane Parsons、これが長編映画デビューで低予算で大ヒットした(やっぱり)A24の。
ホラー、というふれ込みだったが表面だけだとぜんぜん怖さはなくて思弁SFのようなものとして入ってくるのかも。画面は意図的に30年前のビデオ映像の粗い画質と当時のアメリカのオフィスの滅入るようなのっぺりした薄黄色系で統一されていて、怪物やバイオレンス、血だまりの欠片やその気配はごく僅か - 音だけが全方位で圧してくるAtmosなので余計に、かもしれないが - 壁や通路を見つめて考えざるを得ない、という。
90年代の頭 - の日付が入ったビデオ映像が冒頭に流れるので、現代から90年代を振り返るようなお話? かと思ったらずっと90年代のままで推移していく - アメリカ西海岸の郊外で”Captain Clark’s Ottoman Empire”という格安家具店を経営しているClark (Chiwetel Ejiofor) は元建築家だが失敗して妻とも離婚して、お店の家具で寝泊まりしている自分に絶望して、セラピストのMary (Renate Reinsve)のところに通ったりしているのだが、怪しい自己啓発ビデオを出している彼女自身が相当いろいろ抱えていそうな。
郊外のぶっとんだ家具屋、というと”Punch-Drunk Love” (2002)でPhilip Seymour Hoffmanがやっていた役とか、半壊したセラピストというと、間もなく最低の邦題で”If I Had Legs I'd Kick You” (2025)がリリースされるRose Byrneを思い起こしたりするので、ぜったいになんか起こりそうなことは確か。
家具屋の調子のよくない電気系統を見にきた電気屋が、変なふうに取り付けられたブレーカーを見つけて、夜間に室内の明かりが妙な動作をしだしたのでClarkが調べていると、ドアもなにもない壁に光の輪郭が瞬いていて、そこを押したら壁の向こう側に行けてしまう。壁の向こう側には延々と続く空間 - 標識が裏返っていたり椅子が半分埋まっていたり下に抜けていたり、できそこないのモダンアートのような不気味なBackroomsのネットワークがあって、そこから元のオフィス/家具屋/住処に戻れることを確認したClarkは熱中してそことの行き来を繰り返して地図を作って、仕事場の社員ふたりを呼び出してビデオで撮ってみようとする。
彼らがビデオを持って入った先から展開される映像と顛末は”The Blair Witch Project” (1999) - 見たことないけど - の世界のようになってびくびくなのだが、そこにあったもの、なのか見出されたもの、なのか、これらの異物にMaryと、更にはAsync Research Instituteなる怪しい機関の科学者らしきPhil (Mark Duplss)が絡んで、フランシス・ベーコンの身体とか、なんでこんなことになってしまったのか、この先なにが起こるのか、等が続編以降で語られていく? のだろうか。
日本のオフィスビルはそもそも小さいのでそんなかんじはないのかもしれないが、アメリカの郊外の箱として深く考えずにでーんと建てられただけ、のような建物(箱)のだだっ広いばかりで奥に広がっていくバックルームの深い意味があるとは思えない配置とか広さとか殺伐さって、なんで? どうして? と陰謀めいた何かを想起させないわけにはいかなくて、そこに目をつけたのはうまいかも。例えばDavid Lynchだとどうしてもヒトの脳奥の病理や妄執に向かいそうなところを、空間の方になんかした? 起こった? って問うて、その返事の返し方が変だぞ、とか。
あと、80年代の終わりから90年代ってインターネットの登場でオフィス内の配線とかサーバー用の部屋の確保とかレイアウトを抜本的に見直すことが割とあって、北中南米の古めのビルでそれをやると、これなに? みたいな器具とか機械が発掘されて、そのまま棄ててなんか起こったらやなので放置、みたいなのばかりだったのを思い出したり。
もういっこは、オフィスの延長(書庫スペース廃棄)のような流れでクラウド等が登場して仮想でマルチのBackspaceが立ちあがって、これらが相当に入り組んで同期異常などが起こると例えばー。
でも、Clarkが壁をぬるりと抜けて向こう側にいく描写だけちょっとなー。あくまで即物的な行き来の世界のなかでしかありえない、とんでもないことを表現してほしかったかも。 向こう側に行った後はあれでよいけど。
既にいろんな人が言っているのだろうが、”The Odyssey”は神々の世界のBackroomsに迷いこんで20年間彷徨って還ってきた昔の人類のお話、だとか、少し前の”The End of Oak Street” (2026)もこれだろう、とか。
でも映画ってそもそも、単層的なBackroomsを繋いでそれらしく見せる詐術として発展してきたものよね?
9.11.2026
[film] The Odyssey (2026)
9月5日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
先行上映とか偉そうに謳っているが、グローバルでみたら断トツの後行で恥ずかしいばかり。
原作はホメロスの叙事詩。監督はChristopher Nolan、脚本もChristopher Nolan(とホメロス)。撮影はHoyte van Hoytema。
全編IMAXで撮影されて、上映/再現もIMAX 70mmが最適なのだろうが、最適な上映設備を選んでしまうような映画、そういうのがあってもよいのだろうし、そうした理由についてNolan自身がいくらでも説明しているようだが、ここまでくると遊園地の世界だよね。体験至上の罠。お金は使って貰いますよって。
冒頭、吟遊詩人のようなTravis Scottがラップの強さでいいか「ストーリー」ってのはこういうもんだヤツの話をとにかく聞いてみ、ってオデュッセウスとトロイア戦争について語り始める。この調子でおらおらって最後まで行ってくれるかと思ったのだが、どこかで飲みこまれてしまったような。
王の中の王アガメムノン (Benny Safdie)によってイタカからトロイア戦争に派遣されたオデュッセウス(Matt Damon)が妻ペネロペ(Anne Hathaway)に自分が死んだら再婚するように言い残して出ていって、彼女と息子のテレマコス(Tom Holland)の館にはむさい求婚者とかよからぬ企みを持つ連中が詰めかけて毎晩飲めや歌えを延々繰り広げている。
映画はオデュッセウスが前線に立ったトロイア戦争に向かって10年、だらだらしんみり過ごしてイタカに帰還するまでの10年、計20年の旅と、その間待ち続けていたペネロペの周辺と、パパを待ちきれずに探しに出たテレマコスの3つくらいの間を時間の前後無視で行ったり来たりしていく。誰もが知るエピソードが多いのでこれがあれか、って思ったり、その辺なんも考えずに見ていてもどかーんとでっかいのが来たりするので、その辺の混乱はあまり気にならない。戦乱の世なのでどうせ混乱まみれということでよいのか。そんなふうにほぼ3時間はあっという間に過ぎてしまう。アトラクションだから。
怪物はポリュフェモスとかライストリュゴネスとか見てすぐわかるのだが、神々は女神アテナ(Zendaya)もニンフのカリュプソ(Charlize Theron)も魔女キルケ(Samantha Morton)も、人間とあまり見分けがつかない世界のすぐ横にいて、ゼウスの法が、とか言われてもそんな重く響かないし誰も聞いてない。会社の偉い人が社内規定とかコンプラについてなんか言ってるよ、くらいのかんじかも。
クライマックスはオデュッセウスが乞食に身をやつして宮殿に戻って、狡猾なアンティノオス(Robert Pattinson)などを懲らしめてペネロペとの再会を果たすシーン、なのだろうが、”Interstellar” (2014)でのふたりの逆のを思い浮かべてしまったり(とにかくぜんぜんよかったね、の感動が来ない)、そんなに盛りあがらなくて、やはりトロイの木馬とか怪物とのバトルとか、そういう戦乱あれこれを描いたアクションドラマ、に見えてしまう。
IMAXででっかく重々しく描かれるぺったんこな海の表面と、その縁でぎりぎりまでひたすら耐えて待って最後に爆心地に向かって実際にふっとんで粉になって消える兵士、という構図(例えば”Dunkirk” (2017))はNolan映画定番のスペクタクルで、でもこの地味なかんじをスペクタクルと言ってよいのかはちょっと考える。
この叙事詩は人間の愚かさとか狡さに対する戒めとしてずっとあって、シノン(Elliot Page)に対する後悔とかオデュッセウスの苦渋も多少は描かれるものの、基本的にはこいつの表に出てこない傲慢や狡猾さを、故郷に戻るとか家族との再会とかで美化してしまっていないか。冒頭の「ストーリー」賛美もその流れのなかで見ると、これって圧政者が金を撒いて進めるプロパガンダの手法と同じようなものになっていないか、と(そこまで狙っている?)
