11.30.2020

[film] Born to Be (2019)

22日、日曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。ドキュメンタリー。

NY、マンハッタンの北の方にある病院Mount Sinai Hospitalで2016年に設営されたMount Sinai Center for Transgender Medicine and Surgeryにやってくる患者たちと医師Dr. Jess Tingの奮闘を描く。

NYはトランスジェンダーの手術やケアに保険適用をできるようにした9番目の州で、それに伴いMount Sinaiは専用のセンターを立ちあげて、それまで形成外科の医師だったDr. Jess Tingは新たな領域に挑戦すべくここの最初の専任としてやってきた。

性同一性障害のことは、10月に見た仏のドキュメンタリー”Petite Fille” (2020) – 英語題”Little Girl” で7歳の少女(と家族)の生々しく痛ましい苦悶の記録を見たし、自身の生まれてきた性をもう一方のに替えるというのが本人はもちろん周囲の家族も含めてどれくらい大変なことか、それなりに理解しているつもりだった。でも、このドキュメンタリーで実際に5人のケースを見てみると、まだ自分はぜんぜんわかっていなかったかも、と改めて思った。

年齢も性別も境遇もそれぞれ異なる患者の人達に共通しているのは、とにかくこの手術をずっと切望していた、自分が生まれてからここに来るまでにどれだけ理不尽に悩み苦しめられ自殺を考え(実行し)、闇と絶望の生きていない状態の中にあったか、それをいよいよ終わらせることができる、どんなにこの日を待ったことか(ああ神さま)、と誰もが強く語り、施術前に家族やパートナーとお祈りの涙を流し、終わるとそれが歓喜の涙に変わる。その様子 – 人が医学の力で生き返る、再生する(Born to Be)その様を目の前で見るって - 難病とか重大事故のは別として – そんなにあることではないかも。

それを可能にするDr. Jess Tingがなんかよい人で、超絶技巧をもつカリスマ医師、みたいな雰囲気はぜんぜんない、朴訥なおじさんふうで、本当はジュリアード音楽院からコントラバス奏者になるつもりだったところから転向したというキャリアも含めて、患者や医療チームとのやりとりがとても素敵で。

でもそんな彼の治療と施術を求めて今は2年超えの待ち行列ができていて、スタッフの数も倍に増やしているのだが追いつかないって。ここだけの現象かも知れないけど、これだけの人々が待っている = 苦しんでいる、という事実は知っておいた方がよい。見た目の外見では決して判断されないが故の苦しみ、を想い測るのは難しい。本人や家族や社会の努力でどうにかできる部分もあるが、やはりそれだけではぜんぜん足らないのだと。

ここに登場する5人の患者は境遇もいろいろで、50歳を超えるアフリカン・アメリカンの男性→女性になるCashmereさんは街角に立つSex Workerだった過去を振り返りつつみんな死んでしまった.. と言うし、同様に男性のトップモデルだったMahoganyさんは女性になることを決意した途端にすべてのキャリアと収入を失ってしまった、と言うし、暖かい家族に支援されて転換後に白人女性のモデルとして活躍を始めたGarnetさんは、女性になった途端に思いもしなかった方角から覆い被さってきた社会のいろんな壁や圧に耐えられなくなって自殺未遂を図ってしまうし、トランスジェンダーに関しては過去の陰惨な歴史も含めて継続的な議論と確認と救済が必要で、それは彼らというより我々 – 健常者と呼ばれる – の側のことなのだ、って。少なくともトランスもゲイも見えないもの(or お笑い見世物)としてごまかして存在しないものにしてしまうような社会にするのは止めないと。(→J. K. Rowling、ほんとがっかりだわ)

あと、Dr. Jess Tingがずっと取り組んでいるvaginoplastiesやphalloplastiesについて(まずは辞書をひいてね)も紹介されて、言葉では説明されるのだがここの映像には出てこないので想像するしかない。でも患者みんながわーお! とか言ってびっくりして笑ったりしているのでどんななのかなあ、って。

で、そういうのも含めて勇敢に戦っている彼らを見るのって悪くないの。

あと、こんなふうに性別の属性を変える重さ大変さと比べたら結婚後の姓を変えずにそのままにしておくことなんて、屁でもないだろうに。ここに拘る連中の不気味さ(拠って立つところの不明瞭な気持ち悪さ)ってほんとなんなのかしら?


