10.10.2015

[film] Dumb and Dumber To (2014)

19日の土曜日ひるま、浅草のしたまちコメディ映画祭で見ました。
多くのひとがそうだったと思うのだが、前の晩にものすごく屈辱的なことがあって頭が沸騰していて、クールダウンしなきゃ、ていうか109分だけでもバカの世界に身を退いてみよう、ていうのもあった。

映画祭のラインナップが出たとき、あんま公開される気がしなかったのでとりあえずチケット取ったの。 (だから”The Kings of Summer”も見れなかった。あと翌日から出張で”Absolutely Anything”も見れなかった ..)

ほんもんのBobby Farrellyもいとうせいこうも見れたし、よかった.. としておこう。

前作から20年、病院で廃人状態になっているLloyd (Jim Carrey)をHarry (Jeff Daniels)はずうっと介護しつづけていたのだが、Lloydが突然目覚めて(その理由がまたどうしようもなさすぎて泣ける...)、こんどは腎臓移植が必要なHarryのためにふたりでどたばた走り回ることになるの。

筋はその程度でじゅうぶんなの。 あとは天才バカボンの世界だから、なにがどうなったって、これでいいのだ、しかないの。 腎臓を求めて世界を旅するバディムーヴィー、その彷徨い感もロードトリップ感もこれっぽっちもでないまま、行く先々で屁を垂れ流していくばかりなの。

この続編製作が発表されたとき、自分ものけぞったし(せまい、とってもせまい)世界中がどよめいたものだったが、それでもこんなもん - そういうクオリティみたいなとこも含めてだれもがこんなもんだと思っていたし、そういう期待にじゅうぶんかつてきとーに、見事に、応えているとおもう。 だれもが満足して納得して5分もしたら微塵も憶えていない、あるのは屁の残り香、程度であるという。

あんな老人になりたいもんじゃのう。


あんま関係ないけど11月の「メナヘム・ゴーラン映画祭」はぜったい必見だから。
2010年11月、Lincoln Centerで行われた特集"The Cannon Films Canon”から5年、日本でもついに、ようやく、”The Apple” (1980) が見れる!! 監督(Menahem Golan)が自信たっぷりで作ったロックオペラだったのに、モントリオール映画祭で上映したら客がみんな帰っちゃって絶望してホテルで飛び降り自殺しようとした、ていう ... それくらいの大傑作なんだから。

[theatre] Frankenstein

16日の水曜日の晩、National Theatre Liveの上映があったので池袋に行って、見ました。
なんで池袋でしかやらないのかよくわかんないのだが、フランケンシュタインだから?

監督・演出はDanny Boyle、音楽はUnderworld。舞台そのものの上演は2011年。
原作はもちろん、Mary Shelleyだがもう読んだのは随分むかしのことなのでほぼ憶えていない。

主演のふたり、Benedict CumberbatchとJonny Lee Millerがフランケンシュタイン博士と怪物を交互に演じていて、見た回はBenedict Cumberbatchが怪物のバージョン。 彼が博士のは昼間の回でやっていて、両方見るほどでもない気がしたし、彼、どっちかと言えば怪物よね、程度。

なんか膜のようなものの向こうから怪物がぬるりと生まれ出て、じたばたどたどたもがき苦しんでやがて2本脚で立ちあがって歩き始める。 ここまでが白塗り舞踏系、コンテンポラリーダンスふうの結構長いソロで、Cumberbatchの馬みたいな容姿もこれはこれで見事に均整とれているのねえ、とか思う。

怪物はやがて農家の盲目のおじいさんと出会って言葉を覚えて、やがてそこも追われて、いろいろな人たちと会っては畏れられ蹴飛ばされながら、すごいスピードでヒトの知性を身につけ、たどたどしかった言葉は雄弁になり、でも化け物は化け物としか認知されず、ようやく自分を作ったフランケンシュタインのところに辿り着いても拒絶されて結局 …

90年代中頃、Danny BoyleとかUnderworldあたりが生み出したボールドで野蛮で煙草とクスリ臭い、所謂”Brit”として括られるようなイメージがなーんか苦手なので、そういうのと原作のゴシック・ホラー・クラシックなかんじが、どこでどう折り合うのかしら、と思っていたら、なーんだ、ヴィクトリア朝とかスチームパンクとか、そういう方向なのね、なのだった。(わかりやす)

でも、だからといってストーリーや思想として圧巻の重みや深みを見せるかというとそんなでもなくて、結局残ったのは博士と怪物の(俳優の)突出した存在感のみ、つぎはぎ(→ 怪物)のイメージを並べていった程度だったかも。 カメラも真上からの俯瞰とか斜め横とか、ダイナミックなようで舞台なんだからもうちょっと落ち着けば、とか。

