3.28.2025

[film] 舞姫 (1951)

3月22日、土曜日の午後、↑の『流れる』に続けてシネマヴェーラで見ました。

上映後に岡田茉莉子さんのトーク、聞き手は蓮實重彦、ということで、今回の日本滞在中、ほぼ唯一のイベントっぽいやつ。立ち見になるかどうかのぎりぎりくらいだったが座れた。

原作は川端康成の新聞連載小説(1950-51)、脚色は新藤兼人。当時18歳の岡田茉莉子の、これがデビュー作である、と。

元バレリーナで、現在はバレエ教師をしている波子(高峰三枝子)が銀座で竹原(二本柳寛)とバレエを見ていて、そこを出てから波子は彼を引っぺがすようにして別れて、娘の品子(岡田茉莉子)と会って食事をしていると波子のマネージャーの沼田(見明凡太朗)が現れてねちねち絡んできて、ここまででどんな人物配置になっているのかが見えてくる。

波子には考古学者の地味な夫 - 八木(山村聰)がいて、彼との間に高男(片山明彦)と品子が生まれて約20年くらい、でも竹原とは結婚するずっと前から付きあってきて、子供が大きくなって手を離れそうで、自分がこれからどう生きていくか、を考えたときに、いろいろ内面とか良心の呵責などが湧いてきて悩ましく、それを察した八木は波子に意地悪く嫌味を言ったりぶつかってきて、それに高男が加担して、そうなると品子は母親の方について、家庭内の不和分断が染み渡って誰にも止められない。

そんななか、品子は高校時代のバレエの恩師香山(大川平八郎)が怪我をしてからバスの運転手をしていると聞いて穏やかではいられなくなり..

谷桃子バレエ団が協力したバレエのシーンはやや遠くからではあるがちゃんと撮られていて、バレエで表現される舞姫の魔界や煩悩、エモの奔流など、女性たちの揺れや狂いようが高峰三枝子と岡田茉莉子の見事な演技と共に精緻に重ねられていく反対側で、それらをドライブする(できると思いこんでいる)男性たちの一本調子の愚鈍さ、ろくでもなさはもう少しどうにかできなかったのか。 と思うのは、結局男たちがどれだけしょうもないクソ野郎であっても、表面の和解の後、のさばってなんのダメージも受けずに社会を渡っていける(と彼らは確信できるであろう)から。原作と脚本が「彼ら」だからか。それにしても山村聰って、教養もあって育ちもよいのに爽やかに粘着して相手を潰す、みたいな役をやらせるとしみじみうまいよね。

あと、バレエの公演中、見ている横から割りこんでなんか言ったりしても当然、と思っている(そういう脚本を書ける)神経がなんかいや。どうせ女子供の、って思っていて、自分はどこまでも冷静に事態を見渡せるんだ、って無意識的ななにかが。

全体としては暗くてブラックで舞姫がじんわり絞められていくお話しだったが、反対側の男たちの薄っぺらさが鼻についてどうにもバランスがよくなかったかも。

上映後、岡田茉莉子さんのトークは、これまで、吉田喜重と一緒のも含めて結構聞いてきて、でも今回の聞き手の人のは初めてで、どうなるんだろ? と思ったがなんだかんだいつもよりややつんのめった(つまり)いつもの蓮實重彦だったかも。

それにしても、東宝演技研究所に入所して2週間くらいでこれに出演して、演技について成瀬から特になにも言われなかった、っておそろしいし、実際高峰三枝子とのやりとりの滑らかなことったらすごい。『坊っちゃん』 (1953)は見なくては。


あさって日曜日から収容されてしまうのでしばらく更新はとまります。やだなあー。

3.27.2025

[film] 流れる (1956)

3月22日、土曜日の午後、シネマヴェーラ渋谷でこの日から始まった特集 - 『初めての成瀬、永遠の成瀬』で見ました。

「初めて」と「永遠」の間に「久々の」と入れたくなるような成瀬。特集の初日で、トークもあるので少し早めに行って、9:20くらいに列の終わりに着いたらカチカチを持った映写のおじさんが現れてこの辺から立見になる可能性ありますー、とかいうのでびっくり。レオス・カラックスがすぐ売り切れたのはわかるけど、こっちは… そうかーネットに行けない老人がぜんぶこっちに流れる、のかー。

『流れる』は本当に好きでこれまで何回も見ていて、日本映画のなかで一番好き、というくらい好きかも。理由はよくわかんないけどとにかく見ろ、流されろ、こんなにすごいんだから、しかないの。

原作は幸田文の同名小説 (1955)で、ラジオドラマにも舞台にもなっている。映画版の脚本は田中澄江と井手俊郎。フィルム上映だったのもうれしい。デジタルで見るよか断然の、あのしなびた風情。

川べりの下町にある置屋「つたの屋」に女中の仕事を求めて梨花(田中絹代)- 呼びにくいから「お春」でいいだろ、って勝手に変えられてしまう – がやってきて、彼女の目を通して、ではなく、つたの屋にいる芸者たち - つた奴(山田五十鈴)、染香(杉村春子)、なな子(岡田茉莉子)、芸者ではないがつた奴の娘の勝代(高峰秀子)、つた奴の妹で幼い娘を育てている米子(中北千枝子)らが紹介され、つた屋のある路地、その界隈がちょっと困った顔で彷徨う田中絹代と共に描かれて、ここで背後に鳴っているどーん、どーんという音がまるで西部劇のようなテンションで空気を震わせる。 こんなふうに「流れる」が流れ始める。

いきなりすごい事件が勃発したり凶悪なキャラが登場するわけではなく、つた奴の姉のおとよ(賀原 夏子)が訪ねてきてずっと滞留しているらしい借金のことをねちねち話したり、冒頭にいてどこかに出て行ってしまう芸者の叔父だという鋸山(宮口精二)がどうしてくれるんでえ、って家までユスリに来たり、お春が買い物に行ってもおたくは払いが溜まっているから、とよい顔をされなかったり、全体としてお金に困っていて、でもそれはこれまでもずっと続いてきたことだし、と言いつつも見ての通り商売として繁盛しているわけではないので、いろんなコネと資金に恵まれているかつての同僚のお浜(栗島すみ子)に助けて貰ったりして、「流れる」というよりは「沈む」ような。

それでも沈まずに流れていくのは、事態を柔く受けとめてばかりの母への苛立ちとともに冷静に見つめる勝代とか、他人事のどこ吹く風で呼ばれない芸者としての日々をへらへら過ごす染香やなな子がいるからで、彼女たちの言葉や行動は大勢を打開したりすることはないものの湿気の多い暗めのメロドラマにすることから救って、ものすごく豊かでおもしろい(おもしろいのよ)女性映画になっている。元気を貰える、とかそういうものではないが。

反対に男性の方はというと、薄くて弱くて、米子の元夫で体面はねちねち気にするけど圧倒的に力になってくれない加東大介とか、今でもそこらじゅうにいそうなクレーマー鋸山とか、なに考えているのかわからない官僚タイプの仲谷昇とか、借金のカタによく知らんじじいと一緒になってほしいとか、なにもかもうっとおしくていなくてもいい存在ばかり、余りのどうでもよさに感嘆するばかり。

なので見事に恋愛なんて出てこないの。染香が逃げられた、って少し泣くくらいで現在形の恋愛はまったく別世界のことのような潔さがある。

こうして、誰もがそれぞれに流れていってしまうその先で大海にでるとか、大船に拾われるとか、そういうことはなく、冒頭とあまり変わらない光を柔らかく反射する川があるだけなの。今後の生活もあるから、と(母からはやめておくれ、と言われた)ミシンの下請けを始めた勝代のたてる機械音と、向かい合って稽古をするつた奴と染香のツイン三味線が重なりあってひとつの音楽に聞こえてくるラストのすばらしさときたら。

そして、この後の『舞姫』上映後のトークで明かされた染香となな子の「じゃじゃんがじゃん..」がその場で楽しくなってやってしまったふたりのアドリブで、それがそのまま無言で採用されてしまったという驚異も…

3.25.2025

[film] Scandal Sheet (1952)

3月20日、木曜日の春分の日、シネマヴェーラのSamuel Fuller特集で見ました。

監督はPhil Karlson、原作はまだスクリーンライターだった時代のSamuel Fullerが書いた小説”The Dark Page”(1944)。 この頃の彼は第二次大戦の歩兵だったと。

やり手の編集長Mark Chapman(Broderick Crawford)の下、ケバケバのスキャンダル記事をメインに据えたら部数を伸ばして快調なNew York Express紙が勢いに乗って独身者向けのパーティ(ここで出会って結婚したら家電を!など)を開いて盛りあがっていると、会場にいた初老の女性がMarkに声をかけてきて、Markはかつて妻だったらしい彼女を捨てて名前を変えて現在の地位にのしあがったことがわかり、揉めてもみ合っているうちに彼女は頭をぶつけて死んじゃって、彼は指輪を処分して彼女の持っていた質札も処分しようとするのだが、それが飲んだくれの元新聞記者 - でも推理は冴えている - に渡ってしまったので、取り返すべく次の殺人が起こって…

うちが主催のパーティで起こったこんなネタ、部数伸ばすのに恰好かつ最適じゃん、とMarkに育てられた若い記者Steve (John Derek)と社の方針についていけなくて辞めようと思っているJulie (Donna Reed)が動きだし、亡くなった女性の持っていた写真に写っていた男(若い頃のMark)の正体を割り出していくと…

部下が事件を掘り下げて、容疑者特定に近づけば近づく程、部数は伸びて株主も(配当があるから)盛りあがって、その反対側で追い詰められたMarkの焦りはじりじりと焦げて広がっていって…

あんま期待していなかったのだがすごくおもしろかった。前の週に見た”Park Row” (1952)と併せてジャーナリズムとは、で突っこんでいくとここまで行ってしまう、という暗黒篇というか。どっちにしても泥まみれで楽な仕事ではなさそうだけど。

パーティの雑踏とか、酒場のごちゃごちゃの捉え方がよくて、これらとラストシーンの夜のオフィスのだだっ広い空間の対比とか。

あと、やはりDonna Reedが素敵。


Underworld U.S.A. (1961)

3月16日、↑のに続けて見ました。邦題は『殺人地帯U・S・A』。

The Saturday Evening Postの1956年の記事を元にSamuel Fullerが脚色・監督したもの。彼特有の粗さ、暗さ、猛々しさがノンストップでぶちまけられていく。

14歳のTolly Devlinは街をふらふらしている時に父親が4人のギャングに殺されるとこに出くわして、その中心にいたVic Farrarが刑務所にいることを知ると自ら犯罪を繰り返して刑務所に入り、そうして大きくなったTolly (Cliff Robertson)は、終身刑をくらっているFarrarに近づいて、彼が亡くなる直前に残りのギャング3人の名前を聞きだして、シャバに出てからギャングの内部に入りこんで大物になっている3人に近づいていって、他方で警察にもコネを作って両方からの情報を掴んでうまく捌いて、ひとりまたひとりと消していくのだが…

