11.10.2023

[film] 浮草物語 (1934)

10月28日、土曜日の午後、国立映画アーカイブで見ました。サイレント。 英語題は”A Story of Floating Weeds” - 59年のリメイク版は” Floating Weeds”。

東京国立映画祭のなかの小津特集。いろいろ被りすぎててわけわからず、とりあえず見れるところで見るしかない – って思わせてしまうような映画祭って、さいてー(改めて、何度でも)。小津のシンポジウムだってチケットが別扱いで気が付けば売り切れているし、Kelly Reichardtさんは結局このためだけに来たの? 失礼すぎない? とか。

10月1日にロンドンのBFI IMAXで堂々とした『浮雲』(1959)を見て、これの前に作られた1934年版も見たいと思っていたところ。米国のプレ・コードドラマ”The Barker” (1928) - 『煩悩』がベース(これを受けた原作は小津の変名 - ジェームス・槇による)だそうで、こちらも見たい。

この34年版を見ると、59年版のと思っていた以上に似ていた、というか、59年版は旧版で撮られたものをカラーと音声を使ってより直截的に洗練させたものなのか - 25年かけて。すごいわ。

旅まわり歌舞伎一座の喜八(坂本武)と情婦のおたか(八雲理恵子)が中心にいる一座がある村に興行にやってくると、喜八はおつね(飯田蝶子)がやっている呑み屋に入り浸っておつねの子の信吉(三井弘次)と頻繁に会うようになる。彼らの事情も込みでそれを妬いたおたかが若いおとき(坪内美子)を信吉に仕向けて…  

ストーリーはもうわかっているのだが、いろんな登場人物たちの束と溜まる場所や場面が色別に分かれていて、その奥行きが格子模様の遠近でくっきりしたり滲んだりする59年版の完成度と比べると、やや平坦でリニアな人情噺の方に寄っているようで、でも嫉妬が嫉妬を生んで燃え広がって渦を巻くその熱ややばさが声を介さずに伝わってくる距離の近さ、でいえば34年版もとてもよいかんじ。

キャストもこれ以上のものは想像できない、空前絶後で唯一無二の59年版の中村鴈治郎 - 京マチ子 - 杉村春子 - 川口浩 - 若尾文子 - たちと比べても悪くなくて、特に八雲理恵子のすばらしさにびっくりした。今回の特集で『東京の合唱(コーラス)』(1931)も見たりもして…


風の中の牝鶏 (1948)

10月28日の土曜日の午後、『浮草物語』を見た後にTohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。
間違えて角川シネマ有楽町の方に行ったら誰もいないので少し焦った。

これは2021年1月、コロナでロックダウン中の英国にいた頃、Criterion Channelで見ていた - 英語題は”A Hen in the Wind” – ことを思いだした。

全体としてあまりに酷くて辛くしんどい話で、田中絹代がなにをやっても不憫でかわいそうすぎて、佐野周二がしみじみ憎らしくてうんざりぐったり世界が嫌になったので見た記憶を消したくなったのだと思う。

時子(田中絹代)は幼い坊やを抱えて夫の修一(佐野周二)の復員をずっと待っているのだがずっとお金がなくて着物などを売ってやりくりしていたのだが、坊やが腸カタルにかかって入院してしまい、高額な入院費を払うために近所の怪しい女性経由で売春をやるところを紹介してもらってなんとか工面する。坊やも無事に回復して、夫も戻ってきたところで病気は大変だったろう、お金はいったいどうしたんだ? って聞かれると彼女は嘘をつけなくて泣きだしてしまい…

修一はそこでばかやろう、って泣いて謝る時子をぶんなぐり、彼女の供述にもとづいて月島の宿にまで出かけていってそれが事実だったことを確かめ、戻ってきて時子を階段から突き落として... たぶんこういう話はこの頃にいくらでもあったのだろうな、って。(これ見ると『ゴジラ-1.0』なんてよい人まみれの極楽にしか見えない) 修一、最後は自分も苦しかったんだよう、って言いたげに泣いて謝って抱きあうのだが誰が信じるかよ、って。

