11.17.2025

[film] Predator: Badlands (2025)

11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。

監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。

これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。

ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。

とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。

DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…

人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。

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