復讐を誓ったものが、それを実現するために地下に潜って、時間をかけて裏社会でのし上がっていくお話しで、でも結局はコネと人脈とそれらの使いよう(あと努力)、みたいなところにおちて、そういう点ではUnderworldもOverworldもそんなに変わらないのかも。母親的な存在のSandy(Beatrice Kay)も、情婦的な存在のCuddles (Dolores Dorn)のモデルのようなありようも含めて。

その説得力の強さ、迷いのないTollyの輪郭の太さは末尾に”U.S.A.”って付けても違和感のない汎用性普遍性を湛えている、と思う反面、あんまりにも極太ゴシックの男社会絵巻なのでちょっとしんどい気はした。昔のヤクザ映画なんてみんなこんなんじゃん、と言われればそうなのだが。そして、どっちみち破綻してほれみろ、なのだが。

他方で悪も正義もなく(見えない映さない)、復讐/敵討ちの情念でなんでも突破しようとする、それが万能で、説得力をもって認められ許されてしまう世界ってずーっと今に続いていて、これってなあー。


Samuel Fuller特集のはここまで。 ちょっと物足りなかったのだが、どれもぜんぜん古いかんじがしなかったのはさすが。何回見ても新しい。

3.24.2025

[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)

3月16日の午後、Alain Resnaisの↑のに続けて角川シネマ有楽町で見ました。

邦題は『白夜』、英語題だと”Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編、監督はRobert Bresson、撮影はPierre Lhomme、音楽はF. R. Davidが聞こえてくるのがうれしい。

4Kリストアされた版で、その色合い – モデルたちの顔とか頭よりも、首から少し下に纏っている服装の赤とか青の、くっきりではなく滲んだようにしみてくるその重なりよう、夜の河べりの雑踏など - の美しいこと、それを見てうっとりするだけでもよいの。暴力や激しい修羅場が出てくるわけではなく、夢見る者たちの四夜、でもあるので。

他方で、Robert Bressonの映画はシネマではなくシネマトグラフで、動いているのは俳優ではなくモデル、というところから始まっている。 例えば料理をお皿として、食材を原料として置き直したところで(ちょっとちがうか)、お料理の味が変わるのか(結構変わると思うよ)、というと、Bressonの映画の場合、映画の見方を根本から変えてくれるくらいにおもしろく変化してくれるので、とりあえずパンフレットだけでも買って読んでみると深まるのでは、とか。

画家志望のJacques (Guillaume des Forêts)はヒッチハイクで郊外に出かけて、発散というより悶々として戻ってきた晩、ポンヌフの橋のたもとで靴を脱いで身投げしようとしているMarthe (Isabelle Weingarten)を見かけて助けて、明日の晩もまたここで会おうって約束して、そこから始まる四夜のお話し。

Jacquesは携帯型のテープレコーダーに自分にとっての理想の出会い、みたいのをぼそぼそ語って、それを再生しながら絵を描いたりしているのだが、友人をアパートに招いて絵を見てもらっても、自分の絵や出会いのイメージを理解してくれる人なんて現れそうにない。

Martheは、離婚してひとりの母親の家に母と暮らして、そのうち一部屋を下宿人に貸しているのだが、新しく来た下宿人の部屋に積んである本をみたり、彼に映画に誘われて、最初はそんなでもなかったのだが、段々惹かれていって、互いに離れ難くなってきた頃に、下宿人はアメリカに留学するので1年待ってほしい、必ず戻ってくるから、と告げて消えてしまう。

JacquesがMartheに出会ったのは、下宿人が戻ったということを知っても連絡がないのでもう先はないのか、ってMartheが死のうとした晩で、JacquesはMartheに諦めないで手紙を書いてみれば、と言って励ましたりするのだが、そうしているうちにJacquesはMartheを好きになってしまったことに気づく。

最初の晩で出会ってすくいあげて、2日めの晩で過去からを振りかえって今がどうなのか、なんでそうなのかを確認して、3日めの晩で好きになっちゃったかも、になり、4日めの晩でMartheはJacquesの想いを受けいれる…と思ったら、のどんでんがあって夢から醒める、そんな4日間のふわふわ落ち着かない橋の上の日々、橋の下では船が楽しそうに流れていく。

Martheは戻ってきた彼のところに駆け寄ってキスをして、その後Jacquesの方にも戻ってきてキスをしてそのまま向こうに行ってしまう。

Jacquesについてはその後のことも少しだけ描かれて、彼は変わらずテープレコーダーにぶつぶつ吹きこんでいて、夢から醒めていないのかもしれない – でも勿論、醒めていようがいまいが、恋は続いているように見え、でもその恋が、どんなものなのかは描かれずに多分くすぶった状態のまま、それはBressonの他の映画で主人公たちが抱えこんでいる色を失った/黒めの何かと同じようなー。この映画はその際どい境い目のようなところを捕えようとしているような。

「俳優」ではなく「モデル」なので、この辺の「魂がこもって」いない、浮ついて彷徨っていくかんじがとてもよいの。

Jonathan Rosenbaum氏がエキストラとして映っているそうで - “Two Nights of an Extra: Working with Bresson” - エキストラとして夢のなかを彷徨う、というのがどんなかんじなのか、などがわかっておもしろい。

[film] Je t'aime, je t'aime (1968)

3月16日、日曜日の昼、角川シネマ有楽町で見ました。

Alain Resnaisの映画はおおおー昔に日仏でレトロスペクティヴがあった時にひと通り見て、この映画もその際に見た記憶があるのだが、今回見てみたら記憶から落ちている気がして、そういうこともこの映画のテーマではあるのかー。 原作はJacques Sternberg。

ベルギーに暮らすClaude (Claude Rich)は自殺未遂で病院に運ばれて、退院できるようになったところでよくわからない研究施設かなにかの人たちから声を掛けられ、よくわからないまま彼らの車に乗せられて、郊外の施設に運ばれる。 もう少し用心したら、とか思うがどうでもよかったのかも。

彼らがいうには過去の時間に戻る実験をしていて、ネズミを使って1分間向こう(過去)に滞在して戻ってくるのに成功した(どうやって検証確認したのだろう?)ので、次はヒトで確かめてみたい協力してくれないか、と言われて、自分はどっちみち死のうとした人間なのでやけくそで協力することを期待されているのだろうな、と察してやってみることにする。

お話しはその科学的な建て付けとかその確かさについて突っ込んだり暴いたりするのではなく、その実験用のブースに成功済みのネズミさんと一緒に入れられて、トランスポート用のフォームマットに転がって実験台となるClaudeの姿と、その様子を別棟からモニターする - でもなんもしようとしない科学者たちを追うのと、あとはClaudeの目だか意識だかに入ってくる過去(だからどうしてそこに映っている「過去」を、「過去の記憶」ではなく「過去の時間」そのものである、と外側から言い切れるのか?)を並べていく。

まずは海の中をこちらに向かって泳いでくるClaudeがいて、浜辺には恋人のCatrin (Olga Georges-Picot)がいて、サメがいたとか他愛ない会話をしたり、その先は寝たり覚めたりを繰り返しつつ、彼女との出会いとか会話の断片、寝起き - 寝室の壁のマグリット、何度か同じイメージ、その断片が繰り返されつつ、その繰り返しのなかに彼が後悔しているのかずっと痛みとして抱えているのか、その地点、その記憶の周辺に戻って(戻されて?)いくことがわかり、Claudeもしょっちゅう現在時に戻りつつも、実験をやめるのではなく、目覚める前の地点になんとか戻ろうとする。

覚める直前の夢に戻りたいからもう一回寝る、って単に眠いから、も含めてふつうにあることだし、そんなふうにうだうだしていると、隣にいたネズミさんも過去時点に現れたりするので、これ夢じゃないんだ、とか思いつつ、でも彼は一番スイートなところではなく、一番痛切だったあの地点に吸い寄せられていって…

記憶って、それが甘くせつないものであればあるほど、そこに吸い寄せられて身の破滅を招く、ってこれまで何度も描かれてきたようなテーマをSF(ただしヌーヴェル・ヴァーグのそれ)っぽい時間旅行という設定 – 実はねちねちとストーカーのように寄っていくのと変わらない – のなかで展開して、つまり人は愛のなかで何度でも死ぬのだ、ってちょっとロマンチックなところに落ちて、それはベルギー郊外の殺風景な研究施設の穴のなかであっても変わらない。 “Je t'aime”は2回どころか、何度でも重ね塗りされて繰り返されていくのだ、と。

Alain Resnaisの記憶や時間に対する執着というか世界観って、これだけではなく何本か続けて見ていくとはっきりと見えてくるので、やはり特集で立て続けに見たいなー。

3.22.2025

[film] Park Row (1952)

ここからは日本/東京の備忘。たぶんそのうちネタが尽きる。

平日は朝からオフィス行って仕事、夕方からはロンドンともやりとりがあるので早めに抜けることができないし、なんか体力なくてすぐ疲れてしまうので映画は週末にならざるを得なくて、要は何ひとつ大変におもしろくない日々。

シネマヴェーラ、会員のを更新しても5回くらい見ればモトが取れそうだったのでそっちにしてこの日の3回分を買う。いま手元のカードには来店回数は245回、累積:0ポイント って打ってあるのだが、ポイントでは見れないのか - ポイントってよくわかんないわ。

Park Row (1952)

3月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画は戦場だ! サミュエル・フラーの映画魂』で見ました。Samuel Fullerの映画は基本ぜんぶ、映っていなくても戦争ものなので体が弱っているときに見るのはちょっとしんどいのだが、でも見る。

作・監督・プロデュース、ぜんぶSamuel Fuller。
これとか”The Bowery”(1933)とか”Crossing Delancey” (1988)とか、ローワーイーストの通りの名前が入っているとなんか見たくなってしまうのはどうしてなのか? (あの通り界隈にはなにかある、って思うから)

1886年のNYで新聞記者のPhineas Mitchell (Gene Evans)が社の方針を批判して解雇され、その隣に仲間を集めて自分たちのやり方で新しい新聞社を立ち上げよう、って奮闘する。そこに横から口や手を挟んできて目障りな隣の旧来型新聞社のCharity Hackett (Mary Welch)との熾烈な戦いを通してジャーナリズムとは、を叩きつける。それを演説とか長台詞とか涙で訴えるのではなく、せかせかしたアクションと過去の先達の紹介の対比で一気に見せて、例えば新聞社を作る、っていうのがどんなかんじのものなのか、がバンドをくんでいくみたいなわくわくする痛快さの中で描かれていてかっこいいー しかないの。


Pickup on South Street (1953)

前に見たことあるやつだった。マンハッタンの犯罪、みたいな特集があると”The Naked City” (1948)と並んで必ず入ってくる一本。 邦題が『拾った女』って… 女を拾う話でも、女が拾う話でもないよ。

NYのラッシュ時の地下鉄で、スリのSkip (Richard Widmark) がCandy (Jean Peters)の鞄から財布をスったらそこに彼女が運搬を頼まれた極秘情報入りのマイクロフィルムが入っていて、警察と送付元の両方とCandyがそれぞれにSkipを追い始めるのと、自分が盗ったブツの価値を知ったSkipも動き始めて…