11月があー。 もうなにもかもどうしようもないけど、一応いっておく。

[film] 山中傳奇 (1979)

21日、土曜日の昼、米国のMUBIで見ました。192分。英語題は”Legend of the Mountain”。
“A Touch of Zen” (1971) - 『俠女』のKing Hu(胡金銓)が台湾で撮った作品。

11世紀、宋の時代。学僧のHo (Shih Chun)は科挙に落ちてお金もなくなったので、不思議な力を持つとされる経典の写経の依頼を受けることにして、それを仕上げる場所として山奥にある軍人のMr. Tsui (Tung Lam)のお城を訪ねる。着くなり宴席でもてなされてMr. Tsuiはお付きの家政婦としてMadam Chuang (Shu Tien)とその娘だというCloud (Sylvia Chang)を紹介されて、酔っ払って落ちて翌朝目が覚めるとCloudが側にいて、昨晩あなたはわたしにあんなことをした上に結婚すると誓ったではないか、とかいうのであんま覚えがないけど結婚することにする。

そのうちどこから怪しげなラマ僧 (Ming-Tsai Wu)が現れると突然Cloudとどんどこ太鼓合戦を仕掛けてきてラマ僧は退散して、なんだろうなと思っていると今度はMelody (Hsu Feng)という別の娘が現れてHoを守りますとか言って、Cloudと戦いを繰り広げて、そこに再びラマ僧も加わって天地が裂けんばかりのやかましいバトルが。彼らはHoが持ってきて写経をしているお経を巡って戦っているらしい。

かつての戦国時代の抗争で殺されて悪霊になった者たちが不思議の経典のパワーを求めて争奪戦をする、というお話で、進んでいくうちに善玉悪玉が変幻自在にころころひっくり返るのでおもしろいのだが、Hoが居眠りしたり酔っ払ったりしないで真面目にとっとと写経していればあそこまでの大騒ぎにはならなかったのに、って鈍い主人公にちょっといらいらした。彼を最初に殺しちゃえばそれで済んでしまったのではないか、とか。 その反対側で悪霊になってしまった人たちの因果というのは、ちょっとかわいそうで、彼らはあの後どこに行ったのだろうね。

派手なカンフーの組み手はあまりなくて、メインの戦いがどんどこ太鼓合戦なのは面白くて、その勝ち負けを決めるのはアタックなのかピッチなのか手数なのか音量なのか、風神雷神の対決みたいなやつなのかしら、とか。

なんだか『聊斎志異』に出てくる話のようだった。


空山靈雨 (1979)

22日、日曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。英語題は”Raining in the Mountain”。120分。
これもKing Huの、↑と同様1979年に撮っているMountainもので、演じる俳優さんも結構重なっている。撮ったのはこちらの方が先みたい。タイトルに”Raining”ってあるけど、雨が降るシーンはないの。

明の時代の中国、お金持ちのWen (Sun Yueh)とその妻White Fox (Hsu Feng) とGold Lock (Ming-Tsai Wu) の変なトリオが山奥にあるでっかい僧院を訪ねて、院に着くなりWhite FoxとGold Lockのふたりは服を着替えて寺の宝物殿にあるお経を盗もうとしていて、寺の僧のなかにはそれを手引きする奴がいて、今度は別の男二人組が現れて、あれは盗賊として名高いWhite Foxだ、と騒ぐのだが、どうやら彼らも同じお経を盗もうとしているらしい。

それと並行して、高齢のため引退する僧院の大僧正の後継を誰にするのかを3人の候補の中から選んでいく話しに、盗人(でも無実の罪)としてそこに連れてこられた実直で誠実なChiu Ming (Lin Tung)の目覚めと成長の話しが進んでいく。 つまりは絶対権力の座とその鍵となる法典を狙うものたちの腹黒だったり高潔だったりする駆け引きと、継承後の僧院の運営みたいなところまで、それらを通して、人の、法の道とは、というのを仏教的に説いているみたいなかんじ。「雨」はこれらが等しく降り注ぐイメージかしら?

