3.27.2025

[film] 流れる (1956)

3月22日、土曜日の午後、シネマヴェーラ渋谷でこの日から始まった特集 - 『初めての成瀬、永遠の成瀬』で見ました。

「初めて」と「永遠」の間に「久々の」と入れたくなるような成瀬。特集の初日で、トークもあるので少し早めに行って、9:20くらいに列の終わりに着いたらカチカチを持った映写のおじさんが現れてこの辺から立見になる可能性ありますー、とかいうのでびっくり。レオス・カラックスがすぐ売り切れたのはわかるけど、こっちは… そうかーネットに行けない老人がぜんぶこっちに流れる、のかー。

『流れる』は本当に好きでこれまで何回も見ていて、日本映画のなかで一番好き、というくらい好きかも。理由はよくわかんないけどとにかく見ろ、流されろ、こんなにすごいんだから、しかないの。

原作は幸田文の同名小説 (1955)で、ラジオドラマにも舞台にもなっている。映画版の脚本は田中澄江と井手俊郎。フィルム上映だったのもうれしい。デジタルで見るよか断然の、あのしなびた風情。

川べりの下町にある置屋「つたの屋」に女中の仕事を求めて梨花(田中絹代)- 呼びにくいから「お春」でいいだろ、って勝手に変えられてしまう – がやってきて、彼女の目を通して、ではなく、つたの屋にいる芸者たち - つた奴(山田五十鈴)、染香(杉村春子)、なな子(岡田茉莉子)、芸者ではないがつた奴の娘の勝代(高峰秀子)、つた奴の妹で幼い娘を育てている米子(中北千枝子)らが紹介され、つた屋のある路地、その界隈がちょっと困った顔で彷徨う田中絹代と共に描かれて、ここで背後に鳴っているどーん、どーんという音がまるで西部劇のようなテンションで空気を震わせる。 こんなふうに「流れる」が流れ始める。

いきなりすごい事件が勃発したり凶悪なキャラが登場するわけではなく、つた奴の姉のおとよ(賀原 夏子)が訪ねてきてずっと滞留しているらしい借金のことをねちねち話したり、冒頭にいてどこかに出て行ってしまう芸者の叔父だという鋸山(宮口精二)がどうしてくれるんでえ、って家までユスリに来たり、お春が買い物に行ってもおたくは払いが溜まっているから、とよい顔をされなかったり、全体としてお金に困っていて、でもそれはこれまでもずっと続いてきたことだし、と言いつつも見ての通り商売として繁盛しているわけではないので、いろんなコネと資金に恵まれているかつての同僚のお浜(栗島すみ子)に助けて貰ったりして、「流れる」というよりは「沈む」ような。

それでも沈まずに流れていくのは、事態を柔く受けとめてばかりの母への苛立ちとともに冷静に見つめる勝代とか、他人事のどこ吹く風で呼ばれない芸者としての日々をへらへら過ごす染香やなな子がいるからで、彼女たちの言葉や行動は大勢を打開したりすることはないものの湿気の多い暗めのメロドラマにすることから救って、ものすごく豊かでおもしろい(おもしろいのよ)女性映画になっている。元気を貰える、とかそういうものではないが。

反対に男性の方はというと、薄くて弱くて、米子の元夫で体面はねちねち気にするけど圧倒的に力になってくれない加東大介とか、今でもそこらじゅうにいそうなクレーマー鋸山とか、なに考えているのかわからない官僚タイプの仲谷昇とか、借金のカタによく知らんじじいと一緒になってほしいとか、なにもかもうっとおしくていなくてもいい存在ばかり、余りのどうでもよさに感嘆するばかり。

なので見事に恋愛なんて出てこないの。染香が逃げられた、って少し泣くくらいで現在形の恋愛はまったく別世界のことのような潔さがある。

こうして、誰もがそれぞれに流れていってしまうその先で大海にでるとか、大船に拾われるとか、そういうことはなく、冒頭とあまり変わらない光を柔らかく反射する川があるだけなの。今後の生活もあるから、と(母からはやめておくれ、と言われた)ミシンの下請けを始めた勝代のたてる機械音と、向かい合って稽古をするつた奴と染香のツイン三味線が重なりあってひとつの音楽に聞こえてくるラストのすばらしさときたら。

そして、この後の『舞姫』上映後のトークで明かされた染香となな子の「じゃじゃんがじゃん..」がその場で楽しくなってやってしまったふたりのアドリブで、それがそのまま無言で採用されてしまったという驚異も…

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