もちろん性格が悪くても頭はよさそうなNolanはこの辺を十分わかっていて、音楽は重心低めでドラマチックなところをできる限り抑えて、「本当に起こったこと」のような地続きの低空を慎重に這ってくる。 ロケ地となった西サハラの問題や外部の者(移民)への歓待など、眺めてふーんとなる箇所は結構あるかも。
でも、これらぜんぶを俯瞰して、ああ人類はこんなところまで来てしまったのか、って嘆きたいのであれば、IMAXに行くよりも今のホワイトハウスを見ればじゅうぶん、ではある。
あの日から25年。まだぜんぜん過去の事件になってくれない。あの粉塵の匂い、どんよりした通りの向こう、戦闘機の音…
9.10.2026
[film] Reinas (2024)
9月5日、土曜日の昼、K‘sシネマで見ました。
邦題は『マイ・リトル・クイーンズ』、英語題は”Queens”。
監督はKlaudia Reynicke、脚本はKlaudia ReynickeとDiego Vegaの共作。スイス、ペルー、スペインの共同制作映画。2024年のベルリン国際映画祭の青少年向けのGeneration Kplus部門で最優秀作品賞を受賞している。
90年代初のペルーで、社会経済が落ち込んでインフラもがたがた、夜間外出禁止令が出て治安も不安定になってばかりなので、シングルマザーのElena (Jimena Lindo)は Aurora (Luana Vega)とLucia (Abril Gjurinovic)の娘ふたりを連れて国を出ることを決意し、苦労してアメリカのミネソタに職を見つけて、パスポートとか為替とか引っ越しとかの準備を進めている。 のだが、最大の難関は別れてどこにいるかもわからない - つかまることはつかまるけど - の夫で娘たちの父Carlos (Gonzalo Molina)の渡航同意書(へのサイン)が必要となることだった。
タクシー運転手らしきことをしているCarlosはお気楽で、今回のことでElenaに呼ばれてわかったサインするよ、と口では言うものの信用できなくて、彼に懐いている娘たち(タイトルの”Queens”)を車で海の方に連れだして、アメリカなんか行きたくないな、パパと一緒がいいな、の雰囲気を作ろうとする。既に恋人がいて、彼との間に妊娠の疑いが出てきた姉のAuroraは特に揺れだして、渡航前にきりきりしてきた母から逃げるように優しくてどこにでも連れていってくれる父の方を向くようになる。根がてきとーなCarlosは、Luciaに対して政府の諜報機関で仕事をしている、ってホラを吹きまくったり。そして渡航の日も近くなりサインの期限も迫ってきて親族でのお別れ会が開かれた晩に…
ファミリードラマの割と普遍的なところと、当時のペルーという土地の事情がもたらす混乱や困惑、でもどうにかしなきゃ! のはらはらがうまくミックスされたとてもきちんと作られたコメディで、すごくおもしろいのになんであまり上映されていなかったのかしら。
96年末に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件の前で、あの事件の後に数回ペルーのリマに仕事で行ったことがあるのだが、この画面に映された町のかんじとか、浜辺の風景とか、当時のままのような気がして、ずっと手つかずのままだったのかしら。それってよいこと… にしよう。
Ready or Not 2: Here I Come (2026)
9月2日、水曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。
↑のとジャンルはちょっと違うが、姉妹が手をとりあってひどい環境から抜けだそうとがんばるお話、というところは似ている… のかも…(こじつけ)
前作 – “Ready or Not” (2019)は見ていなくて、ここから製作に7年かかっているのだが、お話としては前作が終わった地点から始まる – 焼けただれたお屋敷を出たところに主人公のGrace (Samara Weaving)がぼろぼろの状態で座っていて、ここまででどんなことがあったのかを駆けつけた救急隊員に丁寧に説明してくれるので、だいじょうぶ。
結婚式の直後に引いたカードから始まった生贄儀式で、嫁いだ先の一家を全滅させてひとり生き残ったGraceと、それを知らされた評議会(というのがあるらしい)の若頭の双子(うちひとりがSarah Michelle Gellar)が評議会のリーダーである父(David Cronenberg ...なにやってんの?)を枕で押し殺して全権を握り、Graceの持っている指輪を奪うべく世界中から一族郎党を彼らの屋敷に召集して、新たな殺し合いが始まるの。(全体を統括する司祭が指輪繋がりのFrodo - Elijah Woodというのが実にどうでもよくて素敵)
Graceが病院に収容されたところから既に殺し屋は現れて、そこにやってきたのがずっと生き別れていた妹のFaith (Kathryn Newton)で、なにこれーとか叫んだり逃げたり戦ったりしていくのだが、ふたりともスーパーパワーがあるわけでも、ふたり揃うとなんかすごくなるわけでもなくて、妹は姉に見捨てられたことをずっと根にもっていたり小競り合いもあって、とても彼女らに生き残れる要素があるとは思えなくて、他方で襲う側も変態や異常者ばかりなので、かなり緩めでしょうもないバトルが展開されて、最後はゴキブリホイホイみたいに…
アメリカのどこかにいそうでありそうな、カルトで懲りない富裕層の所業振る舞いと、やはりどこにでもいそうな仲が良いのやら悪いのやら、の姉妹をぶつけて、ものすごく痛快なことが起こるわけでもないのだが、さくさく流れていくのがなんかよかった。
こういうのでもエンドロールぜんぶ終わるまで出ていっちゃいけないの? こんなの(っていうよりどんな映画だって)上映の途中で入って途中で出たりしても、ぜんぜんよいし、映画に失礼になるものでもない。誰かのためとかじゃなくて、見るのは自分なんだよ。映画館でもライブハウスでも、この国って、ほーんとばっかみたいになっててうんざり。
9.09.2026
[film] 近松物語 (1954)
9月1日、火曜日の晩、神保町シアターの特集 - 『没後70年 映画監督・溝口健二の世界』で見ました。
国立映画アーカイブで企画展示などもやっているが、没後70年にしては静かで地味すぎないか、と思いつつ、見たいものは何度でも見よう。 80年のときにはこの世にいないだろうし。
原作は近松門左衛門作の人形浄瑠璃『大経師昔暦』 (1715) を元に川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』と西鶴の『好色五人女』 (1686)の「おさん茂右衛門」、これらを合わせて依田義賢が脚本を。
遊びの金で困っている兄(田中春男)の金策依頼で主人(進藤英太郎)の妻おさん(香川京子)から相談を受けた手代のもへい(茂兵衛)(長谷川一夫)だが、意地悪な主人に直談判してもどうしようもなく、店の金をどうにかしようとしてばれそうになったところを女中のお玉(南田洋子)に救われて、それがお玉に気があった主人を逆撫でして軟禁状態となるのだが、そこから転がったあれこれで目覚めてしまったのかもへいとおさん、騒がれて余計に確信してしまったのか、不義密通の罪で追われる身となったふたりは、もう死のうと誓ったところで更に燃えあがってしまう。なのに実親も含めた世間の格子はただただ冷たくて非情でー。
どこまでも身勝手で悲惨で内向きで、あれこれ非対称な家父長制 - 男中心社会のありようと、その不条理に正面から愛をもって激突して静かに微笑んで犠牲となる女性の聖性と - 近世の物語、悲劇としてものすごくよくできていて、ああとんでもない、っていつものように痺れつつ、そんなおさんの「美しさ」もまた男性側(のシステム)が都合よく練りあげたものなんだからね、って。コンプラで追い詰められた男たちが最後にすがろうとするのもこの辺だから、気をつけなくては、とか。
それにしても香川京子のとてつもないことったら。
赤線地帯 (1956)
9月4日、金曜日の晩、神保町シアターで見ました。 英語題は”Street of Shame”。
これを最初に見たのは00年代のNYのFilm Forumで、ものすごい衝撃で、そこから3回目くらい。
これも↑のもフィルム上映で、やっぱりなんだかんだフィルムがいいなー、説明めんどくさいけど、になる。
上映前からスクリーンの脇の小部屋にある機器がぴーぴー間歇的に変なノイズを出し続けていて、上映前にシアターから謝罪があって、上映後には無料の招待券をもらったのだが、このリアルタイムノイズ、劇中の黛敏郎のぴょーんていう変な音楽と妙に調和したりしていて悪くなかったかも。
売春防止法制定前夜の社会情勢を回想などなしでまっすぐ描いた現代劇で、溝口の遺作。
吉原の特殊飲食店「夢の里」で働く三益愛子、若尾文子、木暮実千代、町田博子ら娼婦たちの姿、そこに大阪からやってきた京マチ子、新たに働きに出ようとする少女、病気の夫と息子がいたり、一人息子と一緒に暮らすことを夢見ていたり、貢いできた男に殺されかけたり、病の夫は自殺しようとしたり、ほんとにいろいろで、全体としてはこんな制度、こんな社会、こんな男たちのせいでこんなにも … なのだが、同じ酷さでも『近松物語』のように迫害される側を恣意的に持ちあげたり賛美したりするのではなく、自分たち自らが強くしぶとく、場合によってはしなやかにしたたかに悪賢く生きる、生き延びようとする女性たちの姿を叩きつけて、やれるもんならやってみ上等だおらー、くらいの啖呵を切ってみせて、誰もがかっこいいったらない。
もちろん全体としては酷い話で、「日本すごい」が大好物でたまらない人たちにとっては正視できない光景だらけなのだろうが、こんなのを制度の変わり目に、「郷愁をこめて」ぽい目線なしで、ドキュメンタリーのようにしれっと作ってしまった(感がある)溝口(そしてこれを最後に消えてしまった)はすごいな、しかない。実際に笑う人はもっと笑っていただろうし、泣く人狂う人はこんなもんじゃなく悲惨だったのだろうが、娯楽映画でも犯罪映画でもないリアルを目指したすばらしいアンサンブルドラマだと思う。
9.08.2026
[theatre] 夢去りて、オルフェ
8月30日、日曜日の午後、東京芸術劇場のウェストの方で見ました。