話しとしては人物がいろいろ絡み合って乱高下するし、説話ぽいところもあって↑の『山中傳奇』よりはおもしろいく現代に通じるところもあると思うのだが、アクションは最後の追っかけっこで少し出てくるくらい。 この世の者ではない連中がひたすら人の世に干渉してくる『山中傳奇』に対して、この『空山靈雨』はどこまでもリアルに下界の話しで、その対照を狙った、ということはあるのだろうか。

あと、ただのコピー(写経)を巡ってあれだけの人々が大騒ぎしたその中味についてはどちらもまったく触れられていない。どんなありがたいことが書かれていたのか誰かまとめサイトで公開(→ 大喜利 → 天罰)してほしい。

11.29.2020

[film] Le rayon vert (1986)

19日、木曜日の晩、MUBIで見ました。

インターナショナルの英語題は”The Green Ray”、USAのタイトルは”Summer” - 「四季の物語」のラインではない - 邦題は『緑の光線』。86年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子を受賞している。
なんとなく見始めて続いていたÉric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの5つめで、ここに感想を書くのはこれがラスト。

日本の女性誌とかでは『海辺のポーリーヌ』とこれが対で紹介されることが多かった気がして、これって夏でヴァケーションの海辺で恋を探す - そうしながら自分はこれでいいのかとか自問する映画、という枠なのだろうか。でもそれなら男子にだって起こることだし、なんでいっつも女性の特性みたいに - 特に「OLの〜」 とか - 描かれてしまうのか、というのは割と思った。

今回の箴言はランボーの"Ah! que le temps vienne où les cœurs s'éprennent" - 「ああ心が恋に落ちるときがきた」。恋に落ちるのは身体ではなく心である、と。御意。

7月の終わりから8月の初めの数日間。夏休みに入る手前のパリで働くDelphine (Marie Rivière)は一緒に休暇を過ごす予定だったBFと別れたばかりで、ひとりでどこかに行くのもひとりでパリに残るのも嫌なのでどうしようって、友人のグループに入って会話してみたり、ひとりでアルプスに旅してはすぐ戻ったり、子連れの姉家族からは一緒にアイルランドに行こう、と誘われるのだがどれも違う気がする。行った先で調達すればいいじゃん、とも思うが自分はそういうタイプではないの、って街角で『ブヴァールとペキュシェ』を読んだりしながら泣いたり泣きそうになったり。

でも思い切って出かけた浜辺でスウェーデンから来たという女性と少し仲良くなり、カフェで奔放な彼女が声をかけた男ふたりと同席しても、ごく普通の会話についていけない - ついていきたくない - ついていけないのではなくついていきたくないのだ、とか思っていることが嫌になって、嫌になった自分を彼らの目前に晒しているのに我慢できなくなってそこを抜けだして道端に座り込んで泣いていると、そこにいた老人たちがジュール・ヴェルヌの小説『緑の光線』の話をしているのを聞いて、これだわ! って少しときめいたりする。Delphineって、道端に落ちているカードを見入ってしまったり、きっと雑誌の星占いにも一喜一憂するタイプなのではないか。

で、恋なんてぜんぶ諦めて帰りの駅の待合室で知り合った男とぽつぽつ話していると、こいつはあまり嫌なかんじがしないな、とか思い、もうじき日が沈むことに気づいたので、緑の光線だ! って海が見えるところにふたりで走っていくと..   

