10月3日、土曜日の夕方、東京日仏学院エスパス・イマージュで行われている特集『シャンタル・アケルマン映画祭2026 『母が笑う』刊行記念』で見ました。
Chantal Akermanの映画はこれまでの特集 - 一番古いのは前世紀のアテネの - とイギリスでコロナのロックダウンになった時に、いま見れるものは(たぶん)ほぼ見ているので、今回の特集は好きなのだけをつまんで見ていくことにする。
62分、サイレント、字幕もなにも入らないドキュメンタリーで、彼女の最初の長編。撮影のBabette Mangolteと組んだ最初の作品でもある。
Hotel Montereyは、NYのアッパーウェスト - 住所は215 W 94th Street。Broadway沿いにあり、現在も名前を変えてどこかのチェーンのホテルとして営業しているようだが、90年代を過ぎても治安はそんなによくなかったエリアで、昔の映画だと”The Naked City” (1948)とか、”The Panic in Needle Park” (1971)とか、そういうやばめのが撮られた界隈にある。
そんなエリアに建つホテルに滞在する人々も安全第一を求めてはいなくて、そういうところに滞在したChantalとBabetteはここで映画を撮り始める。多くの人が当時のNYの実験映画の前線 - Michael Snowなどからの影響を指摘しているが、Chantal自身はそれらからの影響は認めつつもそんなでも、と言っているし、そもそも知覚や認識をどうにかしたれ、のような「実験」の姿勢と本作から見えてくるものは随分ちがう気がする。
固定されたカメラをホテル内から入口の方に向けてとかエレベーターの前とかに置いておく。最初は何が映っているのかよくわからないのもあり、(まるで幽霊のように)人が通ったりすることでその色 - 明暗、距離感とか、調度の配置などがぼんやりと浮かんできて、そうやって「ホテル」という「家」とは異なる都会の建築構造物のありようとか特性が見えてくる。通過と定住の間を行き来する壁や柱などで仕切られた空間。この作品を見る殆どの時間は、そんな空間を空間としてどう把握する、どこまで把握できるのか、等を頭のなかで転がしていくことに費やされるような。
カメラは下から上に移動していって、最後は屋上に出て、ハドソン川やBroadwayを見渡してゆっくり横に回ったりもする。 『眺めのいい部屋』的なヴューを求めて、というよりは、非常口を抜けたらここに出たけど、あとは飛び降りるしかないのか? のような「おわり」感まで漂っている気がするのは気のせい?
La Chambre (1972)
11分の短編で、これもサイレントだが、”La Chambre 2” – こっちは見たことないかも – の方にはサウンドトラックがついているらしい。
当時彼女が滞在していたNYのSpring Streetのアパートで撮影された2テイク。 マンハッタンの北にある”Hotel Monterey”、南にある「部屋」、パブリック vs. プライベート。いろんな点で対になっているような。
“Hotel Monterey”のカメラは主に上下に動いていくが、こちらのカメラはゆっくりと回転していって、そこにベッドに寝転んでこちらを見ているChantalが映って、2回転めくらいではリンゴを齧っていたりする。とにかく部屋の散らかりよう、ごちゃごちゃが見事で、美しいかんじすら漂っていて、どうしたらこんなふうにできるのだろう、と。
部屋(空間)のなかにひとがいる、それを見る、その状態・様態をカメラがとらえて、それを見ている我々が把握するというのはどういうことか、は後の”Jeanne Dielman...” (1975)に繋がっていくし、寝転んで食べる、というのは、後の”Je Tu Il Elle” (1974) の紙袋から砂糖むしゃむしゃ、のシーンに繋がっていくので、この” Hotel Monterey”と”La Chambre”はものすごく重要な、サイレントであることも含めて、これからの見取り図、テンプレートのようなもの – 特に”Jeanne Dielman...”で顕著にあらわれる部屋のなかで誰かが動いている、何かをしている、それってなんだ? っていう、画面の奥、その向こうを探っていくような、彼女の映画を見る時に湧いてくる不思議な感覚は既にあって、これってなんなのだろうか、って…
10.13.2026
[film] Hotel Monterey (1973)
10.12.2026
[film] ファーストボイス (2026)
10月4日、日曜日の夕方、新宿ピカデリーで見ました。
脚本は橋本裕志、監督は前田哲。
好景気に浮かれていた1989年の日本で、最初のセクシャル・ハラスメント裁判に臨んで勝利した女性たちのお話をinspired by true events で描いたもの。
これまで基本、この時期に作られた、この時期を描いた邦画は見てこなくて、なぜならやっぱりファッションとかやりとりとかどうにも恥ずかしくていたたまれなくなるから。特に女性のメイクとかボディコンシャスと言われていた頃のファッションとか。みんなが軽薄で浮かれていることが許された時代だったから、であるし、これは日本だけではない、全世界的な傾向であったこともわかっているのだが、それでもこの国の場合は。
屈辱的な敗戦〜安保の敗北を経ての高度成長期、みんなが猛烈に働いてがんばって、それが日本を経済大国に押し上げて、その行き方・行き末に異議を唱えるものなんていない、誰もが深く考えない/みんなと同じにしていればよい、というありようを象徴する、そのなれの果てがあのファッションで、なにを着ようが勝手だろ、は当然だとしても、ああいう格好で会社に行った女性たちが男性社員のためにお茶汲みとか事務全般なんでも、をやらされて待遇でも給与でもすごい男女格差や制限があって、それを誰もなんとも思わず、居酒屋の無礼講以外では声もあげていなかった。(それをなんだかんだよかった、と回顧するじじいの今だに多いこと。この世代のなれの果てがよりによって首相としてこの国をなんも考えずに破壊しようとしていること、など)
そんな時代の、そんな腐れたオフィスで執拗な嫌がらせを受けた末に仕事を奪われる(いちおう自主退職にしておいてやるよ)という性別に起因する差別 - ハラスメントが起こって、編集者の仕事を奪われた上原恵(ファーストサマーウイカ)が女性弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の事務所に駆けこんで、他の弁護士や女性支援団体の支持も受けて、ここを崩すのは極めて難しい、と言われていたケースに勝利するまで。
どうして難しいかというと、当時の日々のビジネスの習慣や慣行、進め方働き方とあまりに普通に無反省に結びついたり基礎になったりしていて、劇中の台詞にも(たしか)あったように「こんなことで目くじら立てていたらビジネスが成り立たなくなる」ようなレベルのことに見えたから。だから当然のように、原告の行動や振るまいにそもそも落ち度があったのではないか、ってそっちに目が向けられたり。
360°こんなふう、当時の職場や男性社員、メディアの風向きがどんなだったかを知るものが見ると、たぶんものすごくその通りすぎてうんざりがっくりするし、知らない人が見ると中世か… のようだろうし、見ていて楽しいエンタメにはなっていないと思うが、でも本当にあんなもんだったんだから。
と思っていた者にとって、具体的なケースや審議に沿う形できちんと表に出してくれるので、やはり偉大かつ重要な裁判だったのだなあ、と思うし、これがなかったら - グローバルの流れもあったのでそれなりに変わっただろうとは思うものの - どうなっていたことやら、って。
↑のビジネスが成り立たなくなる発言ではないが、日本経済の今の長い不振停滞は結構この辺のこととも関連あると思っていて、昔はハラスメントやり放題の豪傑マンが強引に推し進めていたやり方が世界のどこでも通用しなくなった、というのが大きいのではないか。行動原理の礎のところまで染みこんでいたやり方(恫喝とか)を根から変えていくには時間がかかるし。
見方を変えれば昔より少しはましに、よくなってはいるのだ、ということもできる - でも今の経営の中核を担っている層はバリバリだった連中に洗脳された世代なので油断ならないけど - 政治の世界も同じか。まだまだよね、など、いろいろ考えさせられたので、みんなに見られてほしい。ハリウッドの法廷ドラマと比べたらへなちょこで、もっとかっこつけてよいのに、とか思うけど、これでも十分。
あと、いまの企業のコンプラ問題って、だいたいにっぽんのヤンキー文化(虐めとかやっちまったもん勝ち)と飲酒文化(呑んで忘れればOK)と地続きなので、ここからどうにか、ってしようとすると結局いまの政治風土に行き着くんだよ。だから政治をどうにかしないと、なの!
[film] Balada de um Batráquio (2016)
10月3日、土曜日、午前にシネマリスで『未知との遭遇』を見た後、ふらふらしながらアテネ・フランセ文化センターの坂をのぼって、午後からこの週にやっていた『現代ポルトガル映画傑作選2026』で見ました。最終日。
11分の短編 英語題は、”Batrachian’s Ballad”、邦題は『とある蛙のバラード』。
92年生まれのLeonor Telesの2作目。2016年のべルリン国際映画祭で短編部門金熊賞を史上最年少で受賞している。
ドキュメンタリーで、冒頭に昔々、すべての生き物は自由で平等で互いに寄り添うことができて、みんなが一緒に踊って幸せだった – のにお祝いに蛙だけが招かれなくて、蛙は絶望にかられて死んでしまった、という寓話が語られる。
ポルトガルでは「ロマ人立入禁止」のしるしとして、店先に陶器の蛙を置く風習があって(そんなのまったく知らなかった)、父方の祖母がロマ系である監督は、「そんなつもりじゃなかった」などど言われることは百も承知のうえで、それぞれの店に対して一軒一軒アクションを起こしていく、その記録。彼女が店の入り口に踏み入って、そこにある蛙の置物を手に取って、それを外の路上に叩きつけて壊して、逃走する。それだけ。アクションは一瞬で終わるのだが、入り口にある蛙の破壊が連続していくことで、なんとも言えない感覚をよびおこす。こんなに沢山の蛙とその数だけの絶望が店先に晒されている…
矢野顕子の『ふりむけばカエル』を流してほしかったかも、ってちょっとだけ思った。
あと、さっき見てきた”Digger”の最後もカエルの合唱だったな…
Terra Franca (2018)
↑のに続けて見ました。 英語題は”Ashore”、邦題は『水際』。原題をそのまま訳すと「率直な、自由な土地」、英語題だと「岸にあがって」くらい。
同じくLeonor Teles監督の長編第1作 - 80分。監督の故郷であるテージョ川沿いにある漁村 - Vila Franca de Xira - ヴィラ・フランカ・デ・シーラに暮らす漁師の一家の日常 〜 娘の結婚式に向かうあれこれを写し取ったドキュメンタリー。びっくりするくらいよくて、José Luis Guerínの『よき谷の物語』を思い起こしたりした。シネマ・デュ・レエル映画祭でSCAM賞のほか、多数の賞を受賞しているそう。
漁師で父親のAlbertinoは寡黙で70年代のBurt Reynoldsを崩したかんじのおじさんで、ひとり小さな舟に乗り込んで、毎日仕掛けた仕掛けの結果を見て、ぜんぜんだめっぽいのが続いてうううむー、なのだが文句を言ってもしょうがないので喋らずに腕を組んで遠くを見てばかり、更にここに自治体の環境規制や漁獲規制の話もあるので、どうしたものか、って更に固まっていくのだが、やはりどうすることもできなくて、黙るしかない。そんな彼の前に広がる川の、水の、すばらしい広がりときたら。
仕事はそんなでも家に帰れば妻のDáliaがいて、既に赤ん坊がいるけどもうじき結婚式をする予定の娘がいて、式や新しい生活に向けた準備あれこれと際限のないお喋りがあってなんだかんだ慌ただしく、こんなものかな、になっていく。
そんな家族の真ん中にカメラを置いて、インタビュー形式で語らせるのではなく、彼らがリビングやカフェで勝手に喋ったり言いあいしたりを撮って録っているだけで、特にすごい事件が起こったり感動的なストーリーやエピソードが語られたりするわけではないのだが、とにかくおもしろいったらない。
最後の結婚式も、ごく普通にみんなが笑って祝福している家族の集まりで、みんなずっと喋ったり踊ったり、その横でカメラを回している、それだけなのになんだかじーんとしてしまうのはなんでだろう? 『よき谷の物語』もそんなかんじのだった。自分のこれまでにもこれからにも、一切関係なかった、これからもないであろう人たちの声、語り、笑い、がなんでこんなに近くにやってきてくすぐってくるのか?