土地の闇をぜんぶ掌握しているかのような情報屋のMoe (Thelma Ritter)の存在感が彼らを交錯させ、かき混ぜ、それでもすべては元に戻っていくようなー。

Skipが住んでいる河の上の小屋、洗濯とかどうしているのだろう、っていつも。

コミュニストから国を守れ、っていう当時のお題目はあるものの、それをスリに言わせているのでじゅうぶんに軽くて怪しそうで、J. Edgar Hooverのお気には召さなかったらしい。


Margin for Error (1943)

この日の三本目、邦題は『演説の夜』。なにを見ても楽しくなってくる。

監督はOtto Preminger(出演も)で、原作はClare Boothe Luceによる同名戯曲 (1939)、脚色にLillie HaywardとクレジットなしでSamuel Fuller。

NYのユダヤ人の警官Moe (Milton Berle)がドイツ領事館の領事Karl Baumer (Otto Preminger)の公邸での警護を命じられて、あんなナチ野郎の護衛なんてまっぴら御免、って嫌がるのだが、説得されて任務につくと、Karl Baumerは秘書のMax (Carl Esmond)にも妻のSophiaにもめちゃくちゃ忌み嫌われていて、その事情も尤もで、他方でデモによるナチスへの抗議が渦を巻くNYではヒトラーのラジオ演説の晩に破壊工作が計画されていて…

邸内で息詰まる攻防が.. と思ったら領事は割とあっさり盛られて刺されて撃たれて死んじゃって、いなくなったのはよいけど後始末と爆破計画の阻止をどうする? の方でじたばたしていくのがほんのりおかしい。

この辺、どことなくルビッチの”To Be or Not to Be” (1942)にもある、ナチスなんてちーっとも怖くなんかないもん! が少しあるかも。こっちの方がやや堅くて真面目だけど。

3.20.2025

[film] Wolfs (2024)

ロンドンから日本行きの機内で見た映画ふたつを。
作・監督は”Spider-Man”シリーズのJon Watts。

バスにでっかい広告まで乗せて結構宣伝していたのに劇場公開直前になって(1週間は公開されていた?)配信にされて”?”になったやつ。

高級ホテルで地方検事の女性が夜中、部屋に招き入れた若い男が突然死んじゃった、ってパニックになり、なんかあったら使え、って言われていた番号に電話したら闇の仕事人George Clooneyが現れて男の死亡を確認し、片付けるからどいてて、となったところに別のルートから派遣されたらしいBrad Pittが現れて、互いに、お前は誰だ? お前の依頼主は誰だ? になるのだが、いまここで揉めても意味ないのでまずはこの依頼を片付けよう、って死体を包んで地下の駐車場の車まで運び、George Clooneyの車に積んだところで若い男が生きていることがわかって、とりあえずトランクに押し込んでチャイナタウンの闇医者のところに向かい…

仕事の内容が死体の片付けではなくなってしまったので、仕事人としては生き返ったその若者を始末して死体に戻って頂くしかないのだが、こいつがすごい勢いで逃げ出したので、彼を捕まえてそもそもなんであのホテルに行ったのかも含めて聞きだすと、こいつが運ぶのを依頼されたドラッグの怪しいルートまで遡らないとまずいかんじになってきて…

呼び出された仕事人が思いもよらなかったやばい方に巻き込まれて悪夢のような一晩を過ごすことになる、というクライム・コメディで、監督が好きだという”After Hours” (1985)っぽくもあるのだが、真ん中のふたりはやはりミスキャストだったのではないか。

George ClooneyもBrad Pittもそれなりの場数を踏んできて腕は確かなのだろうが、「オレはできる男」のナル臭が強すぎて鼻につくし、これに近いやり取りは”Ocean's -“ (2001-)のシリーズなどで既に見てるし、もうわかったよ、になる。

どうせならあの若者をモンスターかエイリアンかミュータントにでもしちゃえばよかったのに、とか。


Quiz Lady (2023)

制作会社がGloria Sanchez - Will FerrellとAdam McKayの - だったのでよいかも、になる。
監督はJessica Yu。 全世界で配信のみだったのかー。

Anne (Awkwafina) は子供の頃から長寿クイズ番組 - “Can't Stop the Quiz”に浸かって内に籠り、父は家出蒸発し、ギャンブル狂の母は借金を背負ったままマカオに高飛びして、姉のJenny (Sandra Oh)も夢を追うんだ、って家を出て、最後にはAnneと老パグのリングイネが残されて、彼女は勤務先の会計事務所と家を行き来するだけ、毎日のクイズ番組だけを楽しみに生きているので、クイズならいくらでも答えられる。

でも破産して車上で暮らすJennyが戻ってきて、母親の借金のカタでリングイネが誘拐されて身代金を要求されて、最後に残された道はAnneが“Can't Stop the Quiz”に出演して賞金を稼ぐことしかなくて、後半はWill Ferrellが司会で、陰険なJason Schwartzmanがずっと挑戦者を退けて勝ち続けている番組にJennyと一緒に臨むのだった…

例によってまともな人がひとりも出てこないドタバタコメディで、アジア人、女性、借金、等々のネガをはねのけるの。大好きなクイズ番組とパグのために。

パグがかわいいからぜんぶ許す。

3.19.2025

[film] Portrait d’une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles(1994)

3月8日、土曜日の夕方 – いよいよ時間がない – Park Theatreで演劇を見たあと、移動してBFI SouthbankのChantal Akerman特集で見ました。 これはなんか見逃せない気がした。 上映前にAnother Gaze誌のDaniella Shreirさんによるイントロがあり。
 
英語題は”Portrait of a Young Girl at the End of the 1960s in Brussels”。63分の中編で、元はTV局Arteが9つからなるシリーズとして企画した”Tous les garcons et les filles de leur âge” (All the Boys and Girls of Their Age)のなかの1編。他に委託された監督たちはAndré Téchiné, Olivier Assayas, Claire Denis, Cédric Kahnなどなかなかすごくて、Assayasの”Cold Water” (1994) はこの企画から劇場公開されたものだそう。
 
舞台は1968年4月のブリュッセル – 「1968年5月のパリ」でないところがポイント – 15歳のMichelle (Circe Lethem)は親友のDanielle (Joelle Marlier)とつるんでうだうだしていて、Michelleの髪はショートでずっと洗っていないようなボーダーを着ていて、Danielleの髪はロングで身なりはややちゃんとした学生ふうで、ふたりとも学校なんてどうでもよくて頭にあるのはパーティのこととかばかり、そのうちMichelleは街中でスーツを着ているけどどう見てもちょろくてあやしい若者Paulと出会って映画館でキスをして、よい雰囲気になってきて、街をうろついてから彼のいとこのアパートに行くのだがだれもいなくて、”Suzanne”をふたりで踊ってからー。
 
MichelleとDanielleと一緒にいった夜のパーティでは「ラ・バンバ」などをみんなで踊るのだが、あんまりおもしろくなくて– 微塵もおもしろそうでなさすぎておかしい - 結局ふたりで手をつないで帰るの。
 
街をふらふらしている時のどこにも行きつけないすっからかんのかんじ、パーティがろくでもないものになりそうな感触がある時の夜道の冷たいかんじ、ふたりになった部屋ですることがなくなった時に吹いてくる風、などのものすごくよくわかる空気や湿気、明度は彼女のいつもの。
 
Michelleのキャスティング、スタイリングは68年当時のChantalそのものを狙ったそうで、ただ年齢だけみると、Chatalの方がMichelleより3歳上で、更にこの年に彼女はデビュー作”Saute ma Ville” (1968)を撮って、自分ごとフラットを吹っ飛ばしてしまうわけだが、そういうことを平気な顔でやってのけそうなへっちゃらなやばい佇まいはこのMichelleにも既にあるかも。
 
それにしても、同じボーダーでも『なまいきシャルロット』 (1985)のきらきらしたそれとはぜんぜん違うし、ふたりの少女ものとしては、あと少しで『レネットとミラベル/四つの冒険』 (1987)にも行きそうなのだが、男性の監督が撮ったこれらの少女映画とは、なんか次元が違う。彼女たちの野良なかんじも含めて、当たり前のように地に足がついて生きている、というか。
 
“Cold Water”との二本立てで見たいかも。
 

Hôtel des Acacias (1982)
 
↑のと同じ枠で、先に上映された42分の中編。
INSAS (the Brussels film school)のワークショップで、学生たちに制作させた作品で、Co-directedのクレジットはMichèle BlondeelとChantal Akermanの2名。 彼らの書いたスクリプトを元に4名の学生(?)が16mmのカラーで撮った作品。
 
町中のホテルに女性が泊まりにやってきて、部屋を取って、その辺りから始まる客室、フロント、フロアと昼夜を貫いてホテルの従業員たちと宿泊客たち、彼らのかつての恋人たちをも巻きこんだ恋のぶちあたり/ばちあたり大会が始まってどうにも止まらない宴になっていく。
 
“Golden Eighties” (1986)のショッピングモールの縦横を目一杯使って恋にやられて魂がとんでしまった人々が歌って踊って交差していった画面の背景を“Hotel Monterey” (1972)で切り取った四角四面のホテルの格子上に置いてみたプロト、のような。 とても学生とのワークショップで作ったものとは思えないクオリティで、たまんなかった。

“Les années 80” (1983), “Golden Eighties” (1986)との三本立てで見たい。


この後、なんかものたりなかったので、公開されたばかりのSZAとかが出ているコメディ - “One of Them Days” (2025)を見にいこうとしたのだが、途中で地下鉄が動かなくなったりしてくれたので、諦めて帰ってパッキングなどした。

3.18.2025

[theatre] One Day When We Were Young

3月8日、土曜日の午後、Finsbury ParkにあるPark Theatreで見ました。

翌日には旅立ってしまうので、夜の部とか、あまり長くて重いのは見れない、けどやっぱりなんか見たい、で休憩なしの約80分のこれを。シアターが2つあって、Park90っていう小さい方のシアターで、座席はすべて自由。ほぼ埋まっていた。

原作はこないだ見た映画”We Live in Time” (2024)とか、未見だが劇作の”Constellations”を書いたNick Payneによる2011年の作品(初演も同年)、演出はJames Haddrell。 男女のふたり芝居。

1942年のバースで、ホテルの客室のベッドにふたりの男女 - Leonard (Barney White)とViolet (Cassie Bradley)がいて、彼と彼女は結婚はしていないようで、彼の方は翌日に戦地に赴くので、これがふたりで一緒にいられる最後の晩になるかもしれない、ということで立ったり座ったり窓辺に行ったり着たり脱いだり落ち着かなくて、どちらも将来に孤独と不安を抱えていて、互いに思いを決めて飛び降りるように「やっぱり…」ってなったところで窓の外で爆発が起こって、これが後の歴史に残るベデカー爆撃であった、と。

