3.13.2025

[theatre] BACKSTROKE

3月6日、木曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

原作・演出はAnna Mackmin、主人公のふたりも、彼女らの周りの看護婦たち3人もすべて女性だった。 前々日に見た”Otherland”もすべて女性による舞台だったのは偶然か。

舞台の中央には病院にあるような大きい介護用ベッド、手前の方にはテーブルとかリビング、キッチン(オーブン?)のセットなどが並んでいる。

そのベッドにBeth (Celia Imrie)が動かないで横たわっていて、病院の看護婦の様子から彼女はずっとそこに寝たきりのまま、先がそんなに長くないように見えて、そこに彼女の娘のBo (Tamsin Greig)が現れると、Bethのことを一番よくわかっているのは自分、と言わんばかりに食べ物へのダメだしとかいろんな指示をしだして、それがやや強引で支離滅裂であることに自分で気付いてはっとしたり。 ここまでで、この母娘の関係がどれだけ深く互いを縛る - 逃れようのない強めのものであったことが暗示される。

Bethはずっと寝たまま動けないままではなくて、Boとの間の過去の場面の再現、になると舞台手前のリビングとかキッチンにさーっと出てきて母娘のやりとりを繰りひろげていく。それがどちら側の記憶によるものなのかは明示されず、その再現の順番も時系列ではなくランダムのようで、場合によってはベッドの背後のスクリーンに映像(ドリーミーな昔の8ミリのような)が映しだされたり、ベッドに縛られて動けない母とその傍らでやはり動けなくなり(なにもできなくて)焦りを抱えている娘の歴史を明らかにしていく。 あとスクリーン上にはちょっとノイジーでとげとげしい、トラウマのようなイメージも - 思い出したように繰り返し映しだされたりする。

70年代の奔放な時代を生きたBethはすべてにオープンかつアナーキーで、自身の性生活や男性遍歴も含めてなんでも娘に語り、その調子で豪快にBoの背を押すのだが、そういうことをされた娘の常として、Boはストイックで注意深く疑り深く、脚本家としての仕事を得て自立はしているものの攻撃的すぎていろいろ失って、中絶を通して母となる機会を失い、養子を貰って母になろうとするがそれもうまくいかないようで、言いようのないこの「母」に対する敗北感というか複雑な思いを常に抱えていて落ち着かない。柔の母と剛の娘、それぞれのいろんな思いとエピソードが錯綜して転がってややとっちらかっている感もあるのだが、ふたりの演技がものすごく巧くてキャラクターとしてのブレがないので、きちんと伝わって - 情景として浮かんでくる。そうであればあるほど、口にすることのできない別れの痛みが。

タイトルのBackstroke – 背泳ぎ – は、Boが子供の頃、水を怖がってなかなか泳ぎの上達しない彼女に一緒に水に入ったBethがBoの頭をやさしく支えて全身を浮かべてあげて、こうやって浮くんだよ大丈夫だよ、って教えるすばらしいシーンからで、今は横たわって動けなくなったBethにBoが同じようにー。

こういうの、母娘関係って自分にはわかるものではないのに、国も言葉も違うのに、なんだか何かが見えてくる不思議、というのが昔からあり、それはなんなのだろうか? と。 (そして頭のなかには矢野顕子の”GREENFIELDS” – これも大文字 - が流れてくるの)


ほらね、ちょっと留守にしただけでEBTGがライブやるとかいうし… あーあー

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。