1.31.2016

[music] METZ - January 29

29日、金曜日の晩、新代田で見ました。雨でした。 当日券。

ここんとこ、仕事のほうはくそみたいにバカみたいに慌ただしく、ふつうに考えたら週2回もライブに通える状態ではぜんぜんないのだが、ふつうに考えることをしたがらない脳が、現実をちゃんと見ようとしたがらない目が、巻き起こったどさくさまぎれの偶然のなか、隠れろ逃げろ! て叫び続けた結果、遠くに抜けることができたの。 そのツケはぜーんぶ、あしたの朝からやってくるんだからね。しんないからね。

このバンドのことはよく知らなくて、音も聴いたことなくて、Sub Popでトロント発、ていうのをチラシで見た程度。 でもがりがりごりごりやかましいのを聴きたい、ていうのはずっと念じていて、そういうときにしれっと行ってみるやつがはずれることはない、ていうのは知っている。 ほうらな。

情報をほとんど持っていないのであまり書けることはないのだが、金曜の雨の晩、いろんな理不尽さから来るむしゃくしゃともやもやを棄てきれないほどに抱えこんでて、せめて週末くらいはそいつらをぜんぶそこらに散らして放り投げてあたまからっぽにしたいのだったら、そこにこんなに素敵にはまる音は他にない。

頭蓋にドリルで穴あけて糞詰まってたゴミぜんぶ掻きだして掃きだしてクレンジングして風と水流を送ってくれる。それをものすごい速さと強さで撹拌しながらノンストップでやる - 気持ちいいったら。
これだ、これが必要なんだ、こういうのが好きなんだわ、てずっと思ってた。

Sub Pop独特の叩きつけるドライブとバウンドにトロントのほんわか人情味をまぶしたふう、とか最初は思っていたが、頭をぶんぶん振って汗を飛び散らせて突っ走るフロントの巨漢メガネは湿り気ゼロでざーっと流していって、なんか80年代初のがりがりしたギターとエモ抜きのヴォーカル - PILとかを思い起こさせたりもして - とにかく気持ちよくて、そういう気持ちよさは想定してなかったのでとっても得した気になった。

60分やったかやらないか、アンコールもなしでさっさか消えて、でも清々しててちっとも不満はない。
また来てくれるに決まってる、ね。

[music] Joanna Newsom - January 27

27日の晩、品川で見ました。今年の初ライブ。

彼女のライブを見るのは2010年の11月、Sold OutしたCarnegie Hallの以来。
このときのバックは5人で、違いはトロンボーンとか管楽器のひとがひとり。 アンサンブル全体のリードは今回と同じRyan Francesconiさんで、彼はこのときソロで前座もやっていた。 あと、今回はnordのキーボードがピアノの横に追加。 ステージ上の配置はおなじ。 向かって右にドラムス、ハープまんなか、左にRyanさんと弦の女性ふたり。

彼女の楽曲とアンサンブルの仕様て、あきらかにクラシック器楽曲のそれなので、会場はクラシック用のとか今回のような天井が高くて遠くて響きのよい教会とかがよいに決まっているの。
(ちなみにNYの会場はApollo TheatreとBrooklynのKings Theatre。 いいなー)

新作”Divers”がヴィジュアルも含めて結構かっちりと作りこんであったのでライブはどうなるかしら、ていう興味はあったのだが、しょっぱなは”Bridges and Balloons”で(新作のは2曲めから)、要するにライブは彼女の唄とハープをぶっとく聴かせるもので、それでよいのだね、と改めて認識させるような構成だった。

それにしても、あの空間でなんと気持ちよく響き渡る楽団であり楽曲だったことか。 いろんな弦の糸やリコーダーの吐息が撚りあい絡まりあって天に伸びていったりちりちりと花火のように散っていったり風にたなびいたり、それを裏で表で支え、吹きあげる繊細なドラミング - (兄のPeterによるもの)。冬の冷気を湛えた教会のつーんとした空気溜まりが彼女の音楽と共に緩やかにその温度の層を変えていくのが見えるようでした。

