4月24日、木曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 –“Bong Joon Ho: Power and Paradox”で見ました。 – これもぜんぜん追えないまま終わってしまったのだが1本くらいは、と。
原題は”괴물”、英語題は”The Host”、邦題は、『グエムル-漢江の怪物-』、冒頭にフィルム・クリティックで英語字幕も担当しているDarcy Paquetさんのイントロがあった。
この映画は見ていなくて、日本での公開時はアメリカから戻ってきたり、戻って会社を辞めたりいろいろあったことを思いだした。Bong Joon Hoによる怪物映画(怪獣というよりは怪物?)。
2000年頃、白衣を着たアメリカの科学者がやばそうな薬品(毒物)の瓶を部下の韓国人に強く命じて何百本もシンク→漢江に破棄をして、やがてその部下は橋から飛び降りてしまう。
2006年に、漢江の河べりの公園で露天商をやっているGang-du(Song Kang-ho)と父のHee-bong(Byun Hee-bong)がいて、川から突然現れた怪物が人々を襲い始めてパニックになり、あたふた逃げまくるのだが、Gand-duの娘のHyun-seo(Go Ah-sung)は彼が手を離した隙にさらわれてしまう。 - 他にも大量の犠牲者がでて、その共同のお葬式にGang-duの妹でアーチェリー選手のNam-joo(Bae Doona)や弟のNam-ilもやってくるのだが、突然防護服を着た政府関係者が現れて消毒液をまいて、そこにいた全員を隔離して、政府は怪物が未知のウィルスをまき散らした、と発表する。
ところがどっこい生きていたHyun-seoがどこかの下水道から携帯でGang-duにきれぎれの電話をかけてきたので、それを知ったGang-du一家は隔離先から抜けだして、どうにか彼女を見つけだそうとヤクザにコンタクトしたり手を尽くして、そこに怪物と情報を封じ込めたい政府も絡んでぐしゃぐしゃの救出と逃走の展開に - 相手は政府なのか怪物なのか大して変わんないのか – になっていくの。
Bong Joon Hoの映画って”Parasite” (2019)とこないだの”Mickey 17” (2025)くらいしか見ていないのだが、家族 - 疑似家族的な繋がりも含めて、その内と外の緊張関係が形成されいつの間にかどこかに線が引かれてて、その結線がやがて切れる・壊れる、その際のどっちにつくのか、捨てるのか、の生きるか死ぬか or 一蓮托生のような選択が、必ずしも勝ち負けだけではない何かとしてべったり残って、どうするそれでいいのか? を常に問うてくる – この辺が”Power and Paradox” ということなのか。そういう経済的なところも含めた選択 - リアル vs. フェイクの積み重ねが、結果的にあの怪物を生んだ(怪物として出てきた)、とは言えないだろうか。
怪物は明らかにCGで、そんなにお金をかけていない00年代のCGなのではっきりと残念な出来だし、アメリカの腹黒い関与を濁していたり、政府の企てもなんかぼけていたり、そういう中であの家族の過剰な暴走ばかりが浮かびあがって... などなど、怪物映画としては欠点ばかりが目につくのだが、コロナやセウォル号沈没事故や東日本大震災を経た今、怪獣の造型も都合悪いことを隠す奴らの姿かたちも相当リアルにイメージできるようになった今、リメイクしたらぜったいおもしろくなるであろうことは見えている。日韓共同ですごいやつをやってくれないものか。
河べりに立つGang-duの遠くの岸辺に怪物が上陸して人を襲い始めて、こちらにやってくるところのカメラの動きはクリップでよく見るけど、やはりすごいわ、っていうのとBae Doonaが弓を放つとこは、最初からわかっちゃいるけどかっこよいねえ、と。
後から振り返ってあれはなんだったんだろうってなりそうな、みんなで雑魚寝している時に見る悪夢のような、B級のいろんなことが怪物を中心にうまくパッケージされているような。 すぐ朧になるので後で何回でも見れるやつ、と思った。
いろいろあった4月が過ぎていく。1ヶ月前、生き延びられるとは思わなかったねえ.. ありがとう。
4.30.2025
[film] Goemul (2006)
4.29.2025
[film] Santosh (2024)
4月23日、水曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。
上映後に監督のSandhya SuriとRiz Ahmedのトーク付き。
これまでドキュメンタリーを撮ってきたSandhya Suriが初めて脚本を書いて監督したイギリス・インド・フランス・ドイツ共同制作で、昨年のカンヌのある視点部門に出品されている。
インド北部の地方に暮らす28歳のSantosh (Shahana Goswami)は、警官だった夫が暴動制圧の現場で殉職してしばらく悲しみにやられて空っぽになっていたのだが、インドにはそうやって残された配偶者を警官として応募採用する制度 – “compassionate appointment” - があるらしく、これに応募してうるさい義理の親たちや世間の目から抜けだそうとしてみる。あとは、夫がどんな世界を生きて、そして死んだのかを知るためにも。
警官の立場で見てみたインドの社会はこれまでとは違う形で彼女を圧倒して、そんななか、最下層カースト - ダリットの少女がレイプされ殺されて井戸に捨てられていた事件に関わっていくうち、差別(性差別、カースト差別)や貧困の過酷な現実に加えて、(被害者の側から見て)何もしてくれない警察への不信不満と緊張が膨れあがって彼女を苦しめ始めた頃、先輩の女性警官Geeta (Sunita Rajwar)が現場に現れて力強く仕切ってくれてSantoshをこの事件の副官として参加するようにしてくれる。
Geetaはどっしりしていて経験豊富で、組織内の上層や男性警官への扱いやメディアに対する対応も手馴れていて揺るぎなくて、Santoshは彼女の庇護のもと、警察のやり方、やり口も含めていろいろな「現実」を学び、実行し、周囲に「適応」していくようになる。
Santoshの根には最愛の夫を奪ったインド社会に対する怒りや絶望があり、おそらく夫がそうであったように犯人を見つけだして正義を実行する - この世の中をよくしたい、という動機があったはずなのだが、日々の仕事のなかで警察として路上に出て与えられた役割の通りに動いていくうち、Geetaの背中を見て一緒に動いていくうちに、彼女の振る舞いは自分が思っていた方ではない、よりダーティな現実に合わせる、少し前の自分を失望させていた警察のやり方を倣う方に変わっていくようで、それらに対するSantoshの惑いや困惑も生々しく描かれる。(インド版、女性版の”Training Day” (2001)と呼ばれるのも少しわかる)
正義に殉じるヒロイックな姿を描くのではなく、夫を緩く絞めていったものかもしれない同じ力 – それは警察機構や権力、その底に流れる年を経て固化した偏見や蔑視の沼の圧も含めて – にのみこまれていく意識や感情の揺れがフィクションを通して、というよりドキュメンタリーの透明な距離でもって迫ってきて、それはインドのSantoshのものだけではないと思った。 そして、それを形にしてみせる女優Shahana Goswamiさんの演技の見事さと。
イスラムフォビア、カースト差別、女性差別、警察の残虐行為などの描写を懸念したインドの映画検閲当局は本作のインドでの公開を禁止して、トーンダウンするよう数箇所のカットを要請している – というのがこの映画の正しさとありようを示しているような。
上映後の監督とRiz Ahmedさんのトークは、”I for India” (2005)のようなすばらしいドキュメンタリーを撮ったあなたが、どうしてこのようなフィクションを撮るに至ったのか、という点から入り、完全に映画作家 or 批評家としての語りに徹していて、そっちのスマートさの方に惹かれてしまうのだった。
4.28.2025
[film] Four Mothers (2024)
4月22日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
昨年のLFFでも上映された新作で、イタリア映画の”Mid-August Lunch” (2008) – 未見 – をアイルランドのDarren Thorntonがリメイクすべく、舞台をローマからダブリンに移して作ったアイルランド映画。
中年のゲイでYA小説家のEdward (James McArdle)は脳梗塞で倒れて以降喋れなくなっている母のAlma (Fionnula Flanagan)の面倒を見ながらふたりで一緒に暮らしている。 彼の新しい小説は評判もよくて、次のブレークのためアメリカにプロモーション・ツアーに行く計画があって、John Greenとのトークも予定されていたり、彼の将来のためには極めて重要なイベントなので、地元メディアもプレスもうまくいくように、って手を取りあって見守っているのだが、Edwardはやはり母のことが気になるし、実際に日々いろんなことが起こるので、どうしたものか、になっている。
喋れないと言っても、AlmaはずっとiPadを抱えていて、やってほしいことなどをiPadに打つと即時で音声変換してくれる - その無機的なロボット声がなんかおかしい - のでものすごく困った事態にはなっていないものの、ずっと一緒に暮らして食事をしたりしているので、彼が少しの間でも離れて別の土地に行くのはまた別の話だと思うし。
という彼の状態を知ってか知らずか、2人のゲイ友達が、週末のカナリア諸島でのプライド・フェスに参加したいから、と彼らの母親2人を犬猫を捨てるみたいに戸口に置いて、ごめーん、とか言いつつ去っていき、更にはEdwardのセラピストで、彼のアメリカ行きを行くべき、って強く支援していたDermot (Rory O’Neill)も、フェスの広告を見ているうちにムラムラしてきて、自分の母親を置いて、旅立ってしまう。 こうして自身のに加え、よく知らない3人の母親たち - 計”Four Mothers”の面倒をみることになったかわいそうなEdward - ものすごくアメリカには行きたい、なのに - の悲喜劇が軽いタッチで描かれていく。
主役のEdwardが女性だったら、相手をするのがFour MothersではなくFour Fathersだったら、うまく成り立たないドラマのようにも見えて、過去にはいろいろあったのであろう人がよくて、頼まれたら断ることも毅然と決めて動くこともできない丸っこいEdwardのキャラを真ん中に置くと、性格(憶測)も挙動もばらばらで不敵な四人の母親たちが彼を囲んでいる – 朗らかなだけでも、叱っているふうでもない - 絵はなかなか素敵なものに見えてきて、全体としてはよいかんじかも。
他方で、映画として見た時に、こんなにあっさりお行儀よく収まってしまってよいのか? という不満はわいてくるような。一言も言葉を発しないAlmaを始め、裏にものすごくいろいろ抱えてきた/いそうな女性たち - 自分の子供たちは週末の快楽のために自分を棄てた - が一箇所に固められて、多少の騒動は持ちあがるものの、あんなに大人しくお行儀よくしていられるもの? アイルランドのおっかさんたちだよ?
