9日の土曜日の晩、新宿で”Room”のあと、恵比寿に移動して見ました。 部屋から砂漠へ。
これ、見たことがなかった。
理由はいくつかあって、ひとつは90年代始めにPaul Bowlesのブームみたいのがあって、白水社から作品集も出ていて、それらを読んでいたのでイメージを壊されたくなかった、ていうのと、もうひとつは、それらのせいでモロッコに行きたいぜったい行きたい、ていう野望が渦を巻いていて、やはり壊されたくなかった、ていうのと。 いまにして思えば、ばーか。 としか言いようがないわ。
原作なんてもう憶えてやしないし、本だってどこに埋まっているのやら。
冒頭の古いマンハッタンのシーンで頭が痺れてじーんとなって、ここだけで帰りたくなった。
Kit (Debra Winger)と音楽家のPort (John Malkovich)の夫婦とジャーナリストのGeorge Tunner (Campbell Scott)の3人がモロッコ(タンジール)の港に降りたって、そこから大量のスーツケースと一緒に都市と砂漠を点々と渡っていく。 なんでそこに行くのか/行きたいのか、なにがそこに向かわせるのかはあんま決まっていなくて、むしろそういう約束や決まり事を避けて、何かから遠ざかるかのように、彼らは大陸の奥に奥に分け入っていき、やがてその遠ざかりに合わせて彼らの愛もするすると解けて互いの手から離れていって、やがてPortはばちが当たったのか疫病で死んじゃって、Kitはひとり砂漠を彷徨いながら自分からも解き放たれていってしまうの。
でっかい砂漠と地平線を見おろす高い丘のうえで、ふたりがセックスをするシーンがあって、そのとき彼らの上を覆っているのは空しかないのだと、その底なしの恐ろしさと官能について語るところで、ちょうど見たばかりの”Room”を思いだした。
納屋の天窓と砂漠の空と、なにかが少し繋がった気がした。
Kitが正気を失いながら砂漠を転々としていくところはとても切なくてはらはらするのだが、あれはPortがいなくなって寂しすぎてそうなってしまったのではなく、砂漠が彼女の何かを削ぎ落として変容させ、彼女はその状態に適応していったのだ、と見るのが正しいだろう。 Bowlesが何度も言っているツーリストと旅行者の違い。 覆いが、蓋が外れてしまったとき、ツーリストは狂ってしまうが、旅行者はただ変容して次の土地を目指す。 ラストのBowlesの言葉が刺さる。
「生涯で何度、満月が昇るのを見れると思う?」
どっか行きたいよう。
90年代初のBowlesのブームって、80年代の終焉とリンクしていたんだっけ?
ま、どうでもいいけどさ。
放浪の旅の途中、一瞬だけど「Timbuktuへ」ていう台詞があってはっとした。
もうあそこには行けない。 ここで描かれている旅はアメリカが世界一豊かだった時代のお話し。
映像の、あの赤茶色、Vittorio Storaro だあ、と思った。 すばらしいカメラ。 70mm ...
シアターのスピーカーシステム、音がよいのはわかるのだが、普段聞いている映画の音の定位となんか違うかんじがして少し引っ掛かった。
4.30.2016
4.29.2016
[film] Room (2015)
9日の土曜日の夕方、新宿で見ました。
ストーリーはシンプルで、部屋で長いこと監禁されているらしい母Ma (Brie Larson)とそこで生まれて外に出ないまま5歳になった息子Jack (Jacob Tremblay)がなんとかそこから抜け出して家族の元に戻って、ああ世界って … になるの。 事件そのものの異様さや悲惨さについてはあまり触れられない。
登場人物も少なくて、監禁した悪いやつ - Old Nickを除けば、MaとJackとふたりを受け入れた家族と、の心の葛藤すり切れすれ違いあれこれも、どれもわかりやすくきっちりと、ドラマとしての想定の枠を外れてなにかが起こるようなことはあまりない。
だからここは俳優さんの演技がすべて、のようなところがあって、その意味で自身の葛藤だのなんだのできりきりしつつも私が守らなくてどうする、の気概で歯をくいしばるBrie Larsonさんは”Short Term 12” (2013) に続いて見事というほかなくて、あとは離れて暮らしているMaの実父のWilliam H. Macyの居場所も含めて複雑すぎるが故に滲みでてしまう苦悶の表情とか。
そんななか、唯一わからなくて見えないのがあの箱部屋とMaだけを「世界」として育ってしまったJackが移動する車の荷台から切れ目境目なく広がる圧倒的な空を見あげて(あのシーン、なんか好き)から先、屋根や壁がなくなった後の「世界」が彼の知覚にどう作用して、それにどう応えるのか、というあたりで、おそらく過去の発達心理学の事例症例も参照しているのだろうが、Jackの世界と魂のありようは誰にもわかるわけがなくて、それとMaの目線 - 彼のことをわかっているのはわたしだけ - とそれ以外の目線 - だいじょうぶかしら早く周囲に適応させないと - との交錯や摩擦がどんなふうにJackの屋根とか覆いを剥がしていくのかとっぱらうのか、あるいは取り上げてしまうのか、それが起こったときJackはどうなってしまうのか、とか。
