4.06.2025

[film] Underground アンダーグラウンド (2024)

3月22日、朝にシネマヴェーラでその日のチケットを確保した後、ひとつ下の階のユーロスペースで朝一の回を見ました。

小田香監督の前作『セノーテ』 (2019)はパンデミックでロックダウンしているロンドンで見て、あの水脈というか水路というか、それ以上に地下の洞窟にあんな光景がある、ということを未知未開の驚異映像のように取りあげるのではなく、昔からずっと積み重ねられてきた現地の人々の歴史と生活の合間に - こういう地層、というか水と共にうねる何かがあるのだ、とマップしてみせるその手つき、というか接し方と、その映像たちがその土地の成り立ちに重なりながら形成されていくような様がとてもよかったの。

『鉱 ARAGANE』 (2015) - 未見、『セノーテ』 に連なる地下三部作(となるのか?)の最新作が今作で舞台は日本、タイトル通りに日本の”Underground”を追っている。

では、日本の”Underground”とは、いったい何を指し示すことになるのか?

初めにダンサーの吉開菜央が日本家屋のような建物のなかで起きてトイレに行って窓を開けてストレッチして、という朝の始まりの光景や野菜を切って味噌汁をつくったり - のルーティーンが描かれる。 何気なくそこにある一日、晴れても曇ってもいない光の射してくる場所。オーバーグラウンドとアンダーグラウンドの中間にあるような。

日本のアンダーグラウンドには何があるのか? 掘ったら何が出てくるのか? のっぺりなんの面白みもなさそうな商業目的で開発された新興住宅地とかニュータウンといった「オーバーグラウンド」のB面として、遺骨とかお墓とか遺跡とかは必ず「先祖代々の」みたいな文句と共にやってくるものの、その正体がなんであるのかはわかっていてもあまり語られないことが多い。それははっきりと死骸で、でもかつて生きて喋ったり動いたりしていた者たち、時によっては殺されてしまった人々であったり、今は姿を変えて棄てられたりなかったことにされ埋められたりしている、それらの記憶を、声をつかみ取る、(下に澱んでいるそれらを)掬いあげようとする試みが16mmフィルムに収められている。

それを単なる紀行ドキュメンタリーにするのではなく吉開菜央(「演じる」ではない、「操られる」「同化する」というか)の「影」がひっそりと射していくかのように沖縄戦の現場のひとつ - ガマやダムで沈んだ村や大きな雨水菅や半地下の映画館など、各地の地下空間を巡っていく。 その影の形に沖縄戦体験者の声を紡ぐガイド松永光雄や読経の声が重ねられて記憶は多層となり鹿の骨やサンゴに固化していく - そんなふうに時間をかけて繰り広げられていく地下世界の循環、連なり。

「影」の日常と彼女の向かっていくアンダーグラウンドとの対比が興味深くて、例えば、自分の部屋でごろごろだらだらし続けるChantal Akermanの姿と、その反対側で彼女の向かっていったホテルや「東」や「南」の姿のことを思った。単純に両者を比較できるものではないが、なぜそれを撮るのか、撮り続けようとするのか、の問いの起点には部屋や家、基調として流れる日常の時間が必ずどこかにあるのだと思う。

あとは、Edward Hopperのシアターや映画館の暗がりに佇む女性の像なども。重ねられた記憶の間でどう動くのか、そこから外? どこ? に出ていくのか。

ひとつの「影」の出どころ、ありようを特定するのに目を凝らす必要があるのと同じように、この映画が映しだしているイメージたちも一度で見て終われるものではないような。それくらいこの作品に映しだされるイメージと音の豊かさ、多様さは半端ではないので、どこかでもう一回見たい。英国ではもう上映されたのかしら?

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