ということを感じさせてくれるような面構えの、そこにいるだけでいろいろ思わせてくれる女優さんたちだったのでなんか勿体なくてー。しっとりしたメロドラマに仕上げる方もあったかも、とか。
世界各国でいろんな”Four Mothers”をやってみたらおもしろいかも。見たいかも。
4.27.2025
[film] Rozstanie (1961)
4月21日、月曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
これもBFIの4月の特集 – “The Long Strange Trips of Wojciech Jerzy Has”からの1本で、ポーランドの映画作家Wojciech Jerzy Has (1925-2000)の生誕百年を記念した初の全作品上映のレトロスペクティブ、だそう。
この人の作品は、日本のポーランド映画祭での”The Saragossa Manuscript”(1964) - 『サラゴサ手稿』くらいしか見たことがなかったのだが、お勉強で見たい – と思ったらこれももうほぼ終わっている状態で(泣)、でも見ないよりは見たほうがだから見るの。
Harmonia (1947)
最初は13分の短編で、単独監督デビュー作。英語題は”Accordion”。音は入っているが発話や会話はない。男の子が古物屋にあったアコーディオンを欲しくなって、でも彼を雇っている主人が買ってくれるとは思えないので、隠してあった小銭をかき集めて、履いていた靴と上着も足してようやく手に入れて持ち帰ったら主人がふざけんな、って叩き壊して雨の中に放り出し、それを見た男の子は壊れたアコーディオンを拾ってひとり家を出ていくの。 小さい子の後ろ姿がしんみり哀しい。
Rozstanie (1961)
英語題は”Goodbye to the Past”。72分の作品。 サブタイトルには”A Sentimental Comedy” とある。
朗らかで軽そうな青年Olek (Wladyslaw Kowalski)が列車で上品な中年女性Magdalena (Lidia Wysocka)と出会って、同じ駅で降りてそのままサラリと別れて、Magdalenaは彼女の生家である大きなお屋敷で行われる祖父の葬儀にやってきたらしい。
女優をしているMagdalenaが実家に戻るのは数十年ぶり、地元の名士だった祖父の屋敷を含む遺産 - でも彼女が出ていってからはからから - の相続人である彼女 - ずっと不在で葬儀が済んだら都会に戻ってしまうと思われる彼女に対して、ずっと家を維持してきた家政婦を始めとする旧勢力がしらじらとよそよそしく、これを機に屋敷を手放してくれないか or 地元の誰でもいい誰かと結婚して屋敷を自分らのどうにかできるようにしてくれないものか、だってあなたがいない間こんなにがんばって維持してきたのだから、とわかりやすい悪巧みを厚塗りで仕掛けてくる。
Magdalenaは彼らのそんな思惑はすべてお見通しで、故郷への郷愁や育った家に対する思い以上に、人々がそんなふうに変わってしまったこと、或いは歳を重ねた自分への接し方が(或いは歳を重ねた自分自身が?)変わってしまったこと、に失望しつつも、言われるままに人に会ったり、寄ってくる人達に会ったり、そのどれもが - “Goodbye to the Past” - あの頃に別れを告げるきっかけや踏ん切りのようにしか効いてこない。明らかに、もうここに自分の居場所はない。
そんな中、冒頭で出会ったOlekだけはなんのしがらみも縛りもない素の温度感でMagdalenaに接してくれて、彼と過ごす時間のなかで再訪する過去や部屋のあれこれは、全く異なる表情で迫ってくるのがなんだか切ない…
それでもやはりMagdalenaは元来たところに戻ることにして、あなた達の相手をしていても無駄だし、って蓋の開いた泥沼をあっさりかわして去っていく姿も、ほんの少しの心残りのOlekとのことも振り返らずに発つところもよくて。
難しくないテーマとはいえ、エピソードの並べ方や、少しだけ揺れつつも気を取りなおして過去を棄てて去るMagdalenaの毅然とした姿がかっこよいのだった。湿り気がなく立ち姿が素敵で、かんじとしては高峰秀子、だろうか。
ロンドンに戻ってきて1週間が経った。まだお腹の穴は塞がってくれなくて、そういうことならずっと閉じなくていい、こっちにも考えがある、になってきた。
4.25.2025
[film] Such Good Friends (1971)
4月21日、月曜日の午後、”Warfare”でへとへとになった状態で、BFI Southbankに移動して見ました。
ここの4月の特集 – “You Must Remember This Presents... “The Old Man Is Still Alive””からの1本。
我々の大好物で、誰もが「名作」と讃える30~50年代ハリウッドのクラシックを作りあげた問答無用の巨匠たち – John Ford, Howard Hawks, Fritz Lang, Vincente Minnelli, Alfred Hitchcock, George Stevens, Billy Wilder, Henry Hathaway, George Cukor 等々は、彼らの「晩年」と呼ばれる60-70年代 - スタジオシステムが変わり、テクノロジーが変わり、検閲のコードやジャンルの枠組みが変わり、人種やジェンダーに対する社会の考え方が変わっていく中、どんな作品を作って「適応」したりしていたのか? 実際に見て確認してみましょう、という特集。このレベルの監督たちであれば、個々の作家論、作品論から個別に語っていくのが筋というもので、こんな特集で大括りにする意味があるとも思えないのだが、なんかおもしろそうなので見たい。
と思ったのだが、こういう特集の場合、各作品で期間中2回くらい上映があって、うち一回は専門家や批評家のひとのレクチャーがついて、でも戻ってきたのが月の後半なので、解説付きのはほぼ終わっていて、残りのも時間が…
邦題は『男と女のあいだ』、監督はOtto Preminger – これが最後から3番目の作品、原作はLois Gouldによる同名小説(1970)、脚本はEsther DaleとクレジットされているがElaine Mayのこと、更にここにはuncreditedでJoan DidionとJohn Gregory Dunneも関わっているそう。 かっこいい女性の下半身ポスターはもちろんSaul Bassによるもの。
マンハッタンに暮らす主婦のJulie (Dyan Cannon)がいて、旦那のRichard (Laurence Luckinbill)はアートディレクターで子供向けの絵本を描いたりしていて、ふたりの子供と家政婦もいて、セントラルパーク沿いのアパートで、そこそこ裕福な暮らしをしているが、ふたりでパーティに参加した時やベッドで寝る時の様子などから夫婦関係はなんとなく微妙であることがわかる。
首のほくろを除去する簡単な手術でRichardは入院して、家族の医者Timmy (James Coco)は手術はうまくいって全く問題なかった、というのだが、次の日に少しだけ輸血をした際の反応がよくなくて昏睡状態になった、と告げられ、日が経つにつれこんどは血液の全とっかえとか、更には臓器不全とか、問題ないから、を繰り返す医者の反対側で彼の容態はシリアスになっていって止まらない。
落ちこむJulieを慰めようと家族の友人Cal (Ken Howard)が会ってくれたりするのだが、彼のGFのMiranda (Jennifer O'Neill)がずっとRichardと関係を持っていた、とかいうのでうそー、ってなり実母に相談しても埒があかず、Miranda本人に会って話してみるとあっさり認めて、彼とは愛しあっているし結婚の話もしている、そこまでは行かないかもだけど、とか。
混乱したJulieはRichardの評判を貶めてやれ、ってCalと寝ようとするもうまくいかず、Timmyのところに行ってみたら、Richardの他の浮気情報がでるわでるわで、アタマきてTimmyを脱がせてやってしまおうとするがうまくいかず、あーあ、ってなったところでRichardのメモ帳を見つけたら、そこには更にいろんな女性との関係の記録なのか予定なのかが暗号や符号でわんさか記載されていて、どうしたものか... ってなったところでRichardはぷっつりと亡くなり向こう側に行ってしまう。
長年に渡って相手(夫)の女性関係などを全く知らなかった、という不条理やそれに起因する敵意や憎悪を描くというよりも、そういうことを全く知らず、或いは教えずに済んでしまっていた“Such Good Friends”のサークルの緩いありようを描いて、変なのー、と思ったがドラマとしてそんなに変なかんじはなかったかも。ただ人物の造型などは、東海岸というよりは西海岸ぽいかなー、くらい。 SATCまで行くにはここからあと30年必要だった、と。
監督はJulieの役をBarbra Streisandにやって貰いたかったようで、確かに主演よりも脇役の方が印象に残ってしまう、という弱さはあったかも。
4.24.2025
[film] Warfare (2025)
4月21日、月曜日だけどEaster Mondayの祝日だったことを知る – にCurzon Bloomsburyで見ました。
監督は”Civil War” (2024)のAlex GarlandとRay Mendozaの共同、”Civil War”は架空の(であってほしいがそうでもなくなりつつある)戦争を描いていたが、これは2006年のUSのイラク戦争時、イラクのラマディに派遣された小隊に実際に起こったことを描いていて、共同監督で”Civil War”で軍事コンサルタントをしていたRay Mendozaは、その小隊に所属して戦闘の只中にいた一人だそう。 1時間35分 – Alex Garlandの映画は2時間を超えないのがよいの。
“Civil War”の百倍ぐちゃぐちゃでこわい。エモ一切抜きで、物理で、戦争ぜったい嫌だ無理、になる。
2006年11月、アメリカのNavyの小隊が夜中、イラクのふつうの住宅街をそうっと抜けていき、一軒の住宅に入ってそこに住んでいる家族を別部屋に隔離して持ち場について何かの準備に入る。小隊のメンバーはRay Mendozaも含め全て実際の隊にいた人たちを俳優が演じている(エンドロールで各自の対比がでる)。狙撃手が設置した銃座から窓の外の何かを狙って監視する以外は、全員が床に座って計器を見たり通信したり、ぼーっとしたりの沈黙が続くが、個々の作業や通信で会話されている内容がなんなのかはほぼわからないし、そもそも彼らがどういう目的でここにいるのか/来たのかも映画の中では語られない。わかるのは何かを監視して様子をみて攻撃すべく待機している? くらい。
朝になってもその状態は続いて、でも監視をしている反対側の建物の方で少しだけ人の動きと出入りがあり、少しざわざわしてきた、と思ったら手榴弾がいっこ、からん、て部屋に投げ込まれ、そこから混乱が始まって、とにかくここを出た方がよい、と救援で呼んだ戦車が人を乗せている途中、建物の入口で爆破されてからは血みどろと叫び声で右も左も、になる。上空から周囲の人の動きが見える端末の映像もあるし通信での交信もいろいろあるのだが、建物の前の道端に人の足が転がっている、その棄てられかたが何かを語る - 向こうもこちらも動けずに固まったまま。
この上映はDolby Atmosのシアターで見たのだが、音がものすごく強くて恐い。戦争の音の恐ろしさは”The Hurt Locker” (2008)辺りで思い知ったと思うが、あれ以上に静寂とばちばちのコントラスト - 爆発音、(遠くの、近くの)銃声、叫び声、低空で飛んでくる戦闘機、散乱するホワイトノイズ、自分の中なのか映像の向こうなのかの耳鳴り、家の中で視界が限られている中、耳もまた暴力的な音で塞がれて逃げようがない。
ここには従来の戦争映画にあったようなこういう状態に置かれたことの意味や大義や正当性を問うような会話や状勢の説明は一切ない。この戦争がどういう目的のもとで為され、彼らがどういう指令のもとでここにいて、そこで敵と味方の線引きがどういうものなのか、これらがなくて、それは現場にいる彼らも同様のようで - あのイラク戦争そのものがでっちあげだったし - 映画の後半は戦うというより戦意なんて知るかになった彼らがどうやってこの状態から逃げるか、逃げることができるのか、が焦点になってくる。 自分から首を突っこんで抜けなくなる系の極限ホラー、とカテゴライズしてもよいのかも。
という状態なので、次に、では戦争 - “Warfare” - とは?戦争映画とは? という問いが来て、最近の戦争ものがアニメも含めてファンタジーやゲームみたいになっている傾向がなんかよくわかる気がする(あくまで気がする)、この乖離って、とてもよくない、危険な傾向ではないかと。
エンドロールで映画のモデルとなった兵士たちの現在 - 朗らかに出てきて再会したりするのだが、あれは別になくてもよかったのではないか。
RIP David Thomas..