ロンドンで演劇を見るのがとても好きになったので、帰国してからも続けたい、って月1回は見るようにしてきたのだが、なかなかしんどい。 人気の演目はすぐに売り切れていて、ロンドンだと当日の戻りやキャンセル分をオンラインで簡単に買えたのにそれがないし、当日券がある、といってもどんな席が何枚、すらわからないからリスクを冒してまで行く気にはなれないし、なによりもなによりも肝心の劇の中味が、サイトを見ただけだとイメージとかポエムみたいのでしかわからないの! わかる人にはわかるのだろうし、それで回ってきた世界なのかもしれないが、そんなにムラを作りたいのか。小劇場の時代から何ひとつ変わってないのね。以上グチ。
というわけなので、どうしても名前を知っている作家の劇などに向かってしまう。
原作は清水邦夫の戯曲(1986)、初演も同年の紀伊國屋ホール、演出は清水邦夫、劇団は木冬社。38年ぶりの再演となるらしい今回の演出は大河内直子。
舞台の上には焼け崩れたような回転木馬の残骸があって、かつては遊園地かあったらしい。手前には萎れた草、遠くに海鳴り、夜空には月。
前口上のあと、昭和14年(1939)の冬近くの日本海側(最近、日本海側おおめ)のどこかで、北一輝はまだどこかで生きていると信じる桂木一機(大石継太)が東京で役者をしている血の繋がらない妹のぎん(朝海ひかる)を呼び出す。 大日本帝国陸軍所属の小桜大尉(佐奈宏紀)の妻夢野(平体まひろ)と一機がよからぬ仲にある、という噂がたってしまい、最悪姦通罪で引ったてられる可能性があるので、子供の頃に芝居ごっこをやったように、ひと芝居うってくれないか、というのがぎんを呼び出した理由。
一機の親友だった中原源三(加納幸和)とか夢野の家族、官警なども総動員で駆けつけてばたばたするなか、サル芝居はうまくいくかと思えたのに、静かにしていた夢野が唐突に想定外のことを言い始めて、そこに夢野のことを密かに想っていた義弟の青年将校が挟まってきて大混乱のシャレではなくなりー。
口上で語られていたように、既に崩れてとうに終わってしまった廃墟の上の、どこまで嘘でどこまで本当だったのか確かめようもない、かつて夢であったような話、であるので、どんな修羅場も、どんな悲劇も、誰のどんな妄想であれ、すべては脱線した回転木馬、風と共にどこかに、夢去りて、の上に積みあげられた、例えばこんなごたごたが。 オルフェのように一瞬で消えてしまったがその残骸はいまだにー、なのか?
舞台となった1939年から約50年後の1986年に書かれた芝居、そこから約40年後の再演(脚本は変えていないとのこと)なので、2段階でいろんなことが言えるのだろうか。バブル前夜の好況に浮かれて、全共闘は過去のものとなり、軽薄や表層が尊ばれた86年に北一輝を理想とする主人公の不倫どろどろの軽くない修羅場や殺傷沙汰を持ち出すのは、ものすごく場違いかつアナクロで、そのギャップゆえの「夢去りて」感を見せることの意義はあったのかも、と想像がついて、では、今回の再演はというと、この程度の修羅場ならリアリティドラマなどでふつうに見慣れているし、北一輝のような思想もいちコンテンツでしかなく、タイトルだってアニメのそれ?になりそうなくらいの軽さで、焼け跡も壊れた木馬も絵として映えればよし、だし - 80年代のクッションを介さなくても違和感なくふつうのドラマとして流れていってしまいそうな。
初演当時は、それでも愛を、失われたものを届かない場所と時間を経て語る、というロマンがありえた気もするのだが、いまはどうなのだろうか? 割とエモ抜きで走っていく主人公たちにどこまでついていけるのか、辺りだろうか。割とあっさり受けとめることができてしまったのだが、最近の若いひとたちがこれ見てどう思うのかは不明。
時代の段差を前提としたような劇なので、ここまで時代が隔てられてしまうと夢の効力も薄まってしまうのでは、と少し思った。Tom Stoppardの”Arcadia” (1993) のようにひとつの場所、ふたつの時代を交錯させた方が「夢去りて」のかんじは出たかも。
あと、家族–軍人-北一輝という同心円の体裁、80年代には「右傾化」で茶化していれば済んでいたあれこれが、近年はシャレにならなくなっていて、しらんぞー、しかない。 軍は簡単に去ってはくれないよ。
9.07.2026
[film] Útóipe Cheilteach (2026)
8月27日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
英語題は”Celtic Utopia”、邦題は『ケルト・ユートピア』。
上映後に監督のひとりDennis HarveyとPeter Barakanのトークと、更に現地と画面を繋いで映画にも出てきたThe DeadliansのSean Fitzgeraldが数曲歌ってくれた。
関係ないけど、Peter Barakanさんをライブで見た最後はいつだったか、Linton Kwesi Johnsonのライブ(っていつ?)以来だったのではないか。
冒頭、色褪せていていつのフィルムだかわからないが、女の子がアコーディオンを抱えて弾こうとして、でも音がでない・聞こえない? もうひとつは、道がない入り組んだ入り江に降りていったら岩の間に耳にタブのついた山羊だか羊だかの腐乱死体が挟まっていて、くっさーいー、ってなる。 どちらもなんだかとてもアイルランドなかんじがした。
ただ、この「アイルランド」についても「ケルト」についても、イメージとしてはなんとなく笛の音とか渦巻模様とか、わかるものの、もう少し具体的に、例えばケルトの文化を生きる、ってどういうことなのか、を見ようとした時、どんなものが見えてくるのか - について、現在のアイルランドのミュージシャンたちの演奏とインタビューを次々と映しながら、「こんなかんじ」のようなところを見せてくれる。
そこにはふたつの言語(ゲール語、英語)のこと、宗教対立から始まった分断と紛争の歴史、マグダレン・ランドリーでの虐待のこと、などの史実や事実があり、それでもor それ故に故郷に対する思い、ユートピア的な地に対する思いは強くあって揺るがない、というのが、インタビューや音楽を通して見えてくることで、そこに自分自身が聴いてきたアイルランドの音楽とか、現地に行って触れてきたアイルランドの食べ物とか街角とかいろんな文化の様子とかが重なって、やっぱりアイルランドいいなー、になる。この「いいなー」、は例えばフランスやイタリアに対するそれとははっきりと異なるやつで。
ただ単純で楽観的なアイルランド万歳! にはなっていないところがよくて、インタビュー対象となった若いミュージシャンたちの考えや見えているものも含めると、ぼろぼろでどうにかここまで来たし、わからないことだらけだけど、ここまで来れたんだから、あとは酒と歌があればどうにか、くらいかも、という平熱感。 単純なユートピアを目指すんだ!でも アイルランドはユートピアだ!でもなく、またケルトとは、ケルトであることとは?もはっきりと示されない(示しようがない)まま、子供の頃から歌い伝われてきたような歌をうたう、歌うこととは、等について、政治家でも歴史家でも批評家でもなく、若いミュージシャンたちが自分の言葉でぼそぼそ語ろうとする。 そういう中から光として現れたKneecapとかFontaines D.C.がそもそも抱えこんでいる豊かさ、分厚さについて。
まったく事情も背景も異なるとは言え、自分の国についても振り返ってしまう。そもそも他の国のことを眺めていられる余裕あるのか?はあるけど。 余裕とかじゃなくて、過去・歴史との向き合い方、文化の複雑さや分断に対する目線、接し方、等も含めて、学ぶべきところは多いし。 政治と音楽は別、なーんて幼稚でお子様な言い草だろうか、って思ってしまうし。(もうほぼ諦め)
登場したミュージシャンのなかで見たことがあったのはバルセロナのPrimaveraで見たLankumくらいだったが、Lankum、すごくよい意味でモダンでよかったの。
映画のなかで何度か言及されていたマグダレン・ランドリーについては、“The Magdalene Sisters” (2002)が有名だが、最近のドキュメンタリーではAoife Kelleher監督による“Testimony” (2025)がすばらしくよかったので、公開されてほしい。まだ生存している当事者たちの証言をいかに歴史のなかに刻む、刻みうるのか、という国境を越えた試み、そのなかで改めて露わにされる彼女たちの痛みについて。
[film] The Dog Stars (2026)
8月31日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
監督はRidley Scott、Peter Hellerによる同名小説 (2012)を原作にMark L. Smithが脚色して、撮影はErik Messerschmidt。主人公はラストサバイバーでもなんでもないのだが邦題は、『ラスト・サバイバー』。
2035年、グローバルパンデミックで人類の殆どがやられてしまったらしいアメリカのコロラドの山奥の元飛行場だったようなところで元整備工だったHig (Jacob Elordi)と犬のJasperはセスナに乗って誰もいない街まで飛んでいって生活の必要物質をかき集めたり、かつて住んでいたところに行って亡くなった妻の幽霊と会ったり、Mennonitesのコミュニティに物質を届けたり、を淡々をやっていて、住処に戻ると主人公とどういう関係かは不明だが元軍人らしいBangley (Josh Brolin)がいる。
飛行中にGrand Junctionからの無線信号のようなものを受け取ったHigはそこに行ってみたい、というのだがBangleyは反対で、そうしているうちに敷地に侵入してきた連中によってJasperは殺されてしまい、悲しくてやけくそになったHigは止めるBangleyを振り切ってGrand Junctionへと向かう。
のだが途中で飛行機が壊れてPops (Guy Pearce)とCima (Margaret Qualley)の親子が暮らす農場に落ちて、最初は警戒されながら彼らと、特にCimaとは少しずつ仲良くなっていくのだがそこも襲撃されたので、どうにか修理が間に合った飛行機で3人で憧れのGrand Junctionに向かって、だがしかしそこも組織された変態の巣窟なのだった… (ここでAliensが出てくるかと思ったのに)
出てくる人たちが全員見事に(白系)犬顔でタイトルも「犬星たち」なのでしょうがないのだろうが、全員が犬的な温もりを求めている & 襲ってくる方も全て狂犬 - のようで、予告でかかっていたブラピの新作もそれっぽいかんじだったし、なんなの? ポストアポカリプスには犬がいないと生きていけないの? みんなそんなの見たいの?