何度も正面から不吉に映しだされる階段、同じように気が遠くなるような階段があって近所から見下ろしている巨大なガスタンクとその轟音 – 鳥籠のイメージ、川べりを転がっていく紙風船、不安定でおそろしいイメージの連なりとそこに風が吹いているなか、逃げようのない牝鶏 - 夫の背中にまわされた羽 - の影が結ばれて、おそろしい。このおそろしさを画面におとせてしまうところが小津のこわさなのか。世に言われる失敗作では決してなくて、むしろ逆、これを「失敗作」とすることでなにかに蓋をして見ないようにしたのだとしか思えない。


11.09.2023

[film] 左手に気をつけろ (2023)

10月28日、土曜日の昼、東京国際映画祭をやっている角川シネマ有楽町で見ました。英語題は”Keep Your Left Hand Down”。上映後に監督井口奈己によるトーク付き。43分の中編。

この映画祭での上映がワールド・プレミア、だそうで、エグゼクティブ・プロデューサーである金井久美子 & 金井美恵子姉妹が国際映画祭のレッドカーペットを歩いたぞ、ということでおおおっ、となったやつ。

6月の終わりだったか7月の頭だったかの週末、京都の恵文社一乗寺店で行われたこの作品の上映イベントには行けず、でもその前の週にあった『こどもが映画をつくるとき』(2021)と『だれかが歌ってる』(2019)の上映+金井姉妹のトークには行って、ここで今作の前日譚のようなこれらを見れたのはとてもよいことだった、と今にして思った。

はじめに「よーい、スタート」の声がかかって、『こどもが映画をつくるとき』から更に数歩進んだ、子供が掟をつくって統制をかけている社会が示される。コロナのような謎の疫病がまん延するが、子供たちは疫病フリーで、病が左利きによって媒介されることから左利きを取り締まる子供警察が組織されて、子供が左利きを発見すると、四方八方から十手を手にしたガキどもが大量に湧いてきて「御用だ! 御用だ!」 - 英語字幕だと“Police Business!”なのね - って騒ぎたてながら左利きの大人を追い詰めて寄ってたかって縛りあげるとどこかに運んでいってしまう。っていう緩めのディストピアのお話し。子供たちは楽しそうに行進していって、大人たちはうざいな、って思いつつも普段の暮らしをふつーに行っているっぽい。

神戸りん (名古屋愛)が姉を訪ねていったら家にはいなくて、ここのとこ暮らしていた痕跡もないようなのでどうしたんだろう? って探し始める。カフェに行ったりタロットで見てもらうと大切な人と出会うよ、って言われたり、映画館(サッシャ・ギトリ特集がかかっているシネマヴェーラのロビー)に行ったり、学校に行ったり、この辺は『だれかが歌ってる』の変奏のように、あそこでかかっていた鼻歌も聞こえてくるし、誰かをそんなにシリアスに探す、というよりもそのうちどこかで見つかるじゃろ、くらいの温度感で町や原っぱを、いろんな人々の間を抜けていく。

だれも気にとめない、だれを気にする必要もない、しらーっとした世界で主人公の彼女の目だけがまっすぐになにかを見ようとして、その脇を大量の子供たちがひたすらやかましく傍若無人に群れて画面を横切っていく。

かつてどこかにあった「地上にひとつの場所を」ってぶつぶつ言いながらどこかから現れた男が音と光と場所をてんでばらばらにぶつけ合いつつ探したり徘徊したりするゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)を思ったり、あるいは『ウィークエンド』のあの殺伐とした原野に鳴るドラムス – と同じような雷神の音を聞いたりしながら、この作品の主人公が最後に見つけたひとつの場所 - 右利きにも十分にやさしい左利きの場所、とは。 「側」ではなく、「利き腕」とはなにを意味するものなのか?