最後にライブを見たのは2018年8月のNYだった (その前だと90年代のNY)。
自分の中ではMark E. Smithと並ぶ唯一無二のヴォーカリストだった。マンチェスター vs. クリーブランドと、どちらも地方都市のバンドでありながらバンド名の起源はどちらもフランスの文人(Albert CamusとAlfred Jarry)だったり、バンドだけどメンバーはちっとも固定していなかったり、しかしそのライブが外れだったことはなかった。
ありがとうございました。
4.23.2025
[film] Vale Abraão (1993)
4月19日、土曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下で見ました。
離日前に見た最後の映画。 ここでのManoel de Oliveira特集、あと一週間早く始まってくれていたら…なのだが文句は言わない。見ることができてよかった。 203分のディレクターズカット版。
邦題は『アブラハム渓谷』、英語題は”Abraham's Valley”、プロデュースはPaulo Branco。原作はAgustina Bessa-Luísの同名小説 (1991)で、その底にはフローベールの”Madame Bovary” (1857)がある。Manoel de OliveiraはAgustina Bessa-Luísの小説を他にも多く映画化しているのね。
上映時間も含めて渓谷のように深い谷の底まで時間と共に掘ったり刻んだりの大河ドラマのようにでっかい作品かと思っていたらそんなでもない – だからつまんない、なんてことは勿論なく、"Bovarinha"と呼ばれたひとりの女性の生涯を描いて、これはこれで谷底を覗く冷んやりした感覚がやってくる。
20世紀中頃のポルトガル、ドウロ川沿いを列車が走っていく映像と共にナレーションの声(Mário Barroso)が「アブラハム渓谷」について語ったりするものの、どこからどこまでがその渓谷を指すのか、全容はよくわからなかったりして、以下、このナレーションの声が、誰がなにをしてこうなった、などについて無表情に語っていく。
父(Ruy de Carvalho)に連れられて食事をしていた14歳のEma (Cécile Sanz de Alba)が医師のCarlos (Luís Miguel Cintra)と出会う。幼い頃に母を亡くしたEmaは裕福な家庭で父の他に叔母と家政婦と耳の聞こえない洗濯女Ritinha (Isabel Ruth)と猫(すごくかわいい)と暮らしていた。
叔母の葬儀で20歳になったEma (Leonor Silveira)と再会したCarlosはその美しさに打たれて彼女と結婚することにするが、先妻と死別していてずっと多忙な彼がいつもEmaの傍にいてくれるわけではないし、彼の姉たちも揃っていじわるだし、Ritinhaは出ていってしまうし、娘がふたり産まれるものの、なんかつまんねーな、になっていく。
こうして社交がEmaのほぼ唯一の娯楽になり、Luminares家の舞踏会で旅行家のOsório (Diogo Dória)と出会って、そのあたりから彼に誘われるままに彼の屋敷や庭園に出入りし、着飾っていろんな男と出会う端から逢瀬を重ねていくようになり、それらはCarlosの耳にも入ってくるし、それらが夫の耳に入っていることもEmaは知っているけど、彼女の日々の関心や足取りが変わったり揺らいだりすることはない。あの家の誰それがいなくなった、どこそこにいるらしい、でもEmaは渓谷の外に踏みだすことはできず、足を半端にぶらぶらさせることしかー。
家を出て遊んでばかりのEmaの浪費で投機に手を出して負債を負って老いて落ちぶれたCarlosをかつての執事から成りあがったCaires (José Pinto)が救い、彼がEmaに昔からお慕いしておりました、と求婚してきたのでそこまで堕ちちゃいねえわ、って家を出ることにするのだが..
ドウロ川を真ん中に置いた『流れる』(成瀬)のようなイメージもあるが、映画はそこをどんより流れていくEmaの状態を作りだした川と谷のランドスケープ – 「渓谷」をタイトルにして、『ボヴァリー夫人』のEmaに落としこもうとする世間に抗おうとしていて、それが当時の~現代の、少し前の大奥様まで含めた女性のありようにまで広がっていくところ、そして人生は美しい、とまで言ってしまう(誰が?誰に?) とこはすごいと思った。彼女は腐った板を踏みぬいて落ちたのではなく、よりでっかい渓谷の冒険に自ら乗りだしていったのではないか。
それにしても、ふたりのEma - Cécile Sanz de AlbaとLeonor Silveiraのすばらしい目の強さ、衣装の、特に色彩の美しさ、それを捉えた瞬間の背景の鮮やかさときたら。4時間でも5時間でも、あと2〜3回は軽く見れると思った。
なのにこの後は最後のお買物とパッキングがー。
[music] Beck with Live Orchestra
4月20日、日曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。
13時間半のフライトを経て飛行機がヒースロー空港に着いたのが、15時半くらい、おうちに着いたのが17時過ぎ、窓を開けて荷物を広げて少し片づけて、お腹の穴からなにかはみ出していないかを確認して、前座の始まる19時半丁度に会場に着く。
チケットはなんとか帰英できそうな状態であることを確認でき.. そうになれたライブの2週間前くらいに、アリーナの前から2列目のが取れた(リセールじゃない定価の)。入院中に本を読むのがきついときはスマホをいじるわけだが、いろんなチケットを頻繁にチェックしたり軽く取ってしまったりしがちなので、こういうのも起こったりする。いま恐いと思っているのは、そうやって深く考えずに取ってしまったやつがどこかで埋もれてダブルブッキングしたりしていないか、ということだわ。
前座はMolly Lewisという女性のWhistler(口笛吹き)で、きらきらしゃらんのドレスに手ぶらで登場し、オケにあわせて気持ちよさそうに口笛を吹く。これがテルミンのようにしなやかで吹かれる側も気持ちよくて素敵だった。拍手はよいけど口笛でヒューヒューするのは営業妨害になるのでやめてよね、って。
今回のライブのタイトルは”Beck with Live Orchestra”となっていて、19日-20日の2days、伴奏はBBC Concert Orchestraで指揮者はTroy Miller - 事情はわからないけど、二日間で指揮者は別々だったりしている。オーケストラの他にはJason Falkner、Roger Joseph Manning Jr.、Joey Waronkerといういつもの(見た目は地味だけどめちゃくちゃうまい)トリオがステージ左手に固まっている。
Beckのライブを見るのは2002年の”Sea Change”の時のBeacon Theatre以来で(20年以上…)、この時バックを務めたのはThe Flaming Lipsで、このライブがものすごくよかったので”Sea Change”はいまだによく聴く一枚で、今回のオーケストラとの競演でまずイメージしたのも”Sea Change”の波のようにゆったりとうねる音のカーテンで、実際演奏された殆どの曲は”Sea Change”と”Morning Phase”(2014)からのものだった。
オーケストラが”Cycle”で入口を優しく流しこんだ後、ギターを抱えたBeckが出てきて”The Golden Age”から、続いてギターを置いてサントラでカバーしたThe Kogisの“Everybody's Got to Learn Sometime”を。サントラで聴いたときは、冷たいところ温かいところが共存する微妙なかんじだったのだが、このライブではマイクを抱えて艶歌のように切なく歌いあげてくれて、この感じだわ、って納得した。以降、ギターありとなしを交互に繰り返しつつ、まずは歌に集中しているような。
MCでも語っていたがバンドアレンジの外側にオーケストラアレンジした楽曲を被せる、のではなく両者が一体となって新しいイメージを生んでくれるようなアレンジを目指した、ということで、その参考としたのが2曲のカバーを披露したScott Walkerであり、”We Live Again”を捧げたFrançoise Hardyであり、「ゴスになりたかったけどうまくいかなかった」と言ってカバーしたThis Mortal Coil(原曲はColourbox)の"Tarantula"であり、ゆらぎながら内側にゆっくりと崩れていく世界に、この人の声はとてもよくはまる、というか声と世界が対峙して移ろういろんな模様を見せてくれる。 声以外だとJoey Waronkerのばちばちに切れるドラムスに背後から襲いかかるティンパニーなどの打楽器群がとてつもない音の深淵を。
どの断面で切っても見事だったが、中盤の“Tarantula”~”It's Raining Today” (Scott Walker)~”Round the Bend”のあたりは、旅の疲れにまっすぐ沁みて撫でてくれる気持ちよさがあった。
“Where It's At”まででオーケストラの人々は去って、バンドはステージに残って”Devils Haircut”から”Loser”まで4曲。その間、がらんとしたオーケストラ席を酔っ払いのように動きまわり、上の方にあるパイプオルガンを弾かせろ、とか、打楽器を手にしてこれはなに? って銅鑼を鳴らしたりとか、子供か…
それにしても、とても失礼かもだけど、1993年の”Loser”から30年かけて、彼がこんなふうになるなんて誰が想像できただろうか? メインストリームかオルタナか、でいうといまだにオルタナとしか言いようがない音を出しているところもすごいし。
4.19.2025
[film] Three on a Match (1932)
4月17日、木曜日の夕方、シネマヴェーラのプレコード映画特集で見ました。
邦題は『歩道の三人女』。監督は”Five Star Final” (1931)もなかなか陰惨でよかったMervyn LeRoy。コロナでロックダウンされていた時にCriterion Channelで見ていたことがわかったが、いいの。63分という長さなのに、ものすごく濃くて恐ろしい。ホラー、といっても通用しそうな地に足のついた残酷さがある。
NYのパブリックスクール(P.S.62)で、3人の女の子 - Mary, Ruth, Vivianがいて、ふつーに不良の子、男付き合いのうまい子、ふつーのよい子、それぞれがいて、大きくなったMary(Joan Blondell)は少年院に入れられたりしていたがどうにかそこを抜けて更生していて、Ruth (Bette Davis)は速記者としてまじめに社会人していて、Vivian (Ann Dvorak)は成功した弁護士Robert Kirkwood (Warren William)と結婚してお屋敷に暮らし、小さい息子Robert Jr. (Buster Phelps)がいてなにひとつ不自由ないように見えるのだが、漠然となにかを抱えこんでいるような。