個人的には”Emily”のうにょうにょ止まらないうねりと”Peach, Plum, Pear”のなーななーなー♪が聴けますように、とお祈りしていて、で、それらを演ってくれたのでとっても満足した。 チューニングした後の”Peach, Plum, Pear”の輝きがすばらしくて、それに続いた新作からの”Goose Eggs”もなんのギャップもなしに繋がっていた。

彼女自身もよい意味で変わらない。 演奏中に身体が固定されてしまわざるを得ないハープ奏者 & シンガーであるので、曲の間にきゃっきゃうふふと飛び回って、直後にしーんとつーんと演奏に集中するその変てこな挙動、それを人によっては妖精と呼んだりするのかもしれないが、おもしろいねえ、といつも思うのだった。

教会行ってぶつぶつ文句いうひとがいないように、満足しなかったひとなんかひとりもいなかった晩だった。よね。

1.27.2016

[film] La fille coupée en deux (2007)

17日のごご、「悪の華」に続けて見ました。 これもすんごくおもしろくてねえ。
「引き裂かれた女」。英語題は “A girl cut in two”。

それなりの知名度の初老の作家、サン・ドニ (François Berléand)がいて、妻もいるのだが自宅によく来るエージェントの女性ともなんかあったふうで、要は女好きでグルメで、彼がTVのお天気キャスターのガブリエル (Ludivine Sagnier)に目をつけて一緒に食事をするようになって、彼女は抵抗しつつもだんだんに調教されていく(「調教」の場面があるわけではないが、そんなようなかんじで彼の虜になっていく)。

それを横目で見ていた富豪のドラ息子で遊び人のポール (Benoît Magimel)が彼女に執拗にアプローチをかけて、ガブリエルは最初嫌がっていたのだがサン・ドニに冷たくされた腹いせだかなんだか(よくわかんないけど)で、結局ポールと結婚してしまうのだが、そこには愛のない世界がどんより広がっていて、ぜんぶあのじじいのせいだ、て激昂したポールは。

片やインテリの金持、片や成金のぼんぼん、それぞれに(こちらには見当もつかない)闇だのゴミだのを抱えた野郎同士の割とどうでもよい不寛容と諍い、その間で引き裂かれてしまった小市民の女の子 - 二人の男を翻弄するのだが、ファム・ファタールとはちょっと違う。 これも「悪の華」と同様、どこのなにが悪いのかよくわからないまま事が進行して、あれってなんだったのかしら? になる典型のようなお話し。 例えば「悪の華」は屋敷の奥で、「引き裂かれた女」は公衆の面前で進行するような違い。

あと、作家が彼女をオークションに連れてってピエール・ルイスの「女と人形」の挿画入り初版を2000€でひょいって落としてプレゼントするシーンがあるんだけど、あんなことされたらいちころで落ちる、て思った。(でもこの娘ときたら...)

映画の後で元New York Film Festival (NYFF)のディレクター、Richard Peña氏によるトーク。
なんとぜんぶフランス語でやってた。 すごいねえ。

JLGの「勝手に逃げろ」での黒板上のカインとアベルの対立関係を20世紀初から始まるフランス映画とアメリカ映画の、更にはフランス映画批評とアメリカ映画批評の歴史を貫く対立・相互作用のメタファーと置いて、両国の映画と批評の歴史を概観した上で、60年代にヌーベルヴァーグの映画作家として、批評家としてそのキャリアをスタートさせたシャブロルにクローズアップする。

そこから5人組のなかで最もアメリカ映画のスタイル - 特にフィルム・ノワール(定義 : ①Visual Style - 表現主義的なそれ ②ストーリーテリングに重要性を与える ③社会 - 特にブルジョワに対する厳しい批評的目線)がもたらした様式を更に拡げて進化させようとしたシャブロルの作家論と「引き裂かれた女」の詳細に入っていく。

んで、ノワールを家族の持つ本質的な暴力性 - 家族が如何に自分たちを守るか - を暴く邪悪なメロドラマとして再定義するあたり、なるほどなー、と。 「悪の華」もそうだよね。