映画のなかでは、外見はともかく俺はぜったい外には行かないって踏みとどまったBangleyだけが猫か。
猫と一緒に滅びるのを待つ(だけの)映画を見たい。
Ridley Scott、こんなに緩いやつでいいの?
Shelter (2026)
9月3日、木曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。 邦題は『シェルター』。
監督はRic Roman Waugh、Jason Statham自身がプロデュースに参加している。
こちらも犬系のアクションだが、いまのこの時期、イギリス任侠B級(ハゲ)映画としてGuy Ritchieの新作とこれがかかっていて、どうしようかなー、でこっちにした。なんとなく。
スコットランドの孤島のもう使われていない灯台の根本の小屋にMason (Jason Statham)とわんわんがひっそり隠れるように暮らしていて、たまに少女Jessie (Bodhi Rae Breathnach)とそのおじさんが小さい船でやってきて食料などを置きにくるのだが彼はずーっと喋らず無愛想の隠者のようで、でも嵐の日に彼らの船がやられてJessieだけを助けることができて、怪我をして孤児になった彼女の面倒を見ることになるのだが、対岸に薬を買いに出たところで町の監視カメラに映った彼の顔からアラートが出て、MI6の強硬派でトップから後ろに退いたManafort (Bill Nighy)が、こいつは… って近くにいた腕のよい刺客を送るとか、Masonを殺しにエージェントとか一連隊を送ったり越権で勝手にやりだして、なんかおかしいぞって気付いたMI6のRoberta (Naomi Ackie)が調べてみたらMasonはMI6のエージェントの中でも過去最強のやばいやつだった、と。
出だしは結構スローで島に留まり、また犬が亡くなったりしてだいじょうぶかな?なのだが、基本はなんだこのハゲどいてろ、って言われたStathamが実はとんでもない狂犬で返り討ちにあってぼろぼろ、のいつものパターン(少女とか弱いやつには弱くて、強いやつには強い)は不変で、Jessieを守ったり彼女に怒られたりしながら車でロンドンまで行って、Jessieの安全を確保したナイトクラブでManafort の刺客エージェント全員撃ち殺したってぜんぜんへっちゃらで、最後にはManafortと向かいあう。
最後にStathamとBill Nighyが正面から激突(銃撃よりは肉弾で)してくれたら最高だったのになー。
9.06.2026
[film] Violette Nozière (1978)
8月30日、日曜日の昼、恵比寿ガーデンシネマで見ました。
『クロード・シャフロル傑作選 vol.2』として上映される3本のうちのひとつ。傑作選のvol.1は見れていないのだが、とにかく見る。邦題は『ヴィオレット・ノジエール』。Isabelle Huppertはこの作品でカンヌの女優賞を獲っている。こんなのが、これまで日本未公開だったの?
監督はClaude Chabrol 、撮影はJean Rabier、音楽はPierre Jansen、スタッフの名前をいくら並べてもこの映画全体を覆うみっしりとしたプロダクションの濃さ固さは説明できない気がする。 1930年代パリのあのアパート、ホテル、くしゃくしゃしたベッド、それらが目の前にあって、それは「再現」とか「体感」なんてレベルではなくそこに、ただ目の前にあるのを撮っているような。 タイパとかコスパとか「世界線」とか、バカのひとつ覚えのように唱える「関係者」どもを2時間映画館の暗闇に閉じこめてやりたくなるが、連中にはもったいなさすぎか、って。
実在した女性 - Violette Nozière (1915-1966)が実際に起こした犯罪を元に、どんなふうに事件が起こったのかを追っていく。なんで、どうして彼女が、は台詞等も含めて一切説明されないが、見ていれば経緯と連関はぜんぶ見えてきて、そうして画面上に示されたものが説明してくれるかというと、やれるもんならいくらでもどうぞと、そういう角度からの澄んで醒めた見通しのよさがある。謎のようなものはひとつもない。
10代のViolette Nozière (Isabelle Huppert)は売春をして小銭を稼いで、仕事仲間も顧客もお気に入りの学生もいて、きちきちに狭そうなアパートに帰ると列車の機関士をしている父Baptiste (Jean Carmet)と母Germaine (Stéphane Audran)がいて、ふたりの仲は悪くなさそうだが、どちらもVioletteには厳しく鬱陶しそうで、でもVioletteの実の父はBaptisteではないことを母と娘は共有していて、なのでVioletteは金がありそうな実父のところにたかりに行ったり、それに加えてアパートの金が隠してあるところからしょっちゅうくすねたりやりたい放題なのだが、医者からは梅毒がやばいところまで来ている、と言われて、自分は処女なのでこれは遺伝であんたたちから来たのだ、と薬(毒)を盛ってあっさり殺してしまう。
こういうお話にひっついてきそうな苦労や苦渋や愛憎など、こんなわたしに誰がしたなど、べたべたした湿気や目線を一切排除して、アパートとホテルとカフェの描写と行き来と簡単な会話のやり取り、親の娘に対する干渉の具合とそれに対する反応などで、どの辺に向かうどんな話なのか - 少なくともメロドラマとは違うし、サスペンスのように何かに抗うわけでもないし - はわかってしまう。Violette Nozièreはこんなことをしました。というのだけで、これだけのものができてしまう驚異。
運転する列車から元気よく手を振る父の思い出も何度か出てくるが、それでも揺るがない、というか吹っ切る、断ち切るための小道具のように浮かんできて、決まっていたことをやるだけ、のような。
それにしても、今から振り返ればなんの違和感もなくいつもの当たり前の彼女、としか言いようがないのだが、Isabelle Huppertの鉄面の、ちょっと歪んで、微笑んでいるのか怒っているのかの口元と、すべてをばちばちにはね返してしまう目の強さはとうにあって、Huppert = Nozièreの映画、それ以上でもそれ以下でもないの。
9.03.2026
[film] 恐怖份子 (1986)
8月25日、火曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下の9Fで見ました。
邦題は『恐怖分子』、英語題は”Terrorizers” – かっこいい。
2015年にデジタルリマスターされた際にもイメージフォーラムで見ているのだが、これは何度でも。
監督は楊徳昌(Edward Yang)、脚本は楊徳昌と小野(Hsiao Yeh)、撮影は張展(Chang Chan)。
スラムのようなアパートで銃声が響き、それを写真家になりたい青年シャオチェン(馬邵君)がカメラで追い、飛び降りて足を怪我した不良少女シューアン(王安)を更に追いかけて撮って、大病院の出世競争のなかにいる医師リーチュン(李立群)とその妻 - 小説家で鬱病を患うイーフェン(繆騫人)のそれぞれの葛藤とすれ違いが旧知の編集者と彼女を結びつけ、カメラをもった青年はシューアンとアパートでぶつかり、足の怪我で動けないシューアンのいたずら電話が小説家たちをあちこちに動かし散らして、物理的な彷徨いと妄想に近い思いこみが粉塵のような「恐怖」の種とか粉 - 「恐怖分子」を捲きあげてあたり構わず散らしていって止まらない。
これらすべてが偶然の出合い頭の事故のように起こって、説明やストーリーを排するかのように配置されていって、撮られた写真を寄せ集めて並べて貼ってばらして、のような作業の果てに、引き裂かれた男(たち)は妄想もろとも自殺する、というお話。
ここはやはり7月に見た 『海灘的一天』 (1983) - 『海辺の一日』を思い起こさないわけにはいかない。
どちらも最後に(or最初から)主人公の夫である男性が(or 『海辺..』では主人公の兄の医師も)亡くなる話で、どちらも妻の方を向いてくれない/本心を明らかにしてくれない夫の振る舞いに傷ついている妻の話で、その先にどうなるのか - 幸せを掴めたのだろうか – までは示されない。
『海辺の一日』は残された妻の回想(語り)という形式を取るので、すべては夫の消えたあの海に集約されていく、一枚の絵の枠に収まっていく印象があったが、こちらは中心のふたりの外側(社会的には下層・周辺)にいる男女がアナーキーに彼らの足場足元を揺さぶってきて、不安と恐怖の種を散らしていく。彼らの不幸や不安とは関係ないはずなのに、目に耳に入れたくないのに否応なく挟まってくる – Terrorizers.