友人のアドバイスとかには一切耳を貸さず、自分ひとりで決めて実行して、人が触ってくる度に妄想を爆走させてその少し先で勝手に自爆して泣いて、人から聞いた言い伝えみたいなのを目撃したらご機嫌が治って..  見る人が見たらご苦労様の図かもしれないが、見る人が見たら他人事とは思えない。 こういう感覚を引き起こすのは他の喜劇と箴言シリーズの5つと比べるとこの作品だけで、複数の登場人物間の出来事を描くというよりも主人公Delphineの一人語りが前につんのめっていく、それによる彼女の状態の遷移を追う。 (他の5作の脚本はÉric Rohmer単独だが、この作品だけはMarie Rivièreとの共同で、即興が多いと)

この作品のDelphine - 沈む夕日を指差して隣の人の手を取って感激して泣いてる - を見て「恋をする勇気を貰えた」とか言っているひとは相当あれだと思うけど、こういう印象を与えてしまうのはそういう強い語りの構成になっているからで、16mmでの撮影も、素人っぽく被さる暗いJean-Louis Valéroの弦楽も、ひたすらプライベートな映画のように機能して、その機能の仕方が全体として喜劇っぽい、ということなのかしら。

最後に緑の光線が見えるところ、初めて劇場で見たときはあれ? いまのがそれ? くらいのかんじだったのだが、今回のはやたらくっきり「緑」していた気がする。これは自分が歳をとったことに関係あったりするのか? (しねーよ。ただのデジタル化だよ)


昨日からTVで”Last Christmas” (2019)のリピートが始まって、今回は結末がわかっているとは言え、会いたい人に会えなくなっている今の状態で見るとなかなかくるものがあった。

それから、クリスマスチャンネルを中心に”Love Actually” (2003)の垂れ流しは始まっていて、今シーズンすでに5回くらい見てて、画面を見て3秒でそれがどこの場面か言えるくらいになっている。 コロナ禍でもっとも推奨されるであろう愛の告白の仕方、もでてくるの。

11.28.2020

[film] Colectiv (2019)

21日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。

Dogwoofが配給するルーマニアを舞台にしたドキュメンタリー。欧米ほぼ同時公開のようで、そのままポリティカルスリラーになりそうな戦慄の事実がずらずら。いま必見のやつ。 英語題は”Collective”。

2015年10月、ブカレストのライブハウス”Collective”でメタルコアバンド - Goodbye to Gravity(洒落にならん)の演奏が終わったところで天井から火が出ていることが確認されて、バンドがこれは演出ではないぞ、と言った途端、あっという間に燃え広がって逃げまわる観客で大パニックに – このぐしゃぐしゃ地獄の映像も流れて、ものすごく怖いのだが、この後に続く恐怖に比べればー。

27名がその晩に亡くなり、37人が病院に運ばれた後の1ヶ月間で亡くなった。なぜ病院に入って1ヶ月後に? 病院側は受け入れ態勢も医療システムも万全で近隣のドイツ等に支援を求める必要はなし、と表明していたのになんで? ここに疑念をもったスポーツ紙の記者Catalin Tolontanとそのチームが探っていくと、製薬会社から病院に提供されている消毒薬が10%くらい希釈されていることがわかって、これが感染症を引き起こしたのではないか? と報道を連打するのだが、当然バックラッシュ - 病院を脅かして国民を不安に陥れたいのか – とか来るし、閣僚からはラボでの検査結果は問題なかったよ、とか言われてしまう。

ここまでで開始30分くらいなのでこの先どうするんだろ、と思っていると製薬会社から検査ラボや病院側にも金が流れていることが明らかにされて大騒ぎになって、保険庁のトップは辞任して暫定の人に変えられて、この暫定の若いトップが被害者側に立つ結構よい人で調査と改革に乗り出してくれるかな、という辺りで、焦点だった製薬会社のオーナーが突然自動車事故(自殺か他殺か)で亡くなり、取材陣にも脅迫が来たり、いろいろきな臭くなってくる。

この状況に追い打ちをかけるように病院側関係者の方から衝撃映像 - ベッドに横たわる患者の傷口に蛆虫 (?!) – が出てきて、これは相当深刻なのではないか、と更に大きな騒ぎになって..