政治的な立ち位置としての右左「側」とか「寄り」の話がまるで利き腕のそれであるかのように理不尽に幅をきかせている - 右利きあたりまえ - の気持ちわるく覆って圧してくる空気に対する市街戦であり空中戦であり、ふざけんなばーか、という子供達によるアナーキーな異議申し立てでもある。恋愛メルヘンなんかではない。

中編だからってあまりに散文調で纏まりがないし、主人公の世界と子供の世界はあまり交わらないし、おならみたいに唐突な電子音も耳にくるし… など「子供」に顔をしかめる「大人」からの賛否は(きっとぜったい)あるのだろうが、でもそれこそが思う壺、これはこれである世界とかその輪郭くらいを作っていることは確かで、文句を言うやつらは子供警察に引っ立てられてしまえ、くらいのことは思った。

ESGみたいにぶっとい女性バンドが出てくるのだが、喜多見にある熊鍋のお店のひとがベースを弾いていた…

11.08.2023

[film] Los delincuentes (2023)

10月25日、水曜日の晩、東京国際フィルムフェスティバル(TIFF)をやっているTohoシネマズ日比谷シャンテで見ました。
邦題は『犯罪者たち』、英語題は”The Delinquents”。180分。作・監督はアルゼンチンのRodrigo Moreno。カンヌのある視点部門で紹介された作品。 すごくおもしろい。

そういえば昨年のTIFFには”Pacification” (2022)があって、こういう長すぎるしよくわかんなそうだから絶対一般公開をされなさそうな - けどおもしろいのに出会う、という楽しみが映画祭にはある。のだがこの映画祭ってほんと相変わらず… あんな代理店とスポンサーまみれの映画祭なんて胸糞悪くなるばかりだからやめちゃえ、ってずーっと思っている – けど映画好きは映画見れるなら、って文句を言いながらチケットを取ってしまうというよくないサイクル。(文句書きだしたら止まらなくなるのでやめる。どうせ絶対に「改善」なんてされないから)。

そもそものタイトルがそうだし、銀行強盗が最初に起こるし、ポスターに出ている男たちの人相は悪そうだし、どう考えてもノワールぽい暗い展開でくると思った、のにそっちには行かない – どちらかというと昼間の映画。英国Guardian紙はPedro Almodóvar + Eric Rohmerって書いていたがそんなかんじのすごく変なやつ。

ブエノスアイレスの銀行でずっと窓口業務をやってきたMoran (Daniel Elías)は日々の仕事にうんざりしていて、でもそれなりに長く勤務して信頼はされているので現金の運搬も任されている。そこで託された現金を隠してリュックサックにいれて外に持ち出し、やはりうだつのあがらない同僚のRomán (Esteban Bigliardi)にそれを託して、自分は自首する。Moranの言うことにゃ刑期は3年半、それだけ我慢すれば、出所後は盗んだお金で好きに遊んで暮らせるはずだ、死ぬまで毎日毎日会社で奴隷仕事させられるより断然ましだろ? って。そして、もし現金に変なことしたら獄中でぜんぶばらしておまえの人生を台無しにしてやるから、ってRománには脅す。

盗られた銀行側 - ボスがGermán De Silva - はMoranが自首したのはよいとしても現金がどこにいったのか、行内のどこかに仲間がいるはず、って社員の尋問や首切りを始めて、お金を置いていかれたRománは自分のアパートでの萎れた生活 – 妻子がいて愛人もいる - を振り返りつつ、うなだれてぜえぜえ息を切らしながら田舎の崖があるところに金を隠しにいく – この辺までが第一部。

崖の岩の下に金を隠したRománは湖の畔で寛いでいる男1人女2人と出会い、彼らに誘われるままに一緒に映画を撮ったりして過ごすうち、そのなかのNorma (Margarita Molfino)と親しくなって、町にやってきた彼女と会ったり - 彼はもう銀行も辞めて家も出ているので自由な時間を過ごすのだが、というのと、やがて出所したMoranがお金が埋めておいた山の方に向かうと..