1906年に実際に起こった事件を元に、1955年のRichard Fleischerの"The Girl in the Red Velvet Swing" - 「夢去りぬ」を経由(したかしなかったかは不明だが)して、事件発生から100年後、現代のフランスを舞台に映画を撮る。 50年単位の、冗談みたいな飛び石の不思議とおもしろさと。

55年の映画 - の題材となったのは1906年、建築家のStanford White(有名なとこだとWashington Squareの凱旋門はこの人のデザイン)が、観劇中にHarry Thawに撃ち殺されてしまった、ていう事件。 Fleischerの映画ではStanford WhiteをRay Millandが、Harry ThawをFarley Grangerが、引き裂かれてしまったEvelyn NesbitをJoan Collinsが演じている。 Peñaさんの説明だと、Harry役のFarley Granger(「夜の人々」の彼ね)がキャラクター的にちょっと弱い、とのことで、そこのとこはなんかわかったかも。 
とにかく「夢去りぬ」は見たいなー。

ものすごくシンプルで包括的で、それこそ彼がNYFFでやっていたように(今もやっているように)アメリカとフランスの歴史や文化も含めての連環を表に出し、並行して個々の作家作品にも切り込んでいく - そういう楽しさに溢れた講義だった。 わたしがこの上映に来たのは彼のトークがあるって知ったからだったの。

NYにいた頃、この人が前説やトークをやる映画はぜったい面白いから見なきゃ、ていうふうに見る映画を選ぶ傾向は確かにあって(だって知らない映画ばかりだったし)、このひとがいたLincorn Centerでの特集上映とか、もちろんNYFFとか、ぜんぜんはずれがなかった - 今だとKent Jones氏がいて、Gavin Smith氏がいる。 Film ForumにもMOMAにも。 

例えば、2010年(48th)のNYFFのラインアップなんか:
オープニングが”The Social Network”, クロージングがイーストウッドの”Hereafter”, JLGの”Film Socialisme”, キアロスタミの「トスカーナの贋作」、ラウル・ルイスの「ミステリーズ 運命のリスボン」、ホンサンスの”Oki's Movie”、オリヴェイラの「アンジェリカの微笑み」、アピチャッポンの「ブンミおじさん」、そしてアサイヤスの”Carlos”..  これらを全部オーガナイズしたのが彼なんだよ。
そしてこの時の、”Carlos”上映後のトーク、更に”The Cinema Inside Me: Olivier Assayas”ていうタイトルで行われたAssayasとPeñaの対話の濃かったことすごかったこと。

あと、Richardさんとはトイレで何故かとってもよく会うのだった。 最後に会ったのは彼が最後にDirectorを務めた2012年のNYFF,  Bertrand Bonelloの”Ingrid Caven, Musique et Voix” - Ingrid Cavenさんの圧巻のライブパフォーマンスを記録した(だけの)フィルム -  そのときのトイレだったねえ。 解説ももちろんすばらしかったけど。

どうでもよいけど。  彼、ずいぶんやせたよね?

1.26.2016

[film] La Fleur du Mal (2003)

17日の日曜日の午後、アンスティチュのシャブロル特集で2本見ました。
こんなにどっしりみっちりした2本を見て、しかも講義まで付いてて1600円なんて、犯罪みたいに安い。

「悪の華」。 英語題は”The Flowers of Evil”。

冒頭、茂みの奥にぼうっと浮かび上がるお屋敷のなかにカメラが這うように進んでいって階段を昇ったところの手前の部屋で女性が蹲っていて、その次の部屋に流血した男性が転がっている。導入としてまずぞくぞくくる。

米国に数年間滞在して戻ってきたフランソワ (Benoît Magimel)を父のジェラール(Bernard Le Coq)が空港で迎えて、その車中で母さん- アンヌ (Nathalie Baye)が今度の市長選に出るんだけどどんなもんか、とか嫌味を言って、随分新しく変わった町の様子、更に家族全員の紹介があって、家には血の繋がっていない母とその母の連れ子で心理学を専攻しているミシェル (Mélanie Doutey)と、母の叔母で朗らかそうなおばあちゃんのリーヌ(Suzanne Flon)がいる。
(うなぎ料理、おいしそう)

