1.11.2025

[film] Nickel Boys (2024)

1月6日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
LFFでかかった時に見たくてずっと粘ったのだが見れなかった1本。クリスマスの様子が描かれたりもするのでもう少し早く公開してくれてもよかったのに。

原作はColson Whiteheadの2019年の同名小説、監督はドキュメンタリーともフィクションともつかない”Hale County This Morning, This Evening” (2018)が印象的だったRaMell Ross - 見終えてからこれを撮った人だったか! って(気づくの遅い)。

あの映画がそうだったように最初のうちは何がどうして映っているのかよくわからなかったりする。ぼんやりノイズが入ったような、過去の記憶を引き出そうとするときの断片やそれらが繋がっていかないもどかしさが、地面とか木になったオレンジとか、その色とかに現れてくる。

やがてそれはElwood (Ethan Herisse)という少年の視線 - 一人称のものであることがわかってきて - だから初めの方で彼の顔はわからない - Martin Luther Kingや公民権運動に関心があって、彼の視界に入り込んでくる彼の優しそうなグランマ(Aunjanue Ellis-Taylor)の様子から彼がよいこであることが見えてきたところで、好意で乗せてもらった車が盗難車だったことからNickel Academyという矯正施設 - フロリダに別の名前で実在したに入れられて、そこでTurner (Brandon Wilson)と知りあって友人になる経緯が綴られる。

そこからカメラ、というか目線はTurnerのそれに変わっていったり、現代でPCを前に頭を抱えている男性の後ろ姿になったりして、それらを繋いでいくと複数の視線でNickel Academyで起こったことを静かに追っていることが見えてくる。

施設に入れられている白人の子と黒人の子の間には明確な待遇の違い - 差別があり、黒人の子は別の場所に呼びだされ連れ出されて性的なのを含む虐待と暴力が茶飯事で、ボクシングの試合で八百長に応じなかった子は目配せひとつでどこかにやられ、現代では施設の跡地から大量の子供たちの骨が発掘されている、というニュース映像が流れている。

虐めにまみれ辛かった日々を懸命に生きた(涙)、というドラマではなく、なんで? という不条理に慣れないながらもElwoodとTurner、その他の子供たちもとにかく生きていた - それしかできなかった - その果てが掘り出された無名の骨たちで、彼らは”Nickel Boys”としか呼ばれなくて、それってどういうことかわかる? というお話し。

あの視線、というか人称が転移・転生していくようなカメラの動きはそういうことだったのか、というのと、それを語る主体、そういうリレーをさせている想いは、とかいろんなことを思う。何万といたであろうElwoodとTurnerたち。ごめんね。自分は君らの側に立つから。誰になんと言われようとも。

人種差別の歴史ははっきりとあったし今だに続いているし、これらをどう語って繋いでいくのか、まだこんなふうに語ることができる、そしてどれだけ語っても彼らの痛みや無念には届くことがないのだ、というのに気づかせてくれる作品だった。監督は、それをさせたのはElwoodとTurner - Nickel Boysだ、というのだろうが。

日本も遊廓からヨットスクールから精神病棟から、昔から同じように親の勝手な恥都合で犠牲にされてしまった少年少女は山ほどいたはずなのに、いまだに社会としてなにひとつの謝罪も反省もしようとしない、いまだに闇の中にあるのでそれらがどれくらい酷いことなのか見えないのね。

そのうち書くかも知れませんが、新年からなんだかんだ慌しくて、明日の夕方から約2週間日本に戻ります。ぜんぜんうれしくないわ。

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