Maにとって忌まわしくおぞましい記憶であり事物でしかない納屋も、Jackにとっては温かいゆりかごでありベビーカーであり守ってくれるなにかで、ふたりが納屋を再訪するラストはとてもスリリングで、ふたりのぎりぎりした攻防が目に見えるようだった。 ふたりとも必死で何かから遠ざかることと何かに近寄って頬ずりすることを同時にやろうとして同じところをぐるぐるえんえん回っていて、それが”Room”というもので、この映画の中心はここ - あの納屋にあった。
で、そういう”Room”っていうのは広いのでも狭いのでも、おそらく誰にでもある/あったもので(あんなふうにバイバイしたよね)、この映画が感動を煽ろうとする割に、ふつーに見えてしまうのはその辺もあったのかもしれない。
音楽(空が迫ってくるときのとか)は悪くなかったけど、音響はもうちょっとがんばってもよかったかもしれない。 圧倒的な音のドラマとして鼓膜を震わせることだってできたはず。
ストーリーはシンプルで、部屋で長いこと監禁されているらしい母Ma (Brie Larson)とそこで生まれて外に出ないまま5歳になった息子Jack (Jacob Tremblay)がなんとかそこから抜け出して家族の元に戻って、ああ世界って … になるの。 事件そのものの異様さや悲惨さについてはあまり触れられない。
登場人物も少なくて、監禁した悪いやつ - Old Nickを除けば、MaとJackとふたりを受け入れた家族と、の心の葛藤すり切れすれ違いあれこれも、どれもわかりやすくきっちりと、ドラマとしての想定の枠を外れてなにかが起こるようなことはあまりない。
だからここは俳優さんの演技がすべて、のようなところがあって、その意味で自身の葛藤だのなんだのできりきりしつつも私が守らなくてどうする、の気概で歯をくいしばるBrie Larsonさんは”Short Term 12” (2013) に続いて見事というほかなくて、あとは離れて暮らしているMaの実父のWilliam H. Macyの居場所も含めて複雑すぎるが故に滲みでてしまう苦悶の表情とか。
そんななか、唯一わからなくて見えないのがあの箱部屋とMaだけを「世界」として育ってしまったJackが移動する車の荷台から切れ目境目なく広がる圧倒的な空を見あげて(あのシーン、なんか好き)から先、屋根や壁がなくなった後の「世界」が彼の知覚にどう作用して、それにどう応えるのか、というあたりで、おそらく過去の発達心理学の事例症例も参照しているのだろうが、Jackの世界と魂のありようは誰にもわかるわけがなくて、それとMaの目線 - 彼のことをわかっているのはわたしだけ - とそれ以外の目線 - だいじょうぶかしら早く周囲に適応させないと - との交錯や摩擦がどんなふうにJackの屋根とか覆いを剥がしていくのかとっぱらうのか、あるいは取り上げてしまうのか、それが起こったときJackはどうなってしまうのか、とか。
Maにとって忌まわしくおぞましい記憶であり事物でしかない納屋も、Jackにとっては温かいゆりかごでありベビーカーであり守ってくれるなにかで、ふたりが納屋を再訪するラストはとてもスリリングで、ふたりのぎりぎりした攻防が目に見えるようだった。 ふたりとも必死で何かから遠ざかることと何かに近寄って頬ずりすることを同時にやろうとして同じところをぐるぐるえんえん回っていて、それが”Room”というもので、この映画の中心はここ - あの納屋にあった。
で、そういう”Room”っていうのは広いのでも狭いのでも、おそらく誰にでもある/あったもので(あんなふうにバイバイしたよね)、この映画が感動を煽ろうとする割に、ふつーに見えてしまうのはその辺もあったのかもしれない。
音楽(空が迫ってくるときのとか)は悪くなかったけど、音響はもうちょっとがんばってもよかったかもしれない。 圧倒的な音のドラマとして鼓膜を震わせることだってできたはず。
[film] The Decline of Western Civilization Part III (1998)
8日の金曜日の晩、新宿の最終上映になんとかまにあった。
Part I (1981) も Part II: The Metal Years (1988)も見れなくて、最後の最後でなんとか。
“The Metal Years”は昔に見ていた気がしていたが、”Metal: A Headbanger's Journey” (2005)と混同していた。
すまん。
