11.10.2023

[film] 浮草物語 (1934)

10月28日、土曜日の午後、国立映画アーカイブで見ました。サイレント。 英語題は”A Story of Floating Weeds” - 59年のリメイク版は” Floating Weeds”。

東京国立映画祭のなかの小津特集。いろいろ被りすぎててわけわからず、とりあえず見れるところで見るしかない – って思わせてしまうような映画祭って、さいてー(改めて、何度でも)。小津のシンポジウムだってチケットが別扱いで気が付けば売り切れているし、Kelly Reichardtさんは結局このためだけに来たの? 失礼すぎない? とか。

10月1日にロンドンのBFI IMAXで堂々とした『浮雲』(1959)を見て、これの前に作られた1934年版も見たいと思っていたところ。米国のプレ・コードドラマ”The Barker” (1928) - 『煩悩』がベース(これを受けた原作は小津の変名 - ジェームス・槇による)だそうで、こちらも見たい。

この34年版を見ると、59年版のと思っていた以上に似ていた、というか、59年版は旧版で撮られたものをカラーと音声を使ってより直截的に洗練させたものなのか - 25年かけて。すごいわ。

旅まわり歌舞伎一座の喜八(坂本武)と情婦のおたか(八雲理恵子)が中心にいる一座がある村に興行にやってくると、喜八はおつね(飯田蝶子)がやっている呑み屋に入り浸っておつねの子の信吉(三井弘次)と頻繁に会うようになる。彼らの事情も込みでそれを妬いたおたかが若いおとき(坪内美子)を信吉に仕向けて…  

ストーリーはもうわかっているのだが、いろんな登場人物たちの束と溜まる場所や場面が色別に分かれていて、その奥行きが格子模様の遠近でくっきりしたり滲んだりする59年版の完成度と比べると、やや平坦でリニアな人情噺の方に寄っているようで、でも嫉妬が嫉妬を生んで燃え広がって渦を巻くその熱ややばさが声を介さずに伝わってくる距離の近さ、でいえば34年版もとてもよいかんじ。

キャストもこれ以上のものは想像できない、空前絶後で唯一無二の59年版の中村鴈治郎 - 京マチ子 - 杉村春子 - 川口浩 - 若尾文子 - たちと比べても悪くなくて、特に八雲理恵子のすばらしさにびっくりした。今回の特集で『東京の合唱(コーラス)』(1931)も見たりもして…


風の中の牝鶏 (1948)

10月28日の土曜日の午後、『浮草物語』を見た後にTohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。
間違えて角川シネマ有楽町の方に行ったら誰もいないので少し焦った。

これは2021年1月、コロナでロックダウン中の英国にいた頃、Criterion Channelで見ていた - 英語題は”A Hen in the Wind” – ことを思いだした。

全体としてあまりに酷くて辛くしんどい話で、田中絹代がなにをやっても不憫でかわいそうすぎて、佐野周二がしみじみ憎らしくてうんざりぐったり世界が嫌になったので見た記憶を消したくなったのだと思う。

時子(田中絹代)は幼い坊やを抱えて夫の修一(佐野周二)の復員をずっと待っているのだがずっとお金がなくて着物などを売ってやりくりしていたのだが、坊やが腸カタルにかかって入院してしまい、高額な入院費を払うために近所の怪しい女性経由で売春をやるところを紹介してもらってなんとか工面する。坊やも無事に回復して、夫も戻ってきたところで病気は大変だったろう、お金はいったいどうしたんだ? って聞かれると彼女は嘘をつけなくて泣きだしてしまい…

修一はそこでばかやろう、って泣いて謝る時子をぶんなぐり、彼女の供述にもとづいて月島の宿にまで出かけていってそれが事実だったことを確かめ、戻ってきて時子を階段から突き落として... たぶんこういう話はこの頃にいくらでもあったのだろうな、って。(これ見ると『ゴジラ-1.0』なんてよい人まみれの極楽にしか見えない) 修一、最後は自分も苦しかったんだよう、って言いたげに泣いて謝って抱きあうのだが誰が信じるかよ、って。

何度も正面から不吉に映しだされる階段、同じように気が遠くなるような階段があって近所から見下ろしている巨大なガスタンクとその轟音 – 鳥籠のイメージ、川べりを転がっていく紙風船、不安定でおそろしいイメージの連なりとそこに風が吹いているなか、逃げようのない牝鶏 - 夫の背中にまわされた羽 - の影が結ばれて、おそろしい。このおそろしさを画面におとせてしまうところが小津のこわさなのか。世に言われる失敗作では決してなくて、むしろ逆、これを「失敗作」とすることでなにかに蓋をして見ないようにしたのだとしか思えない。


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