ふつうストーリーに挟まってこないノイズのようなこれらは、実際には存在したり活動したりしているものだし、これらを排除したところで成立するメロドラマなんてありえない(し、そもそもばっかじゃないの?)、という原理的な問いから始まったものとはいえ、これらの粒(分子)が連なって重なって並べられるその配置があまりにスタイリッシュで、こんなきれいでかっこよくてよいのか、にはなる。
90年代になるとここで見られた混濁が更に加速して味噌も糞ものぐじゃぐじゃ模様を描き、そこになんでもかんでも「世界」というラベルが貼られたりして、これはこれでうっとおしくなっていくのだが、そうなる前の、まだ都市や世の中をそれなりに整った(壊されるべき)ものとして、そこからこぼれ落ちる偶然も含めて(恐怖を恐怖として)掴まえて並べようとしていた時代の記念碑的なランドスケープになっているのではないか。
ランドスケープについて、これらの世紀が変わると、隣の国にホン・サンスという人が現れて、Edward Yangが都市の格子のなかに置いた痛みやノイズを酔いと偶発性のなかにぺったんこに散らして、フィクションとは?のようなところに連れていってくれた、のかしらー。
9.02.2026
[film] A Hora da Estrela (1985)
8月23日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。
Suzana Amaral監督によるブラジル映画、原作はユダヤ人の両親のもとウクライナに生まれてブラジルで育ったClarice Lispector (1920-1977)の同名小説(1977-生前最後の小説)。英語題は”Hour of the Star”、邦題は『星の時』。
ベルリンのコンペティションに出品され、銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞している。
原作(文庫本は部屋のどこかに積まれている)と映画では、原作の方には「ぼく」という男性の語り手がいること、舞台が原作ではリオデジャネイロ、映画ではサンパウロだったり、いろいろ違いもあるようで、別もの、と見ても構わないのかも。
時報を告げたりするラジオからは、ハエのスピードはxxで地球を一周するにはxx日掛かります、など、かなりどーでもいい森羅万象の豆知識みたいなのがゆっくりとしたナレーションでどこまでも流れていく。そういう空気のなかに19歳のMacabea (Marcélia Cartaxo)がいて、町工場のようなところのオフィスでタイピストをしているのだが、指いっぽんいっぽんでタイプしてて、仕上がりも汚れていてひどい、と上から文句を言われていて、わかった、わかっているけどがんばる、と返すしかない。
ブラジルの北の方からひとりで働きに来て、貧乏長屋のような共同下宿に暮らし、トイレはベッドの下に置かれた洗面器で、化粧もせず、着るものもどうでもよく、ホットドッグとコカ・コーラが好きで、休日もなにもせず地下鉄に乗るくらい、たまに話をするのは職場の同僚と同じ下宿にいる人たちくらい。でも困っていないしそんな辛くもないし、ただ生きてる。 どうすればもっとよりよく生きられるのか、みたいな考えはないし、言われたってなにをどうしたらよいのやら。
そんな彼女が公園でOlimpico (José Dumont)と出会って、彼は今は貧乏で、教育も後ろ盾もないけど国会議員になりたい、とかひとりで喋ってばかりなのだが、うんうん、て聞いているだけで自分からほぼ何も言わないMacabeaを気に入ったのか、一緒に出歩くようになる。のだが、Macabeaは彼の好きなように扱われていて、彼に小銭を渡して職場に電話してほしい、って言ってもしてくれなくて、これを付きあっているというのか、自分は恋におちているのかどうか、それすらもわかっていなくて、でも総合的にはいいかー って日々を流していく。
Macabeaの同僚のGloria (Tamara Taxman)は派手でとっかえひっかえいろんな男性とデートと別れ(ふられ)を繰り返していて、結婚相談所の魔女のような占い師(Fernanda Montenegro)から友人の男を奪えば理想の男性と出会える、って言われたので、MacabeaのOlimpicoを横取りして、Olimpicoはほいほいついてくるのだが、けっか理想の男性と出会えてしまったGloriaはあっさりOlimpicoを捨てて、同じ占い師からメルセデスに乗った裕福な外国人とすばらしい出会いがあるよ、と言われたMacabeaの方は…
なんの抑揚もなくさーっと最後まで流れていってしまう、表面的に眺めればひどい話なのだが、Macabeaは幸せだったのだろうか? 悪趣味かつ意地悪なキャラクターの置き方やストーリーの展開、全体に漂う非情なかんじはR. W. Fassbinderだなあ、としか言いようがない乾いた暗さに満ちていて、なのに彼女の態度はFassbinderのミソジニー光線から逃れるべくして逃れ、とても穏やかにラジオを流れていく声のようにプレーンな均衡を保っているように見える。 知ったこっちゃねえだろ、ほっとけ! というような。 そんな女性像を底辺にも頂点にも置かずに輝かせることもせずに示し、そこになんのドラマも持ちこまず、ただそこにあろうとした(そして実際にそうしている!)Marcélia Cartaxoはすばらしいと思った。
日本の女優でこういう境地のようなところまで行ったのは、やはり田中絹代だろうか。
あと、こんな「女性像」を映画でさらさらと一筆書きで描けてしまう、というところがブラジル(南米)であり日本である、ということ。
9.01.2026
[film] Fire in Water 永田康祐映像作品集
ポレポレ東中野で、8月25日、火曜日の晩にProgram Aを、26日、水曜日の晩にProgram Bを見ました。
永田康祐という人もその作品も初めてでよく知らない状態で、どちらも中短編のドキュメンタリーを3本ずつ。Program Aが割と最近の作品群で、Program Bがそれよりすこし前の作品群、なのかしら。
特定のテーマを見つけて掘り下げていくにあたって、現地に飛んでフィールドワークをしたり関係者にインタビューを重ねながら事象の本質や根源に迫っていくやり方が、作家自身の内側の対話を反映するような近めのところを転がっていく。そのペースが見ている自分の思考の流れと同期するところが沢山あり、それがなんだか読書をしている時の感覚と快楽に近くて、とてもおもしろいと思った。 以下、いくつかの作品の感想を。
Fire in Water (2025)
『韓国語で酒を意味する「スル」は、「水(ス)」と「火(プル)」に由来するという説がある』 という(仮)説から入って、この「水の中の火」(タイトル)が示す発酵のありよう(劇中、背後でずっとぶつぶつぶつと発酵が進む音が鳴っている)、そのイメージから、日本統治下の朝鮮半島における稲作と酒造の歴史へと分け入って、食料増産と税収確保の名目で、こんなふうにそれまであった伝統文化、その根幹にあった食は変えられて、それが酵母や微生物のレベルまで徹底して浸透し変容と同化を促していったことを示す。戦争は単に人を殺して領土を奪うだけでなく、ここまでのことを徹底してやってしまうのだ、と。
これと同様のことは古のヨーロッパ大陸でも、シルクロードでもいくらでも起こってきたのだろうなー、というのと、主に男たちが飲んでいい気になって暴れたり憂さ晴らしするための「酒」や主食である米や麦を押さえる、のは基本なんだろうな、と。
だからこそ国を守らなきゃいけないんだ(→軍備、徴兵)、というのではなく、だから、こういうことが起こっちゃうから、日々の食や農について、自分が何を口にしているのか、それがどこから来たどのくらい貴重(食料はぜんぶ貴重)なものなのか、等に注意すべきだし、それらを支える農家へのケアをきちんとしなきゃ、になる。 「安くて旨けりゃなんでもいい(もってこい)は絶対ちがうし、やってはならんし。
このプログラムの他の2本 – “Fish of Empire” (2025), “Suddenly This Overview” (2026)も、小さな、でもどこかで目にとまったような場所や地点から戦時の記憶や歴史を掘り下げていって、それが今も物理的にそこにある、自分の足場と共振していることを示すものだった。過去や歴史は、常にどんなとこにでも、地理的に消滅したりしない限りいくらでもある - 見えない(or 見たくないから見ない)状態になっているだけ – を表に出すこと。映像表現とは。
Purée (2020)
それまで手掴みで、手で掴めるものをそのまま口に運んでがしがし食べたりしていた料理が、17世紀フランスで登場した「ピュレ」によって、どんなふうに変わり、その後のなにを変えていったのか、を実際にピュレを調理していく(顔は映らないが監督本人がやっているって)過程の映像– ふつうの料理の煮る焼く蒸す、とはちょっと違う実験みたいに見える - を通して調理すること、食べること、そのありようがどんなふうに変わっていったのか。
から始まって、作る人食べる人、作らせる人(権力側、富裕層)の構造や段差、それを支えた組織や共同体とその変遷まで文献を掘ったりしながら。 ピュレもムースもシロップもお粥もポリッジも豆腐もソフトクリームでも、うまうま、ってなんでも口にしてあんま咀嚼せずに食べてるけど、口のなかでもぐもぐ飲みこんでりゃいいってもんじゃないのよ。ちょっとは考えろ、実はそこにはこんなにもいろんな歴史や労働や権力がなだれ込んできて、ここから広がるなにかを示してくれる。 目をつむって口に入れたピュレ状のなにかが、口内で解けて広がって、これは何だなんの風味だ?って1000のスレッドが自動で立ち上がっていくのと同じように。
Translation Zone (2019)