81年のPart Iで描かれたLA Punksの約20年後を描いたものとなるはず、だったのが、メルローズ近辺のGutter Punksの若者たちを撮り始めたら止まらなくなってしまった。というわけで特定の音楽スタイルやバンドの成り立ちやミュージシャンの世界観を追ったものにはなっていないの。
バンドはモッシュのバックグラウンドとして出てくる程度 - Final ConflictとかLitmus GreenとかNaked Aggressionとか、コメントするのもKeith MorrisとかFleaとかその程度で、とっても地味で、でもおもしろかった。
Gutter Punksていうのは自らをPunkだ、ていうホームレスの若者たちで、無一文なので町で物乞いしたりしながら一緒に廃屋とかビルとかをねぐらにしながら風の向くまま気の向くままでふらふらしている。(極右のスキンヘッズとは映画のなかでも明確に線引きされている)
映画は彼らへのインタビューを通して、なんでそういう生活をしているのか、なんでそうなっちゃったのか - 家族から虐待されたり友達いなかったり除け者にされて居場所がなくなって - を追うのだが、外見はぼろぼろの彼らに寄り添って言葉を引き出す、コミュニティを描きだすかんじがとてもよくて、生活の糧として音楽をやっているミュージシャンの言葉よりもそもそもの生活が空っぽな彼らのほうがよっぽどPunkのその後と現在、を正しく伝えているかんじがした。 映画の終りでは彼らのひとりがボヤで焼死しちゃったりするのだが、そういうところも含めて。
わたしはDon Letts師が”Punk: Attitude” (2005)あたりで定義したようなPunkとしてずっと生きてきて、革ジャンもないしピアスもしてないし髪の毛逆立ててもいないけど、でもきほんは”No Future”で”Pretty Vacant”で、社会も組織も国もGivenなものに異議と疑義と中指の立てまくりけつまくりで、でもやっぱしここまで行かないといけないのだろうか、とか。 でも集団生活はむりだわ、とか。
どっかの道端で彼らを見かけたりしたら、かっこばっかしのエセパンクやろう! とか思っちゃうんだろうなー。 この映画が撮られてから20年経って、彼らはいまどこでなにしているのだろう。 元気で笑っていてほしい。
あと、タイトルの”The Decline”て、誰が誰に言っているのか、っていうこと。
監督のPenelope Spheerisさんて、”Wayne's World” (1992)と”Black Sheep” (1996)のひとなのね。
(途端に親近感が)
映画の日本語サイトにある「伝説」ていうとこの日本語が、ところどころたまんなくおかしい。
Part I (1981) も Part II: The Metal Years (1988)も見れなくて、最後の最後でなんとか。
“The Metal Years”は昔に見ていた気がしていたが、”Metal: A Headbanger's Journey” (2005)と混同していた。
すまん。
81年のPart Iで描かれたLA Punksの約20年後を描いたものとなるはず、だったのが、メルローズ近辺のGutter Punksの若者たちを撮り始めたら止まらなくなってしまった。というわけで特定の音楽スタイルやバンドの成り立ちやミュージシャンの世界観を追ったものにはなっていないの。
バンドはモッシュのバックグラウンドとして出てくる程度 - Final ConflictとかLitmus GreenとかNaked Aggressionとか、コメントするのもKeith MorrisとかFleaとかその程度で、とっても地味で、でもおもしろかった。
Gutter Punksていうのは自らをPunkだ、ていうホームレスの若者たちで、無一文なので町で物乞いしたりしながら一緒に廃屋とかビルとかをねぐらにしながら風の向くまま気の向くままでふらふらしている。(極右のスキンヘッズとは映画のなかでも明確に線引きされている)
映画は彼らへのインタビューを通して、なんでそういう生活をしているのか、なんでそうなっちゃったのか - 家族から虐待されたり友達いなかったり除け者にされて居場所がなくなって - を追うのだが、外見はぼろぼろの彼らに寄り添って言葉を引き出す、コミュニティを描きだすかんじがとてもよくて、生活の糧として音楽をやっているミュージシャンの言葉よりもそもそもの生活が空っぽな彼らのほうがよっぽどPunkのその後と現在、を正しく伝えているかんじがした。 映画の終りでは彼らのひとりがボヤで焼死しちゃったりするのだが、そういうところも含めて。
わたしはDon Letts師が”Punk: Attitude” (2005)あたりで定義したようなPunkとしてずっと生きてきて、革ジャンもないしピアスもしてないし髪の毛逆立ててもいないけど、でもきほんは”No Future”で”Pretty Vacant”で、社会も組織も国もGivenなものに異議と疑義と中指の立てまくりけつまくりで、でもやっぱしここまで行かないといけないのだろうか、とか。 でも集団生活はむりだわ、とか。
