10.04.2015

[art] 鈴木理策写真展 意識の流れ

13日の日曜日の昼間、(いつものように京王線でおろおろ間違ってから)初台で見ました。
割とむかしにあった気がする東京都写真美術館での個展 - 「熊野、雪、桜」以来か。

展示の冒頭に『カメラとは身体の外に知覚を成立させる驚くべき装置』というテキストが貼ってあり、これが展示全体のイントロダクションになっていて、8×10inの大型写真の異様な鮮明さと遠近の極端な誇張(前景のボケ)などに浸ったり戻ったり、脳の一部がひくひくしたり網膜の裏がまっしろになったり、を繰り返していると、だんだんに身体の外に成立してもおかしくない知覚、のようなものが「見えて」くる。 知覚と記憶の混濁、具象から抽象へ、やがてそうして見る対象が内側(内側のような外側)に入りこんで立ち上がってきて、そういう体験を、例えばセザンヌは自身の「描く」という行為を通して繰り返し語ってはいなかった、かしら。

冒頭のテキストの「カメラ」を「絵画」に、「知覚」を「記憶」に置き換えることで「装置」はやがて撮影された、描かれた「自然」に他ならないことを知るのであって、会場はそうした一連のプロセス ~ 展覧会のタイトルにある「意識の流れ」を意識的に追える(見える)ような構成になっていた。

(特に後期の)セザンヌが執拗に追求していった画布の上に山や林檎の存在のありよう、とか、存在そのもの、とかを表象させること、その工程を追っていくうちに写真という「表面」の持つ可能性に、気づいたのだろうか - サント・ヴィクトワールで山そのものを捕らえようとし、セザンヌのアトリエの撮影でセザンヌの視線を追っていく作業は、どこにどのような影響をもたらしたのか、聞いてみたくなった。

あと、身も蓋もない言い方かもしれないが、海があって森があって雪(固まりと結晶)があって水面が揺れてて、なんも考えないで見ても/見つめてもそれはそれで世界が入ってくる、写しだされた世界の力強さとか説得力とは別の次元でそういうのがあって、おもしろいと思った。 写真の展示のようで実はそこに写真はない、水面の膜みたいのが揺れてあるだけ -  と言ってよいのかどうか。

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