4.30.2016

[film] The Sheltering Sky (1990)

9日の土曜日の晩、新宿で”Room”のあと、恵比寿に移動して見ました。 部屋から砂漠へ。

これ、見たことがなかった。
理由はいくつかあって、ひとつは90年代始めにPaul Bowlesのブームみたいのがあって、白水社から作品集も出ていて、それらを読んでいたのでイメージを壊されたくなかった、ていうのと、もうひとつは、それらのせいでモロッコに行きたいぜったい行きたい、ていう野望が渦を巻いていて、やはり壊されたくなかった、ていうのと。 いまにして思えば、ばーか。 としか言いようがないわ。
原作なんてもう憶えてやしないし、本だってどこに埋まっているのやら。

冒頭の古いマンハッタンのシーンで頭が痺れてじーんとなって、ここだけで帰りたくなった。

Kit (Debra Winger)と音楽家のPort (John Malkovich)の夫婦とジャーナリストのGeorge Tunner (Campbell Scott)の3人がモロッコ(タンジール)の港に降りたって、そこから大量のスーツケースと一緒に都市と砂漠を点々と渡っていく。 なんでそこに行くのか/行きたいのか、なにがそこに向かわせるのかはあんま決まっていなくて、むしろそういう約束や決まり事を避けて、何かから遠ざかるかのように、彼らは大陸の奥に奥に分け入っていき、やがてその遠ざかりに合わせて彼らの愛もするすると解けて互いの手から離れていって、やがてPortはばちが当たったのか疫病で死んじゃって、Kitはひとり砂漠を彷徨いながら自分からも解き放たれていってしまうの。

でっかい砂漠と地平線を見おろす高い丘のうえで、ふたりがセックスをするシーンがあって、そのとき彼らの上を覆っているのは空しかないのだと、その底なしの恐ろしさと官能について語るところで、ちょうど見たばかりの”Room”を思いだした。
納屋の天窓と砂漠の空と、なにかが少し繋がった気がした。

Kitが正気を失いながら砂漠を転々としていくところはとても切なくてはらはらするのだが、あれはPortがいなくなって寂しすぎてそうなってしまったのではなく、砂漠が彼女の何かを削ぎ落として変容させ、彼女はその状態に適応していったのだ、と見るのが正しいだろう。 Bowlesが何度も言っているツーリストと旅行者の違い。 覆いが、蓋が外れてしまったとき、ツーリストは狂ってしまうが、旅行者はただ変容して次の土地を目指す。 ラストのBowlesの言葉が刺さる。

「生涯で何度、満月が昇るのを見れると思う?」
どっか行きたいよう。

90年代初のBowlesのブームって、80年代の終焉とリンクしていたんだっけ?
ま、どうでもいいけどさ。

放浪の旅の途中、一瞬だけど「Timbuktuへ」ていう台詞があってはっとした。
もうあそこには行けない。 ここで描かれている旅はアメリカが世界一豊かだった時代のお話し。

映像の、あの赤茶色、Vittorio Storaro だあ、と思った。 すばらしいカメラ。 70mm ...

シアターのスピーカーシステム、音がよいのはわかるのだが、普段聞いている映画の音の定位となんか違うかんじがして少し引っ掛かった。

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