どっかの道端で彼らを見かけたりしたら、かっこばっかしのエセパンクやろう! とか思っちゃうんだろうなー。 この映画が撮られてから20年経って、彼らはいまどこでなにしているのだろう。 元気で笑っていてほしい。
あと、タイトルの”The Decline”て、誰が誰に言っているのか、っていうこと。
監督のPenelope Spheerisさんて、”Wayne's World” (1992)と”Black Sheep” (1996)のひとなのね。
(途端に親近感が)
映画の日本語サイトにある「伝説」ていうとこの日本語が、ところどころたまんなくおかしい。
4.27.2016
[film] L'albero degli zoccoli (1978)
3日の日曜日の昼、神保町でみました。
『木靴の樹』。 英語題は”The Tree of Wooden Clogs”。
最初の公開のとき、あちこちでたいへん評判がよかったことは憶えているのだが、見るのは今回がはじめて。
あの頃の岩波ホールのイメージって、難しそうなおじいさんとかが難しそうな顔して見ているかんじしかなくてハードル高くて、そんななかで3時間の木靴の映画なんて見る勇気もお金もなかったの。
19世紀末、イタリアのロンバルディ地方の農村地帯で、教会の神父さんが夫婦の息子を学校に通わせるように説得していて、夫婦はもうじき次の子も生まれるし、とかぶつぶつ言いながらもそれに従うことにする、ていうのが冒頭で、同じ地主の敷地内の長屋のような家屋に暮らす四つの大家族の四季のあれこれを静かに追う。
静か、ていうのはどういうことかというと、四つの家族はそれぞれに農作業をしてその収穫を地主に(たまにズルしたりしつつ)納め、それ以外にトマトを工夫して売りに行ったり子供を産んだり育てたり恋をして結婚したり、教会に行ったり洗濯屋さんにいったり、冬に備えて豚(でっかいー)を屠ったり、ここで描かれる農村の家族の生活はどこまでも平坦でその動きが時間を止めたり遅くしたりすることなく、雇い主である地主の要求に反抗することもへつらうこともなく、ただただ生活のなかのいろんなことをするために時間は流れて、季節の時間の流れのなかに生活は全部あって、その時間のありよう - 無為、みたいなかんじ - はいまの時代の我々にもとてもよくわかる。
唯一、毎日村から歩いて学校に通う坊やの靴が壊れたからと道端の樹を勝手に切って木靴を作ってあげたら、それが地主にばれてその一家はラストで長屋を出ていくことになる、ていうのが事件らしい事件なのと、村で結婚式を挙げたふたりがハネムーンで町に出るとそこは市民運動みたいのでざわざわしているのと、これらによって村と町の間にある線、村の暮らしのなかの厳格な支配/被支配の一線が浮きあがるのだが、だからといって農民の暮らしがどう変わるということでもなく、それは歴史の時間から取り残された、というのとも違って、なんというか、矢野顕子の「ごはんができたよ」の世界があって、とっても泣きたくなる。
あと、誰もが言うことだろうけど、バルビゾン派の絵画の世界がそのまま動いているかのような映像の驚異 - あれをごく簡単そうに撮ってしまっているすごさ(もうちょっとクリアだったらなー)。
「緑はよみがえる」も見ないと。
『木靴の樹』。 英語題は”The Tree of Wooden Clogs”。
最初の公開のとき、あちこちでたいへん評判がよかったことは憶えているのだが、見るのは今回がはじめて。
あの頃の岩波ホールのイメージって、難しそうなおじいさんとかが難しそうな顔して見ているかんじしかなくてハードル高くて、そんななかで3時間の木靴の映画なんて見る勇気もお金もなかったの。
19世紀末、イタリアのロンバルディ地方の農村地帯で、教会の神父さんが夫婦の息子を学校に通わせるように説得していて、夫婦はもうじき次の子も生まれるし、とかぶつぶつ言いながらもそれに従うことにする、ていうのが冒頭で、同じ地主の敷地内の長屋のような家屋に暮らす四つの大家族の四季のあれこれを静かに追う。
静か、ていうのはどういうことかというと、四つの家族はそれぞれに農作業をしてその収穫を地主に(たまにズルしたりしつつ)納め、それ以外にトマトを工夫して売りに行ったり子供を産んだり育てたり恋をして結婚したり、教会に行ったり洗濯屋さんにいったり、冬に備えて豚(でっかいー)を屠ったり、ここで描かれる農村の家族の生活はどこまでも平坦でその動きが時間を止めたり遅くしたりすることなく、雇い主である地主の要求に反抗することもへつらうこともなく、ただただ生活のなかのいろんなことをするために時間は流れて、季節の時間の流れのなかに生活は全部あって、その時間のありよう - 無為、みたいなかんじ - はいまの時代の我々にもとてもよくわかる。
