4.13.2025

[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)

4月11日、金曜日の晩、日仏学院の特集 - 『アラン・ギロディ&アルノー&ジャン=マリー・ラリユー特集 欲望の領域』で見ました。

シネマヴェーラの成瀬特集でリハビリを3回やって、そろそろ次のステージを、となった時、やはりこの辺かな - というか元気だったら全部通ってるし - となる。自分のなかで邦画 - 洋画(そのなかでも英語圏-非英語圏とか)、クラシックか最近のものか、など、もっと細かいいくつかの区分けがあって、元気であれば手当たり次第に見ていくのだが、そうでない時にはどういう順番で、なぜそれを見る/見たいのか、を自分に聞いて、でも本当に行けるかは自分の体との相談になるので、前売りのチケットを取ったのは割と直前だった。

邦題は『パティーとの二十一夜』、英語題は”21 Nights with Pattie”。
Arnaud Larrieu & Jean-Marie Larrieuの監督作品、これまで見たことなかったかも。

疎遠だった母が亡くなったと聞いてオード山脈の山間の村にやってきたCaroline (Isabelle Carré)が「秘泉荘」 - 母はここでひとり暮らしていた - にやってくると、よく知らない男たちがそこのプールで水浴びをしていて、管理人のPattie (Karin Viard)は気さくでよい人っぽいのだが、いきなり自分の性体験(気持ちよい系の)をあけっぴろげに語りだすのでちょっと引いたり。

光を遮って風を入れている部屋に安置されていた母の遺体と向き合っても激しい感情が湧いてくることはなく、葬儀を済ませたら帰ろうか、くらい。この部屋だけではないけど、室内の光の捉え方がすごくよい。

その晩、言葉(だけじゃなくいろいろ)のあまり通じない、でもみんな陽気で楽しそうな村の人々と会って戻ってきたら母の遺体が消えていた… 村の警察、ではない憲兵隊を呼んで調査を始めてもらうと、憲兵のPierre (Laurent Poitrenaux)は屍体愛好家が持ち去ったのかもしれない、などという。とにかく予定していた葬儀は延期するしかない、とCarolineは夫と娘たちに電話で伝える。

翌日に外見はきちんとしたJean (André Dussollier)と名乗る初老の男性が現れて、その思い出を語る様子とか母の遺体が消えたことを告げた時の反応から生前の母とは相当親しかったと思われ、山荘にある「作家の部屋」の「作家」とは彼のことではないか? さらにこの人、作家ル・クレジオその人ではないか? と思って本人に聞いてみてもふふん、と肯定も否定もしない。

ずっと続く村の祭りが迫っていて、Pattiは変わらず猥談ばかり、彼女の相手として聞かされる淫力野人のAndré (Denis Lavant)の「ばんばん!」とか、いつも上半身裸の彼女の息子のKamil (Jules Ritmanic)とか、森に生えている卑猥茸とか、淫らな風が吹きまくっても、自分はもう死んでいるのだというCarolineだったが、変な人たち、変な大気に触れて少しだけ… となったところに母が戻ってくる、というか部屋の暗がりに置かれている。

母(の遺体)が戻ってきてよかった、という話(or その謎解き)でも、Carolineが自分を取り戻してよかったね、という話でもなく、明るい昼間から夜になり、夜が朝に変わっていく時間に、ちょっと淫らな欲望の風に吹かれて何かが何かに伝染して、死者もゆらーりと踊りだすよ、ってそんなお話し。

タイトルはPattiが生前の母にいつも猥談を聞かせていたら、いつかそれらの話を本に纏めましょう、と母に言われた、その本のタイトル、でもある。Pattiの言葉がそれを聞く人(≒死者)に吹きこみ、もたらす茸の胞子的な活力に満ちた、森に蠢く不思議な何かが千夜でも三六五夜でもなく、二十一夜くらいやってくる、と。 月が絡んだらもっと素敵になったかも。

音楽もはまってくるし、ものすごく好きなやつだった。

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