都市の銀行に勤めてはいても牢獄の壁に向かいあうような日々を送っている彼らが強盗に成功して、自首して牢屋に入った方も – おっかない牢名主も同じくGermán De Silvaが演じている - 牢屋の外でお金を隠しにいく方も、当初想定していたような自由は得られないままでどんよりと頭を抱える第一部から、田舎を舞台にした飲んで歌って映画を撮っての自由で気儘な生活に飛びこむ第二部への転調があって、そのきらきらした楽園の世界に無邪気に馴染めるほど子供ではないので、これはほんとうに望んでいた生活と言えるのか、等を過去や足元を踏みしめながら考える、そういう方に思索を向かわせるドラマになっていて、この点で後半の田園パートは中年(犯罪者)版ロメール/ルノワール、のような変な絵になる。MoranとRomán、互いの名前がアナグラムになっているふたりは鏡を見るようにそれぞれの姿を認めて、最後に同じ女性とぶつかってなにを思うのか。これが果たして求めていたなにか - 自由なのか? など。

レコード盤から何度か流れる”Pappo's Blues” (1971)のごりごりしつこいかんじがまたなんとも。結局70年代じじいの夢なのか? とか。

それにしても、3年半牢獄で我慢して、出たあとの老後が安泰になるのだとしたら、こういうの考えてしまうかも。どうせ年金なんてないのだし。 盗んだ金が見つからない状態で本当に3年半で出てこれるのか、というのはあるにせよ。


11.07.2023

[theatre] National Theatre Live: Good (2023)

10月22日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋でみました。『善き人』。

原作はスコットランドのC.P. TaylorがRoyal Shakespeare Companyの委託を受けて書いた同名戯曲 (1981)をDominic Cookeが演出して、Harold Pinter theatreで上演された。

Viggo Mortensenが主演したという2008年の映画版は見ていない。

舞台には奥が角でどんづまった牢獄のようにも見えるなにもない寒々しい部屋がひとつ、登場人物は男性2、女性1だけなのだが、彼らの演じるキャラクターは場面転換など無しに人物、年齢、役割などがころころ切り替わっていくし、それらは背景の音楽や照明が変わることでわかったりもするのではじめは混乱するのだが、戦時下で人格が歪んだり潰されたり豹変したり切り替わっていく - 誰でも誰かに代替可能 - という怖いテーマからすれば、そういうもんかも、になったりする – そしてそのペースに慣れていくのもうすら怖い。

1933年(ヒトラーがフロントに)から1941年(アウシュビッツが作られる)頃まで、約8年間のドイツ - フランクフルトで、文学教授のHalder (David Tennant)と妻Helen (Sharon Small)とユダヤ人の友人Maurice (Elliot Levey)の3人がいて、この3人を(いちおう)中心に置いて、それぞれが官警や役人や義母や恋人や浮浪者などに切り替わったりしながら、時代の節目にどこかの町や家の片隅で行われていたに違いないやりとりをコントやスケッチのように並べていく。そのどーってことのなさそうな蓄積がまさかあんなところまであっという間に行ってしまうまで。

はじめは誰もがヒトラーに懐疑的であんなの.. って思っていたしユダヤ人の扱いについてもすぐ傍にいるのだから悪い冗談としか思えず、まさか自分だけは… そんなふうに緩く適当に受けとめていると本を焼かれたり家に踏みこまれたり水晶の夜を通過したりしていくなか、Mauriceと一緒にいるわけにはいかなくなって、さらに気がつけばHalderはSSの制服をぎこちなく身に纏っていたりして。