この3人が町中で久々に再会して、お茶でも飲みましょう、ってテーブルを囲んで談笑して、3人で一本のマッチの火を分けあう – これが第一次世界大戦下、兵士の間で流れた迷信 = 3人でマッチの火を分け合うとその最後に火を点けた人がしばらくすると亡くなる – に繋がっていく。それは戦場という特殊な状況下での出来事ではなく、画面に紙芝居のように流れていく当時の社会の世相や出来事の間、そこにふつうに暮らす我々の間に起こりうる災禍としてあるような。この辺、”Five Star Final”にもあったように、降りかかってくる悲劇というより始めから避けられない運命の溝として見せるのがうまい。
日々どんよりのVivianはRobertを連れてクルーズの旅に出ようとするのだが、見送りタイムにMaryとその仲間が現れて楽しく盛りあげてくれて、Maryの傍にいたちんぴらのMichael (Lyle Talbot)のねっちりした口説きに動かされてしまったVivianとRobert Jr.は出港直前に姿を消してしまう。
妻と息子に失踪されたKirkwoodはMaryの助けを借りて捜索するのだが、次にMaryの前に現れたVivianは明らかにやつれた薬物中毒になって金をタカリにきて、Maryが恵んでくれたお金$80をボスのところに運んだヒモのMichaelは、兄貴のHarve (Humphrey Bogart)とボスから借金は$2000じゃなめとんのかおらー、って怒られシバかれて、もうあれしかない、とセントラルパークで遊んでいたRobert Jr.をさらって身代金$25000を要求する。
お金持ちのKirkwoodは、こっちもふざけんな、って金とパワーにものいわせてすごい捜査網を敷かせて、網はあと一歩のところに迫り、追い詰められたギャングはガキを殺して逃げるしかない、って決めて隠れアパートに向かい、渋るMichaelをあっさり殺し、そのやりとりを聞いていた扉の向こうのVivianはRobert Jr.を隠して、扉を叩く連中の反対側で鏡に向かって必死に何かやってて、そこから…
その先になにが起こるのか、そのショットの連なりも含めてあっという間で結構衝撃的で、迷信がどうしたとかどうでもよくなるくらいなのだが、最後はMary とRuthのふたりがマッチに火を点けて終わるの。
ませたガキ、少年院、不貞、児童虐待、ドラッグ、自殺など、社会的によろしくないものがぜんぜんありうる束として世相に絡まって走馬灯のてんこ盛りで、これぞプレコード、しかない。
あとは極悪冷血のギャングを演じたHumphrey Bogart、あんたはこっちの方に行くべきだったな。
シネマヴェーラの特集、今回はここまで。
昨日、滞在の最後に『アブラハム渓谷』 (1993)を見れたので思い残すことはないの。
3週間前の日曜日に入院して、というのが今思うと遠い夢のようだが、これから英国に戻ります。まだ穴がいっこ塞がってなくて、機内でここから何か出てきたりして… なのだががんばる。
いろいろ考えさせられたよい旅だったかも。
4.17.2025
[film] Ex-Lady (1933)
4月13日、シネマヴェーラで、『特集社会面』に続けて見ました。 邦題は『ふしだらな結婚』。
1日に3本見るのは久々で、これもリハビリと。
プレコード、というと、先に書いた2本のように世の中や世渡りが過酷で酷くて辛い(のでおおっぴらにしたくない)系と、この邦題みたいにふしだらで卑猥なので見せたくない(広げたくない)系のがあり(もっと他にもあるか)、これは後者で、現世のひどいのは変わっていないので、見て楽しくて勉強になるのはこっちの方であることが多かったりする。
監督はRobert Florey、原作はEdith Fitzgerald & Robert Riskinによる戯曲で、 Barbara Stanwyck主演の映画”Illicit” (1931)のリメイクでもある(どちらも原作は同じ)。
雑誌の表紙イラストなどを描いて売れっ子のHelen (Bette Davis)には広告作家で恋人のDon (Gene Raymond)がいて、ふたりは頻繁に互いのアパートに泊まったりしているもののHelenに結婚する意思はなくて、今の付き合い方でよいと思っているのだが、移民の父親からなんか言われたり、パーティの後で(お開きになってからこそこそ戻ってくる)Donにぶつぶつ言われたりして、いろいろ面倒なので結婚しようか、って結婚する。
でもこれが間違いで、新婚旅行に行ったらその間に商談を取られたり、HelenがDonの会社を通さないでライバル会社と仕事をしていたり、仕事と恋の間でトラブルが起こってばかりで、HelenはプレイボーイでDonの仕事上のライバルのNick (Monroe Owsley)と会ったり、Donは仕事の顧客で既婚のPeggy (Kay Strozzi)と会ったり、さや当てのようなことを始めて、で、一触即発でやばいぞ、ってなるといつも酔っぱらってすっとぼけているVan (Frank McHugh)が、絶妙なタイミングで挟まってくるのがほのぼのおかしい(そもそもあんた誰?)。
離れても、なんだかんだ相手を意識してて、これはこれでやっぱり疲れるし、やっぱりお互い恋しいので戻ろうか、みたいになるお話しで、今だったら箸にも棒にも系の小話程度のもんだと思うが、結婚していない男女が一緒に寝たりしていて、避妊みたいなことも話題にする、というのは当時としてはネタにしてはいけないことだったのか。これを割とふつうにあること、として見るか、あるかもしれないけど映画にするほどのことか、として見るか、で分かれるのかしら。
なんと言ってもBette Davisが艶っぽくて素敵で、彼女に絡むGene Raymondのぜんぜん凡人でぬるっとしててどこがよいんだかわからない続いていくとは思えない(が故に.. の)組み合わせもよいの。
Bombshell (1933)
4月15日、火曜日の午後、シネマヴェーラのプレコード特集で見ました。
邦題は『爆弾の頬紅』 - ↑の『ふしだらな結婚』と並んで邦題がなんか素敵で見たくなる。
映画界の"It girl”だったClara Bow(と、ここで彼女を演じたJean Harlowも )の全盛期の豪勢なはちゃめちゃぶりを描いていて、他の登場人物もClaraの周辺にいた家族や関係者を模していて、更に監督のVictor Flemingは1926頃、Clara Bowと婚約していた、と。
銀幕の大スターLola Burns (Jean Harlow)はスタジオの広報担当”Space" Hanlon (Lee Tracy)が繰り出してくるいろんな取材や宣伝のスケジュールに追い回されててうんざりで、傍にいてくれるのは家政婦とでっかい犬3匹くらい。父 (Frank Morgan)は競馬狂いだし兄 (Ted Healy)はなにもしないで飲んだくれで、どちらも彼女を金づるとしてタカリに寄ってくるだけだし、そろそろ結婚してふつうの家庭を持ちたい、って思っている。
そんな時に現れたGifford Middleton (Franchot Tone)は風貌からしてなんか貴族っぽくロマンチックで、話してみれば彼女の仕事も業界のこともあまり知らないようなので、こいつだ! って思って彼の両親と会ってみることにするのだが、その場に現れたLolaの父と兄がわかりやすく一瞬で全てをおじゃんにしてくれて、更にMiddleton一家が裏で金を貰っているのを見てしまう。これもまたHanlonの工作で、結局すべてはLolaを自分のものにしたいという彼の策謀なのだった..
全体にずっとばたばた騒がしく落ち着かない映画で、まあ見ていて飽きないし、すべてが彼女を中心に回っている - これが”It Girl”の勢いだったのだろうな、とは思うものの、恋すらも宣伝担当のいいように操られているのだった.. という男性仕掛けのどす黒い支配欲がはっきりと見えてしまい、あまり笑えなかったかも。最後にLolaがHanlonをぶっ飛ばしてくれたら別だったのだろうが。
ただ、こんなふうにしてスターシステムは成り立って維持されているのだ、という全体の俯瞰図を示してしまった、という辺りがセンサーに引っかかったのかしら?
4.16.2025
[film] Heroes for Sale (1933)
4月13日、日曜日の昼、シネマヴェーラで新しく始まっている特集 - 『プレコード・ハリウッドⅡ』で見ました。
前回のプレコード特集の時はもう海外にいたので見れなかったのだが、プレコード時代の映画特集はNYのFilm Forumとかで結構あったりしたのでおもしろいのがおもしろい、ことはわかっている。ヘイズ・コードという規制で検閲をかけなければならない程、映画が興行面も含めて大きなパワーを持ち始めていた頃の作品たち。自分が好きなだけ映画史を勉強する時間を持てるとしたら、一番やってみたい時代とテーマがこの辺のかも。
監督はWilliam A. Wellman。長さは72分で、76分のオリジナル版は失われているそう。
第一次大戦下のドイツの戦場で、ドイツ軍の人質をさらってくる危険な任務で、勇敢なTom (Richard Barthelmess)は、なんとかドイツ兵を捕まえることに成功して、恐くて穴に隠れていた仲間のRoger (Gordon Westcott)にそいつを託したところで撃たれてドイツ側の捕虜になる。
Rogerは勲章を貰って帰国後にヒーローとなってパレードまでしてもらい、死んだと思われたがなんとか生きていたTomはドイツでの治療によりモルヒネ中毒になっていて、帰国後、薬代の横領容疑で療養施設に収容され、すっからかんの無職でシカゴの街に放り出される。
ダイナー兼下宿屋をやっているMary (Aline MacMahon)に拾われたTomは、同じ下宿屋にいたRuth (Loretta Young)に洗濯屋の仕事を紹介してもらい、もともと優秀だったので頭角を表してRuthとも結婚して、更に同じ下宿屋の極左のドイツ人発明家 (Robert Barrat)が発明した洗濯乾燥機の導入が洗濯工場の劇的な効率改善と収益をもたらす。
発明家は機械のパテントにまつわる収益を半分Tomに入るようにしてくれたのだが、Tomはそんなことより機械の導入が工場で働く労働者たちの職を奪わないように経営者に念を押していて、でもその経営者が亡くなって会社経営が他に移ると仲間たちは皆んな解雇され、それが暴動に発展して、それに巻き込まれたRuthは亡くなり、Tomは扇動の罪で逮捕されて5年間刑務所に。
刑務所を出ると大恐慌の只中で、職を求めて旅をするTomは同様に家が潰れてぼろぼろのRogerと再会して、でもTomが通帳 - 洗濯乾燥機のパテント代が貯まっている - を預けていたMaryのダイナーは人で溢れていて、Tomはこんなにも多くの人を救っているのでした、って。
今のドラマだったら軽く3時間かけそうなネタを80分以内に収めて、泣かせそうなところはぜんぶドライに飛ばして、こんな時代にヒーローであることなんて、どんな/なんの価値があろうか、ってストレートに突きつける。
あと、ガチの共産主義者だったドイツ人発明家が、貧困から抜け出した途端、貧乏人は社会のゴミだ、とか堂々と言いだすところ(→ナチス)の生々しいこと。
Five Star Final (1931)
4月13日、↑のを見たあと、2本置いて同じ特集で見ました。
天気がよくて体力があったら合間に美術館でも行くのに、どっちも酷すぎた。最後の日曜日だったのにー。
邦題は『特集社会面』。監督はMervyn LeRoy、原作はLouis Weitzenkornによる同名戯曲 (1930)、タイトルは一晩に何度も刷られる新聞の最終(勝負)刷のこと。オスカーの作品賞にノミネートされて”Grand Hotel”に負けているが、タブロイド・ジャーナリズムの世界を描いて、すばらしい緊張感と現代にも通じる残酷さが正面から。