エンドクレジットで家族のスナップショットのバックにBill Withersの”Lovely Day”が流れてくるともうそれだけで…. ずるいや..
10.09.2026
[film] Disclosure Day (2026)
10月4日、日曜日の昼、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 本国公開から4カ月遅れてようやく。
一応備えというか、振り返りというか、前日3日の朝に、シネママリスで”Close Encounters of the Third Kind - Final Cut” (1977)を見ておいた。劇場で見るのは4回目くらい、最初に見たのは日本公開時の小学生のときで、この時は盛りあげを狙ったのか”Star Wars”か『未知との遭遇』か、みたいなのがあり、周囲には「未知との遭遇」の方が断然おもしろいよ、と言っていた。実際そう思ってて、そう言いながらSWに通いまくっていたのだが。
宇宙人との遭遇を描く、というより宗教の話 – なにを信じるかというより、信じているもののありようを開示する話、だと思った。おもしろいおもしろくないで言うと、すごくおもしろかった。
脚本David Koepp、監督Steven Spielberg、撮影Janusz Kamiński、音楽John Williams。
冒頭、プロレス興行が行われている会場からDr. Daniel Kellner (Josh O'Connor)が恋人Jane (Eve Hewson)と一緒に車で逃げだす。 彼はアメリカ政府の下請け業者Wardex (Waived Reporting, Development, and Extraction)のサイバーセキュリティ専門家で、そこから持ち出したアーカイブ一式と怪しげなデバイスのようなブツをもっていて、彼を導いていくのはWardexを抜けた彼の元上司のHugo (Colman Domingo)、彼を追っかけていくのはWardexのヘッド、Noah Scanlon (Colin Firth)。かつて修道院にいたJaneは、Danielと一緒にそこに匿ってもらい、彼の抱えているモノの中身となんで追われているのかを聞くと動揺する。
カンサスのローカルTV局の気象予報士Margaret Fairchild (Emily Blunt)は、出勤前にアパートのキッチンに迷いこんできたカーディナル - 赤い鳥と目が合ったらちょっと眩暈がして、そこから仕事場に車で向かう途中、交通違反で呼びとめられた警官の心に暖かく触れてしまったり、北朝鮮情勢で緊迫している局内の関係者をロシア語と韓国語で落ち着かせたり、更に生放送中に、ヒトの言葉とは思えない変な音声を発声して自分でびっくりする。(聖霊降臨)
TVであんな声を発してしまってから、Wardexはあいつだ、って彼女の方も追い始めて、Noah自らが変なデバイスを握りしめ憑りついてぼろぼろに消耗しながら突きとめようとするその場所には、Noah(と元Wardexのスタッフたち)がある施設を作りあげていて、それはやがて到来するその日その時 – Disclosure Dayに向けたものだった。
約束の地と時に向かって走る啓示を受けた者とそれを阻止しようとする者の追いかけっこで、その過程で誰がなんのためにそんなことをしているのかが見えてきて、そうやって見えてくるものに大きな驚きはなくて、どちらかというとやはりこういうことだったのか、に落ち着いていく。 『未知との遭遇』でも、約束の地、あの晩、は決まっていて、そこに向かう追いかけっこはあったが、その情報を持つものの立場、優位性のようなもの、は逆転している。そこの落ち着き(落ち着かせ)かたが過去のSteven Spielberg作品と比べるとあまりにわかりやすすぎ、座りがよくない、つまんない、唖然とするようなものがない、ということなのではないか。
Spielbergは過去の自作で何度も地球には宇宙人がいる/きているのだ、ということを描き続けてきて、よくわかんないけど追っかけていく対象だったり、友達になるものだったり、襲ってくるものだったり、古代からずっといるものだったり(まだありそう)するし、それは他のハリウッド映画でも同様なので、映画のフィクションとして”Disclose”したところで、今さらふううん程度でしかないし、そこに重みを持たせるには宗教(キリスト教)的な啓示(覚醒~伝搬~迫害~開示)や象徴(カーディナルも雄鹿も狐も)に重ねて委ねて、でっかいストーリーとして語ってみることだったのでは。
この映画で示される開示がどうして宗教的な認知や啓示の更新に繋がる(懸念のある)おおごとなのか - おおごとと言えるのか、とか、最後に出てくるリンカーンの椅子に座ったあれを、この時期が到来するまで維持したりケアしたりしてきたのはどこのだれだったのか、とか、最後の一言とか、あえてぼかしているところもなー。
MargaretがTVであの声を出して、それがブロードキャストされてしまったことで、他にも同様の人々がいっぱい湧いてくるとか、感応した動物たちがわらわら立ちあがるとか、ノアの箱舟とか、それくらいのスケールのやつを期待したのだが。
ラストで開示されていく映像のなかには『未知との遭遇』のもあった。”Independence Day”のとか”Paul”とかも出てきてほしかったのに。
でも、追いかけっことぐるぐる動きまくるカメラとEmily Bluntがとにかくおもしろい。それだけで十分ではないか。
10.08.2026
[film] Violent Saturday (1955)
9月29日、火曜日の晩、シネマヴェーラの「映画を輝かせるために」特集で見ました。
監督はRichard Fleischer、邦題は『恐怖の土曜日』。90分。 低予算カラーのシネマスコープ。
何度でも書くけど、今回のこの特集が痛快としか言いようがないのは、「映画を輝かせるために」と題されて集められた映画が、ろくでなし、ごろつき、犯罪者など、社会規範から外れたことばかりしている連中のしょうもない所業ばかりを活写した、それ自体が映画文化の端にも引っ掛からなさそうな、一見どこからどうみても「輝かせる」なんておこがましい、そんな作品ばかり(そうじゃないのもあるけど)が並べられていることで、こういうのはずっと街の片隅で、いつでもだらだらと見られるようにしておいてほしい。 ロンドンのPrince Charles Cinemaがやっているようなかんじで。NYのFilm Forumみたいにおいしいポップコーンとキャロットケーキがあって。
銅鉱山がある小さな田舎町に、列車に乗って3人組の銀行強盗(Stephen McNally, Lee Marvin, J. Carrol Naish)がやってくる。銅鉱山の支配人(Richard Egan)は浮気性の妻を抱えてどうしたものか、になっているし、同僚のSherry (Victor Mature)は、よき父親ふうだが、彼の息子は第二次大戦に行かなかった父親を恥じているし、銀行の支配人はしょうもない覗き魔だし、図書館員のElsie (Sylvia Sidney)は借金返済のため盗みを働こうとしている、そんな中に立ちあがる犯罪映画、というよりはふつうにそこらで働く人たちがそれぞれに抱える日々の凸凹のどこか、ある土曜日の昼間に、いきなり銀行強盗が割って入ったらこんな… というアンサンブル劇。
車の乗り継ぎで農家にやってきた強盗たちにSherryひとりが納屋の影から立ち向かおうとして、傍にいた農家のアーミッシュの家族に手伝ってくれ、というが暴力はいけない、って宗教的に断られてしまい、でも、というあたりはたまらない。すべては劇的でもなんでもなく、あっという間のあれよあれよ、で立て続けに起こって、でも元に戻ることはない。亡くなった人は戻ってこないし、旅行の計画は宙に浮いたまま... 後悔まみれのあなたに、だからといってどうしろというのか、を軽く投げてくる。 そんなヴァイオレントな土曜日。
ここから銀行強盗要素を抜いてみたら構造としてどんなふうになるのか、見えるのか、っていうあたりからアルトマンの群像劇は始まったのだろうか、とか。
Suddenly (1954)
9月30日、水曜日の晩に、↑と同じ特集で見ました。
たるいったらない火曜日と水曜日の晩、会社帰りにこんなのばかり見ていたらすべてどうでもよくなってしまう。
監督はLewis Allen、邦題は『三人の狙撃者』。77分。
↑のも、のどかな田舎町で起こった3人組による強奪で、こちらも3人組による狙撃で、見て一週間経ってしまうとどっちがどっちだったか? って混同しがち。 ↑のはLee Marvin vs. Victor Mature、こちらはFrank Sinatra vs. Sterling Hayden、銀行強盗 vs. 大統領狙撃、どちらも金めあて。
冒頭、”Suddenly” っていうのは町の名前なんですよ、って説明が入る。 「いきなり町」。