実際に調理場でチャーハンを作りながら(最後のいただきまーす、まで)、料理のレシピや料理用語がどんなふうに翻訳されたり、あるいは食材そのものがどう代用されたりすり替えられたりして、その結果として「料理」が変容して(あるいは「定番化」して)きたのかをミクロにマクロに、その”Zone”の幅も含めて追っていって、例の「おいしけりゃなんでも..」というのとは異なる料理に向かう態度のようなものを考えさせる。
海外にいたので、現地の食材を使って現地の料理をどこまで「らしく」作れるか、とか日本の料理を現地の食材を使ってどこまで「らしく」作れるか、その「らしさ」はどこまで(だれが?)許容できるものなのか、等については相当試行錯誤とか失敗とかした(とても楽しかった)ものだが、そういうことを数万、数千万人のレベルでやっていくこと、そこに貿易や現地の流通事情やコミュニティの情報交換などが関わったりして、こんなふうにして大なり小なりの「レシピ」はできあがっていくのだなー(これって政治に近いよね)とか。 同じ民族の同じ系の料理でもマジョリティとマイノリティでもこれって起こりうるよな、とか、なにをもってスタンダードはスタンダードになるのか、とか、考えがいくらでも広がっていく。のが楽しい。
のこり1本の『鮭になる』 (2024)は太い朴訥な線の手書きアニメーション(作画:山本悠)で、養殖場で寄生虫に感染した鮭と老人の、どちらも用なしとなった彼らの行く末を描いて、とても他人事ではないので、しょんぼりした。 少しだけDon Hertzfeldtのアニメを思いだしたり。
[film] The Gold Diggers (1983)
8月22日、土曜日の午後、ユーロスペースで見ました。
個人的にはこの夏の最大映画イベント。80年代初のロンドンの空気を見事に切り取った女性映画監督ふたりによる2本。なんで今なのか、はよくわかんないけど、それでも必見。BFIのマークが見えるだけでうれしい。
監督はSally Potter、これが彼女の長編映画デビュー作。脚本はSally Potter, Lindsay Cooper, Rose Englishの共同、音楽はHenry CowのLindsay Cooper、撮影は”Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)を始め、Chantal Akerman作品を手がけたBabette Mangolte、全スタッフが女性による作品。 (ちなみに同じ頃のアメリカだと、Susan Seidelmanの”Desperately Seeking Susan” (1985)もすべて女性スタッフによるもの)
Sally Potterその人については、この翌日にユーロスペースでトークもあったようなので、よいか。
音楽面でも今回のサントラで1曲歌っているし、Fred Frithとの共演などもあるし、ソロを2作出しているし、実弟はVDGGのNic Potterだし、70~80年代の英国左翼音楽のど真ん中にいた(いる)人でもあるの。
元ネタ(のひとつ)はMervyn LeRoy監督、Busby Berkeley振付によるアメリカ映画“Gold Diggers of 1933” (1933)と見ることもできて、大恐慌の最中のアメリカで、あるところにはあるはずのお金を富裕層からふんだくろうと金策に駆け回った女性たちの姿を描いたあれから丁度50年後、やはり景気がよくないイギリスで、ふんだくるもなにも、そもそもお金の起源と流通、金づるはどこに? を女優のRuby (Julie Christie)、でっかいコンピューターのオペレーターCeleste (Colette Laffont)の女性ふたりの眼と行動を通して、政治、経済、地勢、ジェンダー、エンターテインメントなどの観点から暴きたてて世界をぐるりと掘って見渡す政治経済アドベンチャー映画なの。
これらを氷河が横たわるアイスランドの台地から現代ロンドンのコンピュータールーム~劇場までを繋いで、金を掘ったり追ったりしていく者たちの様々なイメージと足跡を結んで懲りない滅びない星座として描きだす。
さらにこのありさまを金を掘ったり追ったりする者たちの汗と涙の狂騒のなかに刻むのではなく、あんたら何やってんの?いつまでもご苦労なこった、というしらーっとした目で突き放す。そういう時のJulie ChristieとColette Laffontの顔、馬に乗って去っていく姿がしらじらとかっこいいったらないの。
Nightshift (1981)
8月23日、日曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
監督はRobina Rose、作は舞台となったPortobello Hotelで実際に夜勤していたRobina RoseとNicola Lane、撮影は当時Robinaとパートナー関係にあったJon Jost(ちょっとだけ顔も出す)、音楽はPenguin Cafe OrchestraのSimon Jeffes、など。
ロンドンのNotting Hill - 最初にジャマイカ系移民が入って、世界で最初のサウンドシステムが組まれて、最初期のパンクが鳴らされたグラウンド・ゼロの近くに建つPortobello Hotel(まだホテルとして稼働中)の玄関口に16mmカメラを添えて、フロントで夜勤する女性(Jordan / Pamela Rooke)と彼女の傍らを行き来していく夜の人々の生態(& 変態)を、獣道を抜けていく夜の動物たちのように捕らえて見ているだけでたまんない。これは大昔にBFIで見たことがあって、何度見てもとにかく飽きないの。
同様の変な人々の巣窟としてのホテルとしては、NYのChelsea Hotelが有名だが、あちらの「ほらほら見て見て」の騒々しさ、顕示欲の塊とは全く異なる、海の底の静けさと巻きあげられた泥の滑らかな軌跡が残像のように残る。そこに静かに浮かぶJordanの能面の無表情が怖さと妙な安心感の両方をくれる。奥/裏の方に引き摺りこまれるような禍々しさは感じられない。(いや。ああいう手動リフトの付いたフラットにずっと住んでいたことがあったので、単に落ち着くだけなのかも、と後で思った)
定住する場所ではないホテルで、人はパーティの支度をしたり、帰ってきて横になったり、パーティや仕事の続きをやったりする。なんにしても寝る以外ではせいぜい2~3時間くらいの勝負で歓んだり悲しんだりして、朝になると出ていく。 そこにやってくる人たちのために寝ないで働いた人たちが迎える朝とは。
クラブやパンクで華々しく騒々しい表とは別に、静かで淫靡でどこか歪んだ洞窟と繋がったこんな空間は確かにあって、しかしこれもまた紛れもなくシーンの一部だった。Penguin Cafeもおそらくそんな場所にあった。
これの併映はDerek Jarmanの”Jubilee” (1978)でもよかったかも。Jordanの異なるもう一つの顔を見ることができるし。音楽もBrian Eno(Penguin Cafeの元締め)だし。
[film] The Drama (2026)
8月22日、土曜日の昼、ヒューマントラストシネマの渋谷で見ました。 邦題は『ドラマなふたり』。
監督はノルウェーのKristoffer Borgli。 ベースはカップルの会話(&心理)劇で、物理的な流血はそんなにないものの、神経を無駄に刺して引っ張って逆撫でしてくるあたりはやっぱりA24かも。 以下、ネタばれっぽいところも含む。
Charlie (Robert Pattinson)はイギリスから来てNYのCambridge Art Museum(もちろんそんなの存在しない)でキュレーターを務めていて、ある日カフェでひとり読書をしていたEmma (Zendaya)を見かけて、話しかけるために、彼女が読んでいた本をサーチして、その本いいよね、って声をかけて、そこで彼女は片耳が聞こえないことがわかり、ちょっとばたばたするのだが、それをきっかけに仲良くなって、一緒に暮らし始めて、結婚するところまでくる。 この出会いのなんてことはないやりとりが、結構血圧がきゅーってあがるかんじで撮られていて、この後の流れを象徴していたような。
結婚式が近づいて、ふたりは親友のRachel (Alana Haim)とMike (Mamoudou Athie)とディナーをして、そのテーブルで、これまでに自分がした一番ひどいことを暴露してみよう、というのを始めて、Emmaは14歳のとき、父親の持っていたライフルを使って学校で銃乱射事件をしようとしたけど、実行には移せなかった、という話をする。 それはいくらなんでもひどすぎる、シャレにならん、一体どういうこと? って一同震えて、回想シーンも入って掘り下げていくと、校内でいじめられっ子だった彼女はそんな日々にブチ切れて計画を立ててひとり射撃の訓練とかも始めて、そのせいで片耳が聞こえなくなった。いよいよ実行まで行こうとしたとき、地元のショッピングモールでリアル乱射事件が起こって友人が犠牲となり計画はなくなって、彼女は銃規制派のほうに転じることになった、と。
今はもう大丈夫だから、というEmmaを他の3人も信じてくれる、というのは甘くてそうもいかなくて、そこまで思いつめて銃を手にしようと思った人が、そう簡単に - 後で規制派に転じたとは言え、いや簡単に転じてしまったが故に- 彼女のことを信じられるだろうか、って特に花嫁の付き添い人をするはずだったRachelは敵意を顕わにするようになり、もちろんCharlieも、がたがたに揺れ始めて神経症のようになり、オフィスの秘書とひと悶着起こしてしまったり、それでもとにかく結婚式を吹っ飛ばすところまではいかずに当日を迎える。
従来のハリウッドの結婚式コメディにもよくあったような、直前にいろんな不安が湧いてでてじたばた、の体裁をとりつつ、ここに銃乱射事件という誰もが目を背けたい「現実」を繋ぐことで、全体をホラーに近い心理的な極限状態に引き摺りこむ – ここで焦点があてられているのは『ドラマなふたり』というよりは、ドラマのありようそのものだとも思うのだが – そんな試みで、あなたの婚約者が突然こんなことを言い出したら... って挑発してくるような。その挑発の仕方、作法って流血ホラーのそれとどんなふうに違うのか同じなのか。