唯一、毎日村から歩いて学校に通う坊やの靴が壊れたからと道端の樹を勝手に切って木靴を作ってあげたら、それが地主にばれてその一家はラストで長屋を出ていくことになる、ていうのが事件らしい事件なのと、村で結婚式を挙げたふたりがハネムーンで町に出るとそこは市民運動みたいのでざわざわしているのと、これらによって村と町の間にある線、村の暮らしのなかの厳格な支配/被支配の一線が浮きあがるのだが、だからといって農民の暮らしがどう変わるということでもなく、それは歴史の時間から取り残された、というのとも違って、なんというか、矢野顕子の「ごはんができたよ」の世界があって、とっても泣きたくなる。
あと、誰もが言うことだろうけど、バルビゾン派の絵画の世界がそのまま動いているかのような映像の驚異 - あれをごく簡単そうに撮ってしまっているすごさ(もうちょっとクリアだったらなー)。
「緑はよみがえる」も見ないと。
4.24.2016
[film] Love Is Strange (2014)
2日土曜日の午後、”The Danish Girl”のあと、新宿から銀座に移動してみました。
「人生は小説よりも奇なり」。 愛というのはなんてしぶとく変てこでしょうもない、みたいなのを続けて見る。
映画には小説なんて出てこないし、ここで言っている「小説」がなんなのかわかんないけど。
37年間一緒に暮らしてきた画家のBen (John Lithgow)と音楽教師のGeorge (Alfred Molina)は、同性婚が合法になったので仲間家族の祝福を貰って式を挙げて晴れて夫婦になるのだが、その直後にGeorgeの勤務先であるカトリック系のミッションスクールからは子供達への影響を考えるとちょっと、と言われてクビになってしまう。
この状態では暮らしているアパートの家賃も払えなくなってしまうので、BenはBrooklynの甥一家(Marisa Tomeiのママが素敵)のところに、Georgeは友人のゲイカップルのところに居候することにする。
せっかく一緒になれたと思ったのに … ていう別居の辛さと、彼らの、特にBenの存在が居候される一家の方に与えるいろんな迷惑とか、Georgeのとこでしょっちゅうあるパーティとか、それでも、それゆえにこそ強まる絆と、それぞれの老いと時間と。ホームドラマとしては割とどこにでもありそうなテーマなのだが。
Benには甥のとこにいる男の子Joeyと家に遊びにくる友達のことがちょっと気になって、その子をモデルに絵を描いてみたりするのだが、もちろんそれ以上のほうに転がるわけでもない。彼らふたりが学校でなんか問題を起こしたらしい、と聞いてもどうすることもできないし。
やがてGeorgeはパーティの絡みでたまたま知りあった男が長期不在で空けようとしているWest Villageのアパートをそのまま借り受けることができて(いいなー)、そこから先の省略を駆使して描かれる時間の経過/点景と前半でみっちりと描かれた彼らの絆/愛との対比が見事で、特にラストのほう、JoeyがGeorgeのアパートを訪れてから先、突然画面は青春映画のような瑞々しさで息を吹き返してマンハッタンの風となり光となって町に飛びだしていく。
いきなり眩しくなってびっくり。
この突然の転移とか蘇生のことを”Love Is Strange”と呼ぶのはたぶん正しい。
それを言うのはいったい誰なんだろう? ていうのを考えるのはなんか楽しい。
John LithgowとAlfred Molinaのむっちりしたふたりは、いかにもいそうなかんじで、たまんない。
Benの甥のおうちの会話で、今日マンハッタンでBusby Berkeleyの”The Gang's All Here”を見てきてさあ、て甥がいうとそれに応えてBenが主題歌を歌いだして楽しく合唱、ていうシーンがあって、いいなあー、Film Forumに行ったんだね、とかおもった。
「人生は小説よりも奇なり」。 愛というのはなんてしぶとく変てこでしょうもない、みたいなのを続けて見る。
映画には小説なんて出てこないし、ここで言っている「小説」がなんなのかわかんないけど。
37年間一緒に暮らしてきた画家のBen (John Lithgow)と音楽教師のGeorge (Alfred Molina)は、同性婚が合法になったので仲間家族の祝福を貰って式を挙げて晴れて夫婦になるのだが、その直後にGeorgeの勤務先であるカトリック系のミッションスクールからは子供達への影響を考えるとちょっと、と言われてクビになってしまう。
この状態では暮らしているアパートの家賃も払えなくなってしまうので、BenはBrooklynの甥一家(Marisa Tomeiのママが素敵)のところに、Georgeは友人のゲイカップルのところに居候することにする。
