また少し時間を遡る。 5月15日の日曜日の昼、恵比寿でみました。
『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』
15年による逃亡生活の末にアルゼンチンで身柄を拘束され、イスラエルに移送されたアドルフ・アイヒマンは1961年、イェルサレムで裁判にかけられることになって、その裁判の様子をTV放送すべく、アメリカからプロデューサーのMilton Fruchtman (Martin Freeman)と赤狩りで干されていたドキュメンタリー畑の監督のLeo Hurwitz (Anthony LaPaglia)がやってくる。 ふたりは司法当局側の注文 - カメラを見えないように - に応えたり、TV放映開始後の妨害とかプレッシャーとか、いろんな困難を乗り越えて世紀の裁判の模様を全世界に届けていくのだが、そういう苦労克服モノとして見ておわり、ではなくて、いろんなことを投げかけてくる。
55年前、ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』 - ざっと見返してみたけどここにこのTV放映に関する言及はない - で考察し、世界37カ国で視聴された裁判がどんなふうに撮られて届けられたのか、尋問と112人の証人による証言、併せて証拠映像そのもの、戦時のもの、裁判の実物映像、加えて裏方の苦労や献身、などなどを現代の我々がもういっかい見る。 それが起こっていた時間、裁かれていた時間、そこから55年を経て現代、の三段跳びを、現代の我々が現代のスタッフ・キャストを使った映画として、見る。
アイヒマンは大多数の視聴者やイスラエルの人々が「期待」していたような冷酷非道なモンスターではなく、我々とおなじような上の命令に従っただけの単なるお役人でしかなかったことが映像によって露わとなり、復讐/憎悪に加え、それらに対する当惑、苛立ちなどが渦巻いたことは知っている。 政治権力・組織がその構成員をどんなふうにしてしまうのか、ある集団内で正当化された行為を実行した(だけの)個人を裁くということはどういうことなのか、ジェノサイドに対する「証言」とはいったい何でありうるのか、などなど。 そして何よりも我々が我々に問うべきことは、この裁判を経て、あの放送がなされたことで、世界は本当によくなったと言えるのか、同じようなことがどこかで起こらないような認識とか決意を生んだり促したりするきっかけとなったのだろうか?
映画の後半で監督のLeoが(中継番組の成功による)周囲の熱狂から離れて暗い顔でどんよりしてしまうのは、このあたりのことなのではないか。 彼が映画作家として追求し、糾弾すべき「悪」もそれと向き合うはずの正義もここに映っていないようにみえる。 映っているのは痩せてやつれて無表情なひとりの中年男で、肝心なのはこの男の奥 or 背後にあった何かなのだが、そこにTV映像は到達できていない...
それが"Eichmann Show"ていうもので、TVていうのはそういうののみを映しだすだけの単なる装置なのだと。
強制収容所解放70周年を記念して作られた作品ではあるのだが、そこから離れて流れて現代のテロやヘイト、その起源へとに頭は向かってしまうのだった(だって止んでいないしさ)。
とてもまじめな作品なのでそっちのほうにもう少し矢印を向けられたらなー。
6.27.2016
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。