3日、月曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。あの邦題じゃだめよねー。
Fox Newsのトップ - Roger Ailes (John Lithgow)によるセクハラ・スキャンダルの顛末を追った実録ドラマ。
2016年大統領選の共和党ディベートでの女性アンカーMegyn Kelly (Charlize Theron) の振る舞いに上からケチがついて、その辺から亀裂が入ってそこからヒビが広がり、同じ頃にベテラン番組ホストのGretchen Carlson (Nicole Kidman)からも同様の狼煙があがり、そこに上に行きたいと切望する若いアナウンサーKayla Pospisil (Margot Robbie)のエピソードが絡まり、いろんなぐだぐだと共にあんまり楽しくないドラマが展開していく。それがいかにものアメリカンメジャーな右派メディアの中枢で起こった、というところも含めてあーあ、なの。
仕事はしたいし自分の野望もある、けどそれを進めていく途上、上には強大で絶対的な権力があって、そいつの言うことを聞いたり従ったりしないとこの先なにもできなくなる、それは会社社会だと割とどこでもあったりすることだと思うのだが、そこで求められるのが自分にとって嫌なことだったり明らかに犯罪だったりしたときにどうするか - ①それでも飲みこんで上とか自分のやりたいことをめざす、②できるだけ関わらないようにして適当にやりすごす、③ふざけんじゃねえ、って告発する、などなどのやり方があって、この映画でもそれぞれの選択をする(というほど明確ではないけど)女性たちとそのアンサンブルが描かれていて、そこでの彼女たちの強さと連帯(というほどのものではないけど)が#MeTooの盛りあがりがあろうがなかろうが示されてよかったねえ、ていう辺りがこの映画の中心なのだと思う。
ドラマとしてはそれでいいし、実際にあったことだし、それに特に文句をつけてどう、というものでもないのかな。で、見る人は見てCharlize TheronとNicole Kidman、最強だよねって思うし実際そうだし、でもその反対側で、見たくない人はぜったい見ないかんじ(それかSNSに出てくる「自業自得」とかいう訳わかんないコメント吐くだけ)のトーンに出来あがってしまっているのがちょっとだけ。そのうちHarvey Weinsteinのもできるかもしれないけど、それも同じかんじになるよね。 ほんとうはあいつらと同レベルの、会社組織にうじゃうじゃいる腐れた豚野郎どもの目ん玉ひんむいても見せてやれって思うし、更にいうといまの職場環境にいちばん多くいそうな(この映画の)Kate McKinnonみたいな女性たちにも見てほしいし、いろいろ考えてしまった。 映画から少し離れてそんなことばかり思ったりするのはよいことなのかどうなのか。
これっていろいろ絡まった「スキャンダル」として表に出たから見る/見ない、ではなくて、いまどこの職場にもあるハラスメントとかしょうもない圧をどうするのか、っていうことで、この映画ではBombshellの爆風が吹きとばしたわけだが、そんなのそうあるもんでもないし、結局のところ潜在ハラスメント社会/会社(特ににっぽんの)にとってはべつに痛くも痒くもないやつになってしまっていないかしら?
それならいっそのこと、金属バットとかとんかちでぼこぼこに潰していく ↑ みたいなやつのほうがまだ …
2.14.2020
2.13.2020
[art] Madrid
1月23日に日帰りでマドリッドに行っていろいろ見てきたやつのうち、主なところを簡単に。
Goya. Drawings. "Only my Strength of Will Remains"
ゴヤのドローイングを約300点、プラド美術館にあるやつだけでなく世界中から集めた展示で、落書きみたいなのから白黒と線だけでひとつの宇宙とか世界を表してしまっているのまで、よくここまで集めたね、というよりやはりよく描いたもんだわゴヤ、としか言いようがない。
この美術館に来ると、いろんなゴヤを3フロアそれぞれで見ることができて、地上階でだれもが知っているド古典の名作たちを見て、その上の階で宮廷画家としての職人技を堪能することができて、その上の階には子供とか動物とかを描くリラックスしたB面というか - でも猫の喧嘩の絵とか大好き - があってとにかくこの美術館でゴヤという画家の深さ恐ろしさを十分に知って好きになって、このドローイング展は、デモやアウトテイク集成、なのかもしれないが、であるからこそゴヤという画家の性格 – 線を引いて塗りつぶしていっぱい描きながら意志の力のみで固めていくような - がまっすぐでていて、これらの流れのなかに彼の画家としてのありようが凝縮されている気がした。
ポートレートはふつうに上手くておもしろいのだが、風俗とか化け物とか死体とかのタッチ、というか思い切りとそれが表出してしまう様がすばらしいの。 そこに北斎のような画狂人の姿を見ることもできるし、わたしは水木しげるかも、とか思った。対象を穴のあくほど見つめて正確に緻密に描こうとするその果てに滲んでしまう歪みとか狂気とか。
A Tale of Two Women Painters: Sofonisba Anguissola and Lavinia Fontana
ルネサンス期のふたりのイタリア人女性画家 - Sofonisba Anguissola (1532 –1625)とLavinia Fontana (1552-1614)の作品を集めた展示で、ほぼ同じ時代に生きたふたりの女性の間に直接の交流はあったのかなかったのか、どちらにしても”A Tale of Two Women Painters”と括らなくたって並べられた作品は瑞々しくて華やかでずっと見ていたくなる。衣装の肌理とか透明なひだひだの緻密さはすばらしいし、こちらを向いた微妙な表情の歪みとかはどこから来るものなのかしら、とか。Sofonisba Anguissolaさんはミケランジェロとかにも会っているんだねえ。すごいなー。
こんなふうにこれまで余りフォーカスされることがなかった気がする女性画家の作品に触れられるのはとてもよいこと。4月からはNational GalleryでArtemisia Gentileschiの展示も始まるよ。
The Impressionists and Photography
プラド美術館でほぼ午前いっぱい潰して、午後にMuseo Thyssen Bornemiszaで見ました。
印象派の作家たちに当時広がりつつあった写真(技術)はどのような影響を与えて、画家たちはそれをどう受けとったりしたのか。 そんなのあったに決まってるじゃん、てふつうに思ってしまうのだが、こうして具体的に並べられると、なるほどねー、とかいろいろ思うところいっぱい。
社会とか自然とか建物とかポートレートとかのカテゴリ別に、当時の代表的な写真作品と、その横に同様のテーマや構図をもった印象派の作品が並べられている。ものによってはもろに写真を見て描いたようなやつもあるし、そうした方が遠近や濃淡を自分で決めたり測ったりして画布に落としていくより簡単だからそうするよね、ていうのと、そういう「省力化」が「見る」行為を含めて印象派絵画の屋内~屋外の網膜に及ぼしたものって小さくないし、それはその先のキュビズム~抽象絵画にも繋がってくるに違いない、って。 絵画論、写真論、批評理論(フーコーのマネ)、いろんなところから考えるネタがてんこもりだったかも。
続いてMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaに移動する。いつもマドリッドの3つの美術館はこの順番で歩いて回っているのだが、ここに着くまでに大抵十分へろへろになってて、でもここの企画展は面白いのが常に4つ5つやっているし、常設のゲルニカも見なきゃいけないし、しんどい。 次回はまわる順番を変えてみようかしら。
Ceija Stojka: This Has Happened
Ceija Stojka (1933 – 2013)はオーストリア・ルーマニアの画家で作家で、ホロコーストのサバイバーで、彼女が56歳から描き始めた絵画たちには、一見子供が描いたような素朴さ稚拙さがあって、かわいいーって寄ってみるとものすごく怖い世界が展開されていて … となる。夢でも妄想でもお伽の世界でもない –“This Has Happened”.
Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s
フランスのリールで開催された展示がマドリッドにも来ていて、リールは難しかったけどここなら。だったのだが、彼女の活動を記録したインタビュー映像とか発言の字幕がぜんぶスペイン語だったのは残念だったかも。英語圏でやってくれないものかしら。
TV出演時の(主にフェミニズム関連の)発言とか彼女の活動を時代ごとに追うのと、映画の代表作ごとの展示とかインスタレーションが並ぶ結構規模の大きい展示だった。
いっこ、すごかったのが暗闇に5つ(たしか)のディスプレイが置かれていて、そこに”Jeanne Dielman, 23, Quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の最後、彼女があれをやってしまった後の薄暗い部屋の映像とそこの音をループさせる、というインスタレーション。あの時あそこで彼女が見て聞いていた光景 - あの闇の底で蠢いているのは一体なんだったのか。
おうちに戻ったのは23時くらいでその週の残りはまったく使い物にならなくて。
Goya. Drawings. "Only my Strength of Will Remains"
ゴヤのドローイングを約300点、プラド美術館にあるやつだけでなく世界中から集めた展示で、落書きみたいなのから白黒と線だけでひとつの宇宙とか世界を表してしまっているのまで、よくここまで集めたね、というよりやはりよく描いたもんだわゴヤ、としか言いようがない。
この美術館に来ると、いろんなゴヤを3フロアそれぞれで見ることができて、地上階でだれもが知っているド古典の名作たちを見て、その上の階で宮廷画家としての職人技を堪能することができて、その上の階には子供とか動物とかを描くリラックスしたB面というか - でも猫の喧嘩の絵とか大好き - があってとにかくこの美術館でゴヤという画家の深さ恐ろしさを十分に知って好きになって、このドローイング展は、デモやアウトテイク集成、なのかもしれないが、であるからこそゴヤという画家の性格 – 線を引いて塗りつぶしていっぱい描きながら意志の力のみで固めていくような - がまっすぐでていて、これらの流れのなかに彼の画家としてのありようが凝縮されている気がした。
ポートレートはふつうに上手くておもしろいのだが、風俗とか化け物とか死体とかのタッチ、というか思い切りとそれが表出してしまう様がすばらしいの。 そこに北斎のような画狂人の姿を見ることもできるし、わたしは水木しげるかも、とか思った。対象を穴のあくほど見つめて正確に緻密に描こうとするその果てに滲んでしまう歪みとか狂気とか。
A Tale of Two Women Painters: Sofonisba Anguissola and Lavinia Fontana
ルネサンス期のふたりのイタリア人女性画家 - Sofonisba Anguissola (1532 –1625)とLavinia Fontana (1552-1614)の作品を集めた展示で、ほぼ同じ時代に生きたふたりの女性の間に直接の交流はあったのかなかったのか、どちらにしても”A Tale of Two Women Painters”と括らなくたって並べられた作品は瑞々しくて華やかでずっと見ていたくなる。衣装の肌理とか透明なひだひだの緻密さはすばらしいし、こちらを向いた微妙な表情の歪みとかはどこから来るものなのかしら、とか。Sofonisba Anguissolaさんはミケランジェロとかにも会っているんだねえ。すごいなー。
こんなふうにこれまで余りフォーカスされることがなかった気がする女性画家の作品に触れられるのはとてもよいこと。4月からはNational GalleryでArtemisia Gentileschiの展示も始まるよ。
The Impressionists and Photography
プラド美術館でほぼ午前いっぱい潰して、午後にMuseo Thyssen Bornemiszaで見ました。
印象派の作家たちに当時広がりつつあった写真(技術)はどのような影響を与えて、画家たちはそれをどう受けとったりしたのか。 そんなのあったに決まってるじゃん、てふつうに思ってしまうのだが、こうして具体的に並べられると、なるほどねー、とかいろいろ思うところいっぱい。
社会とか自然とか建物とかポートレートとかのカテゴリ別に、当時の代表的な写真作品と、その横に同様のテーマや構図をもった印象派の作品が並べられている。ものによってはもろに写真を見て描いたようなやつもあるし、そうした方が遠近や濃淡を自分で決めたり測ったりして画布に落としていくより簡単だからそうするよね、ていうのと、そういう「省力化」が「見る」行為を含めて印象派絵画の屋内~屋外の網膜に及ぼしたものって小さくないし、それはその先のキュビズム~抽象絵画にも繋がってくるに違いない、って。 絵画論、写真論、批評理論(フーコーのマネ)、いろんなところから考えるネタがてんこもりだったかも。
続いてMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaに移動する。いつもマドリッドの3つの美術館はこの順番で歩いて回っているのだが、ここに着くまでに大抵十分へろへろになってて、でもここの企画展は面白いのが常に4つ5つやっているし、常設のゲルニカも見なきゃいけないし、しんどい。 次回はまわる順番を変えてみようかしら。
Ceija Stojka: This Has Happened
Ceija Stojka (1933 – 2013)はオーストリア・ルーマニアの画家で作家で、ホロコーストのサバイバーで、彼女が56歳から描き始めた絵画たちには、一見子供が描いたような素朴さ稚拙さがあって、かわいいーって寄ってみるとものすごく怖い世界が展開されていて … となる。夢でも妄想でもお伽の世界でもない –“This Has Happened”.
Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s
フランスのリールで開催された展示がマドリッドにも来ていて、リールは難しかったけどここなら。だったのだが、彼女の活動を記録したインタビュー映像とか発言の字幕がぜんぶスペイン語だったのは残念だったかも。英語圏でやってくれないものかしら。
TV出演時の(主にフェミニズム関連の)発言とか彼女の活動を時代ごとに追うのと、映画の代表作ごとの展示とかインスタレーションが並ぶ結構規模の大きい展示だった。
いっこ、すごかったのが暗闇に5つ(たしか)のディスプレイが置かれていて、そこに”Jeanne Dielman, 23, Quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の最後、彼女があれをやってしまった後の薄暗い部屋の映像とそこの音をループさせる、というインスタレーション。あの時あそこで彼女が見て聞いていた光景 - あの闇の底で蠢いているのは一体なんだったのか。
おうちに戻ったのは23時くらいでその週の残りはまったく使い物にならなくて。
2.12.2020
[film] Taylor Swift: Miss Americana (2020)
2日の夕方、Prince Charles Cinemaで見ました。
この日の15時くらいに羽田からHeathrowに着いて、おうちに戻って階段をぐるぐるのぼって荷物を出して片づけして買い出しして洗濯してそのままだと寝てしまうので外にでた。
Netflixのやつらしいのだが、ここでだけ1日1回くらい地味に上映しているの。日曜の夕方なので結構入っていて、やはり女性の方が多いかしら。
予告が終わって始まる前に映画のタイトルと彼女の横顔の静止画が出てみんなでわーっとなり、背後に彼女の曲が流れていくのだが、その曲に合わせてみんな小声で – なぜ小声? - ひそひそ歌うのがなんかよかった。ひそひその合唱。
冒頭、ピアノを弾く彼女の鍵盤のとこにパンダ顔の小猫がちょろちょろしてて、それだけで悶絶する( ..そこか)。あの小猫なに? そこから先は彼女の13歳くらいからの音楽キャリアをいろんな動画とかインタビュー映像で繋いでいく。それだけのー。
おもしろいところはいろいろあるのだが、特に2018年の中間選挙のとき、テネシー州の共和党候補者(女性)に我慢ならなくなって自身の政治スタンスを表明(SNSで発信)するところは清々しくてよいの。女性歌手の政治発言というとブッシュの時代、Dixie Chicksの騒動があって、ナーバスになるのもわかるからなおのこと。
わたしが彼女のことを知ったのはRyan Adams(..あーめん)による”1989” (2014) の全曲カバーを聴いたときで、どの曲もすごくよくてびっくりした(失礼ね)のだが、ここで聴こえてくる聴いたことのない曲たちも、どれもとても素敵で。ライブのもスタジオのも、彼女がそこで作って試したり歌ったり、のライブ感に溢れていて止めないでもっと聴かせてよ、になる。
ここに出てくるライブの映像とかを見ると規模とかでかすぎてこれはちょっと無理よね、って思うのだが今の子たちってそんなの気にせず新しい曲とかじゃんじゃか簡単に手にいれてみんなで楽しんでいるんだろうなーいいなー、って。レコード屋通うのもしんどくならない? - ならないけど。まだ。
今のアメリカの音楽ビジネスの先端がどの辺にあるのか、もう10年くらい前からわからないし関心もなくなっているのだが、この映画での彼女の佇まいは、Miss Americanaというのがしっくりくるかも。 Madonnaとかディーバ系のそれとはやはり違うの。
最近ライブ行けてないので行きたいなー。いまのわたしは約2週間後に迫るおとぼけビ〜バ〜をひたすらじっと待つしかない。 あんまじっとしてないのだが。
この日の15時くらいに羽田からHeathrowに着いて、おうちに戻って階段をぐるぐるのぼって荷物を出して片づけして買い出しして洗濯してそのままだと寝てしまうので外にでた。
Netflixのやつらしいのだが、ここでだけ1日1回くらい地味に上映しているの。日曜の夕方なので結構入っていて、やはり女性の方が多いかしら。
予告が終わって始まる前に映画のタイトルと彼女の横顔の静止画が出てみんなでわーっとなり、背後に彼女の曲が流れていくのだが、その曲に合わせてみんな小声で – なぜ小声? - ひそひそ歌うのがなんかよかった。ひそひその合唱。
冒頭、ピアノを弾く彼女の鍵盤のとこにパンダ顔の小猫がちょろちょろしてて、それだけで悶絶する( ..そこか)。あの小猫なに? そこから先は彼女の13歳くらいからの音楽キャリアをいろんな動画とかインタビュー映像で繋いでいく。それだけのー。
おもしろいところはいろいろあるのだが、特に2018年の中間選挙のとき、テネシー州の共和党候補者(女性)に我慢ならなくなって自身の政治スタンスを表明(SNSで発信)するところは清々しくてよいの。女性歌手の政治発言というとブッシュの時代、Dixie Chicksの騒動があって、ナーバスになるのもわかるからなおのこと。
わたしが彼女のことを知ったのはRyan Adams(..あーめん)による”1989” (2014) の全曲カバーを聴いたときで、どの曲もすごくよくてびっくりした(失礼ね)のだが、ここで聴こえてくる聴いたことのない曲たちも、どれもとても素敵で。ライブのもスタジオのも、彼女がそこで作って試したり歌ったり、のライブ感に溢れていて止めないでもっと聴かせてよ、になる。
ここに出てくるライブの映像とかを見ると規模とかでかすぎてこれはちょっと無理よね、って思うのだが今の子たちってそんなの気にせず新しい曲とかじゃんじゃか簡単に手にいれてみんなで楽しんでいるんだろうなーいいなー、って。レコード屋通うのもしんどくならない? - ならないけど。まだ。