カリフォルニアのこの小さな町にアメリカ合衆国大統領の列車が停車することになり、駅を見下ろす丘の上に建つBenson家 – 戦争で夫を亡くしたEllen、その幼い息子、義父の3人が暮らす - に大統領到着前の警備チェックを行うFBIの警護官と名乗る3人の男が現れて、でもこいつらが狙撃犯で、そこに本物の大統領の警護官と地元のシェリフのTod (Sterling Hayden)が現れると、連中は簡単に警護官を撃ち殺して、Todも腕を撃たれて、狙撃犯のリーダーのBaron (Frank Sinatra)はテンション高くべらべら喋って家族を脅しながら銃を据え付けたりしていく。
そこにたまたまTVの修理で電気屋が来たり、引き出しにあるおじいちゃんの銃をどうにか、とか、でもどれもこれもうまくいかなくて、駅の方に様子を見に行ったひとりが撃たれて(これはまぬけすぎ)、部屋の中では電気屋が仕掛けたコップの水のびりびりで…
スリリングなところと間抜けなところが絶妙に混在・交錯しつつ、一触即発のクライマックスになだれこむ... わけではなく、どちらかというとBaronのサイコパス設定の方が残ったりするのだが、とにかくぜんぶ予定通りにはいかないSuddenlyで、大統領を乗せた列車みたいに77分がびゅん、て。
Frank Sinatraはやっぱりうまくて、Sterling Haydenとのやりあいとか、たまんないの。
10.07.2026
[film] L'étrange Madame X (1951)
9月28日、月曜日の晩、シネマヴェーラの「映画を輝かせるために」の特集で見ました。
監督はJean Grémillon。 英語題は”The Strange Madame X”、邦題は『迷宮の女』。
Irene (Michèle Morgan)は出版社社長の妻として社交界の華だったが、体面とお金のことばかり気にする夫とは冷めて終わっていて、でも木工所で働く若者Etienne (Henri Vidal)と恋におちてしまい、身分を隠して自分は金持ちのお屋敷で働くメイドである、って嘘をついて、会えない時も仕事の事情で、って断ったり(それは正しいのだが)。
やがてEtienneの子を妊娠してしまったIreneは夫とも相談して隠れて子供を産んで(ちょっと無理あるよね)Etienneに託し、彼はそれをおじさんのとこに預けて、もう結婚しかない結婚したい、と押してくるEtienneにIreneも同意して、夫にもそれを告げる(夫は自分のビジネスにも影響するので当然いやだ、と)。
のだが赤ん坊が突然病気になって、大変な時にIreneがつかまらない – Etienneが思い切って彼女が働いているはずの屋敷に駆けこんだら彼女はメイドではなくゴージャスな衣装(by Pierre Balmain)を纏う女主人で、うそ… とか言っているうちに赤ん坊は亡くなってしまい、Etienneは彼女のもとを去って、彼女は…
『曳き船』もそうだったが、自分のことなんて屁とも思っていない夫のもとで鉄の仮面を被るようになってしまった女が、ようやく素敵な男に出会えた、と思ったのに、その男にもふられることになり、あーあ(でも生きていかなければ)。この、でも生きていかなければ - の冷たさを正面から受けてひとりで立っている姿がかっこいいの。男からすれば自業自得、って言われそうなところを、それがどうしたこれが自分だ、って返して、決して媚びを売ったり泣きついたりしないその面構えの見事なこと。(日本の女優だったら誰だろうか、ってずっと考えている)
映しだされる路地の風景が素敵でさー、通りの奥に向かってずっと走っていく黒猫とか、ベンチで泣き崩れるIreneの少し奥から現れてくる馬車とか、動く絵、としての痺れるようなかっこよさがある。
Remorques (1941)
9月26日、土曜日、シネマヴェーラの特集初日の4本目で見ました。
上映前に蓮實重彦さんのトークつき。ほんとどうでもよさそうな、他愛ないことをおもしろおかしく話して、でも映画の根幹のようなところはちゃんと掬って、枯れて何を言ってもおもしろくなる落語家みたいになってきたなあ、って。彼のこういうプレトークを最初に聞いたのはいつだったか。シネセゾン渋谷での記念碑的な上映となった「生きるべきか死ぬべきか』のオープニングの時だったか? あの時は横に淀川長治さんがいたなあー。 今回でた本、どうせなら『映画千夜一夜』もマージして四巻本とかにしてもよかったのに。
英語題は” Stormy Waters”、邦題は『曳き船』。原作はRoger Vercelの同名小説 (1935)、シナリオ/台詞にはJacques Prévert。監督はJean Grémillon。 もう何遍も見ている。
André (Jean Gabin)は嵐とかで動けなくなった船から救助を求められると海に出ていってロープで引っ張って救助する曳き船の船長で、面倒見もよいので自分の仲間からの信頼も厚くて、冒頭は自分の船の仲間の結婚記念パーティなのだが、雨天で救助依頼が入ったとたんに出て行っちゃうので、妻のYvonne (Madeleine Renaud)は心配で心配で、この晩の活動ではその船にいた船員たちの救助はできたものの、船はそこの船長が嫌なやつで向こうから勝手にロープを切断しやがったので、お金を取りっぱぐれたAndréはそいつを殴り倒す。
救助された船員のなかに、その嫌な船長の妻Catherine (Michèle Morgan)がいて、彼女も夫に愛想をつかしてもうあの船にもあいつのところにも戻らない、と言い張るので、心配になったAndréが気にかけていたら、ふたりは恋におちてしまい、でもその裏でYvonneは病に倒れて…
ずっと大雨で天気が悪かったり揺れまくる船の上だったり、結婚式のすぐ後に新郎が指切断とか、不倫に死別に「呪われた映画」ここにありー、としか言いようがないのだが、「曳き船」そのものが絶望のなかの光として現れるように、彼らが苦しんでどうしようもない状況にこそ生がばちばちと叩き出されてくる。 吹きっさらしの階段に容赦なく叩きつけられる雨のようなあれらがどうにもすごいったらなくて、名画を見る感動とは別に、生きていくのは大変だなー、の重さがじっとりやってくるの。 もちろん、「曳き船」なんて来てくれない…
[film] La venue de l'avenir (2025)
9月27日、日曜日の午後、『眺めのいい部屋』のあと、ヒューマントラストシネマ有楽町に移動して見ました。
英語題は”Colours of Time” - 邦題は『モネと時間旅行』。 客寄せだろうけど、「モネ」の名前を出すのはどうかと思うし、時間旅行をする話でもない、原題をそのまま翻訳すると「未来の到来」。 監督はCédric Klapisch。
現代のフランスの郊外の宝探しと、ベルエポック時代のル・アーブル/パリでの親探しの話が交互に行ったり来たりしていく。
現代の方では、巨大なショッピングモール建設計画の予定敷地内にある1944年から誰も中に入っていない家屋の取り壊し承認を得るために、その家を所有していたAdèle (Suzanne Lindon)の子孫たちが不動産会社によって大量に集められて説明会が開かれ、建設の邪魔になるので潰しちゃってよいでしょうか? って問うて、でもその家の中に何があるのか誰も知らないので、Adèleの直系の親族から4人の代表 - 教師のAbdelkrim (Zinedine Soualem), コンテンツ写真家Seb (Abraham Wapler), 会社の偉いひとCéline (Julia Piaton), 養蜂家のGuy (Vincent Macaigne)が選ばれて、初めて対面する4人が互いの腹のなかと家のなかを探っていく。
これと並行して、19世紀では、その同じ村のその家を出て列車と船を乗り継いでひとり母親探しにパリへと向かうAdèleの姿が描かれる。 Adèleに向けて生活費の仕送りだけはしてくれている母親を訪ねるべく公証人のところで住所を聞いて行ってみたらそこは娼館で、客の相手をしている母Odette (Sara Giraudeau)を見ていたたまれなくなって、旅の始めに出会った青年2人のモンマルトルの下宿に転がりこんで、せっかく来たのでしばらく滞在してみることにする。サラ・ベルナールなどにも会えたりするし。
現代の方では家の壁に貼ってある大量の古い写真とか油絵とかカンバス布に赤い線とか、アートっぽいものが見つかるが専門家でもないのでほぼガラクタにしか見えなくて、破棄してよいものか、になっていくのと、Adèleの方は改めてきちんと母と対面して、自分の父親は誰? と聞いてみたら、ふたりの候補がいると。 ひとりは写真家のナダール、もうひとりが画家の…
ここまで来たら、Adèleの家にあれらがどういう経緯で遺されていたのか、というのと彼女の父親はどちらなのか、を詰めていくのかと思ったら、4人が薬草 – やはりVincent Macaigne持ち込み – でナダールのアトリエで開かれた第1回印象派展のサロンにタイムスリップするとか、父親については、うーんこっちじゃない気がするとか、その程度のもので、それなら『マンマ・ミーア!』みたいな楽しいバカコメディにしちゃえばよかったのに。(最初からその程度に軽く見るべきだった?)