たぶん、結局のところ、いや大丈夫だから、って大抵のひとはなると思うのだが、そんなのは自分で自分を騙しているだけで、本当はぜんぜん大丈夫だなんて言えない、妄想で銃を手にとってバリバリ、なんて妄想であればいくらでもある、その手前までの人だっているだろうし、そこでなんで踏みとどまれているかなんて、単なる環境に恵まれているだけなのかもしれないし。でもそこに求める安心て、そもそもなに? などなど。
というぐるぐるに囚われて従来であれば狭くてみみっちいやつ、として蔑まれそうな男(像)、を”Die My Love” (2025)に続いて、いや消費され続けるゴミ男、にまでスコープを延ばせば”Mickey 17” (2025)の頃から演じ続けているRobert Pattinsonはすごいなー、って思った。
ラスト、やっぱりRachelは銃を手にして… になったら最高だったのに。”One Battle After Another” (2025)の時と同様、Alana Haimはあっさり。
あと、NYの美術館の上級キュレーターで、マンハッタンのタウンハウスに住んでいるような男が、若い頃とは言えあんなふうにカフェでナンパしてどぎまぎしたりするものだろうか、とか。
8.30.2026
[theatre] 映画を撮りたいゾンビの演劇
8月18日、火曜日の晩、東京芸術劇場で見ました。月一回は見たい演劇シリーズ。
同劇場の舞台芸術部門芸術監督に就任した岡田利規の作・演出による就任第1作、とのこと。
初演はドイツのハノーファー州立劇場のレパートリーで、”Sliding Away”として上演されたものを日本版スタッフ、キャストで、このタイトルで再構成したもの。
舞台のほぼ真ん中に半ば破棄されたようなぼろい車が置いてあり、映画によく出てくる道端で乗り捨てられた車 – 乗っていた人たちはどこかに消えた、喰われてしまった… ことを想像する。上部には英語字幕が投影されていく。
そこにゾンビのメイク - 崩れた青塗り顔とか - をした5人のゾンビが現れて、ゾンビ映画を撮るにあたって人間のメイクにすることの大変さ - 3時間半かかる – 等から始まるゾンビたちそれぞれの、なんで自分たちはここに、こんなふうにあらされているのか、についての苦労やら徒労やらが語られる。
その際に何度も取り上げられるのが人間とゾンビのありようの「非対称性」で、それはゾンビが人間によって創られたものである以上どこにでもついて回るものなのかもしれないが、この議論は、たんに人間 vs. ゾンビという対立項だけでなく、見るもの - 見られるもの、例えば「正常性」(のルールや規範)を定義するもの – されるもの、男性と女性、映画と演劇、等あらゆる領域に及んでいって、止まることがない。
この防ぐことのできそうにない止まらなさは、理不尽に増殖を続けていくゾンビのありように関わるのかもしれないが、そういう状態を維持しつつ、いつまでたっても映画の撮影は始まらない。まるで「ゴドー」のように待つしかない状態で、その不条理感もまた…
ゾンビが固有種のようなものとして世界に実在するとしても、彼らの形象や仕様を生みだしたものは映画だと思われるので、非対称性について云々するのであれば、まずは映画からだ! だからとにかく映画を撮るのだ、というのが今回の視点力点と思われるのだが、ゾンビ映画も、そこで描かれるゾンビも多様化の波にさらされていて、なにをもって非対称/対称の軸とすべきなのか、それを決めるのはどこの誰になるのか、など、途方に暮れないわけにはいかないあれこれが原っぱには横たわっていて、彼らと同じように立ち尽くすしかないのかもしれない。
そして、それ(非対称性)をライブで訴えられる客席にいる我々もこれらについて(へたしたらゾンビに襲われてしまうかもしれない)緊張感をもって考えることになり、いろいろ考えたり考えに晒されたり、こういうの、おもしろい人にはおもしろいのかも知れないが、演劇としてどうかと言えば、どうなのだろうか? 「映画を撮りたいゾンビ」の話を演劇でやっても、それは演劇の話になってしまう。 「映画を撮りたいゾンビの映画」(既にあったような、ヒットしたやつ。見てないけど)、あるいは「演劇をやりたいゾンビの映画」という設定にした方が、おもしろくなったのでは。
これが例えば初演されたドイツだったとしたら、リアルな移民問題や過去にはユダヤ人の話が、あるいはそれなりに可視化されている格差・貧困の話などを背景に、視点を示しやすかったのかも、とか。あるいはイギリスだったら幽霊がふつうに徘徊している土地なのでー、とか。
日本だったら思い浮かぶのは働きすぎ仕事漬けのゾンビとか.. でもそんなの仕事をやりくりして演劇を見にいく人が一番見たくないやつではないかしらん、とか。 その辺を笑い飛ばせるようなナンセンスのどたばたぐしゃぐしゃが広がってくれれば、だったのだが、そんな不真面目を許さない生真面目さ、空気も含めて演出されているようでうーむ、だったり。
8.27.2026
[film] Midnight (1939)
8月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラのBilly Wilder特集で見ました。
監督はMitchell Leisen、脚本はCharles Brackett & Billy Wilder。邦題は『ミッドナイト』。
アメリカ人の踊り子Eve Peabody (Claudette Colbert)がモンテカルロですってんてんになった状態で土砂降りのパリに列車で着いて、そんな彼女を拾ってくれたハンガリー人のタクシードライバーTibor Czerny(Don Ameche)に頼んでパリじゅうのナイトクラブを回ってもらい、そこで仕事が見つかったら運賃倍払うから、って走っていくのだがそう簡単にはいかず、Tiborからは夜遅くなったしうちに泊まれば、って誘われるのだが、それはよくない、って別れて、ブラックタイでサロンのコンサートをやっているところに質札をチケットに見せかけて潜りこみ、身元がバレそうになったところでブリッジをやっている部屋に逃げこんでテーブルを囲んだら見事にボロ負けし、そこでなにかと助けてくれたのが謎の紳士のGeorges (John Barrymore)で、なんでなの?と思ったら彼の妻Helene (Mary Astor)とよい仲になりつつある富豪のプレイボーイJacques (Francis Lederer)をEveの方に惹きよせて、ふたりの仲を断ってほしい、成功報酬もだすよ、と。こうして「チェルニー男爵夫人」になりすましたEveは、リッツホテルで身バレの危険と玉の輿の間を綱渡りしつつがんばっていると、彼女のことが忘れられなくて運転手仲間を焚きつけて追っかけてきたTiborも絡まって勘違い/思い込みトライアングルが回りだして止まらなくなる。
ノラ踊り子、タクシー運転手、上流階級を跨って互いに足を引っかけ騙しあっていくスクリューボールコメディで、John Barrymore(Drewのおじいちゃんね)はもちろん巧いし、”Cocoon”(1985)が大好きだったDon Amecheも堂々としてて見事だし、なにより緩急自在なコメディエンヌとしてのClaudette Colbertの素敵なとこが前面に出ていて、全員のアンサンブルがとにかく楽しくてはらはらで、これだから昔のってすごいなーって。(National Film Registryにとっくに登録されていた)
The Bishop's Wife (1947)
8月17日、月曜日の晩にシネマヴェーラで見ました。
監督はHenry Koster、Robert Nathanによる同名Novella (1928)を原作に、アンクレジットでCharles Brackett & Billy Wilder組が参加している(後から書き直しで入ったらしい)。地味に凄い魔法を使っていそうな(いる)撮影はGregg Toland。 邦題は『気まぐれ天使』。
これはBFIのクリスマス映画特集で見たことがあって、見終わった後に客席みんなで拍手して、ふううーって鳥肌たてていたら隣にいたいかにもイギリス紳士ふうのおじさんから「いいでしょう?よいクリスマスを」って言われたことも憶えている。
司教のHenry (David Niven)がいて、妻のJulia (Loretta Young)と娘のDebbie (Karolyn Grimes)とでっかいわんわんが教会の横で暮らしていて、Henryは地域の大聖堂の建設資金集めに富裕層の間を日々奔走して家族のことを構う時間がなくて、そんな彼のところにDudley (Cary Grant)が現れて自分は天使なのです、って言って – でもJuliaとか他のひとには言わない - 彼の横できらきら奇跡のようなことをいろいろ施して去っていくの。
JuliaもDebbieもDudleyのことが大好きになるのだが、JuliaとDudleyはぎりぎりで恋仲にはならずに - Bishopの妻だから - 離れていく – あたりの切なさ儚さがクリスマスのそれと重なって素敵に降りてきて、でもそれだけじゃなくて、なによりも「みんな - 富豪のひとも貧乏学者も子供たちも - よいクリスマスをね!」の思いが雪のように淡い光となって覆いかぶさってくるところがたまんないのだと思う。
とにかくそのみっしりとした存在感も含めて明らかに怪しくてちっとも天使っぽく見えないCary Grantが自分は天使ですよ、って朗らかに告げたりするうさん臭さ、それを受けてぴくぴくしながらも(司教だから)毅然とやりとりしようとするDavid Nivenがたまんなくおかしくて、でもあんなふうでも天使で、この辺は“It's a Wonderful Life” (1946)と同じようにろくでもないけど天使は天使、なんだからありがたく思え、っていうのと似たようなものかしら?