David Tennantの一見温厚そうな知識人の佇まい、ちょっと呆けて遠くを眺めて固まってしまう虚無の表情と、同様に時折ロボットのように見せてしまう所作をはじめとして、このキャラクターに応じた変わり身、それに伴う台詞回しの変更をスムーズにこなしていく俳優たちの動きと演技は驚嘆すべきものだと思う反対側で、これと同じように、組織の長やお偉いさんやお得意様が現れた途端に豹変してしまう変な男たちっているし、そういう連中が重用されたりするのも見ているので、あーあそこにいたあれらか? とも思ったり。

Halderは「善き人」であろうとしたのか? というと、ベストセラーになった本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を思いだしたりもするのだが、何/誰にとっての「よい/よき」と言えるのか、のありようが異なるのであの本のと単純に比べてはならない、と思いつつも、それを「よき」と認める「こと」なり「人」なりに向かうときの思慮の浅さというかてきとーさは同じようなものなのかも。そうやって認められた「よき」ひとはそれと同じ軽さと速さで「わるき」ひとを選別しようとするだろう。それが「よき」ひとと認知される要件のひとつであればなおのこと。

そして、文学の教授でもあるHalderは勿論そんな簡単に「よき」ひとになるつもりはない。むしろそんな表面的な「よき」を回避したり鼻で笑ったり嫌悪したり、そうしていくうちに周囲にガスのように充満してくる悪に無感覚になっていくのと、そのすぐ横に見えるなんとなく幸せで楽な生活とか、そこに絡みつく虚栄心とか出世欲とか、これらがダンゴになって誰も抵抗できないままに転がり落ちていく、それを恐ろしい、と見るか、周りがみんなそうだしそれはそれでよいのでは – “Good”. と言ってしまうか。 結果、なにがもたらされたのか、と。

今だと、ここに黙っていても大量に流れてくる情報の量とか質とかそれらの操作とかが入ってくるので、「よき」「わるき」の峻別とか判定はワンクリックの相対的なものにしかならなくて、でも人権も正義もそういうどっち側? っていう線引き綱引きなんかではないのだ、って何万回言ったら….

11.06.2023

[film] Writing with Fire (2021)

10月22日、日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。邦題は『燃えあがる女性記者たち』。

ここのとこ、あちこち行ったり来たりしていて、どこから手を付けたら状態なのだが、とりあえず書けるものから。

インド産のドキュメンタリーフィルムで監督はこれがデビューとなるSushmit GhoshとRintu Thomasの共同。

2001年のサンダンスでAudience AwardやWorld Cinema Documentary部門でSpecial Jury Awardなどを獲り、他の映画祭でもいろいろ受賞している。いまのこんな時代、なぜジャーナリズムとジャーナリストが必要とされるのか、も含めて考えさせられる。必見の内容。

この邦題、これでもよいけど、中心にいる女性記者たちが燃えあがる・燃えている(→炎上)ように見えてしまうのがなんか。それもあるけど、男女関係なく、燃える意思と共に書いて出していくべき何かとは何か、っていうテーマだよね。

最初にインドのカースト – その最下層である”Dalit”について、更にそこに女性として生まれ育つというのはどういうことなのか、が示されて、そこで生まれ育った彼女たちが2002年、保守的なUttar Pradeshの州で立ちあがった新聞社 - Khabar Lahariya - 翻訳すると”News Waves”に入って自分たちで取材して記事を書いて発信していく。 発行はデジタルのみ、FacebookとYouTubeのチャネルはあるけど、それだけ。取材道具は記者たちに支給されたスマホ1台でぜんぶ。そんな彼女たちの2018年から2019年頃の活動を追う。

まず紹介されるのが主任記者のMeeraで、14歳で結婚して(させられて)子を産んで、育児をしながら義理の親と夫の理解があったので大学の修士まで行ってこの仕事に入ったのだが、へろへろなんも考えていないふうの夫は彼女の仕事について早くやめちゃえばいいのに、とか言うのだがMeeraは相手にしない。

