6.30.2016

[film] Ma nuit chez Maud (1969)

5月28日、土曜日の昼、有楽町のロメール特集でみました。

『モード家の一夜』。 “My Night at Maud's”
なにが(だれにとっての)教訓やねん - なんで六つやねん、がいっつもついてまわる『六つの教訓話』のみっつめ。

教会のある山間のまちで、クリスマス前のミサが行われていて、そこに出ていたJean-Louis Trintignant(ぼく)は真面目で敬虔な技術者で独身で自分ではもてるほうと思っていて実際に過去に女性関係はいろいろあったらしく、南米とかカナダで仕事をした後でこの土地に落ち着いたところで、ある日街中で中学時代の同級生Vidalと久々に再会して、夜中、彼に誘われるままに彼の友達のMaud (Françoise Fabian) のアパートに行くことになる。 VidalとMaudは一回寝たことがあるらしいのだがJean-Louisとは合う気がするしとか言ってて、アパートについて暫くお話ししたらVidalはそそくさ帰っちゃってMaudとふたりだけになる。外は雪こんこんで今から車で帰るのは危険よ、と。

女医のMaudには一人娘がいて離婚したばかりで、無神論者で自由なかんじで、まじめなカトリックのJean-Louisにはあれこれ挑むように誘うように語りかけてきて、パスカルの確率論とかいろんなネタが繰りだされるのだが、基本はこのひと晩これから彼女とどうなっちゃうんだろうか、彼女と寝ることになるんだろうか、それってちょっと軽すぎやしないだろうか ...  などなどものすごくいっぱい彼の内なる声がわんわん鳴っていて、どんな会話もスリップしていく。 それでも彼女は堂々とそこにいて、こっちにこない? とか魅力的な身体と声で言ってる。

結局その晩はひとつ布団のなかでごろごろ悶々と過ごして気づいたら朝で、朝の彼女はなんかすてきだったので抱きしめようとしたら彼女はもう猫のようにつーんと拒否してきて、あーあ、て彼はそこを去り、やがて教会で見かけてずっと気になっていた自転車娘のFrançoise (Marie-Christine Barrault)を車でえんえん追っかけて告白して、やがてふたりは一緒になる。 よかったねえJean-Louis。

そこから(たしか)5年後、子供もできたJean-Louisは家族で浜辺にバカンスに来て、そこでMaudとすれ違って、そしたらFrançoiseはあらー、とか言って ... (暗転)
自分はとっても真面目に神様のお加護のもとよいこでやってきたんだから、だいじょうぶなんだから ...
なーむー。

モノクロの画面はNéstor Almendrosで雪の滲んだかんじがとってもすばらしい。
大昔に米国で見たきりだったが、画面がとっても綺麗になってて相変わらずスリル満点だった。

どのロメール映画でも言えることだが、なんかこの煮えきらない、到達できない、思い通りにいかない糞詰まり感、見た後で一緒にいた人たち同士の会話が険悪になっちゃうのが(この作品については特に)よおくわかる1本。

6.27.2016

[film] Ex Machina (2015)

25日、土曜日の夕方、新宿で見ました。 フランス映画祭もEU Film Daysも忘れてたわ。

会社の抽選かなんかで一等になったケイレブ(Domhnall Gleeson - Depeche Mode好きっていう設定だって。まだお若いのに)は会社のCEOの別荘地に一週間ご招待、ていうご褒美を貰う。
海を越え山を越えヘリで辿りついてみると、そこはモダンな要塞のような施設で、まずIDカードを作らされ、そこに1人で篭っているCEOのネイサン(Oscar Isaac)にNDAを結ばされて(ぜったい逃げたくなる)、なにをやらされるかと思ったらネイサンが開発中のAIのチューリングテストで、そこに現れた被験AIはエヴァていう外見は女の子 - ただしところどころスケルトン - で、映画はそこから約一週間のケイレブとエヴァのセッション(計7回)と、その進行につれて露わになっていくネイサンの企てとケイレブとの確執、などなどを追う。

あったりまえの話だが人工知能が人間のそれと同等であることを測る、証明するには人間の知能の限界・境界を、知能を知能たらしめる無限のコンテキストと判断軸と分岐 - そこには価値観の問題も入ってくる - まで含めて見極める必要があって、そういうことができるのは神さまくらいしかいない、てみんないうわけだが、この映画はいちおうそういうところも踏まえた上で、それなら例えば、恋愛なんかどうだろ、とプラクティカルなところに突然おっことしてみる(... うまい)。