ライブハウスの火災事故が政権を揺るがしつつ(そう簡単には揺るがないのだが)次々に燃え広がっていく様を生々しく描いて、そのどれも腐りきった事実(+どう見ても悪人顔の病院関係者)がすごいというかひどい。のだが、映画はこの事実そのものをわんわん暴きたてるのではなく、それを闇の向こうから引っ張りだしてくるために頭を抱えたりしながら地道に踏んばるジャーナリスト達、暫定で据えられた保険庁のトップの人、事故後の治療で指の殆どを失い肌を損傷した女性、などにフォーカスしてそれぞれの終わらない事後を追っていく。彼らが直接カメラに向かって語りかける場面はなく(F. Wiseman方式)、車の中や記者会見の場やPCの前で唸ったり沈黙したりする箇所がいっぱい出てくる。結果、あまり喋らない記者のCatalin Tolontanさんを中心とした刑事ドラマを見ているようなかんじになる。

恐らくチャウシェスク政権の頃から引き摺ってきた腐敗とか膿が芋づるで出てきた、というのは簡単だけど、そうやって長いこと固められてきた嘘の連鎖の中に食いこむのは容易ではないだろうな、っていうのと、そうやって暴いたとしても長年その仕組みの中でやってきた人々の意識も含めて変えていくのはもっと難しいよね、っていうのと。前者はジャーナリズムの、後者は政治(選挙)のやることとしてそれなりの普遍性と説得力をもって迫ってくる。というのと、最後に映し出される犠牲者たち - 遺族も含めた – の姿と、彼らを含めたCollectiveが必要なのだと。はっきりと言わないけどそういうことを言おうとしているのだと思った。

あと、その反対側に悪のCollectiveっていうのも当然あって、病院、製薬、保険界隈で絡みあうのが一番厄介で恐ろしい。 こんなふうに見えない病院の奥で人が殺されて消えてしまうから。にっぽんでよくある利権、てやつね。

ジャーナリズムにも政治家にも期待できないししないし、ていうのは簡単だしほぼそうなのかも知れないけど、犠牲者たちに寄り添うことはできるし、我々はもう既に十分犠牲者にされてしまっているのかもしれない、という地点からジャーナリズムはどうあるべきものなのか、って改めて考えてみるよい題材かも。

11.27.2020

[film] Wojnarowicz (2020)

16日、月曜日の晩、DOC NYCで見ました。

オリジナルタイトルは”Wojnarowicz: F--k You F-ggot F—ker” (2020)で、4月のTribeca Film Festivalで上映される予定だったが延期されて、ここでの上映がワールドプレミアとなった。

1992年に37歳で亡くなったアーティスト、アクティビスト、思索家 - David Wojnarowiczの評伝ドキュメンタリー。活動が多岐に渡って、同時代のKeith HaringやJean-Michel BasquiatやRobert Mapplethorpeのような解り易い軸がなかったせいか余り知られてこなかったが、この映画の最後にも出てくる2018年のWhitneyでの回顧展 – “David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night”で彼がやってきたことが現代とのリンクも含めて再発見された。彼が遺した絵画、日記、メモ、フィルム、オブジェ、留守電のメッセージまで収集できる限りの「作品」を彼の作品さながらにMixしてコラージュして、彼の痛みと怒り、彼はそれらを抱えてどう戦っていったのかを描く。

NJのDVまみれの壊れた家庭で育ち、母は子供達を連れてNYのヘルズキッチンに移って、でも家には寄り付かずにストリートで(おそらく)男娼のようなことをしながら落書きや絵を描き始めて、ストリートアートやアンダーグラウンドの盛りあがりと共に立ちあがりつつあったNYダウンタウンのギャラリー界隈で注目されるようになって、それをうまく使ったり使われたりしながら、注目されるようになっていく。

他方で当時の画壇の投機的な先物買いのやらしい動きも察知していて、打ち棄てられていた西の埠頭で大規模な展示を組織したり、ホモフォビアな落書き(この映画の副題)をそのまま作品にしたり、どこまでもマイナーでアングラで卑猥で猥雑であろうと – それを理知的かつ詩的に展開して周囲を驚かせたり、留まることを知らない変幻自在・神出鬼没のクィアであろうとした。