父はドラッグストアの経営をやっているが酒好き女好きで裏がありそうで、母は選挙運動で慌ただしく飛びまわっていて、フランソワとミシェルはとっても仲がよくて、仲が良すぎて問題になりそうだったのでフランソワはアメリカに渡った、ようなこともわかってくるのだが、ここらへんまではごく普通のブルジョワのおうち、なかんじがする。 多少のどす黒さは許容しよう、と。

アンヌの選挙事務所に匿名の手紙が投げこまれた、という辺りからちょっと不穏な空気が流れ始めて、アンヌの父は戦時中、対独協力者でレジスタンスだった自分の息子を殺した、とか、そのあとでリーヌが自分の父を殺した疑惑もあるとか、とか。
これも選挙活動ではよくありがちな誹謗中傷だし、本人とは関係ない過去の話だし、てきとーにやり過ごすこともできるし、実際にアンヌはそんなの構ってられないくらい慌ただしく支持者まわりをしている。 

でもそうして投げられた小石が家族のなかで割と暇にしているフランソワとミシェルとリーヌの間でなんとなく渦を巻きはじめて、そんなに遠くない過去の事件の記憶と共鳴を始めたところで、(ぜんぜん意図なんかしていなかったのに)起こるべくして事件は起こるのだった。

両親のうちのどちらかひとりは血が繋がっていない。兄妹だけど血は繋がっていない。血が繋がっている一部の肉親は昔やってはいけないことをした(らしい)。 やってはいけないことのなかにもやってよいこととわるいことがあるよね。 でもこれらはすべて内輪の、内縁のことで誰にも迷惑かけてないし危害加えてないし。 こんなふうに閉じた輪のなかでとぐろを巻く血と憎悪と愛と善悪の編み目の隙間にひっそりと咲くのが悪の華である、と。

あとはあの終わり方の後に続くであろうこと、あの後に開いてしまうかもしれないアナザー悪の華をイメージする、それだけでたっぷり追加で1時間は楽しめると思う。 対独戦から市長選へ、家族の輪のなかで閉じているようで、なかなかの広がりをもった罪を巡る映画なの。


ぜんぜん関係ありませんが、New Yorkのキッチン用品店、Broadway Panhandlerがこの春、40年の歴史を閉じてしまうのだと。

http://www.nytimes.com/2016/01/25/dining/broadway-panhandler-longtime-manhattan-cookware-retailer-to-close-in-spring.html

今のロケーションの前 - SOHOのBroome stにあった頃は結構通って、店猫によく引っ掻かれていた。
かなしいなあ。 お気に入りのレコード屋や本屋が消えてしまうのとおなじかんじ。 

1.24.2016

[film] A Band Called Death (2012)

16日の土曜日の晩、渋谷の「未体験ゾーンの映画たち2016」で見ました。
特集「未体験ゾーン…」 て、タイトルからしてホラーとか変態系に寄りがちのようだけど、もうちょっとラブコメみたいのもやってもらえないものかしら。 そういうのはカリテのほうでやることになっているの?

タイトルそのままに、”Death” というバンドのドキュメンタリー。
2013年のSXSW Film FestivalでAudience Awardを受賞している。
Deathは70年代初、Punkの遥か以前にデトロイトに現れた”Punk”バンドで、その音源が2009年、34年の時を経て奇跡のようにDrag Cityからリリースされた、その辺の事情は映画でも引用されていた以下の記事もあって一応知ってはいた。

http://www.nytimes.com/2009/03/15/arts/music/15rubi.html

映画の前半はバンドが生まれてから消えるまで - デトロイト郊外のHackney家の次男三男四男のDavid, Bobby, Dannisが3ピースのバンドを組んで自宅内の部屋でばりばり練習をして、デモを作って売り込みに出て、AristaのClive Davisのところまで行くのだがバンド名がネックとなってリリースには至らずにお蔵入り、バンドは77年に解散して、やがてリーダーのDavidも亡くなってすべてはどこかに埋もれて消えて。