その結果がどうなるのかはお楽しみなのだが、問題設定をそこに置いてみた(そこに意識を誘導してみた)途端に試験者と被験者(AI)の立場境界は曖昧になって、特に試験者である人間側はおろおろ混乱しはじめて、でもこれって相手がAIじゃなくてもふつーに起こることよね、あの結末も含めて、で、まあとにかく、試験者側にナイーブな童貞プログラマみたいのを単独でノミネートしちゃだめよ。 わざとだろうけど。

各セッションがボクシングのラウンドみたいに睨み合いも含めて続いていって、アセスする側とされる側の関係が危うくなって、そうするとなぜか人間は疑ったり焦ったりするようにできてて、「全体」を押さえているのは、わかっているのは誰なのか、みたいな話になりがちで、その帰結として悪いのはあいつだ、消しとけ、みたいなところに行く。 この作品はその流れのなかで、創造主のネイサンと構造物のエヴァと、やわい若造のケイレブの配置が見えるとこ見えないとこ含めてとてもよいバランスで。 破綻のシナリオはいくつも書けるだろうけど、やっぱりあそこなのだろうな、と。

AIだけじゃなくてロボティクスの技術も必要なんだしあそこまでネイサンひとりで工作するのは無理だろ(Tony Starkとどっちが上か?)とか、停電とか防御プログラムとか(停電起こせるならプログラムだって書き換えできるよね?)、つっこむところはいっぱいあるけど、検索エンジンの名前がBluebook - 青色本- だったり、全体のデザインとセンスはとってもきれいで、このへん、"Under the Skin" (2013)をすこしだけ思いだした。  実はどろどろ気持ち悪いところをスタイリッシュにかっこよく見せてしまうブリティッシュなんとか、というか。

Domhnall Gleesonさんはキャラ的には”About Time” (2013)のまま、父親の影と100%の女の子の間で一生揺れ続けるやつ。 あと、Oscar IsaacとDomhnall GleesonはEP7でも敵味方だったけど、これからもずっと犬猿をやり続けてほしい。

ふたりいる音楽担当のうち、ひとりはGeoff Barrowさんで、あの音圧がぶんぶんしていてたまんない。 エヴァが動くときの音も気持ちよいの。
エンドロールで、Savegesの”Husbands”がものすごくかっこよく、爽快に鳴るの。

[film] The Eichmann Show (2015)

また少し時間を遡る。 5月15日の日曜日の昼、恵比寿でみました。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』

15年による逃亡生活の末にアルゼンチンで身柄を拘束され、イスラエルに移送されたアドルフ・アイヒマンは1961年、イェルサレムで裁判にかけられることになって、その裁判の様子をTV放送すべく、アメリカからプロデューサーのMilton Fruchtman (Martin Freeman)と赤狩りで干されていたドキュメンタリー畑の監督のLeo Hurwitz (Anthony LaPaglia)がやってくる。 ふたりは司法当局側の注文 - カメラを見えないように - に応えたり、TV放映開始後の妨害とかプレッシャーとか、いろんな困難を乗り越えて世紀の裁判の模様を全世界に届けていくのだが、そういう苦労克服モノとして見ておわり、ではなくて、いろんなことを投げかけてくる。

55年前、ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』 - ざっと見返してみたけどここにこのTV放映に関する言及はない - で考察し、世界37カ国で視聴された裁判がどんなふうに撮られて届けられたのか、尋問と112人の証人による証言、併せて証拠映像そのもの、戦時のもの、裁判の実物映像、加えて裏方の苦労や献身、などなどを現代の我々がもういっかい見る。 それが起こっていた時間、裁かれていた時間、そこから55年を経て現代、の三段跳びを、現代の我々が現代のスタッフ・キャストを使った映画として、見る。

アイヒマンは大多数の視聴者やイスラエルの人々が「期待」していたような冷酷非道なモンスターではなく、我々とおなじような上の命令に従っただけの単なるお役人でしかなかったことが映像によって露わとなり、復讐/憎悪に加え、それらに対する当惑、苛立ちなどが渦巻いたことは知っている。 政治権力・組織がその構成員をどんなふうにしてしまうのか、ある集団内で正当化された行為を実行した(だけの)個人を裁くということはどういうことなのか、ジェノサイドに対する「証言」とはいったい何でありうるのか、などなど。 そして何よりも我々が我々に問うべきことは、この裁判を経て、あの放送がなされたことで、世界は本当によくなったと言えるのか、同じようなことがどこかで起こらないような認識とか決意を生んだり促したりするきっかけとなったのだろうか?