今のアメリカの音楽ビジネスの先端がどの辺にあるのか、もう10年くらい前からわからないし関心もなくなっているのだが、この映画での彼女の佇まいは、Miss Americanaというのがしっくりくるかも。 Madonnaとかディーバ系のそれとはやはり違うの。
最近ライブ行けてないので行きたいなー。いまのわたしは約2週間後に迫るおとぼけビ〜バ〜をひたすらじっと待つしかない。 あんまじっとしてないのだが。
[film] Carole Lombard: The Brightest Star -
BFのCarole Lombard特集は1月で終わりだったので、出張から戻った時にはもう毎日のように彼女の映画を見ることはできないんだなあ、と思うととてもかなしい。
Bolero (1934)
17日、金曜日の晩に見ました。1910年代のNYで成功を夢見る草ダンサーのRaoul (George Raft)がいて、ダンスの相手の女性とは恋愛関係になりそうになると仕事とは別、って割り切りながら成りあがってパリまで行って、運命の女性Helen (Carole Lombard)に出会うのだが、やはり別れて、そのうち第一次大戦が始まって従軍して怪我して、でも無理して戻ってきて..
実在したアメリカ人ダンサーMaurice Mouvet (1889-1927)の生涯を基にしていて、最後にふたりがBoleroを踊るシーンは、Mitchell Leisenが撮っているのでそこだけなかなか格調高くてかっこよい。
Carole LombardというよりGeorge Raftかっこいい!の映画。最後がちょっとかわいそうだけど。
Swing High, Swing Low (1937)
18日、土曜日の午後に見ました。
“Bolero”が踊るCarole Lombardだとすると、こっちは歌うCarole Lombardの映画なの。
パナマ運河でMaggie (Carole Lombard)と除隊直前のSkid (Fred MacMurray)が出会ってSkidはトランペット野郎で、ふたりはぶつかり合いながらも仲良くなり、歌とペットのコンビで盛りあがるのだが、Skidは先にNYに行って別の女性シンガーと組んで大当たりして、でも彼女のいじわるでMaggieとSkidの交信は途絶えて、やがてSkidは落ちぶれて.. 最後はしっとりと終わるメロドラマなのだが、そもそもはぜんぶSkidの自業自得だよね、って。
Carole LombardとFred MacMurrayの組み合わせって、なにが素敵なのかしら、って考えている。適当でやんちゃなアメリカ人青年とタフで一途で揺るがない女性、ってだけだと当たり前すぎてつまんないしな、とか。
Mr. & Mrs. Smith (1941)
19日、日曜日の夕方に見ました。とっても有名なAlfred Hitchcockのコメディ。
結婚3年目でNYに暮らすAnn (Carole Lombard) とDavid(Robert Montgomery)がいて、しょうもない喧嘩ばかりしてて、Annが生まれ変わったらもう一度あたしと結婚する?って聞くとDavidはいやそれは、って返して、しばらくすると彼らは法的に結婚していないことがわかってしまったので、その質問がじんわり効いて雪だるまになり子供みたいに好き放題しまくりのいがみ合い見せつけ合いを始めるの。 結果はわかりきっているのだが。
相手を好きすぎるのでひどい仕打ちの連打によって相手の気を惹いて確かめようとする合戦コメディ映画としては“The Awful Truth” (1937)の方がおもしろいかも。でも冒頭のCarole Lombardの寝起きの挙動とか、それだけでじゅうぶんなの。
To Be or Not to Be (1942)
20日、月曜日の晩に見ました。きれいな35mmプリントだった。 これがこの特集で見た最後の1本で、彼女の遺作で、史上最強のナチおちょくりコメディなの。おおむかし、リュミエール・シネマテークでVHSが出た時はすぐに買ったし、その際に映画館で一度だけ上映された – シネセゾンだっけ? - ときも並んで見たし、その後もどっかで上映があると見ている。 何度見てもいくらでも笑えて、冒頭の「ルビンスキー 〜 クビンスキー 〜 ロミンスキー 〜 ロザンスキー & ポズナンスキー」の韻とか、「シュルツ!」とかが耳に残る。
ナチが侵攻してきた頃のワルシャワで劇団をやっている俳優夫婦 - Josef Tura (Jack Benny)とMaria (Carole Lombard) – がいて、そこにナチスのスパイとか若い英国空軍兵士とか戦争の趨勢を左右するいち大事と夫婦の間の浮気した/しない問題とか、劇団の運命とか、ぜんぶが団子にこんがらがって大博打の大芝居がうたれて... 善玉も悪玉も男共はおろおろばたばたしっぱなしなのに対して、Mariaだけが最後まで女神のようにつーんと輝いていて無敵としか言いようがなくて、そこにくどいくらいに被さってくるハムレットの”To Be or Not to Be” - 命がけなんだってば。とにかくめちゃくちゃおもしろいから見て、しか言えない。
それって彼女の映画ぜんぶに言えることで、とにかく彼女を見て、なんだわ。
Bolero (1934)
17日、金曜日の晩に見ました。1910年代のNYで成功を夢見る草ダンサーのRaoul (George Raft)がいて、ダンスの相手の女性とは恋愛関係になりそうになると仕事とは別、って割り切りながら成りあがってパリまで行って、運命の女性Helen (Carole Lombard)に出会うのだが、やはり別れて、そのうち第一次大戦が始まって従軍して怪我して、でも無理して戻ってきて..