後半は00年代後半、かつて500枚を自主制作した最初の7inchの音がアンダーグラウンド市場とネットの片隅で話題になって、その曲をどこかのパーティで耳にしたBobby Hackneyの息子が、これ歌ってるのうちの父ちゃんじゃね? て驚愕して父親に聞いてみたらそれを認めて... この辺がいちばんおもしろくて、そこから実家のどこかに眠っていたマスターを掘り起こして、レコード発売と再結成と。

バンドの歴史と共にPunkとしての、或いはバンドとしての軋轢や戦いの軌跡がぐさぐさと描かれているかというとそういうのはあまりなくて、残っているメンバーや家族の証言はとってもフレンドリーでポジティブで、トーンとしてはR&BやSoul系のBehind the ceneドキュメンタリーとあんま変わらなくて、いや、別にいいんだけどね。 デトロイト郊外の家族のお話しとして見れば。

さて、この”Punk Before Punk”を、未だ”Punk”の概念が存在しなかった時代に生まれた音を、果たして後付けのようなかたちでPunkと呼んでしまうことが可能なのだろうか?  についてはそもそものPunkの定義や起源をどこに置くのかとか、そんなの別にいいじゃんかっこよけりゃ、とかいろいろあるのだろうが、わたしはDon Lettsを師と仰ぐUK Punk原理主義者であるので、まあなんというかぶつぶつぶつ、であった。

でもインディーなんて存在しなかった時代、どれだけ積まれても泣かれても断固バンド名を変えずに走ろうとした意固地さ石頭とかは偉かったかも。

エンドロールのとこで流れるDavidのソロ”Yes He's Coming”が、なんかとってもしみた。
結局のところ、いなくなってしまったDavidへの家族からのラブレターで、それでいいんだろうな、って。

しかしレコードコレクターの世界っておそろしいな。そのひとりとして登場するJello Biafraさんとか。
あと、Elijah Woodさんとか ...

1.23.2016

[film] Apichatpong in the Woods 2016 - Art Program

16日のごご4時、ロイドのあと、イメージフォーラムで見ました。
ホットドッグからトムヤムクンへ。
Apichatpong Weerasethakulの特集 - ”Apichatpong in the Woods 2016”

アピチャッポンを初めて見たのはたしか、2008年のTIFFでの”O Estado do Mundo” - 『世界の現状』のなかの一編 - ”Luminous People"(聡明な人々)で、あのグローバリゼーション(ていうのがあったのよ、昔)をテーマにしたオムニバスのなかで、彼の作品ははっきりと異様で異質で、ものすごく変なものを見てしまったかんじがあった。(ところで、いま『世界の現状』みたいのを撮ってみたらどんなんなるだろうか ..  だれも見たくないよね。たぶん)

で、今回のアピチャッポンの特集、「世紀の光」は早く見なきゃ、と思うものの、このアートプログラム(中・短編集)のような半端な切り落とし肉みたいな方につい目が行ってしまうのだった。
“Mekong Hotel” (2012) とかもなんか予測不能でおもしろかったし。

上映されたのは以下。

■ The Anthem (2006)
■ Worldly Desires (2004)
■ Emerald (2007)
■ My Mother's Garden (for Christian Dior, 2007)
■ Vampire (for Louis Vuitton, 2008)
■ Phantoms of Nabua (2009)
■ A Man who ate an entire tree (2010)

色彩や構図がなんかすごい、ていうのは余りなくてどちらかというとふつーの、しろーとが撮ったような、監視カメラが捕らえたような映像 - 撮るひとが明確な意図や意思をもって切り取ったものというよりどこかしらで何某かが自動で記録していたかのような感触のしらじらした平熱の映像、エフェクトもたまたまやってきたノイズや電波や砂嵐のせいでそうなっていましたわざとじゃないもん、みたいなふうで、そういう状態でなんか突然へんなやつが。