当たり前だけど、誰にでも親がいて祖先がいて、それらはずっと繋がっていて過去でも今でも未来に向かって開かれているのだ、というだけの話が、モネの絵とかショッピングセンターとか、結局お金とか資産の話から切り出されていくのはしょうがないのか。落ちるところが「あなたの大切な資産をお守りします」みたいな話になるのがどうにも。
結局Adèleはどっちの男と結婚したのか、とか、あの絵は結局慰謝料なんだから親族全員で分配すべきではないか(→戦争)、とかそういうぐだぐだに向かっていった方が楽しくなったのではないか。
それか、Adèleの父親(候補)がRenoirだったら、Cézanneだったら、Manetだったら、果たしてどんな絵が遺されただろうか、彼女の運命も変わったのではないか、とか。
それか、実はあの家のなかでAdèleの遺体が見つかって、それを見つけた親族も殺されて、現場に遺された絵具のタッチから犯人を捜してみよう! とか。
Vincent Macaigneがいなかったらどうなっていたことか。
10.06.2026
[film] A Room with a View (1985)
9月27日、日曜日の昼、ル・シネマの7階で見ました。 4Kリストアされた『眺めのいい部屋』。
封切り時には当然シネマライズに並んで見た。今にして思えばバカみたいだが、誰もがStyle Councilの”Shout to the Top” (1984)の12inchの裏ジャケットの世界に繋げて夢と理想を見つめてうっとりしていた季節。 約40年後、これのリストア版を文化が隅々まで粉微塵に駆逐されてゴミそのものと化してしまったその同じ街の、家電量販店の上階なんかで見ることになろうとは。映画なんかよりも街をまるごとリストアしてくれないものか。
原作はE. M. Forsterによる同名小説 (1908)、監督はJames Ivory、製作はIsmail Merchant率いるMerchant Ivory Productions。このプロダクションについては、2024年のドキュメンタリー映画 - ”Merchant Ivory”で歴史も含めて詳しく綴られていて、裏側の事情などもすごくおもしろいので見る機会があったら是非。
この後の“Maurice” (1987)や“Howards End” (1992)といったもう少し文芸作っぽくなる映画よりもふわふわぼーっとしているかも。「眺めのいい部屋」では、窓の向こうに広がる眺めを楽しむべきなのか、そうして置かれた部屋そのものを楽しむべきなのか揺れてしまうのと同じように、主人公のLucy Honeychurch (Helena Bonham Carter)は、結局あんた、どこで、だれと、なにをしたいのよ ?! の山や谷間で揺れまくって、とにかく落ち着かない。親戚のおばちゃんになってそんな彼女を眺めているだけの約2時間。
1907年、Lucyは年長の従姉妹であるCharlotte Bartlett (Maggie Smith)と一緒にフィレンツェのペンションに滞在していて、ふたは当初約束されていたアルノ川を望む眺めのよい部屋でなかったことに落胆して、それでぶつぶつ騒いで呪っていたら、なにをして生きているのか不明なMr. Emerson (Denholm Elliott)とGeorge (Julian Sands)の父子が自分たちの部屋と交換してあげましょう、と言ってきてそんなのいいのどうするの?って揺れるのだが交換して、でもそんな翌日、広場の喧嘩で男が殺されるところを目撃して気を失ったLucyをGeorgeが助けてくれて、その後、小説家のEleanor Lavish (Judi Dench)を含むイギリス人一同の遠出で、GeorgeがLucyに情熱的なキスしているのを見てしまったCharlotteは、これは母親とかに言ってはいけません、旅もこれで終わり、ってイギリスに帰ってしまう。
イギリスのサリーに戻ったLucyは冷淡で尊大で身分以外に取り柄のなさそうなCecil Vyse (Daniel Day-Lewis)からプロポーズされて、お家も身上も安泰になるから、とあっさり受けて、一応これでめでたしになると思ったら、Cecilの嫌味でEmerson父子が近所のコテージに滞在することを知って…
誰が誰を見初めたくっついたはなれたを内なるエモの暴走と想定壁への激突と諦めの一人称のなかに楽しく描いていくJane Austenも楽しいが、ここでのLucyの「部屋」と「眺め」を巡る一筋縄ではいかない、外面からはあまり窺うことのできない呻きや爆発、などが見事で素敵で、この辺は公開時に見た時には(自分が未熟すぎて)見えていないところだったなあ、って。Helena Bonham Carterの自在に伸縮して溢れだす髪の毛の見事なこと。
彼女の内側に張られた糸が惑いながら解れて回りだすイタリア-フィレンツェの眺め、それはイギリスの都市や田園のそれとは違うものだった、というのは実際に行ってあの川とかドゥオモとかを見て思い知るようなことで、その眺めのよさって、単に内から外を眺めるだけのものではなかったのだなー、って。
あと、Maggie SmithとJudi DenchとHelena Bonham Carterの3人が同じ画面に入っている、ってなんだかたまんなかった。
あと、Julian SandsとDaniel Day-Lewisの殴り合いとか素裸の水浴とか、あってほしかったかも。(Bridget Jones以降の)
10.05.2026
[film] The Spikes Gang (1974)
9月26日、土曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まった特集 『『映画を輝かせるために -蓮實重彦 山田宏一 山根貞男 映画談義集成』刊行記念特集』で見ました。
サイン本も欲しかったので早めに行って並んで、しょうもない雨であんま外に出たくないし特にすることもないし夕方にはトークもあったし、この日はここで4本見た。やっぱりつかれた。
今回の特集は、本の刊行記念 - 出たばかりの本に絡んで特集されたものなのだが、読んでいないからといって見るのを躊躇するかというともちろんそんなことはない、その逆で、「映画を輝かせるために」あらゆる言葉、映画史の知見を駆使してきた3人によって世にでた本、それに因んだ特集のために選ばれた作品なんて問答無用で輝いているに決まっているので、端から見ていくしかない。 実際にどれを見たってすごいし、時間も1時間半くらいのが殆どなので、平日の仕事帰りに引っかけるのに丁度よいの。
邦題は『スパイクス・ギャング』、これのスチールが今回の特集のカバーになっている。
原作はGiles Tippette による”The Bank Robber”、監督はRichard Fleischer。カラーの西部劇。
今回の特集のどれもが、みんなが知っているクラシックというより、半端でお金かけてなさそうなB級ばかりで、原作とか撮影とか音楽とかは知らない人ばかり、知らなくたってこんなにもすごいのかー、この勢いはなに? ばっかり。めちゃくちゃうまい3ピースバンドの3分間の演奏にぶっとばされる、そんなのばっかり。
Harry Spikes (Lee Marvin)は西部開拓時代の終わりを生きる老いた銀行強盗で、名は知られているががたがたで、冒頭に血まみれで死にかけているところを3人の小僧 – Wil (Gary Grimes), Les (Ron Howard – あのRon Howardね), Todd (Charles Martin Smith) – に助けられ治療をしてもらって食べ物ももらって、3人は謝礼とか受けとらなくて、Harryはこの恩は忘れねえ、と言って彼方に消える。
やがてWilは粗暴な父親からの暴力に耐えられなくなって家を出ると、あとの2人も彼についてきてみんなで放浪の旅に出て、お金がなくなったので見よう見まねで銀行強盗をしたらTodが人を殺してしまい、Lesはお金を落として、殺した相手が州の上院議員だったので全員が重めのお尋ね者になってしまうのだが、とにかくメキシコに流れ着く。
メキシコでも不器用で警察にしょっぴかれて、そこにたまたま通りかかったSpikeに助けてもらって、この時はそれだけで、まっとうな生活に戻ろうとするのだが、次にまたSpikeと会うと、自分とこのギャングにならないか、と言ってくる。
で、予行練習のような銀行強盗でも失敗して、Todが背中を撃たれて、Spikeは彼を捨てて逃げろ、というのだが2人は拒んで動かないのでSpikeは呆れて彼らから離れて、亡くなったTodの埋葬をしているところをまた襲われて、とにかくまったくついてなくて、そのうち改めてSpikeとも対峙するのだが、結局みんな…
そもそもがろくでなしのSpikes Gang – よれよれの年寄りと3人のガキ、が鈍かったり未熟だったりで全員散ってしまうしょうもないお話なのだが、印象はとても爽やかな青春劇のように瑞々しく、あまりにさらさら風となって消えてしまうのでなんだったのだろう、って3人とじじいの像がずっと残る。果たしてこんなの「西部劇」と呼ぶことが許されるのか、任侠モノのようにべったりしていなくて、女っけゼロで、そこらの道端に転がっていそうで、誰もあとで思いださないまま風に消える。 でも映画ったら、こんなふうにー。
The Rise and Fall of Legs Diamond (1960)
9月26日、↑のに続けて見ました。この2本はどういう事情か知らないけど特別料金設定(1600円)。
邦題は『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』、監督はBudd Boetticher。
こちらは西部劇ではなくて都会のギャングもの。1920年代のNYで、チンピラ小悪党のJack Diamond (Ray Danton)は宝石店からネックレスを盗むためにそこにいたダンス教師のAlice (Karen Steele)に近づいて、しょっぴかれたりするものの、ちっとも懲りなくて、戻ってから口八丁手八丁でギャングの用心棒になって、密造酒、麻薬、賭博といったあらゆる利権を自分の好きなようにすべく動き回って、親分が亡くなった後は勝手に引き継いで大股でやりたい放題を始めるのだが、当然敵もわらわら湧いてきて…
これも↑の西部劇と同様、暗いところがちっともない、でも陽気でバカなわけでもない、最後にAliceが彼について語る「彼は多くの人に愛されたけれど、誰のことも愛さなかった」姿そのもの、その空っぽさ、穴の輪郭が鮮やかに残るの。 ”The Spikes Gang”とはあらゆるところで対照的な。
[music] ROUGH TRADE 50
イギリスのインディペンデント・レーベルRough Tradeの設立50周年を記念して、同レーベルに所属する最近のバンド2つのライブと創業者のGeoff Travis、Jeannette Leeが来日してレクチャーとDJをするというので行くしかないと思った。
10月2日、東京藝大でのレクチャーの冒頭で司会のおじいさんも語っていたが、1980年のThe Pop Group の”For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?”と翌81年に出た日本編集のオムニバス - “Clear Cut”は自分の物の見方とか世界への関わりかたをすっかり変えてしまった。当時はもちろん他にもいろいろあったが、Rough Tradeのとっ散らかった音がイギリスの、メジャーなわけではない、インディペンデントから来た、というのも大きくて、当時聴いていたPILとかSlitsとかと合わせて、当時の他のインディペンデント - Factory, Cherry Red, 4AD, Mute, Stiff, CRASS, なども含めて自分のイギリス熱を決定的なものにした(のはパンクよりもこちらの方だった)。
2人ともものすごくわかりやすい英語で、まずはGeoffのCity Lights Bookstoreの話は嬉しかった。あそこの地下フロアの哲学書と音楽本があるところが身悶えするくらい好きなの。
あと、まずディストリビューション(ネットワーク)から考えた、というところの正しさ。レーベルのカラーのようなのを前面に出す、というよりStep-ForwardとかPostcardとかPianoとか更に小さいところを繋いでいって、だから例えば、ポストパンクとは? と問われたら最初の”Clear Cut”の12曲を通しで聴いてみればよいのだし、今回の50thで復刻されている初期の7inchもその適度なばらけ具合がたまらない。
Jeannetteの子供の頃からMotownをずっと聴いていた、というところもすてき。一番聞きたかったのは講堂のスクリーンにもジャケット写真が大写しされたPILの”The Flowers of Romance” (1981)のどこにどう関わったのか、出かける前にこの時期に彼女がバンドの周辺を撮ったポラロイドの写真集 - “Private Image” (2017)を振り返っておこう、と思ったのだが、山の奥に埋もれていて出てきてくれなかった。
ただ、全体として、1時間半はあまりに時間なさすぎ。設立当初〜Jeannette加入時の話題からいきなりThe Smithsに飛んでしまうのはあまりにも。Young Marble Giants周辺、The Raincoats周辺、Scritti Politti周辺が当時のGeoffからどう見えていたのか、そこから彼の政治的な立ち位置がそれなりに見えて、それはそのままポストパンクをポストパンクたらしめた当時の視座、のようなものに繋がるはず、と思っていたのだが。あと3時間は語って欲しかったかも。
あと現在の主にロンドンにある、店舗としてのRough Tradeが今後どうなっていく/どうしたいのかも聞きたかった。マイナーなのとか重箱の隅系は年2回のRecord Store Dayと通販でどうにかなってしまっている昨今、イベントスペース提供とスタンダードな本とレコードを中心とした地元の発信地、のようなのでよいのか? - それでもあの居心地のよさは十分に素敵なのだけど。
10月1日、O-Eastのライブの合間のふたりのDJはリラックスした楽しいものだった。どうしても曲当てクイズみたいになりがちで、そういうとこも含めて。
ふたつのバンド、最初のMy New Band Believeも次のCarolineのライブ、SNSなどを見るとみんな大絶賛なのだが、自分にはあんま来なかったかも。
どちらも長めの、ストーリーを意識したような曲構成、フリージャズのような対話即興を交えつつ終盤に向けて盛りあがっていって、無邪気に真摯に音楽をとっても愛して取り組んでいることはわかるのだが、それならクラシックやジャズやプログレと同じで、自分にとってのRough Tradeの音は、そんな音楽、意識的なとこも含めたロックのありようとか態度とか愛とかに斜め左からばーか、ってやる音たちだったので。
あと、どちらの音にも、とにかく新しいなにか、得体の知れない、怪しいなにかがまるで感じられなかった。これは自分が鈍くなっているだけなのだろうが、むかしにGodspeed You! Black Emperorあたりで聴いたような壁の質感、最近のなんでもシューゲイザー(もどき)と同じような包み込んだもんがち、みたいなのしか。音楽が好きなんだようー なのはとてもよくわかったけど。
10.02.2026
[film] Bob Trevino Likes It (2024)
9月14日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
作・監督はTracie Laymon。2024年のSXSWでプレミアされて、Grand JuryとAudience Awardを受賞している。邦題は『私たちはちょうどいい。』 ... 「ボブ・トレヴィーノはいいね!をしました」でいいじゃん。なにと比べて、どう「ちょうどいい」というのか?