タブロイド紙New York Evening Gazetteの編集長のJoseph W. Randall (Edward G. Robinson)は売れる紙面を作れ、っていう上からのプレッシャーにずっと押されていて、社主が20年前の殺人事件 - 結婚の約束を無視しようとした上司を射殺したが妊娠していたので無罪となったNancy Voorhees (Frances Starr) - の今を取材しろ、っていう案にしぶしぶ同意する。
結婚して名前をNancy Townsendと変え、夫Michael (H. B. Warner)と事件当時に身籠っていた娘Jenny (Marian Marsh)と平穏かつ幸せに暮らし、良家のぼんPhillip (Anthony Bushell)との結婚も控えている一家に、牧師になりすましたGazette紙の記者Isopod (Boris Karloff)が乗りこんで情報を聞きだし写真まで持ちだして記事としてセンセーショナルに掲載してしまう。そしたら翌朝にはJennyとPhillipが婚姻登録で不在の時、当然Phillipの両親が乗りこんできて、この結婚はなかったことに、と強く訴えてきたので、Nancyは彼らが帰った後に自殺、それを発見したMichaelもすぐに後を追って、ふたりを発見して一瞬で絶望の底に叩き落とされたJennyは銃を手に新聞社へ…
そもそもは被害者であったNancyを犯人/加害者呼ばわりし、更に平穏に暮らしていた彼女の家族も含めて不幸のどん底に突き落とす、これらを新聞を売るための手段として世間にぶちまけて何ひとつ悪いと思わない傲慢さ、見ていて胸が悪くなる無神経かつ無責任な加害とミソジニーがあり、更にこれらがふつうの慣行のように通用・流通してしまう今の時代も貫いてきて、しんどい。「オールド・メディア」でもなんでもいいけど、100年くらいこの体質って変わっていないことは確か。
それにしてもEdward G. Robinsonのすごいこと。ずっと仕事がたまらなく嫌そうで、なにかあると石鹸で手をごしごし洗って、最後に思いっきりぶちかまして何の不自然もない。彼をずっと横で見ている秘書のMiss Taylor (Aline MacMahon)の落ち着きもよいかんじで。 あと、もっとなんかしでかすと思われたBoris Karloffはおどおどしてばかりなのが趣き深かった。
4.14.2025
[film] Peindre ou faire l'amour (2005)
4月12日、土曜日の夕方、日仏のラリユー兄弟特集で見ました。邦題は『描くべきか愛を交わすべきか』。
前日の『パティーとの二十一夜』が素敵だったので、他のも見たくなり、でも『運命のつくり方』 (2002)以降、翌日曜日上映の回はどれも売り切れで取れないのだった。
Madeleine (Sabine Azéma)が田舎のほうにひとりで絵を描きに原っぱを降りて、森の方に向かっていくと、奥の方からサングラスをした熊みたいな男がよろよろやってきて、彼 – Adam (Sergi López)は目が見えないようだったが、ここの市長をやっていると言い、原っぱの外れにある売り出し中の一軒家を案内してくれる。
都会の自宅に戻ってリタイア目前の夫William (Daniel Auteuil)に家のことを話してみると興味を持ってくれて、見にいってみよう、って実際に見たら気に入って、ここを買おうよ、になって、暮らし始める(いいなー)。
新しい家にはAdamと彼の妻のEva (Amira Casar)も訪ねてきて、MadeleineとWilliamも、AdamとEvaの家を訪れて、二組四人の交流が深まっていく。
展開としては裕福な初老の夫婦が田舎の古民家を買って暮らし始めて、歩いていける距離の隣人夫婦と親交を深めていって、というそれだけなのだが、原っぱに建つ家の描写とかちっとも落ち着いているようには見えないし、夜中、灯りのない中、Adamに手を引かれて4人でMadeleineの家に戻るところ(画面まっくら)とか、EvaがMadeleineの絵のモデルになるところとか、ミステリアスななにかを暗示しているようで、この辺は『パティーとの二十一夜』にもあった、見えないところで蠢くなにかがこちらにやってきそうな光と空気が。
ある晩、AdamとEvaの家が火事になって全焼して、住処を失ってしまった彼らに、うちに来れば、とMadeleineとWilliamは誘って、4人での暮らしが始まるのだが… これが全ての過ちだった.. というほど劇的なことが起こるわけではなく、妙な空気になって夫婦の相手がなんとなく替わってて、気が付いたらなんてことを.. って狼狽して、MadeleineとWilliamはとにかく家を出て都会に宿を取ったりするのだが、自分たちが(も)やったことだし懺悔したり悔い改めたりもなんか違うかも.. ってなり、そうっと家に戻ってみるとAdamもEvaももういなくなっている。
原因はどこにあるのか、結果として許されるのか、とかそういう話ではなくて、『パティーとの… 』でも語られる「おおらかさ」みたいな話とも違う気がして、欲望というのは掴みどころがなくどこから現れてなにをしでかすのかわからないもの、というのが夫婦の取り替え、という犯罪とかスキャンダルになるほどのものではない(相手方がAdamとEvaというのが趣深い)愛のかたちを通して描かれていて、この後に現れる別の夫婦との出来事も含めて、そういうもんよね、って最後にはハッピーエンディングでよいのかどうかー みたいなトーンでさらりと描いていて、なんかよいの。
タイトルの「描くべきか愛を交わすべきか」については、どちらも交歓(何度か流れる”Nature Boy”の”The greatest thing you’ll ever learn is just to love and be loved in return“ )だし、「どちらもー」 しかない。『パティーとの… 』は、「語る(or書く)べきか愛を交わすべきか」っていうお話しだったのかも。
ニルヴァーナ 『イン・ユーテロ』 研究 ~アルビニ・オリジナル・ミックスを検証する~
↑の映画を見る前、新宿のRock Cafe Loftで音楽ライター鈴木善之さんのお話しを聞いて『イン・ユーテロ』の盤を聴いた。
入院していて一番飢えて困ったのががりがりやかましくでっかい音で、でも入院中も出所後も耳にはなにも装着したくなくて、でもライブに行くのはしんどいし、そういえばこの日はRSDだったのにどうしようもないし、せめてどこかででっかい音をー(涙)っていう要請にぴたりと応えてくれたイベント。
『イン・ユーテロ』 (1993)の”Heart-Shaped Box”と”All Apologies”はSteve Albiniのプロデュースで録られた後、Bob LudwigとScott Littによって「お化粧」されていた、そのお化粧の度合いが経緯は不明なるも2003年にリリースされた欧州盤(+更にその数年後のリリース)にしれっと差し替え?収録されていたAlbiniのオリジナル・ミックス(かどうかは不明)らしきものによって明らかにされていて、その2つを実際に聴き比べてみましょう、という試み。
この2曲のミックス関してはPC上の音源でもはっきりそれとわかるくらい違っていて、その後にお化粧なしの『イン・ユーテロ』を1曲目からフルで、今度はちゃんとしたオーディオのでっかい音で流してみる。(この後に1993年リリース盤の通しもあったのだがそれまではいられず..)
あーこれだよなー、って痺れたのは勿論なのだが、”Heart-Shaped Box”がリリースされた当時、Anton CorbijnのあのカラフルなPVに感じた微妙な違和感 - こっちに行っちゃうのか? - はこのミックスにも起因していたのかもしれないな、とか。
Scott LittはThe dB’sの2nd(名盤)を作った後にREMをメジャーにのしあげた名プロデューサーだし、彼は悪くなくて、当時のレコード会社がろくでもなかったのだと思う。
ということよりも、久々に全曲通して聴くと、ああこれだわ、これで生きてきたんだわ、ってしみじみ思って、それだけでも。
4.13.2025
[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)
4月11日、金曜日の晩、日仏学院の特集 - 『アラン・ギロディ&アルノー&ジャン=マリー・ラリユー特集 欲望の領域』で見ました。
シネマヴェーラの成瀬特集でリハビリを3回やって、そろそろ次のステージを、となった時、やはりこの辺かな - というか元気だったら全部通ってるし - となる。自分のなかで邦画 - 洋画(そのなかでも英語圏-非英語圏とか)、クラシックか最近のものか、など、もっと細かいいくつかの区分けがあって、元気であれば手当たり次第に見ていくのだが、そうでない時にはどういう順番で、なぜそれを見る/見たいのか、を自分に聞いて、でも本当に行けるかは自分の体との相談になるので、前売りのチケットを取ったのは割と直前だった。
邦題は『パティーとの二十一夜』、英語題は”21 Nights with Pattie”。
Arnaud Larrieu & Jean-Marie Larrieuの監督作品、これまで見たことなかったかも。
疎遠だった母が亡くなったと聞いてオード山脈の山間の村にやってきたCaroline (Isabelle Carré)が「秘泉荘」 - 母はここでひとり暮らしていた - にやってくると、よく知らない男たちがそこのプールで水浴びをしていて、管理人のPattie (Karin Viard)は気さくでよい人っぽいのだが、いきなり自分の性体験(気持ちよい系の)をあけっぴろげに語りだすのでちょっと引いたり。
光を遮って風を入れている部屋に安置されていた母の遺体と向き合っても激しい感情が湧いてくることはなく、葬儀を済ませたら帰ろうか、くらい。この部屋だけではないけど、室内の光の捉え方がすごくよい。
その晩、言葉(だけじゃなくいろいろ)のあまり通じない、でもみんな陽気で楽しそうな村の人々と会って戻ってきたら母の遺体が消えていた… 村の警察、ではない憲兵隊を呼んで調査を始めてもらうと、憲兵のPierre (Laurent Poitrenaux)は屍体愛好家が持ち去ったのかもしれない、などという。とにかく予定していた葬儀は延期するしかない、とCarolineは夫と娘たちに電話で伝える。
翌日に外見はきちんとしたJean (André Dussollier)と名乗る初老の男性が現れて、その思い出を語る様子とか母の遺体が消えたことを告げた時の反応から生前の母とは相当親しかったと思われ、山荘にある「作家の部屋」の「作家」とは彼のことではないか? さらにこの人、作家ル・クレジオその人ではないか? と思って本人に聞いてみてもふふん、と肯定も否定もしない。
ずっと続く村の祭りが迫っていて、Pattiは変わらず猥談ばかり、彼女の相手として聞かされる淫力野人のAndré (Denis Lavant)の「ばんばん!」とか、いつも上半身裸の彼女の息子のKamil (Jules Ritmanic)とか、森に生えている卑猥茸とか、淫らな風が吹きまくっても、自分はもう死んでいるのだというCarolineだったが、変な人たち、変な大気に触れて少しだけ… となったところに母が戻ってくる、というか部屋の暗がりに置かれている。