次のシーンは、The Beatlesの”Love Me Do”が流れてくるのでそこから約20年後、遊んでいる子供たちの声が響いてくる公園のベンチで、ふたりとも少し歳をとって、ふたりの子供がいるというVioletはしきりに電報のことを気にして立ったり座ったりを繰り返す。気にしなければいけない家族がいるけど、こちらの方も気にしたい/気になってしまうふたりが、どこにも行けないまま、子供のように遊ぶこともできないまま、公園でじりじりした時間 – そのまま離れてしまいたいような/でもずっとそこに残っていたいような – を過ごしていく。

次のシーンは、流れてくる音楽で年代がわかるのだが、Tears for Fearsが聞こえた、と思ったらBlurとかまで行って、2002年頃、前のシーンから約40年後、最初のシーンから60年後で、場所は老人Leonardがひとりで危なっかしく暮らす殺風景なフラットで、そこにVioletがひとりで訪ねてくる。始めのうちはよく来たねーとか、互いの健康のこととか近況とかをぼそぼそ言い合ったりするだけなのだが、ふたりでジャファケーキを食べた辺りから、ヒューズがとんで部屋が真っ暗になった辺りから、ふたりのなかで、或いはふたりの間に、何かが立ちあがったように見えて、ふたりとも言葉を失ったり濁したりして、何が起こったのかよくわからないまま立ちすくんでいる、という…

戦時下に出会って愛しあい一緒になる手前まで行ったふたりに、そこからの20年、40年、計60年間でどんなことが起こったのか、詳細が綴られることは勿論ないし、その間ずっと互いが互いのことを強く思っていたとも思えない。ただの断面でも、それでもふたりが再会して顔を合わせた時に蘇ってくる、現れてくる何かは確かにあって、それって何なのだろうか、と。

そういう経験をしたことがなくても、ふたりの繊細な演技と会話からそういうのってきっと起こる、というのはわかるし、そうなんだろうな、って思う(根拠ないけど)。”One Day When We Were Young” – 振りかえった「ある日」のふたりはいつも(今よりは)若い。 考えてみれば当たり前のことなんだけど、そんなある日があるだけで、なにが、どんなふうに違って見えるのかしら? という振りかえり、というのか、その先を見てしまうのか、いや、見つめてしまうのは時間ではなくてあなたなのだ、と。

難病や死によってぷつんと断ち切られてしまう関係ではなく、ずっと微妙な思いを抱えたまま延びて続いていく、そういう関係、とも呼べないような優しい眼差し、そこに浸る時間、ってなにがどうなるものでもないけど、灯りとしてある。

ふたりともぜんぜん知らない俳優さんだったが、若い頃から老いた頃まで丁寧に演じていてすばらしかった。


ああPJ Harvey行けなかったよう…

3.17.2025

[film] Mickey 17 (2025)

3月8日、土曜日の昼、BFI IMAXで見ました。

この日は帰国の前日で、あれこればたばたの中、見ようかどうしようか直前まで迷っていた。

世界中でものすごくお金かけていっぱい宣伝しているし、”Parasite” (2020)でオスカー作品賞監督となったBong Joon-hoが世界にうってでる英語作品 - でも内容は予告を見る限りどう見たってB級アクションだし、でもそこは本人が一番よくわかってやっているのだろうし、公開が一年延期となったのはなんかあるのか、などなど。

原作はEdward Ashtonの2022年の小説”Mickey7”をBong Joon-ho自身が脚色、撮影はDarius Khondji。

舞台は今から30年後、2054年で、宇宙移住計画を推進するキャンペーン中の政治家Kenneth Marshall (Mark Ruffalo)がいて、借金で首が回らず将来になんの希望も持てないMickey (Robert Pattinson)と友人のTimo (Steven Yeun)はこの計画のコアとなる宇宙船の乗員に応募して別の星に移住しようと考える。ただ、応募が殺到していたこともありMickeyの身分は"Expendable"という、生体情報と記憶をぜんぶコピーされて、何度でもリプリント可能な人体を提供する、地球では禁止されているやつ – 要は放射能で焼かれたり大気中のウィルスの耐性を試されたり、危険なミッションを遂行するためのブルシットの使い捨てで、そうやって何度死んでも何度でも再生されて、彼のバージョンは17人目まで行って、Timoを含めていろんな人から「死ぬのってどんなかんじ?」って聞かれるのだが、Mickeyはへらへらしている。のだが、そうしながらも乗組員のNasha (Naomi Ackie)と恋におちたり。

4年間航行して、船はNiflheimっていう雪に覆われた星に着いて、その地表にはクマムシ – ダンゴムシ - ナウシカの王蟲みたいな”Creeper”って呼ばれる生物がうようよいて、そこの探索中に17人目のMickeyは谷底に落ちて死んだ.. と思われたのだが彼はCreeperに救われて船室に戻ってきて、そうしたらそこには(17は死んだとみなされて)リプリントされたMickey18がいたので大騒ぎになるの。

まずクローンの"Multiples"は御法度で見つけたら殺す、ってMarshallが公言しているからか、Mickey18は17を殺そうとするし、Nashaに対してふたりは恋敵になるし、でもどっちかが生き残ったところで、そこにどんな差とか意味があるというのか、だし。

TrumpとMuskを足して割ったような低能傲慢ファシストとその妻で性悪の妻Ylfa (Toni Collette)が、彼らを支援するインチキ宗教団体と一緒になってクローズドな宇宙船内でやりたい放題している、というわかりやすく生々しいディストピアを背景に、生と共生(or 寄生)、アイデンティティ、できれば愛の可能性も探る、なんていうテーマを設定できないこともなさそうだが、それって地球から隔離された宇宙船の中、という設定の段階でどうすることもできない暗箱になっている(or うんざりするくらい「今」すぎて嫌だし見たくないし)ので、実際には壊れたロボットみたいにぼそぼそ喋るMikeyの佇まいとか、できれば小さめのを一匹ほしいなCreeperとか、そっちの方に目が向いて、なんの深い感慨もなしに終わってしまう。正しいB級、にできるかどうかすらわからないジャンクなのだが、雪原の中もじょもじょ動いていくCreeperの大群の影はなんかよかった。

人体破壊→リプリント、のようなテーマであれば、David Cronenbergがあたりがもっと生理的にねちゃねちゃリアルにやってくれるものだと思うのだが、この作品の視点はどちらかというと、使い捨てOKで代替可能な身体とか、Creeperとか(昔だと)Okjaみたいな生贄にされる異形生物のありよう、みたいな、どちらかと言うと社会寄りのところにあったりするのでどうかしら?

完全無欠で最強のヴァンパイアをやっていたRobert Pattinsonが、ここまで廃れてへたれた底辺労働者をやる - どちらも不死であること、あと社会的に不可視である、というところが同じ - というのはなんかおもしろいかも。”Parasite”から続く無産者たちのお話し。

日本のキャンペーンでは、あの人工肉プレート試食は必須。あとCreeperのぬいぐるみほしい。

3.16.2025

[film] We Are Fugazi from Washington, D.C. (2022)

3月5日、木曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。

どういう事情、背景によるものかは知らぬが、Doc’n Roll Filmsが主催しているイベント?で、この日の夕方一回きりの上映が英国各地のPicturehouse のチェーン館で同じ時刻に行われて、今後も5月くらいまでかけて単発の上映はしていくらしい。Fugaziの(現時点での)最後のライブである2002年のD.C.でのそれから20年後に制作された96分のこの記録(non-documentaryである、とのこと)が、なぜ今、突然にリリースされたのか、収益はチャリティー団体に行く、等の点も含めてわかんないけど、とにかく見る。

一回きりの上映だからといって、Fugaziだからといって、20年以上活動を停止しているバンドのライブ映像上映に客が殺到することなんて勿論なく、中サイズのシアターはいっぱいにならなくて、客席は中年以上の年寄りだらけではあったが、そんな程度のことでうだうだ言うやつはIan MacKayeに言いつけてやる。

ファンが各々勝手に撮った(このバンドはライブでの録音録画を禁止していない)ライブフッテージを寄せ集めて繋いだだけのもので、だから”directed by xxx”ではなく、”curated by” Joe Gross, Joseph Pattisall, Jeff Krulikとなっている。

なので最初は映像を撮った各撮影者へのインタビューなどがあって、どうしてライブの映像を撮るようになったのか、とか、Figaziに対する思いとかを語って貰ったり、撮影者の中にはD.C. パンクシーンのドキュメンタリー - “Salad Days” (2014)を撮ったJim Saahなどもいて、撮影者も素材もばらばらなのに全体のクオリティはじゅうぶん、見事に保たれている。

というか、そもそものFugaziというバンドが、そのライブが、突出しているので真横から、真下から、どこからどう撮られようがFugazi、としか言いようのない強さ粗さで迫ってきて、その紙ヤスリに削りとられていく鼓膜の感触だけでたまらない。Sex PistolsもRamonesもClashも、自分にとってパンクでもなんでもなくなってしまったいま、ノスタルジーもなんもなく擦れっからしのコンクリの床を、その足下を見つめさせてくれる。SNSや配信で流れては消えていく泡みたいなライブ映像とは、その感触もトーンもやはりぜんぜん違う。

ライブの日付は初期の80年代末から90年代初のD.C.近辺のものがやはり多く、ラストは2002年の、今のところ最後となっているライブで閉まる。客席やステージの端から固定で捉えているせいもあるのか、バンド4人 - Brendan Canty, Joe Lally, Ian MacKaye, Guy Picciotto - の輪郭がぶっとく、ギターアンプが飛んでも、会場全体の電源が落ちても、平気な顔で演奏を続けるし、モッシュで客の頭を踏んづけたガキに延々説教してるし、ああぜんぶFugaziだわ、しか出てこない。あと1曲だけ、Dischord Records仲間のAmy Pickeringさんがヴォーカルをとっている映像があり、異様にかっこよいったら。

あとこれもファンの撮った映像でライブ後にIan MacKayeが喋っているの(インタビューという程のものでもないか)があって、その隣に彼のママ - もかっこよし - がいたり。

アメリカの政治が、文化が、かつてない危機を迎えている今(じつはずっとそうだし、どの国だってそうだけどね)、音楽に政治をぶちこんで全面戦争に持ち込まないとだめよね、という危機感を思いっきり煽ってくれてよかった。


I Am Martin Parr (2024)


少し前になるが、2月19日、水曜日の晩、CurzonのSohoで見ました。 ↑とタイトルが似てるかなって。

Martin Parr (1952-)は英国の写真家で、Magnumのメンバーで、英国の田舎や郊外に暮らすそこらの人々の日常をぺったんこのカラーで撮らせたら流石で、その写真は、誰もがどこかで目にしたことあるのではないか。彼の写真と出会ったのはNational Maritime Museumで2018年にあった”The Great British Seaside”っていうイギリスの海辺風景を撮った集合展で、それがすごく面白かったの。最近だとパリのL'INAPERÇUっていう本屋で彼のキュレーションによる英国・アイルランドの写真集を特集していて、すてきなのがいっぱいあった。

公開日前のプレビューで、夕方の早い方の回には監督と一緒のトークとQ&Aが付いていたのだが、自分が見た夜遅い方の回はイントロだけ。それでも椅子に座って結構お話ししてくれた。