冒頭、Lily (Barbie Ferreira)がスマホを握りしめて、彼が間違って別の女性に向けて出したべろべろメッセージを読んでぼろぼろ泣いていて、向こうが「ごめんごめん」ていうので、「ううん、いいのよ」ってお人好しふうに言ってから「あーおわった」って更に泣く。
障害者のDaphne (Lauren "Lolo" Spencer)と暮らしながら彼女のケアをしているLilyは父親のBob Trevino (French Stewart)と会って自分の失恋のことを言っても父親は老人ホームで自分に向かってくる女性の話ばかりしているし、癒されるべくセラピーに向かっても、子供時代のことを話したらセラピストに泣かれてしまう(くらいひどい境遇であったと)。
父親Bobのデートについていって、相手の女性を怒らせてしまってから父親は彼女を置き去りにして(この父親がぜんぶ悪いのにひどすぎ)、なんとか彼との関係を修復すべくコンタクトを取らなきゃ、とFacebookを開いて、見つけたBob Trevinoに友達申請をしたら、「承認」が来たのでほっとするが、こいつは全く別、アカの他人のBob Trevino (John Leguizamo)なのだった…
彼は隣のインディアナ州に住む建築現場のマネージャーで、仕事もちゃんとするけどちょっと気難しいので友達もいなくて、間違いに気付いた後もLilyが送ってくるどうでもいいメッセージや投稿に「いいね」をぽつぽつしてくれるようになって、やがてチャットも楽しんで、Bobの妻のJeannie (Rachel Bay Jones)も最初はフェイクに騙されているんじゃないか、と疑うのだが、彼がなんだか楽しんでいるようなので放っておく。
Daphneが詰まらせてしまったトイレでどうしようもなくなった件のヘルプでやってきたBobとLilyは初めて対面して、BobはLilyの生活能力のなさに愕然としていろいろ教えてくれたり、Bobのことを冗談で「パパ」と呼んだら動揺した背景に彼は息子を亡くしていたことがわかったり、実父のせいで犬を飼えなかった彼女を保護施設につれていってあげたり、際どいところを行くようなほんわかしたエピソードが続いて、John Leguizamoだし、最後のほうにとっておきのが、と思っていたら…
もちろんとっておき、なのかもしれないが、いきなりあんなふうになるとは思わず、ペルセウス座流星群とかスクラップブックとかLilyの詩とか小道具がいっぱいあるので、なんかずるいや、のかんじもした。昔だったら手紙とか、近年だったら”You've Got Mail” (1998)の電子メールから始まっていった何かが、”Like”のクリックひとつのやりとりから始まって、その奥というか向こうの分厚いスクラップブックに溜まっていくまで、をrom-comを回避するかのように積みあげて、あそこまで持っていくのはたいしたもんかも。あ、でもLily役のBarbie Ferreiraがよすぎるだけかも。
監督の身に実際にあった話で、ショートフィルムの企画をやさしかったBobに伝えようとしたらああなっていたことを知って、そこからいろいろあってこの映画になったのだそう。ちょっといい話、というよりはもう少しおもしろく、深い。
それにしてもひどすぎる彼女の父親、最後にソーシャルでぼこぼこにされればよいのに、と思ったのだが、それはなくてただ視界から外す、みたいな消し方もよかったかも。
10.01.2026
[film] Mr. Nelson, Did You Kill People? (2026)
ロンドン行く前に見て、書いていなかったやつなどから。
9月13日、日曜日の昼、kino cinema新宿で見ました。
邦題は『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』 - これはどちらかというと洋画枠だと思うので。
この時も満席で、その状態が続いているらしいのは裏事情があるにせよないにせよ、よいこと。結果的にヒットすればもっとよいこと。とにかく多くのひとが見ればそれで。
原作はAllen Nelsonによる同名の手記、脚本・撮影・監督は塚本晋也、9月のヴェネツィアでプレミアされて、Leoncino d'Oro Award(イタリアの高校生たちが審査員となる)を受賞している。
元海兵隊員でベトナム戦争の退役軍人のAllen Nelsn (若い頃Mark Merphy、少し歳をとってからRodney Hicks)は、復員後NYで猫と暮らしているが明らかにPTSDで大きな物音がするとパニックを起こして倒れてしまう。ある日、高校の同窓生と再会して、小学校で教師をしている彼女から戦争体験について子供たちの前で話してくれないか、と乞われて、最初は断るのだが、子供たちの手紙をみてやってみることにして、なんとか自分の体験を話して、でもその最後に子供から「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」と尋ねられると…
そこから数年後、Allenは妻のLinda、彼女の連れ子のSeanと暮らしてDr. Daniels (Geoffrey Rush)の元で治療を続けていて、そこで自分の過去を語る。暴力的だった元軍人の養父の元で育ったこと、そこから逃れるように海兵隊に入って、戦地ベトナムに派遣され、そこから先は凄惨な戦争 – 殺し合いの現場の描写が延々続いていく。それを治療とは言え記憶を掘って医師に語るのはものすごいストレスなのだが、治療の終わりにDr. Danielsは「なぜ人を殺したのか?」と聞うてきて、Allenは目を背けるように「戦争だった。殺さなければ自分が殺されてしまう」とか「上からの命令だった」とかどうにか返すのだが、その問いは彼にとって銃を突きつけられるような地獄で、でもDanielsは静かに、何度でも同じ問いを繰り返す。
戦時の前線での描写はいつもの塚本映画のそれで、恐怖を煽ってそれを重低音のように引き摺って目を背けさせない、ディゾルブの多用も含めて感覚にダイレクトにくるのはしんどいのだが、これと併せて彼が現地の子供たちと仲良くなって遊んだりする場面も描かれて、でも、それでもAllenは人を殺しているんです - こんなふうに、というところに戻っていく。
『野火』 (2014)の暴力が理性の崩壊の果てに現れるようなかたちを取っていたのに対して、ここでの暴力は理性を維持させようとする軍のシステムのもとで正当化され、でもどっちにしても人は殺されて、殺された人々は田村やAllenのように生き残る - 生き残って苦しむことはない。ただ消える。地獄はどっちの側に。
死のうが生き残ろうがどっちにしても救われない、戦争とは表向きは国と国がやるものだから、でもそれは地面の上で(or 空の上から)人が人を殺すということなのだ、とゆっくりと引き摺りおろすように告げる。 戦争が、でも軍が、でもなく主語は「自分」なのだと。
このやり方でいったら、例えばアメリカ人の社会のそこそこの地位にあって「よいひと」「頼りになる人」の半分くらいは人殺しになってしまうのかもしれないし、自分らの先祖だって人殺しだらけなのかもしれない、だって人類の歴史は戦争と共にあったのだから… という形で「そういうもんだ」と言うのをもうやめよう/やめるべきだ、ということを切々と訴えているのだと思った。
だってもうリモートで手を汚さずいくらでも大量に簡単に人を殺せるようになって、核兵器の所持や使用について政治家がカジュアルに口にするようになって、ガザであれだけ子供たちが殺されているのに誰もちっとも動かないし。 これらのメッセージに対して「不快感」とかのたまう腐った連中もな.. (まっくら)
もう始まっているのだろうが、AIが人の代わりに人を殺すようになったら、こんな問いは成立しなくなってしまうだろう。そうなってしまう前に。
9.30.2026
[log] London そのた
ここまでで書いてきた以外の展覧会など。10月から始まるあれこれの谷間で、数はそんなになかった。
一番の誤算だったのはBritish Museumでの”The Bayeux Tapestry”で、メンバーでも時間ごとでの予約が必須だったこと。次の予約のオープン時にどうにかするのかしないのか…
James McNeill Whistler @ Tate Britain
9月21日、月曜日の午後、Tate Britainで見ました。チケットをいちいち買うのが面倒なのでTateはメンバーシップを更新してしまった。
アメリカで生まれてイギリスで活動したJames McNeill Whistler (1834-1903)の大規模回顧展。
アメリカ人がラファエル前派と日本美術とクールベを混ぜたら限りなく印象派ぽくなった、というのがこれまでの印象だったが、印象派以上に抽象的な色や形象の配置、そのありように注意を払いつつ日本画やウィーン世紀末の様式美に近づいていったのがわかるような展示。ラスキンが激怒したのはなんとなくわかる。鳥居清長とか屏風が展示されていたり、孔雀の間の再現もあったり、が、やはり”Nocturne”のシリーズ、アムステルダムの運河とか、暗くなった水辺のもやもやが染み出してくるような色の明滅がすばらしい。
あと、この人の東洋美術への傾倒は、印象派のそれ(上っ面の印象だけの)とはかなり違うのかも、と思った。
Frida: The Making of an Icon @ Tate Modern
Tate Britainから移動して見ました。Frida Kahloの絵画作品を並べていく、というよりも彼女自身が描いた自画像も含めて、そこから”Frida”というアイコンがグローバルでどんなふうに生成発展していったのか、という観点から他アーティストの作品も含めて並べているので、Frida Kahloの作品 - 彼女の静物画とか好きなのだが – に漬かりたい人はちょっとがっくりくるかも。フェミニズムの文脈でどんなふうに、はこれまでも結構見てきた気もするので。
Anish Kapoor @ Heyward Gallery
9月22日に見ました。インドに生まれて英国で活動してきた彫刻家のでっかいオブジェ、彫刻の展示。人気があるのかTime Slotごとの予約が必要で午前に行ったら午後のスロットしか取れない、と言われたのだが、昨年のメンバーシップがまだ残っているから、と言われて入れて貰った。
ここで展示された塩田千春の時と同様、でっかい塊りやミラーを使った彫刻をフロアいっぱいに並べて、まあでっかい、すごい、しかない。
2階に血に染まったでろでろの内臓がバットに入っているようなオブジェが沢山あって、この後で見た映画”Resident Evil”に出てきたのと見事に繋がった。バルコニーの倒立するミラーのオブジェも楽しかった。
Queen Elizabeth II : Her Life in Style @ The King’s Gallery
これも”The Bayeux Tapestry”と同様、時間ごとのチケットが売り切れてどうしようもなさそうだったが、22日、朝食を食べながらスマホをいじっていたら9時過ぎに12:15の回のが釣れた(もちろん正規の)。こういうこともある。
この展示の期間だけ、名前を昔のQueen’s Galleryに戻せばいいのに。
わたしは自称パンクのくせにこのおばあさんのことはなんか好き(でも現国王はきらい)で、昔の英国Vogueの戴冠式記念号とかも持っているので、この展示は見たかった。
エリザベス女王が着ていたドレス、帽子、靴、アクセサリー、カバンなどなど全部出し。手紙とかメモの類は低めの陳列棚にあって、高齢の女性たちがみなさんきちんと列を作って丁寧に見ている – これって結構珍しい光景。
やはり50年代のNorman HartnellやHardy Amiesらのドレス、それらを覆う細部の職人技がすばらしい。遠くから見ても近くに寄っても。
カタログは会場では買わずにピカデリーのHatchardsに行ってサイン入りのを買った。
Richard Dadd - Beyond Bedlam @ Royal Academy of Arts
Richard Dadd (1817-1886)はヴィクトリア朝の頃のイギリスの画家で、20歳でRoyal Academyの美術学校に入って優秀だったが、ギリシャ、トルコ、シリアをまわるエジプト遠征の途中で精神に異常をきたして、父親を殺して、フランスに逃げる途中で捕まってベスレム王立病院(通称Bedlam – タイトル)に収容されて、ここで約20年、別の病院に移送されて亡くなるまで約20年、今回展示されたような作品たちを描いた。異常になる前の作品も展示されていて、”Puck”や”Titania Sleeping”とか、妖精など(彼の描くやつが自分にとってのシェイクスピアの妖精)テーマ面の共通性はあるものの、入院前と後ではかなり変わって、9年かけて作成された”The Fairy Feller's Master-Stroke”(1855-64) - 「お伽の樵の入神の一撃」はすさまじい。水木しげるの陰惨なところとか。Queenの名盤“Queen II”でも歌われているので、聴いてみてほしい。
今回のNational GalleryはRenoirとVan Eyckという大規模展前ということで常設展示のみだったが、それでも30分くらいは浸かれる。見にいくところはだいたい同じだけど。
レコ屋はRough Trade Eastくらい。ろくなもんを買わず。
本屋はSouth BankのBFI前の青空屋台の古ペンギン(文庫)は、やはり相当買ってしまった。こういう屋台って新刊本ではないので、実にいろんなのがあって半年ぶりだと並んでいるのもがらりと変わっている。どの屋台で買っても久しぶりだねー、って値引きしてくれてうれしい。からって買うな。
新刊本だと、John Bergerの生誕100周年(Centenary)で出版された”Four Horizons, A Visit To Le Corbusier's Chapel At Ronchamp”。まだぜんぜん見れていないが。
分厚いのだと、先のQueen Elizabeth IIのカタログ、少し前までNational GalleryでやっていたZurbarán展の図録、ドイツのエッセンでやっているGustave Courbet展の図録、など。 帰りのスーツケースは久々に30kg超えた。
出発前はスケジュールをあれこれ詰めこみすぎで、ドミノになったらやばいかも、の懸念があったのだが思っていた以上にするする行けてしまった。これがクセになったら、そっちのほうがぜったいにやばい。
で、もう今年はあと3か月とか言うのか。ふざけ..
