11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。
この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。
時間割りはこんなかんじ –
① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond
⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century
用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。
The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation
まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。
バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。
こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。
To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood
まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。
Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。
Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama
Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。
この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。
ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。
Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History
ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。
いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。
In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama
映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。
カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。
“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。
最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。
斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。
これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。
全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。
あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)
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