もうひとりはSuneetaで、山奥の村人を苦しめるマフィアによる違法採掘を現地で取材して、どんなに威嚇されてもカメラを回して動じないの – このドキュメンタリーのカメラも入っているからだろうか、かっこいい。のだが、その裏で年間50人のジャーナリストが殺されているインドの現実も示されたり。

あとは、新聞社内の教育担当でもあるMeeraが傍らについて教えていく新人のShyamkaliで、それまでスマホなんて触ったことないので、文字入力から何から、何をどうしたらよいのかすらわからない、という。

カメラは違法採掘の件や、レイプされて殺されてろくに捜査もされないDalitの女性、ヒンドゥー至上主義が台頭していく地方選挙、などの取材現場と、Meeraの育児 - 子供は学校の授業についていけなくなっている - とか、結婚しないので親からプレスされるSuneetaとか、肝心なとこでなくなるスマホのバッテリーとか、取材する彼女たちの日々の苦労を追ってあっという間で、その成果はYouTubeの閲覧数 - 10 million viewsなど、で示される。この辺、ところどころ痛快だったりするものの、どちらかというとはらはらして気が気でなかったりする。気をつけて危ない目に会わないで、って祈りつつ拳を握る。

インドの現在とそれを取材する女性たち、の間を行ったり来たりする構成はシンプルでわかりやすいのだが、ドキュメンタリーとしては、この新聞社を誰がどうやって立ちあげたのか、とか、どう(会社として)運営しているのか、これからもだいじょうぶなのか? なども含めて描いてほしかったかも。

最後、覚束なかったShyamkaliが自分で堂々と操作できるようになったり、いったん結婚で退社したSuneetaが戻ってきたり明るい要素はあるものの、全体を覆うこの先(社会が、世界は)どうなっていっちゃうんだろう感は滲んできて、でもMeeraのいう、ジャーナリズムは民主主義の根幹だと信じるから、という一言が全体を救うかんじ。ごくあったり前の一言を彼女が言うことでものすごくパワフルなものになるのだが、翻って足下の自分の国のジャーナリズムの後進・後退ぶりってどうにかならないのか、なんでガザであんな酷いことが行われているのに、べたべたと権力とスポンサーに寄り添って幼稚で恥ずかしい芸能ネタやスポーツネタではしゃいでいられるのか - どうせ誰も見ていないとか、いつまで居直ってゴミを量産しているのか、などを思う。爪の垢を煎じて…  っていうのはこういう時に使う。

11.05.2023

[film] Numéro zéro (1971)

10月21日、土曜日の夕方、日仏学院のJean Eustache映画祭で見ました。 『ナンバー・ゼロ』。

この作品でこの夏から秋にかけて紹介された彼の作品はひと通り見たことになった。のだが、まったく全部見たかんじがしていない(まだ他にもいっぱいあるし)。彼のフィルモグラフィーを全て制覇すれば、とかそういう話ではなく、彼の映画に向かう姿勢のようなものが少しでも見えてしまった以上、彼の映画を「見た」などと軽々しく言えなくなってしまう、それくらい饒舌にべらべらいろんなことを言ってくる(だけの)映画、だった。例えばロメールの映画も登場人物たちはあーだこーだ喋りまくるのだが、それはストーリーを展開させたり彼ら自身を動かしたりするためのもので、でもEustacheの映画におけるお喋りは誰をどこにも動かしたり連れていったりするようには見えない。 彼らは自分(たち)がいまどんなふうで、なぜここにこんなふうにしているのか/あるのか、その足元をひたすら喋ったり示したりしている、ような。その語りのなかには自分のことだけでなく世界まるごとの歴史や経験も含めてぜんぶあって、我々はそれが照らしだすまるごと全てを映画館の暗がりにうずくまって見る。