68分の長さで、Martin氏によると、90分を超える映画なんて自分には耐えられないから、と。映画はそんな彼が日々街中で撮影していく姿を追っていて、それだけなのにおもしろかった。街中をふつうに杖をついてよれよれ歩いていて、被写体を見つけると後ろから寄っていってパチリ、ってやるだけで、その姿だけでフィクションになりそうな妙なおもしろさがあるの。(やばくない)素敵なおじいさんだった。


時差ぼけの最終調整段階 = 眠くなったら寝る = いつもと同じ - に低気圧が襲ってきていいかげんにしろ、になっている。

3.14.2025

[theatre] The Seagull

3月7日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。

4月に戻ってくるまでに終わっちゃう演劇のなかで、これは特に見たかったのだがチケットが高くてどうしよう... だったのを飛び降りて取ってしまった。

この週2本目のチェーホフ劇。昨年からだと5月にDonmar Warehouseで”The Cherry Orchard”、2023年9月にAndrew Scottの“Vanya”を見たので四大戯曲ぜんぶライブで見たことになる。でもまだまだ。

脚色はThomas OstermeierとDuncan Macmillanの共同、演出はThomas Ostermeier。休憩1回の全3時間。

舞台の真ん中に背の高いトウモロコシだか葦だかの草が”Interstellar” (2014)とか”Signs” (2002)みたいに壁のように植わっていて、登場人物たちはその叢の向こうから現れる。叢の前にはビーチのようなてきとーなデッキチェアがいくつか。ステージ中央から客席の真ん中くらいまで花道のような通路が延びていて、マイクスタンドが3箇所くらいに置いてある。 設定は現代、だけど田舎。

最初に作業着姿のSimon Medvedenko (Zachary Hart)が小型の4輪トラクターのような乗り物ですーっと軽快に現れて、おもむろにテレキャスターを手にしてアンプに繋ぎ、「チェーホフやるんだってな?」なんて言いながらBilly Braggの“The Milkman of Human Kindness”をじゃかじゃか歌いだしたのでおいおい、って。合間合間に彼はこうして現れてBilly Braggもあと2曲くらいやる(なかなかうまい)。 Billy Braggにチェーホフ… ありかも。 音楽ではもうひとつ、The Stranglersの”Golden Brown”のあのシンセのひょこひょこがところどころで。

そこからMarsha (Tanya Reynolds)と彼の寸劇のようなやりとりのあと、Irina Arkádina (Cate Blanchett)が現れると、彼女のテンションとオーラが舞台のすべてを支配してしまう。

誰もが認める大女優でスターで、声も態度もでかくて誰も逆らえない、そんな彼女の周りによれよれ死にそうな兄のSorin (Jason Watkins)とか彼女に引き摺られている有名作家のAlexander Trigorin (Tom Burke)とか、壊れそうなくらいナイーブな作家志望の息子 – というよりそこらの宅録少年みたいなKonstantin (Kodi Smit-McPhee)、彼が思いを寄せる女優志望のNina (Emma Corrin)などが現れて、みんながいる前でKonstantin自作の詩劇みたいのが披露される.. がデバイスを装着して没入させてくれるはずのそれは自滅に近い大惨事で終わって、演劇界の先輩として偉そうにコメントしたつもりのIrinaは深く息子を傷つけて、母子だけでなくNinaとの間にも溝を作ってしまい …

一連の出来事が連鎖したりドライブしていく、というよりは、ひと夏、湖畔のどこかに集まって退屈でうんざりしている金持ちセレブの一族が織りなすアンサンブルで、若者たちを除けば誰も痛みや悩みを抱えていない – というかなんも抱えていない、抱える心配もなく心身腐っていくだけの大人たちと、その反対側で煩悩にまみれてひっそり殻を閉じていく若者たちのギャップ – 簡単に剥製にされてしまうカモメなど - が叢を挟んで見え隠れしていくドラマで、なにか大声でみんなに伝えたい事が出てきたひとはマイクスタンドのとこに行ってわめくとか、でも全体としては豪華なだけであまりすっきりしないコメディとしてフェードアウトしそうになったところに銃声が。

いろんな人たち、都会のどこかで会ったことがありそうな人たちが、田舎でうだうだしつつ例えば演劇を、例えば文学を語る、そこにどんな意味があるのか? そんなことしてなんになるのか? という近代における根源的かつ致命的な問い、をMarvel Cinematic Universeに出てくる超人たちがライブで仰々しく問いかけてくる。

キャストでCate BlanchettとTom Burkeは当然知っていたが、この劇は若者たちがみんなよくて、黒づくめにメガネのゴス– Marsha役のTanya Reynolds、Kodi Smit-McPhee、Emma Corrin、みんなX-Menの新キャラとして出れそうな危ういエッジが、と思ったら既にこいつらみんな。

ジャンプスーツとか、ジャンプスーツの上からビキニとか、ファッションでも大阪のオバハンふうに大暴れしてくれるCate Blanchettは言うまでもなく、ぼさぼさの無精ひげで外見がチェーホフそのものに見えてしまうTom Burkeの威圧感もすばらし – 映画 - “The Souvenir” (2019)で彼が演じた作家キャラにも通じる、そこにいて見つめるだけで誰かを蝕んでしまう毒男。 3mくらい先で身悶えするCate Blanchettを見れたのでそれだけでいいわ。


2018年のMichael Mayerによる映画版も思い出した。IrinaがAnnette Bening、KonstantinがBilly Howle、NinaがSaoirse Ronan、MarshaがElisabeth Mossで、キャスティングは悪くなかったのだが、なんか弱かったかなー。

3.13.2025

[theatre] BACKSTROKE

3月6日、木曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。

原作・演出はAnna Mackmin、主人公のふたりも、彼女らの周りの看護婦たち3人もすべて女性だった。 前々日に見た”Otherland”もすべて女性による舞台だったのは偶然か。

舞台の中央には病院にあるような大きい介護用ベッド、手前の方にはテーブルとかリビング、キッチン(オーブン?)のセットなどが並んでいる。

そのベッドにBeth (Celia Imrie)が動かないで横たわっていて、病院の看護婦の様子から彼女はずっとそこに寝たきりのまま、先がそんなに長くないように見えて、そこに彼女の娘のBo (Tamsin Greig)が現れると、Bethのことを一番よくわかっているのは自分、と言わんばかりに食べ物へのダメだしとかいろんな指示をしだして、それがやや強引で支離滅裂であることに自分で気付いてはっとしたり。 ここまでで、この母娘の関係がどれだけ深く互いを縛る - 逃れようのない強めのものであったことが暗示される。

Bethはずっと寝たまま動けないままではなくて、Boとの間の過去の場面の再現、になると舞台手前のリビングとかキッチンにさーっと出てきて母娘のやりとりを繰りひろげていく。それがどちら側の記憶によるものなのかは明示されず、その再現の順番も時系列ではなくランダムのようで、場合によってはベッドの背後のスクリーンに映像(ドリーミーな昔の8ミリのような)が映しだされたり、ベッドに縛られて動けない母とその傍らでやはり動けなくなり(なにもできなくて)焦りを抱えている娘の歴史を明らかにしていく。 あとスクリーン上にはちょっとノイジーでとげとげしい、トラウマのようなイメージも - 思い出したように繰り返し映しだされたりする。

70年代の奔放な時代を生きたBethはすべてにオープンかつアナーキーで、自身の性生活や男性遍歴も含めてなんでも娘に語り、その調子で豪快にBoの背を押すのだが、そういうことをされた娘の常として、Boはストイックで注意深く疑り深く、脚本家としての仕事を得て自立はしているものの攻撃的すぎていろいろ失って、中絶を通して母となる機会を失い、養子を貰って母になろうとするがそれもうまくいかないようで、言いようのないこの「母」に対する敗北感というか複雑な思いを常に抱えていて落ち着かない。柔の母と剛の娘、それぞれのいろんな思いとエピソードが錯綜して転がってややとっちらかっている感もあるのだが、ふたりの演技がものすごく巧くてキャラクターとしてのブレがないので、きちんと伝わって - 情景として浮かんでくる。そうであればあるほど、口にすることのできない別れの痛みが。

タイトルのBackstroke – 背泳ぎ – は、Boが子供の頃、水を怖がってなかなか泳ぎの上達しない彼女に一緒に水に入ったBethがBoの頭をやさしく支えて全身を浮かべてあげて、こうやって浮くんだよ大丈夫だよ、って教えるすばらしいシーンからで、今は横たわって動けなくなったBethにBoが同じようにー。

こういうの、母娘関係って自分にはわかるものではないのに、国も言葉も違うのに、なんだか何かが見えてくる不思議、というのが昔からあり、それはなんなのだろうか? と。 (そして頭のなかには矢野顕子の”GREENFIELDS” – これも大文字 - が流れてくるの)


ほらね、ちょっと留守にしただけでEBTGがライブやるとかいうし… あーあー

3.12.2025

[theatre] Otherland

3月4日、火曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。

原作はミュージカル”Standing at the Sky’s Edge” –未見- を書いたChris Bush、演出はAnn Yee – どちらも女性。キャストの8名もすべて女性。

冒頭、Jo (Jade Anouka)とHarry (Fizz Sinclair)のふたりが友人たちに見守られて結婚しようとしている。元気いっぱいのJoと落ち着いてしなやかなHarry - どちらも輝いていて、誰もがふたりは最強のカップル、と称えて歌って踊るのだが、そこから5年後、彼女たちは別れの支度をして一緒に暮らした住処を出ていこうとしている。 劇はその原因を掘り下げるのではなく、ふたりのその後を描いていくことで、何が起こったのか、というよりどうしてこうなってしまったか、を追っていく。

Harryはトランス女性で、パスポートの性と名前もHarrietに書き替えようとしていて、でもそれに伴う様々な困難 - 手続きにかかる手間と時間以上のものだけでなく、肉親であり同性である母親からも無理しないでやめれば? と言われたりで疲弊して、性のトランジションを巡る抑圧や差別偏見は本当に身近な人々からも来ることが明らかにされる。わかって貰える人が誰もいない、という孤絶感。

Joは、南米のマチュピチュのあたりをトレッキングしていて、Gabby (Amanda Wilkin)と出会って恋におちて、大好きなGabbyのためならなんでもしよう、と思うのだが、Gabbyが子供がほしいな、と言いだして…

どちらも女性ひとりではどうすることもできない問題がやってきて、どうするのかー、って。

次の幕では、ここの円形のステージの真ん中に水が溜められていて、そこに半魚人のような姿のHarryが打ちあげられるのと、Joはお腹に機械を埋めこまれたサイボーグで、その電流がばりばり流れていく機械のなかでGabbyの赤ん坊を育てている、という近未来(ぽい)設定になっていて、例えばふたりの置かれた世界(Otherland)がこんな設定であったら、というオルタナ世界が描かれていく。ただもちろん、これがバラ色の決定版/ユートピア!のような描き方ではなく、ここまで極端な方に振れ(振らさ)ないと解決の行方って見えないものなのか、ってちょっと下を向きたくなるかんじ(ひとによると思うけど)になるものでもある。