[film] Resident Evil (2026)
9月22日、火曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。
ロンドン滞在最後の日、できれば、なんでもいいから映画あといっぽん見たいかも、でも2時間を超えるのはきついししんどいかも、って思っていたらちょうど1時間半くらいのがあった。
この週末にはDaisy Edgar-Jonesが主演する”Sense and Sensibility” (2026)の新版が公開予定になっていて、映画館でもバスでもでかでかと宣伝されていて死ぬほど見たいのだが、日本公開はいつになることやら…
監督は”WEAPONS” (2025)のZach Creggerで、脚本は彼とShay Hattenの共同。
これがビデオゲーム起源であるとか日本だと「バイオハザード」になるとか、帰国してから知った(それぐらいこの世界に疎い)。ポスターのビジュアルは、あまりぱっとしない青年が必死で走っているの(少しブレた姿)を正面からとらえたやつ(もうひとつは、ドアの戸口の暗がりからクモみたいにヒトの手足がじょろじょろ)で、Milla Jovovichの立ち姿なんかとはかけ離れてるし、あんなホラーとは思わないじゃん。 BFIのIMAXでも上映しているし。
宅配業をやっているBryan (Austin Abrams)は、冒頭、電話で恋人と別れる別れないの話をねちねちしていて、深夜の病院で血まみれを見ただけでびくびくするような人なのだが、カウンターで緊急のプライオリティAで別の病院に運んでほしいものがある、報酬はずむから、と言われて軽く受けて、夜中の雪道を車で走っていくと、ふらっと道に出てきた女性を轢いてしまう。急ぎの荷物があるので放っておけばいいのにどうしても放っておけない彼は、近くの家に助けを求めに行ったり、彼女を警察に託したり、でもあまりに不気味で不可解なことが起こり続けるので、悲鳴をあげながら空き家の引き出しにあった猟銃を手にして、とにかく荷物を運ぶべく病院に向かおうとする。
基本は、そんなに律儀にちゃんと相手したりしてたら、そっちに行ったら絶対だめだよ、のホラー被害者の定番の道をまっすぐ歩んで、奥に進めば進むほどありえないの – いろんな複数の胴体同士が連結されて団子になって転がっていくの – が現れたりで殺されそうに/死にそうになる。ドラマとしては、主人公のなかにヒーロー的な何かが覚醒して、Milla Jovovichだったら戦うヒロインになるのかもしれないが、ここのBryanは最後まで逃げ… 続けられるのか。
主人公の頼もしさゼロの愚直な真面目さが(だけ)、がおもしろいところ - カメラは敵として襲いかかってくる化け物やその背後にいそうな邪悪なあれこれより、それらにいちいち震えあがりながらやけくそで立ち向かって乗りきっていく哀れなBryanが見所で、肝心の恐怖の正体や出処はよくわからない。
クライマックスは既に何かにやられて地雷原のように荒れ放題の街の中心にある高層ビルで、生存者がいるかんじではないのだが、やっぱりあれこれ出てきて襲われて地下の駐車場のインターホンから(階段を使って)上に来い、って言われて…
建物の奥で人知れずに駆動している不穏ななにかがある、というのは”WEAPONS”にもあった描写で、正体はわからないまま、それらがだんだん近づいてくる(or 気がついたら近くに)、というシンプルな物理ホラー(神経はそんなに関係なし)で、現れるのはヒトというより、変態した果ての妖怪みたいなやつばかりなので、そんな怖くない。
あと、最後はちょっと意外だったかも。あんなふうにしちゃうんだ… って。
9.29.2026
[theatre] The Standard of Living
9月22日、火曜日の晩、Theatre Royal Haymarketで見ました。
オープン2日目で、これは日本でチケットを取っていた。もうひとつの候補としてやはりオープンしたばかりの、Noël Cowardの”Hay Fever” - 主演はRichard E. Grant – があって、どちらにするか悩ましかったのだが、Bloomsbury Groupが出てくるというのと、前日に見た”Virginia Woolf”とも繋がるのでこっちにする。
原作はJames Graham(新作)、演出はNicholas Hytner、イギリスのマクロ経済学の礎を築いたケインズ - John Maynard Keynes (Rory Kinnear)の1917年から1946年に亡くなるまでを、彼の愛人であったDuncan Grant (Thomas Flynn)と、42歳の彼と結婚することになるディアギレフのBallets RussesのバレリーナLydia Lopokova (Natalia Osipova)、学問上のライバルだったFriedrich Hayekらとの関係のなかに描く。
舞台上にはちょっとVanessa Bell作品の色味を思わせる四角が描かれた縦長の布が間隔を置いて下がっていて、モダンダンスの舞台セットのようにも見える。
そこにスーツ姿のKeynesがひとり立って、「よく生きる」とはどういうことかを考えてみたい、というようなことを語り、戦前の財政難の時期、彼がどんな人々と出会い、どう生きて、どんなふうに彼の経済学を打ちたてていったのか、等について。
マクロ経済学でも経済学でも、これまでまったく学んでこなかったのだが、彼がWhite Hallとの間で行き来していたロンドンから南に下ったCharleston - Bloomsbury Groupの拠点 - は大好きな場所で、今回も行きたかった(いま、Quentin Bellの企画展をやっている)のだが、ちょっと遠い。Vanessa Bellの家族や彼女のパートナーだったDuncan Grantが暮らしていたこの家には、Keynesの部屋(書斎)もあって、窓が大きな2階の見晴らしのよい場所なのだが、なんで経済学の人がここにいるの? はずっとよくわからなかった。
もともとKeynesは同性愛者でDuncan Grantと関係があったが、やがてLydia Lopokovaと知り合って結婚した。Duncan GrantはVanessa Bell(既婚)の愛人でもあったので、それでCharlestonにやってくるのだが、自由奔放なLydiaの登場はここのサークル - 舞台に登場するのはVirginia Woolf、Vanessa Bell、 Lytton Strachey、Dora Carringtonなど – 彼らも十分に変人だと思うが - を戸惑わせたりもする。
経済を安定させるためには政府の介入が不可欠であり、市場が自然に均衡するのを待つのではなく、経済不況時には政府が支出すべき – というKeynesの主張はHayek (Laurie Kynaston)が唱える、不景気は経済の膿が溜まって不健康になっている状態なので、ここで政府がお金を出して援助するとダメな会社まで生き残って市場経済が壊れていくので、政府は介入すべきではない、という主張 – こんなかんじでよいの? - と正面からぶつかって、いろんなところで波風を起こしていくのだが、彼自身は(体調は悪くなっていくものの)悠然としている。
時代背景、Keynesのクィアネスとその愛のありよう、学業/政策のあれこれ、生活におけるアート、など、彼の「よく生きる」を見据えたテーマは多岐多彩にばらけて、ところどころLydiaのバレエ - Natalia OsipovaはRoyal Balletの現Principalだし – がなだれこんできたり、これまで見てきたJames Grahamの過去作 - ”Dear England” (2023)や”Punch” (2024)と比べれば、たたみ掛けてくる勢いがなくて、やや散漫でとっ散らかったものに見えてしまうのかもしれない。
他方で、よりよく、豊かな生活を、と言った時に怒涛のなんかはそんなには必要ではなく、あれこれ顰蹙を買いまくりだったかもしれないけど、CharlestonでVanessa Bellたちが家具や調度を好きなように塗ったり壁に絵を描いたり、読書したり議論したり、の生活の方に目が向いて、ここで思い浮かべるのはCalvin TomkinsがGerald & Sara Murphyについて書いた”Living Well Is the Best Revenge” (1971) - 『優雅な生活が最高の復讐である』 のことで、Keynesが実現しようとしたこと、Charlestonでの暮らしについては、「優雅な生活」と言ってもよいのかも、と思ったり。彼はそれを中央で経済政策を考えたり議論したりしながらやっていったわけで、そこまで行くのは難しいだろうけど、”The Standard of Living”とは、そもそもなんなのか?これらを振り返るのだとしたら、いまなのではないか? とか。
終わってNational Galleryの前を抜けながら、あーあ官民の恣意的かつ傲慢な操作で完全に”Standard”の在処を失ってしまったバカで腐った国に明日は… ってしょんぼりホテルに向かったのだった。
ロンドンでの演劇はこれでおわり。
9.28.2026
[theatre] Who’s Afraid of Virginia Woolf?