せっかく一緒になれたと思ったのに … ていう別居の辛さと、彼らの、特にBenの存在が居候される一家の方に与えるいろんな迷惑とか、Georgeのとこでしょっちゅうあるパーティとか、それでも、それゆえにこそ強まる絆と、それぞれの老いと時間と。ホームドラマとしては割とどこにでもありそうなテーマなのだが。
Benには甥のとこにいる男の子Joeyと家に遊びにくる友達のことがちょっと気になって、その子をモデルに絵を描いてみたりするのだが、もちろんそれ以上のほうに転がるわけでもない。彼らふたりが学校でなんか問題を起こしたらしい、と聞いてもどうすることもできないし。
やがてGeorgeはパーティの絡みでたまたま知りあった男が長期不在で空けようとしているWest Villageのアパートをそのまま借り受けることができて(いいなー)、そこから先の省略を駆使して描かれる時間の経過/点景と前半でみっちりと描かれた彼らの絆/愛との対比が見事で、特にラストのほう、JoeyがGeorgeのアパートを訪れてから先、突然画面は青春映画のような瑞々しさで息を吹き返してマンハッタンの風となり光となって町に飛びだしていく。
いきなり眩しくなってびっくり。
この突然の転移とか蘇生のことを”Love Is Strange”と呼ぶのはたぶん正しい。
それを言うのはいったい誰なんだろう? ていうのを考えるのはなんか楽しい。
John LithgowとAlfred Molinaのむっちりしたふたりは、いかにもいそうなかんじで、たまんない。
Benの甥のおうちの会話で、今日マンハッタンでBusby Berkeleyの”The Gang's All Here”を見てきてさあ、て甥がいうとそれに応えてBenが主題歌を歌いだして楽しく合唱、ていうシーンがあって、いいなあー、Film Forumに行ったんだね、とかおもった。
[film] The Danish Girl (2015)
4月2日、土曜日のごご、新宿でみました。『リリーのすべて』。
実話を元に.. ていうのはもういいよね。
20年代のコペンハーゲンで、Einar Wegener(Eddie Redmayne)は前途有望な新進風景画家で、その妻のGerda Wegener (Alicia Vikander)は肖像画家で、こっちはあまり売れてなくて、でもふたりは幸せに暮らしていた。
いちどEinarがGerdaの絵のモデルとして女装してみたときに、彼のなかの何かに火がついてしまい、その発火のときめきをGerdaもおもしろがって、更にその絵の評判もよかったりしたのでご機嫌で、「彼女」をLili Elbeと名付けて町に出たりパーティに誘ったりするようになる。
嬉しがったり戸惑ったりしつつも燃え広がってしまったLiliの人格と存在はEinarを圧迫するようになって、こんなはずは ... とふたりは思うのだったがEinarはやがて苦しみやつれてLiliなしではいられなくなって、医者にかかったり幼馴染を呼んでみたりやってみるのだが元には戻るのは難しくて、最後の選択として出てきたのが性器を切除する - 今でいう性転換手術を受けること、だったのだが、世界ではそんなの誰もやったことないというし、なによりもGerdaにとっては夫Einarを失う - 死んでもいないのに失うことになる - のでいろんなものが試されてしまうのだった。
監督のTom Hooperの前々作 - ”The King's Speech” (2010)と同様に、家族/夫婦が力を合わせて苦難/障害を乗り越えるドラマ、というのが基本の線なのかもしれないが、Einarが男としてあることの苦しみが顕在化してから後はともかく、そこに至るまでの過程はもうちょっと丁寧に描いたほうが迫るものになったかもしれない。 だってこれってEinarがLiliという内なる女性と出会ってときめいて、GerdaがLiliをひっぱり出して育てて、描き方によっては目覚めと快楽と嫉妬を巡るどたばた三角関係ラブコメになったっておかしくないような題材なんだから、それを苦痛と乗り越えと回帰の物語に仕上げるには結構がんばらないとさあ ー。
パーティでLiliに一目惚れしたBen Whishawが彼女を追っかけてお構いなしにぐいぐい迫るとことか、あんたいいかげんにしなさいよ(怒)、てGerdaがぶちきれるとこで犬のTeddy(かわいい)がどうしちゃったんだろこのひと、て見あげる - そのときLiliもおなじ顔してる - とことか、おもしろいところはいっぱいあるので、その線で行けばよかったのに。 原作もあるし実話だから難しいのだろうけど。
Eddie RedmayneさんはStephen Hawking博士に続いてお見事で、”Jupiter Ascending”のあれはなんだったんじゃろ? がすこしだけ ...