実在したアメリカ人ダンサーMaurice Mouvet (1889-1927)の生涯を基にしていて、最後にふたりがBoleroを踊るシーンは、Mitchell Leisenが撮っているのでそこだけなかなか格調高くてかっこよい。
Carole LombardというよりGeorge Raftかっこいい!の映画。最後がちょっとかわいそうだけど。
Swing High, Swing Low (1937)
18日、土曜日の午後に見ました。
“Bolero”が踊るCarole Lombardだとすると、こっちは歌うCarole Lombardの映画なの。
パナマ運河でMaggie (Carole Lombard)と除隊直前のSkid (Fred MacMurray)が出会ってSkidはトランペット野郎で、ふたりはぶつかり合いながらも仲良くなり、歌とペットのコンビで盛りあがるのだが、Skidは先にNYに行って別の女性シンガーと組んで大当たりして、でも彼女のいじわるでMaggieとSkidの交信は途絶えて、やがてSkidは落ちぶれて.. 最後はしっとりと終わるメロドラマなのだが、そもそもはぜんぶSkidの自業自得だよね、って。
Carole LombardとFred MacMurrayの組み合わせって、なにが素敵なのかしら、って考えている。適当でやんちゃなアメリカ人青年とタフで一途で揺るがない女性、ってだけだと当たり前すぎてつまんないしな、とか。
Mr. & Mrs. Smith (1941)
19日、日曜日の夕方に見ました。とっても有名なAlfred Hitchcockのコメディ。
結婚3年目でNYに暮らすAnn (Carole Lombard) とDavid(Robert Montgomery)がいて、しょうもない喧嘩ばかりしてて、Annが生まれ変わったらもう一度あたしと結婚する?って聞くとDavidはいやそれは、って返して、しばらくすると彼らは法的に結婚していないことがわかってしまったので、その質問がじんわり効いて雪だるまになり子供みたいに好き放題しまくりのいがみ合い見せつけ合いを始めるの。 結果はわかりきっているのだが。
相手を好きすぎるのでひどい仕打ちの連打によって相手の気を惹いて確かめようとする合戦コメディ映画としては“The Awful Truth” (1937)の方がおもしろいかも。でも冒頭のCarole Lombardの寝起きの挙動とか、それだけでじゅうぶんなの。
To Be or Not to Be (1942)
20日、月曜日の晩に見ました。きれいな35mmプリントだった。 これがこの特集で見た最後の1本で、彼女の遺作で、史上最強のナチおちょくりコメディなの。おおむかし、リュミエール・シネマテークでVHSが出た時はすぐに買ったし、その際に映画館で一度だけ上映された – シネセゾンだっけ? - ときも並んで見たし、その後もどっかで上映があると見ている。 何度見てもいくらでも笑えて、冒頭の「ルビンスキー 〜 クビンスキー 〜 ロミンスキー 〜 ロザンスキー & ポズナンスキー」の韻とか、「シュルツ!」とかが耳に残る。
ナチが侵攻してきた頃のワルシャワで劇団をやっている俳優夫婦 - Josef Tura (Jack Benny)とMaria (Carole Lombard) – がいて、そこにナチスのスパイとか若い英国空軍兵士とか戦争の趨勢を左右するいち大事と夫婦の間の浮気した/しない問題とか、劇団の運命とか、ぜんぶが団子にこんがらがって大博打の大芝居がうたれて... 善玉も悪玉も男共はおろおろばたばたしっぱなしなのに対して、Mariaだけが最後まで女神のようにつーんと輝いていて無敵としか言いようがなくて、そこにくどいくらいに被さってくるハムレットの”To Be or Not to Be” - 命がけなんだってば。とにかくめちゃくちゃおもしろいから見て、しか言えない。
それって彼女の映画ぜんぶに言えることで、とにかく彼女を見て、なんだわ。
2.11.2020
[film] Parasite (2019)
9日、日曜日の昼間にPicturehouse Centralで見ました。
ちょうどこの日の晩がオスカーの授賞式で、ノミネート作品群に対する失望感(女性による作品が少なすぎ)の反動というかなにかでたぶんこれが受賞するんだろうな、という確信のようなのがあった - あとアメリカでの尋常とは思えないウケのよさ(あの現象はなんなのか)とかも。 結果はほらねー、だったし。 英国ではこの週末に公開されたばかりでやはり大騒ぎになっていて、でもこの週末の日曜日、ロンドンにはStorm Ciaraっていう大嵐が来てて、気圧がめちゃくちゃで頭がどよーんて半分くらいしんでて、でもがんばって見たの。
道路から半分地下のとこに暮らして生活に困っている一家がおりまして、ある日そこの坊の金持ち友達から自分が海外に行く間英語の家庭教師をやってくれないかと請われたので証明書一式偽造してその家に行ってみるってえとそれはそれは大層なお屋敷で、こいつあすげえやって妹をそこのうるせえガキのアート教師にでっちあげたらこいつもうまくハマって、それならばと車の運転手をお払いして父親を据え、ではこいつもついでにって常駐メイドにも下がっていただいて母親を呼びこみ、一家全員なかよく金持ち一家にぺったりなりすまし寄生することに成功して、いやぁ極楽極楽ってやっているとお屋敷の底からうちのが先なんですけどってぬうっと浮かんできたもんだからさあ大変っ!