母(の遺体)が戻ってきてよかった、という話(or その謎解き)でも、Carolineが自分を取り戻してよかったね、という話でもなく、明るい昼間から夜になり、夜が朝に変わっていく時間に、ちょっと淫らな欲望の風に吹かれて何かが何かに伝染して、死者もゆらーりと踊りだすよ、ってそんなお話し。
タイトルはPattiが生前の母にいつも猥談を聞かせていたら、いつかそれらの話を本に纏めましょう、と母に言われた、その本のタイトル、でもある。Pattiの言葉がそれを聞く人(≒死者)に吹きこみ、もたらす茸の胞子的な活力に満ちた、森に蠢く不思議な何かが千夜でも三六五夜でもなく、二十一夜くらいやってくる、と。 月が絡んだらもっと素敵になったかも。
音楽もはまってくるし、ものすごく好きなやつだった。
4.11.2025
[film] 鰯雲 (1958)
4月10日、木曜日の夕方、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
日々のリハビリというかエクササイズで通っているのだが、まだボディに塞がってくれない穴があるし痛いし、でもずっとごろごろしているのもよくないと思うし、なんか難しいことだ。
まずカラーだったのでびっくりした。成瀬作品として初のTOHO Scopeによるカラー作品。原作は農村に関する小説や著作を遺した和田傳、脚本は橋本忍、同時上映は『おトラさんの公休日』 - なんかおもしろそう。 成瀬作品のタイトルとしては、『稲妻』 (1952)、『浮雲』 (1955)、『驟雨』 (1956)、『乱れ雲』 (1967)などに並ぶ気象シリーズ(全体に影響を及ぼすどうすることもできない現象に近い何か、及びその予兆?)としてよいのか。
戦後、農地改革後の神奈川の方の農村で八重(淡島千景)が新聞記者大川(木村功)のインタビューを受けているのが冒頭で、これからの農家や家、女性/嫁のありかたについて、自分の言葉で澱みなく語り、その様子に感銘を受けた大川と八重はちょっといいかんじになり、その後はひたすら地面に向かっていく農作業も含めたどろどろの、綺麗ゴトもくそもない実情が並べられていく。
八重の夫は戦争で亡くなっていて一人息子を育てつつ姑ヒデ(飯田蝶子)の面倒を見ていて、本家の方では八重の兄・和助(中村鴈治郎)の長男、初治(小林桂樹)の縁談が立ちあがり、その嫁候補として名の挙がったみち子(司葉子)に会いに大川とふたりでその農村に赴いたらなんかよいかんじになって一晩を共にしてしまい、みち子の継母、とよ(杉村春子)は和助に追い出された最初の妻だったことがわかり、どんな勝手な酷い目にあわされたのかがわかるのだが、この家に嫁がせるんだーとか、この辺、少し複雑でこんがらがっててくらくらする。(外国の人からしたら??になるよ)
他には分家の娘の高校生浜子(水野久美)が大学に行きたいと言ったら、婿貰うしかないお前が大学に行ってどうする? って和助に一喝却下されて、でも彼女は駅前に部屋を借りて出て行った本家次男で銀行勤めの信次(太刀川洋一)と仲良くなって妊娠したり、和助が初治とみち子の式の費用をどうにかしたい、けど田んぼは売りたくない、でフリーズしたりとか。本家ファースト、家中心で問答無用の和助のこれまでのやり方と、それが経済的にも成り立たなくなったから家を出て独立するよ、の子供勢の間で建前と恥と本音が炸裂して誰にとってもどうにもならない状態になっていく。
ここに出てくる全員がそれぞれのバージョンで不幸になる予兆しか見えなくて、描かれる恋模様だって親たちが決めた初治とみち子のあれに(無邪気で幸せそうだけど)恋はないし、八重と大川のも浜子と信次のも許されない系のでどんよりしている。のだが、そんな彼らが部屋の暗がりでよりそう絵のなんと艶かしく美しいことか。
これが近代化がもたらした災厄なのだ、っていうのは簡単だけどその根は代々意識の隅々にまで浸透しちゃっている(とみんな思い込んでいる)し、いまの夫婦別姓に反対しているのもこの勢力だし、いまの地方の過疎化だって制度・政策的なもの以上にイエの延長としてのムラ意識の充溢だと思うし、鴈治郎が黙れば済む話ではないの。
なんか全体としてはチェーホフのやりきれないかんじに溢れていたような。
それにしても中村鴈治郎 (2代目)、すごいよね。『浮草』 (1959)でも『小早川家の秋』 (1961)でも、いやらしくてくたばらない嫌なじじいの典型をやらせたら右に出るものなしで、しかもその裏に弱さ辛さ優しさも滲ませて … 騙されちゃいかんー、なのに。
今回の成瀬はここまで。
もうじきNYのMetrographでもレトロスペクティヴがあるのね。
わたしが成瀬に出会ったのは2005年のFilm Forumでの特集だったなー。ロンドンにも回ってきますように。
4.10.2025
[film] あらくれ (1957)
4月9日、水曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
前の日にリハビリ(言い訳)で『女の歴史』を見にいって生還して、まだ会社への通勤はしんどいかなー、と思いつつ、リハビリを一日でやめてしまうのはよくないな、と再びのこのこやってくる。階段はしんどいので可能な限りエレベーター/エスカレーターを使うのだが、日本のバリアフリー、まだまだよね。
『流れる』 (1956)の次の成瀬監督作品。原作は徳田秋声の同名新聞連載小説(1915)を水木洋子が脚色している。500%理解できないが公開時には成人映画指定されて18禁になったのだそう。そりゃヘイズ・コードには引っかかりそうだが。
大正時代の末期の東京、お島 (高峰秀子)は最初の結婚でごたごたして嫌だと実家に逃げて出戻った後に缶詰屋の鶴(上原謙)の後妻として入るのだが彼から日々着るものから態度振る舞いまで散々叱言と嫌味を言われ、その延長で堂々と浮気され、妊娠すれば早すぎないかと疑われ、いいかげん頭きて大喧嘩したら階段から落ちて流産して、そのまま離縁する。
続いて兄 (宮口精二)に連れられて山奥の旅館に下働きに出され、そこの暗くねっとりした主人の浜屋 (森雅之)から言い寄られて関係をもってしまうのだが彼には寝たきりの妻がいたのでお島は更に奥地の温泉宿に飛ばされて、島送りのような暮らしは父 (東野英治郎)が連れ戻しにくるまで続く。のだが浜屋との関係はその後もなんだかんだだらだらと。
続いて伯母 (沢村貞子)のところに預けられたお島は出入りしていた裁縫屋の小野田 (加東大介)のところで働き始め、仕事のできない怠け者で不細工な彼の尻を叩いているうちに仕事がおもしろくなり一緒になって洋装屋を興すことにして、何度か失敗を繰り返しながらどうにかなってきたところで、浜屋の病のことを聞いて駆けつけると彼は亡くなっているわ戻ってみると小野田は浮気しているわ、ブチ切れ、というよりすべてを吹っ切るべく洋装屋のできる若手の木村(仲代達矢)ともうひとりの若造に声をかけて飛び出していくのだった。
なす術もなく運命に翻弄されきりきりしていくこれまでの高峰秀子とは違い、言いなりになると思ったら大間違いだ、って毛を逆立てて突っかかっていく「あらくれ」で、あの後もぜったい仲代達矢となんかあって泣くことになるかもしれないのに勝ち負けじゃねえんだよ、って動じない。品行方正とか、そういうのを貫くというのでもなく、なーんで男はろくでもないのばっかしなのに、なーんで女ばっかりあれこれ言われり後ろ指さされたりなんだよ? って、その説得力は確かにある。水木洋子の脚色でどれくらい変わったのだろうか。
その反対側でハラスメント野郎(上原謙)に、いいかっこしいのむっつりすけべ(森雅之)に、働きたくない怠け者(加東大介)と、あとこいつの父親も酷いし、男の方もよく揃えたもんだ、こんなそもそものクズ連中に向かってあらくれても、と思ったりもするが、こんなのがそこらじゅうに吐いて捨てるほどいた(今もか…)のだとしたら… といううんざりの徒労感も見えたり。高峰秀子があと1000人いたら。
『流れる』からの流れでいうと、彼女がミシンを2階に引っ張りあげるところから何かが始まる、ような。ミシンは抵抗への狼煙になるのかー。
4.09.2025
[film] 女の歴史 (1963)
4月8日、火曜日の午後、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
退院後、最初の1本で、これをなにがなんでも見たいから、というよりは地下鉄に乗って渋谷の町に出て2時間強の映画を見て帰ってくる、という活動がどれくらい体力的にしんどい負荷をもたらすのかを試す目的。これが無理なら会社に行くのはもっと無理だろうし、ね。
入院前の最後に見たのが『女の座』 (1961)だったので、次は『女の歴史』 (1963)かー、くらいだったのだが、こちらの原作(着想)はモーパッサンの『女の一生』 (1883)だという - けどモーパッサンのとは随分ちがう(脚本は笠原良三)。 公開時の同時上映は岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』だったと(あれこれなかなかの段差)。
東京の下町で小さな美容室を切り盛りする信子(高峰秀子)がいて、姑の君子(賀原夏子)と自動車会社に勤める息子の功平 (山﨑努)と暮らしているのだが、功平はあまり家に帰ってこない。ものすごく幸せでもなく、 ものすごく辛くて不幸でもないこの現在地点から、いろんな過去が信子の語りと共に切り取られて行ったり来たりしつつ、現在もまた流れていく… という構成。
時間の流れには抗えない戻れないという『流れる』や『女の座』にあった語り口(なるようになる、しかない)ではなく、こんなこともあんなこともあったという「歴史」を振り返ることで「現在」を変えるなにかは見えてくるのか、というこれまでとは少し異なる視点。 あるいは「座」という空間的な切り口から「歴史」という時間的な切り口に変えてみたところで、女性の生き辛さの総量はそんなに変わらないよね、と言うことか。
木場の材木屋の跡取りだった幸一 (宝田明)からお見合いで見そめられて割と強引にもっていかれる婚礼から新婚旅行の初夜、相場で失敗して愛人と無理心中をした幸一の父のこと、幸一に召集令状が来て彼を戦地に送って空襲にあって疎開して、そこで幸一の戦死の報が届き、生活苦を玉枝(淡路恵子)に助けてもらったり、夫の親友だった秋本隆 (仲代達矢)に言い寄られたり、周囲が目まぐるしく変わっていく反対側で生活は直線で苦しくなっていく中、姑と幼い息子と3人で懸命に生きていく姿が描かれる。
現在の時間軸ではキャバレーで働いていたみどり(星由里子)と出会って親密な仲になった功平が彼女との結婚を信子に伝えたら反対されたので家を出て、郊外の団地でみどりと暮らし始めた - と思ったら自動車事故で突然亡くなってしまい、信子はどん底に。ひとりで信子のところを訪ねてきたみどりは功平の子を妊娠している、と言うのだが…
『女の座』との対比でいうと、しっかりした家に嫁いだ高峰秀子が戦争で夫を失い、拠り所のように大切に育てていた一人息子も失って家のなかで一人孤立してしまう、というところは同じ。婚前婚後の違いはあるが宝田明から言い寄られるのも同じ。最後にアカの他人と3人で残されてしまう、というところも同じ。あとはなんと言っても、自分はそんな悪いことしたわけでもないのになんでこんな目に? という不幸絵巻も。これらってぜんぶ彼女が女性だから起こったことだよね。 でもあのラストは素敵。