9月21日、月曜日の晩、West Endの@sohoplaceで見ました。
この日が初日で、最初からぜんぜんチケット取れなかったのだが、渡英直前にどうにか取れた。
原作はEdward Albeeの同名戯曲 (1962) - 1966年にMike Nichols/ Elizabeth Taylor/ Richard Burtonにより映画化もされている。 今回の演出はMarianne Elliott。公演時間は休憩1回を入れて3時間10分くらい(Act1で約2時間、Act2 & 3で約1時間)。
この劇場は舞台が円形で客が取り囲んで - 1階席だと家政婦が見るような位置から見守る形式、ミッドセンチュリーのゆったりモダンな家具、レコードプレーヤー、バーカウンタ、本棚にソファ、流れているのは当然ラウンジジャズ。Act1の後、Act2では家具などの配置が180度変わっていて、Act3では、ものすごくゆっくりと床が回転していることがわかる。
開演前、客席の向かい側に誰がどうみてもJudi Denchさま(と隣にいたのは誰?)が姿を現し、周囲がざわざわしだす。そりゃ初日だもの。
大学で歴史学を教えている初老のGeorge (Billy Crudup)とMartha (Gillian Anderson)の夫婦が夜中の2時にぐでんぐでんのご機嫌状態でなだれ込むように帰宅して、それぞれバカなことを言ったりやったりしていると玄関のベルが鳴って、新任で生物学を教えるNick (Josh Dylan)と新妻のHoney (Phoebe Horn)のふたりが、さっきの会で誘われたので来ました、って。もう夜遅いし悪いし、と遠慮がちなふたりに対して、酔っぱらってサディスティックな方にスイッチが入ってしまったGeorgeとMarthaは飛んで火にいるウブなふたりを餌食にすべく容赦なく襲いかかるのだが。
基本は社会的にも優位な位置に立つGeorgeたち夫婦が結婚して間もないのでいろいろ努力したり苦労したりしていそうなNickとHoneyを夫婦のこととか仕事のことなどについておもしろおかしく、そのうちこんなんなっちゃうんだぞ、って自虐もこめて脅したり吹かしたり、その反応を見て楽しむ - 日本社会にもよくある – あれだと思うのだが、若いふたりに向かったそれらのネタが、自分たちの方に、ネタによっては数倍でっかいブーメランになって返ってきて、酔いもあるのでその打突のインパクトも倍以上、どういうことだよこれ? ってわめきだしたり。
「ヴァージニアウルフなんてこわくない!」って童歌のように振りをつけて歌うことで、おもしろおかしく茶化していたネタのいくつかが、彼らがシリアスに秘密にしていた「息子」にまで及んだことで、隠されていた穴に落ちて戻れなくなってしまうGeorgeと、そうなることなんてわかっていただろうがー、のMarthaと。
Martha役のGillian Andersonは思っていた通りの強さとしなやかさで酷くやられたかに見えても立ちあがって薄ら笑いを浮かべて反撃し、George役のBilly Crudupはインテリ風のメガネをかけ、動きは今にも一線を越えてしまいそうなDavid Byrne(”Burning Down the House”)か”Falling Down” (1993)でブチ切れてしまうMichael Douglas(になる手前)のようにも見える。リングサイドで見た限りでは、Gillianやや優勢、でもBillyは不気味にまだなにかありそう.. といったかんじ。 そして若いふたりも若さゆえの無知を前に出して簡単には引き下がらないで蘇って… というアンサンブルがスリリングで3時間あっという間だったことは確か。
これ、コンプラやハラスメントが今ほど言われるようになる前、それに伴うトラウマや乗り越えるべき壁がはっきりとあり、これらにぶち当たったり克服したりすることがある種の「成長」と見做されたり、これらを(タイトルのような)呪文を唱えて乗り切っちゃえ、の暗黒時代の話ではあるので、冷静に振り返るとなんで酔っぱらっているとは言えこんな怖いことになっちゃってるの? はあるかも。(Production TeamにはちゃんとMovement & Intimacy Directorがいる)
それにしても3日前に見た映画”Teenage Sex and Death at Camp Miasma” (2026)に続いてGillian Andersonはすさまじく、著書も2年前の”Want”に続く最新刊”More”が書店に並んでいて絶好調なのかも。
そして、見た目は朗らか爽やかで賢そうながら、ねちねちどす黒く変容していく - 最近の腐れた日本の首長がそうであるような - Billy Crudupもはっきり今を体現する人としてそこにいるのだった。
[log] Glasgow - Sept. 20
9月20日、日曜日から月曜日の朝にかけて、スコットランドのグラスゴーに行った。
いちおうSaint Etienneのファイナル・ツアーに合わせてThe Pastelsを見る、という目的なのだがそれだけではない。
これまで自分が聴いてきた音楽のうまれた土地に向かって旅をする、というのを地味にずっとやっていて、なのでNYとロンドンで暮らせたのをよいことに90年代にはアイルランドに行って、ジャマイカに行って、リオに行ってサルバドールに行ってブエノスアイレスに行って、ヨーロッパ各地各国は音楽というよりそれぞれが楽器のようだわ、って思って、でもイギリスの地方都市はぜんぜん行けてなくて、マンチェスターもシェフィールドもリバプールもまだ。これから。
ただグラスゴーの音、というのに明確なローカル色や土地の特徴があるかというとそんなでもない気がしていて、いつも思い浮かべるのはスコットランドのハイランド・カウのもしゃもしゃの輪郭とか、Postcard Records (The Glasgow School)の太鼓を叩く猫の絵だったり、視覚的にこんなかんじの、って思ったり。
最初は朝早くに電車で行こうと思っていたのだが、この日曜の午前は北方に電車が走っていないようで仕方なく飛行機にした。10時くらいにGatwickから飛び立って昼くらいに着く便で、空港からはバスであっという間。
そんなに観光している時間もないので、とりあえず大聖堂に行って、その向こうの高台にかっこよく見えたThe Glasgow Necropolis(お墓)を散策する - William Millerのお墓などがあった。
そのまま歩いて聖地のひとつ、The PastelsのMonorail Musicに向かう。入り口にカフェ/食堂があって、奥にレコード屋。Jack WhiteのThird Man Recordsのポップアップが入っていていつもと違ったかも知れないが、地元のよいレコード屋の典型のようなとこだった(今回は買わず)。 食堂ではMac & Cheeseをたべた。おいしい。
日曜の午後のグラスゴーの街中は、通り沿いに開け放たれたパブから酔っぱらったようなバンドの演奏とかそれと一緒に歌う酔っ払いの歌声とかところどころわんわん響いてきて、日曜からご機嫌だねえ、なのだが、それがお祭りではなく常態化している殺伐とした様がよくて、あと、たまたまではあるが、デリで盗みをして逃げようと走りだした青年のところにパトカーが現れて追っかける、という映画みたいなシーンまで目撃した日曜の午後。
もうひとつの聖地は、Postcard Records “The Glasgow School” - のオフィスがあった場所、だったのだが、ふつうの住宅街のなかにあるだけ、のようだったので諦める。
そしてもうひとつの聖地が、この晩のライブがあるヴェニュー、Barrowland Ballroomで、きらきらのネオンサインが華やかなんだかもの哀しいのか微妙な大看板のついたワンダーランド風のライブハウスで、NYの”Roseland”や”Bowery”と同様、Ballroomがつく小屋には伝説がおりてくることになっている。こんなところでThe Smithsの”Meat is Murder”のツアーにぶつかったら即死だろうなー。 今後のスケジュールには、Friends Againの告知などが貼ってあって二度見したり。
こうして20:00からThe Pastelsのライブを見る。バンドはホーンも含む6人編成で、ゆったり茫洋に、”Check My Heart”とかJamの”Something’s Gone”とか、思っていた通りの不穏なパステルたちでたまんなかった。たぶん10年後も同じタッチで画布に擦りつけているにちがいない、と。
Saint Etienneはキーボード2人が後ろの高台、まんなかにSarah Cracknell、ドラムスはRideのLoz Colbert、ギター/ベースがひとり、バックヴォーカルはThe Dolly MixtureのDebsey Wykesで、物販に彼女の本”Teenage Daydream: We Are the Girls Who Play in a Band”のペーパーバック(サイン入り)があったので買ってしまった。出版された時のおまけ&サイン入りハードカバーも持っているのに。
Saint Etienneのライブはたぶんはじめてで、背後のスクリーンのヴィジュアル – たぶん20年くらい前のカラフルなかんじ - がどれも素敵で、デジタルの音のみっしり度合いもそんな最新のバチバチくるやつではなくて年寄りにやさしく、みんな気持ちよさそうに踊っていて、特に終わりのほうの”Only Love Can Break Your Heart”から先は温度が上がって、みんなが笑顔ではねていて楽しかった。 「またフェスとかで再結成はするかもねー」って軽く言っていたので、またやることでしょう。
帰りはホテルまでバスにしたのだが、地図が示したのと違うルートを走っていると思ったら故障していたらしく、途中でバスごと別のに移るように指示されて、ああこのままどこかに… って暗く(どうでもよく)なったが大丈夫だった。
翌朝、8:55発のフライトで戻るべく空港に行ったら、管制トラブルとかで飛ばないまま待たされる。一時はWebでロンドン到着16:00以降とか表示されて、これじゃこの日の予定ぜんぶ消えるので、祈る思いで町に戻って電車で向かう検討も始めたのだが、1時間半の遅延で済んだ – それでも映画1本分なのでじゅうぶん痛い – のはよかったかも。
また行きたいなー。
[film] Pulp: What Do You Do for an Encore? (2026)
9月19日、土曜日の夜中、22:40からBFI IMAXで見ました。たぶんこの日この1回きりの上映。
OASISのライブフィルムもまだやっているようだったが、そんなのよかこっちだろう、って。製作・配給はMUBIなので、もう配信で見れるのだろうか。 監督はアニメーション”Sing” (2016) などのGarth Jennings。
マチネで見た”Man to Man”に続けてこの日の晩も演劇を狙って、その後でこれを見に移動するつもりだった。候補はふたつ、Josh O'Connor主演の”Golden Boy”かMark Rylance 主演の”Tartuffe (Remixed)”か、だったのだが、オンラインで座席に一瞬の空きが出たタイミングは確認できたものの移動中だったりして(ロンドンの一部地下鉄ではいまだに通信が)うまく繋がらないままどちらもダメになって、仕方がないので、BFI Southbankで18:40くらいからClaude Chabrolの – BFIでもChabrol特集をやっている - ”L'Œil du malin” (1962) – “The Third Lover”を見て、22時過ぎにIMAXの方に移動した。