8.26.2026
[film] 左撇子女孩 (2025)
8月16日の午後、新宿武蔵野館で見ました。 アイダホから台北へ。
邦題は『左利きの少女』、英語題は”Left-Handed Girl”。
監督はこれまで多くのSean Baker作品にプロデューサーとして関わってきたShih-Ching Tsou、共同制作、脚本にはSean Baker、編集もSean Baker。書かれたのは2010年だそう。 全編iPhoneで撮影されている。
母のシューフェン (Janel Tsai)は娘のイーアン (Ma Shih-Yuan)とイージン (Nina Ye)の母娘たちが車で台北の町にやってくるところから始まる。アパートらしき住処に入って、母は夜市の屋台の一角を借りてヌードル屋として働き始めて、イーアンはビンロウの売店で売り子を始めて、イージンはふたりの間をおとなしくぷらぷらしている。
ここまで、台湾の繁華街の雑踏のきらきら、ざわざわしたかんじ、そこに分け入っていくかんじが素敵なのだが、シューフェンは無口で、がんばっていこうーの元気も覇気もなく、昔に別れて病で亡くなった夫の借金を裏でどうにかしようとしているし、やはり不愛想なイーアンは、成績は優秀なのに上の学校にはいけずに将来どんよりで、店主と関係をもってずるずるだし、イージンは実家の祖父から左利きの左手は悪魔の手だ、使ってはならない、とか叱られるように言われてしまい、全員がそれぞれ自分の意思とは異なるどこかのなにかに引っ張られ縛られてしょーがないじゃん、て動きが取れず、それでも生きていかないと、になって、他を思いやっている暇なんてありゃしない。
やがてイージンは悪魔の左手を、これは悪魔の手だから自分のじゃないしと思ったのか、屋台を歩きながらいろんなちっちゃいブツを万引きするようになり、はらはらするのだが悪魔のせいだからとへっちゃらで、イーアンは妊娠してしまったらしく、やがて祖母の還暦祝いで家族親族が集まる宴が近づいてきて。
日本も同じようなかんじかもしれないが、市場に活気はあってみんな大声で元気に屋台で食べたり集まったり、日々の商売は大事だから寄ってたかってわいわい盛りあげて日々を過ごしていくものの、みんなそれぞれに自分の悩みを星のように抱えて見上げるしかなくて、それは幼いイージンにだってやってくる。折角ミーアキャットと友達になったのに、とか。彼女も含めて、そんな女性たちのそれぞれのクラッシュが溝口の映画のように並べられて、それが最後に爆発.. とまではいかないが、溢れかえってとんでもないことになる。 そんな女性映画として見るのが正しいのかも。
それらはぜんぶ家父長制起因の家のメンツとか体裁とか、そういうののひと揃えで、イージンの左手だってそうだし、妊娠したイーアンのところにあのタイミングで怒鳴りこんでくる店主の妻もそうだし、そしてその流れからのイーアンの最後のぶちまけも、場所とイベントを考えたらこんなに痛快かつ適切なことはないし、忘れられないものとして刻まれる。 もちろん、そんなことをしたからって翌日から暮らしが楽になるなんてことはないのだが、なんかすっきりしたぜ、にはなるかも。
ただ、せっかく夜市が舞台なのに、ちょっと閉じちゃっている感があるのがなー。もっと近場にはいろんな変な人、恐い人とかうじゃうじゃいるはずで、そういう中でイージンの「悪魔の手」を活かすこともできたはず。 あとちょっとがんばれば川島雄三になれたか、な?
でも最後、三人がiPhoneの画角に収まっている絵はなんだかとってもよいの。
あと、ミーアキャットって、飼えるの?
8.25.2026
[film] My Own Private Idaho (1991)
8月16日、日曜日の午後、シネマート新宿で見ました。 4Kリストア版でのリバイバル公開。
邦題は『マイ・プライベート・アイダホ』。 “Own”を抜いてしまってよいのか?
とても有名な作品なのにこれまで見たことがなくて、それを言うなら『ショーシャンク』とか『スタンドバイミー』とか『レオン』とか、なにひとつ見たことがないので、自分は映画についてなんか書いたりしてはいけない人間なのだ、と思いつつずっと書いたりしている。ほっといてほしい。
監督はGus Van Sant、知らなかったが原作はシェイクスピアの『ヘンリー四世 第1部』『ヘンリー四世 第2部』『ヘンリー五世』を緩く基にしたものだという。
1991年のヴェネツィアや全米映画批評家協会での最優秀男優賞をはじめ、いろいろ沢山受賞している。
男娼のMike (River Phoenix)はナルコレプシー - 場所と時間を選ばず発作のように強い眠気に襲われてその場で落ちてしまう睡眠障害 – を患っていて、冒頭、あたりに何もない道端で遠くに広がる道を見て、「人の歪んだ顔みたいだ」とか呟いたりしているとそのまま落ちてしまう。
シアトルで年配の女性から声を掛けられて彼女の邸宅にいくと、そこには親友のScott (Keanu Reeves)もいて、でもコトに及ぼうとしたところで彼はナルコレプシーで落ちて、目が覚めるとシアトルにいたりする。こんなふうにアイダホ、ポートランド、シアトル、最後のほうではローマまで瞬間移動するかのように、場所を変えていく。これらの移動に彼の明確な意思はなく、定住するわけでもなく、肝心なときにナルコレプシーで落ちてしまうのと同じような、否応のなさがあって、でもその根底には原風景のようなIdahoの、My Own Privateな道路と原野が広がっている。
根無し草でその日暮らしのMikeと、お金持ち市長の息子でよい毛並みで今はふらふらしているけど、やがてシェイクスピアよろしく親の後をしっかり継ぐであろうScottの振る舞いは、根本から相容れるものとは思えなくて – というかMikeはすぐ寝ちゃうし -で、どちらもやがてそうなることはわかっていて、そんななかで彷徨いと汚れ、酩酊と昏睡が繰り返されて、それらは何ひとつ生み出さないゴミ(結果きれい)みたいなもんで、それらがたまんなく素敵に見えるのだが、重ねて中心のふたりがRiver PhoenixとKeanu Reevesなので、つい何かを託したり夢想したくなったりするのかもしれない。 でも見事になにもない、やや見栄えのよい雑種と血統書付きの犬ころが同じ画面のなかにいてじゃれたりしている、それだけのー。
これが”Gerry” (2002)までくると、Matt DamonとCasey Affleckなので、なにをどう振ってもなんも生みださないノラの、ただの殺伐とした砂利の空っぽの台地くらいしか広がっていないのだが、ここに来るまでに10年かかった、ということなのか。
あとこの頃はグランジもあって、みんなが自分のゲロとか晒して、ゲロの可能性と緩めの孤独に賭けているようなところもあり、そういうなかでのクィアとか、郷愁とか、とても画面はきれいなのだが、とにかくいろいろ込められていることは確かかも。所謂ロードムービーの終焉なども。
こんなのこぎれいな白人男性のファンタジーじゃん、と思うところもあるので、例えば黒人キャストだったら、ナルコレプシーで寝入ったら略奪されて殺されてしまうかもだし、都市はシカゴとかディープサウス辺りとなり、シカゴだったら路上で凍死してしまうだろうし、ものすごく切実できついお話になるのではないか、などと想像したり。
でもあのラストはいいなー。彼はまだたまにああやって道端に転がっているのではないだろうか。