映画の後半で監督のLeoが(中継番組の成功による)周囲の熱狂から離れて暗い顔でどんよりしてしまうのは、このあたりのことなのではないか。 彼が映画作家として追求し、糾弾すべき「悪」もそれと向き合うはずの正義もここに映っていないようにみえる。 映っているのは痩せてやつれて無表情なひとりの中年男で、肝心なのはこの男の奥 or 背後にあった何かなのだが、そこにTV映像は到達できていない...

それが"Eichmann Show"ていうもので、TVていうのはそういうののみを映しだすだけの単なる装置なのだと。

強制収容所解放70周年を記念して作られた作品ではあるのだが、そこから離れて流れて現代のテロやヘイト、その起源へとに頭は向かってしまうのだった(だって止んでいないしさ)。
とてもまじめな作品なのでそっちのほうにもう少し矢印を向けられたらなー。

6.26.2016

[music] RIP Other Music

25日にManhattanのOther Musicが閉店する(ついさっき、した。はず)。
アナウンスがあってから、BoweryでTributeライブ(すごいメンツに膨れている)があったり、MSNBCで特集が編まれたり、映画になるとかいう話もあるし、広がりかたがすごいのでびっくりしている。
みんなそんなに愛していたのか...

このお店ができたのは95年で、音楽史的にはオルタナが爛熟期にあったころで、つまりはみんなが割と世界中の変てこな音を求め始めた頃、こんなのもあんなのもあり状態がふつーになりつつあった頃、でもあった。
それ以前は、欧州とか南米のプログレとかアヴァンギャルドとか(あとヨーロッパのじみな映画 - ロッセリーニとか - のビデオ)を探そうと思ったらBleeckerにあった穴ぐらのようなKim’s Undergroundていうとこくらいしかなくて、あとで聞いたらここにいたスタッフが始めたのがOther Musicだったと聞いてなるほどー、だった。

つかのまの黄金時代には、West 4th Stをはさんで反対側に結構でっかいTower Recordsがあって、マイナーでよくわかんない系のアナログをOtherで買ってからメジャーなCDをTowerで買う(両者の品揃えは重なっていない)、それでも物足りなければ少し歩いてVirginも、というとっても贅沢で理想的な音楽調達環境が、あの界隈にはあった。 ネット配信なんて、まだなかった頃よ。

そこから2度の米国お別れ直前にはどさくさで相当バカみたいに買ったし、出張の都度立ち寄って時間のせいにしてあんま考えずにひっつかんで買う、みたいなことをしていたので、ここはたぶん、これまでの人生で一番お金を費やしたお店Top10には入っていると思う。 でも集中してどの辺のを殿程度買ったのか、はあんま憶えていない。新譜も中古もノイズも実験音楽もエレクトロもフレンチもラテンもジャズもサントラも"Other"なのは、ぜんぶここにあるかんじがして、いつもその海に乗り出していくようだった。 “Other Music” - 看板に偽りなしだったねえ。

Other Musicの白板に手書きされた21年間のTop Sellers、なかなか感慨深い。
ここは年末にスタッフ全員のベストを同じように白板に手書きして発表していたのだが、一位になったBelle and Sebastianの”If You're Feeling Sinister” (1996)は、その年末、スタッフ全員がみごとに一位にしていて、なんだこれ? と思って自分も買って、なんだこれ? (ふうむ)っておもったの。
NYのベルセバ受容をドライブしたのがこのお店であったことは間違いない。

どんなにすてきなレコード店も本屋もいつかはなくなる、消えていくものだ、ていうのはわかっている。
御茶ノ水にあったCISCOだってパイドパイパーハウス(もうじき復活するねえ)だってなくなった。 でも本屋よりもレコード屋のほうが悲しみが深いようにおもう。本屋は本棚の前に立って本の背表紙を眺めて、本と世界に対峙する、自分と本と世界、その間の隙間を共有するコミュニティ感があるので素敵に気分があがるのだが、レコ屋って、何が入っているか他人にはわからない謎のエサ箱を個々が押しあいへしあいかりかり掘ったりつまんだりばかりで、とっても後ろ向きなかんじで、じっさい、未だにエサ箱を掘っていると、こんなとこでなにしてんだろ、て思うもんね。
でもだからこそ、宝の山かもしれないエサ箱を並べてくれたお店とそこで過ごした時間には愛と感謝が溢れてくる。こんなろくでなしのノラにおいしいエサをありがとね、って。
(映画館もレコ屋のほうに近いかも。 暗闇のなかでじーっとひとり)

