6.19.2016

[film] Faisons un rêve... (1936)

18日、土曜日の夕方、アンスティチュの特集『恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章』のサブ企画であるサッシャ・ギトリの4本。 用事があって13時過ぎに着いたら既に最初の2本は売切れ、残っていたのは17時からのこれだけだった。それでももちろん見たいし。

『夢を見ましょう』  見たいもんだよう

こーんなにおもしろいとは思わなかった。びっくり。
知らなかった自分をはじるわ。ばかばかばか。

最初に6人編成の楽隊が結構長めに巧いんだか外れているんだかよくわからないけどなんかうねりまくる音楽をじゃんじゃか奏でて盛りあげて、熱い恋のゲームの幕が切って落とされるの。

パーティの後、彼(ギトリ)のアパートに夫婦が呼ばれて、でも呼んだ本人である彼はなかなか姿を見せなくて、苛立った夫がそわそわ怪しげに中南米の誰かと会わなきゃいけないから、とそこを出ていった後で彼は姿を現して、残された妻 - 彼女(ジャクリーン・ドゥリュバック)に愛の告白をして、彼女もそれを受け入れて、その晩9時にアパートで会おう、て彼は誘う。

その晩9時の来るべき逢瀬に向けた彼の期待と不安と苛立ちと熱狂、熱狂というのか色狂いというのか、とにかく凄まじいエネルギーと情熱でひとりでべらべらべらべら、ラップのように落語のように喋りたおす。
彼女がこの場所に現れる、彼女を抱きしめるまさにその瞬間に人生ぜんぶ賭けて、彼女はいまどこにいてなにをしているはず、万一、もししていないのだとしたらこうなっているはず、ひょっとしたら・もしかしたら・場合によっては、などなどを延々、やがてカウントダウンまで始めて、でもやっぱり来ないので電話しようかどうしようか、電話したら繋がらないし繋がったと思ったらさくらんぼ酒の注文とか来るし、やっと繋がって話してもなんかつれないかんじだし、ああもうだめなのかもしんないけどでもたとえそうなったとしても ....  と思ったところで魔法と奇跡がいっぺんに起こって彼女が! そこに!!(... 素敵だよねえ、しみじみ)

で、ふたりは夜を過ごして気がついたら朝の8時で、どうしよう、てあたふたする彼女と彼女を助けてあげたいのとこれを機に別れさせてしまいたいの両方で頭がぱんぱんの彼がコーヒーにバタパンなんかを食べていたら突然ドアがノックされ、そこには彼女の夫が立っていて朝帰りしちゃった言い訳をどうしよう ... て言ってくる。

ラストはもちろん冒頭の楽隊の愛の調べ(たぶん)がうなりをあげて終る。


上映後のパイーニ先生の講義、木曜日のお題はまだすこしだけ予備知識があったけど、今度のはまっさらだったので砂場にしみる水のようで - それじゃなんも残んないか - とにかくおもしろかった。

有名な俳優だった父親のルシアン・ギトリの紹介から入って、ロシアで浮気性の父親に育てられたので女好きはこの頃からで、学校の成績はビリだったが父親のおかげで文学的教養はあって、16歳で最初の戯曲を書いてからはずっと演劇人としてやってきた。

なので映画はたんなるドキュメンタリー、程度に見ていたが「祖国の人々」- “Ceux de chez nous” (1915) で映画の重要な機能 - セルロイドフィルムに永遠を焼き付けることができる - に気がついて、記録としての缶詰めとしての映画にも注力するようになる。

この辺、リュミエール兄弟も同じで、幸福な瞬間に永遠を見る、そのダイナミズムを捕らえる装置としての映画を、と先生は言っていたが、ここは木曜日の講義を踏まえると少しだけ注意が必要かも。

ただ彼の映画への関わりはあくまでも演劇人としてのそれであり、スペクタクル、イリュージョンとしての演劇の特性や可能性を追求するためのもの、故に映画的技巧はバカにしていたようにも見える。 他方で映画でのみ可能となるショットの追求とか、作られている過程をそのまま見せてしまうようなモダンな映画技法を手袋を裏返すように示してしまう。

映画技法のほかに、役者としてはバーレスク的身体をもった映画作家(同系の作家にキートン、チャップリン、ジェリー・ルイス、タチ)として自身の身体や声をマシーンとして組織化し、署名し、刻印する(同様の声の作家としてのコクトー、デュラス)。そこには同時に、言葉でしか世界をコントロールできないことに対する絶望感、孤独、死に対する畏れがあって、その涯に必然的に現れる闇を象徴的に描いた作家としてのユスターシュ、ガレル、オノレ、そしてユスターシュとギトリの間にいるゴダールと。

講義のあとで少し思ったのがここんとこ自分のなかで話題のロメールで、ロメールの映画にも思い込みの激しい色狂いの変態野郎っていっぱい出てくるし、たぶん一緒になりたいキスしたい想いの熱総量はギトリ映画の主人公(のギトリ)と同じくらいだと思うのだが、ロメールは徹底してカメラ(マン)の背後に隠れて俳優を困惑させようとしてはいないだろうか。 それって演劇から来たのと文学から来たのの違いなのかしら、とか。

そういえば『パリのランデブー』(1994) では2人組の楽隊がいたけどなー。

まあとにかく、こんなおもしろい映画作家を(今頃)発見してしまったので、もっと見たいよう、てわあわあ言い続けるしかない。 2日間、チケットあっというまに売り切れ、とうぜんだわよ。

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