最初の幕の問題提起と次の幕の近未来での解決策の間のギャップを示すことで、今の女性が置かれたジェンダーと出産のあり(あらされ)ようを、それが特定の社会に止まるものではない、とてもパーソナルな次元での厳しさ難しさをもたらすものなのだ、ということを伝えようとしていて、それはGuardian紙にあったChris Bushのインタビューを読んだらより理解が深まった。30代になってようやくカミングアウトできたトランス女性であるChrisが、どうしてこの話を書く必要があったのか、彼女にとって演劇とはどういうものなのか、の洞察も含む、とてもよい内容なので読んでみてほしい。

という背景を知らなくても(知らなかったよ)、結末は – まったく逆のディストピアに落っことすこともできたであろうに - とても感動的なものになっている。その持っていき方に無理や強引さがないとは言わない - ケチをつける人は沢山いるだろう – けど、逆にここにある希望や暖かさは確かにあってよいものだし、こんなふうにして舞台と現実は繋がりうるものなのか、ということもわかったのはよかったかも。 男性に見てほしいものだわ。


日本に来ているのだが、花粉と湿気と低気圧でずっとしんどくて、今日の窓の外なんてどんより灰色のまるでロンドンで、楽しいことがひとつもないのでびっくりしている。
 

[theatre] Three Sisters

3月3日、月曜日の晩、Shakespeare's GlobeのSam Wanamaker Playhouseで見ました。雛祭りの日なので三人官女(ではない)。

これ、2月に見た”Cymbeline”と同じシアターで交互に? 週替わりくらいで上演していて、セットとか結構違うのに大変では、と思ったのだが、シアターの仕様が特殊すぎるのでそんなに難しくないのかも - わかんないけど。

原作はチェーホフ(1900)で、理由は知らぬがここでチェーホフが上演されるのは初めてだそう。演出はCaroline Steinbeis、翻訳/脚本はRory Mullarkey、チェロを中心としたシンプルな演奏は3名構成。

”Cymbeline”のセットには骨が貼られたりしていたが、こっちは花で、特に1幕目は正面上部に花文字で”IRINA”ってでっかく掲げられていて、”IRINA”の結婚が彼女たちにとってひとつのテーマであることがわかる。

上演開始前からMasha (Shannon Tarbet)は黒い服を着て舞台の隅にじっと座って本を読んだりしていて、長女のOlga (Michelle Terry)はいかにも教師、という緑と白のかっちりした衣装で、冊子を抱えててきぱき行ったり来たりしている。そして末妹のIrina (Ruby Thompson)は白を纏って彼女が登場するだけで場が明るくなる、そんな三姉妹で、まずこのばらばらに見えるけど素敵に色分けされた衣装の3人が並んで舞台にいるだけで、ちょっとかっこいいバンドを見ているかんじになる。

他には姉妹から大事にされている兄弟Andrei (Stuart Thompson)とか彼の妻でOlgaとは別の意味できりきりしゃきしゃきしているNatalya Ivanovna (Natalie Klamar)とか、唯一結婚しているMashaの夫Fyodor Kulygin (Keir Charles)の - 教師だからしょうがないのか - しょうもない凡庸さとか、なにを言ってもやっても怒られたり無視されたりちょっとかわいそうな老家政婦のAnfisa (Ishia Bennison)とか、なんだかんだ三姉妹の傍にいたがる馴染みの老医師Ivan Chebutykin (Peter Wight)とか、あとはなにがしたいのか家にずっと居たり出入りしたりしている兵隊たちのよくわからない挙動とか。

みんなが今の暮らしに満たされていないもやもやを抱えつつ、Irinaの結婚(がもたらす何か)に僅かな望みを繋いでいて、それは過去の一家の栄華とモスクワでの暮らしに繋がっていて、「モスクワ」の単語が出るだけでその場が少し明るくなる不思議、があったりするのだが、そんな期待が内側外側それぞれの事情でどんよりと曇っていく、それと共に舞台上の蝋燭 – このシアターの照明で、本当に火が点いている – の火が消されていって、幕の終わりの方はこれまで見たことないような暗さ、暗がりに向かう中で劇が進行していく。

2幕目は、一家の屋根裏部屋のようなところにいる姉妹たちの周りで、それぞれに家庭に絶望しているAleksandr Vershinin (Paul Ready)とMashaが近づいて – いややっぱりだめだわ、になり、Andreiの賭博が問題になり、近くで火事が起こって、Irinaの結婚問題も夢や理想を追っても.. の辺りに落ちて、人々はばたばた動きまわるのだが、全体としては停滞と諦めの霧が次第に濃くなっていって、最後はIrinaの婚約者が決闘で亡くなってしまうのだが、もちろん誰にもどうすることはできないことばかりで、やっぱ自分たちでどうにかしていくしかないよね、って決意して終わる。

いろんな人が現れては消えてつつ勝手にいろんなことを言って、でも全体としては停滞したまま丸ごと沈んでいく… というチェーホフの芝居をシェイクスピア的な小世界の空間に展開してみたら、ということなのか… と思ったが、ショートコントみたいな芝居が次から次へ流れていくばかりでやや落ち着きはよくなかったかも。3姉妹はとても素敵で魅力的で、見ていて楽しかったのだが。

3.09.2025

[log] March 09 2025

朝4:30の車でヒースローに来て、これから朝のフライトに乗って日本にもどる (いつもの夕方の便は取れなかった)。朝のフライトでよいのはBAのラウンジのPorridge (おかゆ)で、今回の旅の歓びのピークはここまで。

これまでの人生、いつでもどんなときも日本に戻るフライトが楽しみ(!)になったことなんてなかったのだが、今回のは断トツの格別、1ミリも微塵も楽しくなれそうなことが出てこない。

日本には昨年11月にも、こないだの1月にも帰っているのだが、今回の滞在はものすごく長い。お彼岸に向かって、日に日に陽の沈むゆらゆらが遅く長く延びていく、ただの自然現象なのに、桜が咲くのよりもなによりも、なんともいえない虫の感覚でもって喜ばしく解れていくロンドンののろい春をライブで実感できないなんて、とてつもない大損をしている気がする。

前回の帰国のときは、それでも初めての検査入院とか、興味本位の前向きになれそうなことも少しはあった。
でも入院も検査も、最初はわああー、とか喜んでいたけど、あんなしんどくて辛くてぐったりするの、1泊で十分だと思ったのに今度のはー。(やっぱり健康がいちばん)

いまとなって不思議なのは、人間ドックでなんか見つかった時、前から怪しかったとはいえ、医師の勧めとか聞かずに知らんぷりで帰国してそのままにしちゃえば普段通りにできてよかったのに、どうしてそうしなかったのか? 根はまじめなよいこってことか、手術とかやってみたかったのか、どうせやるなら早いほうが、とか思ったのか。

もう少し若い頃であれば、どうせ死ぬなら早い方が、とか思っていたのだが、今はそっちの方に考えが向かない。というあたりが老いた(結果)と見るのか、だから老いたのだ(原因)と見るのか。

滞在が延びたり、戻ってこれなくなったら、お部屋に積んであれらの本はどうなっちゃうのだろう、とか、殆どがロンドンで手に入れたものなのでできればロンドンで捌きたいのだが、どこにどうやって、とかどうでもよいことばかり考えてしまう。

戻るのに気がのらないので、日本で何をやっているのか、何を見たいかとか、ぜんぜんチェックしていなくて、どちらかというと、こちらで最後に何を見ておくべきか、ばかり追っていた。

映画は生き延びていられればそのうちいつかどこかで、とあまーく思っているのだが(でももうじきのBFI Flareに行けないのは残念)、生ものに近い演劇はその時のライブだから、って思うことが多くなって、だからこの一週間は4月で終わってしまいそうな演劇ばかり見ていたのだが(あと、昨日の初日に見たNational Galleryの”SIENA”はすばらしかった)、改めて映画を見るのとは別の体力とか神経を使うものだねえ。

いまの東京だと、坂本龍一のがまだ間にあったら、と、ヒルマ・アフ・クリントと、目黒?でやっている黄金テンペラ画のと、映画はレオス・カラックスが来るらしいけどチケットは無理そうだし、『白夜』と成瀬とオリヴェイラと ← なんだかんだチェックしているではないか。

ただこれらも病院の検査とメンタル含めた体調次第だし、そうでない間はふつうに仕事できるはずよね、とされているのでひと揃え面倒くさい。これなら人里離れたサナトリウムのようなところ(なんてもうないか)でひとり読書でもできたら、なのだが、身体ばかりはどうしようも & 身体を動かさないことにはどこにも、の間でフリーズしてしまう。とにかく健康がいちばん。て言うのは簡単だけど老化は自然現象だし。

というものすごくしょんぼりの日々になってしまいそうですが、なんか書けたら書いていきまー。

3.08.2025

[theatre] Hadestown

3月2日、日曜日の午後のマチネを、Lyric theatreで見ました。

ふつう演劇って、日曜日は公演しないと思っていたのだが、これは日曜日のマチネがあって、今週は特に時間がないので取りたいと思ったのだが、人気があるのかリリースされる端からすいすいなくなっていくし、チケットの値段高いし。 でもしょうがないのでどうにか取る。

最初は2007年にバーモント州のD.I.Y.プロジェクトとして始まり、2019年のブロードウェイ公演はTONY賞の14部門にノミネートされ、Best Musical、Best Original Scoreを含む8部門で受賞していて、ロンドン版は2018年にNational Theatreで上演された後、2024年からここでリバイバルされている – のが今回見たバージョン。こういう人気ミュージカルって、実はあまり見たことないの(”Wicked”も”Hamilton”も”SIX”も見てないや...)。

客層はみんな若めで華やかで、物販にわいわい並んでいるし、看板のとこで記念写真撮っているし、自分がいつもいく演劇とか映画のかんじとは結構ちがう(それがどうした?)。

原作はギリシャ神話の”Orpheus and Eurydice” - 『オルペウスとエウリュディケ』を元にAnaïs Mitchellが脚色、作詞、作曲までぜんぶやっていて、この舞台の演出はRachel Chavkin。

舞台は現代の栄えているとは思えない町の居酒屋、天井高のあるサロンバーのようなところで、左右に各3名くらいのバンド、奥の扉の向こうにドラムス、その上には工場を含めてその一帯を支配しているHades (Phillip Boykin)と妻のPersephone (Amber Gray)がふんぞり返っていて、その周りをモイラ - 「運命の三女神」が歌って舞って動きまわる。 という全体図をMCにあたるHermes (André De Shields)がゴスペルの司祭の威厳と貫禄でもって紹介していく。音楽から離れた台詞や会話はなく、すべてが音楽のなかで語られ、怒り、泣き、愛もまた。

そういう雑踏のなか、仕事を求めて流れてきたEurydice(Eva Noblezada)とミュージシャンになりたいけどまだ半端なOrpheus (Reeve Carney)の若いふたりが運命の出会いをして、互いに運命の出会いであることはわかるけど、日々の生活をどうにかしなきゃ、なので、EurydiceはふらふらとHadesのブラック工場に契約して、ふたりは引き離されてしまい…