でもでも、怪物と博士がまばゆく光る原野の向こうに走り出していくエンディングは、原作とはたぶん相当、ぜんぜんちがうけど、その力強さはなんか悪くなかったの。


帰りは有楽町線で、くたくただったが気がついたら桜田門の駅だったのでそこで降りてデモに行って11時過ぎまでいた。荒んだ気分にはBritだよねえ。

10.06.2015

[film] 聶影娘 (2015)

13日の日曜日の午後、初台から新宿に移動してみました。
「黒衣の刺客」、英語題は“The Assassin”。

中国の唐代末期、今から1200年くらい前、河朔三鎮(かさくさんちん)とか魏博(うぇいぼー)とか節度使とかそんな固有名詞が冒頭の説明に並んでいくだけでくらくらして帰りたくなるけど我慢しよう。
誰がどうしたとかあんまよくわかんなくても、うぇいぼーが人の名前だったか土地の名前だったかわかんなくなって泣きたくなっても、どうにかなる。 宮廷中央との力関係とか妾に子供ができたとか陰謀だらけでわけわかんねとかなんでそんなに踊るんだとか妻夫木聡はなんだんだとか、宙を仰いで泣きたくなっても映画のブリリアントなとこはこれっぽっちも損なわれない。

13年前に女道士のところに預けられた隠娘(いんにゃん:舒淇)が両親のところに戻ってくるのだが彼女は暗殺者に仕立てられていて、元許嫁の節度使 - 田季安を殺そうとするのだが、殺せなくて悩んで苦しんで失敗して大変だったりするの。

背景とか筋とかはそんなもんなのだが、モノクロになったりカラーになったり横に伸びたり縮んだりする画面がすごくて、そのすごさって物語のスペクタクルなんかとはまったく連動せず、画面に漲る緊張感と殺気に触れて瞳孔が広がるのとおなじようだ … とか息をのんでいると刺客がどすっ。

アクションに派手さはなくて、ソリッドでやたらかっこいい黒衣と共にミニマル・モダンの舞いが速すぎてわかんなくて、でも打突の音はとっても強くて痛そうで、刺客というのはそんなふうに闇の奥から風のように突然来る、ていう「刺客」とか”Assassin”のイメージそのもの、タランティーノとかには描きようのない力とか倫理のなかで切なく生きるものたち。

これが1200年前の唐朝ローカルのお話しである必然なんてどこにもない気もするが、野山があって移動は馬で床に座ったり舞ったり、という世界である必要はあるのかも。弓矢とか鉄砲といった飛び道具の時代ではまだなくてヒトもまだそんなに飛ばなくて、肉弾と打突と衣擦れの一瞬のなかでひとは生きたり死んだり消えたりする、そういう世界でのたとえば愛、たとえば涙、たとえば安息、とか。

あと、侯孝賢の映画だよねえ、てしみじみする。「最好的時光 : 百年恋歌」 (2005) が3つのてんでばらばらな時代を描いてもその質感になんのギャップもなかったのと同じように、そこからさらに大昔の宮廷武芸帖であってもあきれるくらい侯孝賢のしっとりした湿気と衣の襞が画面に貼りついていて、ただただ美しいったら。

できればもう一回、いや何回でもみたいなあー

10.05.2015

[art] Wolfgang Tillmans - Your Body is Yours

順番が少し前後するけど、写真関連ということで続けて。
18日の金曜日のごご、大阪に行って40分しゃべる/しゃべれという仕事があって、これを見れるかもしれないのなら、ということで受けて行ってきた。

もちろん、大阪なんて生まれてから5回くらいしか行ったことないのでぜんぜんわかんなくて、でもGoogle Mapって便利だねえ(← 最近ようやく覚えてきた)とか言いつつ、国立国際美術館(← へんな名前)にたどり着いた。

日本の美術館では11年ぶりとなるらしい個展。
でっかいのも小さいのも写真アートみたいのもスナップみたいのも切り抜き帖みたいのもある。

写真のありようをものすごく大雑把に自分をとりまく世界をとらえるやつと世界に立ち向かう自分をとらえるやつに二分してみたとき、あるいはランドスケープとソーシャル、メディアとコンテンツ、具象と抽象、メジャーとマイナー、みたいな市場にある二項で切ったり割ったりしてみたとき、Tillmansは圧倒的な物量でもって、それら全部、と言おうとしている。 パンクもハウスもヒップホップもノイズもジャズもオペラも、全部を片っ端から垂れ流しにしていくラジオ局みたいに。