こんなふうに貧乏長屋の落語にしたらぜったい面白いお話(最後のほうは除く)で、こんな落語に変態B級ネタを絡めたような作品がオスカーのど真んなかをかっさらうんだからすごい世の中になったもんだねえ、って。
そういえばもういっこの候補だった“Joker” (2019)もそうだし、賞レースとは関係ないけど”Sorry We Missed You“ (2019)とか、(これも米国ですごくウケた)”Burning” (2018)もそうだった。 アウトサイダーの物語ではない、インにもアウトにもいない、”Sorry We Missed.. ”って言ってしまうくらい見えなくなってしまった(ていう言い方自体が既にあれよね)人々を表面に、映像として引っぱりだしてくる、そういうトレンド。それをされても痛くも痒くもない金持ち階級が慈しみの目をもって上空から眺める、そういう構図。 (この点、この映画で不可視な「匂い」がトリガーになっていたり、Wifiの電波とかモールス信号の届く届かないがポイントになっていたりっておもしろいの)
これらの格差社会映画って最後には主人公が銃とかナイフを手にして.. なのだが、その行動はその格差のありようを根底から揺るがすようなところに決して届くことはなくて、見ている我々も「あ、やっちゃった…」で終わってしまう(”Sorry We Missed You“はちょっと違うけど)。ディストピアにおけるエンターテインメントってこういうもんよね、ってしみじみ。
そしてにっぽんには、どんなに貧しくても見えなくされてもいい、なんか身内でほんわかしていればいいかも、っていう別次元 - グローバルには理解されないかも - の地獄が。
映画はふつうにおもしろかったけど、ほんとうは最後、寄生された側のDa-hye (Jung Ji-so)がKi-woo (Choi Woo-shik)をぼこぼこにしてやるべきだったのではないか。“Stoker” (2013)のMia Wasikowskaみたいに。
ちょうどこの日の晩がオスカーの授賞式で、ノミネート作品群に対する失望感(女性による作品が少なすぎ)の反動というかなにかでたぶんこれが受賞するんだろうな、という確信のようなのがあった - あとアメリカでの尋常とは思えないウケのよさ(あの現象はなんなのか)とかも。 結果はほらねー、だったし。 英国ではこの週末に公開されたばかりでやはり大騒ぎになっていて、でもこの週末の日曜日、ロンドンにはStorm Ciaraっていう大嵐が来てて、気圧がめちゃくちゃで頭がどよーんて半分くらいしんでて、でもがんばって見たの。
道路から半分地下のとこに暮らして生活に困っている一家がおりまして、ある日そこの坊の金持ち友達から自分が海外に行く間英語の家庭教師をやってくれないかと請われたので証明書一式偽造してその家に行ってみるってえとそれはそれは大層なお屋敷で、こいつあすげえやって妹をそこのうるせえガキのアート教師にでっちあげたらこいつもうまくハマって、それならばと車の運転手をお払いして父親を据え、ではこいつもついでにって常駐メイドにも下がっていただいて母親を呼びこみ、一家全員なかよく金持ち一家にぺったりなりすまし寄生することに成功して、いやぁ極楽極楽ってやっているとお屋敷の底からうちのが先なんですけどってぬうっと浮かんできたもんだからさあ大変っ!
こんなふうに貧乏長屋の落語にしたらぜったい面白いお話(最後のほうは除く)で、こんな落語に変態B級ネタを絡めたような作品がオスカーのど真んなかをかっさらうんだからすごい世の中になったもんだねえ、って。
そういえばもういっこの候補だった“Joker” (2019)もそうだし、賞レースとは関係ないけど”Sorry We Missed You“ (2019)とか、(これも米国ですごくウケた)”Burning” (2018)もそうだった。 アウトサイダーの物語ではない、インにもアウトにもいない、”Sorry We Missed.. ”って言ってしまうくらい見えなくなってしまった(ていう言い方自体が既にあれよね)人々を表面に、映像として引っぱりだしてくる、そういうトレンド。それをされても痛くも痒くもない金持ち階級が慈しみの目をもって上空から眺める、そういう構図。 (この点、この映画で不可視な「匂い」がトリガーになっていたり、Wifiの電波とかモールス信号の届く届かないがポイントになっていたりっておもしろいの)
これらの格差社会映画って最後には主人公が銃とかナイフを手にして.. なのだが、その行動はその格差のありようを根底から揺るがすようなところに決して届くことはなくて、見ている我々も「あ、やっちゃった…」で終わってしまう(”Sorry We Missed You“はちょっと違うけど)。ディストピアにおけるエンターテインメントってこういうもんよね、ってしみじみ。
そしてにっぽんには、どんなに貧しくても見えなくされてもいい、なんか身内でほんわかしていればいいかも、っていう別次元 - グローバルには理解されないかも - の地獄が。
映画はふつうにおもしろかったけど、ほんとうは最後、寄生された側のDa-hye (Jung Ji-so)がKi-woo (Choi Woo-shik)をぼこぼこにしてやるべきだったのではないか。“Stoker” (2013)のMia Wasikowskaみたいに。
2.03.2020
[film] 風の電話 (2020)
1日、土曜日の午後、新宿ピカデリーで見ました。(まだ映画泥棒のCMやってやがる)
一本くらい映画 - 日本の映画 - を見て帰りたいなー、って思って、でもそんなに見たいのはなかったのだが、午前中はシネマヴェーラで『足にさわった女』(1952)を見て – どちらかというとシネマヴェーラに行きたかったかんじ - とてもおもしろくて、午後はこれ。
諏訪監督の作品は、2年間の一時帰国の時に『ライオンは今夜死ぬ』(2017)を見ていて、その前の『ユキとニナ』 (2007)も大好きだったので、今回も当然のように見たいし。
冒頭に主人公のハル(モトーラ世理奈)は2011年の震災による津波で父母弟を失って、広島の叔母と一緒に暮らしている、という説明が出る。