Pulpの2025年のツアーのロンドンO2アリーナでのライブ映像を中心に、バンドヒストリーを網羅したもの。バンドは2024年の再起動の際に愛に溢れた分厚い歴史本も出していたし、こういうのまで追っかけて見たいPulpのファンであれば全て知っているようなことだらけだろうし、と思ったらやはり客席はそんなに埋まっていなかった。予告でかかった”George Michael: The Faith Tour”にみんな立ちあがって熱狂していた。
ライブで披露されていく代表曲の合間にいろんな過去のエピソードや映像、インタビューが挟まっていく構成の98分で、最初の方で紹介された結成前のJarvisの”MASTERPLAN”が楽しい。髪の毛はIan McCulloch、顎はHugh Cornwell、眼鏡はElvis Costelloを目指す(しかない)、だって。
わたしはPulpのそんなによい聴き手だったわけではなくて、Britpopの流れのなかで出てきたバンドのひとつ、くらいに軽く見ていたのだがバンド結成は1978年のシェフィールド… ということは、おおCabaret VoltaireとHuman Leagueと同期(CabsとHLの間)なのかー、とあの妙に下世話にこてこて作り込んだ - あえて100%から外す - かんじに納得して、そしたらこの映画の彼の言葉や振る舞いあれこれがいちいち腑に落ちてたまんなくなって、O2のライブも少し無理して行けばよかったかな、って。前年のバルセロナのPrimaveraのステージ - あれはすばらしかった - で思い知ったからよいか、って思ってしまったのばか。
後半はライブ映像の比重が増して、2023年に亡くなったベーシストSteve Mackeyへの追悼と、これから.. みたいなことも語られるのだが、思春期のこと、大人になっても続いていくもやもや、知らない向こう側のこと、いわゆるアートと社会のこと、イギリスの社会で生きる - 危なっかしく、でもどうにか渡るようにやっていくこと、そんなみんなCommon Peopleへの思いがぐじゃぐじゃのダンゴで固まって転がっていく - 編集が面倒で結果的にそうなっただけなのかもだが、なんておもしろく唯一無二のバンドなのでしょう、と唸らないわけにはいかず、そこまで来てから”What Do You Do for an Encore?”って尋ねられるの。そんなの「最初からやり直し! 校庭10周!」しかないよね。
終わったら当然地下鉄はきれいに終わっていて、雨も降っていて、バスを乗り継いで帰った。じっとりした雨のなか深夜に乗り継ぐバスから見えるロンドンの景色もまた懐かしくてー。
9.25.2026
[theatre] Man to Man
9月19日、土曜日のマチネを、Royal Court Theatreの地下のシアターで見ました。
原作はManfred Kargeによる戯曲で、ドイツ語の原題は”Jacke wie Hose” – 「上着だろうとズボンだろうと(どちらもおなじ)」。Tilda Swintonによる一人芝居。演出(+英語翻案)はStephen Unwin。休憩なしの1時間25分。
そんなに大きなシアターではないので、チケットは最初からぜんぜん取れなくて、ほぼ諦めかけていた公演の2日くらい前、いきなり前から3列目が取れた。これでCate Blanchettに続けてTilda Swintonまで見ることができて今年の運はぜんぶ使い果たしたかも、になった。
ドイツでの初演は1982年、それを彼女が最初に演じたのは1987年のエジンバラのフェスティバル、その後、ここRoyal Courtで上演されて、今回のが39年ぶりの再演となる。その間、これを映像に残したい、と1992年にJohn Maybury監督 - Derek Jarman繋がり - Tilda Swinton主演により映画化もされている。
忘れもしない2020年の初め頃、BFIでTilda Swintonの特集上映があって、彼女が毎日挨拶にやってくるので毎日のように通っていたのだが、コロナのパンデミックでロンドンの美術館や劇場、映画館が一斉にクローズしたのが3月17日から18日にかけて。 この映画版の上映があったのは3月16日、映画館通いもTildaさまを拝むのもここから暫くできなくなったのだった。
この時は彼女の初期の主演作”Caprice” (1986)との併映で、ロックダウンで来れなくなったJohn Mayburyの替わりに、”Caprice”の監督のJoanna Hoggがゲストで登場して、学生の頃からずっと一緒にやってきたふたりの漫才のような会話がものすごく楽しかったことを思い出す。
1930年代、ナチスの台頭により(その前から)不穏で物騒になってきた東ドイツの町、ぼろそうな電化製品や家具、生活のいろんなものが散らばっているのが明るく照らしだされてゴミ屋敷手前くらいになっている部屋の真ん中にElla Gericke (Tilda Swinton)が短パン、網々のランニングシャツ一丁、髪はぼうぼうに逆立って顔半分に白ペイント(数日前のCate Blanchettも白塗り仕様だった。なにこれ)、の鬼婆のように仁王立ちして、客席の方を睨んですごい勢いで喋りだす。これだけだと威勢のよい貧乏パンクスのように見えなくもない。彼女は夫のMaxを病気で失い、でも生きていくために彼のクレーン・オペレーターとしての仕事を引き継いで、男として生きていかなければならない。
彼女には悲嘆している余裕なんてなくて、男として働く(=生き残る)ために言葉遣いや態度はもちろん、パンツの下に詰め物をして女であることがばれないようにしたり、これらがどんなに愚かしくてばっからしいことか、などを室内の冷蔵庫からいろんな食べ物を引っ張り出して齧ったり、ケチャップの瓶を振り回したりしながら嘲り、怒り、目に留まる端からぶちまけていく。女性が男性になろうとする話ではない、はじめから男性として認知された男性が男性として機能しないとやっていけない、そんな社会のふざけたさまを呪い続けて止まらない。
Swintonの初演時に全26シーンで構成されていた劇は2015年の再演時にベルリンの壁崩壊を材にしたテーマが追加され、今回あらたにナチズムの再興というテーマが追加され28シーンとなった - 劇を見ている間はそれぞれのシーンが圧巻、というか彼女を見ているだけでおもしろくて – おもしろがってはいけないのだろうが - あっという間に終わってしまう。28曲を1時間半で突っ走るギグ。
Tilda Swintonという女優のキャリアを見たとき、ハリウッドの超大作からB級からアート系まで、社会の除け者、異物、消えゆくものに対する目線(いろいろ)、というのは常に一貫してあって、そこではジェンダー、国家や階層、イデオロギー、がどのような形であれ俎上にあげられて、この劇作は、ドイツだろうが30年代だろうが関係ない、むしろ、だからこそライフワークのように取り組んでいるのだろうな、と思った。
しかしこれを昼と夜2回公演って、体力的にすごいな。
[film] Teenage Sex and Death at Camp Miasma (2026)
9月18日、金曜日の昼、CurzonのSohoで見ました。平日の昼間なので客席には数名しか。
作・監督は”I Saw the TV Glow”(2024)のJane Shoenbrun - この人(sheではなくthey/them)はいま出ているSight and Sound誌の表紙 - ちなみに先月号の表紙はChristopher Nolan – になっていたので、すごいかも、と。公開は先月だったので大きいスクリーンでの上映はなくなっていたが、公開直後はBFI IMAXでの上映もあったらしい。 タイトルから成人映画指定かと思ったがR15だった。実際そんな怖くなかったからだいじょうぶ – というかふつうのティーンホラーを期待していくと頭にくるかも。
”I Saw the TV Glow”でカルト的な人気を博したテレビ番組シリーズを題材に、それに決定的な影響を受けた(かつての)子供たちの生態、「成長」を追ったように、ここでは(あまり詳しくないのだが)『13日の金曜日』や『ハロウィン』や『エルム街』など、80年代のスラッシャー映画の伝説に連なる”Camp Miasma”のシリーズを置いて、防火服を着て頭に天井の通気口カバーを仮面のように被ったトランスジェンダーの殺人鬼”Little Death”が湖の底から現れて湖畔のキャンプでいちゃいちゃしている若者たちを槍で串刺しにしたり腕や首を切断したりしていて、爆発的な人気を得てシリーズ化されるものの、(よくある話)みるみる失速していった様子が冒頭で描かれて、かつてティーンとしてこの作品に浸っていたインディー系の映画監督Kris (Hannah Einbinder)のところに、同シリーズのリブート企画としてOrigin Storyを描く、という依頼が舞い込んで、舞いあがって伝説の撮影現場に向かうことになる。
その場所はGPS圏からも微妙に外れた、でも映画シリーズを何度も見てきたKrisにとっては間違いなく約束の地としか思えないような場所で、そこで彼女は第一作のFinal Girlで、同作出演後に映画界から引退して彼女自身が伝説となっているBilly Presley (Gillian Anderson)に会いに行く – 彼女は第一作の撮影現場のすぐそばの山荘に、”What Ever Happened to Baby Jane?” (1962)のBette Davisのように謎めいた振る舞いで籠って、ひとりジャンクフード(KFC)とアメリカン駄菓子にまみれて暮らしていた...
Krisはそんな彼女に自分がティーンの頃にこの映画からどれほどの影響を受けたのか、この映画の起源と成り立ちを掘りさげていくことが自分にとってどれだけ重要なことなのかを語って、それを横で聞いていくBillyはわかっているのかわかっていないのか、Krisを挑発するような怪しげな行動 – 不愛想だが嫌われてはいないらしい - をとって、そんなふうに近寄っていくと湖水の奥からLittle Deathが…
幼い頃の自分に決定的な影響を与えた映画なり文学なりを掘り下げていくことに伴う痛み、幼年期の終わり、いくつかの死、それらを打ち棄てられた対象 - 生きているものであれ死んでいるものであれ - のなかに見て語っていくことで蘇ってくるなにかって、なんなのか。 ”I Saw the TV Glow”ではそのメディウムとして古いブラウン管TVが置かれていたが、ここではBillyの家にある古い映写室がそういうのが湧きだす場所・洞窟として機能していて、それよりもなによりも山姥のようなBilly - Gillian Andersonがすばらしいの。
ある文化と共に育つ、それに没入していくことで自身の世界(観)を形づくること、それによって周囲との段差や痛みが広がったとしても – ふつうにでる – その痛みの正体をここまでメタ・ホラーのような形で映像化したこと、それがFinal Girl – ぼろぼろになりながらも生き残った最後のひとりとの対峙を通して現れてくることなど、ちょっと感動してしまった。
あと、思春期の呪い、世界なんて終わってしまえ、という祈りを描く、という点ではRichard Kellyからの連なりも。