当時のアーティスト - Kiki SmithやNan GoldinやRichard Kernとの交流の他、特に写真家のPeter Hujarとの出会いは大きかった。 彼については2018年にThe Morgan Library & Museumで“Peter Hujar: Speed of Life“という回顧展があって、自分はその翌年、パリのJeu de Paumeに来た同展示を見た。Susan SontagやFran Lebowitzのポートレート写真は彼のがベストだと思う。 尚、Fran Lebowitzさんはこの映画でもコメンテイターとして出てきてPeterとDavidの関係について語っている。Morganのサイトには展示の際に行われたイベント“An Evening with Fran Lebowitz: On Peter Hujar“のトークの動画があるので見てほしい。Peterの運転手をしていたというFran Lebowitzさんが語る70年代のNY、Peterと一緒にTennessee WilliamsやDolly Partonと会った話、NYの名画座のこと、この映画にも出てくるPeterのお葬式のこと、等々おもしろいの。

やがて87年、父のように慕っていたPeterがAIDSで闘病の末亡くなると、彼は矛先を明確にAIDS治療や対策に乗りださなかった当時のレーガン政権やFDAの方に向け、自身のアートやメッセージ、行動をそちらの方に振り向けていく。のだが、そのうち彼自身がAIDSであることが判明して..

“History keeps me awake at night” – という夜の彷徨いが彼の活動の発火点であり、”Awake“という状態がもたらす災厄との戦いの記録だった気がするのと、彼が今ここで注目されているのはレーガンの直系であるトランプに対するLGBTQからの、マイノリティからの改めて(何百回でも続く)のカウンターでありナイフ投げなのだと思う。そうすると当時のAIDSに対する無策といまのCovid-19に対する無策が、(時代は少し後ろだけど)ロサンゼルス暴動とBLMが対照して見えてならない。
夜くらいは安心して眠りたい。でも”Silence = Death”なのだ、と。

ていうののB面としては、改めて当時 - 70年代末~80年代初のNYのダウンタウンシーンの層の厚さを。この映画の音楽は彼が初期にメンバーだった3 Teens Kill 4のが使われているのだが、つんのめって痙攣していんちきくさくて、「正統」ぽい何かからどこまでも遠ざかろうとする、遠ざかった果てに崖から落ちたってしるもんか、の無謀さと適当さで突っ走って飄々としている。そういうかっこよさ。

こないだ出たOlivia Laingさんの本 - ”Funny Weather - Art in an Emergency”の表紙には彼の”Untitled (Face in Dirt)” (1992-93)が使われていて、2016年に書かれたDavid Wojnarowicz論が収録されている。簡潔にまとめられた論考なので読んでみて。


政府から来週の、ロックダウン明け以降の計画が提示されて、地域別でやかましい校則みたいな匂いがして、あんま守られないかんじたっぷりなのだが、そこまでしてクリスマスをやりたいのか、ってその熱にちょっと感動した。でも自治体が出す計画ってふつうこういうもんよね。

わたしの半分くらいはアメリカの方を向いて考えたり動いたりしているので、サンクスギビングに入るとお休みモードになる。のでほぼ仕事しなかった。かまうもんか。

11.26.2020

[film] Swallow (2019)

20日、金曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。日本でももうじき公開される? 
エグゼクティブ・プロデューサーにJoe Wrightの名前がある。

監督/原作のCarlo Mirabella-Davisにとってはこれが最初の長編となる。ジャンルとしてはホラーになるのかも知れないが、ものすごく面白くて痛快で、ところどころ笑えたりもする。

どこかの都市の郊外の川に面した見晴らしのよいでっかいモダンな邸宅にHunter (Haley Bennett)とRichie (Austin Stowell)の新婚夫婦が暮らしていて、Richieは父から会社の経営を引き継いで、やがては財産も貰えるはずで、さらにHunterは妊娠していることもわかったところで、総合的に俯瞰的に見たところでは誰もが羨むとっても幸せな夫婦であり家庭であるはず。