ある朝、叔母があれから時間も経って復興したみたいだし一度大槻に帰ってみない? て誘うとハルは固まってしまい、学校を行くのにも叔母とハグしないと外に出れない、そういう女の子であることが描かれる。で、彼女が学校から戻ると叔母は屋内で倒れていて病院に入って、絶対安静になってしまう。ひとり残された彼女はなんでみんなあたしを置いていくのか、って泣いて叫んで工事現場でぐったり死んでいるとそこを通りかかった公平(三浦友和)に拾われて、彼の家でご飯をいただく。
そこを出てひとりでパンを齧っているいると野蛮な若者たちに襲われそうになって、そこを森尾(西島秀俊)が拾ってくれて、彼の用事に付きあってクルド人コミュニティの人たちと会って一緒にご飯を食べて、森尾の両親にも会ってご飯を食べて、彼は大槻まで行きたいという彼女に付きあって車を走らせてくれて、そんな彼自身も震災で家族を失っていることがわかって。
主人公が広島から大槻まで移動して、途中でいろんな人と出会ってゆっくりと変わっていくロードムービー、と言えばそれだけなのだが、ここには戦後から今までの日本(人)の軌跡とか記憶 - 特に後悔 - みたいのがずらりと並んでいて、それらはみんなどこかでなにかしら繋がっていて - そんなふうに見るのが正しいのではないか。
痴呆が進んでいるらしい公平の母が語る原爆で亡くなった人の骨の話、クルド人コミュニティで入菅に収容されたまま戻ってこない夫/パパの話、歳をとると生まれた場所に戻りたくなるもんだと言う森尾の親(西田敏行)、詳細は語られずそこに暮らしていた家族の痕跡(だけ)が残る森尾の家 - ハルはそこで自身の家族の幻影を見る。 みんな自分のせいではない理不尽な力(+自分のせいだと思わせてしまう理不尽さも)によって家族から引き離されて、家族は向こう側にいて - 生死は不明 - でも自分はなんとか/なんでか生きている。
辛いのは君だけじゃないんだからがんばれ、ではなくて。君の家族を想うことができるのは君だけなんだから、君しかいないのだから生きるしかないの、っていう残された者の使命のようなものが示される。 ラストで、ハルはその決意をもって風(の電話)に向かって話をする。それは吹いてくる風の流れに沿って話す(届きますように)、というより風を正面から受けて自分の輪郭を露わにして、こちらからは見えない風の源に向かって会話を重ねようとする。 そこにはもちろん電話線なんかない、絆とかも関係ない。 別れ際、彼女が森尾に自分の本当の名前を告げるシーンはとても感動するの。
『あれから』(2012)を少し思って、あれも震災が分断したこちら側と向こう側の世界のありようを描いたもので、自分自身が風になろうとする女性のお話だったことを思い出す。でも「あれから」から更に時間が経過して、みんないいかげん疲弊して、もう保てなくなってきているかんじはある。両側からの綱引きがー。
そこで唯一、教訓というか秘訣のように繰り返される言葉、生きるんだったら食べないと、が沁みる。うん、食べること。 食べることができれば。
モトーラ世理奈さんが実にすばらしい。幽霊みたいにいつも同じ服で目を腫らしてふらふらまっすぐ歩けなくて、すぐ横になってしまう。元気の反対側 - ああありたいもの。
目とか鼻から大量の汁が流れでたりするのだが、これらは放っておいてよいものなの。
一本くらい映画 - 日本の映画 - を見て帰りたいなー、って思って、でもそんなに見たいのはなかったのだが、午前中はシネマヴェーラで『足にさわった女』(1952)を見て – どちらかというとシネマヴェーラに行きたかったかんじ - とてもおもしろくて、午後はこれ。
諏訪監督の作品は、2年間の一時帰国の時に『ライオンは今夜死ぬ』(2017)を見ていて、その前の『ユキとニナ』 (2007)も大好きだったので、今回も当然のように見たいし。
冒頭に主人公のハル(モトーラ世理奈)は2011年の震災による津波で父母弟を失って、広島の叔母と一緒に暮らしている、という説明が出る。
ある朝、叔母があれから時間も経って復興したみたいだし一度大槻に帰ってみない? て誘うとハルは固まってしまい、学校を行くのにも叔母とハグしないと外に出れない、そういう女の子であることが描かれる。で、彼女が学校から戻ると叔母は屋内で倒れていて病院に入って、絶対安静になってしまう。ひとり残された彼女はなんでみんなあたしを置いていくのか、って泣いて叫んで工事現場でぐったり死んでいるとそこを通りかかった公平(三浦友和)に拾われて、彼の家でご飯をいただく。
そこを出てひとりでパンを齧っているいると野蛮な若者たちに襲われそうになって、そこを森尾(西島秀俊)が拾ってくれて、彼の用事に付きあってクルド人コミュニティの人たちと会って一緒にご飯を食べて、森尾の両親にも会ってご飯を食べて、彼は大槻まで行きたいという彼女に付きあって車を走らせてくれて、そんな彼自身も震災で家族を失っていることがわかって。
主人公が広島から大槻まで移動して、途中でいろんな人と出会ってゆっくりと変わっていくロードムービー、と言えばそれだけなのだが、ここには戦後から今までの日本(人)の軌跡とか記憶 - 特に後悔 - みたいのがずらりと並んでいて、それらはみんなどこかでなにかしら繋がっていて - そんなふうに見るのが正しいのではないか。
痴呆が進んでいるらしい公平の母が語る原爆で亡くなった人の骨の話、クルド人コミュニティで入菅に収容されたまま戻ってこない夫/パパの話、歳をとると生まれた場所に戻りたくなるもんだと言う森尾の親(西田敏行)、詳細は語られずそこに暮らしていた家族の痕跡(だけ)が残る森尾の家 - ハルはそこで自身の家族の幻影を見る。 みんな自分のせいではない理不尽な力(+自分のせいだと思わせてしまう理不尽さも)によって家族から引き離されて、家族は向こう側にいて - 生死は不明 - でも自分はなんとか/なんでか生きている。
辛いのは君だけじゃないんだからがんばれ、ではなくて。君の家族を想うことができるのは君だけなんだから、君しかいないのだから生きるしかないの、っていう残された者の使命のようなものが示される。 ラストで、ハルはその決意をもって風(の電話)に向かって話をする。それは吹いてくる風の流れに沿って話す(届きますように)、というより風を正面から受けて自分の輪郭を露わにして、こちらからは見えない風の源に向かって会話を重ねようとする。 そこにはもちろん電話線なんかない、絆とかも関係ない。 別れ際、彼女が森尾に自分の本当の名前を告げるシーンはとても感動するの。
