10日、金曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。2019年のカンヌのある視点部門で監督賞を受賞したロシア映画で、原題は“Dylda”。 とても怖くて哀しい女性ふたりのドラマ(またしても)。
第二次大戦も終わりに近づいた1945年のレニングラードで、軍人病院で働くIya (Viktoria Miroshnichenko)がいて、ひょろひょろのっぽさんなので”Beanpole” - 豆の蔓が絡まる棒ね - と呼ばれている。 彼女は戦争の後遺症で突然体が硬直してしまう病を抱えていて、冒頭も仕事中に固まってしまってなんだか辛そう。
彼女は立ちあがって歩き始めたばかりくらいの小さな男の子を連れていて、病院のみんなにも可愛がられているのだが、ある日その子と遊んでいる時に突然硬直がきて、男の子は彼女の下敷きになって亡くなってしまう。
そこから暫くしてIyaの親友であるらしいMasha (Vasilisa Perelygina)が戦地から戻ってきて、抱きあって再会を喜んだ後に「わたしの坊やはどこ?」という。亡くなった子はMashaの子だった..
Mashaは嘆き悲しんで自分はもう子供を産めない体になっている(下腹に大きな傷がある)し、あの子がわたしの希望の全てだったのだから、あなたが責任をとってわたしの子供を産んでほしい、といって合意書を作ってサインさせて病院の初老の先生を連れてきて同じベッドに横になってIyaとセックスさせたりする(ちょっと唖然)。 Mashaは他にも町に出た時に知り合ったぼんぼん風の彼 - 見るからにカモ - を連れてきて部屋でべたべたしたり、Iyaが嫌がることを平気でやり続けるので、女の子の世界にありそうな虐めっ子 – 虐められっ子的な絆なのかしらと見ていると…
やがてIyaの子作りがうまくいかないことがわかるとIyaは絶望で狂ったようになって、Mashaがぼんぼんの彼の実家(田舎のお金持ち)に行った時の彼の両親とのやりとり(で明らかになる彼女の過去)から、改めてふたりが戦争でどこまでどんなふうに痛めつけられ、それ故に互いを必要とするようになったのかが明らかになってくると、その救いのなさに言葉をうしなう。
彼女が傍にいてくれないのならもう自分は自分じゃなくなってしまう、それくらいに自分はもう空っぽの役立たずで自分の体すら思うようにはならないし、だから彼女を繋ぎとめるためならなんでも、どんなことでもする、彼女たちをそこまで追い詰めてしまう苛烈さってなんなのか。戦時下っていうのはこういうもの、っていう説明よりもなによりも神様.. ってそうか神様がいないから戦争なのか、とか。 銃弾が飛び交う戦場ではなくても地獄はこんな手元足元にまで広がってきて容赦ない。慰安婦問題はなかった、とかいうバカに見せてやれ。
最後までどきどきはらはらが止まらないけどいちおう、悲しくは終わらないから。画面はお金をかけていないけど宗教画の静けさと輝きと悲惨があってくすんで美しく、でもそこで立ち止まって手を合わせて終わりではなくて、ふたりのその後のことをずっと考えてしまう。 ふたりとも笑うとほんとに素敵だから。
ふたりぼっちの映画なのにこんなにも孤独で、でもこんなにも切り離すことができないふたりの映画ってあっただろうか。
もう夏休みのシーズンのはずだし休みを取ってもぜんぜんよいはずなのだが、なんだかまったく企画しようって気になれない。そこの国に行って戻ってくるのは大丈夫なのか制限ないのか、美術館はやっているのか行動制限はあるのか、調べる手間が倍だし、それなら国内にすれば、なのだろうけど国内ならそもそもなんで大丈夫なのかわかんなってくるし、そこまで準備と対策しないと旅できないのならべつに… になるのかしら。 旅への愛が試されようとしているんだねえ。仕事よりはぜったい大きいけど美術館や映画館や古本屋やレコ屋よりは小さい愛かも。
7.18.2020
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