実話を元に.. ていうのはもういいよね。
20年代のコペンハーゲンで、Einar Wegener(Eddie Redmayne)は前途有望な新進風景画家で、その妻のGerda Wegener (Alicia Vikander)は肖像画家で、こっちはあまり売れてなくて、でもふたりは幸せに暮らしていた。
いちどEinarがGerdaの絵のモデルとして女装してみたときに、彼のなかの何かに火がついてしまい、その発火のときめきをGerdaもおもしろがって、更にその絵の評判もよかったりしたのでご機嫌で、「彼女」をLili Elbeと名付けて町に出たりパーティに誘ったりするようになる。
嬉しがったり戸惑ったりしつつも燃え広がってしまったLiliの人格と存在はEinarを圧迫するようになって、こんなはずは ... とふたりは思うのだったがEinarはやがて苦しみやつれてLiliなしではいられなくなって、医者にかかったり幼馴染を呼んでみたりやってみるのだが元には戻るのは難しくて、最後の選択として出てきたのが性器を切除する - 今でいう性転換手術を受けること、だったのだが、世界ではそんなの誰もやったことないというし、なによりもGerdaにとっては夫Einarを失う - 死んでもいないのに失うことになる - のでいろんなものが試されてしまうのだった。
監督のTom Hooperの前々作 - ”The King's Speech” (2010)と同様に、家族/夫婦が力を合わせて苦難/障害を乗り越えるドラマ、というのが基本の線なのかもしれないが、Einarが男としてあることの苦しみが顕在化してから後はともかく、そこに至るまでの過程はもうちょっと丁寧に描いたほうが迫るものになったかもしれない。 だってこれってEinarがLiliという内なる女性と出会ってときめいて、GerdaがLiliをひっぱり出して育てて、描き方によっては目覚めと快楽と嫉妬を巡るどたばた三角関係ラブコメになったっておかしくないような題材なんだから、それを苦痛と乗り越えと回帰の物語に仕上げるには結構がんばらないとさあ ー。
パーティでLiliに一目惚れしたBen Whishawが彼女を追っかけてお構いなしにぐいぐい迫るとことか、あんたいいかげんにしなさいよ(怒)、てGerdaがぶちきれるとこで犬のTeddy(かわいい)がどうしちゃったんだろこのひと、て見あげる - そのときLiliもおなじ顔してる - とことか、おもしろいところはいっぱいあるので、その線で行けばよかったのに。 原作もあるし実話だから難しいのだろうけど。
Eddie RedmayneさんはStephen Hawking博士に続いてお見事で、”Jupiter Ascending”のあれはなんだったんじゃろ? がすこしだけ ...