『あれから』(2012)を少し思って、あれも震災が分断したこちら側と向こう側の世界のありようを描いたもので、自分自身が風になろうとする女性のお話だったことを思い出す。でも「あれから」から更に時間が経過して、みんないいかげん疲弊して、もう保てなくなってきているかんじはある。両側からの綱引きがー。
そこで唯一、教訓というか秘訣のように繰り返される言葉、生きるんだったら食べないと、が沁みる。うん、食べること。 食べることができれば。
モトーラ世理奈さんが実にすばらしい。幽霊みたいにいつも同じ服で目を腫らしてふらふらまっすぐ歩けなくて、すぐ横になってしまう。元気の反対側 - ああありたいもの。
目とか鼻から大量の汁が流れでたりするのだが、これらは放っておいてよいものなの。
2.02.2020
[log] February 02 2020
今年もあと11ヶ月をきって、今年内はもうこの国に来なくていいのよねたぶん、というのと、これから戻る先はもう慣れ親しんだEU圏内のあの国ではなくなってるのだわ(やや大げさ)、ていうのを噛みしめつつ、Andy Gillももういないのかー、ってしんみりしつつ、羽田空港まできました。
はじめに予約していた戻りのチケットは1日 - 土曜日発ので、週の中頃、がんじがらめピークの時に日曜日発の席が空いたけどどうします? と言われて、お買物とかもしたいかも、と日曜日発に延ばした。そうしてあいた隙間にいろいろ突っ込んでしまった後に、やっぱなんかしんどいかもと思って、更にleave them all behind 2020がああー、あるのを知って泣きたくなったが、泣いてもしょうがないのでできるところまでじたばたした。 いまはぐったりだけど後悔はしない。でももう二度とやりたくない。
7日間、展覧会7つ、映画2つ。出張だとこれくらいが限界だわ。こういうのって初めはノリと勢いで目指すのはあそこのあれだ! って走っていくのだが途中で突然に冷めてしまうことがあって、でも今回はそこまでのは来なかったかも。あーでも本屋とか食材とか漁ってて、これらどうせすぐには読めないよね食べないよね? が少しだけきた。 でも、持って帰れなくて床に積んどくだけでもその養分はきっとどこかを巡って(殴)。
相変わらず、朝の通勤電車には(最初のうち)恐くて乗れなくて、乗ればがんじがらめの状態の視界に拷問のように腐ったような広告が捻じこまれ、たまらずスマホに目を落とせば同様の「プロモーション」と呼ばれる宣伝がどかどか落ちてくる。 ここまで下世話に過剰に異常にやらないと経済が回っていかないのだとしたらあの国はもう相当やばいし終わっているのだとしか思えない。
あとはとにかく消費税ひどい。本屋で何度も目が点になって明細を見返してしまったのだが、あの値段(支払い金額)だと本なんて月3冊くらいしか買えないし、学生さんにはぜったい無理だろうし、そうやっていろいろ歪んで萎んでいっちゃうよね。ふつうなら一揆起こるよね。
こんなふうに国の経済が疲弊してクビまわらなくてしょうもないけど、しょうもないからせめて国の威信を、みたいにふんぞりかえろうとして笑われているのが今の英国なので、次の一年で叩きのめされてみんなが反省するさまを見ておきたい。 いまの時代、国境に線を引いて指をさすのがどれだけ愚かでみっともないことか、などいろいろ。
今日はGroundhog Dayだねえ。 自分がGroundhogだったらぜったい、当分出てきたくない。
今回少しだけ遊んでくれたみなさま、ありがとうございました。 またそのうち。
はじめに予約していた戻りのチケットは1日 - 土曜日発ので、週の中頃、がんじがらめピークの時に日曜日発の席が空いたけどどうします? と言われて、お買物とかもしたいかも、と日曜日発に延ばした。そうしてあいた隙間にいろいろ突っ込んでしまった後に、やっぱなんかしんどいかもと思って、更にleave them all behind 2020がああー、あるのを知って泣きたくなったが、泣いてもしょうがないのでできるところまでじたばたした。 いまはぐったりだけど後悔はしない。でももう二度とやりたくない。
7日間、展覧会7つ、映画2つ。出張だとこれくらいが限界だわ。こういうのって初めはノリと勢いで目指すのはあそこのあれだ! って走っていくのだが途中で突然に冷めてしまうことがあって、でも今回はそこまでのは来なかったかも。あーでも本屋とか食材とか漁ってて、これらどうせすぐには読めないよね食べないよね? が少しだけきた。 でも、持って帰れなくて床に積んどくだけでもその養分はきっとどこかを巡って(殴)。
相変わらず、朝の通勤電車には(最初のうち)恐くて乗れなくて、乗ればがんじがらめの状態の視界に拷問のように腐ったような広告が捻じこまれ、たまらずスマホに目を落とせば同様の「プロモーション」と呼ばれる宣伝がどかどか落ちてくる。 ここまで下世話に過剰に異常にやらないと経済が回っていかないのだとしたらあの国はもう相当やばいし終わっているのだとしか思えない。
あとはとにかく消費税ひどい。本屋で何度も目が点になって明細を見返してしまったのだが、あの値段(支払い金額)だと本なんて月3冊くらいしか買えないし、学生さんにはぜったい無理だろうし、そうやっていろいろ歪んで萎んでいっちゃうよね。ふつうなら一揆起こるよね。
こんなふうに国の経済が疲弊してクビまわらなくてしょうもないけど、しょうもないからせめて国の威信を、みたいにふんぞりかえろうとして笑われているのが今の英国なので、次の一年で叩きのめされてみんなが反省するさまを見ておきたい。 いまの時代、国境に線を引いて指をさすのがどれだけ愚かでみっともないことか、などいろいろ。
今日はGroundhog Dayだねえ。 自分がGroundhogだったらぜったい、当分出てきたくない。
今回少しだけ遊んでくれたみなさま、ありがとうございました。 またそのうち。
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