16日のごご4時、ロイドのあと、イメージフォーラムで見ました。
ホットドッグからトムヤムクンへ。
Apichatpong Weerasethakulの特集 - ”Apichatpong in the Woods 2016”
アピチャッポンを初めて見たのはたしか、2008年のTIFFでの”O Estado do Mundo” - 『世界の現状』のなかの一編 - ”Luminous People"(聡明な人々)で、あのグローバリゼーション(ていうのがあったのよ、昔)をテーマにしたオムニバスのなかで、彼の作品ははっきりと異様で異質で、ものすごく変なものを見てしまったかんじがあった。(ところで、いま『世界の現状』みたいのを撮ってみたらどんなんなるだろうか .. だれも見たくないよね。たぶん)
で、今回のアピチャッポンの特集、「世紀の光」は早く見なきゃ、と思うものの、このアートプログラム(中・短編集)のような半端な切り落とし肉みたいな方につい目が行ってしまうのだった。
“Mekong Hotel” (2012) とかもなんか予測不能でおもしろかったし。
上映されたのは以下。
■ The Anthem (2006)
■ Worldly Desires (2004)
■ Emerald (2007)
■ My Mother's Garden (for Christian Dior, 2007)
■ Vampire (for Louis Vuitton, 2008)
■ Phantoms of Nabua (2009)
■ A Man who ate an entire tree (2010)
色彩や構図がなんかすごい、ていうのは余りなくてどちらかというとふつーの、しろーとが撮ったような、監視カメラが捕らえたような映像 - 撮るひとが明確な意図や意思をもって切り取ったものというよりどこかしらで何某かが自動で記録していたかのような感触のしらじらした平熱の映像、エフェクトもたまたまやってきたノイズや電波や砂嵐のせいでそうなっていましたわざとじゃないもん、みたいなふうで、そういう状態でなんか突然へんなやつが。
画面の端っこになにか変なものが映りこんでいるという感覚が常にずっとあって、で実際にたまにほんとになんか映ってしまっていて、そしてそれをみてしまってなんかぞっとして狼狽して念のためもう一回確かめようとしてももうそこにそれはいなくて、それって誰を責めるべきなのか - 森か? - みたいな、延々とだるまさん転んだをやっている(着実に近寄ってくるけどどこまでいっても触れてこない)、相手はあちらの世界に半身突っこんで浸かっていて、あちら側でもなんかやっているようなので、自分で自分の知覚をうまくコントロールできなくなる。そういう悪寒とか戸惑いとか。
東洋とか西洋とかをこういう文脈であまり使いたくないのだが、線があるとすればこの辺 - 自身の知覚や認識を統御・コントロールしているのはほんとうにまちがいなく自分なのか? 自分と言ってしまってよいのか? という問いに対する揺らぎや迷いを持ちこんでくる、そんな不穏で物騒なのを持ちこむ、持ちこもうとしているのはどこのだれ、そもそもそれってヒトなのかなんなのか、みたいな。
深い森のなか/奥のざわざわでなにかが遠のいてなにかが近まって、全体として距離の遠近が麻痺してくるのと同じような感覚。 それが嫌なら森には入らないほうがよいだけさ、と。
というようなかんじに彼の映画を見るとつきまとってくるもの、それはあまり他の監督の映画では感じられるなにかではなくて、これとはぜーんぜん違うけど、ホン・サンスの作品がもたらす時間感覚への揺さぶり、は見ているものをちらっとイラつかせる、という点で似ていないこともないかも。
前にも書いたけど、坂田靖子の世界のを映画化できるのはこのひとしかいない。
1.23.2016
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