なぜ成瀬の映画で高峰秀子ばかり(他の女性も割とそうか)がこんな酷い仕打ちに遭ってしまうのか、についてはもう少し他の作品も見た上で書ければー。
あと、何度も映し出される美容室のある路地の佇まいが素敵なのと、終戦後の闇市の混沌を切り取った美術がどこを切り取ってもすごい。本棚の奥からリュミエール叢書『成瀬巳喜男の世界へ』 (2005)が出てきたので美術監督の中古智のインタビューを読んでみよう。
4.07.2025
[film] 女の座 (1962)
3月29日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成瀬特集で見ました。
入院前日、まだ健康(でもないか)だった頃に見た最後の1本。フィルムの状態がよくない、という注意があったがそんなに気にはならなかった。始まってすぐ、見たことあったやつじゃん、になったがこれも気にすることはない。
オールスター・キャストによる正月映画、だそうで、こんな暗いのを正月に… と思ったが当時の「女の座」を基軸に見てみればこれでもじゅうぶん「よかった」ほうに入る「喜劇」なのかも知れない。
家長の父、金次郎 (笠智衆)危篤の報を受けて集まってくる家族たちが紹介される。金次郎の後妻あき(杉村春子)、戦死した長男の嫁芳子(高峰秀子)は高校生の息子健と一緒に同居して家にくっついた荒物雑貨店+家事全般を切り盛りし、長女の松代(三益愛子)は家を出て下宿屋をやっていてそのダメ夫が良吉(加東大介)で、次女で結婚していない梅子(草笛光子)は家の敷地内に別棟を建てて暮らしていて、次男の次郎(小林桂樹)は家を出て町の中華料理店をやっていて、三女の路子(淡路恵子)は正明(三橋達也)と結婚して九州にいたが今回の騒ぎで戻ってきて、そのまま居着こうとしていて、四女は夏子(司葉子)で、五女は雪子(星由里子)で… という大家族模様をわざとらしい形でなく紹介しつつ、そのまま満遍なく家族の出来事 - どんな昔のことも現在のことも家族の姿、ありように繋がっていく - のなかで展開させつつ見せていくやり方がすごすぎて目を離すことができない。
あの時期、おそらくどこにでもあった家長を中心としつつも核家族化の流れと共に解れるべくして解れつつあった大家族の、崩落でも没落でもない、誰も中心にいる家長の思う通りにはならないし、させないし、勝手に生きていこうとしていた家族の断面を『流れる』的な屈辱や自嘲のなかに描くのではなく、「仕方ない、けど私は」的な近代的自我の立ちあがりの中にばらばらと置いて、家族同士がその喧騒で騒がしくなっていくなか、これも同様にできあがりつつあった学歴社会の厳しさにひとり向き合って悩んでいた健は…
他にも独り身だった梅子のところに現れた(あきの先夫との間の子)六角谷甲(宝田明)が実はとんでもない詐欺師であることがわかったり、夏子は中華料理店の客で気象庁に勤める青山豊(夏木陽介)をちょっと好きになるものの結局は見合いをした相手とブラジルに駐妻として行くことにしたり、誰も彼も家族のことより自分のことばかり、の果てにぽつんと残されてしまったことに気づく金次郎とあきと芳子がいて、この辺が『東京物語』 (1953) と対比されるところなのだろう。
子供たちに置いていかれた老親と嫁として嫁いできただけの女性(他人)が心を通わせるこれらのお話しって、近代化と家父長制の軋轢、というか、これらをかわいそう、って思わせ泣かせてしまう甘さが、家父長制を精神的にも制度的にも支え、のさばらせてきたのだ、というところまで分からせてくれる視野の広がりがあるような。
あの荒物雑貨店ってセットなのかしら? ああいうお店ってあったよね。すばらしい臨場感。
4.06.2025
[film] BAUS 映画から船出した映画館 (2024)
3月23日、日曜日の昼、テアトル新宿で見ました。
これの次の回だと舞台挨拶もあったのだが、自分に残された時間はもうそんなにないのだった。
当初青山真治が脚本を用意して企画していたものが彼の急逝により弟子の甫木元が引き継いで完成させたもの。プロデューサーには仙頭武則に樋口泰人の名前もある。当然。
“BAUS”というだけでそれは2014年に閉館した吉祥寺のバウスシアターであることは最初からわかっていて、原作はバウスシアターの元館主・本田拓夫による経営者家族の年代記であるらしいのだが、そもそもこの映画の中心は「爆音映画祭」という特殊な映画の上映形態を編みだしてしまったその場所、あのシアターのなぜ? と核心に迫り、それを総括するはずのものであったのではないか。
本来なら「映画館から船出した映画」であってもおかしくないタイトルの転倒や、ちっとも船出なんかしないでひとつの土地にずっと停泊していることとか、ぜんぶ目眩しの照れ隠しで、あの時のバウスシアターがどうしてあんなふうでありえたのか、をストレートに掘って語ることをわざわざ回避している気もした。青山真治と樋口泰人によるドキュメンタリー『June12,1998 at the edge of chaos カオスの縁』(2000)のタイトルを引き摺る - 「カオスの縁」にあった場所なのに。
1927年、青森から流れてきたハジメ(峯田和伸)とサネオ(染谷将太)の兄弟が吉祥寺の映画館で巻き込まれるように働き始めて、サネオはハマ(夏帆)と結婚して家族ができて、でも戦争が近づいてきて.. という戦前〜戦後に跨る家族の物語を井の頭公園に佇む老人 - サネオの息子タクオ(鈴木慶一)が踏みしめていく。テンポが速くてサクサク進んで、音楽が大友良英だったりするので朝ドラっぽく見えてしまったりする(←見たことないくせに)のだが、それらは全て鈴木慶一の後ろ頭に収斂され、土地と興業、そして時の流れ、消えていった者たちの方へと意識は向かう。
この辺、『はるねこ』 (2006)の甫木元空の幻燈画のような人と景色の描き方が見事にはまっているのだが、他方で青山真治がやっていたら『サッド ヴァケイション』 (2007)の、あのなんとも言えないノラ家族の姿が見られたのかもなー、とか。
映画館の最初の季節には弁士が入っていたし、映画だけでなく落語などもやっていた。なにをやるか、よりもどう見せて、その向こう側の世界の作りだす渦にどれだけ囲い込むか、没入できるか、が試されていた、というあたりに爆音の話には繋げられそう。(だけど、その基点である吉祥寺という土地について、自分はよく知らない)。
映画の聴覚に訴えてくるところ全てをサウンドボード上で再構成し、コンサート用のPAでライブ音響として鳴らすことで娯楽パッケージとしての映画体験をライブのそれに変えてしまえ、という試み。そこには当然映画の歴史、興業の歴史、更にはそもそも映画って何? にまで踏みこんだ問いと答えが求められるし、それが可能となる/それを可能とする個々の映画作品の、更にその映画のジャンルやテーマにまで踏みこんだキュレーションのセンスが必要となる訳だが我々には樋口泰人(斉藤陽一郎)がいたのだ、と。(樋口泰人伝にしてもよかったのでは)
ここまで行って初めて”BAUS”がBAUSであった意義とか戦前からのならず者ストーリーが繋がってくると思うのだがそこまでは届かず、敢えてブランクにしているかのよう。映画館のインフラがどこでも平準化され、配給されなくても配信で入ってくるからいいや、がスタンダードになりつつある今こそ、映画・映像を爆音で体験することの意義を問うべき - とか言ってもなー。それはもう船出しているのだ、とか?
など.. というのもあるが、やはりこれは映画からどこかに船出していった青山真治の、家族や歴史や文化、人々への眼差し、洞察に対する敬意に溢れた作品としか言いようがない、と思った。
最後に流れた1曲がものすごく沁みて、誰これ? と思ったら(やはり)Jim O'Rourkeだった。
[film] Underground アンダーグラウンド (2024)
3月22日、朝にシネマヴェーラでその日のチケットを確保した後、ひとつ下の階のユーロスペースで朝一の回を見ました。
小田香監督の前作『セノーテ』 (2019)はパンデミックでロックダウンしているロンドンで見て、あの水脈というか水路というか、それ以上に地下の洞窟にあんな光景がある、ということを未知未開の驚異映像のように取りあげるのではなく、昔からずっと積み重ねられてきた現地の人々の歴史と生活の合間に - こういう地層、というか水と共にうねる何かがあるのだ、とマップしてみせるその手つき、というか接し方と、その映像たちがその土地の成り立ちに重なりながら形成されていくような様がとてもよかったの。
『鉱 ARAGANE』 (2015) - 未見、『セノーテ』 に連なる地下三部作(となるのか?)の最新作が今作で舞台は日本、タイトル通りに日本の”Underground”を追っている。
では、日本の”Underground”とは、いったい何を指し示すことになるのか?
初めにダンサーの吉開菜央が日本家屋のような建物のなかで起きてトイレに行って窓を開けてストレッチして、という朝の始まりの光景や野菜を切って味噌汁をつくったり - のルーティーンが描かれる。 何気なくそこにある一日、晴れても曇ってもいない光の射してくる場所。オーバーグラウンドとアンダーグラウンドの中間にあるような。
日本のアンダーグラウンドには何があるのか? 掘ったら何が出てくるのか? のっぺりなんの面白みもなさそうな商業目的で開発された新興住宅地とかニュータウンといった「オーバーグラウンド」のB面として、遺骨とかお墓とか遺跡とかは必ず「先祖代々の」みたいな文句と共にやってくるものの、その正体がなんであるのかはわかっていてもあまり語られないことが多い。それははっきりと死骸で、でもかつて生きて喋ったり動いたりしていた者たち、時によっては殺されてしまった人々であったり、今は姿を変えて棄てられたりなかったことにされ埋められたりしている、それらの記憶を、声をつかみ取る、(下に澱んでいるそれらを)掬いあげようとする試みが16mmフィルムに収められている。
それを単なる紀行ドキュメンタリーにするのではなく吉開菜央(「演じる」ではない、「操られる」「同化する」というか)の「影」がひっそりと射していくかのように沖縄戦の現場のひとつ - ガマやダムで沈んだ村や大きな雨水菅や半地下の映画館など、各地の地下空間を巡っていく。 その影の形に沖縄戦体験者の声を紡ぐガイド松永光雄や読経の声が重ねられて記憶は多層となり鹿の骨やサンゴに固化していく - そんなふうに時間をかけて繰り広げられていく地下世界の循環、連なり。
「影」の日常と彼女の向かっていくアンダーグラウンドとの対比が興味深くて、例えば、自分の部屋でごろごろだらだらし続けるChantal Akermanの姿と、その反対側で彼女の向かっていったホテルや「東」や「南」の姿のことを思った。単純に両者を比較できるものではないが、なぜそれを撮るのか、撮り続けようとするのか、の問いの起点には部屋や家、基調として流れる日常の時間が必ずどこかにあるのだと思う。
あとは、Edward Hopperのシアターや映画館の暗がりに佇む女性の像なども。重ねられた記憶の間でどう動くのか、そこから外? どこ? に出ていくのか。
ひとつの「影」の出どころ、ありようを特定するのに目を凝らす必要があるのと同じように、この映画が映しだしているイメージたちも一度で見て終われるものではないような。それくらいこの作品に映しだされるイメージと音の豊かさ、多様さは半端ではないので、どこかでもう一回見たい。英国ではもう上映されたのかしら?