でもなあ、ここにきて、West VillageにあるRebel RebelもSFのAquarius Recordsも閉じる、ていわれるとさすがにへっこむ。
(Rebel Rebelは90年代初め、ちょっと割高だけど英国盤を調達できる貴重なお店だった)
アナログレコードの復興、とか言っても、ビジネスとか消費のありようを変えるわけではないのね。 売れないお店は結局消えてしまうってことなのね。

これからNYでのレコードの調達はBrooklynまで行かなければならなくなってしまうのだわ。

でも、またどこかで会えるよね。


そうそう、なくなるといえば渋谷のパルコブックセンターであるが、Joseph Beuysのサイン本が70% offで置いてあったよ。

6.24.2016

[film] クリーピー 偽りの隣人 (2016)

低気圧と湿気があまりにしんどくてねむいのでこっちから先に書く。

19日、日曜日の夕方に新宿でみました。なんとなくー。
黒沢清の映画は黒沢清のプロみたいな書くひとがいっぱい書くので、ここではどうでもいい感想とか書いてつっこんでみるだけにする。

きもちわるいものがとってもきもちわるく、おっかないものがどこまでもおっかなくて、おもしろかった。

冒頭、警察で犯罪心理系の刑事をしている西島くんは取り調べ中に致命的なヘマして自分も刺されちゃって、物語はその一年後、彼が警察を辞めて大学で教える職を得て、妻の竹内さんとふたりで郊外の一軒屋に引っ越してきて、というところから。
新たな隣人となった香川くんのところに挨拶に行っても見るからに変でやなかんじ、ていうのと、大学の同僚が未解決事件簿みたいのを作っているのを見て、暇だし「趣味で」未解決の一家失踪事件に首つっこんでみる、ていうのが、並行していって、とにかくとっても気持ちわるいかんじになるの。

なにが気持ちわるいのかというと、隣人があんな変だったら、ていうかどっから見ても笑っちゃうくらい変なんだから関わらなきゃいいのに、チョコあげたりシチュー持っていったりしてるし、事件で痛い目にあって警察辞めたってのに捜査ごっこみたいのを止められずに現場までのこのこ出かけいくし(暇かよ)、そこにかつての同僚(東出くん - 君も暇なの?)を巻き込んじゃうし、犯人ていうのは3分類されて、未解決のはたいてい混合型のやつで、つまりわかんないのだ、とか得意そうに言ってるし。要はあなたなにひとつきちんと対応したり解決したりできないでしょ、それじゃだめでしょ、みたいなことを端からぜんぶやり続けて、そうしたら案の定ふたつの気持ちわるい事象は鍵穴のでこぼこみたいに合わさってとってもひどいことが見えてくるので、自業自得でぜんぜんかわいそうじゃなくて、なんか違和感が残るのだが、これって犯人を捜す、あるいは恐怖の出処を探す、謎を解くサスペンス・ミステリーとして見ようとするからで、そっちいっちゃだめでしょ、の方に憑かれたようにふらふらと寄っていく主人公たちの挙動とか現れる仕掛け設定とかはホラーのそれなんだよね、と、そういうふうに見ておけばおもしろいのかも、ておもった。

郊外の変なかたちに入り組んだ家 - 家とか、失踪後に廃屋になった家とか、がらがら重い鉄の扉とか、半端にはみでたカーテンとか、リビング?のビニールの仕切りとか、上へ上へと上がっていくカメラとか、注射針とかホルマリンとか竹内さんのデス声絶叫とか、気持ちわるさがきりきり滲んでくるホラーだよね。 あとは斧とか鋸さえあれば文句なし。
あと、ここに出てくる人の輪には誰ひとりにも近寄りたくないかんじ。

背後に御用心、が続いたので、あそこではわんわんがぜったい襲いかかる、と思ったのになー。
あそこだけ残念だったなあ。

そのたなんとなくつっこみどころとか ;

・シチューが余ったので食べてください、じゃなくて多めに作ったから食べてください、ではないのか?
・東出くんも笹野くんもなんでひとりであそこに入っていくの? 一緒に行ってくれるひといないの?
・あの人、お父さんじゃありません、なんて言われたらそこでまず警察、じゃないのか?
・川口さんの記憶はなんでいきなり、だんだん戻ったの? なんで彼女が喋ると周囲が暗くなるの? しんでるの?