画面の端っこになにか変なものが映りこんでいるという感覚が常にずっとあって、で実際にたまにほんとになんか映ってしまっていて、そしてそれをみてしまってなんかぞっとして狼狽して念のためもう一回確かめようとしてももうそこにそれはいなくて、それって誰を責めるべきなのか - 森か? - みたいな、延々とだるまさん転んだをやっている(着実に近寄ってくるけどどこまでいっても触れてこない)、相手はあちらの世界に半身突っこんで浸かっていて、あちら側でもなんかやっているようなので、自分で自分の知覚をうまくコントロールできなくなる。そういう悪寒とか戸惑いとか。

東洋とか西洋とかをこういう文脈であまり使いたくないのだが、線があるとすればこの辺 - 自身の知覚や認識を統御・コントロールしているのはほんとうにまちがいなく自分なのか? 自分と言ってしまってよいのか? という問いに対する揺らぎや迷いを持ちこんでくる、そんな不穏で物騒なのを持ちこむ、持ちこもうとしているのはどこのだれ、そもそもそれってヒトなのかなんなのか、みたいな。

深い森のなか/奥のざわざわでなにかが遠のいてなにかが近まって、全体として距離の遠近が麻痺してくるのと同じような感覚。 それが嫌なら森には入らないほうがよいだけさ、と。

というようなかんじに彼の映画を見るとつきまとってくるもの、それはあまり他の監督の映画では感じられるなにかではなくて、これとはぜーんぜん違うけど、ホン・サンスの作品がもたらす時間感覚への揺さぶり、は見ているものをちらっとイラつかせる、という点で似ていないこともないかも。

前にも書いたけど、坂田靖子の世界のを映画化できるのはこのひとしかいない。

[film] Speedy (1928)

16日の土曜日の昼、シネマヴェーラで見ました。『ロイドのスピーディー』

ロイドとキートンはとにかくどんなのでも見るし、できれば毎週でも見たいくらい。
フリッツ・ラングをいくら見ても極悪人にはなれないし、ルビッチをいくら見ても恋愛の達人にはなれない気がするが、ロイドとキートンをずっと見続けていれば、どうやって危機をのがれて生き延びることができるのか、やばい状況からすたこら逃げることができるのかの知恵とか手口とか度胸とかを授けてくれそうな気がする。 
もちろんロイドみたいにキートンみたいに逃げられるようになるのってオリンピックに出るのよか難しい - ていうか死ぬよ - と思うけど。

Harold 'Speedy' Swift (Harold Lloyd)はカフェのバーテンやったり(Yankeesの試合結果が気になってしょうがない)、タクシーの運転手やったり(スピード出しすぎてめちゃくちゃ)するのだが、うまくいかなくて、ひとつの職に落ちつくことができなくて、恋人のJane (Ann Christy)からは、だいじょうぶかしらこのひと…  みたいになっている。 彼女のおじいちゃんは馬が引っ張る路面電車(バス?)みたいな乗り物の運転手を長年やっているのだが、大手のバス会社だかなんかがその路線を横取りしようとやくざを連れて嫌がらせに来たりしていて、それを見たSpeedyは近所のお年寄りとかみんなを集めてバスを憩いの飲み屋にして味方を増やして、しまいにはやくざ vs. 南北戦争生き残りおじいちゃん軍の大喧嘩になるの。 20年代、マンハッタンのまんなかで。

(よれよれのじじい達が集まってくるところ、Daniel Schmidの『ベレジーナ』のコブラ団を思いだした)

ものすごく強引に決着がついたり感動的なオチがあったりするわけでもなく、Speedyがものすごくスピーディーだったり、曲芸みたいな技や綱渡りが出たりするわけでもなく、最後は西部劇みたいにお馬さんが奇跡の大爆走して、気がつけば勝っていました、みたいな軽さといいかげんさがたまんなくて、要するにかっこいいんだよ、ロイドって。

あと、SpeedyとJaneが休日に正装して(スーツで遊園地)コニーアイランドのLuna Parkにデートに行くとこ、定番中の定番だけど、いいんだよー。 昔の遊園地のアトラクションのほうが絶対に魅力たっぷりで遊んでみたいのがいっぱいあるの。 いまのコニーアイランドにも少しだけこの頃の名残のぼろいアトラクションは残っているので試してみたい方はぜひ(目がまわってかなりげろげろになるけど)。