4.22.2016
[music] RIP Prince
朝いちでニュースみてもうなにもかも嫌になって会社行くのやめようと思ったがそれもできなくて更にやになった。 なんという4月だろうか。 2016年だろうか。
たった4ヶ月の間に王子様がふたりも星になってしまい、女王陛下におかれましては嘆き悲しみのあまり死んでしまうに違いないと思うし、それは我々にとってもまったく同じなのだ。キュートで美しくて、いかしてていかれてて、歌って踊れて宇宙の果てまでふっとばしてくれて、同時に押入れの奥までもバケツの底までも付きあってそばにいてくれる、そういう起伏を共にした仲だったからいまはべたべたに悲しくてなにをどうしたらよいのかわかんない、になっている。
Little Princeがページの上で彼とわたしの特別な、かけがえのない関係を築くことができたのと同様に、彼はヘッドフォンの振動膜と鼓膜の数センチの間にBetween the sheetsなあんなことこんなことを持ちこむことができた。 誰もがPrinceとわたしだけのスペシャルな一夜、一曲、あれとか、について目を潤ませて得意気に何時間でも語ることができるだろう。 (Bowieのほうはもう少しロジカルだったり形而上学してたり)
80年代のまんなか辺りから終りまで、Purple Rain (1984) - Around the World in a Day (1985) - Parade (1986) - Sign O’ the Times (1987) - Lovesexy (1988) とほぼ1年間隔でリリースされた彼の音がどれだけ奇異で異様で変態で気持ちわるくて気持ちよくてなんじゃこりゃに響いて鳴ったか、こっちに強引に迫ってきたか、説明するのは難しい。 BlackもFunkもJBも70’sもよくわかんなかったのだが、あのシンセの音、パーカッションの音の生々しさは聴いてきた英国音楽のそれとは全く異質ななにかで、始めのうちは困惑して憮然とするしかなかった。
最後に見た彼のライブは2010年12月のMSG、'Welcome 2 America' のツアーだった。
Larry GrahamやSheila E.との共演を見れたのでもうなにも思いのこすことはないや、と思ったのだが、でも勿論そんなのうそで、一生ずっとついていくから、て改めて思ったのにな。
追悼は、Bowieみたいなtribute liveはやらなくていい。(どうせだれも再現できやしないんだから)
Spike LeeがやったみたいにBlock Partyでがんがんに彼の曲を流してやれ。
彼の曲はそういうためにあったのだし。
ご冥福をお祈りいたします。
さみしいよう。
Black day, stormy night
No love, no hope in sight
Don't cry, he is coming
Don't die without knowing the cross
(from “The Cross”)
たった4ヶ月の間に王子様がふたりも星になってしまい、女王陛下におかれましては嘆き悲しみのあまり死んでしまうに違いないと思うし、それは我々にとってもまったく同じなのだ。キュートで美しくて、いかしてていかれてて、歌って踊れて宇宙の果てまでふっとばしてくれて、同時に押入れの奥までもバケツの底までも付きあってそばにいてくれる、そういう起伏を共にした仲だったからいまはべたべたに悲しくてなにをどうしたらよいのかわかんない、になっている。
Little Princeがページの上で彼とわたしの特別な、かけがえのない関係を築くことができたのと同様に、彼はヘッドフォンの振動膜と鼓膜の数センチの間にBetween the sheetsなあんなことこんなことを持ちこむことができた。 誰もがPrinceとわたしだけのスペシャルな一夜、一曲、あれとか、について目を潤ませて得意気に何時間でも語ることができるだろう。 (Bowieのほうはもう少しロジカルだったり形而上学してたり)
80年代のまんなか辺りから終りまで、Purple Rain (1984) - Around the World in a Day (1985) - Parade (1986) - Sign O’ the Times (1987) - Lovesexy (1988) とほぼ1年間隔でリリースされた彼の音がどれだけ奇異で異様で変態で気持ちわるくて気持ちよくてなんじゃこりゃに響いて鳴ったか、こっちに強引に迫ってきたか、説明するのは難しい。 BlackもFunkもJBも70’sもよくわかんなかったのだが、あのシンセの音、パーカッションの音の生々しさは聴いてきた英国音楽のそれとは全く異質ななにかで、始めのうちは困惑して憮然とするしかなかった。
最後に見た彼のライブは2010年12月のMSG、'Welcome 2 America' のツアーだった。
Larry GrahamやSheila E.との共演を見れたのでもうなにも思いのこすことはないや、と思ったのだが、でも勿論そんなのうそで、一生ずっとついていくから、て改めて思ったのにな。
追悼は、Bowieみたいなtribute liveはやらなくていい。(どうせだれも再現できやしないんだから)
Spike LeeがやったみたいにBlock Partyでがんがんに彼の曲を流してやれ。
彼の曲はそういうためにあったのだし。
ご冥福をお祈りいたします。
さみしいよう。
Black day, stormy night
No love, no hope in sight
Don't cry, he is coming
Don't die without knowing the cross
(from “The Cross”)
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