世界は目に見えないゴミやノイズも含めて可視化される必要がある。なぜって世界はめまぐるしく変わっていくし、政治もメディアもみんなうそつき(→ Truth Study Center:テーブルの上で簡単に手に取れる真実)だし、ひとりひとりの眼が見ているものはそれぞれの現実に応じて全部違うからだ - そういう流れのなかでなにかが歪んで変な方に向かっていやしないか? -  ていうのがおそらく彼の”Neue Welt”という考えの根底にはあって、彼はその徹底的な可視化を写真を使って世界のあらゆる場所で、全面的に仕掛けようとしている。 だからそこにはインスタレーションも含めて、今の写真と呼ばれるメディアが捕らえうる、形づくることができるあらゆる「世界」の形象が、約束事が、レイアウトが、とりあえず、のように並べられ、重ねられ、束ねられている。

でもさー、だからどないしろっちゅうねん?  ていう問いに彼は明快に答えるだろう。
“Your Body is Yours”  - あんたの身体はあんたのもんや、と。 売りもんちゃうで、と。

(展覧会を大阪でやったのはこの辺のニュアンスを伝えたかったのではないか  - 大阪弁じゃなかったらごめんなさい)

なんでそこまで?  Tillmansにとって写真とはそのための、そういう装置だから、としか言いようのないなにかが漲ってとぐろを巻いている。

鈴木理策の展示と同じように会場をぐるぐる3周くらいして見えてくるものがあって、Webのアーカイブとかで見ればいいってもんじゃないんだねえ、とおもった。
カタログは太いゴムバンドで束ねてあって、このゴムが例えば5年後にどんなふうになるか、よね。

蒸し暑い午後で、仕事はぜんぜんだめだったが、帰りに川に浮かんだでっかいあひるを見て和んだ。

帰りの新幹線に乗る前にイカ焼き、ていうのを買って車内で食べた。 バナナみたいに剥いて食べてください、と言われたのだが、そうしたらやっぱしシャツにソースが飛び散って泣きそうになった。 イカ焼きはバナナではない、よね。

10.04.2015

[art] 鈴木理策写真展 意識の流れ

13日の日曜日の昼間、(いつものように京王線でおろおろ間違ってから)初台で見ました。
割とむかしにあった気がする東京都写真美術館での個展 - 「熊野、雪、桜」以来か。

展示の冒頭に『カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置』というテキストが貼ってあり、これが展示全体のイントロダクションになっていて、8×10inの大型写真の異様な鮮明さと遠近の極端な誇張(前景のボケ)などに浸ったり戻ったり、脳の一部がひくひくしたり網膜の裏がまっしろになったり、を繰り返していると、だんだんに身体の外に成立してもおかしくない知覚、のようなものが「見えて」くる。 知覚と記憶の混濁、具象から抽象へ、やがてそうして見る対象が内側(内側のような外側)に入りこんで立ち上がってきて、そういう体験を、例えばセザンヌは自身の「描く」という行為を通して繰り返し語ってはいなかった、かしら。

冒頭のテキストの「カメラ」を「絵画」に、「知覚」を「記憶」に置き換えることで「装置」はやがて撮影された、描かれた「自然」に他ならないことを知るのであって、会場はそうした一連のプロセス ~ 展覧会のタイトルにある「意識の流れ」を意識的に追える(見える)ような構成になっていた。

(特に後期の)セザンヌが執拗に追求していった画布の上に山や林檎の存在のありよう、とか、存在そのもの、とかを表象させること、その工程を追っていくうちに写真という「表面」の持つ可能性に、気づいたのだろうか - サント・ヴィクトワールで山そのものを捕らえようとし、セザンヌのアトリエの撮影でセザンヌの視線を追っていく作業は、どこにどのような影響をもたらしたのか、聞いてみたくなった。

あと、身も蓋もない言い方かもしれないが、海があって森があって雪(固まりと結晶)があって水面が揺れてて、なんも考えないで見ても/見つめてもそれはそれで世界が入ってくる、写しだされた世界の力強さとか説得力とは別の次元でそういうのがあって、おもしろいと思った。 写真の展示のようで実はそこに写真はない、水面の膜みたいのが揺れてあるだけ -  と言ってよいのかどうか。

[film] St. Vincent (2014)

中野で”Wet Hot American Summer”を見たあと、まあ確実に無理だろうけどひょっとしたら(願)、ひょっとしたら(祈)、と京橋のサミュエル・フラーの当日券を求めて移動してみたのだが、入り口入って2秒でなにいってんのあんた? みたいにあっさり門前払いくらって、しょうがないのでそのまま日比谷にしょんぼり歩いていってこれ見ました。