このお話は、Jean Eustacheが彼の祖母Odette Robertの語る彼女の半生を2台の16mmカメラを据えて切れ目なしに収めている。祖母がウイスキーを飲んでタバコを吸いながらカメラ(というよりEustache)に向かって喋り、向かいあうEustacheが背中を向けてほぼ黙って話を聞いて、フィルムのリールが切れてカチンコで次に繋ぐところも含めて撮って、要は彼女のいる時間が一瞬でも消えていなくなることのないように配慮されている。配慮、というよりそうやって持続・継続して彼女と共にある時間がそもそもの姿なのだと。

これは通常のドキュメンタリー、とも違って、確かにそこにいる女性はOdette Robertという名の実在した人物なのだろうが、彼女の語りが示す出来事や人間関係に具体的かつ客観的な確かさは一切なく、その証拠らしきものも示されない。

Eustacheが幼い頃からあんなふうに何度も聞いてきたであろう(Odetteの)義母の意地悪な話などはただの法螺話であってもおかしくはなくて、例えば - 比べられるものではないが - ワン・ビンの『 鳳鳴 中国の記憶』(2007)の老女の語りが描きだす凄惨さとか、Frederick Wisemanのドキュメンタリーでお仕事や活動について喋りまくる人々のそれとも明らかに違うし。ここで問われているのは語られる内容の確かさとか精度とかそれがもたらす共(生)感、などではなく、それによって明かされる彼女が生きた時間の不思議さ、その共有が導いてくれるかつてあった時代のフランスの田舎の生活の像のようなもので、そうやって現れてくる世界こそがすべての礎ではじまりで、だからそれは「ナンバー・ゼロ」 - 足しあわされていくことすら拒む消失点、のようなものとしてあるの。

こんなふうに示される世界のバリエーションが併映された彼の遺作『アリックスの写真』(1980) で説明される写真の数々で、ここで取り上げられる写真たちも何ひとつ確かな「現実」との接点や連関を持たないまま、でもはっきりとその輪郭を、そこにいた写真家と彼女に撮られた対象とそれを見て聞くもうひとり、というトライアングルのなかで示して揺るがない。フィクションだなんだ以前に世界はまずそうやって現れるのだ、というのと、映画はそこから始まる - その扉をノックするように - ものなのだ、というのと。

ただそうやって囲われる対象がぜーんぜんつまんない(とはどういうこと? というのはある)そこらの人だったりするとうまくいくとも思えず、その点でOdette Robertによる語りの確かさとおもしろさ - 日々戦争のようなサバイバル劇 - は揺るがなくて、すごい人を見つけたもんだな、っていうか、この魔法のような語りの技に幼時から晒されていたことが映画作家Eustacheを作ったのだろうな、くらいは思う。

あと、語り手が女性であること、というのはあるのだろうか? そんなの偶然に決まっているのだが、『ママと娼婦』にしてもこれにしても彼の目線は最初からそこ、と揺るがずに決められていたのではないか、とか。

[film] The Killer (2023)

10月27日、金曜日の晩、新宿シネマートのでっかいとこで見ました。 Netflixでもうじき見れるものだが、本作に関してはなんとしてもシアターじゃないと。

Alexis Nolentによるグラフィックノベルの原作を”Se7en” (1995)のAndrew Kevin Walkerが脚色して、監督はDavid Fincher、音楽にはTrent Reznor & Atticus Ross、Michael FassbenderがThe Smithsを聴いてばかりいる”The Killer”を演じるという、更にはTilda Swintonさまが”The Expert”、として出てくる、と、想像しただけでざわざわ背筋にくるやつ。なんでこれが配信なの?

全部で6パートからできていて、各パートはThe Killer (Michael Fassbender)が相対したり追いかけたり追い詰めたりしていく相手単位に構成されている。登場人物たちは時折名前で呼ばれることもあるが、”The Killer” - “The Client” - “The Lawyer” - “The Brute” - “The Expert”など、誰が誰であっても構わない匿名性が保たれ - “The Killer”本人は数十は保持していそうなパスポートやスマホやナンバープレートを場面ごとに使い捨てていく - そんな強い匿名性を要求する組織名も機構も掟も明確にはされず、そういう中で与えられたミッションを遂行するだけ。うまくいって当たり前、失敗したら.. ?

