11月20日、木曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
原作は1891年に初演されたHenrik Ibsenの”Hedda Gabler”、英国のアングロ・インディアン系の映画女優Merle Oberon(1911-1979)の話に着想を得て、Tanika Guptaが脚色したもの。 演出はTV版の”Howards End”(2017)や”Normal People” (2020)を監督したHettie Macdonald。
舞台は1948年のロンドン、チェルシーのお屋敷(かフラット)のリビングで、白いふかふかのカーペットが敷かれていて、それを囲む最前列の客とその前を渡って奥の席に向かう人はカーペットを踏まないでね、って注意されている。
早々に引退を発表した映画女優のHedda (Pearl Chanda)が三度めの結婚相手となる映画監督の夫のGeorge (Joe Bannister)とのハネムーンから帰ってきたところ。まるまる堂々としたメイドのShona (Rina Fatania)がまずGeorgeと彼の叔母を迎えて、彼らとの会話から、ShonaとHeddaのインドにいた頃からの古い付き合いが明らかにされる。HeddaとGeorgeの仲はよさげに見えるが、ひとのよいGeorgeが気づいていないだけで、彼女はとうに冷めているような。
パーティに向かう途中でHeddaのところに寄った大物映画プロデューサーのBrack (Milo Twomey)が、アル中で一線から退いていた脚本家Leonard (Jake Mann)が戻ってきた、と告げると、Heddaの表情がちょっと曇って、更にパーティでLeonardが皆の前で読みあげたという書きかけのスクリプトの内容を聞くと、真っ青になる。インドでOutcastとして生まれ(インドでの名前は”Hema”だった)、その出自を隠して英国で女優になる女性のお話しで、それはHeddaのこと - インドで彼女と幼馴染として育ち、一時は恋人でもあったLeonardだから書き得るようなお話しで、BrackとGeorgeはすごいお話しになると思う - これは映画化せねば、って盛りあがっているのだが、Heddaにしてみれば冗談じゃない、とGeorgeが持ち帰ってきたスクリプトの紙束をテーブルの下に隠してしまう。
パーティからぐでんぐでんになって戻ってきたLeonardと対峙したHeddaは、スクリプトを失くしたと嘆くLeonardになんであんな酷いことを書くのか、って責め、更に酒を飲ませて、彼にピストルを渡して…
戦後のイギリスの映画産業がとても盛りあがっていたことはBFIで何度も聞いていて、そういう勢いの中で自身の出自をなんとしても隠さなければならなかったMerle Oberonのような人がいたことは容易に想像がつく。ふつうの人からは一切見えない(でも本人にはいろいろ見えてしまう)ところで人種差別や男たちの愚鈍さと戦わなければならなかったHeddaの苦しみ、葛藤、絶望、怒りがラストに向かって、どっちに押しても引いても、どうしようもなくなっていくさまは痛ましく、ラストはとても説得力がある。(原作とはちょっと違って、彼女はもうひとり道連れに..)
MeTooのように覆い隠されてしまう加害もあれば、Heddaのように自分で自分を隠さなければ動けなくなる空気圧のようなものもあって、前者の敵は明確にそこにいるけど、後者のは、誰も意識しないところに浸透しているので当人でなければ感知できない秘密となり、それを間接的に暴いて目を覚まさせようとしたLeonardも、それでお金を儲けようとしているBrackも、男だからそういうことができる/言えるのだ、という二重三重に縒りあわされた社会の格子のきつさ。
それを正面からずっとひっかぶってきて、既になんでもなくなっている堂々としたShonaが対照的だった。(そして、誰もがああなれるわけではない)
誰かを傷つけたり、黙らせたり抑圧しているかもしれないことを薄めて空気化して、みんなでそこに乗っかって笑ってごまかすのが得意な、揃って美白・痩身大好きな日本村でも見られてほしい、と思った。
11.26.2025
[theatre] Hedda
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