ギリシャの神々が大恐慌時代のアメリカの貧富がくっきり分かれた社会階層の断面に現れて(いて)なんかする、というのはわかるし、そこに現代の格差や労使問題を練りこむ、のもあるだろう、し、そこで貧しいけれど心のきれいな男女が出会って、純愛... になりそうなところで女性が売られて一転悲恋に、というのは昭和の労働者を描いた映画やドラマで散々に見てきたので今更、なのだが、格上の権力者に敵いようがない圧倒的な強者であるギリシャの神々を置いた、というのが(少しだけ)新しいのか。

あとは使い古されたドラマでも、歌いあげるミュージカルにすることで心に灯が(ポスターにあるような紅いバラが)ともる、のかも知れない。音楽はオーケストレーションやコーラスを多用して音の壁で盛りあげるのではなく、フォーク、ブルース、ゴスペル、R&Bなど、アコースティック寄りで、踏み鳴らす足音と耳元の歌声で切々と親密に持ちあげていくので、圧倒される、というよりもつい拳とハンカチをぎゅううっとしてしまう、というか。(すすり泣いている人が結構いたのでびっくりしたけど)

でも最後の結末が鶴の恩返し(ふう)になってしまうのは、ギリシャの神々にしてはせこすぎやしないだろうか? (いまのUSAを見ると全く笑えないけど) そしてそのせこいのに負けてしまったOrpheusもさー…

あ、でも、若いふたりはきらきらしていてとてもよかった。ちょっと疲れたPersephoneも。

このアンプラグドみたいなバージョンとは別にパンク(スチームパンク)バージョンとか作ればいいのに。

この回ではないが、フィルム撮りをしていたようなので、そのうち日本の劇場でも見れるようになるかもしれない。

3.07.2025

[film] Ainda Estou Aqui  (2024)

3月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。英語題は”I'm Still Here”。

この日の晩に発表されるオスカーで、外国語映画賞はこれだろうなー、と思ったので見ておいたら、ほうら当たった。

監督はWalter Salles、オリジナルスコアはWarren Ellis - これも見事なのだが、挿入されている当時のブラジルの音楽がすばらしすぎ。

1970年軍事政権下のリオで、元国会議員で技師のRubnens Paiva (Selton Mello)と妻のEunice (Fernanda Torres)と沢山の子供たちは本とか音楽とか友人たちに囲まれて、近くにはビーチもあるし楽しく幸せに暮らしていて、でも上空を軍用ヘリが飛んでいったり装甲車が走っていったり、やや不穏で、でも自分の家、家族には関係ないと思われた。

そんなある午後に、銃を持った男たちがやってきて、Rubensに支度をさせて車で連れ出し、Euniceと娘のEliana (Luiza Kosovski)も別の車に乗せられ、途中でフードを被せられ、Elianaはすぐに釈放されたようだが、Euniceは12日間監禁され尋問 - 写真を見せられてこの中にコミュニストはいるか? - されて、そんなことより夫は? 娘は? どこにいてどうなっているのか、誰に何度聞いても答えは返ってこない。

Rubensがいなくなってから先、視点はEunice中心に固まっていくが、釈放されて家に戻っても政府が差し向けたガラの悪そうな男たちが家に常駐して子供たちも含めて24時間監視している、というホラーで、どういうホラーかと言うと、すべてが突然で、何が起こっているのかこの先どうなるのか、いつまで続くのか、どんなことをされるのか全くわからないことにある。

Rubensと同時期に尋問を受けていた人から少しだけ彼の様子を聞きだしたりすることはできたものの、過ぎていく時間と共にEuniceは彼がこのまま帰ってこないこと、おそらく拷問の末亡くなってしまったことを受けいれざるを得なくなっていく。映画は彼女の悲嘆や絶望をダイレクトに映しだすのではなく、世紀を跨ぐ長い時間のなかで彼女がその事実 - もう彼はいない、会えない - をどうやって一人で受けとめ、その後を生きたか。リオにいてもしかたないので、サンパウロに引っ越すことにした際の、がらんとなったみんなで過ごした家にお別れを告げるところが痛切にくる。原作は、Euniceの息子で作家になったMarcelo Rubens Paivaの回想録に基づいていて、そこには監督のWalter Sallesも子供の頃に出入りしていたという。そういう点では”I’m Still Here”と言いつつ、みんなそこにいたのだよ、というそれぞれのパーソナルな場所と時間を刻んだものにもなっているような。

サンパウロに移ったEuniceは大学に入り直して人権弁護士として活躍して、2018年に亡くなる前、最後の15年間はアルツハイマーだったと。なんと過酷な人生だったことだろう …

あと、ブラジル音楽に親しんだことがある人にとっては必見でもある。Caetano VelosoやGilberto GilのTropicáliaがどういう文脈で起こったのか、なぜ彼らはイギリスに亡命しなければならなかったのか、この映画を見ると当時の空気感がわかったりする。(Euniceの家に押し入った政府関係者が家にあった1971年の”Caetano Veloso”のLPジャケットをみて、「ふん」って言うとか)。 CaetanoでもTom ZéでもRoberto Carlosでも、音楽がどんなふうにあの土地に馴染んでいたのか、についても。(これは現地に行くとほんとにびっくりする。あんな土地はない)

これは全く別の国の、別の時代のお話しとも思えない –という視点と構成もきちんとある。共産主義に対する子供みたいな嫌悪とかウィシュマさんへの拷問だって、どっかの国でつい最近起こって、だれがやったかわかっているのに、だれひとり責任取ろうとしないのは大昔から。

3.06.2025

[log] Paris - Mar 01 2025

3月1日の土曜日、日帰りでパリに行ってきたのでその備忘。

一週間後には日本に行かなければならず(行きたくない)、しばらくの間、行けなくなってしまうのは悲しいから、という理由で。

ここんとこ、パリの滞在は、1泊滞在して、うまく時間を使えなかった → これなら日帰りで十分 → 日帰りだとやっぱり時間が足らなすぎ →1泊にする – のループを繰り返していて、やっぱり1カ月くらい(1週間でもいい)塩漬けになってみないとだめよね、と思い始めている。

今回は特になにがなんでも、というのはなかったのだが、こまこま見ていくとそれなりに出てくるし、なくたって本屋でも食べ物屋でもいくらでもあるし、でも引越し直後で体力あまり残ってないからー、など - こういう時はだいたいなし崩しでしょうもないことになる。 でも日帰りならいいんだ。

9:30くらいにパリ北駅について、そのままGrand Palaisの塩田千春展に行ってみる。チケットはぜんぶ売り切れていることは知っているが当日の分が出ることもある、ことも知っている。

こういうのは慣れているので、この列だろうな、というのに並んで待っていると、そのうち係員の人が来て、フランス語で何か言うのだが、それもだいたい、並んでもらっても入れる保証はありませんよ、と言っているのだ、というのもわかる。1時間くらい並んだところで何か言われて、それで列全体が崩れたので、もう本日分は終わりかー、とわかった。念のため英語で聞いてみるとやはりそうで、明日また来てね、と言われたが、明日はないんだよ。

ルーブル(だけ)は14時のチケットを取っていたので、それまで、マレ地区の方にいって本屋を見たり、MuséePicasso Parisに入って展示–“‘Degenerate’ art: Modern art on trial under the Nazis”を見たり。 いろんな画家の作品が出ていておもしろいのだが、” Modern art on trial under the Nazis”という観点だとちょっと弱いかも、というかテーマとして広すぎて難しいような。

LOUVRE COUTURE: Objets d'art, objets de mode

英語だと”LOUVRE COUTURE: Art and Fashion: Statement Piece”。 Kinoshita Groupがサポートに入っている。

ルーブル美術館初のファッション系の展示、ということで注目されているが、METやV&Aのそれとは随分違う、違うことを狙ったのだろうな、というのはわかる。
リシュリュー宮の膨大な宮廷装飾品の豊かさと分厚さを見せつけるために、現代のファッション・アートをぽつぽつと置いてみました、というかんじで、ブランドやデザイナー目当てでいくとちょっと外れるかも。ながーい宮廷・貴族文化の文脈に置いた時にモダンのクチュールがどう映えるのか、そーんなに映え映えいうならここまでやってみろ、と。

確かにこういう展示ができる美術館は限られてきてしまうかも、というのと、ルーブルのいろんな装飾品がお蔵だしのように気合入れて並べられていて、服飾よりもそっちを眺める方が楽しかったかも。

Revoir Cimabue: Aux origines de la peinture italienne

英語だと、”A New Look at Cimabue: At the Origins of Italian Painting”。

こちらの方が見たくて会場に行ったら、この展示は別にチケットがいると言われて、えー、それなら今オンラインで取ったら入れてくれる?ってスマホを出したらめんどくさそうにいいから行け、って入れてくれた。ありがとうー。

13世紀イタリアの巨匠チマブーエを再発見しよう、という企画展示。修復された”Maestà” - 『荘厳の聖母』と、2019年に台所で見つかって修復と獲得を終えた『嘲笑されるキリスト』を中心にDuccioや弟子のGiottoの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』なども並べて、「絵画」的ななにかが地面からめりめりと立ちあがる瞬間、のようなものを沢山のキリストやマリアの目 - あの目! のなかで感じることができる。10年前だったらこういうのあんま興味なかったのだが、最近おもしろくてねえ。

カタログ、どうしようか散々悩んで、英語版がないので諦める… 5月までやっているので次来た時にたぶん買う。

そして、今週末からはNational Galleryで待望の”Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”が始まる。それでたぶん(また)簡単にイタリアに行きたくなってしまうにちがいない。

あとは、Yvon LambertとかL'INAPERÇUといった本屋でいろいろ漁っていた。引越しした直後なので当分の間は怖いものなんてなにもないの(..ちがう)。

そして最後はいつものようにLa Grande Épicerie de Parisでいろんな食べ物を買いまくり.. たかったのだが、一週間後に帰国なので最小限にせざるを得ない。引っ越して冷蔵庫も大きくなったしフリーザーまでついたのに..  って泣きながら魚屋についている食事スペースでイワシ缶とトーストを食べた。イワシ缶とトースト、F&Mのカフェにもあったのだが最強だと思う。

戻りのEurostarは - ここのとこずっと、行きも帰りもほぼ意識を失った状態で運ばれていて、昔のわくわくしたかんじが(自分のなかで)消えてしまったのが悲しい。これじゃ通勤電車と同じではないか、って。

3.04.2025

[film] Mujeres al borde de un ataque de nervios (1988)

2月17日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。個別の特集とは紐づけられていない、”Big screen classics”の枠。

英語題は”Women on the Verge of a Nervous Breakdown”、邦題は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』。 作・監督Pedro Almodóvarの名を世界に知らしめた1本で、1988年のオスカーの外国語映画賞(ノミネート)やGoya Awardや、いろいろ受賞していて、ブロードウェイのミュージカルにもなった。けど、これまで見たことはなかった。