最初はパリで、ホテルの向かいのオフィスビルの空きスペース - がらんと廃れたWeWorkのそれ、というのがまたどこか象徴的 - で、The Killerはターゲットが現れるのをひたすら待って、その間ヨガやストレッチをし、マクドナルドで食事をとり、雇い主と電話で話し、などをしつつ自分が仕事にむかう姿勢などをくどくど自分のあたまに向かって何度も言い聞かせる - “Stick to your plan” - “Anticipate” - “Do Not Improvise” - “Trust No One” - “Forbid Empathy” - “Empathy is Weakness” などなど。これってあの顔と声で眉間にシワでシリアスに語っているかのようで、実は80年代の村上春樹的になんも言っていない空っぽ野郎なのかも、という疑念が立ちあがり、その主人公が大事な必殺の場面で集中すべくプレイヤーでかけるのがThe Smithsの楽曲群である、と。 べつにけちつけるつもりはないけど、これだけで実はこいつは中身からっぽのただのぼんくら野郎なのではないか… と思い始めたら止まらなくなってくる。と、彼の方は現れたターゲットを狙いに狙ったその本番でやっぱりしくじって「大変なことになった」とか言っているのでなんかおかしい。

こうして重要な依頼の執行に失敗したあと、とりあえず現場からは退避したもののドミニカの隠れ家に行くと彼の恋人が襲われて病院に入っていて、やっぱり現れた組織からの刺客を追って叩き潰すべく襲撃犯を乗せていったタクシー運転手を尋問して殺し、直接の依頼人であり大学の恩師でもあるThe Lawyer (Charles Parnell)をニューオリンズに訪ねるとNine Inch釘3本で情報を聞きだしてから秘書と共に殺し、フロリダの方に向かって実行犯のひとりThe Brute (Sala Baker)とぼかすか殴りあって - なかなかすごい - なんとかやっつけて、続けてもうひとりの実行犯であるThe ExpertをNYのBeaconに訪ねていって殺し、最後にThe Client (Arliss Howard)にまで辿り着いて…

ここまで、冷酷非情に仕事を遂行する殺し屋、というイメージの外枠こそ保たれているものの、彼が語る薄っぺらい言葉と組織やシガラミらしきものとの摩擦や葛藤 - そこから滲んだり溢れたりする肉欲のようななにか - といったDavid Fincherが過去作で描こうとしてきた生々しい生のありようがぼろぼろにほつれて疲れてやけくそになっていくThe Killerと共に崩れていくようで、でもそれはそれ、この半端なお話には嵌っているようにも見えてくるのがおもしろい。

ここ数作のDavid Fincherフィルムのボディを担ってきたTrent Reznor & Atticus Rossの暴力的な音楽/音塊を嘲笑うかのように隙間にThe Smithsがちゃらちゃらと捩じ込まれてくる(ほぼイントロクイズ状態)のは、人によっては悪夢なのかも知れんが、これもまた。

The Expert = Tilda Swintonさまとの対決はもっと時間をかけて煮詰めて燻してほしかったかも。あれじゃ彼女がなんのExpertなのかわかんないわ。

The Smithsの選曲については、やや無難すぎてつまんなかったかも。最後に流れる曲はやはりあれだったし。”I Started Something I Couldn't Finish”とか、”Still Ill”とか、”Cemetry Gates”とか、”Half a Person”とか他にもいっぱいありそうなのに。主人公のありよう的にはMorrisseyの曲の方が合う気もするのだが、そこはやはり違う、ということか。


少し長めのお休みを貰ったので、青森行って京都行って大阪行って奈良行ってきました。ほぼ美術館ばかり。どこ行っても暑くて調子くるった。