[log] March 30 - April 6 (3)
そしてずっと繋がれて動けないまま時間の感覚が歪んでくるのか、痛みの感覚 - 麻痺のような何かが広がってくるのか、単なる鎮痛剤のおかげ ←たぶんこれ - なのか、状態が変わってきた気がしたのは2日目くらいからで、痛いけど食べるし痛いけど寝るし、が常態となり、そうしながら点滴の管の数が減っていき、あとは自分内でどうにかしなはれ、になる、その跳躍というのか切断というのか、はちょっと怖い。生まれた時がまさにそうだったわけだが。
ここから先の生活はひたすらだらだらするばかりであまりおもしろくなくなるのだが、ひとつだけ、執刀した先生にお願いして自分の手術の映像を見せてもらったの。自分の顔や体が映っているわけではないので本当にそれが自分のかはわからないのだが、じょきじょき切り刻んでいって患部に到達してより分けて摘んで切り取って結んで、の一連の小さい箇所に対するマイクロな作業を、ロボットの3本の手なのか指なのか、がさっさか捌いていくのを倍速で見せて貰って、テクノロジー! って思った。でもそれ知らずに映像だけみたら鶏や魚捌いてるの(のを100倍拡大したの)とそんな違わないかも。
手術後2日過ぎて、点滴による鎮痛剤投与がなくなったあたりから歩く練習をしましょう、って管の繋がったガラガラに掴まって病棟内のサーキット(ただの通路、一周30mくらい?)をゆっくりぐるぐる歩く - だけなのにすごくしんどい。こんなんではエレベーターのまだ動いていない時間帯のシネマヴェーラに並べない! になってしまうのでがんばる。病と戦うとか、リハビリで歯を食いしばってなどという態度は個人的に嫌なのでそういうんじゃないんだ、という顔をつくって歩くのだが誰もわかってくれない。
既に少し書いた朝昼晩のお食事は、一日のトータルが1800Kカロリーを超えないように、各食200gのご飯とメインおかず、副菜1〜2でコントロールされつつ、質も量ももう飽きた嫌だになりそうでならない絶妙な線を維持し続けて、部屋からほぼ出れないのでお腹減らないはずなのに少しは減ってやってくる半端な欠落感をどうにかー、をどうにかしてくれる。で、それでもなんかー、とかパン食べたい、とか言う場合は追加料金での特別メニューを事前予約できる。楽しみがないので晩一回、朝一回、洋食をやってみたのだが、ロールパンとか別皿サラダとか、なんとなく昭和のゴージャス感たっぷりのやつだった。お年寄りにはうけるかも。
5日の土曜日の午前に最後の管が抜かれて - あれらを引っこ抜く瞬間のにゅるん、とくる痛覚ってなんかCronenbergだよね、とか思いつつ、抜かれた後の虚脱感 - いや、抜かれた抜かれないに関係あるのかないのかどうでもよくなるくらいとにかくだるいのってなんなの? 今回、切り取って体外に出されたのなんてせいぜい数十グラムくらい、手術の日から退院するまでに約6〜7日じっと転がっていた、それだけなのになんでこんなに力が入らないの、って?
でもとにかくこの状態から動き始めるしかないわけね、とこれから退院する。 当分スポーツ・運動はだめ(やるかそんなもん)らしいがじっとしている映画館はべつによい(好きにすれば)らしいので、がんばる。
あととにかくケアしてくれたナースの皆さんには本当に感謝しかない。すばらしい人たち。ありがとうございました。
[log] March 30 - April 6 (2)
この先、0時からは断食で、水分摂取は午前6時までとのこと、5時56分くらいに看護師のひとが来て、この先飲めなくなるので思いっきり飲んでおいてくださーい、というので飲んだのだが、飲んでおかないとどんなリスクや危機が待ち受けているのかがわからないのでいまいち腑に落ちてこないまま、胴はたぷたぷに。
手術は8:30からで、管を入れる場所にパッチを貼ったり線を引いたり、前回のよりは明らかに大掛かりっぽく、手術用の服と紙パンツで待機して、時間になったら連れられて手術室まで歩いて向かう。前回はベッドに横たわった状態で運ばれてかっこよかったのに今回は何故? と思ったら手術をするロボットのある部屋が奥の方でごちゃごちゃ入り組んでいてベッドが通れないからではないか、と。沢山の手術室のあるフロアの湯気のあがる現場っぽい臨場感 - SWに出てくる整備庫みたいな - がなかなかかっこよくてそのまま機器とか配線とか見たかったのだが、そんな場合ではないのだった。
まずは麻酔医の人々が(いつもずっとものすごく丁寧でてきぱきなのすごい)、これまで説明してきた手順通りに声を掛けあって指示をして一発で管を通して、点滴から麻酔が入りますー深呼吸してー、と言われ今度は負けないと思って天井を睨んで、いまその絵は残像として残っているのに意識が戻ったのは病室に戻った14:30なのだった。その間自分はなにをされていたのか? の変なかんじ。戻ってこれたので手術は「成功」と言ってよいのか? こんな管まみれで動けない状態での「成功」ってなに? など。
その先はいろんな管に繋がれて動けないまま2時間置きにいろんな人たちがやってきて体温脈拍血圧などのデータをとったりガーゼを替えたり点滴を替えたり痛み止めをくれたり、なにかお困りのことは〜? などあらゆる方角からよってたかって生かされている状態とそれを維持する活動 - この人たちがいなくなったら簡単に死んじゃうんだろうな - が深夜0時くらいまで続いて、その0時になってはじめて水を飲んだ。
痛みについてはどう言ったらよいのだろうか? 胸から下のお腹の全面がじんわり小針で刺されながらロースターでゆっくり回転しているような、走っている時の脇腹の痛みと腹筋の筋肉痛がカラフルに炸裂しているような、これらが体を起こしたりくしゃみしたり、立った状態からベッドに横になる、という動きをするだけで一斉に猛々しく立ちあがって内臓を食い破ろうとする - こんなに騒々しい痛みの感覚は初めてかも。痛みについては考えない、というのがそれを回避するひとつの方法なのかも知れないが、ここまで影のようにひっついてくるとなんなの? って。
こういう入院・手術って大きな流れのなかでは大凡これで「死ぬことはないから」って片付けているし、それだからここまでのこのこやってきたわけだが、実際にその最中に入ってみるとこれはやばいかも、ってなってくるのはこんなふうにずっと「痛い」からではないか。痛いのが止んでくれないとなんかおかしい、とんでもないなにかが降りかかってきているのではないか、が反射していってそればかり考えるようになる(→ カルト)、とか。
[log] March 30 - April 6 (1)
このたびはこれのために日本に来たので、逃げたり隠れたり蒸発したりするわけにもいかず、着陸して3週間、どんより冴えない悶々の日々を過ごしてきて、ついにこの日、というかこの週、が来てしまった。
治療してよくなる、健康になるのだから、という大義はあるものの、これまでの日々の暮らしで具体的に痛みや苦痛や不便を感じてきたわけではなく、手術の後もはっきりとよくなった、万事快調! と感じることができる類いのものでもなさそうなのだが、でもその真ん中の手術と術後しばらくの間ははっきりと痛いし気持ち悪いし辛くしんどいものになるであろうことは前回の検査入院でようくわかっていたので、体感レベルでは高いお金を払って泊まりがけで痛いめにあいにいくようなもので、なにひとつおもしろくないし、でもだからと言って泣いたり騒いだり逃亡したりするのは子供のすること、というのもわかっている。
あとはこの先、もう老いたぽんこつなので、これと同様のことが別の部位で起こらないとも限らず、多かれ少なかれそんな痛みが裏に表に本人にはどうすることもできないオセロみたいな陣地とりを繰り広げていくことになるであろうことを思うと、せめてきちんと記録くらいはとっておこうかな、という備忘を。
病院は10時に入院受付ということでその時間に入った。周りには開いた桜がぽつぽつ。
病室は667で、666だったら素敵だったのになー、ちぇっ、など。
サインしたいろんな誓約書を渡して、引き換えにいろんなルールの説明を受けて(ここまで来たんだからじたばたしないで観念して言うこと聞け)体重血圧測って採血されて(針6回刺してやっと)、パジャマを借りて、本日はそのまま病室でお過ごしください、って言われたのがお昼前。
最初のお昼は天ぷらそばで、昔の給食のソフト麺みたいに温かい蕎麦つゆを蕎麦の容器に入れる方式で、翌日の手術以降しばらくは食べれなくなるらしいのでありがたく頂くのだが、量が少ない… のと、あと12時間くらい、映画館にも美術館にもお花見にもいかず、静かにこの部屋で過ごせと? (だからあんたは病人だって言ってるだろ)
でも見張られているわけではないので、外に出て近くの古い教会を見たり桜を見たり駅の方のお店に行ってみたのだがどこも日曜日で閉まっていて、あんまりにもつまんないので下のコンビニで「金のアイス あずき最中」を買って部屋で食べたり。
今回、あまり選ぶ時間がなかったものの、本は『目白雑録Ⅲ 日々のあれこれ』(中公文庫版)と『ショットとは何か 歴史編』と『灯台へ』(文庫版)を突っ込んできていて、個室にはTVもDVDプレイヤーもあるのだがちっとも見る気にはならないのでだらだらうとうとしながら読む。「目白雑録..」には老いと病と病院についていろいろ書いてあってリアル病室で読むと枯れた臨場感がたまらない。
晩ご飯は18:00に来て、翌日からは点滴になるのでこれがラストフィジカルご飯、なのだが鮭の切り身と粉ふき芋となめこおろしとご飯、って少なすぎてこれだと夜中にわなわなが来てしまう気がしたので、パジャマから普段着に替えて下のコンビニに降りたら日曜日は17:00で閉まっていてこんなのコンビニじゃないじゃん、って泣きながらそういえば4階に食べ物の自販機があった気がしたのでそこに行ってシュークリームとフルーツヨーグルトを買って食べた。