はずなのだが、夫が会社に出かけてからのHunterはなんかもやもやと不満を抱えてつまんなそうで、自分でもどこがどうしてそうなっているのかを表に出すことはできなくて、携帯のゲームなんかを退屈そうにしていて、でもある日リビングに飾ってある置物をじーっと見つめると、そのうちのビー玉みたいのをえいって飲みこんでしまう。飲みこんで1日くらい経つとそれは体外に出てくるので、それを拾って洗って元のところに戻して落ち着く。そうすると今度は尖ったピンがついた画鋲のでっかいのを少し苦労して飲みこんでみようとして、吐きそうになりながらも飲み込むことができたので嬉しそうで、ただこれが出てきたときは当然流血して、でもやはり満たされる何かはあるらしい。

それと並行して申し分のないご家庭 – 少なくともRichieは幸せそう – に見えたふたりの間には、Hunterからすれば目に見えないいろんな圧や縛りにまみれているらしいことがわかってくる。この辺の描き方が絶妙で、DVがあるわけではないのだが、妻としてこれくらいはやっていて当然、こういうことは喜んで受けとめて当然、この状態で不満申すなんてもってのほか、って周囲から透明な壁を築かれて壊すことも越えることもできない。それらを全て集約した出来事としてやってきたのが妊娠で、自分の身体に起こっていることなのに自分ではどうすることもできない。自由がほしい、とまでは言わないが、自分の身体くらい自分でコントロールできるようになりたい。

自分の外にある何かとの間でそれを可能にするのがSwallow(のみこみ)という行為で、過食や拒食、自傷なんかは周囲に心配かけてしまうし他人になんか突っかかるのはやばいけど、これなら気付かれることもないし、消化されずに自分の体を通過してきたオブジェはちゃんと手元に戻ってきてくれる(愛おしい)。ここまでだったら、John Waters先生あたりが作りそうなホームコメディになりそうな。

だがそのうち妊婦の定期健診でスキャンをしたら赤ん坊の横になんかあるけど..  ってなって慌てて開腹したらとんでもないのがでるわでるわで、家族(除. Hunter)は驚愕して頭を抱えて、とにかく彼女には使用人(♂)をつけて飲みこめそうなものを全て片付けて24時間行動を監視させて、セラピストもつける。家族(除. Hunter)にとっては、生まれてくる赤子を人質に取られているようなものなのでとにかく必死で、そんななかHunterはセラピストに自分の出生について打ち明けて..

彼女の挙動は医学的にはPica – 異食症 – と呼ばれる症状なのだが、その角度からの言及はしない。閉塞された状況に置かれた主婦が徐々に飲みこみモンスターに変貌していく、というホラー、というよりは彼女をそこに追いこんでいったRichieとその父母、それを朗らかに取り囲むソサエティのありようの方がよっぽど怖いわ、っていうのを前面にもってきて、最後に描かれるエピソードでは更にその先に踏みこんで男性が支配する社会にダイレクトに切りこもうとする。

昨年のTribeca Film FestivalでBest Actressを受賞したHunter役Haley Bennettさんのつーんとしたつまんなそうな顔(日本だとモトーラ世理奈さんかしら)が素敵で、その顔が彼女の暮らす邸宅のインテリアのプラスティックなかんじによくはまる。 あんなところにいたら小物とか土とか飲み込みたくなるのもなんとなく。


少しづつ見ているSeason 4の”The Crown”はEpisode 8まできた。おもしろいので毎日Recapを書きたいくらいなのだが、EP8で、当時の自分がいかにサッチャーを嫌っていたのか、その理由も含めてありありと思い出した。 とにかく「国を強くする」っていう考え方が嫌だったんだわ。いまも。

11.25.2020

[film] In My Own Time: A Portrait of Karen Dalton (2020)

15日、土曜日の午後にDOC NYCで見ました。ここでワールドプレミアされたもの。
エクゼクティブ・プロデューサーはWim Wenders。

1993年に55歳で亡くなったアメリカのSSW, Karen Daltonの評伝ドキュメンタリー。Nick Cave氏がコメントで出てきて、彼女の歌詞やメモを朗読するのはAngel Olsenさん。