洋画の吹き替え声優をしているPepa (Carmen Maura)が一緒に暮らしていたIván (Fernando Guillén)から別れを切りだされたところにIvánの先妻の子のCarlos (Antonio Banderas –まだぴちぴち)など一連隊が芋づるで絡んできてそれぞれが神経衰弱ぎりぎりに追い詰められていく女たちを描く。

みんな自分の伝えたいことは(直接話したくないから)留守電にもなんにでも勝手に入れたり割りこんできたりするくせに自分の大事なことはこれぽっちも伝わらず宙に浮いて、結果みんなが先回りしたり裏工作したり何やっているのかわからないところにまみれてきて、全員がいいかげんにしろよお前ら!になって小爆発が連鎖していく様を、女性の視点中心で見ていて、Altman的な男性がなぎ倒していくアンサンブルのどたばたとはちょっと違うかも。

現在のAlmodóvar作品の特徴でもあるモダンなインテリア/エクステリアなど、Pepaはペントハウスに住んでいるけど、そこまで大きな比重は占めておらず、エモや激情が前面に出ていて、でも(そういう波動の反対側にある)睡眠や昏睡、といったAlmodóvar得意のテーマは既にあったり。

とっちらかっていて変人ばっかり出てきておもしろくて、もう一回見たいかも。


La ciénaga (2001)

2月27日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に特集に紐づけられていない。 英語題は”The Swamp”。 
脚本がSundance/NHK Awardを受賞した作品だそうで、NHKの名前がクレジットに出てくる。

“The Headless Woman” (2008)や”Zama” (2017)の、アルゼンチンのLucrecia Martelの監督デビュー作で、(やっぱり)ものすごくおもしろかった。でもなんで/なにがこんなにおもしろいのか、あんまよくわからない。

アルゼンチンの田舎の方の、結構古いお屋敷のような別荘で、中年女性のMechaとその家族がプールサイドで酒を飲んだりしながらだらだらと休暇を過ごしている。子供たちは山で沼にはまって動けなくなっている牛を見つける。Mechaは転んで血だらけになって医者に運ばれ、その息子もなんだか怪我をして血まみれになっていて、娘たちは使用人も一緒になって好き勝手に遊んでいて、TVでは屋根の上に聖母マリアが現れた、というニュースをやっている。大きい息子はダンスクラブで喧嘩して怪我をして、ボリビアに文房具を買いにいく計画があって、従姉妹たちは野山で猟銃をぶっ放して遊んでいて、万事がこの調子の、ただただいろんな物事が起こって、放置されたり、途中までいってキャンセルされたり、うまくいかなかったり、の連続で、こんなふうになった!はなくて、怪我をしたり血にまみれたりしても、ふつうにどうにかやっています、ずぶずぶ(沼)… みたいな。 監督自身の家族の記憶に基づいているそうで、なるほどなー、この落ち着きはそういうやつか。

一家は何を生業としているのかあまりよくわからない、別邸がいて使用人もいるので貧乏ではないようなのだが、ブニュエルの映画にあったようなブルジョアの「ブ」の字もなくて、生活感、みたいのとも無縁(というか垂れ流し)で、どちらかというと清水宏の映画に出てくるたくましい人たち(とそのエピソード)を思い起こさせるし、実際そこらにいそうなノラのかんじというかがたまんないのだった。


オスカーはどうでもよかったのでどうでもよいのだが、音楽賞を”The Brutalist”で受賞したDaniel Blumberg (ex. Yuck)が壇上でDalstonのCafe Otoに謝辞を述べた、というところだけちょっと嬉しかったかも。

3.03.2025

[film] Picnic at Hanging Rock (1975)

2月14日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

いま公開50周年を記念した4Kリストア版が全英でリバイバルされているが、その少し前のひと晩だけの公開で、なぜかというと、映画で描かれる事件の起こったのが1900年の2月14日だったから、と。50年前と125年前。

原作はJoan Lindsayによる同名小説(1967)をCliff Greenが脚色してPeter Weirが監督した。実際に起こった出来事にインスパイアされてはいるが、元は小説で、フィクションである、と。(“Virgin Suicides” (1999)もその傾向があるけど、勘違いしたがる人が多いのはなんでなのか?)

全体としてものすごく変で奇妙な映画。 1900年の2月14日、オーストラリアのビクトリア州の女学校で校長らしき女性が、Hanging Rockにピクニックに行きます、と宣言して、喜ぶ娘も少しいるが行けないでひとり残される娘もいる。引率の女教師を含めて白い服を来た女学生たちはみんなで馬車に乗って休憩したりしながら岩に向かう。どこが遠足の到達点なのかわからないのだが、Miranda, Marion, Irma, Edithの4人が集団から少し離れたところで英国人男子とすれ違って昼寝をして、起きあがるとちょっと夢遊病のようなかんじで3人が岩の隙間に歩いていって、それを見ていたEdithが絶叫して逃げだして – 何を見たのかなんで叫んだのかは明らかにされない - それを見た引率のMiss McCrawが彼女たちを探してやはり岩の向こうに消えて..  描かれて説明される失踪の顛末はこれだけで、あと冒頭にMirandaの声で”a dream within a dream…”という呪文のようなナレーションが入る、くらい。

その後は、地元の人たちも含めた何度かの捜索が行われて、少女たちが着ていたと思われる布の切れ端が見つかったりするが、なにも出てこない。そもそもHanging Rockがどういう土地(岩)で、なんでそこに遠足に行くことにしたのか、捜索はどこまでどんなふうに行われて十分だと言えるのか、とか失踪ものに不可欠な状況とか理由とか説明とかがあまりになさすぎて、反面、ぴょろろろーっていう笛の音とかまぶしい空とか、空のかんじ、岩のかんじは何回も出てきて、なにも説明されないホラーの黒とか赤とか闇がやたら怖くなるのと同じように、ここでの白さ、陽の光と透明さは事件の不気味さ不吉さをぐるぐるかき回していって、失踪した少女たちがとらわれたのと同質のなにかに巻きこみに来ているかのよう。

他方で、これはべつに謎解きでもなんでもなく、ただ少女たちが岩場のどこかにいなくなって見えなくなってしまった – 気がついたら125年が経っていました、というだけの話で、ちょっと気持ちわるいけど、かわいそうだけど、なにもできることはないー、という話。そうして見ると、校長も地元民も若者たちも、なにも「外側」からはどうすることもできない、理解しようがない、そういうこともある、というだけのー(無理しない)。

あと、消える側からすれば、あんなふうに消えてしまうことができたら、というのはあるかも。古本屋とか美術館であんなふうに忽然と消えてしまえたら、というのはよく思うしー。

リストア版は、例えば古いフィルムが持っていた傷みとか色褪せとかをぜんぶきれいにしてしまったので、彼女たちの着ている白が異様にまぶしい白さで迫ってきて、より非現実的な魔法のようなリアリティを実現している。David Hamiltonの、あのソフトフォーカスの世界が見事な解像度で。

で、この後にIMAXに”Captain America: Brave New World” (2025)を見に行って、とってもたいへんつかれたの。

3.02.2025

[theatre] Much Ado About Nothing

2月26日、水曜日の晩、Theatre Royal Drury Laneで見ました。
原作はこないだ映画“Anyone But You” (2023)にも翻案されていたシェイクスピア (1958-1959)の。邦題は『空騒ぎ』。

演出は年末に同じ劇場で見たSigourney Weaver主演の”The Tempest”と同じくJamie Lloyd (一部のキャスティングも被っている。どこかで繋がっているのかシリーズなのか?)。

Tom Hiddlestonの芝居を見るのは2回目で、前は2019年にHarold Pinterの”Betrayal”を見ている(この時の演出もJamie Lloydだった)。 ものすごく舞台映えのする俳優だと思うし、今回はコメディだというので。

えーでも、自分が見たいと思う演劇にみんなで歌って踊って楽しくしゃんしゃん! みたいな、温泉街の余興みたいな(←偏見)のは余り求めていなくて、でも今回のこれ、Tom HiddlestonとHayley Atwellが真ん中にいてまさかそういうのだとは思わないじゃん、でもそういうので、でもこれは許すかー、になった。

劇場の中に入るとバリバリのライティングのもとダンスミュージックががんがん掛かってて(どこかにDJもいたのか?)、でもEDMみたいにハードでごりごりのじゃなくて、お年寄りにも馴染めるエモっぽい90年代頃のダンスミュージックで、とってもあざといとこを狙っているかんじ。

巻くが開くとぎんぎらのMargaret (Mason Alexander Park - この人、”The Tempest”ではArielを演じて歌っていた)がマイクを片手に演歌歌手のように歌い出し、桜吹雪が舞って、登場人物たちも全員マイアミとかリゾートにいるようなチンピラかひらひらきらきらの衣装を纏い、この「ノリノリ」の狂躁状態の中で全員が恋をしなくちゃ踊らなきゃ! みたいなアホウになっていて、それは恋でもしなけりゃやってらんない、というのと恋だの結婚だの、そんなのばっかりやってらんない、の両方があって、その流れのなかで、Hero (Mara Huf)とClaudio (James Phoon)は簡単に恋に落ちて結婚することになり、Beatrice (Hayley Atwell)とBenedick (Tom Hiddleston)はあいつとだけはイヤだ、みたいな犬猿の仲になり、でも全体としてはみんなハッピーで、ハッピーでいるためにそうしているのだ、のヤク中のノリというかお約束の世界。

登場人物たちは全員が舞台の上に椅子を並べてずっといて、踊っているかやかましい音楽のなかで会話していて、全員がヘッドマイクを装着していて舞台の奥にいても話している内容は同じ音量レベルで聞こえて、たまに頭だけ被り物 - ワニとかパンダとかブタとかタコとかかわいい - をして、要は誰もヒトの顔と目を見て言うことなんて聞いちゃいないけど、自分がどう言われているかだけは地獄耳になっていたり。

音楽はDeee-LiteとかBackstreet Boysとか”Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)”とか、懐メロであるがヒトをのせたりのせられたりのBGMとしての殺傷力はたいしたもので、そういうのにのって、ClaudioはHeroの不貞を簡単に信じてしまうし、独身を貫く! とか偉そうにほざいていたBenedickはBeatriceとあっさり恋におちてしまう。

この軽薄さのラインの際どいこと、なので下手な俳優が演じたら簡単に化けの皮、なのだが、Tom Hiddlestonは”Loki”だったのでこの辺がめちゃくちゃ巧いし、Hayley AtwellはCaptain Carterだったので - 理由になってないけど - このふたりの舞台上の相性がめちゃくちゃよくて楽しい - 一瞬ふたりのAvengers姿がハリボテで登場したり。

冒頭からノリノリで走っていった1幕目に対して、2幕目は最初から落ち着いた、やや内省モードになってそれぞれが少し立ち止まって考えたり、そしてそこからすべての収束〜一件落着に向かって弾けまくる - とてつもない量の桜吹雪エンディングまで、多幸感という言葉はあまり使いたくないけど、くやしいけどそういうのがくる。

これならフルバンド入れてかっちりとしたミュージカルにしても、と一瞬思ったが、たぶんこれくらいのスカスカでよいのかも、と。だってこれは「空騒ぎ」で、恋なんてその程度のもんでしかないのだから、って。