それでもおもしろいし、おっかないよ。

続編は『Too Creepy 正直の隣人』。こんどは正直すぎる隣人のせいで痛い目にあうの。
Seth Rogenの”Neighbors”と同様にシリーズ化してほしい。 ぜったいあたるとおもう。

6.20.2016

[film] Désiré (1937)

19日、日曜日のお昼、アンスティチュで見ました。 前日の雪辱とおもったひと、パイーニ先生の講義で目醒めてしまったひと、たぶんいろいろでありえない行列ができていた。 
なんで日曜の昼間から30年代のフランス映画なんて見たいの、みんな?

『デジレ』。

女優のオデット(ジャクリーン・ドリュバック)の邸宅で、オデットには結婚していない内縁のはげの大臣がくっついていて、あと召使がふたり、お料理担当のアデルと小間使いのマドレーヌ(アルレッティ)がいて、ふたりの会話から今度新しい召使が来ることがわかって、やってきたデジレ(ギトリ本人)はしっかりしていて仕事もできそうなのだが、前の職場では恋愛関係でなんかあったらしい、と。

デジレは確かに有能で仕事はばりばりできて頼もしくて問題ないのだが、やがてオデットは寝言でデジレの名前を言って悶えるようになって、それが大臣に知れて、デジレも同じことをするようになって、それがマドレーヌに知れて、本人達はあまり意識していないのだが、あまりにやかましいので突っついてみると夢は解放され言葉が溢れてきて、二人とも真っ赤になって、だんだんに意識するようになって、恋の嵐は身分の差を超えることができるのかどうか、と。

前日の『夢を見ましょう』で、乗り越えるべき壁は相手が人妻である、ということだったが、今度のはもっときつい。おそらく。 でも、であるがゆえに。
仕事に関しては有能だしばりばりやるので大抵のことはできるし、夢のなかならあんなことでもこんなことでもできる、そして言葉で自分の想いはいくらでもどこまでも吐き出すことはできる。 唯一破れそうにないのがここにある階級の壁とか、ユニフォームの違いとか。

おもしろいのは身分や階級の壁の不条理あれこれを嘆いたり訴えたりする方向には向かわずに、ぴっちりしたコスチュームの縛りとか言葉でやらしくあおりたてたり悶えさせたりしつつ(Désiré = 欲望される男)、恋の醍醐味ってここだし、絶望 - 到達できない絶望、終りのない絶望 - なんて、そんなのふつうに、あたりまえについてくるでしょ、ていうように描いているところ。 ガチのSMみたいなもんなのだ、と。 覚悟はできているのか、と。

溝口だったら『近松物語』になっちゃうようなシチュエーションをギトリは識閾下・可視・不可視のものを効果的に織り交ぜて、その言葉と声で相手を圧倒してなぎ倒すとっても濃厚な恋愛喜劇(喜劇よね、これ)に仕上げていて、それって凄腕の召使(マシーン)であり道化であるデジレ=ギトリの真骨頂なのかも、とかおもった。

デジレのあの鞄のなかにはなにが入っているのかしら?  なんかとんでもなくやらしいものが?

29日の『あなたの目になりたい』も見ることができますようにー。


ああ、Anton Yelchin ...

6.19.2016

[film] Faisons un rêve... (1936)

18日、土曜日の夕方、アンスティチュの特集『恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章』のサブ企画であるサッシャ・ギトリの4本。 用事があって13時過ぎに着いたら既に最初の2本は売切れ、残っていたのは17時からのこれだけだった。それでももちろん見たいし。

『夢を見ましょう』  見たいもんだよう

こーんなにおもしろいとは思わなかった。びっくり。
知らなかった自分をはじるわ。ばかばかばか。

最初に6人編成の楽隊が結構長めに巧いんだか外れているんだかよくわからないけどなんかうねりまくる音楽をじゃんじゃか奏でて盛りあげて、熱い恋のゲームの幕が切って落とされるの。

パーティの後、彼(ギトリ)のアパートに夫婦が呼ばれて、でも呼んだ本人である彼はなかなか姿を見せなくて、苛立った夫がそわそわ怪しげに中南米の誰かと会わなきゃいけないから、とそこを出ていった後で彼は姿を現して、残された妻 - 彼女(ジャクリーン・ドゥリュバック)に愛の告白をして、彼女もそれを受け入れて、その晩9時にアパートで会おう、て彼は誘う。