『ヴィンセントが教えてくれたこと』

うん、ヴィンセントが慰めてくれたよ。

飲んだくれの無頼漢、荒れ放題のVincent (Bill Murray)んちの隣に越してきたMaggie (Melissa McCarthy)とOliver (Jaeden Lieberher)の母子がいて、病院で仕事をしているMaggieは忙しいからOliverの子守りをVincentに頼んで、Vincentはガキなんて大嫌いなのだがお金がほしいから引き受けて、転校したばかりでいじめられているOliverを助けたり、Oliverになんか助けられたり仲良くなっていくのだが、やがてVincentの過去も含めたいろんなことがわかってきて、そのうち彼は不摂生が祟ってぶったおれて、などなど。

他にもVincentの傍にいる妊婦で娼婦のNaomi Wattsとか、Oliverの担任の神父Chris O'Dowdとか、やばそうなちんぴら金貸しのTerrence Howardとか、脇も素敵で、なんか昭和の長屋人情ドラマみたいなかんじなの。 タイトルは「聖ヴィンセント」だしね。

最後はわかりきっているのだが、あそこでBill Murrayがなんかネタやってくれると思ったのにな。
久々にBill Murray節が炸裂しそうなのは”Rock the Kasbah”だねえ、とこないだ予告見ておもった。

ところで、Melissa McCarthyがあんなしっかり者の母親を真面目に演じているのもびっくりだったが、Oliver役のJaeden Lieberherくんは、”Aloha”でも同じようにやたら利発で理屈っぽい子供を演じていて、そこでの母親はRachel McAdamsだもんだから、Melissa McCarthyとRachel McAdamsのギャップを埋める父親の遺伝子とはどんなもんなのだろうか、とかぼんやり思った。

あと、ポイントは白豚猫のFelixね。 部屋があんなに汚いのに猫だけは白くてまるまる、と。

[film] Wet Hot American Summer (2001)

もう10月かあ。
9月12日の土曜日の午後、中野(何年ぶりだろ)のこじんまりした劇場で見ました。

こういうのには普通に飢えているので当然のように見るの。Netflixとかで見れるらしいのだが、そんなのどうやったら繋げるのかわかんないもん。

公開された2001年だったら米国で暮らしていたはずなのに覚えていないのは、来たばっかしで設営とかに忙しかったからだろう(公開は7月27日だって)。

81年、アメリカのどこかのサマーキャンプの最後の日。
あんまやるきなしの運営する大人たち、子供たちはどうでもいい指導員たち、大人はどうでもよくてやりたい放題の子供たち、隣人などなど、これらがダンゴになって夏の最後の鬱憤だの欲望だのを思いっきり絞りだしたり吐きだしたり、規範も規律も教育もあったもんじゃなくて、大人も子供も野に放たれたただの動物。 学校モノであり職場モノであり擬似家族モノであり、それらをぜんぶ無軌道に痛快にぶっこわして、でも勿論だれも責任とろうとしない。出てくるぜんいん、自分がいちばん大事だし自分がいちばん正しくて偉いと思っている。 そんなどたばたコメディ。

そんなふうに出てくる大人たちは、Janeane Garofalo, Michael Showalter, Paul Rudd, Molly Shannon, Amy Poehler, Bradley Cooper, Elizabeth Banks, Peter Salett、などなど。
どいつもこいつもまだぴちぴちしてて一生懸命で愛らしいったら。

上映後の山崎まどかさんによるトークは、監督のDavid Wainとその周辺についてああそうだったのね!の連続だった。 “The State”の連中だったのかー。 でも放映していた頃って、TVはMTV漬けだったけど、笑いのツボのようなとことがあまり掴めなくてよくわかんなくて、TVのコメディに関しては断トツでSNLだった。 だってこの頃のメンバーときたらAdam SandlerがいてChris FarleyがいてRob SchneiderがいてDavid SpadeがいてMike MyersがいてPhil HartmanがいてNorm MacDonaldがいたんだよ。 毎週ほんとに笑い死にするかとおもった。

この頃の彼らと、これに続く(一瞬沈んで、96年くらいからの)Will Ferrellの時代が自分のコメディ世界観を作ったんだなあ、て最近おもう。

あと、こういうコメディグループやシーンの話しになると、よくMonty Pythonが引き合いに出されるけど、Monty Python、そりゃ大好きだけど、お互いぜんぜん別モノだからね。英国のバンドと米国のバンド比べてあれこれ言ってもしょうがないでしょ、ふつう。
ていうのと、最近思うのは共時性みたいなこと、同じMonty Pythonでも東京12チャンネルで見ていた人たちとその後に知った人たちとで受け取り方は大分違うはず。

2015年版の”Wet Hot ... ”はどうだろうか。そりゃ見たいけど、バンドの再結成ライブを見るのとおなじかんじかしら。

あと、あんな見事なパンフレットまで付いた上映会、本当にすばらしいったら。
翌週の”The Kings of Summer”も見たかったけど、行けなかったよう。