テキサスに生まれてオクラホマに育ち、15歳で最初の子供ができて離婚して17歳で次の子供ができて離婚して、21歳くらいでNYに出てきてGreenwich Villageのフォークシーンでミューズとなり、Bob DylanやTim Hardinと交流して、Dylanからは"My favorite singer...was Karen Dalton. Karen had a voice like Billie Holiday and played guitar like Jimmy Reed”と讃えられて、69年と71年にアルバムをリリースするが、大きくブレークするところまでは行かず、いろいろ抱えたまま田舎に引っ込んでしまう。

当時のいろんな問題 – 成功や家族や健康やドラッグのこと - があってなにをやってもうまく運ばなかったNYから去って以降は暗いことの連続なのだが、いろんなアーカイブに残された映像やライブも含めたレコーディング - 深くて強いその声、12弦のギターが音を散らせば散らすほど、石のように籠って古いラジオの奥から鳴っているような、痛みで固化した吐息の痼りとかカサブタが鳴っているようなその声。 最初の一声から囚われて抜けられない夢 – 抜けたくない夢のように残る、その歌声と歌う姿を確認できるだけでも十分見る価値はある。100年くらい前の人 - でもぜったいそこにいた人 - を見ているかんじ。

わたしが彼女を知ったのは2006年に再リリースされた2ndの”In My Own Time”から – 当時Other Musicが大プッシュしていた - で、おそらく当時の – 第二次ブッシュ政権の澱んだ出口なしの空気にうまくはまっていたのではないかと思うのだが、そんなことはどうでもいいくらいに彼女のフォークというよりブルーズのように地面を這いながら留まって強引に”My Own Time”を積みあげてしまうその声の肌理は、いまも、いつでも必要とされている。

映画では彼女の残した手書きのメモや歌詞もいっぱい出てくるのだが、2018年(?だったか)の火事でそれらの資料はほぼ焼失してしまったと.. 


Billie (2019)

これも15日、土曜日の晩、CurzonのHome Cinemaで見ました。
1959年に44歳で亡くなったBillie Holidayの評伝ドキュメンタリー。Karen Daltonのを見た後には丁度よいかも、と思って。

2005年に出た彼女の評伝本” With Billie” (by Julia Blackburn)でも参照されていたジャーナリスト - Linda Lipnack Kuehlが79年に亡くなる(自殺とされている)直前迄録りためていたBillieの周りにいた関係者 - Count BasieとかCharles Mingusとか - への膨大な量のインタビューの録音テープを元に彼女の人生を再構成していく。録音された音楽や映画以外だと、関係者の語りくらいしか彼女の生が現れる場所はないのだろうな、というくらいに虐待、搾取、嫌がらせ、ドラッグ、セックス、金、ギャング、などなどが入り乱れる暗黒の芸能界のオンパレードで、でもだからといって彼女の声や歌がああなっていったのはそのせい、とするのも彼女が聖人だったから、とするのも短絡で、映画もその辺は配慮している。いろんな人の声が聞こえてきても、彼女の歌が始まると全てが沈黙して静止してしまう不思議。

プロデューサーJohn Hammondとの出会いが彼女をスターにしたことは確かだが、”Strange Fruit”のあの特異な世界 – 歌声がひとつの恐ろしい世界を、そこに潜む痛みや哀しみをむき出しにしてしまう – なんであんなことが彼女にできてしまったのかは謎で、でもあの声が伝えようとした世界は今も残っていて、そこに謎はない(なんで止まないで続いているのか、というのはあるね)。どれだけの死者の声を彼女は抱きしめてかの地に運んだのだろうか。

映画では元となったインタビューを録ったKuehlの死にも不審なところがあるとして問題を投げかけている(インタビューで語られた内容に知られたらやばい何かがあったのか、とか)。けど、こちらは軽く触れる程度で、Billie Holidayの生涯と音楽を紹介することに徹していて、よいの。

Karen Daltonの声は彼岸で鳴っているように聞こえるのだが、Bille Holidayの声はいつも耳元で鳴っているように聞こえる。それって痛みを近くに感じるか遠くに感じるかの違いだけで、どこかを怪我したり流血したりしていることは確かで、とにかくそれで自分はまだ死んでいないことがわかる。


夕方ピカデリーの方に行ってみたら、裏道みたいなとこでみんなわいわい立って飲んで楽しんでた。そんなもんよね。