その晩9時の来るべき逢瀬に向けた彼の期待と不安と苛立ちと熱狂、熱狂というのか色狂いというのか、とにかく凄まじいエネルギーと情熱でひとりでべらべらべらべら、ラップのように落語のように喋りたおす。
彼女がこの場所に現れる、彼女を抱きしめるまさにその瞬間に人生ぜんぶ賭けて、彼女はいまどこにいてなにをしているはず、万一、もししていないのだとしたらこうなっているはず、ひょっとしたら・もしかしたら・場合によっては、などなどを延々、やがてカウントダウンまで始めて、でもやっぱり来ないので電話しようかどうしようか、電話したら繋がらないし繋がったと思ったらさくらんぼ酒の注文とか来るし、やっと繋がって話してもなんかつれないかんじだし、ああもうだめなのかもしんないけどでもたとえそうなったとしても ....  と思ったところで魔法と奇跡がいっぺんに起こって彼女が! そこに!!(... 素敵だよねえ、しみじみ)

で、ふたりは夜を過ごして気がついたら朝の8時で、どうしよう、てあたふたする彼女と彼女を助けてあげたいのとこれを機に別れさせてしまいたいの両方で頭がぱんぱんの彼がコーヒーにバタパンなんかを食べていたら突然ドアがノックされ、そこには彼女の夫が立っていて朝帰りしちゃった言い訳をどうしよう ... て言ってくる。

ラストはもちろん冒頭の楽隊の愛の調べ(たぶん)がうなりをあげて終る。


上映後のパイーニ先生の講義、木曜日のお題はまだすこしだけ予備知識があったけど、今度のはまっさらだったので砂場にしみる水のようで - それじゃなんも残んないか - とにかくおもしろかった。

有名な俳優だった父親のルシアン・ギトリの紹介から入って、ロシアで浮気性の父親に育てられたので女好きはこの頃からで、学校の成績はビリだったが父親のおかげで文学的教養はあって、16歳で最初の戯曲を書いてからはずっと演劇人としてやってきた。

なので映画はたんなるドキュメンタリー、程度に見ていたが「祖国の人々」- “Ceux de chez nous” (1915) で映画の重要な機能 - セルロイドフィルムに永遠を焼き付けることができる - に気がついて、記録としての缶詰めとしての映画にも注力するようになる。

この辺、リュミエール兄弟も同じで、幸福な瞬間に永遠を見る、そのダイナミズムを捕らえる装置としての映画を、と先生は言っていたが、ここは木曜日の講義を踏まえると少しだけ注意が必要かも。

ただ彼の映画への関わりはあくまでも演劇人としてのそれであり、スペクタクル、イリュージョンとしての演劇の特性や可能性を追求するためのもの、故に映画的技巧はバカにしていたようにも見える。 他方で映画でのみ可能となるショットの追求とか、作られている過程をそのまま見せてしまうようなモダンな映画技法を手袋を裏返すように示してしまう。

映画技法のほかに、役者としてはバーレスク的身体をもった映画作家(同系の作家にキートン、チャップリン、ジェリー・ルイス、タチ)として自身の身体や声をマシーンとして組織化し、署名し、刻印する(同様の声の作家としてのコクトー、デュラス)。そこには同時に、言葉でしか世界をコントロールできないことに対する絶望感、孤独、死に対する畏れがあって、その涯に必然的に現れる闇を象徴的に描いた作家としてのユスターシュ、ガレル、オノレ、そしてユスターシュとギトリの間にいるゴダールと。

講義のあとで少し思ったのがここんとこ自分のなかで話題のロメールで、ロメールの映画にも思い込みの激しい色狂いの変態野郎っていっぱい出てくるし、たぶん一緒になりたいキスしたい想いの熱総量はギトリ映画の主人公(のギトリ)と同じくらいだと思うのだが、ロメールは徹底してカメラ(マン)の背後に隠れて俳優を困惑させようとしてはいないだろうか。 それって演劇から来たのと文学から来たのの違いなのかしら、とか。

そういえば『パリのランデブー』(1994) では2人組の楽隊がいたけどなー。

まあとにかく、こんなおもしろい映画作家を(今頃)発見してしまったので、もっと見たいよう、てわあわあ言い続けるしかない。 2日間、チケットあっというまに売り切れ、とうぜんだわよ。